帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

しかし寒い

2010年03月30日 | Weblog
昨日の朝、バイクを出して乗ろうとしたらなんかポツポツ落ちている・・・・

「え? 嘘でしょ?」ってな感じだったのですが、これが雪。

まあこの季節に全く降らないって訳じゃないけれど、このところずっと寒いし、

職場に着くまでの間にアイシングなんか起こして、バイクはゲフゲフ咳き込むように走るし、スロットル握る指は凍り付くし。

だいたいアイシング起こすなんて、外気温が0度以下じゃなきゃ起きない。


と言うことは「マイナス?」

太陽活動と気温の相関関係はダイレクトであって数年遅れてその影響がやってくる、

2008年の夏に黒点0なんていうのが有ったので、それから約2年から3年くらい後が寒いと考えて良いのだけれど、活動の不活発期間が1年以上あったので(このところ持ち直しているようですが)、影響は今年から再来年くらいまで続くかも。

温暖化はしている(していた?、でも今は寒冷化?)けれど、それは人間の排出したCO2なんかが問題なのではなく、活発だった太陽の影響で増えていたわけで、吸収と発生の、特に飽和点を過ぎた20世紀初頭からわずかな温度変化で地球上のあらゆる微生物ふくめた生命体と海が膨大なCO2を出すわけで。

その量は人の出す量なんか爪の垢程度程度に感じられるほどの膨大な量で、それをもって人間が原因と言われても僕自身ぴんと来ない。

幾分持ち直してはいるものの、このまま太陽活動が低いレベルのまま継続すると、

本当に寒冷化していくことになる・・・

ナビ修理

2010年03月29日 | Weblog
息子の車に搭載されているナビはカロッツェリア(パイオニア)で、MDドライブのついた2DIN型。

ところがそれを壊してくれたんだな~これが。

何でもMDが突然に出てこなくなったとかで、デートドライブ中でナビが使えない事から焦ったらしく、車載している工具で何とかしようとしたのは良いが、こじらしてしまい、なおさらややこしいことに・・・・

たまたま故障したのが土曜日で、昨日は家にいましたから、すぐに取り外して修理にかかりました。

分解してみると、MD差し込み口にあるプラスチック製の部品が破損、それに連結されたスイッチが働かなくなっていた。

これがチャチな部品で、使っていれば折れて当然というか・・・・
とりあえず極細ネジとその辺にあったプラスチック部品を利用して折れた部分を再生。

全体を組み立て、ついでにDVDドライブとMDのレンズをクリーニングして修理完了?

車に戻して操作すると、MDの出入りがやはりよくない。

どうもローディング機構そのものがだいぶ摩滅している上に、こじったせいでか?か変形してスムーズに働いてないようす。

そういえばこのナビも買って3年になるが、息子が盛んにミュージックDVDやMDを使用するので全体的にガタが出始めていると言う方が正解かも知れません。

とにかくMDというソニーが造り出したこの規格は日本だけしか普及しなかったという事実が示す通り、トラブルだらけでいつ壊れてもおかしくないクズみたいなもので、カーオーディオでトラブルと言えばまずMDと考えても良い。

まあ今回の場合は違いますが・・・

とりあえず直ったけど「MDつかうなよ」といって息子に引き渡し、
しかし数十分後、「MD出なくなっちゃった、だはは」とやってきたのはその当人、

「おいおい・・・・」 (ーー;)

やるなというと、その禁止事項を何故かやるのが家の子(息子と娘)のもつ最大の特徴とはいえ、

「ま~た分解するんかい!?」 (^^;)笑





大人のADHD?

2010年03月27日 | Weblog
製薬会社の精神医学分野における薬物売り込みは、引きこもりが問題となった頃から激化。
元はといえばその問題に対して日本政府が薬漬けを大いに奨励するという愚かなことをしでかしたことから始まったわけですが

初めは子供という狭い範囲から始まって今では平然と大人のADHDだ等と言いだし、ネットではこれにあてはまる人はADHDだ等と、のたまわっている。

そうまでして薬物を売りたいのかと思うと製薬会社の倫理感というものに不快を覚えざるを得ないわけですが、

実のところ、ADHDだ等と診断されてた子達の90%以上(実際は99%)は異常とも思える親(特に母親)の思い込みや、他の子とおかしな(無意味)比較でしか我が子を受け止められない思考、マニュアル崇拝等々、また人を育てていると言う認識無い、いわゆるペットのようにして我が子を育てたり、恐怖の教育である叱らない教育等を本気で実践したりの結果として起きているのが本当のところです。

