家訓は「遊」

幸せの瞬間を見逃さない今昔事件簿

怒りの忘却と記憶

2011-12-29 08:05:02 | Weblog
3車線のバイパスで私は右の列を走行していた。

トラックで乗用車で私という順番は信号機からずっと変わらない。

適度な速度で適度な車間距離を保っていた。

バックミラーに女性の運転するワンボックスが左車線に変更したのが見えた。

私の左側を通過して、その直後ウインカーを点滅させて右に入ってきた。

そのままでは接触する距離だったのでブレーキをかけて前の位置を譲った。

だがクラクションを長く鳴らした。

今の危険な行為に不満を表明するためだ。

この女性は私を追い越すためだけに左側車線に移り、そして前に入ってきた。

何かの間違いで人の前に入らなくてはならなくなるときもある。

そんな時にはハザードを出して感謝やら謝意を表すのだが、それもない。

高速道路などで「スッ」と前に入って、また「サッ」と車線変更するとてもスムーズで鮮やかなポルシェなど。

それはそれで拍手を送りたい。

「なんだよ。危ないだけで意味ないことするなよ」と感情の高ぶりを抑え切れなかった。

だがこのままでは、いつまでも不愉快だ。

「よし。このイライラが何時まで続くのか試してやろう」と考え方を切り替えた。

ラジオをつけた。

3局選び変えてみたが、どれも面白くない。

CDに切り替えた。

前の曲の途中から始まり次の曲になった。

ルイ アームストロングのwhat a wonderful worldだった。


I see trees of green, red roses too 深緑の木々、赤いバラ

I see them bloom for me and you 美しく輝いている、僕と君の為に

And I think to myself, what a wonderful world見るたびに思うんだ、”この世界はなんて素晴らしいんだろう”って


ところどころの単語しか聞き取れないし意味は不確かにしか理解できない。

だがこれは没頭できた。

「おっ。今忘れていたぞ!さっきの出来事」

急いで時計を確認すると事件後6分しか経過していない。

「6分で忘れられるのか」と自分でも驚いた。

だがこの実験は思わぬ弊害があった。

6分で忘れることのできた出来事を何度も何度も鮮明に思い出すことにつながってしまったのだ。

時の経過を利用して自然に忘れたほうが記憶という装置に書き込まなくても済むようだ。