子供を叱ることは正しく、しかしながら叱る事、叩くことに制御が効かなくなる母親がいます。
*その1の最後に出てきた癖になる親のことです。
なぜ、歯止めが効かなくなるのか?
その理由は至極単純明快、単に心が弱く、そのうえ逃げ姿勢で親が子育てをすれば、当然にそうなるということだけで、
な~んにも難しくない。
この世の中は様々な人間の集まりで、そうした人は統計的に必ず存在しますから、それも当たり前の事なのですが、それではなぜそうした精神的軟弱な人間が出来上がるのか?というなら、その者が育った家庭環境に始まりがある。
一番簡単な原因としては幼い頃から我慢、忍耐を出来るだけ排除した条件(箱入り娘・苦労知らず等)で育ってきた場合で、こうした者が世の中に出ると、わが身へ降り注ぐあらゆるストレスを旨く処理できず常にイライラを抱え、そこにきて子供を授かったりすると、そのはけ口(心でおかしな処理をする)にしてしまう。
心はというのは、生まれながらにその限界性能を定められてるものではなく、骨や筋肉と同じく鍛えることが可能なものであり、
本来は小さな我慢と、忍耐をたくさん積み重ねて育つことによって、精神的に安定した強い人間へと成長するようになっています。
ちなみに小言もその鍛えるの事の一つで、叱るはその一番上に立ちます。
故に、叱られる事無く、ほめて育てられた者というのは、これより更に悪質で、本能がもたらすもっとも強くて強大な感情(怒)に対してろくに晒されずに育ちますから、社会に巣立ってほんの些細なことで、あっという間に容量オーバーをする。
本来、親から繰り返し叱られる事によって、目の前にある”怒りの種類と方向”を正しく読み取れるように訓練(学習)されてくるはずの心は育たず、相手の心が読み取れないことが、全て自分を破壊する攻撃にみえてしまう事が精神的パニックを引き起こす。
さらに ほめて育てられた事で、根拠の無きプライドだけはやたらとでかいうえに、人の話を我慢して聞く訓練(学習)すらされていないのでどうにもならない。
続けて幾度か叱咤されたり、強く叱られたりすると、親と自分以外の人間は全て加害行為を加えてくる存在の様な思いに心が支配され、それが自信を失わせて自己否定(でもプライドだけは異常に高い)へと結びつきやすいことから、最終的にオーバーフロー(心の処理の限界超え)して精神を病む・引きこもる。という退避行動をとるか、反社会的行動をとりやすい。
両方とも叱られる事のもたらす恩恵(怒りの感情に対する心のトレーニング)を理解できないという至極単純な事が原因で、幼い頃から正しく叱られてこなかったことがもたらす悲劇ともいえるでしょう。
結局、人は本能を中心とした感情変化の中で生きているもので、心の受け入れられるストレス許容量には、それぞれが育ってきた環境による限界があって、それを越えると、大抵は自分への攻撃、退避、もしくは無抵抗なものへの攻撃というかたちを取って、そのはけ口を求めるわけです。
さて、そうしたはけ口行動の一つとしてよくあるのが、虐待という行為です。
特に叩くことが止らなくなる親は、単純に子供へ虐待をしているわけでして、当たり前ですが叩くことも叱るの延長にある以上は、当然存在すべき親の正しい行為であるものの、限度を簡単に越えて虐待化してしまうのは、本能(怒)を旨くコントロールできない誤った理性と、精神的虚弱がもたらすものです。
こうした行動のカラクリ(理由)は難しくもなんとも無く、とても簡単な事であり、一般的に言われているような心の闇等というような訳の解らないものではない。
本来叩くことは、心の訓練という方向から見ても正しいものと書きましたが、その正しいはずの叩くを単なる虐待にしてしまう親は大きく3種類。
一つは幼い頃からネグレクトや虐待をうけてきた、二つ目が生真面目で妥協をゆるさない、もう一つがほめて育てられたか叱らない子育てで育てられた。
大抵はこの3つのうちのどれかです。
