帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

なぜ? 墓にこだわらないか?

2024年12月28日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

親父が亡くなって、あっという間に2週間以上の時が流れた。

必要となる手続きもあらかた終了し、一昨日は家に届いた”親父”を持って実家へ。

手元供養の、遺骨が入ったケースを持って行った訳だけど、 それを見た母親は大感激。

 

貧素な位牌と全く違って、美しく、精巧に作られていて、シンプルだけども高級感に満ちたそれに驚いて、

まあ、これが位牌を兼ねた、そしてお墓みたいな物でもある。

自分は、いわゆる墓地にあるお墓という物に全く興味が無い、それどころかデカくて重厚な墓ほど疑問と白けた目線を

向けてしまう。

ただ、どんな墓であろうが、その家族や故人の考え方に沿った物なのだから、それはそれでいいんだろうな・・・とも、当然に思う。

 

何で手元供養?という方も居られるかと思うけど、これはあらゆる事を考えての結果だ。

これは後で書くとして、まず、自分の場合は親父が生きている時、親父の為に出来ることはすべてやってきて、 

いわゆる後で”こうすればよかった! できなかったのが心残りだ!”という類いの心残りが全くなく、

その時々で、自分が可能な事、出来る事は精一杯やってきた。

 

故に、親父が亡くなっても、余り悲しさは無く、それどころか心は穏やかで清々しい。

母親は、「お父さんも、こんなに息子に色々としてもらって、本当に予想外だったし、すべてに満足して逝けたと思う」

と一昨日も話してくれた。

 

この手元供養は位牌みたいな意味もあるのだけど、いったい位牌って何だろう?と思うのは、本来はお墓が遠方にあってそこに簡単に行けない昔の名残で、墓の代わりに位牌を手元に置いて魂を供養する物。

 

それは良いのだけど、49日までは白木の簡素な位牌で、納骨の時に黒い位牌と交換するわけだが、

自分にとって全く理解できないのは、そこでもまた坊さんが出てきて、お経を上げてボッタクル。

5~10万円なり~~~~~!!!

 

なんでお経をあげるのか?だけど、これは”入魂?”の為で、魂を仮の白木位牌から本位牌に移し替える作業?

 

はあ~~~????? 仏教の考え方では、魂は殻(体)を抜けたら、49日かけて天界にたどり着くんじゃ~なかったっけ???

地縛霊よろしく、亡くなった故人の魂を白木にぶっ込んで、今度は49日に本位牌にそれを移し替える??? 

霊が移る????

まったくもって自分には理解できない、天にいくはずの魂はどこにいったん? 

 

そして、お墓は何のためにある?という事になるのだけど、

故人を忘れないようにするとかなんとか、宗教界があとでこじつけた屁理屈はうんざりするほど沢山有って、 

その実は、単に法律上の最終処分場でしかない。

遺骨の処分をやりたい放題されると国としては困るし面倒なので、 葬儀と関連性が強い宗教界に任せることで処分場管理を行ってもらうというからくりで、故にそれを基にしてボッタクリの温床が生まれてきたわけだ。

 

宗教法人は非課税所得が多く、それによって保護されているから簡単に潰れないし倒産しないので、

行政的には一石二鳥という極めて政策的な物でしかない。

 

なら自宅での供養は違法なのか?というと、そんな法律はどこにも無いし、全くもって問題も無く、

手元供養も全然OK! 、それはすべて遺族の判断に完全に任せられている。

*かといって勝手に巻くと違法になるので注意。

 

遺骨は魂の抜けた、いわゆる故人が入っていた”入れ物”の残りであって、その入れ物の中に魂が有ったことで、成長し、子を産み育て、温かい血が流れ、感情も笑顔もそこにあった。

 

天に旅立った故人はすでにそこには無く、それをなぜ入魂の儀式とかするのか?が自分には全く理解できない。

自分の親の遺骨を”常識”という名の下に、何の疑問も持たずに処分場へ納めて、ついでに坊さんにボッタクられて、

それも一つの幸せであろう。

 

昨今の暗いニュースの中に、親が亡くなったけど、葬儀代を出すことが能わずにそのまま放置。

腐敗して異臭が発生し、近隣住民等からの通報でミイラ化した親、悲惨な状態の中で暮らす遺族の姿などが報道されているが、

なぜそうなってしまうのか?という理由の一つに、 葬儀に関しての、壮大な常識化ボッタクリがある。

 

お金が全くなくても、行政は最低限の支援をしてくれて、きちんと相談すれば、故人がまともに生きてきた者であったのなら、きちんと火葬して遺骨にまでできる支援をしてくれる。

 

それが有るのに、何も出来ない者が出てきてしまう理由の一つに、葬儀に関する意味不明な常識の押しつけと、

+何度も書くが葬儀に関する宗教絡みの壮大なボッタクリ構造がある。

 

それに怯えて身動きできなくなってしまうからで、

「こうしなければならない!」「 こうするべきだ!」「それじゃ~恥ずかしい!」「あ~みっともない!!」

と、遺族を拘束して鞭を打ち、見えないボッタクリ世界に遺族を強制的に導き、骨の髄までしゃぶる。

 

なんか、おかしく無いだろうか? 

墓なんか無くてもよく、戒名なんぞ無くてもよく、お経をあげる必要等も無い。

遺族として自分が出来る事を精一杯するのが葬儀であり、そこに思いが込められていれば何の問題も無いわけだ。

 

現実は、墓に埋葬しようとすると、儀式(49日等)にはうちの坊さん使ってもらわんと困る!

とシャシャリ出てくるし、それと違う事は拒絶してくるし、納骨そのものすら拒否される。

ボッタクリ構造だから。

 

今回、幸いなことに親父が残してくれた財産が少し有ったので、僕の方で色々と取捨選択をして儀式を執り行った。

当然、意味の無い支払い(ボッタクリ)と自分が思った物はすべて排除。 

 

母親、自分、親族の要望だけで事を進め、そして最後は手元供養となり、美しい容器に納められて実家に帰ってきた。

 

そのコンパクトに収まった親父の姿をみて、一番喜んだのは何を隠そう母親である。

肉体は無くなってしまったけど、遺骨となって自分のすぐ近くに居てくれることが何より嬉しいらしく、

94歳の母親にとっては、それが当たり前の感情だと思う。

 

故に冷たい墓に入れることは無いわけで、墓など不要の理由がここにある。

 

今は元気な母ではあるが、やがては亡くなるし、そのときはその手元供養の残り半分に母親の遺骨を納め、

僕が家に連れ帰る。

3回忌、もしくは7回忌の時に、改めて”埋葬”をおこなう。

もちろん冷たい墓石の下に封じ込めるのではなく、暖かい土とその上にいっぱいに咲き誇る花に包まれて自然に帰る、

樹木葬にて埋葬する予定だ。

 

これが墓にこだわらない、僕の考えかたである。

 

 

 

 

 

 

 

 


葬儀費用とボッタクリ

2024年12月19日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

いわゆる”ボッタクリ”が平然と横行するのが、冠婚葬祭。

ついこの間も テレビで200万円ボッタクリされた事が報道されていた。

 

数十万円が、終わってみたら200万円では、たまった物では無い・・・・・・。

 

有名人、親族多数、仕事の関係者多数等々、どうしても”仕事や様々な縁を持つ方達”がお別れに来なければならない様な故人はともかくも、

家族葬を謳って、”これだけ安く出来ます!”と大規模宣伝し、最終的にはバカにならない費用となる。

ちいさな何とかは、行政指導も受けていたりして、その悪質さがそこからも判るがかなりの注意が必要なことは間違いない。

 

当たり前だけど、人が亡くなられ、その方に関係していた方達に連絡をすれば、広がっていくのは当然。

家の親父みたいに、長生きしすぎて? 廻りが皆亡くなってしまっている場合は、余りそうした事が無い分、楽だ。

 

今回の葬儀だけど、あらゆる事を全て含めんで90万弱で収まった。

これには、いわゆるお墓を購入して?、墓石を押っ建て?、それに納め、49日の法要までの形を、

少し違うやり方でこなしている。

 

まず、葬儀会社関連は約64万円(税込み及び仮葬費込み)で、内訳は基本費用が約46万円(会員で割引)。

これは病院から安置所までの移送、安置と葬儀場代、葬儀、そして霊柩車で運んで、火葬の終わりまでにかかる一切を含んだ費用であり、又、ごく基本的に掛る物。

これは葬儀会社が24時間体制で対応しなければならない面を含んだ、施設維持費、暖房光熱費、会社として必要となる人件費を考えるなら特段高くは無い。

https://www.tokatsu-memory.com/

今回は、これに湯灌代の15万円が加算されて、他にドライアイス(3日分無料)の1日分11000円が加わっている。

湯灌代が少し高いが、元々お風呂が好きであった親父が、最後の一月に渡って全く入浴が出来なかったから

どうしても、最後にきれいににしてあげたかった。

面会に行くと、熱も有ったせいで、汗をかいていた姿が目に焼き付いているのもある。

 

