帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

ちょっと待てよその言葉→「親なのだから!」

2008年03月31日 | 研究-教育・育児


詩  「親なのだから」        S・I

「親なのだから」と平然と口にする人がたくさんいる。

自分は正しいつもりで諭してくれているのだろうが、
その言葉はまるで紙のように薄くて軽い。

平然と言い放つその無神経さの根拠は、絶対に自分はそうならないという
根拠のない自信とお節介。

その証拠にけして手を差し伸べてこようとはしない。


眼の前で荒れる子、眼のまえで扉を堅く閉ざす子、
それは何気ない日々を鉛を噛んで飲み込むような冷たいものに変え、
消化できない思いは体を土の中へ引きずり込んで行こうとする。



容赦なく浴びせられる「親なのだから」という言葉。
親として出来る事の限界を知らない人の言葉。

いとも簡単に放たれるその言葉の一つ一つは鋭い矢となって体を貫き通す
視力を失わせ、耳を腐らせ、その零れ落ちる涙すら澱ませて、
なおも突き刺さってくる。

飛んできた矢を両手で受けとめ、投げ返してやろう・・・

一瞬沸きたる激しい心、しかしそれはすぐさま崩れさり、変ってわが子の幸せを願う心と静かに入れ替わる。

わが子を信じて・・・



                             
さて、いきなり知っている詩で始まりましたが、この「親なのだから」という言葉ほど無責任なものは無いと私は思っています。

実は、私が学ばせてもらっている施設に来る子達の親は、こうした言葉をいやというほど浴びせられてきています。

親を苦しめている事の一つが「親なのだから」という言葉であるということは割りと知られていません。

何故だか? 教育で飯を食っている人達にこうした言葉を平然と使う者が多いのですね、これが・・・

その背景には、けして自分はそうならないという根拠のない自信が有るからですが、現実はそんなに甘くはありません。

誰であろうが、どんな人間であろうが、子供がいれば起きる時は起きるわけです。

残念な事に、人間のなしうることには限界があります、そしてそれが心に絡んだものであるほど人は無力になって行きます。

それは親子であっても全く同様であって、それどころか親子であるからこそ難しくなること等、いくらでもあります。

子が問題を持つことの苦しみは、健康であるものが重篤な病に侵されて初めて健康であることの幸せを認識するように、現実に自分がそうした立場にならない限りはけして解るものではありません。

病気を引き合いに出してきて、これではまるで問題をもつ子はみんな病気とみなしているのでは?と批判を浴びそうですが。
一番解りやすい例として書いているだけですので、おかしな方向で重ねないでくださいね。

親なのだからという言葉を平然と使うという事は、重病人の家族にたいして「病人なのだから」と言い放つ事と同様であり、どんな人間でもそんな事を言われたら「一体何が言いたいのだ」と怒りが沸くでしょう。

小さな病なら養生して治すことが出来るとしても、ガンであれ、結核であれ、白血病であれ、事故等もそう、それが本人の意思とは無関係に来ることなど珍しくもないわけです。
さらに言わせてもらえるなら、この家族が路頭に迷うとしても、「病人なのだから」と言い放った人が一体何をしてくれるであろうか?

口は開きさえすれば、後は自分の勝手な想像で理想も、夢物語もいくらでも描くことは可能。

安っぽい正義感と無知、無関心を後ろ盾にしたお節介に酔いしれて言われるほど残酷なことは無いわけで、そんな事を言う暇が有るのなら、そうした問題をもつ子と面と向かい合って見てもらいたい。

家を壊され、自分の大切なものを窓から放り投げられ、常に殴るけるなどの暴力を受けながら、かける言葉のひとつひとつに「うるせ~馬鹿やろう」、「殺すぞてめ~」と返ってくる事になんら怒りすら覚えずに平然としていられるのであろうか? 
扉を閉じたまま音楽を大音響でかけて一切話を聞こうとしない部屋の前でいったい何時間声をかけることが出来るであろうか?

埒が明かないとばかりに、ドアをこじ開けてみれば隠し持っていた刃物を振り回す姿にどうするのか?

現実を知らないというのは、そういったことなのです。

「親なのだから」等という言葉を平然と口に出来る自分の無神経さこそ、まず考えてもらいたいと思うのは私だけでしょうか?



天目山の春2

2008年03月30日 | Weblog
うんうんと関心していると時間はもう11時半、
およよと次の目的地に移動、再び高速に乗り勝沼へ移動し葡萄の丘へ。
腹が減ったので温泉卵付きの600円ソバをつるりと平らげ、これまた600円の展望温泉に入ります。
まだ桜が咲かず、観光客もまばら、「おおー!ラッキー!」と思いつつ露天風呂へ入ろうとすると、なんか子供とお父さん連中が端によるように入っています。
外へ出て理解、刺青の兄ちゃんがど真ん中にはいっていたのですね。
ちなみにこうした連中と付き合いのあった(私は昔法律に携わる仕事をしていました)僕はちっとも怖くありませんので空いている? 刺青のすぐ横に陣取ってさわやかな風と温泉の温かさを楽しみます。
その後はミストサウナそして再び露天とはいり、のぼせたところでギブ。
駐車場へ歩きながら菜の花と雑草を見つけて写真撮影。
さて、私の好きなまるきワインを2本購入すると、本日の最終目的地。
天目山へ向かいます。
天目山は武田家終焉の地。
景徳院には織田・徳川連合軍に逐われた37歳の勝頼、19歳の後婦人、そしてその16歳の息子
が眠っています。
何とも言えない気持ちで回っていると、なんと発掘隊がいます。
何でも武田を滅ぼした徳川が勝頼没後の200年後にかなり大きな葬祭を行っていたことが最近わかったらしく、お墓の下に5400枚の経石(お経をかいた石)が発見され、当時としては大規模なものであったことが分ったわけです。
発掘にはそれなりに費用がかかるらしく、国もお金がないんだね・・・・
来る方に1000円の寄付を募っていました、武田ファンの私としては喜んで寄付させてもらい、お守りを頂くと同時、これまた私を守ってくれるというお経の一文字「雨」を頂き(この文字に関わることが私を一生守ってくれるそうです)、新しい経石に筆と墨で文字を刻ませて頂きます。
次の大発掘捜査後に発掘した経石は埋め戻すそうですが、その時にこの寄付の経石も一緒に埋めるそうです。
次に明けるのは200年後になるそうです、僕はすでにこの世にいませんが・・・

その後400年の歴史有る門をくぐり、本殿にてお賽銭を投げると、「なんとー!」。
お金が中に入らず、箱の入り口の隙間に立ってしまったのです。
一瞬びびり、その後なんか超~!ハッピーな気分に満たされます。
何故かというなら投げたのは5円玉それが信じられないような確立で箱の中に入らずに立って見せてくれた、すなわち“ご縁が建った”ということです。






天目山の春

2008年03月30日 | Weblog
29日の日帰り旅をまとめました
春と言うことで、ふらっとお出かけ、まずは甲府の信玄堤を目指します。
僕は昔からの信玄ファンで、信玄にまつわるものをチャンスのある度に見て回っています。
中央高速を快調に走り、でも節約のために降りたのは勝沼。
バイクのツーリングならさぞかし気持ちよいでしょうが、花粉でブルーになるのが怖い。
国道20号線をテコテコと走り、信玄堤へ到着。
公園に車を止めて早速見学と相成ったわけですが、正直どれが堤なのか分らない。