以前はネグレクトや虐待を受けてきた子供が、親になって我が子にやるパターンというのが殆どで、これも彼らの理性が虐待を受けるのが当然という環境で育ってきたからで、彼らは虐待が虐待であるとわからない理性によって本能がコントロールされるから起こるわけですが、ただしこの場合は、子供を死にまで至らせるまでは行かないのも特徴。
自分が痛みを知っている分、そこまではやらないわけです。
そして、ここ15年位前からつい最近に至って爆発的に増えたのが ほめて育てる、叱らない教育で育った子が親となって我が子に虐待するというケース。
これは上記の虐待、ネグレクトを受けてきたケースとは異なり、痛みを知らない分、容易に我が子を死へ導いてしまう。
熱湯を頭からかけたり、真冬に裸で外に叩き出したり、餓死するまで食べ物を与えない等々の惨劇。
大抵は凄惨な結末になるわけですが、そうした残忍な姿が有りながら、普段はまったく違う顔を見せながら社会行動をしている事が多く、この場合は事件になると会社の同僚は信じられないと一同に口にしてメディアをにぎわしたりもしています。
さて、先ほどから書いている、子供を叱ると止まらなくなってしまう親ですが、泣いて誤る我が子をしつこく叱りまわした(というか虐待です)あげく、最後には必要も無い手を上げる、 それも何度もです。
さて、これを本能軽視で構成された西洋式心理学などを習っている先生や学者さんに聞くと、必ずこうした答えが返ってきます。
それは”ストレス解消行動として「叩く」という行動として現れるのです”、と。
さらに叩くことで快感を覚えるからとか、等ともいい、だから又無意識のうちに叩いてしまうともいいます。
これが叱ることを教育から排除するという彼らの大きな建て前(理由)になっているわけですが、
はい! これ、とんでもなく大きな間違いです。
快感を覚える? ストレスが解消? 「は~?」と呆れると同時に、ひたすらため息が出てくるのですが、なんでこうした西洋式心理学は大間違いを教育界に教え込むのか?といささか怒りすら覚えます。
これはストレスの開放のためにそうした行動を取るのではなく、自分が子供を旨くコントロールできないことへの責務を過大に感じ、しかしながらそこから生じる自分への反省や自戒ができず、現実を受け入れる能力が乏しいことから、本来自分に対して厳しく律せねばならない行動を、方向違いの我が子に代行(攻撃を加える)してもらう行為そのものということです。
そしてその代行は、肉体的痛みというわかりやすい形にして現れることが多い。
これが本当の理由です。
本能を中心にして人の思考を考えると、こうしたことは至極簡単に解る訳で、上記の虐待3パターンは最終的にすべてこれに帰属しており、根本は皆同じ。
故に・・・・、ドンドンとエスカレートする。
本来は自分に対して冷静に向けねばなら無いはずの、間違った方向へ放っているのですから、親本人は一切痛みを感じること等ありませんし、しかしながら得られるはずも無いはずの痛みを本人は求めいるので酷くなる。
その心理的背景は泣いておびえる我が子の姿に、懲罰を受けている自分の姿を重ねる、完全な自虐行為のゆがんだ形態の一つ。
まとめると、自分の心の処理に限界を覚える→ 漫然たる不安と恐怖が心に沸き→しかしながら虚弱な心は現実を理解して処理することができない→ 表に出ない自分への失望→怒りを引き起こす。
そして、本来なら強い精神力が我慢と忍耐をもって自分を冷静に律し、何がどうで、どこが間違いか?等を自分自身に問いながら正しい方向へ自分を持っていく。
という、大人なら当然できねばならないはずの事が殆ど出来ない。 だからこそ問題が起きる。
*場合によっては、自分のしている行為を初めから否定しているので、自分が起こしていることの意味すら考えさせない心の処理をしている場合すらあります。
基本的に忍耐と我慢ができない人は、苦しさを受け入れられないと必ず逃げ行動をとり始めます。
逃げは
