
(ポル・ポト政権幹部 左からポル・ポト、ヌオン・チア元人民代表会議議長、イエン・サリ元副首相、中央眼鏡の男性がソン・セン元副首相 当時、ポル・ポトの存在は秘密にされており、彼の写真が確認されたのは77年9月になってからでした。 “flickr”より By manhhai http://www.flickr.com/photos/13476480@N07/3797955366/ )
【異様な時代の大量虐殺】
カンボジアの旧ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)時代(1975~79年)には、当時の人口の3分の1、あるいは4分の1にもあたるとされる150万~200万人の国民が虐殺されたと言われています。しかも、この虐殺は同じカンボジア人同士で行われました。
更に、西洋文化はもちろん、都市生活や家族制度など現代社会の根幹が否定され、極端な原始共産制的な社会が強制されるという、極めて異様な時代でした。
都市住民は農村に強制移住させられ、そこでの強制労働において“消耗品”のように扱われました。
大量虐殺の本格的幕開けとなったのは、1975年4月17日のロン・ノル政権降伏、クメール・ルージュの首都プノンペン入城でした。
プノンペン市民はクメール・ルージュ兵士を“解放者”として歓迎しましたが、市民全員の農村への強制移住という信じ難い命令が人々に下され、地獄が始まりました。
「何千という病人、負傷者が町から出ていく。……中にはベッドの上で、輸血や点滴を受けながら家族に運ばれていく病人もいた。輸血用の血液や点滴液が大揺れに揺れていた。ちょん切られた虫のようにもがきながら進んでいく両手両足のない人、10歳の娘をシーツにくるみ、吊り包帯のように首から吊るして泣きながら歩いていく父親、足にやっと皮一枚でつながっている足首がぶらぶらしたまま連れていかれる男。私はこうした人たちを忘れることはあるまい。」【プノンペンに留まっていたフランス入宣教師のフラソソワ・ポソショー神父の言葉 山田寛著「ポル・ポト<革命>史」より】
“この大方針がいつ決定されたのか。ポル・ポト自身は、七七年になって、「それは七五年二月だった」と述べている。二月下旬に聞かれた党中央の会議で決まった、というのである。
最終的にはそうでも、実際にはずっと以前から計画されていたとみられる。七四年半ばにこの計画は上級幹部たちには明らかにされ、次項で述べるようにフー・ュオン、チュー・チェト(党西部地域書記)らが異を唱えていたが、もちろん取り上げられなかった。
イエン・サリは、七五年九月に公表された外国人記者とのインタビューで、「首都に入ってみると首都の人口が予想以上に多く、ほぼ三〇〇万人にも増大していたから、飢饉を防ぐため人々を食料のある場所に行かせる必要があった」と説明している。
だが、そんな短時間に、大雑把にせよ人口調査など行っているはずもない。内戦中の七三、七四年ごろから、彼らは都市や町を攻略すると、住民を退去させ、住家を焼き払うことを繰り退していた。強制退去は、革命の敵が集結した“悪と腐敗”の巣窟の都市を壊滅させるためだった。全国民を農民、労働者にし、生産に邁進させる。敵をバラバラにし、選別を容易にする。それが都市への憎悪と警戒心に基づいた彼らの基本戦略だった。
ただし、七七年四月に逮捕され、粛清地獄のツールスレン監獄(S21)に放り込まれて処刑されたフー・ニムは、殺される直前に書かされた供述書の中で、「四月一九日に、兄弟一号(ポル・ポト)と兄弟二号(ヌオン・チェア)から、状況と住民退去計画について説明を受けた」と記している。情報相だったフー・ニムですら、強制退去開始後二目たってやっと実際の退去計画について話を聞いたわけだ。それほど計画は狭い範囲だけの秘密とされていた。”【山田寛著「ポル・ポト<革命>史」】
【最高幹部4被告は罪状を否認しており、捜査への協力も拒否】
大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷では、昨年7月、元トゥールスレン政治犯収容所所長、カン・ケ・イウ被告(68)に、禁錮35年の有罪判決が言い渡たされました。
“「つめはぎや電気ショック、水責めなどで自白を迫ることを容認し、故意の殺人、拷問、非人間的な拘禁が行われた」というのが、主な判決理由だった。検察側は終身刑を求め上訴し、近く判決が言い渡される見通しだ。公判で同被告は、「上」からの指示によるやむを得ない犯行だった、と弁明している。”【6月27日 産経】
カン・ケ・イウ被告本人も“「上」からの指示”と言っているように、同被告は当時の政治体制においては中枢とは言えない立場で、なぜあのような大量虐殺が起きたのかを明らかにするためには、当時の政権中枢にあった幹部の裁判が待たれていました。
