帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

叱らない教育・叱らない子育てを僕が否定する理由、そのほんの一部分

2011年08月30日 | 研究-教育・育児

さて、二回ほど続けて叱らない子育てに関することを否定的に書きましたが、僕が叱らない教育とやらを眼の敵にするのは、きちんとした理由があります。

ブログ(以前の日記含む)を書き始めてから早8年、

約25程前から世の中に出てきた、  子供を叱らずに ほめて育てる教育(丁度今のひきこもりやニート達が育ってきた時代) とやらが、一大ブームとなって世に広がり、10年ほど前には最高の教育とまでに崇められたうえに、日本の標準教育?と言われてもおかしくないほど持てはやされる時代もありました。

特にマラソンの高橋選手の監督が口にしたことも影響。

 

爆発的に普及し始めたインターネットの世界では、大体1歳から小学高学年くらいまでの子供を持つ多くの親や教育関係者(保育士や教師、大学の教育学部教授等)が、同じくブログにて「こうやって実践していま~す!」と、口々に叱らないことの素晴らしさを讃え 「ほめて育てているのでこんなに良い子になった」、「学校の成績がこんなに上がりました?」と鼻高々にその効果の程について書きあげていた。

おりしも 「フィンランドを手本にしよう!」だ、イタリア式だ、 「スウェーデン式ほめて育てる教育」 なんていう まがい物教育から始まって次々出てくる書物は、 とにかく”叱る”ことを悪の権化のように扱い、怒りや体罰までも世の中を悪くする諸悪の根源として書きまくっていたわけです。

 

ところが? 

どう考えても人の本能に反しているこの教育が、 自然な心の成長を阻むどころか歪めてしまうわけで、最終的に芳しくない結果になるであることは確信していたものの、大きな結果集積データが無い。

子供の問題行動で悩む親等の個別的情報はぽつぽつ手に入るものの、それより大きくて絶対的、かつ全体にどんな影響を及ぼしているのかという絶対データが欲しかったのです。

そこで、僕と面識が無く、利害関係が全く生じないネット上の情報を利用することで、個別的に追跡と分析を試みました。、

対象としたのは、当時叱らないことを素晴らしいものとして喧伝していたホームページを手始めとして、そに当時に新しいスタイルとして出はじめたブログに至るまでの約300個近くをお気に入りに登録し、日々更新されていくブログの中に描かれている子供の姿をこの8年間追い続けてきました。

 

登録の基準としたのは純粋に親の立場として書いているものだけで、何故なら、教育評論家や教育学者、教育専門家等という看板掲げている人間達は、書籍の売り上げを始めとしてまずは自分達が食べて行くことが大切ですから、

そのためには事実を平然と捻じ曲げますし、隠したり嘘をつくだけにとどまらず、都合悪い事実はけして表にしないからですね。

普通の親たちが書くからこそ、そこに事実があるわけです。

 

すると、始めこそ「こんなに旨くいってます!」と、どれもが誇らしげに書いていたブログの更新がだんだん滞り、同時に子供の事が書かれなくなり、最後には更新が停止するかいつの間にやら閉鎖されてしまう。

優れた効果をあげているのなら、どんどんと更新されながら、ずっと周りの者達にその教育を進めているはずです。

小学校低学年までは子供も従順ですから、誰しも「自分の子育てはうまく言っていると思い込んではばからないもの」ですが、子供のころに受けた教育の問題点は思春期になって初めて表に出始めることから、そこを重点的に追跡をしていたのですが、残念な事に誰も旨くいかなくなった事等は書こうとしませんので情報が途絶えてしまう。

結局 ”旨くいかなくなったから、書けなくなった”という至極単純 かつ絶対的な現実がそこにあるわけです。

 

僕が一番欲しかったのは、 

叱らずにほめて育てたおかげで、一番難しい思春期(反抗期)をどう素晴らしく乗り越えたか

そしてその後に、その教育により優れた人間性になった?子供達が刻み続ける輝ける実績と事実なのですが、

たまたまなのか? 偶然なのか?は知りませんが、良質な結果を残しているな~ と僕が思えるものは一つも有りませんでした。

最高の教育ゆえに 最高の人間性が育つというのが 叱らない教育・褒めて育てる教育を進めている者達の言い分なのですが、普通にすらなっているのが半分あるかどうか?すら怪しいものです。

これが事実です。

 

しかし・・・

叱らない教育・ほめて育てる教育 が本当に素晴らしい教育だったのなら、その教育がブームとなって以降に育ってきた今の若者は、

僕らの若かりし時代なんかよりはるかに活発で意欲的で生産的であり。

当然、人間関係になんら悩むことなくて、攻撃性が無い上に、頭もよく、素晴らしい人間性で世の中を謳歌し、日本社会はどんどんと良くなっているはずなのですが、実際はどうでしょうか?

 

 

現実は、完全にその逆じゃ~ないですか?

引きこもりは200万(隠れひきこもり及び不登校ふくむ)、親に寄生しているニートがすでに130万(引きこもりと一部重なります)、そのうち働けるのに平然と生活保護もらっている若者がすでに50万人以上、「その理由は?」といえば、職場の人間関係を始めとして苦しい思いをしたくない、辛い思いは嫌だとかなんとか。 

上司に叱られただけで ふてくされた、病んだ、自信なくした、から延々と始まる言い訳のオンパレード。

彼らの口から出てくる言葉は 「働いたら負けで、如何に楽して生きていくか? が最大の目標」だとかなんとか。

 

犬をしつける理論をそのまま人間へ適用したこの 叱らない子育て、ほめて育てる理論とやら、そこにどれだけの大嘘が含まれているかということについて、多くの親達がほんの少しでも知って考える参考としてもらいたい、そう僕は思うわけです。

 

 

褒めて育てたことによる現実的な結果を研究したり、個人的に紹介しているのは、ネットで検索するとうんざりするほど出てきてしまいますので、

下はそのほんの一部だけを紹介します。

下のリンク先をご覧下さい 

 

 

https://mbp-japan.com/chiba/aquras/column/1206203/

https://toyokeizai.net/articles/-/275757

https://note.com/shizukayamasaki/n/n8bd913d5dc66

https://www.nhk.or.jp/sukusuku/p2016/646.html

https://note.com/yoheisuzuki04/n/ne95772f79b24

https://www.bookbang.jp/review/article/510804

http://spiral-up.jp/about/mistake.html

https://honz.jp/articles/-/42424

https://kodomo-manabi-labo.net/homerare-dependence

https://ure.pia.co.jp/articles/-/136072

https://president.jp/articles/-/24944

https://matome.naver.jp/odai/2152394652723382201

https://biz-journal.jp/2019/11/post_128226.html

https://note.com/ogitayasunaga/n/nf096ab406671

https://diamond.jp/articles/-/195233

https://www.dailyshincho.jp/article/2016/01270510/?all=1

 

 


叱らなくていい子育て ってそもそも何の為にあるのだろうか?

