阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

糸井重里のインタビュー本「すいません、ほぼ日の経営」を読んだ。

2019年05月06日 | 乱読は楽しい

◎糸井重里さんのウェブサイトほぼ日刊イトイ新聞はかなり初期のころから面白く読んできた。

ほぼ日刊と言いながらこのサイトは毎日更新され今も彼は毎日書いている。

糸井さんはウェブサイトの維持をビジネスとして日本で個人で始めた人物として名を残すと思うが、彼は常に変化してきたと思う。

ダーウインは進化論で有名な言葉「生き残る種は強いものが生き残るのではなく、変化が出来るものが生き延びる」と言っているが

糸井さんのつくった「ほぼ日集団」は目下のところ変化をし続けているようだ。

もう一つ、彼は「こころ」と「相互リスペクト」を全ての基礎に置いていることを感じた。

こういう集まりを作る人がいるのは今の日本では稀有なことだ。読む人一人一人、集団の成員の一人一人を大切にしている。

これがなくなっているばっかりに有名なお店や民間企業がつぶれることがあるし、これがなくともつぶれない「司法や行政の集団」のためにえらい目に

国民があうことも多い。

その変化の過程を克明に聞き出して本にしたインタビューアーの女性もすぐれものだ。10連休に図書館で借りた三冊はいずれも面白かった。

 (身近なところで、製品に「こころ」が感じられない例は銀座の老舗の有名なパン屋さんが生協を通して売っているパンだ。

生協ルートの大衆相手と思って材料のレベルを落としているのか少しもおいしくない(個人の意見です(笑)。)ので一回で買うのをよした。

経営者の指示なのか幹部社員の収益優先の忖度かは知らないが、銀座に本店があることを嵩に懸かって名前で売れると思ったらそれは大きな料簡違いだと思う。)

内容紹介  出版社のサイトから引用

ほぼ日の経営について、
まるごと糸井さんに聞いてきました--。

糸井さんは、もともとフリーのコピーライターで、組織に身を置いたことはほとんどない。
それなのに、活動の幅を広げる過程で事務所を立ち上げ、100人以上が勤める企業をつくりあげた。
一方の私は、大学卒業後に伊藤忠商事の事業会社のひとつである
伊藤忠ファッションシステムに入社して35年目。
転職をしたこともなければ、フリーとして活動した経験もない。
根っからの組織人であり、よくも悪くも日本企業の価値観が、骨の髄(ずい)までしみこんでいる。
そんな私が、糸井さんにほぼ日という会社の目指す先を聞いていった。
インタビューは、驚きと発見の連続だった。
事業、人、組織、上場、社長--。企業の根幹を支える部分について、
なにを考え、どのように向き合っているのか。
糸井さんが語ってくれた話の数々は、長年の会社員生活を通じて、
私の中にインプットされた常識をくつがえす内容ばかりだった。--まえがきより

ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」の創刊から20周年。
ジャーナリストの川島蓉子さんが、ほぼ日を率いる糸井重里さんに、「ほぼ日の経営」について、まるごと聞いてきました。
ほぼ日の「これまで」と「今」。
なぜほぼ日では、魅力的なコンテンツ、サービス、商品が、次々に誕生しているのでしょうか。
糸井さんとほぼ日にとって、事業とは、働くとは、そして会社とは--。


1章 ほぼ日と事業
 企画書や会議はいらない/誰も解けない難問につっこんでいく/クリエイティブには「供給源」が必要/農業のように毎日続けていく
2章 ほぼ日と人
 漫然と働く時間はもったいない/「人をつくること」にお金をかける/「力がある」だけでは人をとらない/手仕事のように評価をする
3章 ほぼ日と組織
 雪かき、祭りの寄付、峠の茶屋/総務がすごく前にいる会社/人体模型のような組織図/会社が遊びより楽しい場所になればいい
4章 ほぼ日と上場
 ほぼ日が、ぼくの背丈を超えた/もうけたい株主も応援したい株主も/自由を確保するために予算がある
5章 ほぼ日と社長
 社員と一緒に考え続ける/「いい方向」に行くための航海図/大事にしているのは、肯定感/次期社長を立候補で決めてみる

