帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

叱ること その2

2012年01月30日 | 研究-教育・育児

子供を叱ることは正しく、しかしながら叱る事、叩くことに制御が効かなくなる母親がいます。  

*その1の最後に出てきた癖になる親のことです。

なぜ、歯止めが効かなくなるのか?

その理由は至極単純明快、単に心が弱く、そのうえ逃げ姿勢で親が子育てをすれば、当然にそうなるということだけで、

な~んにも難しくない。 

 

この世の中は様々な人間の集まりで、そうした人は統計的に必ず存在しますから、それも当たり前の事なのですが、それではなぜそうした精神的軟弱な人間が出来上がるのか?というなら、その者が育った家庭環境に始まりがある。

一番簡単な原因としては幼い頃から我慢、忍耐を出来るだけ排除した条件(箱入り娘・苦労知らず等)で育ってきた場合で、こうした者が世の中に出ると、わが身へ降り注ぐあらゆるストレスを旨く処理できず常にイライラを抱え、そこにきて子供を授かったりすると、そのはけ口(心でおかしな処理をする)にしてしまう。

心はというのは、生まれながらにその限界性能を定められてるものではなく、骨や筋肉と同じく鍛えることが可能なものであり、

本来は小さな我慢と、忍耐をたくさん積み重ねて育つことによって、精神的に安定した強い人間へと成長するようになっています。

ちなみに小言もその鍛えるの事の一つで、叱るはその一番上に立ちます。

 

故に、叱られる事無く、ほめて育てられた者というのは、これより更に悪質で、本能がもたらすもっとも強くて強大な感情(怒)に対してろくに晒されずに育ちますから、社会に巣立ってほんの些細なことで、あっという間に容量オーバーをする。

本来、親から繰り返し叱られる事によって、目の前にある”怒りの種類と方向”を正しく読み取れるように訓練(学習)されてくるはずの心は育たず、相手の心が読み取れないことが、全て自分を破壊する攻撃にみえてしまう事が精神的パニックを引き起こす。

さらに ほめて育てられた事で、根拠の無きプライドだけはやたらとでかいうえに、人の話を我慢して聞く訓練(学習)すらされていないのでどうにもならない。

続けて幾度か叱咤されたり、強く叱られたりすると、親と自分以外の人間は全て加害行為を加えてくる存在の様な思いに心が支配され、それが自信を失わせて自己否定(でもプライドだけは異常に高い)へと結びつきやすいことから、最終的にオーバーフロー(心の処理の限界超え)して精神を病む・引きこもる。という退避行動をとるか、反社会的行動をとりやすい。

両方とも叱られる事のもたらす恩恵(怒りの感情に対する心のトレーニング)を理解できないという至極単純な事が原因で、幼い頃から正しく叱られてこなかったことがもたらす悲劇ともいえるでしょう。

 

結局、人は本能を中心とした感情変化の中で生きているもので、心の受け入れられるストレス許容量には、それぞれが育ってきた環境による限界があって、それを越えると、大抵は自分への攻撃、退避、もしくは無抵抗なものへの攻撃というかたちを取って、そのはけ口を求めるわけです。

 

さて、そうしたはけ口行動の一つとしてよくあるのが、虐待という行為です。

特に叩くことが止らなくなる親は、単純に子供へ虐待をしているわけでして、当たり前ですが叩くことも叱るの延長にある以上は、当然存在すべき親の正しい行為であるものの、限度を簡単に越えて虐待化してしまうのは、本能(怒)を旨くコントロールできない誤った理性と、精神的虚弱がもたらすものです。

こうした行動のカラクリ(理由)は難しくもなんとも無く、とても簡単な事であり、一般的に言われているような心の闇等というような訳の解らないものではない。

 

本来叩くことは、心の訓練という方向から見ても正しいものと書きましたが、その正しいはずの叩くを単なる虐待にしてしまう親は大きく3種類。

一つは幼い頃からネグレクトや虐待をうけてきた、二つ目が生真面目で妥協をゆるさない、もう一つがほめて育てられたか叱らない子育てで育てられた。

大抵はこの3つのうちのどれかです。

以前はネグレクトや虐待を受けてきた子供が、親になって我が子にやるパターンというのが殆どで、これも彼らの理性が虐待を受けるのが当然という環境で育ってきたからで、彼らは虐待が虐待であるとわからない理性によって本能がコントロールされるから起こるわけですが、ただしこの場合は、子供を死にまで至らせるまでは行かないのも特徴。

自分が痛みを知っている分、そこまではやらないわけです。

 

そして、ここ15年位前からつい最近に至って爆発的に増えたのが ほめて育てる、叱らない教育で育った子が親となって我が子に虐待するというケース。

これは上記の虐待、ネグレクトを受けてきたケースとは異なり、痛みを知らない分、容易に我が子を死へ導いてしまう。

熱湯を頭からかけたり、真冬に裸で外に叩き出したり、餓死するまで食べ物を与えない等々の惨劇。

大抵は凄惨な結末になるわけですが、そうした残忍な姿が有りながら、普段はまったく違う顔を見せながら社会行動をしている事が多く、この場合は事件になると会社の同僚は信じられないと一同に口にしてメディアをにぎわしたりもしています。

 

さて、先ほどから書いている、子供を叱ると止まらなくなってしまう親ですが、泣いて誤る我が子をしつこく叱りまわした(というか虐待です)あげく、最後には必要も無い手を上げる、 それも何度もです。

さて、これを本能軽視で構成された西洋式心理学などを習っている先生や学者さんに聞くと、必ずこうした答えが返ってきます。

それは”ストレス解消行動として「叩く」という行動として現れるのです”、と。

さらに叩くことで快感を覚えるからとか、等ともいい、だから又無意識のうちに叩いてしまうともいいます。

これが叱ることを教育から排除するという彼らの大きな建て前(理由)になっているわけですが、 

はい! これ、とんでもなく大きな間違いです。

快感を覚える? ストレスが解消? 「は~?」と呆れると同時に、ひたすらため息が出てくるのですが、なんでこうした西洋式心理学は大間違いを教育界に教え込むのか?といささか怒りすら覚えます。

 

これはストレスの開放のためにそうした行動を取るのではなく、自分が子供を旨くコントロールできないことへの責務を過大に感じ、しかしながらそこから生じる自分への反省や自戒ができず、現実を受け入れる能力が乏しいことから、本来自分に対して厳しく律せねばならない行動を、方向違いの我が子に代行(攻撃を加える)してもらう行為そのものということです。

そしてその代行は、肉体的痛みというわかりやすい形にして現れることが多い。

これが本当の理由です。

本能を中心にして人の思考を考えると、こうしたことは至極簡単に解る訳で、上記の虐待3パターンは最終的にすべてこれに帰属しており、根本は皆同じ。

 

故に・・・・、ドンドンとエスカレートする。

本来は自分に対して冷静に向けねばなら無いはずの、間違った方向へ放っているのですから、親本人は一切痛みを感じること等ありませんし、しかしながら得られるはずも無いはずの痛みを本人は求めいるので酷くなる。

 

その心理的背景は泣いておびえる我が子の姿に、懲罰を受けている自分の姿を重ねる、完全な自虐行為のゆがんだ形態の一つ。

まとめると、自分の心の処理に限界を覚える→ 漫然たる不安と恐怖が心に沸き→しかしながら虚弱な心は現実を理解して処理することができない→ 表に出ない自分への失望→怒りを引き起こす。