某社のHPをみるとADHDの症状に関する成長期の記述が以下のものとして書かれています。

いわゆるこれだとADHDの疑いがあるというわけですが、

乳児期 (~1歳) よく泣き、なだめることがとても難しく、歩き出すころには過剰な運動がみられます。また、フラフラになるほど眠りたくても眠ろうとしなかったり、食事を時間に合わせて規則正しく食べるリズムがなかなか確立しないこともあります。

幼児が泣くのは当たり前、なだめることが難しいのはこれまた当たり前、なかなか泣き止まないのはそこになにがしかの問題があるからで(たとえば紙おむつの締め付けがきつすぎる等)、常に我が子と密接でよく見ていれば容易にわかるものです。
1歳までの子がフラフラになるまで眠ろうとしなかったりと書かれていますが、生まれて間もない子がリズムなしの生活は当たり前だし、何をもってフラフラなのかと見分けるのかが不明、
さらに子供がハイハイしたり歩き始めればそこいら中に興味の対象があるのだから食事に集中など出来ないのも当たり前。
これでADHDだといわれても、国民1億そうか?と言いたくなる。


幼児期 (1~6歳) 落ち着きがなく、じっとしていられません。言うことが聞けず、破壊的な遊びを好むこともあります。我慢ができないために、ときにかんしゃくを起こすこともあります。また、言葉の軽い遅れがあったり、排泄の自立が遅れるといったこともみられます。

落ち着きが無いのは当然至極且つ当たり前、故に親は食事の歳に正座させるなどを通して忍耐強くしつけていかねばならないのですが、
3歳頃の反抗期が無い(やたらと素直に言うこと聞いている)ようではADHDではなく発達障害そのものなわけで、衝動的に友達とけんかも当たり前で、おもちゃ売り場で地団駄踏んでかんしゃく起こしたり、うまくいかないとオモチャを投げたりも当然かつ正常なこと。
やはりこれも親がきちんと接し、我慢と忍耐を教育していく過程で”普通”に解決していきます。 諭したからすぐに出来わけなく、時間をかけて身につけさせる物なのです。
破壊的な遊びというのなら、自分もそうですが、つかまえた昆虫の首をもいだり、ちぎったり、他の子がつくった砂山をめちゃめちゃに蹴り壊したり、よくやりました。
これがADHDなら僕は正にADHDということです。

言葉の早い遅いはその子の生まれ持った性格に大きく左右され、忍耐強い子はやたらと親に主張しませんからことばが遅いのは珍しくはありません。
排泄の自立? これも子供により違いが生じるのは当たり前のことで、特に夜尿が長く、よるおむつを着けて寝るのが小学校まで続いていていたとて、これまた別段おかしな事ではありません。


児童期 (7~12歳頃) じっと着席していることができず、座っていても常に体のどこかを動かしています。注意が散漫で、興味の対象がめまぐるしく変わります。忘れ物や紛失が多いのもよくみられます。おしゃべりで他人のじゃまをしたり、出し抜けに答えてしまったりする一方で、他人から話しかけられてもうわの空に見えることがたびたびあります。行動が突発的で、怒りをあらわにしやすく、友達と仲良くすることが苦手です。また、不器用だったり、勉強の遅れも目立つ場合があります。

いい加減腹が立ってくるのですが、こんな事は小学校では結構あるもので、基本的にじっと着席出来るかどうかは先も書いたように0歳から小学校入学まで家庭でどれだけできるかという簡単な問題が後を引いているだけの事でしかありません。
例えるなら幼児期から小学校入学しても、家庭で子供が食事中にフラフラたち歩いて遊びながら食事するのを、親が平然と看過していれば学校での問題は至極当然に起きることです。
又学校生活においての上記行動は、普通の子に当たり前に起きることで、興味のあるなしやいたずら、そのたもろもろ先生を困らせる行動はあってしかるべきもので。
それが人間という物を育てていくわけで、うまれもって出来る物ではありません。

この年齢の子が朝から下校まできちん授業出来るのだとしたら、正直その子はもっと深刻な問題を抱えていると考えるべきです。



思春期 (13~18歳頃) 多動性は減少しますが、集中が困難であったり不注意が持続します。ルールに従うことができず、両親、教師、友人と衝突することが多くなる場合があり、ときに反社会的な行動をとることもあります。学習意欲が低く学業の不振が顕著となり、自尊心が低くなることもまれではありません。その結果、やる気がなくなり、なげやりな態度になります。また学校生活への意欲を失い、自分の世界へひきこもりがちになっていく子どももいます。

