季節がずれるが 2004年7月 岡山県美星町の友人の山荘で撮影。
⇒今年の紅葉は気候不順の割には昨年に比べて良かったと聞き、新居浜別子ラインの紅葉を見にいきました。
新居浜市は別子銅山と共に約300年にわたり発展してきました。
海抜1300mの過酷な地で亜硫酸ガスの煙害や数々の水害に見舞われながらピーク時には約5000人
の方々が命をかけて頑張った歴史を訪ねた。👆
道の駅(マイントピア別子)
団体旅行の観光ルートとなっており県外からたくさん来られる。 東洋のマチュピチュとしてPRして約300年前
の遺跡も大きな魅力になっている。
トロッコに乗って薄暗い坑内巡りをして昔の坑内作業の様子を見た後、リニューアルした天空温泉
でリラックス出来る。
紅葉も見ごろの最盛期でした
子供達も大人も実際の砂金採りが楽しめる。 採れた砂金は水の入ったビンで持ち帰る
太鼓祭りの街らしく子供太鼓が飾られている
マイントピア全景。 春になると一斉に花が咲きます。今はいろいろな球根を植えています
別子ラインとして四季を通じて美しい景観を見せてくれる。 水量が少なめですが水はとても透明です
紅葉としては少し地味ですが目を楽しませてくれます
以前は滝の美しさや桜と紅葉の名所と言われた場所でしたが橋だけは現存している。
民宿の「清滝荘」があって約50年前に会社の課の親睦会で宿泊したことがある。
まさに徹夜で麻雀した事を懐かしく思い出す場所。現在はその場所には休憩場所らしきものがあるだけ。
神戸の阿智胡地亭さんがいたかどうかはよく覚えていない...。(おりましたヨ!電気が来ておらずローソクの火で朝まで徹まんしましたがね・・。阿智胡地亭談)
「清滝荘」があった場所
水量が少ないが可愛らしい「清滝」がありました!
☆ 社会人として働きだして初めて配属された職場は工場と、東京や大阪の営業部との連絡調整をやる何でも屋の係でした。
課の中に正岡さんと言う苗字の方がおられ、ああ「正岡子規」の俳句の伊予の国に自分はいまいるんだ、と思ったことを覚えています。
愛媛県、伊予の国には曽我部さん、越智さん、一色さん、真鍋さん、鴻上さんなど他国ではあまり聞いたことがない苗字も多いです。
いま旬の歌手・役者である石丸幹二さんは、ある時 毎号Kさんに送っていただく「銀座百点」を読んでいたら彼の連載エッセイの中に
「墓参りで新居浜に行ってきた」という記述がありました。うん?新居浜?早速I谷さんに調査を依頼したら、「わかったよ、わかったよ、
新居浜のある地区に石丸姓の多い在所があったわね」と返事が来ました。石丸幹二さんは3,4歳の時に新居浜市から千葉県の市原市に
引っ越していますからおそらく彼のお父さんは住友化学に勤務していたのでしょう。住友化学さんは新居浜市と市原市の両方に工場を
もっていますから。
バスの中から見た阪急六甲駅周辺
阪神大震災から21年経過しても市内のあちこちに空き地のままで残っている土地が結構あります。
五毛天神前の五叉路。バスは右にハンドルを切って山側のルートを新神戸駅経由三宮に向かう。
直線はシュートカットのバイパスで王子動物園の山側を通る。
13:30の予約時間の前にいつもの「二滝」でいつものざる蕎麦をおいしく食べました。
体長1mを超すことも珍しくないメインクーン、最長の個体は123cmのギネス記録を保持しています。
メインクーンは「ジェントル・ジャイアント」(おだやかな巨人)の別名があるように、大きくてもやさしい性格だそうです。
同じイエネコとは思えないサイズですが、どの写真も穏やかな性格であることが伝わってきます。
これだけ大きいと一日のエサの量が気になります。
「高麗飯店」は20年以上も前に塚口のショッピングモールにあった店でたべておいしかったが、10年以上前に弓弦羽神社の下の山手幹線沿いにも店が出来ていた。
使っている材料と調味料が本格的で、ブルコギも本来の旨みがあり、チジミはコクがあって旨かった。キムチは大根とキュウリを頼んだが、いずれもまた頼んでみようと思う味だった。
自分用の小皿に取り分けた。
温かい晩秋の午後 定期検診を受けた後、病院からぶらぶら歩きました。歩き出すと間もなく、いつみても人が出入りしている様子がないミステリアスなバラック?があります。
この家を過ぎるとすぐに神戸海星女子学院があります。鳩山由紀夫元首相の奥さんはここを出て宝塚歌劇の生徒になりました。
私がファンだった紅園ゆりかさんと同期の47期生です。
学園前の交差点は紅葉がきれいでした。