そこで再度車に乗り違う場所へ移動して高岩を見ようとして迷走、
なんだかよく分らない?ということでもう一度もどって今度は川に沿って移動、
所々に堤と記述が有るもやっぱりピンと来ない。
「そんじゃ!」とまず高岩を見ようと信玄橋をわたって、御勅使川(みだいがわ)方向へ移動、
すると「有った! 有った!」
釜無川にT字型にぶつかる御勅使川の勢いをこのデカイ高岩にぶつけて威力をそぐというもの。
「なるほどー」と思い再度信玄橋をわたって堤方面へ移動、するとやっとここで理解。
現在川かわにそって作られている堤防に半分埋まるようにというか重なるように堤があったわけです。
工事自体は今から450年くらい前、20年の歳月をかけて人間が作り出した大きな
造成物。
自分が頭の中に描いていたちんけな想像とはスケールからしてまったく違うわけで、
だから分らなかったわけです。
この堤の技術を基にして現在の治水は設計されているとのことで。
目にみえる辺り一帯がすべて堤のためにあったという事実に結構な驚きを覚えると共に、当時の人口や土木技術・経済力をかんがえるならやはり武田家というのはスーパーパワーであったわけです。

次へ続く

天目山の春(旧日記より転載)

2008年03月29日 | 旅行等

娘はスクールの合宿へ行ってしまったし、春と言うことですから家内と共にふらっとお出かけ、行き先はもちろん私が勝手に決めますのでまずは甲府の信玄堤を目指します。
僕は昔からの信玄ファンで、信玄にまつわるものをチャンスのある度に見て回っています。
中央高速を快調に走り(家内はよこで思いっきり爆睡)、でも節約のために降りたのは勝沼。
バイクのツーリングならさぞかし気持ちよいでしょうが、花粉でブルーになるのが怖い。
国道20号線をテコテコと走り、信玄堤へ到着。
公園に車を止めて早速見学と相成ったわけですが、正直どれが堤なのか分らない。



そこで再度車に乗り違う場所へ移動して高岩を見ようとして迷走、
「なんだかよく分らない?」ということでもう一度もどって今度は川に沿って移動、
所々に堤と記述が有るもやっぱりピンと来ない。
「そんじゃ!」とまず高岩を見ようと信玄橋をわたって、御勅使川(みだいがわ)方向へ移動、
すると「有った! 有った!」
釜無川にT字型にぶつかる御勅使川の勢いをこのデカイ高岩にぶつけて威力をそぐというもの。
「なるほどー」と思い再度信玄橋をわたって堤方面へ移動、するとやっとここで理解。
現在川かわにそって作られている堤防に半分埋まるようにというか重なるように堤があったわけです。
工事自体は今から450年くらい前、20年の歳月をかけて人間が作り出した大きな
造成物。
自分が頭の中に描いていたちんけな想像とはスケールからしてまったく違うわけで、
だから分らなかったわけです。
この堤の技術を基にして現在の治水は設計されているとのことで。
目にみえる辺り一帯がすべて堤のためにあったという事実に結構な驚きを覚えると共に、当時の人口や土木技術・経済力をかんがえるならやはり武田家というのはスーパーパワーであったわけです。

うんうんと関心していると時間はもう11時半、歴史のことなどどうでもよい家内はお腹空いたーとごね始めます、およよと思いつつ仕方がないので次の目的地へ移動、下を走ると時間がかかるので再び高速に乗り勝沼へ移動して葡萄の丘へ。
腹が減ったので温泉卵付きの600円側をつるりと平らげ、これまた600円の展望温泉に入ります。
まだ桜が咲かず、観光客もまばら、「おおー!ラッキー!」と思いつつ露天風呂へ入ろうとすると、なんか子供とお父さん連中が端によるように入っています。
外へ出て理解、入れ墨の兄ちゃんがど真ん中にはいっていたのですね。
ちなみにこうした連中と付き合いのあった(私は昔法律に携わる仕事をしていました)僕はちっとも怖くありませんので空いている?墨のすぐ横に陣取ってさわやかな風と温泉の温かさを楽しみます。
その後はミストサウナそして再び露天とはいり、のぼせたところでギブ。
家内の方が出てくるのが遅いことが多いために私は趣味?(だったかな)写真を取るために駐車場へ歩きながら菜の花と雑草を見つけて写真撮影。
さて、私の好きなまるきワインを2本購入すると、本日の最終目的地。
天目山へ向かいます。
天目山は武田家終焉の地。
景徳院には織田・徳川連合軍に逐われた37歳の勝頼、19歳の後婦人、そして16歳の息子
が眠っています。
何となく自分の息子と思いが重なってしまい、まだ生きていたかったろうに・・・という何とも言えない気持ちで回っていると、なんと発掘隊がいます。
何でも武田を滅ぼした徳川が勝頼没後の200年後にかなり大きな葬祭を行っていたことが最近わかったらしく、お墓の下に5400枚の経石(お経をかいた石)が発見され、当時としては大規模なものであったことが分ったわけです。
発掘にはそれなりに費用がかかるらしく、国もお金がないんだね・・・・
来る方に1000円の寄付を募っていました、武田ファンの私としては喜んで寄付させてもらい、お守りを頂くと同時、これまた私を守ってくれるというお経の一文字「雨」頂き(この文字に関わることが私を一生守ってくれるそうです)、ちなみに家内は「除」でした。
2人で新しい経石に筆と墨で文字を刻ませて頂きます。
次の大発掘捜査後に発掘した経石は埋め戻すそうですが、その時にこの寄付車の経石も一緒に埋めるそうです。
次に明けるのは200年後になるそうです、2人ともこの世にいませんが・・・

その後400年の歴史有る景門をくぐり、家内が本殿にてお賽銭を投げると、「なんとー!」。
お金が中に入らず、箱の入り口の隙間に立ってしまったのです。
2人で一瞬びびり、でもその後なんか超―!ハッピーな気分に満たされます。
何故かというなら投げたのは5円玉それが信じられないような確立で箱の中に入らずに立って見せてくれた、すなわち神様と“ご縁が建った”ということですから

 

恐怖の教育2ー褒めて育てる・叱らない教育

2008年03月28日 | 研究-教育・育児
先の続き話として書きますが、褒めて育てる・叱らない教育がどういった子供を作り出すかという分かりやすい現実を、ほんのわずかですが具体的に書いてみたいと思います。

前の書き込みに家庭でやる手伝いの話をしました。
私は親の素直な感情を基にして子供と接していく事が親そのものを含めた多くのことを子に学ばせると書いていますが。

それではほめて育てる・叱らない教育ではどうなのか?という疑問が当たり前のように沸いてくるかと思います。

これらの教育もお手伝いをさせる事を薦めていますが、このとき“親の怒りというもの、及びそれを元にした叱る”しかるという行為を出来るだけ排除することが“良い事”とされています。

こうした事を薦める書籍では、そのほうが良いのだと書いていますが、そこには“嘘”が有ります、現実に引きこもりや非行の子を研究してきた私から見えてくるものを書いて見たいと思います。

お手伝いをすることはそこにさまざまな親と子の心の交流が生じます。
褒めてやらせようとする場合、親は自分のもつ怒りを含めた感情を無理やり捻じ曲げて接っする事になります。
心をけして表に出さず、親が演じ続けるということです。
それがいいと書いてあるからですが、こうした方法で接していくと子ども自身はなんら怒りを受け取ることが有りませんから、当然の事ながら怒りというものを処理する経験無く育ちます。

怒りを処理する経験をつまないということは、処理する能力が欠落しているということです。

さて、これってどこかで見たことありませんか? 
前の書き込みで私が書いた文の中にある、

自分の感情を無理に捻じ曲げて演技する姿、同時に怒りの処理法方が分からないということそのものということです。

つまりは親が不自然な接し方をした通りの人間に成長するということです

ほめて育てる・叱らない教育は、けして怒らずに何度もほめてやる気を引き出す事になっています。

私は親が本当にうれしいと思ったときは褒めろと常に言ってますが、うれしくなければ褒める必要などありません。
なぜなら普通だから嬉しくないわけです。

ところが上記の教育では、親が子供に“何かをやらせるため”の方法として逐一褒めるという事を使っています。
何かをやらせるは勉強させるというのがこうした本を買う人間の心理だと思いますが、違うでしょうね?