ちなみに僕の選択した葬儀会社は、祭壇に生花を使用してくれて、”なんとかの葬儀”とか、”よりそう何とか”みたいに、

造花を使い回しするところでは無い。

この”祭壇の花”が造花であるかどうか・・・・・は葬儀会社の選択の重要なポイントだった。

理由は至極簡単で、その葬儀会社が葬儀自体をどう見ているか?がこれで判るからだ。

ちなみにこの生花は、普通より増量をお願いして、さらに親父が元々菊作りが上手だったこともあり、大半を菊にする手配をしてもらった。

 

格安葬儀社は、祭壇の花が”造花”なので、当然棺に納める花が無事から、ありとあらゆる口実?を付けて花を買わせようとしてボッタクル。

「こんなに綺麗なお花はどうですか?」とばかりに、高額なのを推し進めてくる。

 

今回、完全なる家族葬故、そんな高価な花は不要だし、準備したり等の手配は一切拒否。

祭壇にあるものだけで十分だからだ。

 

葬儀の方はそんな感じであったのだけど、次は ボッタクリキングのお布施。

 

お坊さんが絡んだ、壮大な常識的ボッタクリな訳だが、親父には、僕の名前を生まれた時に付けてくれたように、僕が親父に戒名を付けた。

 

”菊法社澄陽銀和院居士”という名で、 菊は親父が大好きだった菊創りから来て、法は晩年に検察審査会の組織員だった事に基づいている。

その次の”社”という文字だが、親父が菊を納めていたのが神社や公的機関等で、社会にわずかなりとも貢献していたので、

いわゆるどこぞのお寺の記号でもある ○○院などとは全く無関係。

故に社会という意味で菊法社になる。

 

*後日談(12月25日) 前の法と、後ろの院との兼ね合いが有る(二重になるらしいです)ので、

どちらかを消すのがベストで、法を無くしてもきちんと意味をなして全く問題は無いという、よく知る方からのお話があり、

最終的に、そちらをなくした名にすることになりました。

後で変更可能なのか?と思いましたが、 戒名は単にどこぞの宗派の、どこが経を上げ、どのくらいそのお寺に寄与したか?という

単なる記号的意味合いしか無いらしく、何の影響も無いらしいです。    

まあそんな物は分っていましたけど、改めて詳しくてお話を聞くと、ボッタクリだよな~と・・・・

本人はすでに天界に旅立っていて、その名を提示して天界の仏門に入る(仏弟子になる)とか何とかで、

元来が無宗教だし、 息子さんがお父さんに命名しても、仏様はまったく差別も区別もしないらしいです(笑)

故に変更も全然問題なしとの事でした。

 

 

次の”澄”という文字は、親父が自分に対して常に素直であったからであるが、逆にうちら家族は結構酷い目に遭ったりもした。(笑)

ただ、世に迷惑を掛けたわけでは無く、何時も自分に素直で純粋であった事と、菊の花は澄んだ水と温度管理が大切でそこからも来ている。

”陽”は、やはり菊に関連してるが、趣味の畑仕事が好きで、太陽光をいっぱい浴びた野菜を収穫しては、近所の家にただで配って歩いていた。

僕も家族も沢山の野菜をもらった。

 

太陽の”陽”を戒名に設けたのはそのためだ。

さらにその次の二文字は、親父の親父(ぼくにとって爺ちゃん)の名前から1文字、親父の名から1文字持ってきていて、銀は月をも意味して、和はあらゆる事に平穏をもたらす笑顔が元になっている。

 

そして最後の院居士は、基本的な戒名のルールに添って単に付け加えただけで、これ坊さんに頼んで最後に付けてもらうと、特に院がつくとお布施代は100万円を超える。

しかしながら、上記にあるように、戒名は僕が付けたので、無料=ただ である。

 

この、戒名程いい加減な物は無い、ごく個人的な偏見がかなり混ざっているが、縁もゆかりも無い、知らない坊さんに頼んで、

そいつが生前の親父の話なんぞを聞いて”適当”に名を付ける。

最後に何を付けるかで価格が大きく変わる。

なんで、そんな”つまらない物?”に、なんで?大枚を払わねばならないのか?が全くもって僕は理解できない。

 

爺ちゃんも、親父も僕も完全無宗教で、本来は経など一切要らないのだが、今回は母親の要望で頼んだ。

ただ、ネットにあるいい加減な”コンビニ坊さん派遣”では無くて正規のお坊さん。

戒名無しの俗名であげてくれる方を、葬儀会社の上の方から頼んでもらったわけだ。

 

当然、戒名が無いのだから、経は俗名で行われたが恥ずかしくもなんとも無い。

以上、これらの費用が10万円。

 

今回、完全なる家族葬であったことから、通夜は無しの告別式のみ。

ただ、告別式当日に遠方から子供達(幼児含む)が朝早く移動してきて、その後に家へ帰るのは大変なことから、

前日に駅前のビジネスホテル予約をして、そこで宿泊してもらった。 

この費用が約4万円(6名)

戒名に無駄な金を払うなら、そっちに使った方が遙かに良い。

 

同時に、告別式前の夕飯は、実家で皆が集まり、ブリしゃぶで親父をしのんで乾杯。

https://www.nissui.co.jp/recipe/00536.html

意味不明に暗くなっている必要は無いし、大往生で最後は苦しむことも無く安らかだったのだから、皆で明るく、

そして楽しい一時で親父を送り出してもらいたいからだ。

この費用がお酒代含んで約1万5千円

 

翌日、告別式はごく普通に行われ、火葬場へ移動し、11時から火葬なので、皆は控え室で一時を過ごした。

当然だが、火葬場待合室の糞高い食事用意等、バカバカしいので絶対にやらない。

その後、遺骨を持って実家に戻ると皆で私服に着替えてお昼を食べに。

 

回転寿司で皆お腹いっぱい食べてもらい、これが約1万8千円。

安くてやたら美味しいはま寿司だけど、人数が多い(といっても合計8人)ので、このくらいは当然。

以上、合計 84万4000円

 

この後だけど、 僕は親父を墓に入れるつもりは無く、将来的には樹木葬にするけど、今すぐにでは無い。

遺骨はすぐに手元供養の専門業者に送付したので、粉骨後に特殊な遺骨ケースに入れてくれ、そこに俗名と戒名を記してもらって、

これが位牌とお墓の代わりとなる。

母親のすぐ近くに、そして親父にとって安らぎの自宅に居させたいわけだ。

https://una-kuyou.jp/contact/

アライブという、2人が入る手元供養ケースを頼んだので、初めはそこに親父が入り、家の仏壇に位牌として置き、その後はやがて来るであろうその時の、母親の骨もそこに。

2人が亡くなったら、それを僕が自宅に持ち帰って、3回忌もしくは7回忌まで家に置いた後に、樹木葬で最終的に埋葬することにしている。

墓に入れるつもりは無い。

https://www.taijyunowa.org/tokorozawa/

以上は、すでに母も了解済み&心から納得済み。

この費用が約8万。   

樹木葬は 後に多分20~30万円。

 

いわゆる、お墓を買って、そこに納骨するという一般的な手法と僕とではやり方が全然違うわけだ。

位牌というのは、本来遠方に墓があったりして、そこに行けないから位牌をもって代用するのわけで、 

遺骨そのものがすぐ近くに有るのなら、位牌なんぞ一切不要。

 

さらに、僕がウーナでの粉骨を頼んだのは、 きちんと真空パッケージによって腐ることが無いから。

 

お墓というのは、当たり前だけど土の中に石で囲いを造り、そこにただの骨壺に納めた遺骨を置くだけ。

これ、どうなるか?というと、 あっさりと腐るんです骨壺の中で。

 

ジメジメとした空間、 骨壺内部が結露してカビが生えてきて、やがて腐敗する。

それが実際です。

 

骨壺の中でジクジクと親を腐らせていくのなら、樹木葬で自然に戻してあげる方が、ごく自然である、というのが僕の考えであり、

それに沿っている。

 

 

実は、実家のすぐ近くにお墓が有って(茨城県の守谷市にある某霊園)、これは親父と母が以前買った物なのですが、現在骨は一つも入ってない。

初め、自分的には不本意でありながらも、親が墓を自分達で購入したのなら、その意思に一応は報いようと考えていた。

 

