千葉県印旛沼の住人Kさんから久しぶりの便りが届きました。
「エノコロ草の記事を拝見しました。昨日9日は植物の先生の調査に同行しました。雑草の茂った空き地、山裾、田んぼの畦道などの植物を記録していきますが、1Km四方で300種類くらいの植物が見つかります。昨日もたくさんのエノコロ草を見ました。
添付の花の写真はいずれも小さい花で、ほとんど見過ごしてしまいそうですが(今までの感覚から言えば写真は撮らなかった)先生に花の名前を教えてもらったので撮りました。
ミヤコグサ

特に「アブノメ」の花は米粒くらいの大きさなので写真を撮るのに苦労しました。

華やかではありませんが、添付の雑草の花を楽しんでください。」
マメアサガオ

ハハコグサ

ハッカ

キクモ

♪Kさん、数日前、そういえばしばらく「里山便り」が来ないなあと思っていたところでした。
可愛い花ばかりありがとうございます。
昔ザ・ピーナッツが「可愛い花」という歌を歌ってヒットしましたが、原題は「Petite Fleur」(「小さな花」)でした。小さな花は可愛い。
同じ場所を再度見て行っても、前からあった草花の固有の名前を新たに教えてもらうことで、そこが別の場所に変り、自分も違う目線や視点に変わると言うのは面白いし凄いことですね。
「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり」と言う「徒然草」の言葉を思い出します。
♪♪そういう意味で言うと、国内外の初めての場所に行く時は、やはり事前にある程度予備知識を学習しておいた方が実りが多いのかも知れません。
しかし、私の場合は、かってあちこちの初めての土地へ仕事で行く事が多くて、「他行」が惰性になり、結果として「はじめての土地」に対する感度が鈍くなり、学習の姿勢はついに皆無のまま怠惰な「他行」をこれからも続けそうです。
◎「房総の里山便り」シリーズのバックナンバーはこちら。
スクロールしてご覧ください。
海のもの3品。冷温保存保管技術が進んだのと、産地からの輸送速度のUPのお陰で、いま食品全般に子供の頃のあの塩辛さは全くありません。
時々滅茶塩辛い、昔ながらの「焼塩タラコ」を無性に食べたくなる時があります。
小学生の頃、親指くらいの大きさのチョー塩辛い焼きタラコ一つで、ご飯を2~3杯食べたもんです。
酒は氷点下生貯蔵の「土佐鶴 蔵酒生」を冷で。今晩の居酒屋“e”の3品もほのかな塩味でした。
武陽会OB野球部専属カメラウーマンにして、日本百名山登頂を目指す女流登山家でもある
“さくら”さんから山々の写真を多数送信してもらいました。
ちなみにこの記事に登場する山々は①富士山3,776m ②北岳3,192m ③奥穂高岳3,190m ④間ノ岳3,189m ⑤槍ヶ岳3.180m《日本の高い山ベスト5》という位置にあることを、
しかと念頭に置き、出来うれば斎戒沐浴の上、謹んで画像の拝観をお願いしたいと思うものであります。
トップ↑の画像は槍ヶ岳から見た穂高連峰
真近に見る北岳
北岳を代表する特産種「キタダケソウ」
北岳山荘前で富士山を背に立つ登山家さくらさん
槍ヶ岳山荘から見た槍の先端
槍ヶ岳から山荘を見る
なお、一行は槍の先端に登頂した8月5日の朝、頂上に登ると大きなカメラを持ったカメラマンやディレクターが居て、
沢山の機材やケーブルの囲まれ、NHKの「おはよう日本」の実況番組でインタビューを受け、さくらさんの雄姿がライブで
全国に放映されたというエピソードがあったそうです。
たまたま自宅でこの番組を見ていた彼女の友人の中には、まさかさくらさんが頂上に今立っているとは思いもしないので、
画面で神戸から来ましたという話を聞いても、世の中にはそっくりさんは本当にいるもんやと思いながら見ていたそうです。
『カンナと少女』(1915-大正4年)
(モデルは小杉未醒(放庵)邸で描かれた木彫家吉田白嶺の娘雅子)
カンナを画いた絵を見た記憶がありません。この絵を見たとき背中がぞくっとしました。夭折した「村山槐多」の作品です。
大阪なんばに行く用事が出来たので足を伸ばして、天王寺の大阪市立美術館と新世界にも行きました。阪神なんば線が出来たので、
梅田に出なくても阪神尼崎駅でなんば線に乗り換えるだけでなんばにいけるようになりました。
新世界にはあちこちでビリケンさんを見かけますが、本物は通天閣の上に鎮座しています。見かけたフェイクを2体。
この店は3回目ですがなかなかおいしい。観光客が入るようになったせいか、値段的には梅田などには比べても安いとはいえません。
前には気がつかなかった坂田三吉の碑が通天閣の足元にありました。
「福沢諭吉展」は9月6日までのせいか、沢山の入場者がいて驚きました。福沢諭吉は大分の中津で育ちましたが、生まれたのは大阪ということと、
緒方洪庵の「適塾」で学んだということがあり、福沢諭吉に対して大阪人はいまだに敬愛の念を持っている様子が伺えました。
自分は「福翁自伝」を読む前と後では、自分が変ったという自覚があります。
20年ほど前、別府温泉へ家族で行った折り、みんなを引き連れて中津まで足を伸ばし、福沢諭吉が育った家を訪ねたこともあります。
個人の自立・独立を標榜し、品位ある人間の育成に努めた福沢は、生涯名利を追うことなく、また名声を求めず無位無官で66歳の生涯をおえました。
福沢諭吉ほどの人が、自分の父と兄の生涯を見て「門閥制度は親のかたきでござる」と言わざるをえなかったほど、