うれしいから褒めるのではなく、親が自分の都合よい目的の為に中身の無い言葉を子供に浴びせるわけです。

これは、自分勝手な目的の為に感情の無い言葉を平然と行使する手本を親が子供に押している事になります。

「こうして育つとどうなるか?」 というなら、友達にたいして自己利益のために中身の無い言葉を平然と使う子になるわけです。

何か自分の目的のために相手をほめたりしてやらせようという事をはじめとして、普通の人間なら恥ずかしくてやら無いようなことを、恥ずかしさを感じることなくやるような人間になるということです。

さらには褒められて育っている為に、自分は偉いのだという根拠のない万能感と優越感まで持ってくれます。

友達はこんな言葉をかけられても、そこに中身のないことぐらい判りますから、当然に嫌がります、しかし当の本人はそれが常識であってどこがいけないのかすら分からないということ。

はいこれ!、完全に苛められる原因の出来上がりということ、いじめは不快を基に発動する人の自然な感情、不快が有るから苛めになっていくわけですが。
そこに高いプライドが加われば自分を省みることなど消してしません。
常に他人が悪いわけですから。

幼い頃からこうした恐怖の教育法で育てられれば、それがその子の人間性になっていますから治し様が無い、あいかわらず相手に不快をあたえ続けたあげく苛めは過酷になり永遠に続くサドンデス状態となる。

ここで更に大きな問題になるのは、自分が原因で友達が怒って攻撃されるこうした状態になっても、怒りに対しての処理能力そのものが全く育っていませんから。

反射的に切れて重大問題を起こしたりする子もいれば、他人の怒りに恐怖を覚え、防御の為に自分の本心を隠して捻じ曲げて別人格を作り出して演技という形で必死に自分をまもることをはじめます。

攻撃されない為に演じるわけです

演技し続けることは苦痛以外に他なりませんから、当然に心は張り詰めますし疲れ切ります、そしてある日些細なことを原因として、本能が防御の為の回避行動をはじめる。
耐性が弱ければ早期に引きこもりという形をとり、耐性が高かれば頑張るだけがんばり、理性の制御限界を超えると切れるどころではない規模の、外部攻撃という形となって現れる。

引きこもった子もそこから脱することが出きずに苦しみ続ければ、限度ぎりぎりまで耐えたあげく、やはりドカンと出てくる。

褒めて育てる・叱らない教育は20年ほど前なら家庭の中で収まっていただけで学校や社会は相変わらずきびしかった。
ところが教育評論家と教育学者の宣伝、マスコミの煽動にのせられて一切の厳しさを家庭と学校教育の全てから排除。

こうして叱るということを全て排除した教育が生み出した結果生まれてきたのが、
200万を越えるといわれる引きこもりと、400万と言われるニートたちということです。


欠落する怒りの処理能力ー突き落とし殺人・8人殺傷・荒れる8人の中学生ー原因は全部同じ

2008年03月28日 | Weblog
またか・・・・と、なんともいえない無力感と空しさを覚える事件が起きてしまいました。
ついこの間は8人殺傷事件、そして今回は岡山の突き落とし殺人です。

マスコミ1社だけの情報を鵜呑みするほど危険なことは有りませんから、出来るだけ多くのメディアから情報を読み取ってみましたが、今回は大人しくて勉強の出来る、大人からすれば理想的に見える子が起こした事件であるということ。

青少年事件が起きるたびに「なぜ?」、「どうして?」と盛んに論じられるわけですが、事件の考察が難しく思えるのは“常識(当事者の心のバランスが普通に取れている)?”を前提として考えているからなのですね。

こうした問題は、脳幹を中心とした人の本能というものを中心にすえて考えない限りは分かるはずもないのです。

現場から教育研究をしてきた私から言えることは、二つの事件に完全共通しているのが、あきらかな怒りの処理能力足もしくは欠落ということです。
これは精神異常でもなんでもなく、育つべきものが育ってなかった、もしくは訓練不足ということでしかありません。

人は生きているかぎり、人的、社会的に何がしかの影響をうけ続けるものです。
当然のように怒りの沸くことは多く、しかしながらそれを“自分の進歩の為の怒り”へ転換し正しい方向へ生かしていく処理が出来ねば生活すら出来なくなります。
ほとんどの人はそうした事を無意識のうちに行いながら毎日を過ごしているわけです。

はじめに起きた8人殺傷の方ですが、ゲーム脳の特有の症状を伴いつつ自ら閉鎖を造り上げているところにきて、沸いてくる怒りを正しい方向へ生かすことが出来ないという処理能力の欠落が相乗、その結果本来なら自分を守るために発動する”防御本能”が他者殺傷として現れただけの事。 

次の突き落とし事件ですが、本質は上の事件とまったく同じです。
ただこの青年の場合、大人の都合にあわせた人間を演じることで自分を守り(明るくてやさしくて、大人の思うとおりで成績もそれなりに良い)けして本心を剥き出しにする事が無かったというのが違いですが、演じていること自体がすでに閉鎖状態(限界一杯)なわけです。

なぜなら、演じ続ける事が、彼にとって周りからもたらされる理解出来ない恐怖から自分を守る最良の手段であって、そうした演技をする報酬として周りが自分の思うとおりに評価してくれたり、施しをしてくれることで心を保っていた。
心の処理としては双方向に見えても実は片方向でしかないわけです。

とうぜんに演技によって別人格を構成し続けることは楽なものでは有りませんから、つじつまあわせのために持てる全精力を注ぎながら毎日を過ごします。
高校から大学への進学という夢が崩壊した時点で限界を迎え、今回の事件が起きたわけですが、この青年の心の耐性がもうすこし低かったなら、もっと早いうちに引きこもりという形となって現れていたでしょう。

こうした常時緊張状態の中でかろうじて心を保ちながら生きている者達にとっては、爆発のきっかけは些細なことが多いものですが、そのときは張り詰めた糸が勢いよく切れるように大きな問題をおこします。
だから引きこもりの子等が起こす事件は重篤なものが多いわけです。

多くの人達には理解できないことだと思いますが、真剣に演技し続けていた青年にとっては、「こんなに苦しくてつらい思いをしているのに、なんで分かってくれないんだ?」という思いで心は張り詰めていたであろうことは、私には痛いほど分かります。

本来、思うとおりならないことが世の中では当たり前であり、
「経済的理由で大学を諦めなければならなかった」という事が今回の突き落としの理由の一つ」と語る青年からは、やはり自分の我侭が通らなくなる状況になって湧き上がる怒りを適切に処理できないという、初めに書いた事件の青年と同じ能力的欠落が事件を起こしているわけです。

上記の二つに間違いなく共通しているのは、社会という漠然とした敵?に(単に思うようにならないだけのことですが)自分をはばまれてパニック(糸が切れる)となったことで心が逃げ口を探した挙句に引き起こされた事件であり、そのものは難しくもなんともありません。

漠然としたものが相手だったわけですから、対象はきっかけとなった社会、故に“社会を構成していれば誰でも(なんでも)良い”わけです、もしパニックになるきっかけが親なら、両親に刃物を向けていたでしょう。

彼らのほうからすれば、自分を苦しめるものから当たり前のように自分を守った(彼らにしてみれば正当なわけです)というのが言い分ですから、それが両者に共通して全く反省のかけらが見られない態度としてあらわれているわけで、また理由です。

こうした事件の解決糸口を探ろうとするときは、心の基本的耐性と処理及び本能に絡んだ問題ですから、怒りの処理の成立そのものを考えない限りは、いくら大人の常識を持ち出して「あーだ」「こーだ」と原因をさぐってもわかるはずもない。

もとをただせば単に怒りの処理能力を幼少の頃から適切に育ててこなかった事に起因しているわけですから。


ここで面白い関連をあげてみたいと思います、一見無関係なように見えるかと思いますが、実は福岡の荒れる中学で問題となった中学生8人が、中身において上記の二つと完全に同じであるという事にお気づきでしょうか?