無宗教故に、今回の親父の件でその霊園に出向き、(まだ臨終前)、戒名無しのお経だけをお願いをしようとしたところ、非常に不愉快な思いをさせられた事から、

このお墓は、しばらくしたら終いして取り壊し撤去する。

 

「日本の古くからの宗教(仏教)なら宗派問わずOK、納骨も好きなように出来ます!!」と遙か昔(今も)に募り、

それ見て親が買った訳だが、単なる納骨だけだと駄目!、お経上げをしてもらわねば困るとのたまわる、

そしてそれだけに止まらずに、葬儀の段階からうちの坊さん(宗派)を使ってもらわないと駄目!!という言い方しかしなかった。

「そこを頼みます」と頭を下げてお願いしても、頑として拒否された。

しかもその問答の時に、事務所からすぐ横の寺に電話をかけて、数十秒もかからずに来れるのに、坊さんは現われず、

事務員の、何も知らない若い女の子だけが連絡係よろしく、一方的に文言を伝えてきた。

それだけならまだ良いのだが。”絶対に戒名は必要!”と伝えてきて、その代金(お布施)も払え!と言われ、

完全に親は瞞されたわけですよ。

 

書類を見たら、初めに買ったときは条件無しだったのが、その後にこそっと規則改正(よりよい霊園のためにとか何とか)の書類が来て、

そこにしっかりと催事ごとは関連のお寺の坊さん使わにゃ~いかんとかかれていた。

 

母親に聞いたら、「そんなことが全く無いという事だから買ったんだけど・・・・」とのことで、 ここにも葬儀に絡んだ常識的?ボッタクリがあるわけだ。

悪いが、そんな信用ならない処に(霊園)に親の骨を納める気など、これっぽっちも僕は無い。

故に親父が家で過ごせるように、手元供養を選択したわけだ。

 

最後に49日だが、 実家で行い、お経は僕があげて終わりとなる。

 

以上が今回の葬儀から 納骨(手元供養)までの全費用で、安くは無いが、高くも無いと思う。

ただ一つ言えるのは、 意味不明な無駄支払いをしなかったという事になる。

 

沢山の人を呼んで、通夜から食事振る舞って式を執り行えば すぐに200~300万は飛んでしまう。

そこに来て、墓を買って石を置けばプラス300~500万。

合計500~800万円。

 

これが良いか悪いか?

等はという事は無いし、それぞれの家庭で、それぞれの葬儀の形があり、

どうやるのが正解というのが無いのが当然だけど、

 

僕が求めたのは、家の家族が”心から素晴らしい葬儀であった”と、後に笑顔で話せる物であって欲しい、

ただそれだけの思いでしか無い。

 

 

 

 

 

 

 

 


思うこと

2024年12月19日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

親父が亡くなって、日曜日に葬儀も終了。

月曜日は母親を連れて、役所にて必要な手続きを完了。

 

火曜日には朝から実家の片付けを初めて、掃除、整理をして、お昼を母親に準備してから帰途に、

そして昨日から正常業務。

 

12月2日からリモートワーク、12日から忌引きということで、約2週間程職場を離れていた事も有り

多量の片付け(仕事)に丸一日追われたけど、大体それも落ち着いた。

 

親父はもうこの世に居なくなってしまったわけだけど、気持ち的にはとても落ち着いている。

よく聞く、 ”親が生きている間にもっと色々してあげたかった云々” という事は自分には無く、

というのは、この数年間、特に親父が脳梗塞を起こして右半身が不自由になった一昨年の年末からは、

できる限り実家に来ては、ホームに居る親父を連れ帰って過ごしつつ、自分なりにやれることは全部やった。

 

望むこと、出来ること、可能なこと全部だけど、 一番親父が嬉しそうだったのは何より、 

僕と会える事そのものであった・・・・・というのは、母親の話だ。

 

物では無く、贅沢でも無く、とても些細で単純な事だけど、親父にとっては母親と僕と、家で過ごすという、

何気ないことが一番良かったのでは無いかと思う。

 

葬儀は僕が全て仕切り、僕の思うとおりに進め、本当に家族だけで、静かに送ることが出来た。

 

慰問者が居て悪いという事は無いが、その分親父と最後に過ごす時間は短くなるし、不要に気を遣うし散るわけで、

余計なことにひたすら神経をすり減らす上に、後で来る経済的負担も多大な物となり、なんら良いことなど無い。

 

故に、僕は完全なる家族葬にした。

 

自分は、世間体など一切気にしない。

そんな物を気にする事ほどくだらない事?は無いと思っているし、見栄もなく、飾りもしない。

いわゆる世間の常識とやらに、不必要に揺すられたり、動かされたりという事が一切無い自分だから、

不要な物はできる限り排除し、その代わりに家族全員の心だけに包まれた空間を親父に提供できた。

 

家族だけで送ってあげるということが、本当に心地よい物だろうか?という迷いも初めには有ったけど、

想像以上に穏やかで幸せな一時で有った事実は間違いない。

 

by 翔

 

次の日記は 葬儀費用について書いてみたいと思います。

 

 

 

 


91年間の人生

2024年12月12日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

親父が、今朝永眠した。

91年+9ヶ月という長い人生、 後数ヶ月で92歳を迎えることができた訳だが、 こればかりは神様のみ知りうることで、

どうすることもできない物でもある。

 

最後の表情は本当に穏やかで、幸せな一生であったと思う。

「亡くなる(心臓が止まる)のは時間の問題です」ということで、昨日は家族の皆、親父からすると我が子(自分)と孫、そしてひ孫まで院の方へ来てくれて、

看取りの為に移された、個室にて対面。

 

昨日の早朝の段階で、いつ呼吸停止してもおかしくなかったことから、面会制限が一切ない部屋に移された訳ですが、 今にも止まりそうだった呼吸は、

皆が来てくれたおかげでなぜか強くなり、そう、皆がいた朝から夕方まで、ずっと安定していて。

 

本当に親父が居なくなってしまうのだろうか?と思ってしまうほど。

体は動かせないけど、瞳は見えていて、耳も聞こえていて、 なので面会室で家族皆の話とかが聞こえていたのがよく判るのは、

表情がわずかなりとも変化するから。

他にも涙をみせたり、年齢なりの惚けはあれど、認知症ではない親父は、家族皆の会話が楽しかったに違いない。

 

91=大往生、だから明るくて楽しく親父と最後の時を過ごしてもらいたいと、子供達には予め伝えてあって、そのことも有るだろうけど、

面会室は死ぬこととは全く無関係に思える、明るい声と笑い声に満ちていた。

 

時間が殆どないのなら、”皆で楽しく時を”、それが親父に対して自分ができた最後の孝行だった。

 

 

夕方に子供達皆が帰り、僕と母親だけが実家へ。

 

今朝の5時15分頃に電話あり。

病院に着いたときには、すでに臨終で、ほんの少しだけ間に合わなかった。

触れた体はまだ十分に暖かく、 医師の検死によって5時45分に死亡という書類となった。

 

葬儀会社に連絡して、遺体を安置してもらい、 その後にこの後のスケジュールなどを業者さんと打ち合わせ。

予め相談してどういった式にするかを決めてあり、その通りに行い、特段の追加もなく。

ただ、母親の希望にて、 完全なる家族だけの葬儀を執り行うことになっている。

 

世間体や、見栄とかいった物が此れっぽっちも存在していない僕故に、葬儀は”完全に親父のために家族で行う葬儀”となる。

故に香典もなく、お返しもなく、 意味不明で不要な物は無く、本当に家族だけで故人を偲びながら送りだす、 少しだけ変わった葬儀になるが、それでいいと僕は思っている。

ちなみにだ、歌を歌ったりとか、変な呪いごとをするみたいな、”異常な葬儀”ではなく、ごく普通の葬式であるけど、送り方と気持ちの込め方が少し違うわけだ。

 

なぜなら、もし自分が命を終える時が来たらば、 家族の皆に、”笑顔であの世に送り出してもらいたい”と思うからで、

その自分の思いを親父に重ねて、故に葬儀はそのスタイルで行くことにしている。

 

 

 


マジで最強かいな?

2024年12月09日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

先月の10日から食事がとれなくなり、ほぼ一月。

 

どんだけ丈夫なんだいかいな!? 

