「叱らない子育て、叱らないくていい子育」てってよく言われているけど そもそも"何の為"にあるのだろうか? とそうした方向から疑問を持つ人は、余りいません。
叱らなくていい???? この言葉に僕は異様さを感じてならないわけですが、というのは、これに子育そのものに対して 苦労したくないという心の本音を基礎にした ”如何に自分が楽をするか” という、いうなれば親の利益(怠慢と堕落)がそのまま隠されているからなのですね。
子供が傷つくから? 単なる怠慢正当化のための言い訳です。 子供はそんなに柔じゃ~ない。
子供がつぶれる? 親の利益第一の言葉の暴力を浴びせられ続けばればそうなるが、正しい叱りは進歩しかもたらしません。
筋肉や骨のように 心もトレーニングするものだという概念がないと、こうしたきれいごとが口から出てきます。
叱る事は、子供(叱られる側)にとって大変辛いことですが、叱るほうもそれは同じ。
小言は別として、特に厳しく叱る際には精神的にも、身体的にも大きなエネルギーを消費する事は、親としてそれをした経験のある方なら分るかと思います。
もし、それが感覚として無いのだとしたなら、自分の叱る行為は自分の利益の為に行っていた、言い換えると暴力を働いていたと思ったほうが正解です。
それほど、叱るという事はエネルギーを消費するもの(トレーニングですから)なのですね。
自分もそうですが、わが子を叱るときには、これで子供を駄目にしてしまうかもしれない、意味を理解してもらえず思わぬ方向へ進んでしまうかもしれない、将来これで子供が恨みを抱いたら等、
こうした心配を初めとした懸念は常にあるもので、それゆえに「出来る事ならこうした苦しみから逃れて楽したい」と思うのも、誰にでも共通するものだと思います。
ただ、自分が楽をするということは、その楽した分だけ子供が授からねばならない(おやが伝えねばならないもの)大切なものが減る事を意味し、それが将来、対人関係における苦しみとなって子供が背負って行かねばならないことになる。
日常生活のあらゆるところで「なんでこんなことが?」、「どうしてこんなことが?」という対人関係上の付き合いにおける些細なことが
出来ない、わからない、理解できない、いや理解しようもとしないという、やがていさかいから争いへ発展する火種となって常に我が子降り注ぐ。
その大半はというなら幼き頃より親から正されて来れば問題ない程度のことばかりで、しかしながらそれを正されなかった以上は、友達・先生・同僚・上司・そして社会からずっと問われ続ける事になるわけだ。
問題があるからこそ、人は他人から問われるわけで、それに対して適切に応じるには対人関係における問題に対する自分なりの回答を適切に導き出さなければならず、それは”自分に何が欠落しているのかを考える力(自分という人間そのものを一度分解して否定的に見ること)”がなければならない。
ところが人間という生き物は本来、自分自身を否定するように出来ておらず、常に自分中心に物事を考えるようになっている。
それを人らしい思考にしているのは、幼い頃からの教育がもたらす 考える力 だけれども、それは幼き頃より正しく叱られる事により積み重ねた経験(訓練)から来ているもの。
幼き思考は 何で? どうして? からはじまって、まずは我を通そうと試み、そこに問題あらば 心と考え方 に不快を覚えた親に叱られる。
その際に、自分は駄目なんだ、嫌だ、辛い、苦しい、ママなんて大嫌い、おとうさんなんて死んでしまえばいい!という感情で頭の中は満たされる。 これが当然。
親は最後に、「自分が何をしたのかもう一度良く考えて見なさい!」 といって終わる。
反抗と怒りで満たされ、その場では受け入れ難い親の言葉だが、時間の経過と供に、叱った親に対するなんともいえない、甘ったるい、溶け込むような思いが心のそこから沸いて来て(本能)、そこで初めて親の言葉を素直に受け入れる状態が訪れ、