交差点を南に降りると新築された神戸市立葺合高校があります。前回の同ルートの記事。
葺合高校の前身は旧制神戸市立神戸中学校で、もともとこの校地は明治35年(1902年)に創立された国立神戸高等商業学校のキャンパスでした。
先日惜しくも亡くなった作家の野坂昭如さんは旧制神戸中学の三年生まで在学しましたが、米軍の無差別神戸大空襲で焼け出されてのちは学校に戻ることはありませんでした。
中学生当時の野坂さんは中郷町の家を出ると六甲道で市電に乗り、30分ほどかけて上筒井の停留所までやってきて私が下りている坂を登って通学したに違いありません。
山手幹線まで下りて「神戸文学館」に寄りました。神戸文学館は関西学院が当地で創立されたころのチャペルだった建物です。
金田一探偵のファンにはたまらない催しが開かれています。金田一耕助探偵を世に送り出した横溝正史さんは旧制神戸二中の出身です。
文学館の対面には神戸市の神戸新聞社からキャリアをスタートさせた横尾忠則さんの現代美術館があります。
阪急王子公園駅方面に歩く山手幹線。左側一体は王子動物園で、以前は関西学院の広大なキャンパスがあったそうです。
阪急電車の高架
水道筋商店街は賑わっていました。喉が渇いたのでいつもの店で一休みしました。この日は小春日和で大びん一本を串カツ5本と共においしく楽しみました。
2016.11.13 〜 2016.11.19
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海外の人のコメント。
●すごい……。これは正しい経営管理がなくては成し遂げられないことだ。
↑舗装業界で何年も働いているが、今でも2011年の東日本大地震のときに6日で道路が修復されたことが話題になるよ。
日本人には驚かされるね。サンフランシスコを歩いているときも、自分が見る車の半分はあの小さな国で生産された車だ。
↑舗装だけじゃないぞ。あの下にある損傷を受けた全ての電気・ガス・水道などもだ。(それを短期で修復するのは)理論的には狂うほどの悪夢なんだ。
↑われわれなら道路の陥没に気づくまでに一週間かかるな。
↑費用を市が払うのか、修復が終わったら税金を上げるのかの議論が1か月行われる。そして同じ議論の中で、効率が良かったから自分たちの給与を上げる話をし、半年過ぎたころに2車線だけ直される。残りはまた夏まで保留。
●(投稿者)現場の修理中の様子。
ソース
(Japanese road reopens one week after vast sinkhole appeared)
↑記事ではそこに砂とコンクリートのミックスを入れたと書いてあり、今はなぜ陥没が起こったのかをチームが調査中とある。だが調査を先にしないのか? さもないと再び起こるリスクはないの?
↑調査している間ずっと空いたままにしとくのか? もちろんすぐに穴は埋めるさ。
●すごいよ、10人ほど立って見張っているやつが実際にシャベルを手に持ったら出来ることなんだ。
●日本人はすごいな。
●2012年に上野に住んでいた頃、夜の9時頃に家を出た。
工事で労働者たちが地下のケーブルを取り替えていたんだが、見たところ開始直後だった。深夜12:30に帰り道を歩いていたら、彼らは道路の3か所にそれぞれ5x2mくらいの穴を開けていた。ケーブルを交換し、舗装し、上から塗装もされていた。
地元の道路の場合はこうだ。ある日道路がなくなり、それから3か月間何もされない。そしてまたある日仕事から帰ってきたら、1日で舗装されていた。
●なんてこった。オタワ(カナダ)よ。これを参考にしてちゃんとしろ。プロジェクトはこのように進むべきなんだ。
●テキサスはまだI-35を工事してるよ。
●通常の道路のメンテでさえ日本はとても速いペースだよ。
良い経営管理と充分な人材のコンビによるものだ。地震の多いところに位置していることから、地震によるインフラストラクチャーへのダメージなどを修理する素晴らしい手順があるんだ。
アメリカ人は南カリフォルニア(自分が住んでいる)を地震のホットスポットのように思っているが、日本はM6.0の地震が南カリフォルニアの微震よりも多いからね。
●自分は首都ワシントンDCに住んでいるが、公共サービスは笑えるほど遅い。3年かかるのはジョークでもなんでもない。そして完成したときに何かのオープンイベントが行われる。
●なんてこった。ニューヨークだったら何か月もかかる。誰が歴史的な命名をするかで議論するからだ。
●きっとゴジラの襲撃のせいで、経験豊富なんだよ。