 

投与されていた点滴は単に水分補給で、栄養成分はほぼ無し=カロリーなし とのことで、絶食に近いけど、それにより生き長らえていたわけですが、

点滴による全身の浮腫が著しくなり、28日にそれも不可能となって取り外されてしまった。

 

いわゆる水を飲まない状況と全く同じになったわけですが、浮腫による体内水分が沢山有ったおかげか、今朝の段階でまだ心臓は動いていて、

”11日間”も水分補給なしで生きている。

 

昨日の夕方に面会に行き、親父に声をかけたけど、ほとんど反応がなく。

一昨日は体調がよかったのか、顎の動きやその他から面会に来ている事が判っている状態であったのが、それが無かった。

 

ただ、瞼を指で開けて、瞬きさせながら、ひ孫のビデオを見せてあげると、画面を目で追うので、まだわずかに意識があることが判る。

 

後数ヶ月で92歳。

正月を乗り越え、誕生日までは元気で行けるだろうなと転院の際に思っていた自分にとって、つらい現実でもある。

 

介護院の看護師さんや、ヘルパーさん達がまめに面倒をみてくれ、姿勢も変えてくれるし、ひげそり、洗面、歯磨きなど、

食べられない飲めないこと以外は、すべてやっていただいているおかげで、人間らしい最後を迎えつつある。

 

顎呼吸が以前より著しくなり、”苦しくはないだろうか?”と見ていて思うが、脳内物質が放出されているらしく、本人は苦しみを感じてないとのことで、

そういった意味では安心するが、 ここまで来ると、正直言って早く楽にしてあげたいと思う事が多い。

 

老いて、全く動けなくなり、寝たきりになることを一番嫌がっていたのは親父自身だ。

ただ、現実はそうなってしまっていて、本人もそれを解っているだろう事から、それを知っている僕としてはかなり苦しい心持ちでもある。

 

主治医の話では、長くて2週間ということなので、 残っている時は3日程度となり、何もできずに死を待つことはかなり苦しいが、

上に書いた様に、楽にしてあげたいという思いもあり、 心中なんともいえない状態ではある。

 

今回、親父にもらった時間で、どこの葬儀屋さんでやり、どういう葬儀をあげるのかという事はすべて決めてあるので、その時間をくれた親父には感謝している。

突然の訃報だと心がパニックになるが、 これだけ長い時間をもらうと、余裕が有り、準備もできたし、心の整理もついた。

残っている時間は本当に少ないが、最後の瞬間に横で見送れたらと思っている。

 

 


葬儀とボッタクリ

2024年11月22日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

木曜日から金曜日に掛け、泊まりで実家に行ってました。

木曜日は午前中だけ仕事をして、午後から実家。

到着してすぐに昼を食べると、親父のいる介護医療院に母親を連れて面会。

金曜日もこっちに予定満載なので、そのまま泊まり、翌日は母親を病院へ連れて行って、それが終わるとすぐに母のヘアカットに。

その後、帰宅すると僕は次の所用があるので一度外出。 

帰りに”かつや”でコロッケとロースカツをお昼ご飯用に購入。

 

帰宅して程なくすると、親父でかなりお世話になったケアマネさんと、この先母親がお世話になる施設長の方が来てくれ、ディケアの契約。

まず週一からスタートですが、親父の事で母が家に籠もりっきりにならないようにする意味もある。

 

約一時間ほどで契約関連が終わると、買ってきたカツとコロッケ+僕が味噌汁作ってお昼。

食べ終わるとほぼ同時に、僕は葬儀会社へ一目散に行って、式の見積もりを作成。

 

親父がもう回復不可能と判ってから、かなりの時間を頂いたことで、かなり葬儀に関して勉強が出来たわけですが、

色々と学んで来て、”余りにも、酷いな”と思うのが、葬祭に関するボッタクリ構造。

 

特にお墓と戒名、そして葬儀に関して、ごく短い期間でウンザリする程沢山のことを知った。

葬儀は突然来ることが多く、殆どの人は半分パニックになるために、当然の事?ながら冷静さを失う。

 

自分の場合、8月末に一度危なかったときは多分に漏れず、激しく動揺激して、 ただ、今回は次が来たときは・・・・と覚悟が出来ていたので、今回親父からもらった時間でかなり勉強できた。

 

冷静になって色々調べれば、ボッタクリ構造は至極簡単故に容易に判るのだけど、 突然の場合は、それどこではないわけで、それにつけ込んでくるのが葬儀関連だ。

 

まずは葬儀だけど、ネット検索でトップに出てくるのが格安の家族葬関連のところで、 小さな云々、 よりそう云々、

何とか典礼や 横見文字のセレモ云々等々。

*以下格安ネット葬儀会社と書かせてもらいます。

 

自分も初めはよく解らなかったので、この辺りから資料を取り寄せてみたところ、内容的には大体同じで、費用も大体同じ。

 

で、この辺りを更に詳しく調べたり、実際に葬儀屋さんで話を聞くと、こうしたところの実態はたんなる仲介業。

ただ、その仲介料が約30%~40%辺りになるという事が判った。

 

これ、実際に某葬儀会社さんから聞いた話であり、当然そこも、そうしたところから依頼があるとのことで、

インターネットが普及している昨今、親戚とか知り合いとかからの紹介よりも、こうした仲介業者に葬儀を依頼する方が多いらしい。

 

当然だけど、葬儀の費用でこれだけ仲介料を持って行かれると、仲介で依頼された下請け?葬儀屋さんも人を動かしている以上はできる限りお金を取りたい(ボッタクリたい)わけで、 それが基本費用にない付帯費用として次々と計上されて、

葬儀後に総請求額を観て驚愕することになる。

 

たとえると、家族葬の一日葬として27~29万で葬儀可能とパンフレットに書かれているものを例にあげると、絶対にその額では収まらない。

葬儀会社は、身内が亡くなって色々な意味で一杯々になっている喪主さん初めとした親族の、そうした心の動揺と隙間につけ込んで来る。

 

一つ一つがそんなに大きな額では無くても、葬儀として進行していく中で、”よりそう”というエセの姿を纏いつつ

「こうした方がいいですよ、こうしましょう!」と次々に持ちかけてくる。

 

気持ち的に余裕が全く無い状況で、次々に、しかも「親の為にどうですか?」と色々勧められれば、カタログの基本費用の安さがまず頭にある事から、総額でもそんなには行かないだろうと、次々と許してしまう。

結果として、27~29万が150万近くに平然となったりする。

これが第一のボッタクリだ。

ちなみに、格安ネット葬儀会社は、「一度お会いして精密な見積もりを作成いたします」等とは絶対に言って来ない。

不明なところがあれば、いつもでお電話下さいとは言うが、常に曖昧であって、実際に見積もりなど出さないわけだ。

実際に、自分が会って見積もりを出してくれた葬儀屋さんは、1時間はかかった。

 

電話で色々と話をしつつ、資料などを見ながらであるなら、そのくらいは簡単にかかる。

ところが、これを電話で長々と出来るはずも無く、効率が極めて悪くなるので、聞かれたことには答えるけど、それ以外は返答しないし、都合の悪いことは曖昧にしてくる。

 

これは当然のことで、あくまで仲介でしか無い以上は、”実際に葬儀を行う会社”がどこで、そして額がどれになるか?はやってみるまでは未定で、

その時に、適当に空いている葬儀会社に割り振って、後は仲介料だけを頂くというシステムになっている。

 

ちなみに、格安ネット葬儀会社の 祭壇に沿える花は生花ではなくて、使い回しが際限なく可能な造花である。

これを生花にすることも当然?できるが、とんでもない金額がやってくる、 大きな菊ひとつ10万とか(笑)

 

次のボッタクリ。

戒名であるが、これは亡くなられた方がその名をもって天に上り、そして仏様のところに修行に行くような意味があるとかなんとか?

と、もっともらしい言い訳がまかり通っていたりするが、これは単に葬儀終了しましたという証明みたいなもので、

天上界で過ごす事とは何の関係も無い。

 

実際の、戒名が持つ本当の意味は、亡くなられた御仁を”死んでも尚且つ自分の宗派に固定”させるための物で、

いうなれば家族の気持ちとか、亡くなられた本人の意志等は全く関係無く、天に昇っても尚且つ”まだ見えない鎖で縛り付けるための物”でしか無い。

 

体の良いこと、お坊さんが解説しているのをネットでも見たりしたが、これは御仁の為の物でも何でも無く、亡くなられた方の祖先から、その子孫末代に至るまで、定期的にやってくる”戒名代”や”葬儀”に関して生じる利益を、出来るだけ自分のところで確実に頂戴するためのシステムでしか無い。

 

戒名は亡くなる前でも、亡くなった方の子息が自由に付けてもなんら構わない物で、もちろん無くても御霊はきちんと

天に迎え入れてもらえる。

 

で、この戒名と完全にリンクしているのがお布施とお墓で、まずは”公営霊園”などを除くと葬儀に関しては連携しているお寺を使え!と強制され、その時に戒名も強制される。

宗教を信じている檀家さんならともかくも、民間の霊園ですらそうであり、初めは”どんな宗派でも日本古来から有る仏式であれば、墓を造るのはOKですよ!”と謳って契約させて、数年後に”よりより”霊園のためにルール改正しましたと案内が送られてくる。