最高指導者のポル・ポトはすでに死去していますが、上記引用文にも登場する政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表会議議長(84)、ナンバー3のイエン・サリ元副首相(85)ら4名が拘束されています。
その元最高幹部4人の初公判がようやく開始されました。
なお、その他幹部としては、ソン・セン元副首相は97年にポル・ポト元首相の命で殺害され、タ・モク元軍総参謀長も80歳で2006年に死亡しています。
****ポト派元最高幹部4人の初公判始まる、カンボジア特別法廷****
カンボジアの旧ポル・ポト政権時代(1975~79年)に起きた大量虐殺を裁くカンボジア特別法廷(ECCC)で27日、元最高幹部4人の初公判が始まった。
ジェノサイド(大量虐殺)や人道に対する罪、戦争犯罪などに問われている4人は、政権ナンバー2だったヌオン・チア元人民代表会議議長(84)、ナンバー3のイエン・サリ元副首相(85)、その妻のイエン・チリト元社会問題相(79)、キュー・サムファン元幹部会議長(79)。
ポル・ポト政権下では人口の4分の1にあたる200万人が飢えや過労、拷問、処刑などによって死亡したとされる。大勢の犠牲者や犯罪現場が関係する元最高幹部らを裁く「ケース2」と呼ばれる今回の公判は、ポル・ポト政権時代を生き延びた人びとが長らく待ち望んでいたものだ。
だが、4被告は罪状を否認しており、捜査への協力も拒否していることから、裁判は長期化、複雑化するとみられる。4被告が高齢で、さまざまな疾病を患っていることから、被告の存命中に判決が下されるかどうかも懸念される。【6月27日 AFP】
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元トゥールスレン政治犯収容所所長、カン・ケ・イウ被告は自分の罪を認めていましたが、高齢の最高幹部の被告4人はいずれも罪を否認するとみられており、実際、“ヌオン・チア被告は開廷から45分後、公判前の捜査が非公開で行われるなど法廷の手続きが「根本的に不公正だ」と抗議し、退廷した。”【4月27日 朝日】とのことです。
“ポル・ポト政権時代を生き延びた人びとが長らく待ち望んでいたものだ”とありますが、大きな傷を抱える人々の思いは、あまり傷口に触れたくないといった複雑なものもあるでしょう。
フン・セン首相は自分自身がかつてはクメール・ルージュのメンバーだったという“脛に傷がある”せいもあってか、裁判にはあまり協力的とは言えないようです。
確かに、あまりに多くの国民がなんらかの形で関与し、今もクメール・ルージュの元兵士たちが一部地域に暮らす現状からすれば、社会の安定のためには裁判を拡大することで混乱を招きたくないという考えも分からないではありません。
【「裁判は次の世代への授業だ」】
虐殺から30年以上が経過し、国民の間でも風化が始まっているともいわれます。
ただ、過去を清算して前へ進むためには、百数十万人もの犠牲者がどうして出たのか、少なくともクメール・ルージュ幹部に当時の考えを明らかにしてもらう必要があります。
****ポト派裁判で初判決 「暗黒の歴史」清算へ一歩 国民和解なお曲折も****
・・・・ベトナム軍の侵攻で政権は79年に崩壊。30年以上が経過した今、事件そのものを知らない若い世代も増えている。このため、カンボジアでは昨年から授業で虐殺の事実について教えるようになった。この日の公判にも市内の高校生が傍聴に訪れた。さらに各地で記録映画の上映会も行われている。
南部コンポンスプーから来たイン・チェンさん(71)は、最近地元で行われた映画上映会で、多くの子供から「これ本当?」と聞かれ、事実を伝え続ける重要性を知ったという。
東部コンポンチャン出身のボウ・ユさん(55)は「裁判は次の世代への授業だ。政府が再び、このようなことを起こさないことを望んでいる」と述べた。
しかし、カンボジア政府と特別法廷との間には大きな溝がある。真相究明を最優先する特別法廷は、昨年9月、拘束した5人以外にも捜査対象者を広げる方針を発表。これにフン・セン首相は「(拡大は)国民和解を妨げ、再び内戦を招きかねない」と激しく反発した。現政府にはポル・ポト派の元幹部も多く、首相自身、77年まで同派の地方幹部だった。それだけに訴追者がでれば、政権だけでなく国内の混乱は必至だ。
今回の(カン・ケ・イウ被告に対する)判決だけでも、被告、検察側双方とも不服としており、裁判の長期化が必至だ。「カンボジアに和平を定着させるために不可欠」とする国際社会と、どう折り合いをつけていくか、カンボジア政府は引き続き問われることになる。【10年7月27日 産経】
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数年前、トゥールスレン政治犯収容所を訪れたことがありますが、外国人観光客ばかりで、現地の人々の姿が見えないことが気になりました。