孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ベルギーとコンゴ  植民支配の重い歴史

2022-06-23 23:25:12 | アフリカ
(1900年頃のコンゴ自由国では労働者の腕を切断する罰がまかり通っていた。【6月23日 Newsweek】
ちなみに、現代のアフリカの武装勢力も、恐怖を見せつけるために腕の切断をよく行うようですが、そうした行為には植民地時代から長い歴史があるようです。)

【アフリカの二つの側面、成長と混乱 その混乱を象徴するコンゴ民主共和国】
いつも言うようにアフリカには二つの側面があります。
ひとつは“アフリカ”からすぐに連想する、未開、混乱、紛争、貧困などのマイナスイメージを生んでいる側面。
もうひとつは、目覚ましい経済成長を実現しつつあるという現実。

国によってどちらの側面が大きなウェイトを占めるかは異なるでしょうが、中央アフリカに位置する広大なコンゴ民主共和国(旧ベルギー植民地)は前者のマイナスイメージを体現した国家のように見えます。

とりわけ、1998年8月から2003年7月にかけて、ルワンダ大虐殺の原因ともなったツチとフツの民族対立や資源獲得競争が原因で戦われた第2次コンゴ戦争は、その豊かな資源(ダイヤモンド、金、銅、コバルト、錫石、コルタン、原油など)に引き寄せられた8つの周辺諸国と少なくとも25の武装勢力を巻き込んで「アフリカ大戦」とも呼ばれました。

“この第二次コンゴ戦争とその余波で起きた虐殺・病・飢えで死んだものは2008年までの累計で500〜600万人とされ、その死者数は第二次世界大戦以来最悪である。100万人以上が家や病院等を追われ難民と化し、周辺諸国へ避難したが、この難民の一部も組織的に虐殺された。暫定政権はその後も国内すべてを掌握できず、民族対立とも相まって東部(イトゥリ州、南キヴ州、北キヴ州)は虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯となった。この戦争と闘争の余波は、鉱山資源の獲得競争等の原因で2013年現在も継続している。”【ウィキペディア】

上記【ウィキペディア】記載は2013年のものなので、“2013年現在も継続している”とありますが、2022年の現在も状況は大差ないようです。

****コンゴ民主共和国東部で戦闘、7万2000人が避難****
コンゴ民主共和国の東部で軍と反政府武装勢力「M23(3月23日運動)」の戦闘が発生し、国連難民高等弁務官事務所の5月27日の発表によると、北キブ州の二つの地域で5月19日以降に避難した人は7万2000人に上った。

UNHCRによると、コンゴ民主共和国東部で戦闘が激化した2021年11月以降に避難を強いられた民間人は17万人を超え、その多くが避難を繰り返しているという。

M23は2012年に北キブ州の州都ゴマを支配下に置いたが、翌年軍に制圧された。しかしM23は今年に入り、M23の戦闘員を軍に受け入れるという2009年の合意を政府が順守していないとして戦闘を再開した。

コンゴ民主共和国は、隣国ルワンダがM23を支援していると主張しているが、ルワンダは関与を否定している。コンゴ民主共和国東部で活動中の武装勢力は120を超える。その多くは20年以上前の地域紛争に由来する勢力だ。 【6月5日 AFP】
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【アフリカに根深い欧州の植民地支配に対する反感】
今回記事の本旨ではありませんので詳細は省きますが、「M23(3月23日運動)」はツチとフツの民族対立を背景にした、フツ民兵組織などと争うツチ主体の武装勢力です。

いずれにしても120を超える武装勢力が跋扈する“虐殺・略奪・強姦の頻発する一種の無法地帯”の感も。

こうしたコンゴに代表されるアフリカの混乱の原因はどこにあるのか・・・先ずは、コンゴなどアフリカ諸国自身の統治の問題でしょう。

ただ、アフリカが長い間西欧列強の植民地として収奪され、その社会が破壊され、宗主国に都合のいい体制に留め置かれたことも大きく影響しているのも事実でしょう。

アフリカにはかつての植民地支配への根深い恨みが・批判が存在し、いろんな場面でその感情が現れます。

現在、欧米はロシアのウクライナ侵攻を批判して国際社会にその非を訴えていますが、アフリカ諸国にはかつて植民地支配した国の人権や非暴力といった言い分に冷ややかな対応も。

例えば、3月2日の国連総会におけるロシア非難決議では反対1、棄権17に不参加8と、合計26のアフリカの国がロシア非難を回避し、アフリカ54カ国のほぼ半分がロシア非難を避けました。

3月24日の非難決議でも、反対1、棄権20、不参加6と、合計27のアフリカの国がロシア非難を回避しました。

更に、国連人権理事会におけるロシアの理事国資格停止を求めた4月7日の決議では、反対9、棄権24、不参加11と、実に44のアフリカの国がロシアの資格停止に賛成しませんでした。