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荒川と中川を渡って新小岩へ

2019年05月05日 | 東京あちこち
4月の終わりに橋を歩いて渡り新小岩に行ってみた。いい散歩だった。総武線の鉄橋☝
ここから東京湾まで6㎞という標識があった。







この川は中川













渡ると駅のすぐ西に大きな公園があった。






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山藤章二さんの本「はじめての八十歳」を読んだ

2019年05月04日 | 乱読は楽しい

内容(「BOOK」データベースより)
膝の手術のため、はじめての長期入院。「ブラック・アングル」などの雑誌連載も、はじめて休載。そして、入院中に迎えた八十歳の誕生日。―おや、今までとは違う世界が見えてきた。若いころは気付かなかったこと、思いがけない発想など、脳裏に浮かぶあれこれを、筆の向くまま綴り始めたら止まらない。入院中に蓄積された創作エネルギーを放出するかのごとく、一気にこの一冊を書き下ろした。曰く「好き嫌いで書きました」。御存知ヤマフジ節は健在である。八十歳の本音を綴る、論より感覚、御意見無用のエッセイ集。

◎山藤章二さんは週刊朝日の「ブラック・アングル」という似顔絵のページで長く付き合い、応募作品に対する彼の評価眼の鋭さと

選択眼の厳しさとコメントを楽しんできた。

子供のころから週刊誌と言えば家では週刊朝日だったが、その後週刊文春や週刊現代、週刊新潮などを買うようになり

いつのまにか「ブラック・アングル」とも遠ざかっていた。

 山藤さんの文章のキレの良さは知っていたので、彼の面白い題名のエッセイ集が出たことを知り図書館から借り出した。

読みだしてすぐ思った。本当にこの人は裏表のない真正直な人だなと。自分の長年のコンプレツクスみたいなものもそのまま書いてある。

客観的にみればコンプレックスではないと思うのに。

内容は仲間内の楽屋話と思える部分がかなりあり、こういう本の企画を通す岩波書店の別の顔をみたような(贔屓の引き倒し)の気もしたが、

山藤ファンという一定の固定客には堪らない本なのかも知れないと思い返した。

 また、正直なところ山藤さんでも年相応に老いていくのだと安心した。

 ところで山藤さんと岩波書店の結びつきは知らなかったが結構本が沢山出ているのを検索して知った。

山藤さんの体質の根っ子に有る批判精神をイワナミの編集者がもっと文章でも世間に出そうと彼に声をかけたのだろう。

 


 

 


 

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岡山と山形のお菓子をもらった。

2019年05月04日 | ゲストルーム

帰省した岡山のスイーツきびだんごをもらった。おいしい。☝

出張で行った山形でだだちゃ豆のスイーツをかってきてくれた。おいしい。👇

間もなく3歳になる女児も、おいしいねと言いながらながら食べた

 

 

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亀戸駅の「成城石井」で冷やで飲む「真澄」を購入できた。

2019年05月03日 | 食べる飲む

日本酒はぬる燗が好きだが、夏になると冷酒もおいしい。これまで飲んだ冷酒の中では四国川之江の「梅錦」と信州諏訪の「真澄」が旨いと思う双璧だ。
阪急夙川駅の上りホームにある「成城石井」では「真澄」がいつも買えたので、亀戸駅の「成城石井」にもあるかなと思い覗いたら冷温ケースの中に「真澄」が鎮座していた。
ついでに亀戸駅地下専門店街の中の「梅の花」の総菜売り場でワンコインの酒肴セットも買って帰宅早々おいしく飲んだ。

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野坂昭如の最後の本「絶筆」を読んだ        

2019年05月03日 | 乱読は楽しい

内容(「BOOK」データベースより)
倒れてもなお、書き続けた12年!警世と洒脱、憂国と遊び心、無常と励ましに満ちたラスト・メッセージ。荷風が死の前日まで『断腸亭日乗』を綴り続けたように、