そして、本来なら強い精神力が我慢と忍耐をもって自分を冷静に律し、何がどうで、どこが間違いか?等を自分自身に問いながら正しい方向へ自分を持っていく。

という、大人なら当然できねばならないはずの事が殆ど出来ない。 だからこそ問題が起きる。

*場合によっては、自分のしている行為を初めから否定しているので、自分が起こしていることの意味すら考えさせない心の処理をしている場合すらあります。

基本的に忍耐と我慢ができない人は、苦しさを受け入れられないと必ず逃げ行動をとり始めます。

逃げは

1.無視(無いことにする)

2.攻撃(逆切れ等必要以上の怒りを引きおこして相手を威嚇して黙らせようとする)

3.代行(自分にできるだけ近い、しかも無抵抗の存在へ攻撃を加えて自分への戒めをかわってもらう)

として出やすく、一応親としての自覚が有って適度な自制が効いていると、完全な無視と攻撃はありませんので、当然というか代行行動が一番出やすい。

家庭内暴力も基本的心の背景は同じで、よく夫が妻に、子供が親にと、よくあるパターンですが両方とも攻撃でそこには”逃げ”があるのです。

代行であると、母親が当事者なら、相手として自分と一体化している認識が強い、”弱くて無抵抗な我が子”に向くのは当たり前。

 

なぜ、叩くのが止らなくなるのか?ですが、子供が泣いて傷つく姿は、自分への制裁実行を代行してもらっているわけです。

母親は我が子を自分の一部と考えるように本能が出来ていますので、我が子への攻撃が自分への制裁と同一化しやすく、しかしながら

いくら叩いてもけして感じることのできない自分への痛みを求めてエスカレートし、しかしながらある段階まで来るとハッと気が付いて自制がかかる。

感情が収まれば正気に戻って叩いた子への罪の意識を強く感じ、それがまた自分への懲罰行動の原因として積み重なっていく。

そこには自分の”逃げ行動そのものを認めない”というこれまた逃げの心理的背景(自分を守って保護する)があるので、理由等が解るはずもなく(*理解しようともしない)かならず「なぜか叩いてしまうんです・・・・」といって何度も繰り返し、それによりまた自分の心に傷が付いて、それが更にまた虐待行動を招く。

いつまでも続くサドンデス・・・・・・

こうした虐待をする母親の良くある行動のひとつに、自分のやっている行動を誰かに話して聞いてもらうことで、これは過ちを指摘してもらうのではなく肯定してもらおうとする事があります。

結局、これは自分への甘ったれた心を肯定してもらい、それが普通ですよと肯定してもらう為の口実探しをし、誰かが不完全ながらも同感したり恭順してくれると分ると、そちらに快感を覚えますから、又それを得る為の虐待をします。

 

すこし話は飛びますが、別の形態として、子供が成長して当り散らせなくなった場合等、その殆どが夫に矛先を向けるパターンが多く、完全な人間などいない世の中を考えもせず、見渡すこともなく、なにより自分自身の人間性を問うこともせずに、ひたすら「あーだこうだと」些細な伴侶の欠点を探し出しては不満を募らせる。

自分の伴侶は最低で、自分はこれだけ不幸なのだと、自分で自分に刷り込んで、そうして自分はこんな伴侶と結婚するはずではなかったなどと考え始める。

近い存在をさげすみ足蹴にすることで、自分はすぐれた人間なのだと自らを持ち上げる(自愛)ことで、自分を保とうとする愚かな行為で、

それもまた、やっている者は自分を振り返ることが出来ません。  逃げているわけですから。

 

これは丁度子供が思春期を迎える頃に一番盛んになりやすい行動で、我が子が反抗期に入りって全く言うことを全く聞かなくなると、それが本能のもたらす独立行動の一つであることなど全く考えもせずに(というか逃避して考えられない)、ひたすら伴侶に何とかしろとまくし立てる。

大抵は「あなたがだらしないから子供がこうなった」と攻撃し、そして離婚して子供と二人になれば、自立し始めた我が子が再び幼子の頃の可愛い姿に戻ってくれるかのような錯覚を抱いて離婚を宣言する。

子供を自分との閉鎖空間におくことで、再び昔を取り戻そうと試みるわけですが、そんなことで子供は幼児に戻ることなどない。

まあ、当の子供自体は、親の離婚など寝耳に水なことが多く、何でババアと二人で暮らさにゃならんのだ!と、捨て台詞はいて、親の愚かさまで背負わされて極端な非行報道に走ったりと、誰しにもある多少のわき道を遙かに抜け出てエスカレートして止らなくなることがある。

*親のすがりつきが、子供非行を激化していることが多いのですが、割とこれは知られていません

 

こうした一連の行動は、何度も書いているように厳しく自分を自戒できない精神的弱さが根本原因で、ただ、代行行為は冒頭の無視や攻撃と異なって、本来は自分へ向けて発せされるものを基本としてるために、虐待を我が子以外の他人に向けて発する事は殆どないのは当然の行動なのです。

 

*ちなみに一般的に言われる、指しゃぶり、チック、爪噛み等は、これと似た行動ですが、まったく別ものですので、同一に考えてはなりません。


結局、どんな人間であれ、子供を教育していく過程そのものは、自分が親として成長しているわけで、多くの事を子供と供に学んでいるわけですから、叱り過ぎたり、あるときは必要以上に叩いてしまったりという事は当然に有ること。

親は子供を持った瞬間に完全な親になっている訳ではなく、試行錯誤を繰り返しながら親へと成長していくものなのです。

しかしながら、そのためには、自分の行動をしっかり認識し、きちんと反省し、直さねばならないものは直し、反省すべきことは反省する。

けして逃げてはならず、忍耐強く、我慢強く自分を育てねばならない。

 

ほめて育てる教育、叱らない教育、これらの持つ最大の欠点は、叱られること、という怒りを原点とした複雑な人の心(感情)の種類を学ばせない事にあり、

叱られることで養われる自己反省力、すなわち叱られる際に当然求められる,忍耐と我慢で自分の感情を抑えながら自己を振り返り反省する力という物が一切養われない。

 

叱るは、本来本能がもたらすものであり。

人が持つ怒りには単なる破壊の怒りや、暖かき怒り等万の種類があり、それは幼少の頃に親からたくさん授けられることで初めて理解可能になるものであって、そうして深い心の学習をしながら成長することによって、

将来、対人関係をうまくこなして行く力そのものになる。

それが、本能軽視の 叱らない派や褒めて育てる派には解っていない

心のトレーニングを怠れば、KY、自分勝手、他人の心がわからないし読み取れもしない、それはアスペルガーの特徴でもあり、人工的に造られた精神病そのものになってしまう。

そうしたアスペルがーもどきの偽アスペルガーがそこいらじゅうを闊歩しているのも今の日本社会。

 

我が子を叱ることは本来つらいものです、痛みもなく、つらい事も無い子育てなど存在せず、つらくなるので叱ることを止めましょう等というのは言語道断。

叱ることで知る痛みやつらさがあるからこそ、行き過ぎた虐待はなくなり、親は本当の親へと成長できるわけですから。

故につらくなければ虐待しているかどうかも解らないということ。

叱る行為に落とし穴などなく、あるとすれば、逃げる自分のすがたこそが落とし穴そのものを作り上げるのだと学ばねばならないわけです。

 

最後に、叱ることは、怒りを原点とした、人の本能行動。

ゆえに的外れの怒りだったり、間違いのある怒りだったり、それで子供に接してしまうことは、必ず有る。

しかしながら何度も書いているように、親は子供を授かった瞬間から親としての成長をはじめ、子供はそうした親の不完全部分を含めてあらゆる面を学習しつつ成長する。

親として間違えたなら正せばよく、子供は親が自分を正している姿を見つめつつ、また成長していく。

これが、子どもが愛されていて安全だと感じられる親子関係ということです。

 