植民地主義や独立後の経済的支配によってアフリカをさんざん虐げてきた西欧が、いまさら人権や非暴力の重要性を唱えることには偽善を感じざるを得ない・・・というアフリカの心情のあらわれでもあるでしょう。

ロシアがアフリカに大きな支持を得ているのも、また、中国がアフリカにおける存在感を急速に拡大しているのも、両国が植民地支配という負の遺産を有していないことと無縁ではないでしょう。

【コンゴとの関係の清算に踏み出したベルギー】
どこの国も植民地支配などの“歴史問題”は存在しますが、一般に加害者側は「もう昔の話」という意識になりがちなのに対し、被害者側は多少の年月ではその感情は消えません。

そうしたバイアスはあるものの、植民地支配した側にも過去の負の歴史を清算したいという気運も強まってはいます。

コンゴを支配したベルギーも・・・

****ベルギー国王、コンゴ支配「深い遺憾」 初訪問****
ベルギーのフィリップ国王が7日から旧植民地のコンゴ(旧ザイール)を訪れ、8日の首都キンシャサでの演説でコンゴ支配に「深い遺憾」の意を示した。国王が2013年に即位して以降、コンゴ訪問は今回が初めて。欧州メディアが伝えた。

国王は20年、コンゴのチセケディ大統領への書簡で遺憾の意を初めて表明していた。8日の演説で当時の状況について「正当化できない不平等な関係で、人種差別が顕著だった」と指摘し「それが暴力行為や屈辱をもたらした」と認めた。
元国王レオポルド2世の私領地「コンゴ自由国」時代(1885~1908年)には数々の残虐行為が行われ、天然ゴム採取などのノルマが果たせない住民らへの罰として手首を切断するなどしたとされる。その後もベルギー政府が60年まで植民地経営した。
国王は8日、キンシャサの博物館も訪問。ベルギーの王立中央アフリカ博物館が長年所蔵してきたコンゴの伝統的な仮面を無期限で貸与した。【6月9日 日経】
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****遺体を硫酸で溶かされたコンゴ独立の英雄、残っていた歯が約60年後に親族へ…ベルギー政府謝罪****
ベルギー政府は20日、アフリカの旧植民地コンゴ民主共和国の独立の英雄パトリス・ルムンバ元首相のものとされる歯の一部を親族に返還し、その殺害に関して道義的責任を認めて謝罪した。

急進的な反植民地主義を掲げたルムンバ氏は今もアフリカ各国で人気があり、ベルギー政府が目指す過去の清算と旧植民地との関係再構築につながるかどうかが注目される。

ベルギーのブリュッセルで行われた式典で、演説しようとするルムンバ元首相の娘(中央)=AP ルムンバ氏は、1960年に初代首相に就任したが、独立後も影響力確保を狙ったベルギーと対立し、コンゴ動乱のさなかの61年にベルギーの支援を受けた反ルムンバ派に殺害された。

遺体の大部分は硫酸で溶かされたが、その後、歯の一部がベルギー人警察官の家庭で保管されていることが判明し、返還に向けた協議が続けられてきた。【6月21日 読売】
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【「深い遺憾」の意では済まされない重い歴史も】
しかしながら、コンゴとベルギーの関係はベルギー国王の「深い遺憾」の意では済まされない重い歴史を引きずっています。

****ベルギー名産品チョコレートと植民地支配──現国王の謝罪、今後の役割とは?****
<ベルギー・フィリップ国王がコンゴ民主共和国を初訪問し、過去の残虐行為を謝罪した。かつてアフリカ分割に中心的な役割を果たしたベルギーの償いは、いま始まったばかり>

先日夜が明ける頃、西ヨーロッパのとある主要空港に降り立った私は、今更のようにショックを受けた。これまで何度もこの空港を利用してきたが、その朝初めて、コーヒーとチョコレートの広告看板の数々が目に飛び込んできたのだ。

西欧世界では何世紀もの間、タバコや香水、絹と並んで、コーヒーとチョコレートは遠くから運ばれてきた贅沢品であり、富と地位の象徴だった。そして、その贅沢趣味の陰で無数の人々が搾取に苦しんでいた。

私は新著『ボーン・イン・ブラックネス』で、15世紀末に欧州の人々が砂糖やチョコレートに魅せられたことがきっかけで植民地支配が始まったこと、欧州列強は奴隷制度、さらには繁殖や伝播の意の「プロパゲーション」という名の強制労働キャンプを利用して富を蓄え、300年にわたって栄耀栄華を極めたことを詳述した。