2011年08月27日 | 研究-教育・育児

「叱らない子育て、叱らないくていい子育」てってよく言われているけど そもそも"何の為"にあるのだろうか? とそうした方向から疑問を持つ人は、余りいません。

叱らなくていい???? この言葉に僕は異様さを感じてならないわけですが、というのは、これに子育そのものに対して 苦労したくないという心の本音を基礎にした ”如何に自分が楽をするか” という、いうなれば親の利益(怠慢と堕落)がそのまま隠されているからなのですね。

子供が傷つくから? 単なる怠慢正当化のための言い訳です。 子供はそんなに柔じゃ~ない。

子供がつぶれる?  親の利益第一の言葉の暴力を浴びせられ続けばればそうなるが、正しい叱りは進歩しかもたらしません。

筋肉や骨のように 心もトレーニングするものだという概念がないと、こうしたきれいごとが口から出てきます。 

 

叱る事は、子供(叱られる側)にとって大変辛いことですが、叱るほうもそれは同じ。

小言は別として、特に厳しく叱る際には精神的にも、身体的にも大きなエネルギーを消費する事は、親としてそれをした経験のある方なら分るかと思います。

もし、それが感覚として無いのだとしたなら、自分の叱る行為は自分の利益の為に行っていた、言い換えると暴力を働いていたと思ったほうが正解です。

それほど、叱るという事はエネルギーを消費するもの(トレーニングですから)なのですね。

 

自分もそうですが、わが子を叱るときには、これで子供を駄目にしてしまうかもしれない、意味を理解してもらえず思わぬ方向へ進んでしまうかもしれない、将来これで子供が恨みを抱いたら等、

こうした心配を初めとした懸念は常にあるもので、それゆえに「出来る事ならこうした苦しみから逃れて楽したい」と思うのも、誰にでも共通するものだと思います。

ただ、自分が楽をするということは、その楽した分だけ子供が授からねばならない(おやが伝えねばならないもの)大切なものが減る事を意味し、それが将来、対人関係における苦しみとなって子供が背負って行かねばならないことになる。

 

日常生活のあらゆるところで「なんでこんなことが?」、「どうしてこんなことが?」という対人関係上の付き合いにおける些細なことが 

出来ない、わからない、理解できない、いや理解しようもとしないという、やがていさかいから争いへ発展する火種となって常に我が子降り注ぐ。

その大半はというなら幼き頃より親から正されて来れば問題ない程度のことばかりで、しかしながらそれを正されなかった以上は、友達・先生・同僚・上司・そして社会からずっと問われ続ける事になるわけだ。

問題があるからこそ、人は他人から問われるわけで、それに対して適切に応じるには対人関係における問題に対する自分なりの回答を適切に導き出さなければならず、それは”自分に何が欠落しているのかを考える力(自分という人間そのものを一度分解して否定的に見ること)”がなければならない。

ところが人間という生き物は本来、自分自身を否定するように出来ておらず、常に自分中心に物事を考えるようになっている。

 

それを人らしい思考にしているのは、幼い頃からの教育がもたらす 考える力 だけれども、それは幼き頃より正しく叱られる事により積み重ねた経験(訓練)から来ているもの。

幼き思考は 何で? どうして? からはじまって、まずは我を通そうと試み、そこに問題あらば 心と考え方 に不快を覚えた親に叱られる。

その際に、自分は駄目なんだ、嫌だ、辛い、苦しい、ママなんて大嫌い、おとうさんなんて死んでしまえばいい!という感情で頭の中は満たされる。 これが当然。

親は最後に、「自分が何をしたのかもう一度良く考えて見なさい!」 といって終わる。

反抗と怒りで満たされ、その場では受け入れ難い親の言葉だが、時間の経過と供に、叱った親に対するなんともいえない、甘ったるい、溶け込むような思いが心のそこから沸いて来て(本能)、そこで初めて親の言葉を素直に受け入れる状態が訪れ、

落ち着いた状態で自分の思いと対比させつつ 理解をする為の思考 が働きはじめる。

故に、それが自分の感情を少しだけ抑える訓練となり、しかしながら又同じ事をして叱られ、更にその次はもっと自分を良く抑えて親の言葉を聞けるようになる。

これを成長に合わせて複雑化しつつ幾度も繰り返していくことが、自分の感情を適切にコントロールして理解するという人間らしい心のトレーニングそのものであり、優れた人格へと成長していくように出来ている。

いうなれば、人らしいもっとも優れた思考は、正しく叱る(教育)という心のトレーニングが有ったからこそなせる業であり、これを叱らない、叱らなくていい等という方法にて回避し続けていれば、訓練をまったく施されないままに子供は成長し、やがて社会に出ると適応できなくなる。

問題は早い子で小学校高学年あたりから、たいていは不登校や引きこもりとなって出始めるのですが、 これは当然至極、当たり前のことだ。

 

次に、幼い子は自分が何しているのか分からないのだから、分かるようになるまで叱らずにいて、その時になった話して聞かせれば良いという事を言う人間もいます。

しかし、人は常に成長する生き物であり、過去の自分の上に新しい自分を創り上げていく生き物であることを理解していないからこんな事をいっているわけで、分かる頃になって話して聞かせようにも、蓄積された物を一気に塗り替える事なんぞ出来るはずもなく、親もそんな力等有るわけ無いのが普通。 そのために明日は、明日こそはと躊躇しているうちに手遅れになる。

 

この叱られた後にやってくる 甘ったるい溶け込むような親への思い は小学校高学年辺りまでしかなく、二次性徴期の到来(反抗期による独立)の到来と供に消えて無くなります。 

さて、日本は、子供を叱ることが他の国々より多すぎる?という言葉を聞く事があります。 ところが家庭内で子供がどう振る舞うべきかという点においてはさほど厳しい物では無く、むしろ甘い。

簡単な参考資料 http://www.u-gakugei.ac.jp/~tam/research/culture/culture02.html

ただ、家庭外における対人的、対社会的 な面での躾においては逆に厳しく、これは当たり前の事なのですが、個人の利益を優先するヨーロッパ等と異なり、社会構造が調和を重要視する日本ではどうしてもそうなるわけです。

それだけ日本社会が成熟し、他者を意識して思いやる面が特段に優れていることを意味しているわけで、それが日本社会のあらゆる面に出ている。

例えるなら災害発生時の日本人を見れば分るように、本来パニックになるような事態が起きても他者を気遣う安定性にそれは表れ、それは幼い頃より子供に与えられている 型 が他の国に比べて厳しい事から来ている。

これを型にはまった教育だとか言い出し、個性を殺すだの、社会の硬直化だとすり替えて壊してしまえばどうなるか? この国が持つ世界が賞賛を送る優れた社会面が崩壊してしまう。

 

 

すこし話を変えますが。

よくお母さん方が口にする言葉を意識して聞いてると、駄目、早くしなさい、ちゃんとしなさい という3つの言葉が入ってきます。

これそのものは、しつけという面で絶対に必要なものですから、当然の言葉としてあるべきもので、これを口にしかたらと特に問題の有るものではありません。

ただ、この二つに否定の言葉を組み合わせているお母さんがいます。

極端な例で言うなら、

「駄目ったらだめ!なんどいったら分るんだ、頭悪いな!」。

「早く出来ないのかね~このノロマは!」

から始まって、

「駄目!何度言ったら分るんだこのバカ!」 、

「早くしろよ!愚図!」

「ちゃんと出来るでしょう?ボケ!」

等々、末尾に何らかの否定語をつけて各種言葉の暴力のオンパレードを乱打している親がいます。

これでまともな子が育つはずはありません。

 

子を育てるのは忍耐そのものであり、同時に理解させる努力の積み重ねが必要。

子は幼き頃より巣立ちのまでの長い期間を通し、親の姿をみて忍耐の基礎を学び、自分に対してしてどう接してきてくれたかという姿をみて努力という言葉を現実的な姿としてとらえて学ぶ様に出来ています。

 

しかしながら、面倒だから? イライラするから? こうした親の利益中心の理由と、あげの果てに付け加えられる言葉の暴力では、上記の重要な3つの言葉が心の中で良い方向に働くいわれは微塵も無く、親が言いたい放題した部分だけを子供は学び、蓄積され、将来他人に向かってその言葉を平然と放つようになりますし、当然親に対しても返してきます。

面度だからやらない、イライラするから他人に当り散らすという、親が子に接してきた姿そのままにですね。

 

イライラは、その背景として ”テキパキ動ける子になってもらいたい” という思いがあるわけですが、それは時間の概念が社会行動と気って切り離せない大人の世界で確立されたものであり、時間という概念をこの先長い年月を通して学んでいく子供に今すぐ出来るはずなど無い。

幼き子供は、全てがまず自分中心で動いているものであり、自分を外部の時刻という概念に適応させられるようになるのは、長年の教育の結果でしかないからです。

もしイライラするなら、それは単に自分の利益の為にそうなっているのだと思うべきで、早くしなさいと冷静に促す事までは教育の範疇にあれども、それを越えればそこには親の利益しかない暴力なのだと、そう考えるべきです。

 

しかしながら、駄目・早く・ちゃんと という言葉は、やがては子供をきちんと型にはめて世の中に適応できる最低の常識と人間性をもつ子に育てるには欠かせない言葉ですから(無しでどうやって育てられるのでしょうか?)、上記のように親の利益としてではなく、子の利益の為に使用されるのなら大いに使うべきです。