こうした親の姿があるからこそ、子供は豊かな感情と正しい心をもつ人間に成長できるわけですが、ミスを恐れる子育てをしていると子供もミスをおそれて、逃げの姿勢になります。

人は人なのだと、完全で無い自分に大きな自身を持つべきで、そうした親の前向きな心があれば、子供も自然と自己肯定感を持つ子になります。

褒めていても、叱らない子育てをしていても、けして自己肯定感を持つ子供に等、育ちはしないのです。

 もし自己肯定間をこうした教育で我が子が持っているなと思えたなら、それは将来、人間関係を悲劇に導く”根拠なきプライド”が我が子の心を蝕んでいるということです。

 

 

 


叱ること  その1

2012年01月27日 | 研究-教育・育児

人間性、そして徳を我が子に育てるに、一番大切なのは何か?というなら、叱ることです。

*注意、叱るは人間性を育てるに必要な際に行われる親子間の最大コミュニケ-ション、小言とはまったく違うので勘違いなきように。

*ご飯が遅いとか、忘れ物するとか、片付け出来ないとかで親が子供に何がしを言うのは単なる注意の連発=小言。

とはいえ、普段子供と接していて叱る事等、そうは無いはずで、”成長を見届けている時間”の中では1%にも満たない程度の時間すら消費しないものですが、それであるからこそ大切。

念のために小言を一応これに含めてみると10~30%(年令より変化)くらいでしょうか。

褒められているより、小言聞かされている時間の方が多く、多くの人(まともな教育を受けてきた人達)はそうした家庭環境で育ってきているのが普通です。

ちなみに褒めるは10%程度の時間。

あとは単に見届けている時間です。

子供の将来(精神)を破壊する極悪教育たる”ほめて育てる教育”では、この10%が60%から80%へと格段に増えるのですが。

その理由は、子供の人間性を育てる事ではなく、親にとって都合よい人間にする目的をもってなんら労せず(心の葛藤無しに)にリモートコントロール(操作で育てようとすることが本音(メイン)。

故に、干渉する時間が長く、膨大な時間を消費したうえに、親への依存人間に成長する。

 

まあ、ここまでいかないにしても、結構多くの人が、叱るという貴重な1%の時間すら削ろうと努力しており、その理由を問うなら、心が傷つくだとか、のびのび育たないとか、抑圧された子になるだとか、そして叱る事が親の権力を振りかざすことだからいけないとかなんとか、ここまで言い出すと完全に喜劇。

「その根拠はどこから来るのだ?」とも聞いてみると、これこれの偉い教育学者が言っているとか、教育評論化がどうとか、心理学を学んだからとか、自称教育関係者でその道のプロだからとか

不良、非行、引きこもり、無気力等の大きな問題を抱えた子達と直に接するわけでもなく、何が原因でそうなったのかを肌で知ることもなく、そうした子達を正しい方向へ導くために行われている緊迫した指導現場に身を浸してみることもせず、単なる普通の子達(しかも結果ではなく過程の一時)をみてきた経験と、紙から得られた知識が思考の基準。

そうした者達の共通する煽りかたとしては 叱ることがさも大きな落とし穴であるかような喧伝を繰り返す手法を多用し、同時に理想を振りかざすという、一見口ざわりの良く思えてしまうこうした者達の言葉に、実際、誰もが動揺させられてます。

しかしながら、”叱ること”が、歴史的にみてこの国の子育ての中心となって来た絶対事実というのは、それが健全に機能しているかどうか?プラス方向へ作用しているか?という方向で考えてみるなら、 もちろん答えはYES  叱ることで築かれた人間性はきちんと機能もしているし、健全に作用もしている。

どんな歴史書見ても、遥か昔から現代に至るまで YESという答えしか見つからない。

わけの分らない子育て論等がなかった、いわゆる体罰まで含めた厳しい家庭教育が当然として有った時代巨大な落とし穴で、それにより心がゆがんでひねくれた人間達で世が満たされた暗黒の時代というのが現実に有ったのなら、

人々は叱ることが癖になって、さらには当然の様に行われる叩く(虐待)と共に人々は育ち、それによる おどろおどろしい精神構造で社会は全て支配され、悲劇と悲しみの中にすべての日本人が埋没して苦しむ世の中が有ったに違いない訳だが、そんな歴史的事実など聞いたこと誰があるでしょうか? あらゆる日本の歴史にそうした事実が有った等とは誰も聞いたことすら無い。

それどころか、今この瞬間の方が、社会が精神を蝕まれた人間に日本が覆われ始めた、初めての歴史として刻まれつつある、という方がよほど正解だ。

*ちなみに源氏物語の中に「最近の若者は言葉が乱れていかん」なんていう記述は残っている(笑)

さらに、叱る事が当たり前であった時代が、ろくでもない人間性にあふれた人々で溢れかえっていたという、叱らなくていい子育て、ほめて育てる信者達の言うとおりだったのなら、この国は類まれなる世界一ゆがんだ国家と国民であったはずだが、西洋人が僅かなりとも日本に訪れ、その記録が紙面としてのこるようになった時代から明治の頃までに残された記録は、一様に日本人の素晴らしさに賛美を送っていた。

これは、もともとあった日本の教育が、本能を大切にした教育に他ならなかったからで、だからこそ、開国後に信じられないくらいの短い時間で世界トップクラスの知能と教養を持ち、同じく世界有数の経済力を持つにまで至った。

なぜ、本能を大切にしてきたのかと言えるのだ? の根拠ですが、実のところ、皆が知らないうちにそうした本能を大切にする事がこの国の子育ての礎として存立してきたことは全くと言って良いほど知られていない。

 

少し時代は飛ぶのだけれど、仏教がこの国に伝来した理由はなんであるか?を皆さんはご存知であろうか? 500年頃の飛鳥時代に聖徳大使を初めとして当時のトップ達が積極的に取り入れたわけだが、これが日本古来からある神道と対立することなく融和しながらここまできたことに、不思議さを全く感じえないであろうか?

この不思議な両立の理由は至極簡単なもので、仏教の教えそのものが、宗教なのではなくて学であるということ、それは本能と理性の調和にあったからだ。

時の飛鳥時代は、曽我氏などの大きな豪族が力を持ち、繰り返される戦乱とそれにより、すさんだ世になりつつ有った。

なぜそうした世の中になるのかというなら、それは理性に大きな問題があるからで、故に”理性は間違っているので、本能を良く学び、道を開かれよ”という仏教の持つ本来の教え がこの時代にマッチしたからだ。

故に神道と融和しつつ、互いに侵食しあう事もなく現代まで来た。

*参考までに僕は無宗教者ですので、先入観など全くなく仏教にたいする分析を冷静にすることが出来ていると思っています。

 

 

この、理性は間違っている というのは、一般的常識からすれば「は~?????」と疑問を抱かれると思うのだが、これは自分の持つ喜怒哀楽は精神状態が冷静であれば正しいはずだ、思う常識?(実は思い込み)からきている。

なぜ間違っているか?ですが、それをこれからお話しますが、退屈かもしれませんが、ぜひ話を聞いていただきたい。

当然ですが、人間の思考は常に本能の上に理性が築かれることで成り立ちます、それはその時代の社会的背景を中心とした教育によって出来るもので、、本能は基本プログラムであり人間の性、故に生まれて死ぬまで普遍で、しかしながら生きていく環境に旨く適合できるように理性が本能にプラスされることでその時代の生活環境にうまく適合するようになっている。 