植民地における砂糖の生産、またベルギーの国際空港で広告されていたようなチョコレートやコーヒーの生産は莫大な富をもたらした。おかげで欧州諸国は近代に目覚ましい発展を遂げ、その豊かさと影響力において東方世界とは一線を画す文明圏を形成した。

その文明圏こそ、私たちが今「西側」と呼ぶ、西欧と北米(特にアメリカ)から成る「豊かな先進地域」だ。

1820年以前に大西洋を渡って西に運ばれたアフリカ人の数は、アフリカに渡った白人の数の4倍に上る。アフリカ人を鎖につないで船に乗せ、苛酷な無報酬の労働を強いたおかげで、西欧諸国の植民地経営は途方もない利益を生み出した。(中略)

1870年代、当時の欧州では歴史の浅い小国にすぎなかったベルギーがアフリカとその富を収奪する事業に加わろうと精力的に奥地探検を行った。

その頃には白人によるアフリカ人の公然たる奴隷化は恥ずべき行為としてとっくに葬り去られていたが、プロテスタントのオランダから独立したカトリック国ベルギーには特殊な事情があった。

国境線の確定交渉でリュクサンブールとリンブルフ地域の半分を失った上、独立後はオランダ東インド会社を通じたアジアとの交易で荒稼ぎすることもできなくなっていたのだ。

ノルマ未達成なら手足を切断
そこで2代目の国王レオポルド2世は無謀とも見える企てに着手し、遠い異境の富を奪おうとした。当初は中国やフィリピンにも目を付けたが、最終的に行き着いた先は米エール大学の歴史学者ロバート・ハームズが2019年の著書『涙の土地』で、「欧州の探検と植民地拡大の最後のフロンティア」と呼んだ場所。つまり、鬱蒼たる密林に覆われたアフリカの中心部だった。

奴隷制反対のレトリックと人道主義者の仮面の下に強欲な素顔を隠したレオポルドは、アフリカ分割に関する欧州列強のベルリン会議で、インド洋経由の奴隷貿易をなくすという大義名分を掲げて、後にコンゴとなる広大な盆地の領有権を主張。まんまと承認を取り付けた。その面積はベルギー本国の約88倍、西欧全域がほぼすっぽり収まるほどの広さだ。

レオポルドはそこを自身の領地とし、「コンゴ自由国」なる何とも残酷で皮肉な名称を冠した独立国を建設して自らその君主となった。

住民たちは自由を与えられるどころか、強制的に象狩りを強いられ、レオポルドの蓄財のために膨大な量の象牙を集めた。レオポルドはまた、工業化の進む欧州で砂糖に代わる重要な産品の1つとなったゴムの生産も奨励した。

その手法は非人道的で苛烈を極めた。村の女性たちは日常的に人質に取られ、男性たちは「妻を返してほしければ、ゴムを持ってこい」と言われて密林の奥に入りそこに自生するゴムノキの樹液を採取する。ノルマを達成できなければ、見せしめのために公衆の面前で手足を切り落とされることもしばしばだった。

こうして19世紀末のわずか30年間でコンゴは外部の人間がほとんど入ったことのない世界有数の秘境から、世界でも指折りの無残に収奪された「涙の土地」に姿を変えたのである。

だが見境のない収奪はやがて国際的な非難を浴びることになり、レオポルドは自分の私有地だったコンゴをベルギーに移譲。1908年、コンゴ自由国はベルギー領コンゴとなった。

レオポルドの支配下にあった時代とその直後には最大1000万人もの住民が殺されるか劣悪な環境下で死に追いやられた。政府の直轄領になってからは統治機構は変わったものの、搾取の体質は変わらず。ベルギー政府はコンゴ盆地の膨大な富を吸い上げるばかりで、ほとんど何も還元しなかった。

今日においてもベルギー国内にはこうした歴史を否定するか、自分たちの国はコンゴに道路や学校や病院を建てたと主張して過去の罪を軽く見せようとする人々がいる。

これはもっともらしい主張のようだが、重大な見落としがある。数少ないインフラ建設はベルギー政府の投資ではなく、コンゴ人の強制労働で実施されたこと。さらにベルギー統治下では、ほぼ全てのコンゴ人にとって中等教育ですら高根の花だったことだ。(中略)

奪われた文化財の返還はいつ
この歴史は現代にも影を落としている。かつてのベルギー領コンゴ、現在のコンゴ民主共和国は世界で最も貧しく、最も政府が脆弱な国の1つだ。私はアフリカでも特に大きな国々の一部に深刻な貧困や政治不安や紛争が集中している問題を「アフリカの大国危機」と呼んでいるが、ナイジェリアやエチオピア、スーダンと並んでコンゴもそうした大国の1つだ。