「あ~もう」、ここまで来れば言うことありません。
思春期の心のあり方そのものを、反抗期含めてここではそのままADHDの症状としています。
ここで特に問題なのは、いわゆる非行、不良、不登校、引きこもりという子達はすべてADHDだとほぼ決めつけに近い記述がされていることです。

これが症状そのものなら、全人口の大半はADHDになってしまう。



さて、冒頭に書いたマニュアル崇拝、異常な神経質など、こうした親がこれを読めば我が子にどういった懸念をひきおこすか、まともな思考をもつ皆さんなら容易におわかりなられることかと思います。

ちなみに上記に書かれていることをそのまま我が家族で考えると、全員ADHDという診断が出そうです。

あまりにもいい加減、それが今の精神医療の実態ということですが、こうした物を読んで不安になり精神科を訪ねる、
医者にしてみれば、親からそういわれればわずかな時間でまともな判断など出来るはずもなく、DSVハンドブックだ等のテストを通して容易にこうした精神病にしてしまう。

それだけならまだ良いが、必ず薬物が処方され、子供たちは飲まされることになるが、
投与された薬物の怖さは依存性にあり、一度依存状態になれば麻薬と同様で、製薬会社は摂取量が増える上に永遠に続くそれに膨大な利益を得られますが。

本人はどういった一生をおくるのか? 

なんでもかんでも精神異常というのなら、まともな人間等この世のなかには一人もいなくなってしまうのですがね。

TRUE BLUE

2010年03月26日 | Weblog
ヒュン!  ガツン!  フォウ!  クゥウアア~ン! 

緩やかな上り坂、6足から5足へとダウンシフト、でもトルクは有り余っている、そこで又6足へとギアを蹴り込む。

軽いシフトショックと共にレブカウンターが激しく上下し、しかしすぐに2000回転で安定。

12000回転まで加速可能なマルチエンジンは、荒々しいパワーをエアロダイナミクスデザインで包み込み、設計者達の心意気はその伝統を振動という媒体で乗り手に主張してくる。

乾いて張り詰めていた空気はいつの間か失われ、その代わりに大地が放つ有りそうで無く、消え入るようで消せない香りを含ませながら訪れ、優しい色の天使一枚一枚は吹雪のようであり、雪のようでもあり。

