詩 「親なのだから」 S・I
「親なのだから」と平然と口にする人がたくさんいる。
自分は正しいつもりで諭してくれているのだろうが、
その言葉はまるで紙のように薄くて軽い。
平然と言い放つその無神経さの根拠は、絶対に自分はそうならないという
根拠のない自信とお節介。
その証拠にけして手を差し伸べてこようとはしない。
眼の前で荒れる子、眼のまえで扉を堅く閉ざす子、
それは何気ない日々を鉛を噛んで飲み込むような冷たいものに変え、
消化できない思いは体を土の中へ引きずり込んで行こうとする。
容赦なく浴びせられる「親なのだから」という言葉。
親として出来る事の限界を知らない人の言葉。
いとも簡単に放たれるその言葉の一つ一つは鋭い矢となって体を貫き通す
視力を失わせ、耳を腐らせ、その零れ落ちる涙すら澱ませて、
なおも突き刺さってくる。
飛んできた矢を両手で受けとめ、投げ返してやろう・・・
一瞬沸きたる激しい心、しかしそれはすぐさま崩れさり、変ってわが子の幸せを願う心と静かに入れ替わる。
わが子を信じて・・・
さて、いきなり知っている詩で始まりましたが、この「親なのだから」という言葉ほど無責任なものは無いと私は思っています。
実は、私が学ばせてもらっている施設に来る子達の親は、こうした言葉をいやというほど浴びせられてきています。
親を苦しめている事の一つが「親なのだから」という言葉であるということは割りと知られていません。
何故だか? 教育で飯を食っている人達にこうした言葉を平然と使う者が多いのですね、これが・・・
その背景には、けして自分はそうならないという根拠のない自信が有るからですが、現実はそんなに甘くはありません。
誰であろうが、どんな人間であろうが、子供がいれば起きる時は起きるわけです。
残念な事に、人間のなしうることには限界があります、そしてそれが心に絡んだものであるほど人は無力になって行きます。
それは親子であっても全く同様であって、それどころか親子であるからこそ難しくなること等、いくらでもあります。
子が問題を持つことの苦しみは、健康であるものが重篤な病に侵されて初めて健康であることの幸せを認識するように、現実に自分がそうした立場にならない限りはけして解るものではありません。
病気を引き合いに出してきて、これではまるで問題をもつ子はみんな病気とみなしているのでは?と批判を浴びそうですが。
一番解りやすい例として書いているだけですので、おかしな方向で重ねないでくださいね。
親なのだからという言葉を平然と使うという事は、重病人の家族にたいして「病人なのだから」と言い放つ事と同様であり、どんな人間でもそんな事を言われたら「一体何が言いたいのだ」と怒りが沸くでしょう。
小さな病なら養生して治すことが出来るとしても、ガンであれ、結核であれ、白血病であれ、事故等もそう、それが本人の意思とは無関係に来ることなど珍しくもないわけです。
さらに言わせてもらえるなら、この家族が路頭に迷うとしても、「病人なのだから」と言い放った人が一体何をしてくれるであろうか?
口は開きさえすれば、後は自分の勝手な想像で理想も、夢物語もいくらでも描くことは可能。
安っぽい正義感と無知、無関心を後ろ盾にしたお節介に酔いしれて言われるほど残酷なことは無いわけで、そんな事を言う暇が有るのなら、そうした問題をもつ子と面と向かい合って見てもらいたい。
家を壊され、自分の大切なものを窓から放り投げられ、常に殴るけるなどの暴力を受けながら、かける言葉のひとつひとつに「うるせ~馬鹿やろう」、「殺すぞてめ~」と返ってくる事になんら怒りすら覚えずに平然としていられるのであろうか?
扉を閉じたまま音楽を大音響でかけて一切話を聞こうとしない部屋の前でいったい何時間声をかけることが出来るであろうか?
埒が明かないとばかりに、ドアをこじ開けてみれば隠し持っていた刃物を振り回す姿にどうするのか?
現実を知らないというのは、そういったことなのです。
「親なのだから」等という言葉を平然と口に出来る自分の無神経さこそ、まず考えてもらいたいと思うのは私だけでしょうか?