落ち着いた状態で自分の思いと対比させつつ 理解をする為の思考 が働きはじめる。
故に、それが自分の感情を少しだけ抑える訓練となり、しかしながら又同じ事をして叱られ、更にその次はもっと自分を良く抑えて親の言葉を聞けるようになる。
これを成長に合わせて複雑化しつつ幾度も繰り返していくことが、自分の感情を適切にコントロールして理解するという人間らしい心のトレーニングそのものであり、優れた人格へと成長していくように出来ている。
いうなれば、人らしいもっとも優れた思考は、正しく叱る(教育)という心のトレーニングが有ったからこそなせる業であり、これを叱らない、叱らなくていい等という方法にて回避し続けていれば、訓練をまったく施されないままに子供は成長し、やがて社会に出ると適応できなくなる。
問題は早い子で小学校高学年あたりから、たいていは不登校や引きこもりとなって出始めるのですが、 これは当然至極、当たり前のことだ。
次に、幼い子は自分が何しているのか分からないのだから、分かるようになるまで叱らずにいて、その時になった話して聞かせれば良いという事を言う人間もいます。
しかし、人は常に成長する生き物であり、過去の自分の上に新しい自分を創り上げていく生き物であることを理解していないからこんな事をいっているわけで、分かる頃になって話して聞かせようにも、蓄積された物を一気に塗り替える事なんぞ出来るはずもなく、親もそんな力等有るわけ無いのが普通。 そのために明日は、明日こそはと躊躇しているうちに手遅れになる。
この叱られた後にやってくる 甘ったるい溶け込むような親への思い は小学校高学年辺りまでしかなく、二次性徴期の到来(反抗期による独立)の到来と供に消えて無くなります。
さて、日本は、子供を叱ることが他の国々より多すぎる?という言葉を聞く事があります。 ところが家庭内で子供がどう振る舞うべきかという点においてはさほど厳しい物では無く、むしろ甘い。
簡単な参考資料 http://www.u-gakugei.ac.jp/~tam/research/culture/culture02.html
ただ、家庭外における対人的、対社会的 な面での躾においては逆に厳しく、これは当たり前の事なのですが、個人の利益を優先するヨーロッパ等と異なり、社会構造が調和を重要視する日本ではどうしてもそうなるわけです。
それだけ日本社会が成熟し、他者を意識して思いやる面が特段に優れていることを意味しているわけで、それが日本社会のあらゆる面に出ている。
例えるなら災害発生時の日本人を見れば分るように、本来パニックになるような事態が起きても他者を気遣う安定性にそれは表れ、それは幼い頃より子供に与えられている 型 が他の国に比べて厳しい事から来ている。
これを型にはまった教育だとか言い出し、個性を殺すだの、社会の硬直化だとすり替えて壊してしまえばどうなるか? この国が持つ世界が賞賛を送る優れた社会面が崩壊してしまう。
すこし話を変えますが。
よくお母さん方が口にする言葉を意識して聞いてると、駄目、早くしなさい、ちゃんとしなさい という3つの言葉が入ってきます。
これそのものは、しつけという面で絶対に必要なものですから、当然の言葉としてあるべきもので、これを口にしかたらと特に問題の有るものではありません。
ただ、この二つに否定の言葉を組み合わせているお母さんがいます。
極端な例で言うなら、
「駄目ったらだめ!なんどいったら分るんだ、頭悪いな!」。
「早く出来ないのかね~このノロマは!」
から始まって、
「駄目!何度言ったら分るんだこのバカ!」 、
「早くしろよ!愚図!」
「ちゃんと出来るでしょう?ボケ!」
等々、末尾に何らかの否定語をつけて各種言葉の暴力のオンパレードを乱打している親がいます。
これでまともな子が育つはずはありません。
