この映画は老年にさしかかった男と女の結構アブナイ純愛映画でもありました。
監督の西川美和と言う人は本当に映画が好きなんだと思いました。彼女は映画が好きで好きでたまらない。
前作の映画「ゆれる」にも唸りましたが、何が正しくて何が悪だ、などという人間の割り切れないところを描いていてこの映画も面白かった。
公式HPにあった「人は誰もが何かになりすまして生きている」というのが、確かにこの映画のキモです。
ある地方のある村の診療所。そこにいるお医者さんがある日そこから逃げる。
優れた映画は細部のツクリが念入りだ。このシーンは監督から何度も何度もダメが出て、俳優が相当苦労した結果だろうと思うような秀逸な場面がいくつもあって、
何度も思わず声を出して笑ってしまいました。
出てくる俳優は映画の主演は初めての笑福亭鶴瓶や瑛太、余貴美子、井川遥、松重豊、岩松了、笹野高史、中村勘三郎、香川照之、八千草薫。
どの俳優もみな演技にヒダを持っている人ばかりです。
鶴瓶と八千草薫さんのやりとりの場面は、凄みとユーモアがないまぜになっていて、面白い。ギリギリのところで踏みとどまる男と女の迫真の演技を
西川監督は二人から引き出しました。おそらく八千草薫はこの映画で、これまで要求されていたきれいな演技から、別境地の役者に変身したと思います。
この映画造りに参画する中で、鶴瓶と八千草はお互いを認め合い、裂ぱくの気合で切り結びながら、共に高みを目指す関係を、二人は作った、
そんな気がしました。そのような関係を他者と持てるのは人生の幸せの中でも最高の関係の一つではないでしょうか。
香川照之は西川監督の前作「ゆれる」で、善人の恐ろしさを見事に演じていました。西川映画にはかかせない俳優のような気がします。
好きで達者な笹野高史だけが、この映画ではやりすぎて浮いた演技をしていました。
おおげさかも知れませんが、同時代の日本にこの監督を持っているのは大いなる幸せだと思います。強くおすすめする一本です。
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◎家に帰ってテレビを見たらまた「鶴瓶の家族に乾杯」をやっていました。
今回は徳島県の脇町。ゲストは徳島県小松島市出身の大杉漣。
脇町には行ったことがあるし、大杉漣も北野武の映画から好きになった俳優なので最後まで見てしまいました。
脇町旅行記 2002年1月
奈良の橿原に今井町という豪商の住んだ街並みがありますが、今もほとんど江戸時代当時
そのまま残っており、人が生活しています。
ここは一種の宗教武装都市で堺と同じ堀をめぐらした自治都市でした。
山口県の柳井市にも江戸時代からの豪商の家が並ぶ白壁通りが保存され、その中でも有名な
国森家は10何代目かの当主が学校の先輩で、今柳井市に協力して観光客誘致の中心人物
として頑張っておられます。
前に訪ねた折り、運良く国森さんが在宅で屋敷の隅々まで案内をしてもらいました。
家の構造や防火や防犯の構造も詳しく教えてもらいました。
元首相の池田勇人が出た広島県の竹原にも小京都といわれる一画が保存され、
(山口県の萩と同じように)武家屋敷がそのまま沢山残り、頼山陽の生家やニッカの
創業者竹鶴さんの生家(今は竹鶴醸造という造り酒屋)がその中にあります。
このエリアには昔は侍階級しか入れなかったのだろうと思いながら、歩いたものです。
いずれも以前に機会をみつけて訪ねましたが、今回年が明けて徳島県の脇町という
江戸時代の「うだつが上がっている町並み」を見に行きました。
1)六甲山トンネルを抜けるとすぐに阪神高速北神戸線の唐戸ICがあり、
ここで高速に乗ると家から30分で明石大橋に入ります。
淡路島を縦走し、鳴門大橋をわたり鳴門ICで一般道に下り、脇町へ行く前に板野郡土成の
「たらいウドン」で昼飯にすることにしました。高速の徳島道に入らず地道を行くので、頼りはいつもの
カカーナビしかありません。このナビは音声指示と手の指示が正反対だったり、音声装置に
気分によりバラツキが出たり、指示に従わないと言って怒ったりして道中結構大変ですが、
いまさら最新の機種に買い替えはしたくても出来ませんので、素直に従うしかありません。
2)途中、泉谷という地名があったり、6番、7番、8番の巡礼のお札所を過ぎ、細い道や裏道を走り、
カカーナビのお陰で土成の「松乃家」というガイドブックに出ている店に何とか辿り着きました。
時期が時期だけに客は近隣の家族連れと見える人達だけですいていました。
シーズンには沢山の観光客が来るようで、広い座敷がある棟がいくつも川に面していました。
残念ながらお目当ての「たらいウドン」は讃岐高松のウドンに完璧にはまっている私には
コシもツユも、もう一つでした。
3)ここで一休みして、途中の阿波町の「土柱」も見ていく事にしました。古い砂礫層が長い間の
雨、風に侵食され何十本の土の柱状になっていました。案内によるとロッキー山脈、
チロル地方とここだけに見られるとありましたが、そう大した規模ではなく「ああそうでっか」
という感想です。
土柱は高速徳島道の阿波PAから歩いて7分のところにありますが、これを見てから
高速には帰りに乗ることにして、脇町までは節約してまた地道を走りました。
4)脇町は今は町の中心から離れていますが、江戸中期は阿波藍の集散地として発展した
城下町の藍商人の町でした。城主は蜂須賀家の第一家老の稲田氏です。
今は吉野川から300mほど離れているが、当時は脇町の豪商の家のすぐ裏が川で、船が
直接つく船着き場が残っています。通りは両側に本瓦葺、漆篭め壁の商家が軒を連ね、隣の家との
境の二階には「うだつ」という火よけ壁をつけている家が多くあります。
この「うだつ/卯建」を設備するには、かなり金がかかるものだったらしく、「うだつ」がない家を
「うだつ」が上がらん家と言ったとか。
知らなかったけれど司馬遼太郎が脇町を訪れ「街道をゆく」シリーズの中に取り上げていることが
案内されていました。
町はおそらく「うだつ」のおかげもあって大きな火事もなく今に残ったのでしょう、思ったより細い
大通りは江戸時代そのままという感じでシンと続いていました。
重要伝統的建造物群保存地区に指定され、大きいが暗くて寒そうな昔のままの家を見ると
今もここに住む人達の日常の生活の大変さを思いましました。
木曽の馬篭宿に行ったときにも同じ事を感じましたが。
ほんま今の若い人でヨメさんの来てがあるんかいなという感じです。勿論家の中は今風に
変えているでしょうが、出来てから250年もたった家に住むのはヨーロッパの都市では
当たり前だけれど、日本の木造建築のイエの概念で言うとエライことやろなと思うしかない。
はじめて訪れた土地の印象はその日の天候、空の色に大きく左右されます。
1月の寒空の下で観光客も数えるほどということで寂しい町やなあと思いましたが
春か秋にくればまた、違うかも知れないと相方と話しながら車をスタートさせました。
帰りは薄暗くなった脇町ICから徳島道に乗り、がら空きの高速を今夜一泊の淡路島
南淡町を目指しました。