それが最もよく分るのが、問題の生徒がマスコミの前で演じていた姿と、昨年12月に警察や補導員らで作る非行防止のプロジェクト関係者と山へのハイキングへ行った時に見せた素直でいい子な姿(違う報道)に見いだせるわけですが、一見するとまったく相反する姿であることから、普通の人は後者の素直な彼らが本当の姿ではないか?と惑わされてしまいます。

しかし両方とも大人向けのアピール演技でしかなく、この両極端な姿の中に存在する本当の姿というものがきちんと有るわけです。

ちなみにこの中学生達の主張たる言葉?をあげてみるなら、「先生は汚い」、「放し飼いだ」、「言っていることが違う」、「人をみかけで判断する」、という程度のものでしかなく、発する言葉に見合うだけの“自分をかえりみる姿勢“がまったくありません。
そこから何が見えてくるかというなら自分の我侭が通らぬことで湧き上がる怒りを適正に処理する能力がやっぱり欠落しているということ。
つまりは自分達の主張(我侭)は正であり、怒りを自分達に都合良い甘やかしをしてくれない先生達のへ批判に向けているだけということです。

本来なら、「先生は汚いとおもえば、自分のやり方はどうなのだ?」という自身への問いがあり「放し飼いと思うなら、自分で自分を戒めればよく」、「いっている事が違うと思うなら相手の気持ちを察し」、「見かけで判断するというのなら、そういった判断をさせる姿をしている自分に覚悟と責任を持つべき」ということなのですね。

彼らの思考構造は上記の二つの事件とまったく同じであり、まずは自分が思うようになるべきだという考えがあって、やはりそうした自分の我侭に相手が応じてくれないことで発生した怒りを自分で適正処理することができないというのが特徴。

同時にそうした自分をコントロールする力が育っていないことから、逃げの姿勢になり、追い詰められれば本能が防御の為の外部攻撃をさせる。 
本件あわせて3件は全て同じことが原因となっているわけです。

ただ、この子達の場合、孤独になることがなかったのと、随所で発散できていたのと、先生という明確な対象がいたことで収まっていたという事、それだけが違うということです。
もしこの生徒一人一人が孤独であったなら、はじめの2件と同じ道を歩んでいたことと思います。
なぜそれが分かるかというなら、報道の中にある商店街やその他の人たちの話、
一人だと大人しくて面倒見がよく“いい子”だったという共通した表現、そこにそのまま本質が有るわけです。

人間のもちうる感情のなかでもっとも処理が難しいもの、それが怒りの感情、故に親はそれを正しい方向へ変換する事の出来る人間へと育てなければなりません。

バランスのとれた豊かな心は、幼い頃に正しく叱ることで備わるという話しは前にしましたが、親は子を育てていく過程で適切に叱り、適切に褒め、適切に考える力を養わねばならないわけですが、「具体的にどうしたらよいのだろうか?」とみんな思うわけですが、一番簡単に実行できる方法は幼少期から家の手伝いをさせること。

「やってくれる?」ではなく、これとこれはあなたの仕事として担当させることです。
食事を作る、部屋のかたずけ、便所掃除、洗濯、風呂掃除、買い物、親と供に出来ることなら何でも良いわけです。

絶対に重要なのはけして“面倒だと親が思わないこと”、でもこれって以外と多くの親に出来ないのですね。

叱らない教育・褒めて育てる教育などという恐怖の教育法を最良と信じ、親の自然な心を捻じ曲げてまで都合よい子を育てようと努力できる親はたくさんいても、

・ 手伝いされるとわずらわしいから
・ 自分がやったほうが簡単だから
・ そんなことより勉強でもしてくれたほうが

ということを平気で思う親がたくさんいるのもまた事実。

しかし子供は、そうした思いをそのまま“自分は面倒な存在なのだ”としっかり学んで成長しますから、それが思春期になれば親を信用せず、携帯電話に異常な執着心を持ちメールのなかに自分の存在場所を求める姿になったりする。

なぜ手伝いが良いかというと、そこに家を中心とした親と子の明確な共通認識たる空間が存在しているからであり、それはけして一方的ではないということ。
それに対して褒めて育てる・叱らない教育は全て親側からの一方的働きかけにほかなりません。

子供自身は感情の赴くまま素直に親へ体当たりしてきます、だからこそ心がそだつわけですが、親は親でそのまま素直な心で受け止めるのが最良。
しかし上記の教育では、自分の都合よい目的の為に本来の感情をねじ伏せて接っしなければならない、それ自体がすでに異常なわけです。

すでに人格の完成された大人とは違い、子供は一次的なものしか受け止められませんから、裏にある親心などいくら愛情を注いでも受け取れるはずも無い事を忘れてはなりません。

ちなみに適応行動認知学で効果が確認されているといって、褒める教育・叱らない教育を薦める理由にしている愚か者がいますが、適応行動認知学そのものはデータを採取する検体の心のバランスが取れていることを前提にしています。

心そのものを造り上げる事は適応行動認知学とはまったく関係ありません、あくまでも出来ている心をもとに統計をとる学問だからです。

故に大人であれば褒める事は効果をもたらします(当然のこと)、しかしそれを人の心そのものの形成に当てはめようとしても、出来ていないところに結果だけもとめるという反射的行動を、親の都合でねじ込むということそのものに他なりません。

困った事に“何々学”と言う聞きなれない言葉を耳にすると、それがあたかも正確なように認識してしまうのはこれも本能のいたずらですが、実際教育に関しては非常に多くこうした認識があるので困ったものです。
まあ、僕も疑問をもつ以前はそうでしたが・・・。

というか、上記のような事も分からずに、適応行動認知学を基にどうたら言っている教育評論家や教育学者が多い事に私は驚いてしまいますが・・・

話は戻りますが、手伝いがうまく出来ない時(それが当たり前です)は親が手本を示しながら、必ず子供と一緒にやる。
子供が放棄や怠慢をして、それが不快で怒りが親の心に沸けば“その感情のまま”叱ればよいわけです。
怒らず冷静になど必要有りません、心そのものを育てているのですから。

*冷静になる必要があるのは、自分の心を中心して他人の心察する能力がつき始める
思春期が近くなってからのことです。

例をあげればトイレ掃除は親がまず何度もやってみせ、次に教えながら一緒にやる、だんだんと任せていく。
そこに有るのは親の姿と心、親との共同作業の意味、清掃の結果と清涼感というすべて直接五感に訴えてくるものばかり。

親が口先で褒めてやらせる事とはまったく異なる、子供が自分自身で感じる進歩に必要な経験の一歩です。

当たり前のようにトイレという場所は家族の共通認識そのものであり、そこに清掃を通して親という存在、自分という存在、言葉と行動、さまざまな感情、そして五感へ染み込んでくる感覚のすべてがある。 膨大な学ぶべきことが手伝いという簡単な事の中に存在しているのです。

親が掃除の結果を見て、上手く出来ないのは叱るべきことではありませんので、何度でも一緒にやって教えればよいわけですが、先も書いたようにそれが明らかに放棄や怠慢であると判断できたときは“当たり前のように叱ること”が肝心。

もし逆に、掃除の結果に親の教えた範囲を越える工夫が見られ、それが親にとってうれしければ素直に褒めればいいわけです。

叱る時は叩くことさえあるでしょうが、「心が傷つく?」 けしてそんな事はありませんよ、幼い頃から親とやっていればです。

傷つく原因は、幼い頃からのこうした親との心のやり取り無しに育ち、いきなり叱られる経験をすると心が処理できずにおきます。
とうぜんに褒めて育てたり・叱らない教育という教育等をしていれば更に激しく更に深い傷として起きます。

今出来ずともやがて出来るようになるように、親の叱りの意味をはじめこそ解らずにいても、成長に合わせてだんだんと理解していくようになる、そうやって心が育つように人間は出来ているわけです。
心も鍛えることで伸びる訳で、子供の能力と力を見くびってはなりません。
子供の受容能力はすでに完成している大人とは比べ物にならないくらい高いものですから。