子を育てるのは忍耐そのものであり、同時に理解させる努力の積み重ねが必要。
子は幼き頃より巣立ちのまでの長い期間を通し、親の姿をみて忍耐の基礎を学び、自分に対してしてどう接してきてくれたかという姿をみて努力という言葉を現実的な姿としてとらえて学ぶ様に出来ています。
しかしながら、面倒だから? イライラするから? こうした親の利益中心の理由と、あげの果てに付け加えられる言葉の暴力では、上記の重要な3つの言葉が心の中で良い方向に働くいわれは微塵も無く、親が言いたい放題した部分だけを子供は学び、蓄積され、将来他人に向かってその言葉を平然と放つようになりますし、当然親に対しても返してきます。
面度だからやらない、イライラするから他人に当り散らすという、親が子に接してきた姿そのままにですね。
イライラは、その背景として ”テキパキ動ける子になってもらいたい” という思いがあるわけですが、それは時間の概念が社会行動と気って切り離せない大人の世界で確立されたものであり、時間という概念をこの先長い年月を通して学んでいく子供に今すぐ出来るはずなど無い。
幼き子供は、全てがまず自分中心で動いているものであり、自分を外部の時刻という概念に適応させられるようになるのは、長年の教育の結果でしかないからです。
もしイライラするなら、それは単に自分の利益の為にそうなっているのだと思うべきで、早くしなさいと冷静に促す事までは教育の範疇にあれども、それを越えればそこには親の利益しかない暴力なのだと、そう考えるべきです。
しかしながら、駄目・早く・ちゃんと という言葉は、やがては子供をきちんと型にはめて世の中に適応できる最低の常識と人間性をもつ子に育てるには欠かせない言葉ですから(無しでどうやって育てられるのでしょうか?)、上記のように親の利益としてではなく、子の利益の為に使用されるのなら大いに使うべきです。
さて、叱らなくていい子育て関連の本などをみていると、叱らないようにする具体例が挙げられ、この場合はこうしたらよい、どうしたらよいと書いているものがありますが、
他の部分はともかくとしてこの部分に関しては内容がたいていは異常です。
”それが人の心の成長に必要なものだからこそ叱る”という思考はそこに全くなく、いかに 子供を旨くリモートコントロールするか?という、自分勝手(親の利益のため)な考えにもとづいての事しか書かれていません。
そして、その手法として悪用されているのが、子供の親に対する基本的愛情、「お母さんだいすき~」という、素直で無垢な美しい感情です。
幼い頃は、こうしたリモートコントロールの裏に隠れている親の怠慢等は見抜けませんから、これでコントロールされて良い子?になって、「良かった 良かった チャンチャン」となる。
しかし、子供はバカでは有りませんから、親が自分の純粋な感情を逆手にとって、自分をコントロールするための手段として使っていることにやがては気付きます。
恐ろしいのは、その際にそれまで心の中に築かれてきた、親の愛情という尊い物が一気に崩壊することです。
引きこもりはその主たる要因に 人の心を異常に怖がるという特徴があります、叱らない子育て、叱らなくて良い子育てという教育法が世の中に蔓延し、その広がりとピッタリ同期しつつこうした子の数が爆発的に増えました。
僕が教育研究させてもらっている施設には、その結果、親を含め他人の全てに深い猜疑心を持ち、それが引きこもりの原因として入校してくる子がいます。
自分の純粋な気持ちを親につたえ、その答えとして 澄んだ心を親から返してもらえなかった悲劇の結末です。
幼児期には、叱らなくていい子育ては確かに旨く作用してくれます。
しかしながらそれを小学校、中学校と続けて、親の愛情=リモートコントロール として育ち、さらにはそれに加えて叱られる経験をもらえなかった心は他人の感情(心)を理解する力が無く、いったいそれで子供は幸せになれるのか?