理性はその時代と供に様々な価値観をもって人間の行動を引き起こすわけで、故に本能の使い方を間違った教育、もしくは軽視した教育は理性に必ず間違いを起こさせるわけです。

これに絡んでの事ですが、有名な般若心経の中に出てくる””と言う文字があり、それは理性そのものを指し示し、常に間違いを犯す可能性があるのだという意味のという文字に接続されている。

先も書きましたがが、飛鳥時代は豪族勢力の争いあう荒れた時代であり、聖徳太子は当時の人たちが持っていた理性の間違いに気が付き、その過ちを正す為に、本能との正しい調和を解き明かす学たる仏教を取り入れ。

その力で多くの民を導くことで、その争いの元が自分達のもつ誤った理性そのものあることを悟らせ、同時にそれが本能のどこから発せられているのかと考えさせることで、煩悩すなわち争いの基となる欲を排除することが可能になると考えたわけだ。

本能は正しく、理性は間違いだからもう一度見直すことを薦めることで、荒れた世を間接的に落ち着かせようと試みたのですね。

 

そして、本能学の一つの形態である仏教は、そのあまりの解りやすさから当時の人々に浸透し、あっというまにひろがっていく事ができたのです。

 

以上の話は、私が独自の教育研究(本能論に基づく分野)を行うに際し、師と仰いでいる方が教えたくれたもので、師は、仏教の発祥地に残る仏教原文(殆ど言語として失われている言葉で書かれた経典)をパーリー語等、4つの辞書によって現代語へ翻訳し、それによって本来の意味を知ることができたと語っています。

残念ながら、現在の仏教はその本来の目的を完全に失っただけではなく、意図的に難解化され、何代にも続く時の権力者の都合よい解釈を大量に付け加えられた事で、まったく違った教えになってしまっています。

ちなみに仏教で悟りを得るとは、自分の持つ理性(その時代の人間がもつ常識)をすて、本能を素直に認めて物事を考えることが出来ることを意味しますが、悟りを得るとは本来そうした誰にでもできることで、訳のわからない修行をしたものだけに認められるものではない。

ごく庶民的なもの(学)ということです。

 

まあそんな話は別として、そろそろ話を戻しますが、

本来有った、本能を正しく捕らえる教育を失ったこの国が現在抱えている社会問題、すなわち叱られずにほめて育てられた子達の姿はとんでもなくひん曲がった理性そのものというわけです。

一例を挙げれば、働きもせずに生活保護をもらい、幼女の裸体みて夜昼逆転生活というのも、彼らがもっている(正しいと考えている)理性のもたらす結論なのですから

 

さて、叱ることでよく問題になるのは、叱ることが癖になるという言い草ですが、本当に癖になるのか?  という事について、答えははっきりNOと僕は言い切ります。

もし叱ることが誰でも癖になるものなら、あえて癖になるという言い方をする必要は全く無いわけで、何故ならそれが普通の人間の、当たり前の行動なのであれば、それは癖ではなくて常識になってしまうわけです。

故に、癖になるという言い方自体がそもそもおかしいわけで、そこに論理的破綻がある。

はて?、それではあえて癖になるという言い方をするのは、なぜか?

それは単にその対象たる相手が他とは少し異なるからで、いうなればそこに癖になるという言葉を使える対象物たる事実や相手がいなければ成り立たないわけです。

それ以外は問題なく叱ることが出来ているわけで、しかしながら普通の子育てが出来る人間ではなく、普通が出来ない者を対象にして叱らない教育だ叱らなくていい子育てだと、それがあたかも世の中の全ての親たちがそうなのだという自分勝手な決め付けで考えて煽動するから、無関係な者たちまでもが巻き込まれて全体がおかしくなる。

子供を叱る行為は、本来全ての生き物に備わる本能であり、それは又その生き物が高度化するほど”叱る”は顕著な行動となって現れます。

いうなれば、生物は高度化するほど叱る行動が多くなり、それが自然や外的から身を守り、子孫繁栄のために備わる当然の行為で、これはまた本能であるが故に、けして心の成長と切り離すことはできないということです。

人で考えるなら、人類として生物界に存在を置くようになった数百万年昔から現代にまで受け継がれているもので、本能が正しかったからこそ、生き延びて繁栄できたわけで、本能が間違っていたら、とっくに絶滅している。

本能は、いわゆる基本プログラムにあたるもので、叱るはその一部であり、しかしながらその叱る行為そのものは時代を生き抜くために常に変化しながら必要に応じて実行されるのが正常であり、それを拒否することそのものが誤りだということです。

この本能行動は、大脳基底部にある脳幹がその発信源ですが、脳幹そのものは怒りの感情を掌っています。

いうなれば本能=怒りが人間のもつ感情の基礎であり、その上に哀楽が成り立ち、最後に喜の感情があって、脳幹(基礎)を中心として大脳新皮質でコントロールされている

まとめると、叱る=自然界を生き抜いてきた基本プログラム(OS)=大脳の一番底の生命維持活動のよりどころである脳幹=怒りの感情の源=本能の一番重要な部分。

となるわけです。

叱るは癖になるのではなく、癖になってしまう人間は、その人間に備わった理性に問題がある為に癖になわけです。

ちなみに、叱ると怒るはその根本が同じところから発せられており、これも、至極単純かつ簡単な人間の心理構造の基本なのです。

 

その2(来週)へ続く


訛り

2012年01月24日 | 僕という人間 その他

母国語以外の言葉を使って仕事をしていると、時折笑わせてくれるような出来事があります。

たとえるなら、言葉の訛り。

テレビやインターネット他、通信手段が発達した現代であるからこそ、はるか昔のような事は無いものの、それでも九州や東北の田舎に行ってお年寄りと話すと全く理解出来ない事があるのは皆さんも知っておられると思います。

同じようなことが英語(米国語)でもあり、「え~本当?」なんて思われる方も多いでしょうが、実のところ、これが結構多くて、

しかも厄介で、特に日本人である僕には「れれれ?」と戸惑うことが多々ある。

*日本の国で、大学までやっている英語は正しい様で、間違いでもあり、いわゆるジャパニッシュです。

 

日本で米国語といっているのは、実のところ西部英語(カルフォルニア語?)に偏っており、同じ英語でも東部のニューヨークは発音はじめとして色々違うし、そこに来て更に地方言葉でやられたりなんかすると、60%理解するのがいいとろこだったりする。     

はは 情け無い 

このあたりは子音の違いを聞き分ける事の難しい、日本人耳というべき差異が影響しているわけですが・・・・と、努力足らないのを棚に上げる僕 (笑)。

「あ!」、ちなみにテキサス州あたりの英語は元はメキシコですから、ラテン語の影響を強くうけている為に結構聞きとりやすいですよ。

発音やイントネーションの違いは、他にも白人と黒人でも有り、そこには明らかに発音の違いというスタンスを取りたがるのか?、黒人同士の独特の文化を作り上げている事も有るのか?、又生活環境(スラムだったり)により仲間内言葉が多数あったりなんかして、「なんじゃそりゃ?」というような独特の表現を、気のあうもの達で使っていることがよくある。

こんなのが分るはずが無い 

こうしたそれぞれは結構厄介なのですが、いや、このあたりはまだましなのですが、これに国籍の違いやらから来る発音の違いが加わると、更に最悪な状態になる。

 