やがて大きくなり思春期が近づき、反抗期が来れば手伝いを当然にやらなくなってきます、ただそれは至極当然のこと。

このときまでには親という存在と心を読み取る能力が十分にそだっていますから、慌てることなく正しい事は正しいのだと、間違いは間違いなのだと親の姿勢として有ればよいだけで、子供は反抗はすれどもも、それが正しいという事はきちんと受け取れるようになっているのです。

顔は向こうを向いていても、耳は常に親の言葉に向いているということです。

最後に、私が学習のためにお付き合いさせていただいている施設は、引きこもり、非行の子達を分け隔てせずに立ち直らせています。

* 研究は学習の後に私が独自でまとめただけであり、子供たちと接する時はあくまでも学ばせていただいている立場です。
子供達は研究の為の実験体ではありませんから。

もう5年近く研究をしていますが、どの子も単に道を踏み外しているだけのことで、本来は普通の子。
みんな元気になって羽ばたいていきますが、時折上手くいかない子もいます。
私が見ていてその最大の特徴が、叱らない教育・褒めて育てる教育という、いうなれば怒りを正しい方向で処理出来る力を放棄した教育を受けていた子達なのですね。

何しろ怒りというものは自分を破壊する為だけの物として(暴力)しか受け取れない人間に育ってしまったわけですから。



ヒステリック

2008年03月25日 | Weblog
事故をのあったイージス艦の当直をしていた自衛官が自殺を図ったという報道がなされていました。
このニュースを読んで皆さんはどう思われるでしょうか?
ざまー見ろ、いい気味だ、そんな思いになるでしょうか?

数日前の8人殺傷した事件、現場の警察官も大怪我をしているのに、
マスコミから流されるのは警察批判ばかり。

災害の現場に駆けつけ、だまって救助と支援をしている自衛官達、普段私達の生活の見えないところで日夜守り続けてくれている警察官達。

そりゃ私だって交通違反で捕まれば腹も立ちますし反発したくもなる、しかし、そうした個人的感情はあくまでも個人の範囲で納めるものであり、社会という公益を考えるときは、そうしたみみっちい感情は切りはなして考えねばなりません。

イージス艦事故の時面白おかしくマスコミにより報道されましたが、今度の事件もまたしかり。

いつの間にマスコミは感謝という言葉を忘れてしまったのでしょうかね、
私達の毎日は、目に見える人たちより、その何十倍も多くの見えないところにいる人達によって支えられているわけで、
そうした視点に立てば、自分達がいったいどういった報道をすべきかということは見えてくるはずなのですが、そうではない・・・

イージス艦の事故は原因解明と次の事故が起きないように努力することがなにより大切、ワイドショーを見ていた人はお分かりかと思いますが、まるで横暴なイージス艦が漁船をねらってぶつかっていったかのような言い回しというか、誘導としか思えないような報道をしていたのがやたら強い印象として残っています。

*その点ブログや2chあたりではしっかりした論議がされていて、その流れをみたマスコミがやばいと思ったのか途中でみんな黙りましたが・・・

本来報道は起きた事を出来るだけ正確に伝えるだけに留まり、公益的な見地からマスコミが歪曲、ねつ造しておもちゃにするものではないはずですが、
今回の事件もそう、何十万人が移動する移動する大量輸送手段としての鉄道から、しかもどこからどうくるかも分からないたった一人の人間を瞬時に見分けて完全な逮捕をすることがいかに難しいことかは、自分が駅の改札に行ってみればわかることだし、もしわかったとしても逮捕時に刃物を振り回す者相手にどこまで出来るかを考えれば限界というものは誰にでも分かるものなのです。

もし更にこのとき更に第三者が怪我でもすれば、更にマスコミは喜ぶでしょうね、現在の動きは、どれだけ警察を面白おかしく悪い方向で報道できるかということばかりを競っていて、本来こうした事件が起きた「なぜ」を突き詰めて考えようという姿勢すらありません。

あいも変わらずマスコミは安っぽいわけですが、こうした報道がなりたつ背景はそれを喜ぶ人間がこれまた途方も無い数でいるのも事実。
報道をある意味信用してるわけですから、素直といえば素直、しかし何も考えていないといえばそうでも有る。

以前こうしたあまりにもお粗末で報道自制ができない事に痺れを切らした安倍政権が検討していたのがこうしたマスコミ報道への大幅な規制と放送免許取り消しを含んだきびしい制限でした。
とうぜんですが、歪曲とねつ造をうまくやればやるほど利益になるわけですから、それに危機感を覚えるのが普通、得意の悪口書きまくりによるバッシングと政権叩きという得意の手法を展開。
それに簡単に乗せられた者達が安倍さんを引きずりおろして選挙投票した結果が今のねじれ国会ということです。

きらめきの季節

2008年03月24日 | Weblog
暖かくなりました・・・、小雨のまじりの朝、空気をバイクで切り裂いて走る感覚は、明らかに冬とは異なり、春の訪れと自然の恵みを感じさせてくれます。

ジャケットのインナーをはずす日もすぐそこに来ているようで、花粉さえなければルンルンなんですがねー。

前も書きましたが、そろそろウインドサーフィンの季節、今年は4月中旬頃から初めようと思っています。

ウインドサーフィンそのものは真冬でも出来ますが、自分の場合は楽しんで乗れる事が最優先、無理をしてまで乗ろうとは思いません。
夏を除く秋冬春は防寒性に優れるドライスーツを着て体を保温をしますが、自然をなめていると大変な事になります、構造的な問題でマストが折れれば走行不能になるのがウインド。

海上ではどんなに叫んでもうねりにかき消され、潮の流れは馬鹿に出来ないほど早いですから、真冬に流されることがあれば30分で全身が冷え切り、数時間後には命を落とす事になります。
レースをやるような人達はグループでやっていますからそうした心配はありませんが、単独では常に危険と駆け引きなのマリンスポーツの怖さでもあるわけです。

命あって何ぼですからね (^^)V

太陽が強くなって、海面が優しいきらめきで満たされるこの季節に乗り始めるのが最も楽しいのです。

ナビのアンテナが壊れた

2008年03月23日 | Weblog
ウインドカーのシボレーじゃなくて、足代わりのパジェロミニ(軽)に取り付けていたボロナビのアンテナが壊れました。 
まあ、古いので仕方有りませんが、なおさねばなんの役にも立ちませんから早速修理。

まずジャンク箱から、使えそうなアンテナを探してきます。
GPSアンテナは、“基本的仕様”が同じであれば、どこのメーカでも
使えますので、多少強引ですが改造を施して使おうというわけです。
これまでつかっていたのがAZZEST、そこにPanasonicアンテナを移植します。
注意:アンテナ素子の違い等、全メーカのアンテナを全て調べたわけでは有りません。 電圧だけでも5V、3.3V、2.5V?と違ったりします。
当然のことですが改造には電子工学の知識が必要です
ゆえに本ブログを見て真似をしたことで発生するいかなる問題に関しての責任は、当方は一切持ちません。 やる方はあくまでも自己責任でお願いします。

不要な長さのをカット、必要な長さにしたら、アンテナ側とコネクタ側の配線末端を双方ともむいてハンダで接続、後は熱収縮チューブを
二重にかぶせてヒートガンで包めば終わりです。

テストして無事動作確認、約1万5千円の節約となりました。

恐怖の教育法である、誉めて育てる・叱らない子育て

2008年03月22日 | 研究-教育・育児
ある掲示板での青年の問いに、私が答えたものを再編集して載せました。

引きこもりの子などがよく言う、人の目が気になる、人が自分をどう思っているかが分からない(怖い)という心に関してですが、それそのものは他人の持つ怒りに対してのおびえが根底にあります。