1.無視(無いことにする)
2.攻撃(逆切れ等必要以上の怒りを引きおこして相手を威嚇して黙らせようとする)
3.代行(自分にできるだけ近い、しかも無抵抗の存在へ攻撃を加えて自分への戒めをかわってもらう)
として出やすく、一応親としての自覚が有って適度な自制が効いていると、完全な無視と攻撃はありませんので、当然というか代行行動が一番出やすい。
家庭内暴力も基本的心の背景は同じで、よく夫が妻に、子供が親にと、よくあるパターンですが両方とも攻撃でそこには”逃げ”があるのです。
代行であると、母親が当事者なら、相手として自分と一体化している認識が強い、”弱くて無抵抗な我が子”に向くのは当たり前。
なぜ、叩くのが止らなくなるのか?ですが、子供が泣いて傷つく姿は、自分への制裁実行を代行してもらっているわけです。
母親は我が子を自分の一部と考えるように本能が出来ていますので、我が子への攻撃が自分への制裁と同一化しやすく、しかしながら
いくら叩いてもけして感じることのできない自分への痛みを求めてエスカレートし、しかしながらある段階まで来るとハッと気が付いて自制がかかる。
感情が収まれば正気に戻って叩いた子への罪の意識を強く感じ、それがまた自分への懲罰行動の原因として積み重なっていく。
そこには自分の”逃げ行動そのものを認めない”というこれまた逃げの心理的背景(自分を守って保護する)があるので、理由等が解るはずもなく(*理解しようともしない)かならず「なぜか叩いてしまうんです・・・・」といって何度も繰り返し、それによりまた自分の心に傷が付いて、それが更にまた虐待行動を招く。
いつまでも続くサドンデス・・・・・・
こうした虐待をする母親の良くある行動のひとつに、自分のやっている行動を誰かに話して聞いてもらうことで、これは過ちを指摘してもらうのではなく肯定してもらおうとする事があります。
結局、これは自分への甘ったれた心を肯定してもらい、それが普通ですよと肯定してもらう為の口実探しをし、誰かが不完全ながらも同感したり恭順してくれると分ると、そちらに快感を覚えますから、又それを得る為の虐待をします。
すこし話は飛びますが、別の形態として、子供が成長して当り散らせなくなった場合等、その殆どが夫に矛先を向けるパターンが多く、完全な人間などいない世の中を考えもせず、見渡すこともなく、なにより自分自身の人間性を問うこともせずに、ひたすら「あーだこうだと」些細な伴侶の欠点を探し出しては不満を募らせる。
自分の伴侶は最低で、自分はこれだけ不幸なのだと、自分で自分に刷り込んで、そうして自分はこんな伴侶と結婚するはずではなかったなどと考え始める。
近い存在をさげすみ足蹴にすることで、自分はすぐれた人間なのだと自らを持ち上げる(自愛)ことで、自分を保とうとする愚かな行為で、
それもまた、やっている者は自分を振り返ることが出来ません。 逃げているわけですから。
これは丁度子供が思春期を迎える頃に一番盛んになりやすい行動で、我が子が反抗期に入りって全く言うことを全く聞かなくなると、それが本能のもたらす独立行動の一つであることなど全く考えもせずに(というか逃避して考えられない)、ひたすら伴侶に何とかしろとまくし立てる。
大抵は「あなたがだらしないから子供がこうなった」と攻撃し、そして離婚して子供と二人になれば、自立し始めた我が子が再び幼子の頃の可愛い姿に戻ってくれるかのような錯覚を抱いて離婚を宣言する。
子供を自分との閉鎖空間におくことで、再び昔を取り戻そうと試みるわけですが、そんなことで子供は幼児に戻ることなどない。
まあ、当の子供自体は、親の離婚など寝耳に水なことが多く、何でババアと二人で暮らさにゃならんのだ!と、捨て台詞はいて、親の愚かさまで背負わされて極端な非行報道に走ったりと、誰しにもある多少のわき道を遙かに抜け出てエスカレートして止らなくなることがある。
*親のすがりつきが、子供非行を激化していることが多いのですが、割とこれは知られていません