その中に、こっそりと”礼式事は全て霊園の関係したところでしかやってはいけない”とこっそり追加記載されている。

 

お墓がそこに有るのだから、49日の納骨をその関連したお寺さんでやってくれというのならまだしも、

葬儀から始まり、49日、そしてその後の全部をその指定されたお寺さんでやらねばならなくなる。

霊園に提携した各種宗派を含んで、完全なるボッタクリ組織が成立しているわけだ。

 

もし、勝手に葬儀をして戒名でも付けよう物なら、 墓に入れないぞ!という、脅迫が確実にやってくる

買ったお墓に入れないという意味不明な事が起きて、下手すると、墓に入るために、もう一度経を上げて、もう一度戒名を付けて、 更に墓の前で49日をやって、それで納骨が許されるという実に馬鹿らしいことが現実に起きる。

 

生きているうちにお墓を買って、安心してると、その本人が亡くなったとたんに本性を現し、戒名初めとしてお布施含めて30~150万ほどボッタクル。

生前に檀家さんとしてお寺に色々と尽くしてくれた方には、そんなに大きな金額で無くても良い戒名が付くのは、常日頃から支払いをしているからだ。

そうで無い場合は、お墓に入れてやるのだから、これまで何もしてこなかったのだから今纏めて支払え!ということなのですね。

 

故に無宗教者等、そのお寺と殆ど関わりが無い場合、粗末な戒名で20~30万は最低は持って行かれ、

更に葬儀でお布施として10~30万ほどボッタクリ、更に49日(納骨)でボッタクル。

まさに3重ぼったくり構造そのもの。

 

葬儀の時には、お経を読みげるお坊さんのために、高い御前を用意させられ(これは葬儀会社の儲け含む)、駅までタクシーで1000円程度も掛らない処でも、お車代として数万ボッタクル。

他にも位牌や墓へ名前(戒名)入れで10万円の請求がもれなく付いてくる。

 

結果、家族葬で30万円程度が、格安ネット葬儀会社の仲介でボッタクられ、さらに葬儀会社でぼったくられて150万、

そこにボッタクリの坊さん来て、戒名何やかんやで50万。

 

「ハイ!200万円費用が掛りました~~~~、お支払いをおねがいします!」とやってくる。

しかも満面の笑みを浮かべて。

 

総額を見て驚いていると、すかさず「心配いりません、ローンが使えます!」 なんて平然と言ってくるし、支払わねば大事になる。

 

これが葬儀での実際であり、現実であり、事実でもある。

 

ちなみにお墓に刻む戒名は、天に行く御人のためのものでは無く、各宗派が、どれだけ自分たちが葬儀をやりました!という

派閥的な物を明示する為のものであり、よって各宗派事に戒名の方式が違うことで、互いに判りやすくしている。

それに関した者達からすると、一目で全体が判るような構図になっている、 いわゆる暗号的みたいな意味を持つ。

 

決して亡くなられた御人が天界でその名を名乗る為の物では無く、単に一度出来た因縁を、体よく末代にまで渡ってボッタクル為のものでしかない。

 

以上、自分が極短期間に知る事が出来た、葬儀という何絡んだ経営システムで有る。

 

 

 

 

 

 


親父

2024年11月19日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

今、介護医療院にいる僕の親父ですが、おそらくは、もうまもなく一生を終えることになるかと思います。

 

先週の木曜日に、院から連絡をうけ、急遽土曜日に面会したのですが、病院から医療院に転院した時の元気な姿は無く、ケアマネージャーさんのお話だと、もう一週間も食事が取れておりませんとのこと。

水分の方は点滴にて補ってますが、このままだと・・・・という感じで、 覚悟はしていたけれど、まさかこんなに早く来るとは思いませんでした。

 

ただ、まだ”絶対”と決まったわけでは無くて、あくまで可能性が高いという事なわけですが、91歳という年齢を考えると、再び食事を取れるようになることはまず無いだろうと正直思います。

 

ついこの間、といっても夏ですが、親父の胆石手術が終わって、特養に戻って元気だったのですが、

身体能力の衰えとしての嚥下能力が著しく低下して、それが誤飲性肺炎を引き起こして病院に緊急入院。

 

この時は8月も終わりで、病院に行った僕は、胃ろうを建設するか、栄養剤点滴で食事の代用をするか、

もしくは、このまま看取るか?という判断を迫られたわけです。

そこまで状態は切迫していました。

まあ、突然の事でもあり、多少パニックになっていたのもありますが、以前から身体にチューブを取り付けて生きることを拒否していた親父ですから、一旦は看取りの方向へ。

ただ、病室にいる親父と話をすると、多少意識混濁は有る物の、僕のことも判るし、話も可能。

どうして良いかの判断が仕切れない僕は、親父にそのまま”この先どうするか?”を聞くと、親父の言葉は「どちらでもよい・・・・・」とのこと。

話している内に溢れる涙が止らなくなり、 親父に「又来るね!」と言葉をかけて退室。

 

これが全くの昏睡状態とか、完全なる認知症で、自分が誰かも、僕が誰かも解らないくらいなら、

看取りという方法も有ったのですが、 普通に会話できてしまうと、誰でもそうだと思いますが、

そうした事はやはり出来ません。

 

その後、じっとしていると気持ちがおかしくなるので、ウインドキャンプに行き、数日かけて色々と考えましたが、

そのまま看取る(死なせる)という事に耐えられず、 病院に電話して胃ろうをお願いした訳です。

 

数日後、肺炎が治まり、「寝た状態ではあるものの、食事の摂取が可能になりましたので、胃ろうはやめておきましょう」という医師からの連絡があり、

そのあと、2月ほどかけて栄養剤の点滴や、口からの食事摂取で、だんだんと元気に。

 

ただ、親父の状態から、もう特養に戻ることは不可能で、そこで介護医療院に転院。

10月24日でしたが、非常に元気になった親父を観て僕の方も安心。

 

一度介護医療院に入ってしまうと、面会は限られるのと、特に乳幼児は面会不可なので、

その日は皆で行って、転院する間の介護タクシーに乗る前、移動中、そして到着して暫くの時間を

短いながら家族で過ごす事が出来た。

ひ孫に接することが出来たのは、本当に幸運でした。

 

介護医療院は基本的に終末期のお年寄りを引き受けるところで、ここに入るという事は、

積極的な治療というのが無く、後は出来るだけ本人の意志と、苦しまずに一生を終えることを補助するところであり、

それは僕自身も解っているし、 次に食事とか不可能になった時が最後の時だろうなと覚悟していたので、

今回の事は割と冷静に受け止めることが出来ている。

 

今回は8月末に選択を迫られた時の様な動揺もパニック的な物も無く、親父の年齢を考えると、いわゆる老衰である以上は”避けられない物”、と落ち着いて考えられるようになった。

 

11月の初め頃に、院から連絡が有って、帯状疱疹が出たとのことで、この時はまだ食事も出来ていたのですが、

10日頃から全く食事を取らなくなり、その後疱疹の法は収まってきた物の、今度は体力の低下が著しく、

本人も全く食べたがらないという感じとなり。

 

それで、ケアマネージャーさんが連絡してきたわけです。

 

先週末に、母親と面会に行って、転院の時より更に細くなった腕と顔をみて、何ともいえない悲しさを覚えるわけですが、幸いな事に、まだ呼びかけると反応もあるし、返事もする、ただ声は出ないので、 口の動きで返事する感じ。

 

本当は家に連れて帰り、長年過ごしてきた家で最後を迎えさせてあげたいのですが、その場合は、

家での看取りとなるが故に、専門のケアマネージャーさんに連絡をおこなって、

各方面の準備や調整をするのに大体10日から2週くらいかかる。

 

僕の方も有給休暇を使って、来てくれるヘルパーさんと最後まで看取りをしたいのですが、

今の親父の状態を見ていると、受け入れ環境を構築している時間は無く、 かといって94歳の母親に親父の面倒を見させることも不可能。

結果的に、病院での看取りになる事はほぼ間違いは無い。

 

人が物を食べず、飲み物だけで生きられるのは2~3週間。 体力の無い親父は大体2週間くらいだろうと思うので、

多分今週末辺りが最後になるだろうなと・・・・思っている。

 

面会したときの親父は、痩せ細ってはいるけど、顔は親父であって、そして僕を育ててくれた父である事には変わりない。

 

もう余り時間は無いけど、この数年間は、出来るかぎり親父にしてあげられることは全部やって来た。

 