おびえが引き起こす一番顕著な例は引きこもりですが、この問題は誉めて育てる・叱らない教育の台頭(今から25年くらい前から)と共に、
”それを受けてきた子達が思春期に入り始めたこの15年”くらいの間に爆発的に増えてきました。

「なぜ?」を解き明かすには余りにも少ない文量ですが、一部分でも分かると全体を理解する足がかりになるので、とりあえず載せました、興味の無い人には退屈かもしれません・・・(^^;)ごめんね




人の持つ感情(喜怒哀楽)のなかで、怒と哀は特に心のエネルギーを消費します。
怒りは自分に向けられれば、普通は防御をします。
それが単なる“破壊目的だけの攻撃(これを暴力といいます)”であるのか、それとも違うものなのか、という事を瞬時に判別することは大変に難しいものです。

怒りは激しい感情を基にしていますから、それを傍から他人が見ている限りはと攻撃しているようにしか見えないことが大半です。

では、なぜそれを“破壊が目的”か、“進歩させるのが目的(思いやり)”であるのかと切り分けることが可能なのは、幼い頃に親から叱られる事が原点(基礎)となっています。

親の怒りは、子供を育てていく上での進歩を目的としています。

注意:最近はそうでない親が増えましたがこれはいずれまた紹介します。

子供は心を読み込む能力がまだ未熟ですから、それが親の思いを込めたものであったとしても、まずは破壊目的の怒りとして捕らえ、故に泣き喚き、地団駄ふみ、怒りによる不快から必死に逃れようとする。

これが普通です。

子供の思考は基本的に自己中心です、自分のやっていることの善悪が分からずにやることも珍しくはありませんから、そこで親が見ていてこれは悪だ、もしくは誤りだと思えば叱る。
なぜ親が叱るかというと、子供のそうした行動に不快を覚え、不快を感じれば怒り引き起こされるという至極単純なもので、又それが叱るための原動力になるわけです。

が、その怒りはあくまでも子供を正す(進歩が目的)事に有り、故に叱っておきながら泣き喚く子をみて動揺することもありますし、一緒に泣きたくなることもある、破壊が目的ではないからです。
これで良かったのかと激しく自問自答を繰り返すことだってあります。

そうした親の心を支えるのは、叱る目的が正義であるということ、すなわち進歩の為(子供のため)であるという意識、および規範が親を支えてくれるわけです。
心が揺らぐのは叱られた子供だけではなく、親も同様かそれ以上に激しく揺らいでいるわけですね。

元々、正義の判断基準となる善悪に関しての定義そのものは、その時代の社会的背景を基にしており、人は生きていく為にその社会に適応した善と悪の基準を身に付けていかねばなりません。

実は子供を育てるということ、それそのものは、社会に適応出来る人間にするための型へはめるということそのものでしかなく、当然に数学、国語、英語、理科、社会、こうした基礎的学問を習わせることを含めた学校自体がすでに型そのものであり、法律は社会ルールという型、社会は安定した生活を送るための型そのもの、道徳も人のあり方という型を探ること。

生きるという事そのものはそうした型を、自分がどうよい方向へ発展させていくかという探求でもあるわけです。

さて先ほどから何度も書いている怒りですが、それそのものは大きく二つに分かれます。
一つはそうした”型”を粗末にしている姿を見て起きるものがまず第一、簡単な礼をあげれば器物破損、規則違反、いじめ、強盗等。

そしてもう一つ忘れてはならないのが人の本能に反した場合に引き起こされる怒りというものがあります。
これは生物としての生殖、生存そのものを脅かされた時に引き起こされる怒りです。

ではこの二つの怒りそのものはどこからくるのか?というなら、本能と同じ脳幹から発せられ、それに大脳新皮質が更なる処理を加えてさまざまな(豊かな)怒りを
人にもたらしているわけです。

脳幹は一番古い脳と呼ばれており、本能はそこから発信され、同時に感情のなかでも怒りをつかさどっています。 
大脳新皮質は喜び安らぎ悲しみを担当しますが、脳幹と明らかに異なり怒りの感情そのものを発っしません。
というのは、まだ人間が下等生物だった時代に、生きていくための行動を起させるエネルギー源としてシンプルな怒りが必要だったからで、これはほとんどの生物に共通で、下等生物になるほど本能と怒りの力を借りて生きているといって過言ではありません。

このように本能と怒りの感情は同じ所から発せられる構造的になっているわけです。

それゆえ怒りを適正にコントロールするには脳幹が正常でなければならず。
突き詰めれば生きる力の源そのものであり、すなわち脳幹の正常化=脳幹の上に乗る大脳新皮質の思考が正常化=一番難しい怒りの感情の正常化=心の正しいバランスが取れる様になる=喜怒哀楽が豊かになる=豊かな人生という相関関係が成り立つわけです。

親の子供に対する怒りも、それそのものが怒りの存在している場所である脳幹から種族保存本能(=愛)と一体になって湧き出してます。

さて、ここまでは親の側ですが、それでは「子供の側はどうなのだ?」という疑問が湧いてくるかと思います。
実はこれもきちんと受け取れるように本能がプログラムされているのですね、皆さんも間違いなく経験しているはずですから、この先読み進めていくと
「あれがそうだったのか!」と思うでしょう。

子供は親からの”正しい怒り”を、どのような形であっても“叱られる”という経験を通してきちんと受け取れる様になっています。
典型的な例ですが、子供は時折、その行為が間違っていると分かっていながらあえて行うことがあります。
まるで親に叱られたがっているかのようにです。
が、別の見方をすればこれは親(愛情)を試しているとも言えなくはありません。

親は間違いを見つければ、当然に子を叱ります、これまた当然に子供は泣き喚いて抵抗します。

しかし、本能そのものは <生き残り為の適正な愛(種族保存本能)を、きちんと親から授けられている>と叱られることによる対立感情で心が満たされている時もしっかり読み取っていて
、やがて一次的な怒りの起伏が収まってくるのと引き換えに「うれしいような、甘いような、親に対する親しみの感情がふつふつ沸きあがってくるように出来ています。

これが最も大切なことで、親の本能による、子供の本能に対しての重要な無形愛情伝達であって、これを欠かすと後の人格形成に莫大な影響を与えます。

叱られること、それそのものは単なる不快、しかし、そこに人の本能がもたらす不思議な無形の愛情伝達がある。

叱る、叱られるという双方の行為を通じて本能でプログラムされた愛情伝達を行い親子の心が溶けて絆が深まる。
親は子供を慈しみ、子供は親を知り、信頼し愛情を受け取る。

叱るということは、それほど大切なものなのです。

こうして本能が受け取る親の愛を基にして幼少期を終え、基礎的な心の結びつきを学ぶと、だんだん親元を離れながら、子供同士という社会の中に飛び込んでいき、やがて破壊目的の怒りというものを経験的に学んでくる。

幼年期から反抗期終了までを一つの区切りとして、判別の基礎を学びながら成長し、反抗期を潜り抜けることで大人へと成長していくわけです。

故に、逆説的に子供の心を育てるのではなくて破壊する(もしくは破壊される)という視点にたってみると、
その方法は簡単に見つけ出すことが出来そしてそれは大きく3つ程有ります。

これは今の教育問題の根本がどこにあるかをわかりやすくするためにあえてあげています。
良くするより悪くするほうが簡単ですから、それゆえその簡単なほうに無意識のうちに流れていってしまう人間の弱さというものが何をもたらすかということはこういった多方面の考え方をすることで現れてくることもあります。