 

さて、叱らなくていい子育て関連の本などをみていると、叱らないようにする具体例が挙げられ、この場合はこうしたらよい、どうしたらよいと書いているものがありますが、

他の部分はともかくとしてこの部分に関しては内容がたいていは異常です。

”それが人の心の成長に必要なものだからこそ叱る”という思考はそこに全くなく、いかに 供を旨くリモートコントロールするか?という、自分勝手(親の利益のため)な考えにもとづいての事しか書かれていません。

 

そして、その手法として悪用されているのが、子供の親に対する基本的愛情、「お母さんだいすき~」という、素直で無垢な美しい感情です。  

幼い頃は、こうしたリモートコントロールの裏に隠れている親の怠慢等は見抜けませんから、これでコントロールされて良い子?になって、「良かった 良かった チャンチャン」となる。

しかし、子供はバカでは有りませんから、親が自分の純粋な感情を逆手にとって、自分をコントロールするための手段として使っていることにやがては気付きます。

恐ろしいのは、その際にそれまで心の中に築かれてきた、親の愛情という尊い物が一気に崩壊することです。

 

引きこもりはその主たる要因に 人の心を異常に怖がるという特徴があります、叱らない子育て、叱らなくて良い子育てという教育法が世の中に蔓延し、その広がりとピッタリ同期しつつこうした子の数が爆発的に増えました。

僕が教育研究させてもらっている施設には、その結果、親を含め他人の全てに深い猜疑心を持ち、それが引きこもりの原因として入校してくる子がいます。

自分の純粋な気持ちを親につたえ、その答えとして 澄んだ心を親から返してもらえなかった悲劇の結末です。

 

幼児期には、叱らなくていい子育ては確かに旨く作用してくれます。

しかしながらそれを小学校、中学校と続けて、親の愛情=リモートコントロール として育ち、さらにはそれに加えて叱られる経験をもらえなかった心は他人の感情(心)を理解する力が無く、いったいそれで子供は幸せになれるのか?

答えは考える必要も無いほど簡単にわかるかと思います。

 

叱る事は優れた親子のコミュニケーションである、それが分からなければ、そうした子供が育つのは当たり前なのですね。

 

子供は親との心のつながりを常に求めます、それに適するのは共感ですが、そこには親との人間的共同作業がなければなりません。 

なんでもいいのですが、親と風呂に入る、工作をする、ゲームをするから始まり 親と海に行って一緒に泳ぐ、キャンプする、山登りをする、というレジャー的なものや、有る程度の強制を行使して日曜大工を手伝わせる、家事の手伝いをさせるまで。 いくらでも共同作業は存在し、そこで常に親の姿を見せねばなりません。

親が怪我したり足すりむいて痛がる姿、山の天辺で景色をみて感動する姿、日曜大工で作られた本棚が機能する感動、包丁を魔法のように使って料理をこなしていく姿。

そうした共同で何かをなしたことから来る共感以外の、単なる言葉がけは子供に何の意味も有りません。

楽しい、嬉しい、悲しい、困った、綺麗、おいしい、痛い、などのような喜怒哀楽の感情はただ言葉で言うことに意味は無く、親と一緒に何かをなさねば正しく理解する事は出来ないわけです。

幼少教育だ何だと、子供に英語を習わせ、単語覚えた子に向かって楽しいね、嬉しいねといったところで、共感などあるはずもなく、当然親を理解すること等一切無い分、心も成長しない。

これは単に親の利益の為のリモートコントロール方法を見せているだけで、これでは楽しいこと、嬉しいこととは、他者が評価するものなのだとして学びながら子供は育ってしまう。

 

代表的な間違い例をあげてみたいと思います。 この場合、子供の年令に応じて対処がことなるのですが、とくに反抗期に入る2歳から3歳頃までがややこしい訳で、叱らない子育てではどうやってするのかというなら。

 

子供に自分の気持ちを伝える言葉を使うとかで、

「そんなところに乗ったら危ないから、お母さん困るな~」 と子供の目を見て言う。

「落ちて怪我したらお母さん悲しいな」 とか、

子供を信じ、眼をみつめてじ~と待つ

 

そして子供が降りてきたら、「ちゃんと降りてきて○○ちゃんえらいな~と誉める。

分ってくれてえらいね~大好きだよ」 という。 抱きしめてあげると尚効果的。

何度も繰り返すようなら、 「○○ちゃんのことは好きだけど、そうやって困ることばっかりする○○ちゃんは好きじゃないな~。

お母さんの気持ちが分る○○ちゃんが好き。」

と相手をしっかり見て伝える。

こうして何度か繰り返せば必ず伝わるとのこと。

 

これ全て大間違いです。

理由は簡単、子供の行動を停止させて手元に引き寄せる(実際このためにこうするのですから)根拠が、子供の為にあるのではなく、

すべて親の為(利益)になってしまっているから。  怪我したら面倒というのがその最大の根拠だからです。

 

これで全く言うこと聞かなかったらどうするのか? 母親以外の他人ならどうするべきなのか? こうした基本的疑問すら現実的に解決できませんし、

 

それどころか お母さんが お母さんが お母さんがとすり込まれ、上手く育てば立派なマザコン息子養育という、

将来”不幸”な家庭を築くためのオマケまで付いてきます。

 

高いところに乗って不利益を受ける可能性があるのは誰なのか? それは子ども自身です。

一見よさげに見えるこのやり方は、幼児期における子の持つ純真な心を逆手に取る方法で、本来子が知らねばならない危険性を

親が面倒だからとすりかえてごまかしているだけに過ぎず、これでは一番重要な考える能力は一切育ちません。

故に小学生になるころになっても以前危険性が理解出来ず、それゆえ親の知らないところでさらに危険な行為をして死に至ることも有る。

 

思春期に問題を起こす子の親達から話を聞くと、共通した子供の姿があります、「小さい頃から親の言うことを聞くよい子だった」と言います。

子供が よい子になる理由は二つ、親の愛情を欲してよい子になる(演じる)場合と、このようにリモートコントロールされていた子です。

それ以外のきちんとした愛情を受けて育っている子は 良い子と悪い子が常に混同しています。 

 

親が教えねばならないのは、何故危険なのか?であり、2歳から3歳くらいだと、高いところに乗れるといっても、せいぜい机かベットの上、大抵は何度もやりますから、実際に痛い思いをすれば自発的に”注意”するようになります。 

なぜ注意なのかは、対象物を見てやるかやらないかは子供の判断ですから。

乗っているのを見つけたら「何やっている?」と聞きます、そこに理由が有ればまずそれを聞く、なぜならその乗っている場所の上に目的物があることが多々ある。

こうした場合は取ってあげれば自分で勝手に降りてきます。

 

それで終わる時もありますが、そんなに都合良く行くはず無いのも子供。

反抗期はまず親の言うことに抵抗しますが、これは自発性の目覚めで、この時期は体も軽く、危険性もさほど無い状況下でのチャレンジですから、上まで乗ることがその目的なら 最後までやりとおす事が目的完遂の充実感の基礎になり、途中で落ちて痛い目にあうのも、結果というものを認識する重要な経験です。

 

この場合、親としては 痛い思いをしたら可哀想だから?と言うことを聞かせるのが目的なのか? 子供が本能的に自分の力を測って学ぶ(経験)が大切なのか? と大きく分かれるわけですが、幼い頃に得られた経験は、後の進歩の原動力になります。

成功すれば充実感をともなって生きる本能を刺激しますが、その経験が無かった子は、本能が正しい方向で働かず、充実感の概念が希薄で、後に何をやっても中途半端になる。

人の心の基礎というのは、極めて単純明快な行動と、かつ身体的な感覚の積み重ねが可能な幼い頃の経験を元に出来上がるわけですから。

 

話を戻します、親は登っている子に「落ちたら痛い思いをするよ!」と子供に言います。 

降りなさいと言っても「嫌だ」とたいていの子はまず言います、そこで「お母さんの言うこと聞かないと痛い目に合うから言っているの」という、やはり子供は言うこと聞きません。

