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(ロヒンギャの難民キャンプ “flickr”より By European Commission DG ECHO http://www.flickr.com/photos/69583224@N05/10015629133/in/photolist-gg3HAV-gg3HAe-ghwJhK-fVZzvM-g1eSa9-geAbeM-gezftt-fY1GYF-fY1zb5-gbVJNq-fY1JqN-fY2fxR-fY26EF-gg3nA7-gg3HXr-gg3h8T-gg3niU-gg34sS-gg3gZX-gg3nwj-gg3HM6-gg3nnS-gc48rh-gbVFLo-gc3u4j-fY27xx-fY1KNE-fY1AuC-fY1KnQ-fY1Mp5-fLy9z8-fLQGFU-fLQFKw-fLQGLm-fLQGAC-fLQGDY-fLy8Ht-fLQGc1-fLy9sr-fLy9Fn-fLy98i-fLQGMy-fLQG6u-fLy9bn-fLQFtE-fLQFS1-fLy8JZ-fLQG3u-fLy9FV-fLQG4m-fLy9FD)
【民主化で“尊敬すべき国”へ 一方で、イスラム問題も表面化】
軍政時代のミャンマーは、必ずしも人権に関して十分とは言い難い国が少なくないASEANの中にあっても、“お荷物”的な存在でした。
2006年には持ち回りで担うASEAN議長国が予定されていましたが、民主化運動指導者アウン・サン・スー・チー氏の自宅軟禁など軍政の人権侵害を批判するアメリカ・EUは、ミャンマーが議長国になった場合はASEANとの拡大外相会議やASEAN地域フォーラム(ARF)をボイコットすると警告。
欧米との摩擦を回避したいASEAN諸国の説得によって、ミャンマーは議長国を辞退するという屈辱を経験しました。
そのミャンマーが2014年、ASEAN議長国を任されます。
テイン・セイン大統領のもとで急速に進展する民主化が国際的に評価された結果でもあります。
しかし、民主化のもたらした自由は、仏教徒とイスラム教徒の対立という問題に火をつける副作用も引き越しています。
****宗教対立、土地争い…民主化も課題多いミャンマー ****
ミャンマーのテイン・セイン大統領は来週、ブルネイ国王から(議事を取り仕切るための)小づちを手渡される。これはミャンマーが2014年の東南アジア諸国連合(ASEAN)議長国になることを表すだけでなく、尊敬すべき国に返り咲いた証しとなる。
ミャンマー軍事政権が民主化にカジを切って以来、驚くべき変遷を遂げたことに世界はようやくなじんできた。
11年に本格化したこのプロセスはなお進展しつつあり、エジプトのように以前の状態に後戻りしないことに驚かない人も出てきた。
とはいえ、民主化の初期段階にある同国はあらゆる点で満足の行く状態からほど遠い。
ミャンマーが抱える問題を挙げ始めたらきりがない。貧困や健康被害、水道水や電気などの不備による不快さなど多くの問題は昔から存在し、長年の独裁政権による失政の副産物として残っている。
一方、軍の独裁主義が解消されたことで、新たに表面化した問題も多い。
■仏教徒とイスラム教徒の確執鮮明
最も顕著なのが、主に人口の9割を占める多数派の仏教徒と、約4%と少数派のイスラム教徒との宗教対立だ。
「古き良き」独裁政権時代には、僧侶といえばサフラン色の僧衣をまとい、至る所で弾圧的な政府に立ち向かう姿があったが、今や彼らは理解しがたい行動を取るようになった。過激思想を持つ僧侶がその正体を現し始めたためだ。
確かに、仏教徒とイスラム教徒との対立は長年くすぶり続けてきた。表現の自由を得て国の抑制が効かなくなった今、両者の確執はより鮮明になっている。
ミャンマーでの暴動は少数民族ロヒンギャが住むラカイン州に集中しているが、対立はイスラム教徒のコミュニティがある他の地域にも広がっている。ミャンマー中部のメイッティーラでは3月にイスラム教徒約50人が殺害された。(後略)【10月3日 英フィナンシャル・タイムズ紙】
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民主化によって“表現の自由を得て国の抑制が効かなくなった”ことで表面化・過激化している、少数派イスラム教徒と圧倒的多数派仏教徒の衝突はこれまでも何度もこのブログでも取り上げてきました。
特に激しい衝突が起きているのが、西部ラカイン州のイスラム系のロヒンギャをめぐる問題ですが、ロヒンギャにはミャンマー国籍が付与されておらず、バングラデシュからの不法移民・ベンガル人という扱いを受けていること、そうした事情もあって、仏教徒側の憎悪も単に宗教的な差異によるものだけではないことなど、他の地域のイスラム教徒問題と異なる側面があります。