故に僕自身も後悔は無く、最後に願うは、心臓の止るその瞬間に、親父の側にいてあげたいという気持ちだけしか無い。

 

自分勝手なところがあり、他人の価値観を認めず、変なところで頑固で意地っ張りだった親父で、

若い頃はそんな親父が大嫌いで、特に反抗期から後はその思いが凄まじかった。

 

ところが、この数年間の間に、親父のそうした表の姿の裏に隠されていた、人間的な物を色々と知るに従い、

そうした気持ちはすっかり無くなり、いまは感謝の気持ちしか無い。

 

あとどのくらい時間が残っているのだろうか?と思うのだけど、今週末に母親を病院に連れて行くので、前日に再度面会をする予定で、その時に「食事取れるようになりました~!」という病院の介護士さんの言葉があれば良いなと思っている。

 

少し今心配なのが、一人暮らしの母親で、焼夷弾の下をくぐり抜けてきたが故の強さは基本的にあれど、

親父が家帰ってくる可能性をまだ否定していないので、いつも親父のベッドは整頓されて、布団も干されている。

 

親父がいなくなった後、一気に老化が進まないだろうか・・とひたすら心配だ。

 

人は生きている限り、絶対に終わりが来る。

2人の親の姿を通して、”生きている間は、常になにかに挑戦して、時間を無駄にしないようにすることを教わり”、今に至っている。

今の僕は親が基礎を造ってくれた物で、その基礎の上に自分という人格が載って今に至っている。

 

この2人を手本としてこの先も生きていきたいと思う、翔です。

 

 

 

 


この子も・・・・

2024年11月18日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

今年の5月30日に産まれた孫ですが、 この子もギフテッドの可能性が有るかも・・・・

思い始めています。

 

今、中学1年生の息子の子(僕にとって一人目の孫)も、産まれてすぐの頃から片鱗を見せ始めて、

非常に頭のよい子なのですが、その子が6ヶ月位の頃に僕の方が気付いて、その辺りを息子には話をしたわけですが、

いわゆる英才教育だ天才教育だというバカみたいな物は一切受けさせず、極普通の教育と極普通の育て方で今に至っている。

 

とはいえど、やはり能力というのは出てしまうわけでして、小学校から今に至るまで、テストはほぼ全部満点。 

さすがに中学になると勉強はしているらしい???のですが、それは?というと、

自宅で毎日5分くらい、教わった事を見直している程度で、特にテスト勉強をするという事はまだやってないらしい。

 

簡単に言うと、家に帰ると、リビングのテーブルにノートを出し、その日に書き留めた物を見直すだけ。

 

中学一年生になる前に3年分の英語は既に終わっていて、今はイタリア語を勝手に自分で勉強している。

 

小さい頃から、理科系の実験みたいな物が大好きだった?のですが、小学校低学年までは、Youtubeでそうした物を盛んに観ていて。

3年生くらいの頃には、ほぼ全部頭に入ってしまったみたいで、その後はそうした知識的な物では無くて、

流動的で不確実、常に変化に富んだスポーツのサッカーが大好きになり、 一生懸命やっている。

 

ただ、大変なのは母親の方でして、”アスリート食メニューを自分で組み、そのメニューのとおりに毎日造ってくれ”と言われるらしく、

それ以外の身体的に能力を伸ばさない物や、あまり身体に良くない物は殆ど食べ無い。

 

地頭が良いですから、サッカーでも条件や廻りの状態、その日のメンバーや自分の位置、相手選手の動きからパターンを読み込んで、

常に隙を突く攻撃の仕方をしているらしい。

 

らしい、というのは、僕自身がサッカーに余り興味が無く、見に行かないので、息子や廻りの人から伝わって来る話。

ただ、スポーツは”頭でいくらプログラム的空間構成やシュミレーション”をしても、その通に行くわけでは無いわけで、

、孫は”それ”が楽しいようだ。

 

で、話を戻すのだけど、下の孫はいま5ヶ月半くらい。

上記の子のギフテッドとしての片鱗がすでに見え始めている。

一つは、日中は殆ど寝ることが無く、常に何かに接している、それが母親だったり、音楽だったり、テレビもそう。

 

特徴らしき物は沢山有るけど、幾つかあげると、抱っこしてもらう相手により、特に膝抱っこだと動きが違う。

同じように抱っこされていても、同じではなく、自分の動きや行動に対して、今抱っこしてくれている人がどうした対応をするか?で自分の行動を変えている事は間違いなく、

それは父親と自分でも全く違うし、家内や母である娘でも明らかに違う。

 

面白いのは、大人をからかって楽しむ事?をすることが突然増えて、簡単に言うなら泣き真似をしてみたり、

それも当然相手によって違うわけだけど、嘘泣きとか、大人が驚いたり、慌てたりすると”ニタ~っと”する。

当然嘘泣きですから、その後は泣くことが無く、ニコニコしたり、何かに興味引かれたりで、意味不明にグズグズと泣くことは全くない。

”おいおい!”と思うわけですが、そんな孫の行動に一つとして、ミルクを哺乳瓶で飲むと、有る程度まではお腹が空いて

いる為に普通に飲むのだが、 ある時点でピタッ!と拒否。

 

母乳に切替えろ!?という要求なわけだが、そこで悪戯を始めることが多く、

飲んでいる振り?して母親の表情の変化をみていて、ニタ~ としたり、突然乳首を噛んで、当然母親としては「痛っ!!」となるわけだが、

その表情を観てニタ~ 、でそのまま普通に飲むし、際限なくやるわけでもない。

 

楽しんでいる?わけだ。

 

他には、テレビを付けていると、その番組の内容でジッと画面をみていたり、喃語で何か話をテレビに向かって

盛んに発したり、かと思えば全く興味の無い番組は殆ど観ない。

 

好きなのは、話の内容が簡単で、理解しやすいサザエさん一家とかを特に好み、笑点の大喜利のような、

言葉とそれが織りなす小ストーリー的な物はまだ理解が出来ないので観ようともしない。

 

最近始まった離乳食では、口に入れてもらうのでは無く、カミカミみたいな乳児用スプーンを奪い取って自分で賢明に食べる。

 

月齢的にまだうまくスプーンを口に運べるわけでは無いのだけど、失敗しても何度もトライする。

少し手伝うと、それを嫌がることは無い物の、とにかく自分でやろうとする。

 

5ヶ月に入り、急激にそうした行動が増え、それは手足が段々と自由に動かせるようになってきているからなのですが、

その行動の全部は、親依存とはまったく違い、明確な自分の意志という物が強烈に出ている。

 

5ヶ月半にして、こんな感じなのだけど、そうそう!人見知りも面白く、初めての人に抱っこしてもらうと”嘘泣き?”をして、

相手の表情とかをよく観察。

自分にとって害をなす相手かどうか?を比較的短時間に理解し、大丈夫だと自分で判ると、後は泣きもせずにニコニコ愛想を全力で振りまく。

そんな感じですから憎まれることが無く、誰からも可愛がられている。

 

グズグズ泣くという行動が孫には一切無いですね、何故か・・・

 

まあね~・・・・それがこの子の性格なのか特徴なのか?は正直判らないけど、知能的にかなり上である事は

ほぼ間違いは無いかと思う。

 

 ←爺バカの翔です

 


五ヶ月一寸、初めての風邪

2024年11月09日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

を引いたようです

免疫がもうすぐ切れる頃なんですけど、 早速風邪第一号に感染。

当たり前ですが熱が9度越えまで上がり、 病院からもらってきた座薬を処方。

翌朝には熱はいったん下がったのですが、午後から再び上がってきて8度前後で乱高下?