そこで、「痛い思いしても泣くんじゃないのよ」、とそれで終わりです。 

後は余計なことをいう必要は無い。

ただその場を離れる事は禁物。

もしどうしても付き合っている時間がない場合は、黙って引きずり降ろし、子供がそれに腹立てて地団駄踏み始めたら放って置けばよし、

 

高いところに乗って現実に子供が落ちるか?というなら、余りそうしたことは無く、現実に机程度の高さなら頭にでかいコブ作ってしばらく泣けば終わります。

これを繰り返すことで親の言葉が持つ意味を理解していきますので、こぶの上からヨシヨシと優しく撫で、注意は聞くものだと諭し、黙って抱っこしてあげればそれでよいわけです。

子供が痛い思いをしてそのうえ重ねて叱る必要などありませんが、こうしたやり方を聞くと「なんてひどい!」 と思われる方も多々いるでしょう。

低いところでも落ちれば何らかの痛い思いを子供は経験します。

 

不思議なことに、子供というのは自分の成長を確かめる方法としてあえて危険なことをやるようにできています。

自分の持つ能力を時々そうやって試し、達成感をエネルギーとして本能が常に測っていることから起きる行動で、これを辞めさせることは容易なことではなく、

さらに、 唯一、危険性が自分にもたらすのは痛みなのだという事は実体験でしか得ることが出来ません。

子供のころに経験した痛みの蓄積が、将来の大きな危険性から身を守る能力になるわけで、その為には小さな経験をたくさん積ませることが大切なのです。

 

ただ、この場合に気を付けねばならないのは、落ちた子供が泣き出した時に「落ちた理由を自分以外に向けることがあります、人のせいにする事ですね。 ヘタするとお母さんが悪い等と口にし始めることがあり、

この場合は頭ごなしにガツンと叱らねばならない。

子供は予め親から先を見越して注意を受けています、しかしながら痛い思いをした子は自分の非を認めません、失敗の原因を自分からそらし、他者のせいにするのが楽だからです。

最もあってはならない、人として許されない行為ですから、この場合は容赦なく叱らねばならない。

時折、「お母さんがわるかったね~」と、失敗の理由を親が悪いのだとなびかせている姿をみますが、将来子供に殴られる理由を

子供に刻み込んでいる・・・

 

子供の持つ達成感と本能を大切にしながら自己責任の概念、失敗を他人のせいにしない人間性を少しずつ育てていくわけですが、子供は色々な経験をすることで成長します。

大事なのは失敗を成功のヒントにする事が出来る力で、それは自分を振り返って反省し、次の成功へ生かしていける力にある。

その為には人のせいではなく、目の前にある現実を自分の物としてとらえる事が出来る様に親が導かねばならない訳です。

 

このように同じ事を通しても、二つの方法には大きな差が有るはずです、どちらが良いのかは結局親が選択する物ですが、大学卒業して現在親方日の丸の下で公務についている息子も、世界でセイルに風を受けた娘も同じ方法にて育ちました。

もっとも、全く同じ様に育てても、息子のほうは一度は不良行動しておりましたが(笑)

 

人間性は叱らない教育(リモートコントロール)によってなしえる物ではなく、叱るという親子のコミュニケーションを通じて嘘偽りなき親の心を知り、子供自らの力で進歩させていくようにしなければならないものなのです。

 

 

 

 

 

 


オカリナとコンパス、そしてカントリーソング

2011年08月26日 | Weblog

今日は特別にやることなく、狭い家の中でエネルギー放出しまくりだったらしい我が娘。

ったく・・・・・・・・・ 

でも毎日天気がこれじゃ~何も出来ないし、現実に昨日予定していた友達との海水浴も天候大荒れでOUT。

 

そんなむすめが好きなのはカントリーソング。

 

実はこれ、僕の影響を大変受けている。 可愛そうだな~? へへ 

 

幼い頃から色々なところに連れて行っているけれど、その車のなかで流れるのがカントリーソング。

まどから見える景色と常にシンクロしながら、親子で過ごしてきた月日はあっという間に流れ、息子の時もそうだったけれど、

このブログで娘の事を書くこともやがて難しくなってくると思う。

だんだん大人になる我が子のプライベートは当然大切で、せいぜいあと1,2年程度かな?と思う。

 

次は直に生まれてくる孫の話になるのだろうか?  なんて えへへ 

 

そんな娘が愛する楽器がこれ、

土で出来た質素な楽器、 オカリナです。

画像処理で綺麗に見えますが、結構使い込んでいるので現物は汚れています。

ところがこれ、やたらと娘が笑っているので「なんだ?」と思って理由を聞くと、演奏した音を携帯電話の録音機能で取り、

それを再生すると 安物の中国製オモチャみたいなサウンドが聴けるとかで、実際に僕も聞いてみると、確かに安物電子音そのもの。

 

理由は簡単でオカリナの音に含まれる多数の高周波音が携帯の安いマイクで消えてしまい、単音とノイズになってしまっているからのこと。

人間の感覚というのは非常に優れているのがこんな事からもよく分かるけれど、思わず僕も笑ってしまいました。

 

さて、夏ももうすぐ終わりですが、今年の夏は良かったのか?と聞かれれば 答えはNO。

週末は天気崩れっぱなしだし、特に8月半ば、からは最悪。

記憶に残る子供時代を思い起こせば、毎年最後の一週間はまだまだ暑くて、そんな中で最後の週を友達と遊びながら名残惜しげに過ごしたことを

思い出します。

特に有るはずも無い行き先(未来)を、根拠なく話したあのころ、雷雨で逃げ込んだ神社の境内、雨上がりに肩を組んでわざと水たまりを踏んで、

帰ると待っていたのは暖かいお風呂と夕飯。

待ち構えていた親父につかまって風呂に叩き込まれ、バケツでお湯をぶっかけながら洗われた思い出。

そして虫の声と夕飯。

 

ところが今では、夏も後半になると雨ばかりが続くおかしな夏。

25日から始業式なんていう学校も出てきて、本来有るべき大切な時間がどんどん削られて、これで子供は優れた感性を身につけられるのだろうか?

なんて思ったりもして・・・・・

そこには無駄だからという考えがある様だけれど、人は無駄の中にこそたくさんの学ぶべきものがあるのだと、そう僕が言ったところで何かが変るわけではないんだろうけど・・・

 

 

 

 

 


訓練から帰宅

2011年08月23日 | Weblog

ほぼ一週間、泊りがけで訓練にいっていた娘が昨日帰宅。

よくやるよな~ 飽きもせず(笑) 

 

約一週間、泊り込みの合宿にて行われたのはオリンピックと同じコース及び条件を設定してのレース訓練。

断トツ一位だったようですが、ムキになってルール無視して突っ込んできた他艇にぶつけられてはじかれ、

その勢いで横の船に穴を開けてしまったとかなんとか、   いくらFRPで出来た丈夫な船体でも速度出ていますからね~ 

男女関係無く、ガチンコやると、そんなことも有る。 

避けられなかった(というか普段から強い意思表示がレースに必要)といわれていることもあり、本人は機転を

瞬時に利かせられなかった自分に反省している様ですが、男の子は女の子にやられると大抵はムキになりますから仕方ない。 

 

そんでもって明日は東京ディズニーランドに友達と行くそうです。 

 

 

しかし、 勉強しね~な~  

 

お!、朝飯食わね~と遅刻だ! 


叱らない子育て って これ虐待じゃないの? 