なお、ロヒンギャはバングラデシュでも難民や不法移民と扱われており、また、タイ、インドネシアなどの周辺国も受け入れを拒んでおり、「国を持たない民」といして行き場を失った状態にあります。
【大統領訪問時にも衝突再燃】
2日、問題の鎮静化を図るべくテイン・セイン大統領は初めてラカイン州を訪問しましたが、ちょうどその大統領訪問直前にラカイン州で再び衝突が発生しました。
****ミャンマー西部ラカイン州で宗教騒乱、当局は治安対策強化****
ミャンマー当局は2日、西部ラカイン州タンドウェー地区の治安対策を強化した。タンドウェーでは宗教間対立を背景とする暴動が4日間続き、イスラム教徒5人が殺害された。
騒動は、テイン・セイン大統領によるラカイン州訪問時に起こった。
ラカイン州では1年以上前から仏教徒とイスラム教徒間の緊張が高まっており、大統領の訪問はそれ以降初めて。
大統領報道官によると、大統領は当初タンドウェー訪問を取り止める計画だったが、3日間にわたるタンドウェーを含む町や難民キャンプの訪問を続行している。
多数派の仏教徒と少数派のイスラム教徒との対立により、過去1年間で150人以上が死亡したほか、15万人ほどが難民となった。被害者で圧倒的に多いのは、イスラム教の少数民族ロヒンギャ族だ。
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タンドウェー警察幹部のSoe Lwin氏によると、2日には治安維持と加害者の逮捕を目指し、軍人や追加の警察官など80人以上の警備担当者をタンドウェーに配置したほか、既に実施していた警察官の増員や外出禁止令といった対応を一層強化した。
タンドウェーは人気のビーチリゾート、ガパリからほど近い沿岸の町で、ミャンマー最大都市ヤンゴンから西に約270キロ離れた位置にある。
当局によると、騒動のきっかけは仏教徒のタクシー運転手が9月28日、イスラム教徒の経営する店の前に車を止めようとしたところ、店の経営者から罵倒されたと警察に訴えたことだった。
警察は職務質問のため店の経営者を連行したが、釈放した。その後、怒った暴徒らがその経営者の自宅を襲撃した。
翌日29日にはいくつかの家屋が放火され、午後6時から午前6時までの夜間外出禁止令が施行された。
当局によると、1日にはナイフや棒で武装した暴徒の数が徐々に膨れ上がり、タンドウェー周辺の村が襲われ始め、94歳のイスラム教徒女性が刺殺された。ほかにもイスラム教徒の男性4人が殺害されたという。
ラカイン州政府の広報担当官は「1000人以上の住民がイスラム教徒の家々を取り囲み、破壊した」と述べた。推定で50軒以上の家とモスク1カ所が放火された。群衆は警察の威嚇射撃を受けて退散した。
ある村の村長によると、村では31の家屋が放火された。イスラム教徒たちは周辺の畑に身を隠したり、仏教の僧院に避難したりしたという。
ミャンマーの人口6000万人のうちイスラム教徒の占める比率は4%程度。仏教徒との抗争は同国の安定にとっていう観点で、3年前に軍事独裁政権が幕を閉じて以降、最大の課題となっている。大統領の訪問は今回の騒動が起こる以前に計画されていた。
ラカイン州のイスラム教徒の多くはロヒンギャ族で、ラカイン州の人口の約4分の1を占める。ロヒンギャ族は多くが何世代にもわたってミャンマーで生活しているにもかかわらず、政府はロヒンギャ族を隣国バングラデシュからの不法移民だとみなす法律を変える計画を示していない。
タンドウェーにはイスラム教徒が約15万人いるが、ロヒンギャ族と違い、その多くはミャンマー市民だとみなされている。ロヒンギャ族はラカイン州北部に集まっている。
英国に本拠を置くリスクコンサルティング会社メープルクロフトのアジア担当責任者Arvind Ramakrishnan氏によると、ロヒンギャ族に対する偏見は「独特で、ミャンマーの他の地域にあるような反イスラム意識とはいくらか異なる」ため、状況をさらに緊迫させているという。
同氏は「政府はロヒンギャ族を、ミャンマーをルーツとしないベンガル人として扱う戦略を堅持している」と指摘、「このため彼らに対する差別が続くだろう」と述べている。
テイン・セイン大統領は1日、ラカイン州の州都シットウェに到着した。
翌2日午後にはタンドウェーに入り、緊張の続くこの地域でイスラム教、仏教双方の指導者と会った。大統領報道官によれば、同大統領は住民らに対し、「州の多様性を受け入れる」よう要請、「2つの共同体間の協力が必要だ」と訴えた。
大統領は、宗教抗争で家を追われたイスラム系のロヒンギャ族を中心とする難民キャンプも訪問する予定だ。【10月3日 ウォール・ストリート・ジャーナル】
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今回騒動の発端については、“地元ジャーナリストによると、オート三輪タクシーには、イスラム教徒の商店で不買を奨励する「969運動」のステッカーが張られていたため、店主が激怒したという。