答えは考える必要も無いほど簡単にわかるかと思います。
叱る事は優れた親子のコミュニケーションである、それが分からなければ、そうした子供が育つのは当たり前なのですね。
子供は親との心のつながりを常に求めます、それに適するのは共感ですが、そこには親との人間的共同作業がなければなりません。
なんでもいいのですが、親と風呂に入る、工作をする、ゲームをするから始まり 親と海に行って一緒に泳ぐ、キャンプする、山登りをする、というレジャー的なものや、有る程度の強制を行使して日曜大工を手伝わせる、家事の手伝いをさせるまで。 いくらでも共同作業は存在し、そこで常に親の姿を見せねばなりません。
親が怪我したり足すりむいて痛がる姿、山の天辺で景色をみて感動する姿、日曜大工で作られた本棚が機能する感動、包丁を魔法のように使って料理をこなしていく姿。
そうした共同で何かをなしたことから来る共感以外の、単なる言葉がけは子供に何の意味も有りません。
楽しい、嬉しい、悲しい、困った、綺麗、おいしい、痛い、などのような喜怒哀楽の感情はただ言葉で言うことに意味は無く、親と一緒に何かをなさねば正しく理解する事は出来ないわけです。
幼少教育だ何だと、子供に英語を習わせ、単語覚えた子に向かって楽しいね、嬉しいねといったところで、共感などあるはずもなく、当然親を理解すること等一切無い分、心も成長しない。
これは単に親の利益の為のリモートコントロール方法を見せているだけで、これでは楽しいこと、嬉しいこととは、他者が評価するものなのだとして学びながら子供は育ってしまう。
代表的な間違い例をあげてみたいと思います。 この場合、子供の年令に応じて対処がことなるのですが、とくに反抗期に入る2歳から3歳頃までがややこしい訳で、叱らない子育てではどうやってするのかというなら。
子供に自分の気持ちを伝える言葉を使うとかで、
「そんなところに乗ったら危ないから、お母さん困るな~」 と子供の目を見て言う。
「落ちて怪我したらお母さん悲しいな」 とか、
子供を信じ、眼をみつめてじ~と待つ
そして子供が降りてきたら、「ちゃんと降りてきて○○ちゃんえらいな~と誉める。
分ってくれてえらいね~大好きだよ」 という。 抱きしめてあげると尚効果的。
何度も繰り返すようなら、 「○○ちゃんのことは好きだけど、そうやって困ることばっかりする○○ちゃんは好きじゃないな~。
お母さんの気持ちが分る○○ちゃんが好き。」
と相手をしっかり見て伝える。
こうして何度か繰り返せば必ず伝わるとのこと。
これ全て大間違いです。
理由は簡単、子供の行動を停止させて手元に引き寄せる(実際このためにこうするのですから)根拠が、子供の為にあるのではなく、
すべて親の為(利益)になってしまっているから。 怪我したら面倒というのがその最大の根拠だからです。
これで全く言うこと聞かなかったらどうするのか? 母親以外の他人ならどうするべきなのか? こうした基本的疑問すら現実的に解決できませんし、
それどころか お母さんが お母さんが お母さんがとすり込まれ、上手く育てば立派なマザコン息子養育という、
将来”不幸”な家庭を築くためのオマケまで付いてきます。
高いところに乗って不利益を受ける可能性があるのは誰なのか? それは子ども自身です。
一見よさげに見えるこのやり方は、幼児期における子の持つ純真な心を逆手に取る方法で、本来子が知らねばならない危険性を
親が面倒だからとすりかえてごまかしているだけに過ぎず、これでは一番重要な考える能力は一切育ちません。
故に小学生になるころになっても以前危険性が理解出来ず、それゆえ親の知らないところでさらに危険な行為をして死に至ることも有る。
思春期に問題を起こす子の親達から話を聞くと、共通した子供の姿があります、「小さい頃から親の言うことを聞くよい子だった」と言います。
子供が よい子になる理由は二つ、親の愛情を欲してよい子になる(演じる)場合と、このようにリモートコントロールされていた子です。
それ以外のきちんとした愛情を受けて育っている子は 良い子と悪い子が常に混同しています。
親が教えねばならないのは、何故危険なのか?であり、2歳から3歳くらいだと、高いところに乗れるといっても、せいぜい机かベットの上、大抵は何度もやりますから、実際に痛い思いをすれば自発的に”注意”するようになります。
なぜ注意なのかは、対象物を見てやるかやらないかは子供の判断ですから。
乗っているのを見つけたら「何やっている?」と聞きます、そこに理由が有ればまずそれを聞く、なぜならその乗っている場所の上に目的物があることが多々ある。
こうした場合は取ってあげれば自分で勝手に降りてきます。