2011年08月20日 | 研究-教育・育児

 

世の中には、叱るということに関して、とんでもない勘違いしてる人間が多くいます。

叱るは叱るであって暴力でははない、なぜなら過ちを正すことがその目的だからです。

しかしながら暴力は破壊であり虐待。   

ところが結構これが分らない人間が多く、困るのは家庭裁判所の相談員初め、こうした子供の問題で相談する看板を掲げている者達が全く分っていないというのも事実です。

たとえるなら、

問題を起こす子や手のかかる子がいると、その親の子に対する接し方のパターンがいくつかに分類されると彼らは言うのですが、

大まかに次の4種類に別かれるらしいです。

1、放任

2、服従

3、支配

4、虐待

さて、さてこの中で叱るに関し、このどれかに類するか? 関する物が有るだろうか?というなら支配に該当するらしく、その理由は支配を暴力的なものと見ているからですね。

*教育評論家等の専門家という言う人たちは、ほぼ間違いなく叱るを暴力一部としています。

 

しかしながら、支配を本能という点から考えるなら正なのですが、これは後で詳しく書きます。

 

ちなみに、一番分りやすい4の虐待における 叱る は、あくまでも暴力を遂行する為の名目として使われているだけに過ぎず、そこに正す意味などほんの少しも存在しませんし、単なる親の精神的未熟もしくは異常から来る暴力行為でしかありません。

とうぜん躾(しつけ)になんら関係する事もなく、躾名目の虐待に至っては、もってのほかです。

 

それ以外の3つに関しては、本能を大切にし、日本の古来からある武士道初め徳と礼を重んじる育て方からするなら、けして過ちばかりではないのですが(ただし放任と服従は極端に扱いが難しく、説明には膨大な分量が必要で、そのため放任と服従はここでは肯定しておりません)、西洋式精神論という、人の持つ本能を極端に軽視した現在の精神医学初め心理学の考えからすると全て過ちとなってしまうのが残念です。

 

1、放任について

まず、本能を軽視した現代精神学では、放任はあくまで放任でしかなく、このような状態に子供を置くと心が不安定になり、イライラして暴力を振るったりということになるとのことですが、

しかしながら、これをどの基準をもって問題があるかと考えるなら、子供がいるはずなのに居ないかのように扱われる家庭環境であるところにあり、およそ人が人を育てるという状態すらが存在しないことから、これは単純に暴力であり、虐待。

子に接しない、話もしないから初まり、食事、洗濯、睡眠等々、ありとあらゆることが親により遮断され、拒絶されている状態で、こうした家庭の子は、人の持つ正常な愛情というごく基礎的心の発育に影響をあたえ、基本的人間性に問題を抱えることが多い。

思春期になると無気力もしくは非行行動に似た行動を取ることが多いが、こうした育てられ方をした子は、精神の健全性がきちんと確立してる事を前提にして周囲が関わる事は出来ず、無気力や非行として考えることそのものも間違っています。

こうした子に叱るという行為は全くなじまず、叱られるということそのものが親の愛情を背景にしているという事を、理解する心そのものが育っていない為に、叱ることそのものが許されません。

全て暴力という解釈しか出来ない子に育つのですから。

 

2、服従について

我が子可愛さの為に、もしくは”どう接してよいか?”が分らず、なんでも言うとおりになる。

一見傍から見ると、豊富に愛情を注いでいる様に見えなくもないのですが、実情は子のペット化でしかなく、その背景には親が喜怒哀楽という人の感情と、これに絡む本能という心の基本構造を経験的に理解していない場合が多い。

当然、親そのものが苦悩と格闘して乗り越えられる精神的強さを持つ人間では無い事が多く、子が思春期になる年令に達する前に他の要因(金銭的生活苦等)、もしくは子の二次反抗期に耐えられずに伴侶へ矛先をむける等して家庭不和へと発展し離婚。

さらにその後の生活苦に心を病んで通院することになる、定型パターンが当たり前の様に発生します。

叱るという行為が必要不可欠なものであるのに、それを正しく考える認識や理解はほぼ無く、暴力と完全に混同している事から、叱ることに恐怖を覚え、叱ったとしても心が常に揺れ動き混乱していることから、結局子供になんら伝える事が出来ません。

当然、親としての叱るが ”暴力” として子に伝わる率が非常に高いので、その中身は実質的虐待。

心の弱さが背景にあるために、子の成長(特に小学校3年生より上)にともない返ってくる、思いもしない言葉や態度に逆上しやすく、一度切れ始めると叱るという名目で虐待を行う事も多く、しかもそれが虐待なのだと分らないタイプ。

常に逃げが親の心理的背景にあるため、ほめて育てる、叱らない子育て等の、労せず楽に実行可能な言葉に弱く、ペット化の自己弁解及び自己擁護のために受け入れている(さらなるペット化)事が本当に多い。

最終的に子供が思春期へ到達すると、親の弱さと不安定さをそのまま引きついでいるために極端な非行や引きこもりになりやすく、子も精神的不安定ゆえに暴力で発散する傾向が有り、親がペット化して育てた子供に、逆にペット化(奴隷化)されるという事になりやすい。

 

3、支配について

これがもっとも叱ることによく関係していると思われている育て方の典型ですが、なぜか同時に叩く(手を上げる)、怒鳴る(脅す)、暴言を吐く(威はく)を全て悪としてきっちり関連付けてしまっている人が結構多いのが困ったところです。

叩くと 怒鳴るは 叱る上で必要な時もあり正、しかし暴言は単なる言葉の暴力で虐待、これを全てごちゃ混ぜにして叱るという解釈をしているのですからあきれて物が言えない。

こんな風になってしまうのは、基本的に教育は支配であることを理解せず、本来有るべき自然な姿を無理やりねじまげて自由だ個性だ、開放だとやるからなのですが、

西洋式心理学を中心として教育を考えるとこうしたおかしなねじ曲げられ型をすることになる・・・・ 困った物です。

まず支配は叱ると同様、二種類あります。

一つは親の利益のための支配でこれは虐待、もう一つは子のための支配で、これは叱ると同様に健全な子供の成長のためにあるもの。

此処では健全な子供の成長のための支配に関してしか書きません、親のための支配は虐待でしかないからですが、糞味噌一緒で同じに考えて書くほど愚かでみっともないことは有りませんので。

 

本能を中心とした日本古来からの考え方に立つと、叱る事(親)と叱られる事(子)は互いに”礼”でありイクオール、叱るも、叱られるも供に人(心の)としての修練であり修行。

礼(相手を正しく評価するというのがこの言葉の本当の意味)から 親も成長し、子も成長し、そうして人の心が豊かになっていくからです。

 

”生物”は生まれ出た瞬間から親の支配をうけるのは当然のことで、成長につれ、必要性に応じて親が開放して独立させていくのも当然のこと。

およそ生物という名の付く生き物はその生態が高度化するほど子を支配する時間も長く、それによって親(社会)から授かる生きる力(学習)の量もふんだんとなり、故に親からの独立(解放)後はその能力を十分に生かして生きていくことができる。

支配が無いということは、卵を産んでそのままにしておく原始的爬虫類等、下等な生物世界のものでしかなく、一定の支配が出来る生き物ほど高度化出来たわけです。

 

支配は本来、保護と成長、教育の為のものであり、保護が無い、成長がない、教育が無い状態は完全なる虐待であり、その支配の中でもっとも強い支配状態が叱るということ。 故に正しさがそこに無ければ暴力でしかない。

人間ほど進んだ思考のできない生物は、叱る事に邪心を混在させられる程の能力も同時にありませんから、叱る事は全て正となるのですが、欲を初めとする怠惰を持つ人という生き物はどうしても正しさをうしないやすく、それゆえ叱ると暴力が混合した状態になりやすい。

頭の良い人間であると、すぐに分かってもらえるのですが、叩く、怒鳴るは、それを実行している親の為の利益追求が目的であるなら虐待ということです。 

ですから、本来の”子供の為に叱る”とはべつのものであり、これを混合して考えること事態が本来は間違いなのですね。

 

人は生まれながらに社会から自分を切り離して生きていくことは出来ません、生きて行くには生まれてきた子供を、社会に適応できる人間という最低の型にはまる様に育てねばなりません。

学校、会社、親子関係、友達関係、上司、部下、先生等々、およそ人がそこにあれば常識はじめとした社会の基本的ルールがあり、 それが型そのものであり、叱るは、我が子をその型に適応させる為にある。

問題は、型は型であり、窮屈にして動きがとれず、それにはめられるように育った子が、自分の力でそれに疑問を持ち、型を破るための正しい行動をとることで、あちらこちらにほころびが生じ、