電話が鳴って、「XXのXXXXですが」と会話が始まった瞬間、「こりゃ~厄介だな・・・・」とピピピ と来る。 

さらに、その後に、本題となると、「ハニホロケ~○△×? %#$)(~」。

「はぁ~?」  とまったく分らない。

イントネーションが違いすぎるうえに、電話だと子音の高周波が削られてよけい分らなくなる。

 

そんでも「もう一度説明してくれ」と聞きなおせば、当然相手は表現を多少変えてくるので、

「実は新しく送付した$&&#&’((())の件、で○×+*‘{故に!##%&&’’」って 感じで少しだけわかるようになるが、

やはり肝心なことが分らない。

 

特に仕事の関係で技術的なことに絡むと、相手がそれを良く理解していれば、ほぼ共通の単語が多数出てくるので、そこから意味を読み取って、「ああ、こうしてもらいたいんだな」とか「こう聞いてきているのだな」と推知できるのだが、

大抵はまったく技術的な事が分らずに電話かけてきている下っ端であることが多く、当然そうなると本人は出来る限り分りやすく話しているつもりが、聞き取るこちらにしてみると何の話をしているの?なんて~事になる。

分りやすくする為の表現が、余計伝えずらくしているなんてのもある。 

究極は母国語の発音にカラム訛りだけれど、例えるなら、親がフィリピン系、スペイン系だったり、ほかに育ったエリアがボンジョールの言葉がやたら強いフランス系カナダ国境エリアの田舎都市だったりと、まずは自分達の持つ文化と言葉の環境で育ってきている場合は、これによる発音に明らかな違いも有るうえに、逐一表現もことなってくるので、まあ、互いに”意味不明”の会話をするなんていうのは結構あるわけです。

そんなら、同じ国のもの同士で話させれば分るじゃん! おお~ 天才!?

 

と、内線保留して、「お~い誰かかわってくれ!」と職場の若衆に声をかけて助けを求めることがあるが、しばらくして

電話を代わった者が 「あいつ何ていってるんです?」と、また電話を保留して部屋に聞きに来ることがある(爆笑)

 

こちらが皆目解らんから電話取ってもらったのに、「どういう意味?」と聞かれても、そもそもが言ってる事が分らんから代わって貰ったわけでして・・・・ 

 

結局、同じ国の、同じ言語同士でも旨く意思疎通できないことがあるわけで、このあたりは日本人と異なって変な意地を張らないアメリカ人だからこそ、起きる出来事なのですが、「解らない僕に聞いても、解るはずね~だろ」というと、「あっそうだよな!」と苦笑いして行ってしまう。

しばらくして、「結局何だったの、あの電話?」と聞くと 結局意味解らず、最後まで意味不明だったとのこと。 再爆笑 

 

過去に有った出来事の中で一番笑ってしまったのは、内線で突然呼び出され、「電話を代わってくれ」というので、

すわ、「日本人からの電話か?」と気軽に受話器を取ったとたん、突然英語でまくし立てられた。

「なんだなんだ?」、と慌てて言っている事を聞き取ろうとするが、相手が何いっているかが分らない。

何とか話を終えて、  「こりゃ!」っと僕に電話まわした同僚(アメリカ人)の部屋へ行って「何~んでこっちに電話回すんだ?」

と聞くと、「マスターなら分るかと思った」と他の皆と大笑いしている。

「おいおい・・・・」 何処の国の言葉だ?   ったく 

 

結局、電話回した彼は、まだ技術的なことがまだ良く分らなかった上に、相手の訛りが強くて言っていることが良く分らなくて面倒になったらしく、そんじゃ~と、普段若造をトレーニングしている僕なら大丈夫だろうと、電話を回したらしい。  

僕の職場にはこうした様々な言葉?を持つ人間達が次々転属してくるが、結構意思疎通が出来ずに「この田舎者!」なんていわれて、

若造がからかわれたりしているのを別段珍しくなく見かける。

 

余りやられると、気弱になるのか、寂しくなるのか、行くところがなくなるらしくて、僕部屋に来てしばらく愚痴こぼすのもいる。

そうした新米も数ヶ月すると周りに溶け込んで元気になるが、皆そうして成長をしながら再び世界中へ転属していく。

 

日本人とアメリカ人の大きな違いは、日本人は国境の違いというものをかなり強く捉えているが、彼らはそうした線引きの

認識がはるかに薄くて、同じ職場で一緒に時間を過ごしていると、そうした違い等が解けてなくなってしまうらしい。

というのが、人生の半分をアメリカという環境で過ごしてきた僕が得た結論でもある。

故に、上記のような笑い話がおきる。

 

アメリカという国民性は融和しようとするものを誰でもかまわず取り込んで一部にしてしまい、しかしながら敵対すると相手には皆で力合わせて徹底して叩き潰す。 それも中途半端なまねはけしてしない。

 

これは、仲間内をとても大切にする文化であり、そうして出来た仲間達を助ける為には敵対してくる相手と平然と事を交える姿勢そのものでもあり・・・。

仲間の方を向いて握手し、笑顔でステーキを焼いてコーラを振舞う腕、しかしながらその反対を向いた顔は鬼の形相に変化し、鍛え上げられた腕をもって攻撃してくる相手をぶちのめす。

二つの顔を持った大国、それがアメリカという国、僕にとって第二の母国にたいする見方である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自由?と平等?、そして叱らなくていい子育て&ほめて育てる

2012年01月17日 | 研究-教育・育児

子供を育てていく上で、兄弟の互いの信頼と絆を深めるように、親として両方のバランスを取りながら育てるというのは、とても難しいものです。

子供達はそれぞれ、自分が親の一番でありたいと思うし、でもライバル(兄弟)がいれば、それは容易にかなわぬこと。

 

親の思いとは別に、下の子は常に上の子と同等、対等、平等を求め、上の子はそれに不満を抱くのが普通でこれは本能。

恥ずかしい話ではありますが、僕の親は僕と弟を徹底して平等扱いにし、常に同じ条件で、ほぼ完璧といえるほど平等にして育てた。

親の考えからすれば、これで兄弟間になんら不満を残さず、将来は遺恨も何も無い、いうなれば、なんら揉める原因の無い事で手に手を取るような理想的兄弟が育つのだと思たのだろうけれど、

「その結果は?」というなら、兄弟間で決して埋める事の出来ない大きな亀裂を生じさせ、僕の記憶の中にある弟の存在はひたすら嫌な存在としての記憶しか残っていない。

当然、付き合等がある筈はなく、連絡などけしてしないし、する必要すら無いと思っている。 

何より、弟に決定的な人格破壊をもたらしたのが、この平等に育てるという理想教育の結果であった事は、どうにもならない事実であって、この実経験をもって同じ過ちを僕が我が子に犯すことは無かった。

 

我が子は上が男で、下が女。

当然、長男は常に長男として扱われ、妹は当然妹であり、明確な区別の元に育てた。

さらに、それに付け加えて男である長男は男らしく、女である妹は徹底して女の子らしく育て、

その基本は武士の時代の育て方に有って、当然に現世では適合しないものであろうが、できる限り再現を心がけてきた。

この先まだこの二人がどんな人生を歩んで行くかを見ない限りは、「私の子育ては旨くいきました!」等と、磔にされてもいえないものなのだが、幾分かこのブログを読んでいただいている方に容赦をいただきつつ、かつ親バカ交えながら言葉にさせてもらえるなら。

 

二人とも”一応”はそれなりの人間へと成長してくれている様には思えます。 

上司に可愛がられ、同僚にも好かれて職場が楽しくて仕方ない長男と、同じく先生や友達、後輩から好かれて生き生きと学生生活を送っている妹。

この二人がもっとも難しいといわれる人間関係で悩むことは一切無く、それゆえ常に心豊かであり、それは僕の家庭という空間が常に笑顔と笑いで満ち溢れている事実をもって一つの結果として捉えています。