まず一つ目、
親が自分の我侭や私利私欲を満たす目的を“子供の為”という名目にすりかえて叱る場合。

例をあげると、若いお母さんのがお箸の使い方が誰々ちゃんより遅いからとか、まだお漏らしをしていてほかの子よりオムツが取れるのが遅いとか、それを怒りにして叱っている(これを躾とはいいません)話をよく聞きます。
はい、これ完全な “虐待” そのものです。
理由はとても簡単、怒りの根底がすべて他人の子との比較にあり、自分の思うように行かないと言う、たんなる愛情のはき違えだからです。
以前息子を医学部に入れるのだとして殴るけるの暴行(これは体罰とはいいません)を加えて、「お前のためだ」と常識外れた方法にて勉強を強制するのも完全に親の私利私欲であり、愛情その物を履き違えています。


次が、
育児放棄と同時にある怒り、この場合、育児放棄すなわち子供を育てるという本能自体が正常に動いていませんから、当然に叱るという本能から来る愛は一切ありません。
叱るではなくて、この場合すべて“虐待”となります。
子供を育てるということは、人が脳幹から沸いてくる愛(種族保存本能)により発動されるものだからで、それが無い場合は違った意味になります。
よく非行少女が妊娠して子を産み、その後育児放棄をすることがあります、これは少女が人の愛を欲っする自分の心を、子を産み自分が愛情を注ぐ姿を自分に対しての愛として代用補充しようとする場合に見られる行動で、この場合、相手が誰でもかまわない事も多々あります。
当然に本来が自分の為に生んだわけですから、自分が満たされねば目的をうしない、育児放棄することが珍しくありません。


最後が、叱らない教育、褒めて育てるという、先に書いた本能がもたらす一番重要な親と子の間の無形愛情伝達を、

”親が意図的に放棄する”という恐怖の教育法です。

これまで書いてきたように、叱るということは非常に大切な親子の愛情伝達であり、また怒りという感情を将来適切に受け取り理解するための重要な基礎となる
ものなのです。
それを放棄してしまうという、言い換えるなら親の愛情を受け取らずに子供が育つという事そのもので、親の愛情を受けるべき年齢で受け取れねば、成人しているのに親離れが出来ない人間になる、もしくは極端な形となって現れる。

喜怒哀楽はもっとも難しい怒りや悲しみの感情と喜び安らぎの感情がバランスよく成立することで初めて安定した心となる。
そのなかでもっとも難しい怒りを学ぶことを失わせる誉めて育てる・叱らない教育というものが、いかに人の自然な本能を無視した教育法で有るかということを
お分かりいただけましたでしょうか...

江戸

2008年03月20日 | Weblog
江戸東京博物館

雨の降る中を両国まで行ってきました。
僕は元々歴史好きで、特に戦国時代の後半50年は群雄割拠、人の心が入り乱れて歴史を作り上げてきた時代として、ある意味憧れのような気持ち?すら持っています。
この時代はさまざまな出来事に関する詳細な資料があまり存在しておらず、でも結果としての事実はあるわけで。 謎が多い事から想像が大いに許されるものこの時代。
だから楽しいのですが、今回はそれよりもっと今に近い時代、江戸から昭和。
このあたりになるとさほど魅力は感じていなかったのですが、それが誤りで有る事を痛感させられるものがたくさんありました。
館内を回っていて特に注目したいくつかを紹介。
まずは、上水道設備、当時の江戸には自然の落差を緻密に計算して出来上がった水道網が完備されていた。
水道施設があったことは知っていましたが、その構造が素晴しい!

ポンプで水圧をかけることができませんから、自然の落差で上手く水を流さねばならない、井戸は普通の井戸ではなく、この水道網からのくみ上げ点(場所)で、それは地価の木製櫃(管路にあたる)を通じて配分されていた。
その工事は地下4mにも及ぶ埋設という工事。
計画、工事、記録、そしてメンテナンスという面で、驚くべき技術としか言いようがありません。

次が出版物。
なんと貸し本屋が江戸には当たり前のようにあった!?
幽霊話から歴史話まで各種さまざまな本がそんざいし、なんと豆腐料理100選、大根料理100選というように、今の女性が手にする料理本にあたるものまで存在していたという事実。
これはまた、当時の江戸における男女の識字率の凄さを表しているわけです。
書物は当然の事ながらたくさんの漢字が常用されており、それを当たり前のように読みこなしていたわけですから、当時の世界における識字率を考えるならぶっ飛ぶような高度教育を当たり前のように子供たちは受けていたわけです。
これが明治維新になり、アジアでただ一国だけ唯一植民地化されなかった大きな理由になるわけですね。

更にブロックごとに計画構成された町という概念、
ブロックは夜に門が閉じられ、火災と防犯をしっかりとコントロールしていた。、火災の際にはそのブロックが消失しても他の区画に及ぼす被害が最小限で済むように考えられ、人々はその中で夜を安心してすごすことが出来た。

最後は水路と陸路を整備し、娯楽から生活のすべてにわたる計画の下に都市が作られていたということ。


午後からの3時間という短い時間でしたが、ざっと見て歩くだけで、これだけのことが学べたわけで、もっと詳しく調べたいという意欲を強く沸かせるところでした。

しかしいつも思うのですが、あの筆書きで残されているさまざまな記録。
自由自在に読めたらなんと楽しいことだろうか・・・
そう思ってしまうのは僕だけでしょうかね。



痴漢でっち上げ大学生

2008年03月19日 | Weblog
僕個人としては力一杯張り倒してやりたい気持ちになるのですが・・・

ただ、こうした感覚を持つ者は私以外にも多数いるでしょうし、そうした
思いをそのまま書いている人もたくさんいますので、起きた事そのものに
関しては今更何か書こうとは思いません。
それより事件を起こした本人に関わってきた人達の方が気になります。

特に“まともな親だったら?”どんなに悲しい思いをしているだろうか、
そう思うと胸が張り裂けるような気持ちになります。

法学部の学生ということですが、なんでも自分のブログには、将来に対する
壮大な夢(妄想)を持っていたらしきことが書かれていたとのこと。

事件を起こした事で、第一印象が私達の頭に創られ、続いて興味を刺激
する為の報道合戦が始まり、だんだんエスカレートしながら歪曲報道に
変化しながら僕達の眼や耳に届いてくるわけですが、

「果たして普通の青年と彼との違いがどの程度あるのだろうか?」と考
えてみるなら、最近よく見られる若者の顕著な傾向としての、

「善悪の区別すら付かないほど幼い心」ということになります。

オレオレ詐欺や、振り込め詐欺などを行っている連中を捕まえてみれば
普通の大学生だったりする事は今や珍しくなく、本屋の万引きは高校生、
コンビニなら中学生や小学生が普通?

元をたどってみれば、“優しい子にする”のだと一番大切な幼少期に
母親から叱られる事無く育ち(褒めて育てる・叱らない教育とやら)、
学校で問題を起こせば教育の仕方が悪いと先生に怒鳴り込み、
万引きしたと連絡あれば「家の子だけじゃないから!」と開きなおる。

父親が事を知って“怒鳴ったり、叱り付けたり、場合により体罰”
という当たり前の事が嫌だからと、子供と指きりげんまんして事件を
封印。 そして毎日繰り返される父親の悪口。

そこに有るのは人としてどう有るべきか?という徳育ではなく、
子供の考える力を奪ってペット化(調教)する事が愛情、思うとおり
動くロボットであることが自分(親)への愛情だと思い込んでいる姿
がそこに見えてくる。
成績だけが唯一の関心ごとで、上下に一喜一憂する姿も見えてきてし
まうわけです。

自分も男ですから、幼い頃から青年期入り口くらいまでは、親に色々と
迷惑をかけていました(といっても真面目でしたからたいした事無し)。
ただ、思春期に迎える反抗期そのものは、善悪という概念の完全な確立
という機能も兼ねていますから、本来であればそれが終わる17,8歳
頃になれば、この学生の様なことは冗談で考えたとしても、
実行することがどんな意味を持つかをきちんと解出来るようになるのが
“当たり前”なわけです、もちろん私もそうでした。

ところがそんな簡単な事がこの学生は出来ないわけです。

そこにはこの学生の隠されたもう一つの姿が見えてくるわけですが、
それは人として一番重要な、迷惑をかけた相手に対する謝罪という意識の
かけらすら無いことにあらわれています。