そのほころびから時代の変化にあわせた新たな常識が出来ていく。

しかしながらさらにその次の世代にはその型はすでに通用せず、又新たに変化していく。

 

型にはめる親とそれを破る子の繰り返し、実はそれが発展であり、進歩なのですね。

問題はその型の破り方、自分かってにやりたい放題すれば単なる犯罪、自分の考えを相手に伝え、説得し、そうして現在有る型と融合させながら変化させていくのが正攻法。

これを生み出す基になるのが正しく叱られた経験です。

 

その為には、人の心をよく知らねばならず、特に最も難しいのが人の怒りであり、この怒りを理解している度合いが高いほど、その子は世に出て苦しむ事無く生きていける。

怒りの種類はたった二つ、正しい怒りと、間違いのある怒り。

正しい怒りは、人を進歩させることの出来るもの、間違いのある怒りは、単に暴力として破壊しかもたらさないもの。

叱るの”源”は怒りにあり、正しき怒りは正しい叱りを生み出す。

当然それによって育てられる子は、ただしく叱られる経験が有るからこそ(間違った叱られ経験も時には必要)正しい怒りを理解させるわけで、 あやまった叱りの経験ばかりを積まされると間違いのある怒りをその子自体が生みだしてしまう人間になる。

最も恐ろしいのが、叱られる経験が無い、もしくは乏しい事で、 これは人の持つ怒りの種類、すなわち正しいのか、間違いなのかという怒りの分別が出来ない人間にほぼ100成長する。   

当然正しい怒りを分別できる能力が無く育っていますから、全て自分へ向けた攻撃としてしてしか捕らえることが出来ないため、これが得たいの知れない恐怖を心に引き起こして引きこもりを生み、もしくは心を病ませる。

正しい怒りというものが理解できない人間は、怒り全てを自分への攻撃としてしかとらえられず、逆ギレし、逆恨みし、ともすると殺意まで抱く。

 

人は怒りに恐怖を覚えるように出来ており、出来れば触れたくない、引き起こしたくはない。 しかしながら生きていれば自分の思いや願いとは裏腹に現実は必ずやってきて、その際にそれを受け止めねばなりません。

正しい怒りなのか、間違いのある怒りなのかを判断させるには、それを受け止めて耐える忍耐力、逃げ出しそうになる心を抑えて正しい判断をさせる勇気、そしてその怒りの種類をきちんと把握して理解と判断を行い、

自分が取るべき行動を判断しながら冷静さを保てる能力が必要。

正しく叱られてきた子はそれが出来る様になります。

なにより、正しき怒りを自分の成長の糧にし、間違いのある怒りを暴力とだけとらえる事をせず、間違えの手本として自分の学習課題にする進歩能力にもなる。

 

これが無い子は間違いなく不幸になります、しかしながらこの能力はけして本で学ぶことは出来ず、大人になっては当然手遅れ。

唯一、幼き頃より親から正しく叱られてきた積み重ねのみがなせる技で、心の訓練により成り立つ物なのですね。

 

故に 叱らない子育て 等という、人の持つ一番難しい感情を処理する心の訓練が行われないで育った子が不幸になるのは、当たり前の事なのですね。

 

叱るは正、叱らない子育てはその場こそ親は楽が出来ても、その分の苦しみを将来子供が何倍にも膨らませて背負うことになる。

親が叱る事から逃げれば、子は一番大切な教育を受けずに育ってしまう。

叱ると言うことは、とても大切なことなのですね。

 

 

 

 

 


ソーラー温水器修理と 36度のクソ暑さ

2011年08月18日 | Weblog

2時間ほど休みもらって早く帰宅し、屋根の上にある太陽熱温水器の修理をした。

なんでも明日から雨降るとか? 降らないとか?、交換部品はすでに来ているのでその前に終わらせたいのが山々。

しかし・・・・ 暑いの何って、熱風吹きまくりで照り返しはすごいし、温水器本体も加熱しているし、更に付け加えると おっかねえし。

交換が終わった後の廃部品

 

 

とりあえず、つるつるのガラス面に体を這わせねば上部のタンクに手が届かないので、足場としてロープを張り、

万が一の落下を考えて腹にもう一本のロープ巻いての作業。

 

早めに帰宅した理由はこの作業がどの程度時間のかかる物かがさっぱり分からないからで、

見た感じではすぐに終わりそうなのだけれど、やってみると思わぬ出来事があるのが普通。

日が暮れ始めた頃からでは、他の故障や破損などを万一でも見つけた場合に対処する時間が無いからだ。

 

さて、実際の作業なのだけれど、4本有るジャバラ状循環ホースはクランプで留まっており、それそのものは+ドライバもしくは10mmのソケットドライバーで簡単に弛む。

プラスチックのカバーが被せられているホース上部(タンクとの接合部)は簡単に外れるのだけれど、温水パネルの下は金属パイプそのものなのでゴムが固着して簡単に外れない。

材質そのものがシリコン等の耐熱高耐久性のある物では無く、なんか天然ゴムみたいなもので、簡単にいうと昔のキンカンのキャップに使われていた、あのすぐにダメになるゴムと同じような材質だ。

こりゃ~本当に10年持つ程度の寿命しか考えていないのがすぐにわかる、コストだけしか考えていないいい加減な部品だ。

固着部分はトライバーで無理やりこじるように取り外したけれど、クランプ押し上げカッターで縦に薄く切り、むしり取った方が早いかも知れない。

 

問題の水漏れ部分、穴は小さいのですが、水道の圧で漏れまくり。 ホースはペラペラの材質

 

カバートップのネジをそのままにしてサイドと下だけ外し、上半身挟まれるように作業したのだけれど、50cm程度の木でつっかえ棒にした方が良かったな~と

後で後悔。

 

ホースの交換に約45分程度、最後に汚れていたガラス面を綺麗に洗浄して終了、約1時間の作業でした。

 


ソーラーパネルから水がー!

2011年08月14日 | Weblog

長年使用してきた我が家のソーラーパネル。

水の使用量が最近増えているなと思っていたら、なんとそれから水漏れをおこしていた。

徐々にもれ始め、このくそ暑い気温で内部温度が上昇、一気に大穴になったようで、漏れ音がボタボタと結構すごい。 

おいおい・・・  

と思いつつ、焼けるほど温度が上がる前に屋根へとあがると、パネルのフレームに足をかけてタンク回りのビスをはずす。

カバーを開けて内部を点検すると、循環ホースが破けていた。 

 

とりあえず、新しいホースを注文しなければならないけれど、作業中の高さが半端じゃないので おっかねーんだよね、とにかく。 

とこんな事していたので、海にもいけず、家内は娘の赤坂のステージに行ったし、いろいろ中途半端になってしまった僕はといえば、ボランティアで草刈機なんぞ担いで午後を過ごしてしまいました。

これで来週は前線下がって、風なんか無いんだろうな~又 

 


仕方ねーから? ヨット ん?

2011年08月13日 | ヨットや 釣り等

いい加減ウインドサーフィンに乗りたくて仕方ない僕  

ところがどう考えても風の吹かない条件がそろいまくり。

浜で風を待って日向ぼっこなんかしていられない僕は、仕方なしにヨットへ予定を変更。 

といっても、娘はワールドカップの報告をせねばならないことも有って、それもあわせてですから、僕が我がままを言っていられない身なのですが・・・・ 

 

娘がクラブハウスでトレーナーさんに報告と挨拶をしている間、汗だくになりながらヨットを滑車で下ろして艤装準備開始。

浜まで船を押し出すが、風ひよひよ、 午後から入るサーマルウインドがどこまで上がるか期待できないけれど、一応家内と娘の3人で出てみます。

「今日はただ乗っているだけ~!」 と、やたらニコニコな娘。

レース訓練も無くなり、不要な緊張も無く、今はただセーリングを楽しみたい様。 

 

沖に出て1時間くらいはひたすら退屈な風だけで、そのときのスキッパーは僕。

家内はジブセイルの微細な操作で娘にコテンパンに叱られていた(笑)、その矛先が僕に回ってこないことを祈りながら知らん顔で湾を何往復かしていると、だんだん南が入りだした。

期待のサーマルウインドがお出ましー! といったところ。 

 