脳梗塞で倒れた後のノサカもまた日記という作品に魂を傾注していった。急逝のほんの数時間前まで―。揺れ動く時代が滲む最晩年のエッセイ選を附す。

◎月刊誌「新潮」に連載された日記と単発の小文をまとめている。この最後の野坂昭如の出版物を読むと彼は自分が14歳の時に体験した

それまでの普通の家族の日常生活の突然の消滅という体験を最後までひきづり、それを個人の体験ではなく国民の、民族の体験として伝えるという

無意識の使命感を持ち続けた人生だと感じる。

 14歳の夏の体験とは神戸市灘区中郷町での米軍による民家の焼夷弾攻撃で、大好きだった養父が直撃弾で最後まで遺体の行方が

わからぬまで吹き飛び、養母が大けがをしてこの瞬間から、普通の市民の家族生活が二度と元に戻らなかったという体験だ。

野坂はこの体験を自分だけのものとはせず、阪神大震災の時も福島原発爆発事件の時も被害者に対して、

づっと日常生活の突然の消滅という体験者の想像力を持ち続けた。

 それ故か戦争は絶対に国民たちには無残なもの、原子力発電所は国民にとってあってはいけないものというメッセージを最後まで

送り続けることになった。

野坂昭如とは「火垂るの墓」「アメリカひじき」の以前から文章を読んできたし一時は50冊ほど著作本を持っていた付き合いだ。

灘区の彼が家族で住んだ中郷町や卒業した成徳小学校(click)も何度も訪ねた。長い付き合いだった。

自分の現在のありようには野坂昭如のくれたものの影響は間違いなくある。

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6月5日 中郷町(ナダタマアーカイブス)
投稿日時: 2013年8月15日
昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれを上回る凄惨なものだった。

当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちくま文庫)に収録されている。

エー、昭和20年に大空襲がございます。
神戸は6月でございました。大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい空襲でございました。
ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でございまして、まあ、職人でございますから、仕事場にでございますね。神棚がしつらえてございまして…

前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。
「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に限って
「空襲警報ォ!」
ダルゥドゥズバババババババババァー…
「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
神さんね、一番にドタッ。
落ちてこられたんでございますねえ。
嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでございますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたんですが、ねえ…
神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があったに違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございましてね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評精神。
同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。

桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む
(ナダタマ 灘文化堂「6月5日 中郷町」2011.6.6より)

引用元

フェリシモ > 神戸学校 > 野坂 昭如さん(作家)レポート

僕自身はいつも緊張して生きてるわけなんですけど、その基本のところには55年前に受けた空襲っが根っこのところにあると思うんです。

一部引用・・

野坂さん:
『火垂るの墓』、あれはいかにも僕自身が主人公みたいだけれども、僕自身が主人公だったら、あの主人公は死んじゃうわけですから、そのままじゃないわけで……。当時1歳4ヵ月だった僕の妹は確かに飢え死にしましたけども、1歳4ヵ月じゃ話にならないっていうか、会話が成り立たないから4歳って設定にしちゃったけど、ほぼあんなふうな経験に近いことを僕はやりました。ひとつだけ違うのは僕は、主人公のお兄さんみたいにやさしくはなかったですね。配給のとき1歳4ヵ月のこどもの口にはとても合わないようなものしかないんです。だし大豆のとかなんとかね。だし大豆ってのは煎って食べるんですけれども、とても1歳ちょっとのこどもの食べられるもんじゃないわけで、大人が食べたって下痢しちゃうわけですから。例えばそれを口の中で柔らかくしてやろうと思って口の中に入れて妹にやろうと思うんだけど、僕はやっぱり腹が減っているときはひゅっと飲み込んじゃうんですよ。結局は妹の食い物を僕自身が食ったという結果になっちゃったってところは、僕自身ずいぶん一種の負い目みたいな格好でいまも残っていますけどね。