こうした一連の行動は、何度も書いているように厳しく自分を自戒できない精神的弱さが根本原因で、ただ、代行行為は冒頭の無視や攻撃と異なって、本来は自分へ向けて発せされるものを基本としてるために、虐待を我が子以外の他人に向けて発する事は殆どないのは当然の行動なのです。
*ちなみに一般的に言われる、指しゃぶり、チック、爪噛み等は、これと似た行動ですが、まったく別ものですので、同一に考えてはなりません。
結局、どんな人間であれ、子供を教育していく過程そのものは、自分が親として成長しているわけで、多くの事を子供と供に学んでいるわけですから、叱り過ぎたり、あるときは必要以上に叩いてしまったりという事は当然に有ること。
親は子供を持った瞬間に完全な親になっている訳ではなく、試行錯誤を繰り返しながら親へと成長していくものなのです。
しかしながら、そのためには、自分の行動をしっかり認識し、きちんと反省し、直さねばならないものは直し、反省すべきことは反省する。
けして逃げてはならず、忍耐強く、我慢強く自分を育てねばならない。
ほめて育てる教育、叱らない教育、これらの持つ最大の欠点は、叱られること、という怒りを原点とした複雑な人の心(感情)の種類を学ばせない事にあり、
叱られることで養われる自己反省力、すなわち叱られる際に当然求められる,忍耐と我慢で自分の感情を抑えながら自己を振り返り反省する力という物が一切養われない。
叱るは、本来本能がもたらすものであり。
人が持つ怒りには単なる破壊の怒りや、暖かき怒り等万の種類があり、それは幼少の頃に親からたくさん授けられることで初めて理解可能になるものであって、そうして深い心の学習をしながら成長することによって、
将来、対人関係をうまくこなして行く力そのものになる。
それが、本能軽視の 叱らない派や褒めて育てる派には解っていない
心のトレーニングを怠れば、KY、自分勝手、他人の心がわからないし読み取れもしない、それはアスペルガーの特徴でもあり、人工的に造られた精神病そのものになってしまう。
そうしたアスペルがーもどきの偽アスペルガーがそこいらじゅうを闊歩しているのも今の日本社会。
我が子を叱ることは本来つらいものです、痛みもなく、つらい事も無い子育てなど存在せず、つらくなるので叱ることを止めましょう等というのは言語道断。
叱ることで知る痛みやつらさがあるからこそ、行き過ぎた虐待はなくなり、親は本当の親へと成長できるわけですから。
故につらくなければ虐待しているかどうかも解らないということ。
叱る行為に落とし穴などなく、あるとすれば、逃げる自分のすがたこそが落とし穴そのものを作り上げるのだと学ばねばならないわけです。
最後に、叱ることは、怒りを原点とした、人の本能行動。
ゆえに的外れの怒りだったり、間違いのある怒りだったり、それで子供に接してしまうことは、必ず有る。
しかしながら何度も書いているように、親は子供を授かった瞬間から親としての成長をはじめ、子供はそうした親の不完全部分を含めてあらゆる面を学習しつつ成長する。
親として間違えたなら正せばよく、子供は親が自分を正している姿を見つめつつ、また成長していく。
これが、子どもが愛されていて安全だと感じられる親子関係ということです。
こうした親の姿があるからこそ、子供は豊かな感情と正しい心をもつ人間に成長できるわけですが、ミスを恐れる子育てをしていると子供もミスをおそれて、逃げの姿勢になります。
人は人なのだと、完全で無い自分に大きな自身を持つべきで、そうした親の前向きな心があれば、子供も自然と自己肯定感を持つ子になります。
褒めていても、叱らない子育てをしていても、けして自己肯定感を持つ子供に等、育ちはしないのです。
もし自己肯定間をこうした教育で我が子が持っているなと思えたなら、それは将来、人間関係を悲劇に導く”根拠なきプライド”が我が子の心を蝕んでいるということです。