 

このふたりの我が子ですが、極端に中が良く。

上の子は常に下を守り、必要と判断すると僕にさえ立ち向かってくることも有る、下の子はそんな上の子に対して常に尊敬の念を持つという関係。

妹はけして兄の前へ出張ることはなく、しゃしゃり出ることもないし、何時いかなるときも3歩下がって控えるわけで、これが現在では同居している息子の嫁さんとの難しいはずの関係を、いとも簡単にこなして解きほぐす力となっている。

娘がまだ幼児のころ、生まれてすぐの頃からであるが、息子には当然のように抱っこさせていた。

親としては落ち着きが無い年令の子供に乳児を抱っこさせるという事そのものが、どれだけ不安であるかは、子供を育てた経験のあるものなら誰にでも分ると思う。

僕と家内とてそれは全く同じで、しかしながら、ひたすら息子を信じ、息子が抱っこしたいというなら好きなだけやらせていた。 

時にはまだ首が据わらない月齢だった娘を抱っこして小走りすることさえあったが、どんなときも口を出さずに、ひたすら忍耐でその姿を見つめ続けてきたわけですが、

事故は心配ではないのか?と問われれば、それは何時いかなるときでも常に可能性は0ではなく、座って抱いても、立っていても、存在するし、逐一気にしていたら限はなく、ましてや我が息子が兄弟を抱いていることを心から信じねば、この先どうやって子を育てられるであろうか? そう思っていた。

 

「無責任」という言葉がすぐさま僕に浴びせられそうですが、基本的に人の持つ本能を中心として物事を考えるに、太古の昔より上の子が下の子を面倒見る本能が人には備わっているわけで、もしその始まりである新しい存在(新たに生まれた妹)を認識するべき重要な一時に、必要なだけの接触をさせねば、それをベースにした将来の兄弟関係、その先には社会に出ての上下関係をそつなくこなす事がはなはだ不安定になるからです。

その介あってか息子は本当によく妹の面倒を見てくれたし、現在もそれは続いてる。

とはいえ、この二人が育つ過程で、当然の様に起きてくることがあって、それは何処の家庭でも普通に存在するものなのですが、まあ、年令がそれなりに離れているので、年令が近い兄弟程ではないが、やはり「おにいちゃんばかり!」、「ずるい」と娘はよく口にした。

それに対する僕の答えは常に「当たり前だ、なぜ同じにしなければならないのだ?」というものでした。

平等は”可能性とチャンスが均等にあたえられる”という意味でしかなく、物質的に同じとか本来あるはずの差を無理にねじ曲げて同じ条件に置くことではありません。 それゆえ兄弟であっても年令も性別も違う二人には”差”と”区別”は有って当然の事だからです。

*注意   差別と区別は大きく異なります。 差別は上記の可能性とチャンスという二つの言葉を初めから消去した状態で相手に接し、思考を行う事をいいます。

 

娘は。何でもかんでも上の子のお下がりばかりで、半分壊れたものでも文句を言わせず使わせたし、何をするにも上の子が優遇され、

でありながら、女の子として必要なことに関しては当然の事ながら長男より特別扱いと優遇が存在し、当たり前の事だけれど、そうしたことに上の子は一言も文句を言ったり羨んだりという事はなかった。

普段長男として自分が特別に扱われているのを十分に分っていたからですね。

下の子には我慢、上の子には勇気と忍耐をと、まったく違ったものを要求しましたが、娘が中学校入学時に新品の通学かばんを買うことを拒み、上の子のお下がりを入学時から平然と使って3年間通学していたのは、こうした経緯の片鱗かは分りませんが、僕を驚かせる出来事であったのを覚えています。

 

こうして兄弟においては徹底した区別と、年齢や性別からくる違い、不平等を明確にしながら育ててきたわけですが、この二人が喧嘩したり揉め事を起こしているのを見た事は全くといって良いほど無く、冒頭に書いたような、極めて良好な兄弟関係は過去からいま現在も続いてます。

 

これが理想よろしく、平等に育てよう等とやっていたら、どんな二人になっていただろうか?、そう考えることが恐ろしいのですが、

本質的平等を良く理解しない、表面的平等で子供を育てた結果の恐ろしさは、今の若い世代をみていると明確にわかるわけですが、しごく簡単に耳へと入りやすい話は有り、それを考察すると色々見えてきます。

割とよくあるのが、上の子が非行行動を始めた家庭で、始めは上の子が、そして最後には妹、もしくは弟もほぼ同じような行動をして、兄弟そろって手におえなくなるという事が当たり前のように起きています。

理由は簡単だ、本質的平等ではない、きれいごとの平等をもって子供を育てるから。

 

荒れる上の子に苦労する母親や父親の姿をみて、下の子は始めこそ親に寄り添い、励ましたり上の子を批判したりと、色々気づかって良い子を演じるのですが、苦労する親の姿を見ているうちに、その苦労が実は上の子へ注がれる大量の愛情だということに気が付いた瞬間、下の子は上の子と全く同じ行動をとり始めることが当然の様に起きているという事実。

 

そのとき99%口にする言葉は、「お兄ちゃんばかり好きな事やってずるい」という言葉で、うろたえる親に投げつけてくる。

結局、何でもかんでもきれい事(表面的できれい事理想に基づく平等)の兄弟を平等に扱ってきた以上、それぞれ、個々の人間に注がれる愛情の違いに越えられない壁があるという至極簡単な事すら理解できずにいるわけで、

それも当然、”自分と他人は兄弟であっても全く違うのだ”という、”なにがどう違うのか?”、又それは”なぜなのか?”というそれぞれの差を勉強をするチャンスなく育つわけですから、問題を起こしている上の子に親が注ぐ愛情を、自分も同様な行動をすることで、これまた同じように注いでもらおうとするのも当然といってよいでしょう。

本能というのは常に他人より少しでも自分が多くのものを得たいというのが基本であり、それゆえ、それを適切にコントロール出来る人間性に育てねば、結局 妬みや嫉妬を常に抱え込んで社会生活を送るようになる。

   

子育ては常に現実です、

きれい事や表面的理想をもって子育てをしてはならず、本質的理想と現実をしっかりと認識させつつ育てねば、成長するに従い避けることができない、理想と現実のギャップに子供は苦しむことになる。

 

それに対し、そのような自由だ平等だという概念がまだなかった武士の時代から、大戦前までの日本人が非常に強くて優れた人間性を持っていた理由は、現実で子供を育てていたからに他ならず、しかしながらこの浮ついた二つの言葉が当たり前のように教育に取り入れられ、更にはそれを中心にして子供を育てるようになってから、この国がおかしくなったと思えるのは僕だけであろうか?