「春か・・・」 

何気なくそれを受け取りたくなった僕は、並木の道路端にそっとバイクを停止させると、ヘルメットを脱いで感じてみる。

いたずらな南風が運んでくる太陽の輝きは、これまでも繰り返しもらってきた自然から贈り物。

受け取るたびに同じようでいて、その度異なるそれらは幼き日の夢でもあり、失恋の苦さであり、初恋の甘さでもある。

ふと、何かが頬をくすぐり、そっと手で触れてみると、いつのまにやら肩にとまっていた羽根毛のいたずらだった。

そのまま指でつまんで真っ青な空にかざしてみる。

ちいさなそれはあたかも積乱雲に見え、あわてんぼうで少しヤンチャな夏の天使にも感じられる。

指先の力をすこし緩めて、躰を通り抜けていく風に載せてみれば、

夏の天使は春風のシンフォニーにあわせて、くるくると別れの挨拶を数回しながら空のむこうへと吸い込まれていった。

「天使はよい風を連れて来てくれるだろうか?」 ふとそう思う。

そして僕は一言だけつぶやいた、「今年の夏によろしく」と。


合宿

2010年03月23日 | Weblog
恒例の合宿へ娘が行ってます。

非常に厳しく、ある意味普通の子では耐えられないような厳しいところな訳ですが、
いつものように平然と出かけていきました。

反抗期でもある娘にとって、そこは第二の家とも言える場所のようです。

このくらいの年齢の子は家にいて、始終親の近くにいますから、それが親の関係の断絶や隔絶を悪化させることが多いわけですが、

意味なくいらだつ心はそれが進歩の証であるものの、やはり不要なもめ事は無い方がよい。

このまま入学式直前まで家に帰ってきませんが、親と離れて同じくらいの子達と過ごす毎日はある意味ヒューズのようであり、息抜き?みたいなもの。

以前娘と話していてこんな事を聴いたことがあります。

「親といるとイライラするし腹立つから合宿へ行くんだけど、しばらくそこで過ごしているとどうしても家に帰りたくなるんだよね。」と。

「するとしばらく(数ヶ月)は大丈夫なんだよね・・・」とも。

なかなか心が通じ合わないと、親という生き物は心配事がどんどん沸き、それ故何とか手元に置いておこうとする。

しかしながら親の安心=親の満足でもあり、ある意味親の我が儘であって、その自分の姿勢をどう押さえてガス抜きさせるかというのが難しい。

親の安心は、子にとってそれは拘束でもあり監視であるわけですから。

長い休みのたびに娘はウインドサーフィンやヨットで荒波に揉まれてくるわけですが、

帰ってきた側娘の晴れ晴れした顔、特段荒れもせずに安定しているのは、この合宿(親と離れて暮らす時間)のおかげだと、そう思うことが多々あるのですね。

嫌われるのが親の仕事3

2010年03月20日 | Weblog
こうした事はなにも反抗期だけというものではなく、大人になって普段意識していない行動の中にも幼児期の頃の衝動をベースにしているということは、誰しも自分を振り返ってみれば多々あることではないかと思います。

青年期まで成長した子供と大人の違いは単なる人生経験の差でしかなく、積み重ねられた経験と知識の差が導き出す対処方法(処世術)の差こそが大人という姿(思考)そのものとして存在しているわけです。

大人らしいということは、それまでの経験と知識を元にどれくらい適切な判断ができることですが、具体的にそれが生かされていくのは生きていく過程に有る様々な局面に置いて我慢、忍耐、努力という行動で表される事が多く、またその意味を理解していることそのものをもさし、これがない大人は単に子供と何ら変わることはありません。

人は年をとるほど知能指数が高まるわけではなく、基本的性格がどんどんと進歩していくわけでもなく、ある段階において身体、頭脳の成長は終わりをつげ、後はそれを基本として経験によってたされる+αが付属するだけのことなのですね。


それではその基本たる成長がどの段階で停止するのかということですが、単純に第二性徴期終了(反抗期の終了)とともに終わりをつげます。

何度も書きますが、そこから先は経験と知識の積み重ねしかなく、
よく、若いときの苦労は買ってでもしろと言いますが、それは上記に書いたようにいわゆる大人としての思考能力の元になる重要な要素は、多ければ多いほどよく、同じ量を経験するなら若いほど、そして量も多いほどよく、なぜなら、それが基礎の上に構築されていく大人への条件である以上、若い頃に得た経験が後の思考において大きな影響を及ぼすからで。

たとえるなら、人の痛みというものを18歳で深く経験するのと、30歳で経験するのでは、その12年間という月日の流れがその人間の人となりを内部(自分)及び外部に構築していく差は非常に大きくなります。

人の苦労や痛みを18歳で経験すれば、それ以降は人の痛みというものを理解した思考判断が成り立ち、それが本人及び周りの人間関係に及ぼす影響は当然に大きく。
若い頃から人間性が優れているとして扱われますが、

これが30歳で痛みを知ったとて、それまでの人生はそうした面の欠落した人間として来ているわけですから、
その人間に対しての評価(人間性)というものがどういったものなのかは誰にでもおわかりになられるかと思います。


その4に続く

誕生日会

2010年03月19日 | Weblog
昨晩は息子の彼女を招いて誕生日会(彼女の)をしました。

家の娘とほぼ同様ですから・・・・

いい加減20歳を超えて「まだ家族でやるんかい?」と思われる方もおられるかと思いますが、いいじゃないですか、細かい事は (^^)えへへ

皆で(娘はカルピスソーダ)シャンパンにワイン飲んで盛り上がり、お腹いっぱいになったのにまだケーキ食べて、でもこの娘、よく食べるのに太らないのはなぜ?

