私の大リーグボール3号である手法は、光と影の芸術たる写真から陰影を排除することにより、写真、西洋画になく、浮世絵やかつての日本画にあった自由を手に入れようという試みである。日本人が陰影を描かずに来た理由に関し、決定的な説をまだ聞いたことがない。他所と違って我が方には八百万の神がいて、便所にまでいるとなれば、陰影の現れようがないということにしておく。 立体を制作するというのは、陰影を作り出すことに他ならない。良かれと思って作った陰影を、自ら消す。その葛藤の上に成り立っている。撮影自体は構図も決まっているし、一応数カット撮って、あとは切り抜き配するだけである。つまりこの手法は、被写体の出来により成否が決まる、という、私の原点が人形制作であることを思い出させてもくれる。ここが上手く出来ている。しかしその挙句が、一カットのために数ヶ月かけて被写体を作ることに。だがしかし被写体制作者と撮影者が同一の二刀流である。被写体制作者が撮影者に「お前はパチパチで終わりではないか?」と揉めることはない。