それを話の上で穴埋めするみたいな格好で妙にお兄さんをやさしい兄に書いたんです。でも、本当に飢えに追い込まれてしまうと親とこどもでも親はこどもの食い物を食べますよ。つまりこどものためなら親は命はいらないっていうのは瞬間的にはぱっと思う。だけど恒常的になると、親とこどもの間において言うならば親はこどもの食べ物を食べて自分は生きぬくっていうのは、これは生物の理にかなっているわけです。親がもしも飢え死にしちゃったらこどもも飢え死にしますからね。親が生き残れば親はまた新しく生殖行為をしてこどもを産めばいいんです。だから親が生き抜く方が大事なんですね。弱い者と強い者がいて、どっちをなんとかするっていったら強い者が生き残ることがいちばんなんです。

例えば飢えてる国へ援助しますね。あの援助ってのもなかなかむずかしいんだけれども、3人飢えてるこどもがいると。そこにふたり分の食料しかないときにふたり分の食料はあくまでふたり分の食料であって、3人で分けたら3分の2ずつになるわけでしょ。3分の2ずつだったら3人とも栄養失調で死んじゃうわけですよ。だから3人の中でもってふたりを選ばなきゃしょうがない。そういう時、現実に木登りさせて、ちゃんと木が登れたスピードの順に食物を与えて、最後のひとりには食物を与えないっていう……、それくらいにきびしいもんなんです。

だから飢えというものについて言うならば、質問してくださった方には想像もできないだろうし、まったくマリー アントワネットみたいなもんで、パリ革命が起こったときに「パンが食べられないならお菓子を召し上がればいいのに」と言ったというそんな世間知らずのひとつの例として言われますが、いまの皆さんも多分米がなくなればラーメン食えばいいだろうとか簡単にそう思っちゃうかもわかんない。だけどなくなるときには1発で全部なくなりますから。アメリカがいくらこっちに輸出しているといったってアメリカがもしも取れなかったら輸出のしようがないわけで、自分の国の国民が飢えているときに日本を助けるわけがない。日本がいくら金持ちだってね。

そういう状態といったものは、当然次の世紀には来るわけで、そのためにどういう覚悟を持っておかないといけないかっていうと、結局はやっぱり自分のことは自分で考えるってこと。ほんとに食い物がなくなったら自分だけ食えればいいっていうふうに、そりゃ世の中いろいろ人がいますから、そんなふうに極端に言っちゃいけないかもわかんないけど、基本的には自分だけ食えりゃいいと。それくらいに飢えってものはすさまじいもんで、だから人間てのはこうやって生き延びてきたんですね。そんなみんなが慈悲深く自分が食わなくても他人が食ってもいいみたいな格好でもってお互いが融通し合っていたら、人類なんてこんなふうにはたくさん生き延びられなかったわけで、弱肉強食の世の中になってしまうのが飢えの時代です。

僕は、その中に放り込まれたわけで、現実問題としてこうやって生き延びています。でも、豊かな世の中になってくると僕はいわゆるご馳走っていうものを食べられないです。対談とか座談とかっていうとよく料理屋に行くんですけれどね。料理屋に行ってこれ見よがしな料理が出てくると食べられないですね。それから僕のこどもが小さいときに、クッキーをもらって、半分だけ食べてポッと捨ててるのを見ると、ものすごい憎しみを覚えましたね。あの世っていうものがあるんだったら自分の妹にこのクッキーを持っていってやりたいって気持ちは痛切にあったんですね。
そういう気持ちが『火垂るの墓』であのお兄さんをやさしくしちゃって、あれが戦争によってもたらされた悲しいお話かもしれないけれど、一方において兄弟愛みたいな形で受け取られています。
引用元

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平成天皇ご退位の山陽新聞号外

2019年05月02日 | SNS・既存メディアからの引用記事

岡山県の実家に帰郷していたN一家が帰京してお土産を持ってきてくれたが、その一つにこの貴重な号外があった。

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二日続けてランチはエスニック料理

2019年05月02日 | 食べる飲む

(上の画像はドリアン。インドネシアでよく食べたと言ったらタイのドリアンは臭いが少ないと言われた)