最後は息子からきちんとプレゼント、そして家内から思い付いたような(笑)のをもらって、

いつも家庭に笑顔があるというのは、本当に良いものです。


二人の春

2010年03月18日 | 研究-教育・育児
生きていると、いろいろな事があります。

それは四季の様でもあり、希望に満ちた春、心がすさむ冬、やたらと順調にことが進む夏、そして物静かな秋というようにです・・・



昨年の今頃はどちらかというと冬で、でも力を蓄えて花吹雪を舞わせる桜のように明日を見つめていた我が息子。

今の様に経済が停滞し、日本の先行きに暗い影漂う状況では、恵まれた職に就くというのは本当に至難の技です。

昨年大学を卒業したものの、やはり今の状況に飲み込まれたのは息子とて例外ではなく、
友達含めて皆が適当なところで妥協していくなか、黙々とアルバイトを続けながら挑戦を繰り返しては現実に打ちのめされていたわけです。 

親も就職を焦らせるような事はせず、黙って彼を信用して見守るしか無かったわけですが、幸運にもわずか2%という門をくぐり抜けて春が来た。 といっても叩き上げが基本であるそこは必ず下積み職から始まるのが原則。


ただ、親方が日の丸というでっかい存在であることから、一度入ってしまえば極めて安定しており、特殊なそこは普通と異なって努力次第でいくらでもアップしていけるというのがここの持つ最大の特徴なのです。

親から見ればまだまだのヒヨッコの息子、まずはこれで足固めが完了、この先自分自身も安定させ(いま付き合っている彼女との結婚)、一番希望する道へ更なる努力を続けて舵を切るのか、それとも現在のところでそのまま上を目指すのだろうか?

すでに22歳という息子の人生に親が出る幕など無く、この先も見守っていくという事だけしか親には出来ない。

最後に、途方に暮れていた息子の側で常に支え続けてくれた、将来の伴侶(彼女)には親としてひたすら感謝の言葉しかありません。

良い彼女を持ったと僕は思っています、親として 「ありがとう」と言う言葉を贈らせていただきます。



嫌われるのが親の仕事2

2010年03月07日 | Weblog
第二次反抗期に、反社会的行動をする子を非行、不良、と大人たちはそう呼ぶことがあります、同じ反抗期でありながらこうした行動を取る事そうでない子に大きく分かれるのですが、これに関して「なぜ?」という疑問は誰にもあります。

こうした反社会的行動を散り始めた我が子に動揺し、その理由を親たちは探し回るわけですが、ここに明確な答え(理由)を得ることは非常に難しいというのが一般の認識だと思います。

実はそれがとても簡単なことであるにもかかわらず、心理学者も精神科医も、カウンセラーも、答えを導きだすことはできません。

故に難しいという言葉でごまかす。

なぜ難しいのかというなら、こうした人たちが持つ精神分野の知識すべては根本部分において大きな過ちがあるからで、それはすなわち人の持つ動物部分、本能を無視した問答の結果を集大成したものに他ならないからです。

前に書きましたが、人はその行動の基本すべてを本能に頼り生きています。

朝起きてから寝るまでの具体的行動の基本すべてをそれにゆだねており、人はけしてそこから逃れて生活することはできません。

いわゆる基本プログラムは本能であると言う事。

すべてを見通す鍵はそこに有るわけですが、それを全く無視して(無いものとして)表面的かつ外見的行動を体系化したとしても、基礎がないわけですから何を考えても難しく、また明確な結論など出るはずがない。

微分積分の勉強をいくらしても、その大元の(1+3×5÷2)-2+10÷2という極めて単純な計算にあるルールが解らねば永遠に答えが出ることはないのと同じです。



話を戻しましょう。

非行不良行動は反抗期の年齢そのものが半分大人として見られる、子供の身体的能力が大人と同程度になるから、大人の目にはっきり認識されるわけですが、やっている行動そのものを見ると、幼子がやる行動と全く同じ(本能)物を基本とし、そこに高度化された知識が加わって複雑化しているだけに過ぎません。

解りやすい一例をあげるなら飲酒タバコは自分を大人の姿に擬製することで、万引きや窃盗、恐喝は砂場で仲良し友達のものを勝手に取り上げるのと同じ、キャバクラや売春は単なる物欲に性的なものがからんで複雑化しただけのこと。

しかし、元は単純とはいえ大人とみなされることにより(幼児なら許される)常に学校、社会を巻き込んで当然のように複雑化、子供自身の認識の無さに社会全体の考え方が絡んで摩擦となりただただ複雑化します。

問題行動の大本はどれも簡単な要素から来ているわけですが、そこに反抗期が重なることで、行動も激化し、もともと独立と乗り越えることを本能が要求している以上はいくら親が言っても聞く耳などはじめからないわけです。