更には男が男でなくなり、女が女でなくなり、らしさの消滅と中性化が家庭をこわし、膨大な数の精神的弱者を育てた。

 

子供というのは常に自分の都合の良い方向でしか物事を考えず、自分が同じ兄弟より何がしか有利な恩恵を受けたとて、そんなことは当然でかつ当たり前の事だと思っており、

さらに差を常に測っていて、少しでも自分が損しているという損得勘定で人間関係を測るようになることから、親に対してすぐに埋め合わせを主張する。

理想は、あくまでも理想でしかなく、それをもって物事を判断する事しか出来ない人間に育てば、自分の置かれている環境、すなわち、衣食住とそれを取り巻く人間関係や社会的地位の全てにまで不満を覚える人間へ成長するのは当然。

その行き着く先は嫉妬と妬みを基本とした、忍耐と努力もせずに施しだけを得る事ばかり考える人間性。

たとえば、女の子であれば、決して越えることが出来ない性差と物理的力の差をおかしな理屈によりねじ曲げて私念を晴らそうとすることばかりに力を注ぎ、これまた平等という言葉に註偏して愛を考えるようになる。

たとえるなら、夫婦として一生を添い遂げるに、永久に取れるはずが無い自分と伴侶のバランスを経済的、時間的自由度等を表面的平等という名の天秤にかけて測り、

当然そのレベルにて相手に同じものを要求したあげくに、それが満たされぬと悟れば、代替えや見返りとして自分勝手な要求を常に突きつける。

そして、それがスムーズに満たされねばただただ不満として蓄積させ、最後には離婚という凶器を伴侶に突きつけて脅迫するような愚かなまねをしでかす。

”それがどれだけおかしなことか?”をろくに考えもせずに理想の名のものとに平等を要求するわけだ。

 

理想は現実ではない、お花畑をおかしな形で子供にもたらすことにおける結果は、常に不幸をもたらす。

 

先も書きましたが、人の本能を考えるに、そこには平等などという言葉はなんら存在しない、常に他者より少しでも自分を優位に、恵まれた立場に置こうとするように出来ている。

しかしながら現実は、なんらアクションも行動もせずに、平等という果実を得ることははなはだ不自然だし、不可能に近いわけで、平等というのは、あくまで理想というお題目の中に見える幻想でしかなく、何がしかのアクションを起こしたものにしか近づくことは出来ない物。

また、行動を起こしたとて、結果が思うように付いてこない場合は、「何故?自分は駄目なのか」を考えて明日のために自分を進歩させる能力を養わねばなりません。

 

残念なことに、特に25年ほど前から、教育そのものにおかしな現象がおき始め、いうなればお花畑思想に基づいた異様な平等が学校ははじめ家庭を蝕み始め。

運動会で一緒に手をつないでゴール等と言う、ついこの間まで鳥取県の学校で行われていて問題になったような、本能を歪める教育を平然とするようになってしまった。 (今は正しい競争がいささか見直されている)

 

何度も書いてすまないのですが、平等は、”どんな人間であっても均等に可能性とチャンスが与えられている”というのがこの言葉の持つ本当の意味であり、果実だけもをらえる、もしくは要求できるというものでもない。

故にどうしてもチャンスを生かすこと出来ない、得ることがかなわない物に対する正しい思考は、平等の持つ正しい行いそのものでもあり、そうした場合にのみ平等という言葉を口にすることができるわけです。

 

よく自由という言葉をこの平等という言葉と同等に使いたがる者が多いのですが、自由とは夢のような物では断じて無く、よく政治家が自由と平等を旗印にしているのを見るが、「本当にその意味が分っているのですか?」と問いたくなってしまう。

 

年令が若いほど、この自由という言葉を乱発するものですが、その現実は単に自分のわがままを押し通す為の建前として乱用しているに過ぎず、学校教育の中で先生方にその意味を説明してくれと詰め寄る生徒に明確答えを出せずにいる先生も多い。

 

当たり前のことですが、この言葉を多用して学校教育している者そのものが、自由と平等の意味をまったく知らない訳ですから、生徒が自分で答えを出すことが出来ないのも当たり前。

 

自由とはなんだろうか? 

答えは至極簡単かつ明快、 自由とは「たんなる選択幅の広狭」でしかなく、それ以外の何物でもありません。

幅の広がりである以上、常に条件や環境によって制限を受けるのが当たり前のものです。

 

 

理想も自由も、本質的な物を理解せずに究極を突き詰めていくことは、単に自分勝手のやりたい放題を広げるだけの事で、しかしながらそれが現実としてかなわないからこそ、できる良質な形で幅を広げ、理想を追求できるようにするわけです。

 

完全平等で自由なはずの理想そのものといえる共産主義、社会主義がなぜ必ず崩壊するのかは、この思想が目指すところのお花畑が、”人の持つ楽して果実を得ようとする”本能的怠慢によって”施しを受けることが中心”となってしまうからで、それによって生産活動の停滞と経済活動の衰退を招くからに過ぎません。

 

自由主義は、この日本の国における今の誤った自由解釈では存立が不可能で、それは誰しもがもつ「人より豊かになりたい」という人のもつ自然な本能を基にして、調和とバランスを保ちつつ競争させることでしか成り立たない。

昨今問題になっている働かない、働こうとしない、こうした若者に共通する特徴は、叱らない子育てや、褒めて育てるという教育法にあるある 心の訓練を一切させない育て方に原因があり、さらにこの基本的精神的虚弱に上記の誤った自由と平等意識を植え付けられると出来上がる。

 

自分の知るソフト関係会社の友人は嘆いていましたが、というのは、エリートといえるような大学を卒業した優秀な新入社員が毎年入ってくるものの、一月、3ヶ月、半年という単位で一人々と病んで会社を辞めていってしまう。

別段お客様と揉めた訳でもなく、会社内で自尊心をひどくひどく傷つけられるほど叱咤されたわけでもなく、自分で勝手に病んだあげくにさっていくわけです。

この理由は至極簡単なもので、人間関係から始まって、理想と現実のギャップを吸収することが出来ず、褒められてきたことから頭の中に出来上がった根拠無きプライドを守ろうと固守した挙句に、虚弱な精神が心を病ませてしまう。

仕事をするにも自分からアクションを取るわけでもないのがこうした者の特徴で、あまりに何にも自分から出来ないことから、上の人間が全てお膳立てして準備を行い、「さあこれでやってみてくれ。」としない限り何にも出来ず、

そしてその結果すら、心の虚弱が生産するもの故に、ろくな物にはならない。

 

叱らなくていい子育て等、すなわち親が何でも先回りし、理想の名の下に親のための子供操作教育をしていれば当然にこうなるわけだ。

 

そういえば、息子はよく、妹を叱りました。

何がしかの失敗をすると、それを僕が見つけてもすぐに叱ることはないですが、というのは、それは間違いを娘が見つけ、それを認めて勇気をもって親に話してくれるという、心の強さと成長と勇気をねがうからです。

しかしながら現実はそう簡単にはいかず、しかしながらその隙に、問題を息子が見つければ娘を注意したり叱ったりしていた。

当然、こうした行動に僕が口を挟む余地はありません。

 

上のものが下のものの面倒をみて、それを人として冷静に判断しつつ必要なアクションを取れないようであれば、その子は何が人として必要なのかを学ぶことなく育つことそのものであり、これは又将来、自分自身の非を自分で問いただすことが出来無い人間になる事を意味します。

 

実は、人の振り見て我が振りなおせは、まず人の持つ問題を明確かつ適切に認識することから初まり、それがやがて自分へ回帰し、精神的強さの成長と供に”人の過ちの認識と、しかしながら自分に対して出来ない過ちの認識、そしてそれをもって自己を否定出来る自分と、出来ない自分という”差異を認識することを始まりとします。

それをもって自分に対して厳しく出来る事を学習をしていくようになっていす。

また、こうした経験が、人を旨く叱る為の生きたトレーニングそのものであり、やがて人の上に立つことがあった際に上手に人を動かすことが出来るノウハウとして生きてくる。

人の心を読み取ることが容易に出来るからです。

 

子育ては理想で行うものではなく、現実を教えそれに適した思考力を養うことなのです。 

 

 

 