亀戸神社に行く前に錦糸町の「タイランドショップ」に寄って昼食をたべた。

この店はタイの食材を売るタイ人が経営している店だが、同胞相手のタイ料理の食堂もやっている。だから味をジャパナイズしていない。


あいかたはバッタイ。

私はソーメンのように細いビーフン麺のセンレックラーメン  

テーブルに沢山の調味料が並んでいるのでいろいろ入れたら味が深くよりおいしくなった。

タイビールのレオ

翌日のランチは地元の家から歩いて8分のネパール料理店「スパイス市場」でカレー料理。私はマトンカレーとジントニック

あいかたはダブルカレーで、ほうれん草とチキンカレー。

持ち帰りにチーズナンを頼んだ。プレーンナンの一枚は食べきれないのでこれも持ち帰り。

ナンは子供たちが大喜びで食べる。

 

 

 

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旧摂津国菟原郡にあたる東神戸で「奉祝だんじり巡行」が行われた!  動画でどうぞ。

2019年05月02日 | ゲストルーム
神戸六甲のO先輩からメールをいただきました。⇒「この時期になると、貴兄のブログに必ず登場するだんじり地車、
今日、神戸市摂津本山で「奉祝だんじり巡行」が行われましたよ。
走る動の岸和田のだんじり(地車)にくらべ、摂津国菟原郡のだんじりは静だそうです
 
今日は、東灘区は勿論、宝塚、西宮、芦屋、灘区(いずれも摂津国菟原郡に属する)からも参加して、
全部で45基のだんじりが参加したそうです。
我が町・篠原のだんじりも参加、午前7時過ぎに我が家の前を通って、
摂津本山駅近くの山手幹線の会場に向かいました。
 
下記の動画で楽しんでください。
 
 
 


 
2019 / 04 / 04  15:30

地区紹介の一例:御影地区

 
mikage_yumiba.jpg
弓場

弓場の地車は、約130年前に住んでいた御影の大地主、奥田栄吉が町のために淡路より職人を呼んで自分の母屋に住まわせ御影の浜で作らせたものです。特徴として屋根の上での舞が独自です。これは花広さんが昭和30年頃より、はじめられたのが伝統として受け継がれています。

紙吹雪・蜘蛛の糸など華麗な舞をどうぞご覧ください。

mikage_gunge.jpg
郡家

大正から昭和にかけて活躍した名彫師、彫寅こと北野寅蔵の手による自慢の地車です。

弓弦羽神社の宮本として、誇りを持って役員・若中・婦人部また地域力を合わせて地車を運行しております。

勇壮な太鼓や鐘の響きをお楽しみ下さい。

mikage_ueishi.jpg
上石屋

上石屋の地車は、昭和58年4月に大工・有居孝充、彫師・甲良 丈の手により子供地車として魚崎浜町の三木材木店にて誕生。

そのあと後の飾幕を太鼓正にて、前の飾幕を絹光工房にて新調、又高さを約30センチ大きくして現在に至っている。

綱敷天満神社春祭に町内を巡行。上石屋の地車は子供がおはやしをたたき、屋根で踊りますので是非一度ご覧ください。 

mikage_nishimikage.jpg
西御影

 

mikage_nishino.jpg
西之町

西之町の地車は昭和3年に昭和天皇の御大典にあわせて新調いたしました。

大工は木長為吉、彫師は開正藤・生、飾り幕は梶内近一の手によって作られた純神戸型の地車です。彫物は神話伝説、源平盛衰記、太平記などの題材が細かく彫られており、一見の価値が有ります。

5月1日の奉祝だんじり巡行時にじっくりとご覧頂けたらと思います。

 