お父さんに初めて蜜柑の絞ったのを飲まされて、なんともいえない顔に・・・・

咳と鼻詰まりで昨晩は2時間おきにぐずり、娘夫婦が居る二階から泣き声とかするので、こちらも大体判るわけですが、

ビックスベポラッブの出番となりそうです。

 


もうすぐ5ヶ月

2024年10月26日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

5月30日に生まれた孫ですが、 もうすぐ5ヶ月。

 

今週の火曜日には、曾ばあちゃん、曾じいちゃんと初めての対面。

親父は、特養から介護医療院に転院する際の短い時間ですが、 無事にあえました。

 

コロナ以降、12歳以下の子供の面会が難しくなっているので、転院の再の移動の時にしか会えない為、

平日ですが家内や息子、そして子供を連れた娘に来てもらいました。

 

親父は今、寝たきりに近いので、介護タクシーでの移動しか出来ないのですが、同乗した母、娘と家内が乗り、

移動しながらひ孫をあやし、目に涙を浮かべていたとのこと。

 

2月半ほど前に、誤嚥性肺炎で、特養から病院に入院した際には、体の状態から胃瘻にするか、

看取りにするかの選択を迫られた訳ですが、病院がわの懸命な努力のおかげで、普通に話が出来るまでに回復しました。

病院の皆さんには本当に感謝しています。

 

一時は、ほぼ酩酊状態だったのですが、親父の運の良さが此処でも出ていて、まあ、さすがに唾を飲み込んでも肺炎を起こしかねない状態で、

なので、短時間しか座ることが許されないので、自分の車(車椅子仕様の福祉車)ではなく、介護タクシーでした。

 

火曜日は、皆で朝早く実家に移動して、まずは曾ばあちゃんと初顔合わせ。

その後は皆で病院に移動したのですが、殆ど泣くことがない子なのでかなり楽。

 

5ヶ月近くになってきて、最近は多少の人見知りが出始めては居ますが、初対面の人に抱っこされたりすると泣いたりするのですが、

すこしの間ふれあうと、その後はずっとニコニコ。

 

そんな感じですので、娘がどこに連れて行っても、誰とてもニコニコ顔で、喃語で一生懸命話をして、それに相手が何かしら

答えてくれると、キャッキャ言いながら大喜び。

 

泣くときのパターンは明確で、お腹が空いたとき、うんちやおしっこで不快なとき、 自分の周りに人が居なくなったとき、

の三つくらい。

 

なにか痛い思いをしたときは泣くのが当たり前ですが、そうですね~他には沐浴の際に、体を洗うときに頭からお湯をかけられるわけですが、

一瞬ぐずる物の、すぐに泣き止んでニコニコ。   

でもってその後は湯船で大騒ぎ。

 

本当に楽な子です。

 

なんで?難解な?と思うわけですが、娘自体が一切神経質になることが無く、何時もおおらかな子育てをしている事も、

ニコニコの理由なのかな?とか思うわけですが、多分生まれ持っての性格なんでしょうね。

 

ここに来て感情がさらに豊かになり、それが顔や喃語に明確に現れ、その分こちらも子供の要求がわかりやすくなって的確に動けるので、

さらに泣いている事が少なくなりつつあります。

 

そういえば、この子は本当に寝ない子で、夜8時頃に寝て、 真夜中に時々起きる事は有るものの、すぐにそのまたネンネ。

夜の2時から朝の4時くらいの間にお腹が空いて授乳も有りますが、そのまま大抵は朝の7~8時頃まで寝ている。

でもって、一度目が覚めてしまうと、特に何も無い場合は、お昼寝で30分とか短時間だけで、後は夕方に15分ほど、

その程度しか寝ない。

 

寝なくて大丈夫なんかいな? と思うのですが、助産師さんとかの話では、全く問題ないとかで、そういえば今中学生の息子の子も同じでした。

 

家の場合、5人家族で、同居という事も有るのですが、 誰に依存することもなく、誰かがいればとりあえず大丈夫なので、

昨日なんかは夕方から娘とその旦那の二人で映画デート。

なので、僕がお風呂に入れ、家のがミルク飲ませて、夕飯の後は3人で早めに就寝。

 

夜中の1時一頃に娘夫婦が帰宅しましたけど、 孫はそのまま家のと一緒にそのままネンネ。

 

4時頃に一度目が覚めたので、帰宅後すぐに搾乳してあった母乳を湯煎して哺乳瓶で飲ませてもらい、 

この日記を打っている5時15分現在、二人でスヤスヤ寝ています。

 

しかし・・・・意味不明に泣くことも無く、いつもニコニコで、面倒も爺婆????のどちらかでも居れば問題ないというのは、

娘にとって非常に楽なわけですが、 まあ、乳児ですので、この先どう変わっていくかはまだ誰にも判りません。

 

数ヶ月後は逐一ギャン泣きする子になっているかも!  ダハハハハ!!(笑)

 

 

 


鰤シャブ

2024年02月11日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

空調が貧素なのと、寝にくいベッドのおかげで、 なんとなく睡眠不足気味の翔。 

駄目だな~アパホテルは・・・・・・ 、その後地下の大浴場に行って、風呂でやっとスッキリ!

 

ただ、脱衣所の床一面に凄まじい量の毛が落ちていて、汚いなんてもんじゃない・・・

 

人件費削減して、 盛んに宣伝して、 でもこうした基礎的なところがボツじゃ~駄目だべ!

昨日の受付もそうだし・・・

 

その後は2に有るローソンで朝を買って、家内と部屋で食事。

8時半には全員揃って出発しますが、 向かうは僕の実家。

 

高速道路がガラガラで、予定よりかなり早い9時半には到着してしまったのですが、中々ね~全員タイミングが揃うことがなく、 正月過ぎてしまい、 今更という感じですが、新年の挨拶

すぐに車からキャンプ用のテーブルやイス、 冷蔵庫の中身やクーラボックスを降ろしてリビングに展開。

皆は母親と雑談しているので、僕はというとカセットガスコンロに土鍋を載せ、特製の出汁やら日本酒やらを入れ、 材料の切り出しを開始。

 

すぐに時間が過ぎてしまい、 10時15分になったので、 僕だけ親爺を迎えに行きました。

ホームから家までの間に、 皆がいることを話さずに連れてきたので、部屋に入って驚く親爺ですが、 皆その姿見て大爆笑。

 

今更ですがお年玉を渡し、 そして暫くの間、談笑。

僕は相変わらず準備をしています。

 

皆、朝ご飯を食べたのが8時半頃だったので、 まだお腹が空いていないらしくて、 なので、11時45分に始めることにしました。

 

娘夫婦がお腹の子(ひ孫)の性別を2人に報告したり、 リビングに置いてある、フォトスタンドに有る孫の昔の写真とか娘の高校生時代の写真とか見て、大盛り上がり。

孫と息子の絡みの動画がいくつか有って、それ見て大爆笑ですが、 孫だけは苦笑い(笑)

 

11時半過ぎに、大根おろしを降ろし、コンロに火をいれて、鰤シャブの開始。

滅多に家では料理しない僕が、今回はやっているので、僕が包丁を握った時は”絶対に美味しい物が食べられる”と

娘も息子も解っているので喜んでいます。

 

当然の事ながら、ただの鰤シャブでありますが、 味は翔スペシャルで、頂きますの後は 「美味い!!」「 美味しい!」の大合唱(笑)

 

恐れ入ったか!! カッカッカッカ!! と笑う僕ですが、 喜んでもらえて光栄です。

 

親爺と母親も食べていましたが、 親爺がとにかく良く食べてくれたのは良いのですが、そのせいで母親がユックリと食べられなかったな~・・・・・ それが少し残念です。

まあね、親爺が自分で箸をつかって食べられなくなってしまっているので、仕方ないのですが。

 

そんなわけで、 大盛り上がりですが、 親爺は1時頃に昼寝。 

 

1時半頃には片付けを開始。

午後の2時には親爺を起こし、 ホームに戻る準備をして、 全部車に物を積んで実家を離れたのは2時半。

 

今回、 「ボケて頭がバカになって来ている云々」と始終話す母親ですが、 そんなこと全く感じさせないほど饒舌で、 今年93才になる。

親爺は90才と、かなりの長寿、自分もそんなに長く生きるのかな~・・・

なんて思うわけですが、躯が動かなくなり、息子や娘夫婦に迷惑をかける前には、

あの世に行きたいと思う僕です。


兄弟でも色々と、

2023年07月08日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

有るんですよね、本当に・・・・

今日は家の恥を晒すようで恥ずかしいのですが、似たような境遇の方が居られましたら、某かの参考になるのではないかと思って記させて頂きます。

*写真は 92になる母親が庭で育てている野菜の一部です。

ず~っと昔、 もう20年以上前になりますかね、 僕のお爺ちゃんが亡くなったすぐ後に、

遺産を巡って大きなトラブルになる事が有った。

遺産て、額にかかわらずに”そこそこ”にでも残っていると、親族間でそれに関する諍いが大きくなるもので、その際に親爺も母親も巻き込まれて大変なことになった。

以降、親爺は兄弟姉妹が居る処(お爺ちゃんの家の周り)から離れる為、当時住んでいた家を売って、

今のところに移り住み、現在に至っている。

 

その相続争いので相当大変な思いをしたことから、以降は自分の兄弟姉妹とは全くといって良いほど連絡を取らず、

89歳という年齢まで来てしまったわけです。

ただ、稀に電話は有る訳ですので全く途切れたという事ではないのですが、その内容の大半はお金の無心という有様。

その当時、兄弟姉妹同士で弁護士を立てて裁判やったりと、当然ですが弁護士にとってはこれほど美味しい物は無く、

そんなんで吸い尽くされた財産は大した額では無くなり、 また、中途半端な額を手にした事で、それにつけ込まれて騙されたりと、

結果として、皆散在した。

 