これらの国々の1つでもいいから経済的・政治的基盤を強化できれば、その周辺の広大な地域の今後の見通しは劇的に明るくなり、ひいてはアフリカ大陸全体の未来を後押しすることにもつながるだろう。

この問題はベルギーのフィリップ国王(レオポルド2世の甥のひ孫に当たる)が今月、王妃と首相を伴ってコンゴを訪問したことで、改めて報道などで取り上げられるようになった。

ベルギーは近年、コンゴの悲劇に自国が果たした役割についてある程度認めるようになってきてはいる。だが遺憾の意を示しはしても、表現は紋切り型だし内容も曖昧だ。ベルギーがコンゴにおける過去の帝国主義的行動の真実を全て認め、さらには十分な償いをしていると言える状況には到底なっていない。

ベルギーを訪ねた際に私は、ブリュッセル郊外にある王立中央アフリカ博物館を見学した。もともとはベルギーによる植民地支配をたたえる(そしてアフリカ人をおとしめる)ことを目的としており、「人間動物園」が開設されていた時期もある。コンゴの村を再現してそこに永続的にコンゴ人を閉じ込め、見学者向けに「展示」していたのだ。

博物館は近年、拡張しリニューアルされたが、もともとのひんしゅくを買う設立趣旨の名残をとどめている。コンゴで命を落とした1000人ほどのベルギー人の名前が刻まれた壁はあるのに、彼らの野望を満たすために犠牲になったアフリカ人が桁違いに多いことには触れられていない。壁に彫られた彫像が部分的かつ巧みに隠されている場所もある。

ここには「ベルギーがコンゴに文明をもたらす」とか「ベルギーがコンゴに安全をもたらす」といったかつてのスローガンが彫られているのだ。

王立中央アフリカ博物館は彫像や仮面や絵画といったアフリカの文化財を多数、収蔵している。アフリカ諸国をはじめとするかつての植民地では、西側の帝国主義統治の下で文化財が盗まれたり不当に安く買いたたかれたりした。
こうした品々は今、本来の所有者であるアフリカの人々の手の届かない、遠くの博物館の展示ケースや倉庫の中にある。元植民地の国々は、これら文化財の返還を求める戦いを繰り広げている。

王立中央アフリカ博物館に言わせれば、コンゴに文化財を返還する用意はあるものの、貴重な品々を適切に保管する環境が整っていないという理由からコンゴ政府のほうが時間的猶予を求めているという。それならば、環境整備を手伝うことがベルギーの道義的義務ではないだろうか。

歴史的「負債」がない中国
オランダの研究者で、著書『不都合な遺産──オランダとベルギーにおける植民地コレクションと返還』を近く出版するヨス・ファン・ビュールデンによれば、ベルギーは旧植民地のコンゴやルワンダ、ブルンジからの求めに応じて文化財を返還する義務を認めてはいる。だがその対象は国家が保有するものに限られており、民間の博物館やルーベン・カトリック大学あるいは個人が所有するものには及ばないという。

ベルギーによる植民地経営はろくなものではなかったが、そもそもベルギーのような小国に、コンゴのような広大な領地をコンゴ側にも利益をもたらすような形で植民地化する力はなかった。現代においても同様に、コンゴの未来を明るい方向へと大きく動かすにはベルギーは小さすぎる。

ベルギーにやれること、そしてすべきことは、外交努力によってコンゴ再建計画への欧米諸国や国際機関の支援を取り付けることだ。1884~85年のベルリン会議で、アフリカ分割に向けてベルギーが中心的な役割を果たしたように。

近年、コンゴの経済や開発の重要なパートナーとなっているのは、帝国主義的な宗主国となった過去のない中国だ。
この間、欧米諸国はほぼ手をこまぬいていただけだった。

だが西側諸国にとってコンゴは、アフリカでの破壊行為という暗い過去を、再建に向けた大規模な支援や継続的な政治的関与という形で力を合わせて償うことのできる理想的な舞台のはずだ。

さて、アメリカはアフリカを植民地化したことはないものの、歴史的な「負債」はやはり背負っている。アメリカは1960年にベルギーから独立後初の選挙を経てコンゴの首相になったパトリス・ルムンバの打倒を画策した。そしてその後、モブツ・セセ・セコが始めた独裁制を、冷戦を背景に何十年にもわたって支え続けたのだから。【6月23日 Newsweek】
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近年、コンゴの経済や開発の重要なパートナーとなっている中国とアフリカの関係は・・・という話を始めると、また長くなるので別機会で。

欧州の植民地支配に関する記事はこれまでもいくつか書いてきましたが、フランス(当時のサルコジ大統領)とアルジェリアの関係については、15年ほど昔(!)になりますが、2007年12月8日“フランス  なお残る植民地問題と移民問題”で取り上げています。
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