それで終わる時もありますが、そんなに都合良く行くはず無いのも子供。
反抗期はまず親の言うことに抵抗しますが、これは自発性の目覚めで、この時期は体も軽く、危険性もさほど無い状況下でのチャレンジですから、上まで乗ることがその目的なら 最後までやりとおす事が目的完遂の充実感の基礎になり、途中で落ちて痛い目にあうのも、結果というものを認識する重要な経験です。
この場合、親としては 痛い思いをしたら可哀想だから?と言うことを聞かせるのが目的なのか? 子供が本能的に自分の力を測って学ぶ(経験)が大切なのか? と大きく分かれるわけですが、幼い頃に得られた経験は、後の進歩の原動力になります。
成功すれば充実感をともなって生きる本能を刺激しますが、その経験が無かった子は、本能が正しい方向で働かず、充実感の概念が希薄で、後に何をやっても中途半端になる。
人の心の基礎というのは、極めて単純明快な行動と、かつ身体的な感覚の積み重ねが可能な幼い頃の経験を元に出来上がるわけですから。
話を戻します、親は登っている子に「落ちたら痛い思いをするよ!」と子供に言います。
降りなさいと言っても「嫌だ」とたいていの子はまず言います、そこで「お母さんの言うこと聞かないと痛い目に合うから言っているの」という、やはり子供は言うこと聞きません。
そこで、「痛い思いしても泣くんじゃないのよ」、とそれで終わりです。
後は余計なことをいう必要は無い。
ただその場を離れる事は禁物。
もしどうしても付き合っている時間がない場合は、黙って引きずり降ろし、子供がそれに腹立てて地団駄踏み始めたら放って置けばよし、
高いところに乗って現実に子供が落ちるか?というなら、余りそうしたことは無く、現実に机程度の高さなら頭にでかいコブ作ってしばらく泣けば終わります。
これを繰り返すことで親の言葉が持つ意味を理解していきますので、こぶの上からヨシヨシと優しく撫で、注意は聞くものだと諭し、黙って抱っこしてあげればそれでよいわけです。
子供が痛い思いをしてそのうえ重ねて叱る必要などありませんが、こうしたやり方を聞くと「なんてひどい!」 と思われる方も多々いるでしょう。
低いところでも落ちれば何らかの痛い思いを子供は経験します。
不思議なことに、子供というのは自分の成長を確かめる方法としてあえて危険なことをやるようにできています。
自分の持つ能力を時々そうやって試し、達成感をエネルギーとして本能が常に測っていることから起きる行動で、これを辞めさせることは容易なことではなく、
さらに、 唯一、危険性が自分にもたらすのは痛みなのだという事は実体験でしか得ることが出来ません。
子供のころに経験した痛みの蓄積が、将来の大きな危険性から身を守る能力になるわけで、その為には小さな経験をたくさん積ませることが大切なのです。
ただ、この場合に気を付けねばならないのは、落ちた子供が泣き出した時に「落ちた理由を自分以外に向けることがあります、人のせいにする事ですね。 ヘタするとお母さんが悪い等と口にし始めることがあり、
この場合は頭ごなしにガツンと叱らねばならない。
子供は予め親から先を見越して注意を受けています、しかしながら痛い思いをした子は自分の非を認めません、失敗の原因を自分からそらし、他者のせいにするのが楽だからです。
最もあってはならない、人として許されない行為ですから、この場合は容赦なく叱らねばならない。
時折、「お母さんがわるかったね~」と、失敗の理由を親が悪いのだとなびかせている姿をみますが、将来子供に殴られる理由を
子供に刻み込んでいる・・・
子供の持つ達成感と本能を大切にしながら自己責任の概念、失敗を他人のせいにしない人間性を少しずつ育てていくわけですが、子供は色々な経験をすることで成長します。
大事なのは失敗を成功のヒントにする事が出来る力で、それは自分を振り返って反省し、次の成功へ生かしていける力にある。
その為には人のせいではなく、目の前にある現実を自分の物としてとらえる事が出来る様に親が導かねばならない訳です。
このように同じ事を通しても、二つの方法には大きな差が有るはずです、どちらが良いのかは結局親が選択する物ですが、大学卒業して現在親方日の丸の下で公務についている息子も、世界でセイルに風を受けた娘も同じ方法にて育ちました。
もっとも、全く同じ様に育てても、息子のほうは一度は不良行動しておりましたが(笑)
人間性は叱らない教育(リモートコントロール)によってなしえる物ではなく、叱るという親子のコミュニケーションを通じて嘘偽りなき親の心を知り、子供自らの力で進歩させていくようにしなければならないものなのです。