簡単に言うと、自分は他の人間より偉い、優れているという根拠の無い
万能感をなんの疑いも無く持っている事で、人を平然と差別し見下す
人間性ということです。

同時に自分は能力に長けているから、なんでも思うとおりに出来るのだ
という意識でもある。

事件の犠牲になったのは極普通のおじさん。
風邪を引いて熱が有り、それでも仕事に行くために、元気ない顔で乗って
いた、ごく普通のおじさんだ。
ところがこの学生にとってはおじさんが自分と別の生き物、さげすむべき
存在として写っていたことは明白。
というのは、いまだ「ごめんなさい」の一言すら口に出来ないのは、
自分は勝者(正義)であり おじさんは敗者(悪、もしくはゴミ)だから。

なぜ勝者で正義、かつ優れている自分が、敗者でゴミに謝らねばならない
という意識があってそこに自ら疑念を挟めないということ。
だから「ごめんなさい」が言えないわけです。
ただお金だけが目的なら事が公になった時点で謝ることはできます、
しかしこのような気持ちがあるとそうはいかなくなる・・・

* あるメディアは何かの目的があって?と書いていますが、それなら
* 自体はもっと深刻です。
* テロリズムと基本的理論構成が同じになりますから。


なんでそんなことが解るのか?というなら、私自身昔も中学生から高校生
くらいの頃に、電車に乗るおじさん達を見て、こういった思いを持って
いた時期が、わずかなりとも有ったからなのです。

本能的に序列を構成し、綺麗な力(能力)の三角社会をつくり、そのなかで
常に競争を義務付けられている男ならではの考えとも言えますが、
身の程をわきまえるということを幼い頃から躾けられていれば、
ありもしない万能感や幻想など見ることも無く、自分の24歳という年齢は
序列の最後尾でしかないのだという事をこの青年は分かると思うわけです、
またこの社会において人格というものが、学力より重要視される事をきちんと親から学んできていれば、こんな事おこすはずもありませんが・・・





友人

2008年03月17日 | Weblog
久しぶりに友人と会いました。
というか、ひょっこりと仕事部屋に現れ、それが余りにも突然。
180cmのスリムで黒い肌、坊主頭に昔と同じデザインのめがね、
Q(キュー)というあだ名で私は彼を呼んでいました。

現在長年勤めた職場を辞めたそうで、現在世界旅行中とのこと、ターキー(トルコ)、ヨーロッパ、そして日本、次にハワイ、そしてアメリカ中をまわって、最後には故郷へ帰るそうです。
料理が上手くて、自分の店を持つのが夢だと話していた彼ですが、いよいよ実行するようですね。 
彼と僕は2年ほど一緒に仕事をしていましたが、とても気のいいやつ。
ひさしぶりに聞く、オクラホマ訛りの混じった英語は今も変っていません。
ときどき会話に日本の言葉を混ぜるので、言語モードが日本語から英語に完全に切り替わっている時は一瞬「れれれ?」となることがありますが、このとき使っている言葉は昔とまったく変りません。
話しているうちに全米に散っている私の友人達の消息話となりましたが、みんな元気でやっているみたいで一安心。
日本からだとバカ高くて電話も出来ませんから・・・
ちなみに僕は話せますが、文は書けませんのでメールはペケ。
文章作成で困った時、彼がいつも代筆してくれたのがなつかしいです。
しばらく話した後、「最後の日に(日本滞在)もういちど来るね!」と言いながら帰っていきました。
「頑張れ! 友よ」

空気清浄機 続き

2008年03月17日 | Weblog
しつこく空気清浄機の話で恐縮ですが、土曜日に始めて運転した時は「なるほど!」と思うものでしたが、その後夜にかけて通常運転から“ターボ機能”を働かせると、なぜかくしゃみと鼻、そして眼が痒くなるということが有りました。
「これって本当に効果あるか?」とだんだん疑問が沸いてきますが、機械を信じて継続運転。 夜は寝室まで運んで一晩中控えめモードで運転し、朝に再びリビングへ運び付けっぱなしにしていました。

「あれ?」と変化に気づいたのは午後、ターボモードにしてみても昨日の様な花粉症の症状が全く出ません。
ここに来て「ははー!」と理解。
この空気清浄機を使い始めるまでに、花粉はすでに部屋中のいたるところに進入しているわけですから、それがわずかな時間でそう簡単に無くなるはずがない。特にカーテンなんかは花粉の塊のようなもので最悪。
そこにきて一気に室内の空気を浄化するターボモードで運転するとカーテンがひらひらするくらい空気の循環が起きますから、当然そこいらじゅうの花粉も飛び回るわけで、くしゃみが出るのは当たりまえということ。
通常運転だと花粉がさほど飛び散らないので効果を感じていたわけです。
昨日の午後と、今日一日運転していたので、どうやら室内の花粉はほとんど撃退できた模様らしく、その証拠にターボでもまったく問題無い上に目も一切痒くならず、一日でゴミ箱一杯になるほど使っていたちり紙も朝3回くらい噛んで終わり。
気温が高かったこともありますが、本当に気持ちのよい時間をすごせました。
少し高価でしたが、不快が続くよりはいいですから、買ってよかったと思っています。
ちなみにメーカーはダイキンです。 タバコをすわない(心肺機能が落ちて、運動時に息切れするのは真っ平ごめんです)ので、年一度のフィルター交換でOKらしく(本当かなー?)、購入時に7年分のフィルターを付けてくれてます。
なんかメーカの宣伝みたい担ってしまいました。 (^^)
ちなみに対して期待していなかった消臭機能の凄さに結構驚きました。
フレンチトーストを作ると甘い香りが部屋中に香るのですが、それを全部消去。
おいおい・・・・捕らんでえーのに (― ―)
たまねぎをみじん切りすると部屋中に広がる独特の匂いと、めがちかちかするのも消去&除去。 これはいいですね (^^)
でもついでに夕飯の美味しそうな香りも消去、 (― ―;)うーん・・・・これはなくていいんだけど。

トータル的に見て、95点という感じですが、他メーカの空気清浄機を使っていないので、比較できないのが残念。
何処かのメーカーさん、モニターとして一台くれない?
(^^;)えへへ

ゾンビ

2008年03月16日 | Weblog
昨日は東京の日の出に出来たあるでっかいショッピングセンターへちょいと買い物。
初めはるんるん気分、途中から例の症状が、こりゃいかんと思っているうちに・・・

パーキングに車をとめて逃げるようにモール無いに入り、そのままトイレへ直行。

ハイ!ひどい花粉症なのです。
即座に目を洗いますが、すでに白目はまっか、ゾンビだなこりゃ。

そう言えばこのすぐ先の檜原村はたしか日本最強の花粉地帯、どーりでいつもより反応が激しいわけです。

仕方なしにそのまま買い物、ついでに二階にあったnojima電器へ行くと空気清浄機のコーナーにふらふら吸い寄せられる。

しばらく見ていると、店員の値引きという悪魔が横から囁いてきます、悪魔とゾンビの値段交渉。

さすがに家に居るときくらいは、花粉から完全に逃れたい、と購入を決めてしまいました。
ちなみに悪魔のとどめは清浄器の内部に入れる脱臭用触媒一本1800円なり。

早々に撤退を決めて帰宅、本体取り出しスイッチオン。

初めは体感できませんでしたが、15分もすると効果が実感できるようになってきます。

文明だな~なんて思ったりしながら、昼飯くって第二弾。

よせばいいのに近くのホームセンターにまで違う買いもの、再び花粉に撃沈されて
帰ってきました。

夜は症状がさほどひどくない私ですが、テストかねて部屋へ清浄器をもっていきテスト。
うんうん、なかなか快調でした。

あ! 今頃になって店員がくれた脱臭用触媒を売り場に忘れてきたことに気がつきました。