この運動は急進派の仏僧たちが「イスラム排斥」を念頭に進めており、国民の9割を占めるミャンマー仏教徒の反イスラム感情に拍車をかけている。”【10月3日 毎日】とも報じられています。
【道筋が見えない国籍付与問題】
テイン・セイン大統領は「宗教対立は民主化プロセスを後退させる」と再三、危機感を訴えていますが、その対応は明瞭ではないところもあります。
****135の中に入らない民族****
ロヒンギャ民族の人口は100万~150万とされる。10世紀(7~8世紀ごろとの説もある)から、ベンガル湾を航行する交易船が漂着するなどして、現在のラカイン州の地に居ついたアラブ系やペルシャ系商人らの末裔だという。ラカイン州では仏教徒であるラカイン民族が多数派である。ラカイン民族はビルマ政府が認める少数民族である。
しかしロヒンギャ民族は政府が公認している135のビルマ固有の原住民族の中に入っていない。
ビルマ国軍によってリストから省かれたのである。
独立直後の議会制民主主義の時代(1948~62)には、ロヒンギャ民族の国会議員や政府高官はいた。当時のラジオ国営放送少数民族語の時間にはロヒンギャ語のニュースも流れていた。
1962年、クーデターによって政権を奪取した軍部は、ロヒンギャ民族をすべて隣国バングラデシュから不法に入国した不法滞在者と決めつけた。1982年に改定された国籍(市民権)法ではロヒンギャは国民、準国民、帰化国民の範疇に入らず、外国人扱いを受けるようになった。国民としての権利は認められず、基本的人権を奪われた。さらに政府は「人口・戸籍調査」と称するロヒンギャ追い出し作戦を何度も実施した。1991~92年には25~30万人ものロヒンギャが、ナフ川国境を渡ってバングラデシュへ逃げた。
1993年になって国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)とミャンマー、バングラデシュ両国政府が合意、UNHCRによる難民の帰還・再定住促進事業が始まった。三年間でおよそ20万のロヒンギャが帰還したという。
しかし、ロヒンギャ民族の世界各地への脱出は現在もつづいている。バングラデシュだけでもUNHCRが認める難民2万8000人のほか、20万を越えるロヒンギャ難民が食糧も医療も十分ではない状態で住んでいるとされる。
テインセイン大統領はラカイン州での暴動が悪化していた2011年7月11日にグテーレス国連難民高等弁務官と会談した。
テインセイン大統領は「ビルマの国籍法によればロヒンギャはビルマ固有の民族ではない」として、ロヒンギャ問題を解決するには「ロヒンギャ民族を第三国か、UNHCRが管理するキャンプに送り込むことである。UNHCRが外国のどこかにキャンプを設置してくれればそこへロヒンギャを移す」と述べた。
このテインセイン大統領の見解は多くのビルマ国民に支持されている。
最大の野党である国民民主連盟(NLD)や民主化をめざしてこれまで軍事政権と闘ってきた組織ですら、ロヒンギャはビルマに居るべきではない民族であるとして排斥する。
アウン・サン・スー・チーも、ロヒンギャ問題については口をつぐんでいる。ロヒンギャの側に立つ発言をすれば、多数派であるビルマ人仏教徒からの支持を失うことを彼女は恐れているといわれる。
軍事政権下でロヒンギャは故郷を追われ、「国亡き民」として世界各地へ散らばった。(後略)
【田辺 寿夫氏 ASIA PEACEBUILDING INITIATIVE ANNEX】(http://apbi.univer.se.com/notes/3)
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「ビルマの国籍法によればロヒンギャはビルマ固有の民族ではない」としていたテイン・セイン大統領ですが、2012年11月のアメリカ・オバマ大統領のミャンマー訪問の直前に、潘基文(パンギムン)国連事務総長に書簡を送付し、「避難民の再定住から国籍付与に至るまで、異論のある様々な政治問題に取り組む」と約束、初めてロヒンギャへの国籍付与に踏み込んでいます。
“ミャンマー西部ラカイン州で少数派のイスラム教徒ロヒンギャ族と仏教徒との衝突が深刻化している問題に対し、テインセイン大統領が解決への姿勢を示し始めた。19日のオバマ米大統領の訪問を前に、国際社会の批判が強まる人権問題に柔軟姿勢を見せた形だ”【2012年11月19日 朝日】とも報じられましたが、ロヒンギャへの国籍付与問題のその後の進展は目にしていません。
国連事務総長への書簡も、国籍付与を約束したものではありません。
今回のラカイン州訪問でロヒンギャの難民ミャンプも訪問するテイン・セイン大統領ですから、「宗教対立は民主化プロセスを後退させる」との発言のように、解決・沈静化への意欲・問題意識はあるのでしょうが、先鋭化する一部仏教徒世論もあって未だ道筋が見えていません。