 

mikage_nakamikage.jpg
中御影

中御影地区は阪神御影駅北側からJRまでの地域で、屋号「柳」の名はその昔町内を流れていた「柳川」にちなんだ旧地名です。

この地車は明治中期に名工大佐により造られたと伝えられ、幾度の改修を重ね受け継がれてきたものです。華美過ぎず白木を活かした落ち着いた造りで、飾幕を求めない正面数体の龍の彫物が特徴です。伝統・習慣を守りながらも常に新風を取り入れ、活気ある『柳の地車』を是非ご覧ください。

mikage_nakano.jpg
中之町

中之町地車の特徴は男屋根、女屋根の破風全体に唐草模様で透かしを取入れた錺金具。

また、彫刻では富山県井波彫刻「川原啓秀」作の鋭い睨みの鬼板、阿吽の麒麟、泥幕の後には「加藤清正虎退治」が観音開きの細工を取り入れ、欅一枚板に彫られています。

淡路の名工「梶内嘉三、純治」作の純金糸を使用した豪華絢爛な飾幕等多彩な細工が満載です。奉祝だんじり巡行では是非中之町地車をご覧になって下さい。

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東之町

その昔、遡ること159年。摂津の國御影村に生まれた教育者、世界の柔道家で知られる『嘉納治五郎』は東之町が生誕の地。当時も目にした郡家の宮のだんじり祭。形は変われど曳き手の意気は先人譲り。奇しくも治五郎没後81年の命日は、5月4日の本祭り。意気と粋が絡み合うての此の祭り。1に氏神、2に氏子、3、4が無くて5に地車。こうして祭が出来るのも、先人達の苦労のお陰。御影の空に轟き渡り、天高く舞う祭の息吹。老いも若きも一つになりて、感謝の気持ちと、商売繁盛・町内安全を祈願して、東之町の曳行です。

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東明

東明地区は菟原処女の悲恋物語として、「処女塚伝説」と新田義貞の窮地を救った武将「小山田高家」の武勇が地元ゆかりとして有名です。東明區の祭りに対する考え方は、(全ての人々が楽しんで頂けるお祭り)をコンセプトとし毎年執り行っております。

東明區のだんじりは五月末と九月には子供達を主体とした子供だんじり巡行を行なっております。是非一度、東明區のだんじり祭りをご覧下さい!

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浜石屋

浜石屋地区は、御影の天神さんとして親しまれている綱敷天満神社の氏子です。

江戸時代より御影石の生産加工で栄え、かつては御影一と言われただんじりを有したほど、だんじり祭りも盛んな土地柄です。現在のだんじりは、昭和62年に新調復興し現在に至っています。

だんじり巡行では、鮮やかな緑の装束が目印です。

ぜひ皆さん、パレード並びに綱敷さんへ足をお運びください。

mikage_hirano.jpg
平野

平野區は自治会上御影協力会の地域にあたり、南北朝時代の武将、赤松円心の家臣平野忠勝の居城が御影墓地辺りにあった事から、平野村が生まれ現在にも名残が残っています。

平野區の地車は、昭和3年の御大典を機に、明治初期の作品を淡路から購入した純神戸型の地車です。

当時のままにこだわり大幅な改修は行っておりません。現在もその伝統と誇りを受け継ぎ、守り続けている地車です。

   

 

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ご即位を祝い御苑内をみこしが巡行しました

2019年05月01日 | ゲストルーム

2019/05/01 に公開
 御霊神社(上御霊神社、京都市上京区)と下御霊神社(同市中京区)は1日、京都御苑内で祭礼のみこしを巡行させ、氏子らが「ヨイヤッサー」「ヨイヨイ」という掛け声とともに練り歩いた。

即位祝い御苑内をみこしが巡行

<iframe class="video-player" src="https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20190501/movie/2010003452_20190501190924.html?movie=false" width="360" height="202"></iframe>

天皇陛下が即位され、令和の時代が始まったことを祝い、皇室とゆかりの深い京都市内の2つの神社が、かつて毎年5月1日に行っていた京都御苑内でのみこしの巡行を復活させました。