 

 


S42HW その後 少しはバッテリー持ちがよくなった

2012年01月16日 | Weblog

欠陥品だろ? と言いたくなるほどバッテリー持ちが悪いemobileのスマートホン S42WH。

なんらデザリングせずの待機状態で6時間が限界 だったわけで、と、いい加減頭にきた(時々こうしたことがあります)事から

中に入っているアプリやソフト関係の一切を停止、削除しまくってみた。

結果・・・・・・・・・ 

 

ハイ、丸一日待機する事が出来るようになりました。 

 

は~    

 

結局なんにもソフト動かさず、純粋に電話機能と通信端末として使えば何とかなるということ・・・・

スマートホンであってスマートホンではないのがS42HWと考えればよいのかもしれませんが、

まあ、そうした使い方するのが目的でだったので、別に不満は無いものの、

何となくもったいないな~ 


朝日で目覚め、夕暮れに床につく

2012年01月15日 | 僕という人間 その他

本能を大切に・・・・

 

なんて極めて個人的かつつまらんこと書いてみようかと思いつつ、今日はよします。

なんか、落語が好きな娘が、話をひとつ夕飯時に聞かせてくれるとか? 笑

熱燗二本で何となく幸せなのは、僕がどれだけ小さい人間かを表しているようで、

そんなこと思いつつも、常に変わらぬ家族の笑顔を心より望む僕です。

 

そういえば、横浜に子供と出かけている息子夫婦。

仲睦まじいこと限りなく。

 

とても大切なことです。

 

しかし、このつまらんブログに結構大勢の人が来てくださること。

いつもながら、心から感謝いたします。

 


パジェロミニ クラッチがOUT!

2012年01月09日 | 

家の愛車、パジェロミニですが、クラッチがめでたく?OUTになりました。 

12月の車検時にレリーズベアリングがそろそろ危ない(音が出始めている)との連絡を友人の整備工場から連絡を受け、

走行距離で約14万キロですから、そうした事があってもおかしくは無いわけですが、

まあ、今年の夏にでもやるか~ なんてのんきに構えていたのですが、もたなかった・・・・   はは

 

家内と娘が二人で買い物にいって、その帰りに「エンジンが止る!」という怪現象?が出たらしく、すぐ近くにあったコンビニの

駐車場に逃こんだところで、クラッチが完全に切れなくなった。

その時点で僕に連絡があり、症状を詳しく聞いてみると、明らかにクラッチ周りのトラブルで、いわゆるレリーズベアリングが

焼きついたか、バラバラになって砕け散ったかのどちらかであろうと判断。

 

おりしも土曜日ですから工場は半日、時刻は12時を回ったところで、これから僕がいって原因追求云々していたら。

工場が閉まってしまうわけで、その場で友人の工場に連絡取り、ローダーで来て貰うようにと家内に指示。

 

夕方前に工場から連絡をもらい、やはりレリーズベアリングがお釈迦だとの事で、そうなるとプロペラシャフトはずして、ミッション下ろしてと

いう多少面倒な作業になる。

 

そろそろクラッチ交換しなきゃな~ と、思っていたこともあって、多少出費はかさむがある意味チャンスでも有って、

この際一緒にやってもらうことにした。

 

自分でやりたいのは山々だけれど、何しろリフト作業である以上はそんな設備等あるはずも無い家では不可能な話で、センター出しの

工具もなく、それらを作ったりする時間と手間考えると任せたほうが安くなる。

 

しかしな~  このところISC (アイドルスピード・コントロールバルブ)が多少なりとも調子が悪く、それだけで部品代

バカ高(本当にこのメーカーは客をなめている)な三菱である以上、2万円位はするわけで、ポジションセンサの劣化も有ることだろうし、

スロットルボディ交換なんてやろうものなら、6万位は部品代でかかる。

 

しかたないけれど、これを夏に回して、更に年末にはターボチャージャも交換しなければ(多分)ならんかな~。

スロットルボディは中古、ISCは新品で3万、ターボはリビルトで4万くらいか?

 

まあ、それでも新たに中古の軽を買うよりは安いのだけれど・・・・

 


本当に使えない S42HW  

2012年01月04日 | Weblog

本当に使えない、S42HW

ディスプレイの小ささ(こちら老眼という事も有るが)はもちろんの事、とにかくバッテリーが持たない。

た~だもたないんじゃなくて、特に盛んに通信するアプリ入れているわけでもないし、待機のままで6時間が限度、

盛んに使うと2時間持たない。

 

いい加減に背面取り付けの大容量バッテリー出てきてもおかしくは無いだろうと、一応ネットで探すものの、存在の気配すらなく、

だんだんと後悔の念に取り付かれつつある。

 

このままではなんら役に立たないので、何とか工夫して容量を増やす予定だけれど、一番簡単なのは現在のバッテリー端子から

配線出して、3倍くらいある容量のバッテリーに直付けすることだけれど。

これだと間違いなく保障は受けられなくなるし。

そうなると、マイクロUSB端子に接続出来る外部バッテリーをスマホごと適当なケースにぶち込んでスマートバーを

デブバーへとモディフアィして使用するくらいしか、現実的方法は無い。

E-mobilehaはその劇的な通信速度が魅力で、PCメインの僕ゆえこれにしたのだけれど、余にもバッテリー持ちが悪いのだけは駄目だ。

ちなみに平気で7M近い速度がデザリングで出る為、そういった意味では最高である事は、書き忘れてはいけないだろう。

 

 


娘が騒ぐ? ので温泉

2012年01月03日 | Weblog

なが~い 冬休みで暇こいている娘が、ついに騒ぎ出した。 お得意の「どこか連れて行け!」攻撃だ。

ぴおぴよぴよぴよぴよ、ぴーぴーぴーぴー、ぴよぴよぴよ←娘

「だー!!!!!元気ですか?」と、そんなのはどうでも良いのだけれど・・・ ←僕

 

昨日までは実家に行ったりしてイベント?盛りだくさんだったから大人しかったのだけれど、

さすがに一日何もしないでいると、どこかに行きたくなるらしい。

「勉強でもすりゃ~いいじゃないか?」、と若い頃の自分忘れて思うのは親たる僕だけれど、そんな娘の姿など見たこと無い以上、それを望むのは~無理というものだろう。 

 

そんじゃ~  と車を走らせて行ったのは 水着で入れる温泉。

ここは規模こそ小さいが、岩盤浴施設などが付いている公共温泉施設?で、衛生的なところ。

ここで約2時間、時間も時間だったせいか、殆どお客さんもいなかったけれど、家族でそれなりに楽しんできました。

 

さて、明日から仕事始めのところは多いけれど、正月早々3日有給とっている僕は8日までが一応の休み。

 

でも~ やらなきゃならないのがボイラー配管だとか何とか山積。

寒空の中で断熱材を巻いたりするの考えると、憂鬱になるんだよね~これが・・・・

 


息子夫婦からのお年玉

2012年01月01日 | Weblog

「これ、爺ちゃん(?)に!」と、笑いながら唐突に渡された包み。

「ん?」、「なにこれ?」と包みをあけると箱が出てきた、それを開けてみると、

中から出てきたのはFERRARIのスパークリングワイン 。

 

http://store.shopping.yahoo.co.jp/morishima/wspk0800.html

僕だと絶対買わないし、家ではまず口にする機会などない高級品。

 

僕へのお年玉でした・・・・・・  微うれし泣き (笑)

 

息子からお年玉もらうような年になっちまったってか?   おいおいまだ若いぜよ 

 

とにかく「ありがとう & 感謝」