こうなると、「ただ乗っているだけ~」でいられるはずが無いのが我が娘。 

 

操艇技術でどう逆立ちしても娘に勝てるはずない僕、随所で指摘を受け初め、半分娘に教えられ状態になりながらティラーを握っていたのですが、風が上がるに連れて我慢できなくなった娘がついに「スキッパー交代!」を宣言。

あっさりスキッパーの座を排除されてしまいました。

 

こうなると僕と家内は ただの奴隷状態(ヨットは必ずこうなります)、 娘の指示するとおりに動くだけとなり、16歳の少女船長は怖いぞ~。 

 

風が4mくらいの順風となり、速度あげつつ快調に海を飛ばすけれど、トラピーズ使うにはまだ風が弱い。

風が吹かないことを想定していたのでハーネスも無く、仕方ないのでトラピーズハンドルを手で掴んで身を乗り出す感じで僕はハイクアウト。

トタンに風がすこっと抜けて沈しそうになり、僕と娘だけが大笑い、家内はひたすらビビッていました。

特に強烈な風が吹くわけでもありませんでしたが、夏らしい、気持ちの良い風を十分に堪能。

 

このままお昼をはさんで夕方まで乗りたかったのですが、空が曇り始めたことから、風がこれ以上あがる可能性が無くなったと判断。

明日 赤坂サカス でステージに立たねばならない娘の疲れを気遣い、今日は1時までの3時間半だけのクルージングで終了しました。

とりあえずは満足 へへ 

 

 


浜松旅行 最終日

2011年08月12日 | 旅行等

しかしま~ 連日暑いこと。 

んなわけで、今日も涼しいところにいこうじゃん!

というわけで、来たのがここ。 

結構な大規模洞窟で、内部には鍾乳石初め池?や滝までが有る。

面白いのは、少し前の田舎の観光地丸出しの得体の知れない小売店みたいなものがあって、

発明品の夏みかん皮むき器を売っていたり、鮎の塩焼き、其のほかには手作り土産品。

シンデレラの馬車?見たいな物が有ったりして、一番笑わせてくれたのが次の写真。 

なぜか知らんがウルトラマンとゼットンが岩の上でバトルしている。

見ようによっちゃ~ダンスにも見えるが・・・

さらに、それを見て驚いたという演出だろうか、トラがそっくり返っていて、左の紙製看板には”トラバウワー”と書かれている。

「なんのこっちゃ?」

 

しかもこのトラ、針金で背中縛って無理やり曲げられており、トラが自発的にやっているとは到底思えない。 

 

しばらくこれを見て娘と笑っていたのですが、だんだん暑くなってきたのと、人が増え始めたのであわてて、洞窟に入ることにしました。

内部は20度前後の天然クーラーによって涼しく、鍾乳石もいろいろな種類が見られるので、結構おもしろい。

ただ、国の保護や規制がかかっていないのかわからないけれど、証明の熱で天井付近が温められて、青い部分がところどころにあり、おそらくはコケや植物などが生えてしまったものと思われる。 

鍾乳石自体は真っ白というものではなく、象げ色から茶に近いもので、各所にいろいろな名称が付けられていてそれなりに楽しめる。

一番よかったのが一番奥にある滝で、結構な空間と落差があり、水量も結構ある。

ただ、その分衣類までぬれてしまう為に簡易な天井が設けられているが、それが安っぽいのがもったいないというか・・・ 

ゆっくり見て歩くとそれなりに時間を消費し、後は資料館と売店をうろつきここは終了。

 

さて、今回の旅行で娘が食べたいと騒いでいたものが、うなぎ。

浜松といえばうなぎが有名で、しかしながら浜名湖周辺は広すぎてどこに入ればよいのか分らない。

そこで地元にあるウインドサーフィンの店に行って、おいしい店の名を聞きだした。

康川という店が良いらしく、

http://www.hamanako-unagi.net/yasukawa.index.htm

実際に結構落ち着いて品のある店だ。

一回の食事に一人2500円なんていう代金を払うことがまず無い家だけれど、こうした旅行の時には別。

味の方は?といえば、確かにおいしい。 

それなりの代金を支払っても、後悔ばかりすることが多い外食だが、ここは本当に値段とつりあう味であったことは間違いない。 

 

さて、お腹もいっぱいになったところで、そろそろ帰りのことを考えねばならないが、

其の前に高速インターのすぐちかくにある関所後に行くことにした。

http://www.kigasekisho.com/

 

おちゃらけてこちらを見ない娘

 

しかしながら、ここは屋外展示場であり、くそ暑いの何のって (笑) 

刀や槍、武士が大好きで城に住むことにあこがれている娘は張り切ってみて回るのですが、なぜか超旧式和風便所に固執。 

外部から建物中の様子を見られるようになっているだけれど、3箇所ある便所を面白がり、でも最後のたたみ室の中にくりぬかれたのだけは「へんなの~」と嫌がっていた。

畳の上に落ちたらどうするの?と質問され、「畳交換だろう」と答えたが、まさかふき取っていたりはしなかったのだろうか? なんて考えたりもして (笑) 

 

ま、そんなわけで、これにて今回の旅行は終了。

 

最後は恒例の高速渋滞につかまり、それでも、さほど遅くない時間に家へ帰ることができました。

 


浜松旅行 2

2011年08月11日 | 旅行等

やっぱりというか、朝から暑い。

普通なら自分の足で歩いて回るのだけど、こう暑くては外歩きは冗談じゃなく危険。

そこで、今日の予定は涼しくて、しかもただで楽しめるところへ行くことにした。

 

8時半にはホテルを出発、ぐるりと湖を回る感じで到着したのがここ。

ナイキ地対空ミサイル基地で~す! 

 

じゃ無くて、航空自衛隊の浜松基地の一角にあるエアーパーク

http://www.mod.go.jp/asdf/airpark/

 

航空機がなぜか大好きな娘は大喜び、なんといっても入館料金が無料というのが良い。

興奮した娘がナイキの前で写メ取るだ、レーダーの前で写真取れだと大騒ぎでなかなか中に入れない。 

 

戦闘機を真近で見て、輸送機に乗ったりと、若い頃から航空機に触れてきた僕には珍しいものではないけれど、家内と娘にはやたら新鮮に見えるらしい。

 

とりあえず入館すると、いきなり9時30分からの映画を見るかときかれ、もちろんYES!

内容は自衛隊の遭難救助隊の話で、360度全天型スクリーンに映し出された映像を楽しむ。

でも、映像がヘリから撮影しているらしく、画像が常に細かくゆれうごくために見ていると気持ち悪くなるのが参った。  うえ・・・・

僕が子供の頃あこがれていた F104J戦闘機

 

レスキューという言葉にさらに弱い娘はさらに興奮して、映画が終わり次第行ったシュミレーターでその気になって操縦していたが、なんと選んでいた機種は戦闘機だった。 (爆笑)  

家内はというと輸送機、僕も娘と同じ戦闘機、でも一番操縦がうまかったのはなぜか娘で、ヨットだけでなく飛行機でもかなわないのかと思うと、なんともいえない気持ちになる。

そのあと3階から1階までをじっくりと見て歩くが、航空機のカット展示を見ては大騒ぎ、エンジンの実物モデルを見て大騒ぎと、あちらこちら引きずり回される始末。

 

最後に実機展示室へ行くと、天井から下がるゼロ戦、ほか実際に使われていた航空機が結構あり、再び娘が騒ぎ出したのがフライトシュミレーター。

どうしても乗りたいらしく、しかしながら次回の予約は12時30分過ぎ。

まだ11時半なので予約をいれ、そのあいだに時間つぶしという事もあって昼ごはんを本館3階でとることにした。

 

でも出てきた料理はインスタントものばかりで、僕のピラフにいたっては冷凍物をレンジで加熱しただけ。

コップの水も、 水がそうなのか? それともコップがそうなのか? 解らないけれど、なんとなく臭い。

自衛隊の飯は臭いというが、まさかそれをそのまま再現しているわけもあるまいて(笑) 

 