京都市の上御霊神社と下御霊神社は、かつて天皇や上皇からみこしの寄進を受けるなど皇室とゆかりが深い神社で、毎年5月に春の祭礼を行っています。ことしは、天皇陛下が即位され、令和の時代が始まったことを祝い、1日、途絶えていた祭礼初日の京都御苑内のみこしの巡行を復活させました。
このうち、上御霊神社は、3基のみこしのひとつ「北野御座」が、後水尾天皇の寄進から400年の節目を迎えるということで、京都御所の朔平門の前にみこしを並べて神職が祝詞をあげました。このあと、氏子たちがみこしを担ぎ上げ、かけ声とともに上下に揺らして新たな時代の始まりを祝いました。
一方、下御霊神社は、「大宮神輿」が霊元上皇と東山天皇父子の寄進から310年の節目にあたるということで、かつて上皇が居住した京都仙洞御所の前まで巡行させました。そして、氏子らがみこしを担いで前後の向きを変え激しく上下に揺らすと、集まった人たちから大きな歓声があがっていました。

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令和1年5月1日

2019年05月01日 | にんまり話
今日から新しい年号になりました。
made by SM
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下町の家々の前は花ざかり その15

2019年05月01日 | 花・草・木・生き物










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春なのに  柏原芳恵  YouTube

2019年05月01日 | 辛好のJukebox

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アンケートで分かったひきこもりは全国100万人。実態は500万人!?【橘玲の日々刻々】

2019年05月01日 | SNS・既存メディアからの引用記事

一部引用・・内閣府が40~64歳までのひきこもりを約61万人と発表し、40歳未満の約54万人と合わせて全国で100万人以上になったことに驚きが広がりました。しかし藤里町の徹底した全数調査は、事態がさらに深刻なことを示唆しています。

 18歳以上55歳未満の人口は5703万人(2017年)、その8.74%は498万人です。都市と地方では環境が異なるし、藤里町の調査は精神疾患なども含まれているため単純にあてはめることはできないとしても、この数字は衝撃的です。――内閣府調査は64歳までを対象に「ひきこもり状態になって6カ月以上」の人数を推計していますが、藤里町社協が調べたのはシルバーバンク(高齢者就労支援事業)の対象にならない55歳未満で、なおかつ「2年以上」働いていない町民なのです。

 「ひきこもり500万人」なんてありえないと思うかもしれません。しかし藤里町の結果を男女比で見ると、「ひきこもり率」は男が11.6%、女が5.6%です。地域の子どもが集まる公立中学校の40人学級(男女同数)で、男子生徒2人、女子生徒1人が55歳までにひきこもりになると考えれば、これが荒唐無稽な数字とはいえないことがわかるでしょう。

 藤里町の訪問調査では、本人は求職準備のために一時的に故郷に戻っていると思っていながら、その期間が5年(あるいは10年!)を超えていたり、「うちの子どもは遊び回っている」と親は思い込んでいても、その「遊び」はガソリンがなくなるまで一人でドライブすることだった、というケースがありました。

 全国調査でも、アンケートではなく訪問調査で対象世帯の実態を調べれば驚くような数字が出てくる可能性があります。必要なのはまず、私たちの社会がどうなっているのか、そのほんとうの姿を知ることではないでしょうか。


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大手マスコミがなかったことにしている二つの事象  平成天皇の護憲発言と福島原発爆発事件

2019年05月01日 | SNS・既存メディアからの引用記事



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◎ニューヨークタイムズ、前天皇や皇室を特集

 戦争への「深い反省」紹介   2019/5/1 01:14

©一般社団法人共同通信社

 【ニューヨーク共同】4月30日付の米紙ニューヨーク・タイムズは、前天皇陛下の退位に合わせ、米国人の女性教師から英語を学んだ幼少期や、戦争への「深い反省」を表明し続けたことなど、前陛下のこれまでを振り返りながら、日本の皇室の現状を紹介する3ページの特集を掲載した。

 記事は、父の昭和天皇が敗戦を告げるラジオ放送を聞いて前陛下が涙をぬぐったと記載。戦後間もない時期には、女性教師から「ジミー」と呼ばれながら英語の授業を受けたことも盛り込んだ。沖縄県やアジア諸国を訪問し、戦争での日本軍の犠牲者に謝罪を続けて「日本の右派をいら立たせた」と指摘した。  ニューヨークタイムズ元記事。

 

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