続きは3へ、
あと、来週は忙しいので週末ころに更新となるかと思います

嫌われるのが親の仕事

2010年03月04日 | Weblog
うちの娘もそうですが、子供が反抗期真っ盛りになれば親は嫌われるのが当然、

成長ホルモンと本能がもたらす正常な成長プログラムそのものなわけですから。

ところが、そうした認識が何故かなくて、我が子にすがりつくように一生懸命好かれる努力をしている親御さんが余りにも多い(というかこれが普通?)。

反抗期の子供は親の存在すらうざくなり、それは食事の際の口の動き一つから始まって服を脱ぐ姿までにおよび(笑)、結局のところその攻撃対象は目につくものすべてということ。

かといって、この時期に親へ放たれる言葉が子供の本心から出ているのかというなら、けしてそうしたものではなく、子供なりに後で嫌気を覚えたりしているわけですが、けしてそれを認めようとしないのも本能。

こうした不安定な精神状態になる理由は至極簡単なことで、要はそれまでの従属(親子)から対等(大人)への変化という事です。

子供時代はその身を守る事と生存が第一目標であり、子供は親へ従属する様に本能的にプログラムされています。

やがて身体能力も知識も高まり、熟成期に近づくと(といっても現代ではまだヒヨコ)、ホルモンの生産開始とともに、本能が従属から対等へとスイッチ切り替えを行おうとする。

この際に、行われるのは、それまで従属していた保護環境を片っ端に打ち破ることから開始されるわけですから、当然親のやることなすことに腹が立つ(笑)。

この切り替えは一気に行われるものではなく、数年という歳月を費やしながら行われますが、

その際に親とのさまざまな摩擦を通して自分を確立(他人との絶妙な距離)し、同時に他人という存在(社会)も確立するわけで。

しかしこの反抗期がない場合は、常に自分の精神的安定を求めて誰かにもたれかかりながら生きていくことになるわけで、こちらの方はさらに恐ろしい。

訳のわからない理屈で反抗する子に悩み、「反抗期なんて無ければいいのに」なんて言う親御さんが多いわけですが、有るのが当然で、また激しいことはけして悪いことではないわけです。

ただ、この激しさは”良”という考えも、反社会的な方向で激しくされてはたまらないのは親だけにとどまらず社会もそうです。

では同じ反抗期でその反抗心を反社会行動として取るかどうか、また取ったとしてもどの程度で収まるのかという事に関してですが、

これは次回、書いてみたいと思います。

太っ腹がどうとか鳩山首相 「たかが外国人参政権?」 杉並区の事実

2010年03月02日 | 世の中
「外国人に地方参政権ぐらい?あたえてもいいんじゃない」、なんて言う人が多いが、

東京都杉並区で起きた事実(区長より)をここでは目にする事が出来る。

参考までにアップ

Yahoo! みんなの政治 VOICEから紹介

http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100216-01-1401.html


一部抜粋

関係者と思しき人びとが大挙して傍聴に訪れて傍聴席に陣取り、大きな声で野次を続けた。議会の傍聴席でそのような行為は禁じられており、議長も注意をするのだが、どんなに注意されようとも意に介さない。さらに、区長室の前にも多人数で押し掛け、シュプレヒコールを繰り返したのであった。
 
 もし、外国人参政権が付与されていたらどうなっただろうか。外国人が区長や区議会議員に対する選挙権をもつようになり、そのうえであのような激しい抗議活動が行なわれたとすれば、与野党を問わず、彼らの顔色を窺おうとする議員が出てきただろう。また、たとえばルール違反の抗議活動を排除しようとした場合、これまでならば、「日本人が責任をもつべき教育の内容について、このような干渉をするのは失礼ではないですか」と主張することもできたが、外国人参政権が認められていれば「同じ有権者なのに、われわれを日本人と差別するのか」という話にもなりかねない。





http://seiji.yahoo.co.jp/column/article/detail/20100216-02-1401.html

一部抜粋

 彼らがマニフェストに高々と掲げ、日本国民に問うという手続きを踏んだうえで外国人参政権の問題を進めるなら、まだ話はわかる。だがその部分を隠し、外国人にだけ約束するのでは、まるで民主主義の体を成していない。マニフェストにないからこの問題には取り組まないと思って投票した人は、民主党に騙されたも同じである。
 
 民主党政権には、自分たちがどこの国の政権かという認識が欠如しているともいえるだろう。「友愛」を看板にした無国籍政権、さらにいえばまったくの媚中・媚韓政権である。中国、韓国に対して「対等」ではなく、「卑屈さ」ばかりが際立つが、このような「卑屈」な国家関係ができあがれば、いずれ必ず争いが起こる。