と時間が来たのでシュミレーターに乗るが、初めは家内と娘、次に僕と娘。

離陸から始まり、敵機との空中戦が楽しめるということになっているが、ここでも娘のほうが上手だった。

 

その後、2時近くになるまで各種飛行機を見て歩き、というかずっと娘に引きずられてみて回り、ようやく開放。 

 

まだ早いので、宿泊先へ一度戻ると、そのままホテルのプールに直行。

4時半頃まで泳いであがり、昨日同様夕飯の買出しに。

 

再び温泉入ってビールと夕飯、なぜか昨日より早く寝てしまった僕です。 

 

 


浜松旅行 1

2011年08月10日 | 旅行等

「久しぶりに家族旅行すんべ」 と、初めはウインドサーフィンの道具をトレーラーに積んで行こうとしたのですが、「なんでいつもウインドがらみなの?」と娘に微半切れされ、仕方なしに?ただの旅行としてくりだしたのが今回の浜松。

たまたま家内の関係で素泊まり可能のホテルが確保でき、もっともそうでなけりゃ金欠のうちが旅行なんぞ行けるはずが~無い。

 

「ホテル箔で、ウインドが無いなら 軽自動車が最強だぜ!」 というわけで、着替え程度の荷物を積んで朝7時半頃に家を出発。

早速、国道16線の原因不明~渋滞に引っかかり、あわてて逆戻りして圏央道経由で富士を回って東名高速へ、

途中で飯し食って、結局今日の目的地である 設楽が原に付いたのは3時近く。

近そうに見えて、実は結構遠いのが浜松、そこから設楽が原まではさらに小一時間くらいなので、こんな時間になってしまうのです。

 

ウインド出来ないなら俺が勝手にプラン決める! と、(どうせ初めから行き先をこちらに任せっきりの癖に大抵は後で文句言う女二人は無視で)何故設楽が原なのかというなら、ここはかの有名な長篠の合戦があったところ。

実質的天下分け目の戦いであり、それまでの戦術そのものを大きく変えてしまった戦いで、ここで織田群の鉄砲隊3000丁による三段撃ち(諸説がある)が行われ、戦国時代最強といわれた武田騎馬隊が退廃したのですね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

よく、関が原の合戦を天下分け目の戦いといいますが、その実情は単なる内輪もめでしかなく、数こそ多いですが、これが天下どうのとか言われても・・・ この長篠の合戦こそが実質的天下分け目であったと僕は思っています。 

まずは資料館にいってみますが、壮大な戦だった割には、こじんまりというかんじ。

 

それでも火縄銃を中心とした展示物などを結構取り揃えてあり、年月の経過と供に変わってきた長篠合戦の評価を感じます。

しかし・・・・ 歴史に関してトンチンカンな家内は適当に見て歩くので、先へ進むのが早い。

対して、幼い頃から日本の歴史話を聞かせてきた娘のほうは興味深げに見ており、特に鳥居強右衛門の話には思うところがあったようです。

武田家の退廃の主たる要因は鉄砲の威力による物であることは間違いなく、それ以外に兵力差が3倍近くあった事や、騎馬が縦横に動くにはあまりにも狭すぎる戦場にあったと見ていますが、

当時武田の党首であった 勝頼が愚将だからというのは誤りで、それは武田家滅亡後に織田側が勝者として流布したものであり、実際には天下を取れる才気と智謀に長けていたことは、多数の資料を読み込むと良くわかります。

ただ、其の若さゆえに織田に通じていた数人の家臣(穴山梅雪他)の策謀に乗せられた面をあながち無視することは出来ません。 

 

さて、そんなわけで約45分くらい館内を見て歩き、すぐに車に乗ると、戦場となった川べりの道路をゆっくり流して自分なりに当時の姿を想像しますが。

自分が武田の武将であったのなら、この地形にて戦うことはしませんね、

丘を越えるようにして織田の陣地に突入するにはこの地形は有利に働く面もあり、不利に働く面もある。

戦が行われた日は今の暦に直すと7月初めくらい、丁度梅雨の終盤で、明け間じかの豪雨が続いていたと当時の記録にはあります。 

雨が豪雨であれば鉄砲は役立たないうえ、迫る騎馬の動きが良く見えませんからほぼ勝利。

逆に雨が上がれば鉄砲が有効に働きますので逆に敗北。

まさに運を天に仰ぐような戦であったのでしょう。

資料館を離れると、車で10分くらい離れたところにある、長篠城跡と資料館に立ち寄ります。

先ほどの資料館と兄弟館で、終わりが4時半までなので、これまた急いで見て歩きますが。

建物がさらに小さいのであっという間に終わり、後は長篠城跡(本丸)を見ますが、現在も残る空堀と城を守る

二つの川が作り出した天然の要塞は、武田群の攻撃で落ちなかった理由を無言で語り掛けてくれます。

しかし、異常に暑いな~!

さて、今日はこれで終了、一度ホテルに入り、コンドミニアム型なので、夕飯の買出しに出かけます。

地元の大きめスーパーがあったので入り、惣菜コーナーで寿司を買い、ビール諸々を買って戻りました。

一階に有る温泉は湖のほとりで、良。

テレビを見ていたら、日本全国35度って暑いの何の。

浜名湖も同じようなものだったのですが、多少酔っ払い、テレビ見て笑っていた家内と娘に相手されなくなった段階で 眠くなった 「おやすみなさい!」

 

日本最古? 信玄砲

 

 

 

 


お疲れ様

2011年08月02日 | 研究-教育・育児

22時45分、関西国際空港を経由し、羽田に娘が帰ってきました。

お疲れ様でした。

 

 

 

船の形状を見てもらえれば解るのですが、ヨーロッパでは、娘が一緒に戦った子達は最終的にRS や 29er、 49er(次の動画に有る)へ移行していきます。

オリンピック艇が現在の(日本に有利な?)ものから、このような設計の高速ヨットへと、近いうちに全て変わるからです。

向こうには、そうした艇にのる新たな選手を育てる土壌と豊富なスポンサーがいくらでも有る。 なにより半分国策でやっているようなものですから、 うらやましい限りです・・・ 

まったく違った方向(時代遅れ?)のヨットで十分な成果を挙げている日本ヨット会では、このヨットへの興味は全く無く、そちらに進ませる訓練を積ませてくれるところも有りませんし、あえて困難な方向へ進もうとする子もいません。

女子に至っては新しい流れへに乗ろうとする子は、ほぼ皆無(笑) 

当然のことですが海に囲まれているのに、マリンスポーツへの理解が全く無いこの国では、一緒に乗ってくれるクルーは無く、スポンサリングしてくれるところも無く、どうにもやりようが無い、でも、これが現実なのですね。 

49er WORLDS 2009 - Final Day


ワールドカップ ファイナル

2011年08月01日 | 研究-教育・育児

娘の青春の1ページ、4日間にわたって連日繰り広げられた世界選手権レース、終了の連絡が入りました。

 

トップを争ってテクニカルマークでデッドヒートを展開する娘(一番左)

 

結果  ISAF(世界セーリング連盟)、 オープンビック級  

オープンデビジョン 世界第5位(男女混走の順位) 同クラス女子のカウントで世界第2位 ということでした。

*オープンビック級 ウインドサーフィン技術とヨット技術が合流する、小型のエクストリーム・ハイスピードヨット 

 

他 日本代表チームの結果  皆最高の子達です!  

 U12クラス  花田君 第3位      

 U15クラス  木内君 第2位     

          豊島君 第9位  

 

 

約140艇    参加国 イタリア、フランス、ドイツ、他ヨーロッパ全土、アメリカ、ブラジル等 十数カ国 

世界中のヨット会の、威信をかけたレース。

日本からこのレースに参加した女子は、家の子が初めてでした。

みんなOPという小型ヨットで、早い子だと3歳頃から始めて来た選手達、娘はたった二年で運良くここまで

来れた訳ですが、よく頑張ってくれました!

今後、ヨットに関してはファンライドにして、再びウインドサーフィンをメインに戻すようですが、

どうなるのでしょうね? 

 

約140艇が競う大会風景 の一枚です。

 

この曲を娘に贈ります。

Queen - I was born to love you lyrics