運良く???家の親父だけはお金に執着すること無く離れたのと、 お爺ちゃんが亡くなる前に自分の分だけはきちんと贈与してもらっていた事も有り、争いに加わるでもなく、まあ、逃げるようにして親族から離れたわけだが、

今となっては、正解だったのでは無いかと思う。

 

これはあくまで僕が自分に対してだけ持つ感覚だけど、 

 

お金って、追いかければ追いかけるほど去って行き、それによって開いていく距離はどんどんと埋め難くなる。

やがて余りにも遠ざかると、焦った心は目を曇らせ、正常な判断が出来なってさらに悪くなる。

そういった物では無いかと思う。

 

実際に、そうやって兄弟姉妹で争って得た物は全て失われ、その後に来る現実だけが残ったわけですから。

そんなわけで、親爺とは殆ど付き合いの無かった兄弟姉妹だが、 1人だけ家と土地を持っていた妹がいて、

その妹は2年前の秋に亡くなった。

 

その時に、病院から連絡は来たけど、怨恨のあった母親が話を拒絶、そして親爺と供に葬儀にも呼ばれず、これまでそのままになっていたのだけど、 数ヶ月前に突然親爺の弟が実家に来て、 その妹の遺産が残っているので、分割したいという申し出があった。

 

ただ、何度も書くけど、 以前の記憶が鮮明に残っている母親は全く話を聞かず、 叔父は(内の親爺の弟)すっかり困り果てて、 

事の次第を母親から聞いて知った僕が、改めて連絡を取ったことで、今日に結びついた訳です。

 

母親は、”またお金の無心か”と必然的に門前払い的な対応になるのは僕もよく判るし、まあ、親爺も兄弟姉妹が多い(かった)ので、

どこで、何時問題がややこしくなるか?油断も出来ないわけです。

完全シャットアウト状態の親に変わり、叔父の甥っ子でも有り、 良くしてもらった記憶が有る僕が代理となって話を聞くことになったわけですが、

叔父の話では、 遙か前の相続争いでバラバラになった兄弟姉妹も、残るは親爺の姉と親爺、叔父の3人だけとなり、ほかの皆亡くなったそうだ。

 

叔父もさすがに、自分の年齢がかなり来ていることも有って、妹も亡くなり、残った遺産を平等に分け、

この秋の三回忌までには”昔のことは全部精算して綺麗さっぱりとしたい”という話であった。

 

初めのコンタクトから始まって、その後に叔父とは何度も話をして、 その心内を理解する度に、親爺と母親にはその話をしてきた。

 

人のもめ事や、諍いの大半は、ほんの些細な行き違いや誤解が原因であることが大半で、家もやはり、そうした事がきっかけでも有った、

親爺と母親から、当時の話を含めて色々と話を聞いてきた僕でしたが、 叔父と話すに際しては、そうした事は一切絡めず、純粋な心であって話を聞いてきた。

 

叔父には叔父なりの理由なりが有り、 まあ、お爺ちゃん(親爺と叔父にとっては親爺)が亡くなった事によるショックやら何やらと、様々な要因が絡み合って、その当時は兄弟姉妹が互いに感情的になっていたのもあるかと思う。

長い年月を、兄弟姉妹がバラバラで過ごす内に、互いの事を色々と考えたのだろうけど.次第に事が判るようになってきて、

結果として、”幼き日々を過ごした兄弟の頃に戻りたい”という思いが沸いて来たのではないかと思う。

そんなわけで、 新たに生じた相続をきっかけにして、 久しぶりに親爺と顔を合わせた叔父だけど、 

互いに笑顔で、 とても穏やかな時間が流れた一日だった。

 

僕からすれば、どんな些細なことでもまた修羅場になる可能性を排除するために、 とくに一番辛い目にあった母親には、一切口を出さない様に何度も説明して理解をしてもらい、 実際に母親の方もだまって親爺と叔父との話を聞いていた。

 

まあ、それなりの時間、揉めた物同士では有るけど、話はどうしても昔話になる。

展開として昔の諍いごとに近い話になるのは仕方の無いことだけど、 その時は叔父は僕の顔をみて、助けを求めるようにして話題を投げてくれたので、

僕の方では叔父の心置きを胸に起きつつ、時として説明交えて話がスムーズに行くように心がけた。

 

叔父も、難しいと思うことは親爺や母親にではなく、僕を通すことで間接的に自分の思いを伝えたわけだが、 叔父が僕に同席を強く求めていた理由も判らないではない。

最後には、親爺も叔父も笑顔となり、かなり年齢を重ねてしまった兄弟2人ではあるが、長年の蟠り幾分かは消え去ったのでは無いかと思う。

 

最後に3回忌の話になり、9月の初め頃に亡くなった妹(僕からすれば叔母)ですが、出来れば親爺に参加願いたいという話が叔父からあり、

まだ暑い盛りなので、親爺が無理しない範囲で参加することになった。

 

当然、僕も付き添うが、 出来れば親爺の姉も参加してくれれば良いと願うのだが、 施設で認知が少し出始めているらしいという話を叔父から聞いており、又、ホームからお墓までの距離がかなり有る事から、連れてくるのは難しいのではないかと思う。

 

そんなわけで、一段落付いたわけですが、親爺も大夫躯が弱くなって来てしまっているので、 その前に叔母(親爺の姉)と会わせてあげられたら良いなと、思う 

 

翔です。


食べることも難しく

2023年06月20日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

なってきた親爺。

 

6月3日に、一月近い自宅での生活を終わらせてホームに戻った親爺ですが、 約2週間ぶりに自宅帰りです。

 

ホームから車に乗るまではそれなりに元気でしたが、 家に着いて玄関まで、そして玄関からリビングに至る短い距離を歩くことが酷く難しい状態で、

やっと歩いているという感じすから、さらなる体力の低下をヒシヒシと感じます。

 

今日は、親爺のマイナンバーカードを役所に取りに行かねばならないのですが、 殆ど朝食が食べられず、 ブドウパンを一切れほど・・・・

 

90近いお年寄りに「時間通りに役所へ来い!」という、役所の態度もどうかと思うのですが、とりあえず親爺を車に乗せて、役所内は車椅子にて移動。

*このカード発行は平日しか出来ないので、 その為に今回、月曜から火曜までの二日間を有給休暇取りました。

 

すぐにカウンターへ行きますが、 手続きの間の親爺はというと、コックリコックリしている。 

まあ、そんな感じなので手続きは殆ど僕が代理でやった次第ですが、無事にマイナンバーカードも受け取り家に帰宅しました。

まだ時刻が朝の9時半と早いので、母親のリクエストで親爺連れて買い物です。

 

親爺は、すでに自分で衣類を脱ぐことが困難になっている事も有り、 出来るかぎり着替えが楽な下着を用意する必要があるのですが、そういった物は、

それを扱っている店舗に行かない限り有りません。 

 

近いところでは? 多少距離はありますが、 大きなデパートに物があって、そこに向けて出発。

 

何やかんやで10時半に到着。

例のごとく家のデカイハイエースは建物駐車場に入らず、近くのコンパーキングへ。

 

親爺はというと、話もせずにずっと寝たままで、 店まで連れて行こうとしても、「行かない」という返事のみ。

運良く風が有り、気温もそれなりで、かつ曇っていたので、窓を全開にして親爺は車でお留守番してもらい、その間に母親と買い物してきました。

 

デパートは物は本当に良いのですが、価格もよい?価格 (笑)

帰り間際に、デパ地下に行って、親爺の好きなウナギのキモ焼きがあったので購入。

 

さらに家の近くまで来たら”かつ屋”で ロースカツを購入して帰宅。

 

もう12時を回っていたので店屋物ですが、 親爺はやはり殆ど自分で食べられず、 串に刺したうなぎの肝だけは食べましたが、半分寝ている状態のまま。

最後は母親がスプーンとフォークで食べさせていました。

 

口に運んであげるときちんと食べるのですが、自分では食べられなくなってきており、ますます身体能力の低下が進んでいるのが判る。

親爺に食事を食べさせている母親の姿、この二人の姿を見る事は辛い物で、しかしながらこれも現実なんです。

 

親爺は認知が無く、耳も普通に聞こえるし、目も見えるので、家に居る間は、僕と母親の話とか、そうした些細な事だけが楽しみなのかもしれません。

 

午後は、2週間溜まった郵便物の整理をして、支払いに行き、その後は、ホームを換えるかもしれないので、その候補施設(予約)を見学、

戻るともう3時近くです。

 

ベッドで寝ているか???と思ったのですが、 親爺は昼の後の姿そのままに椅子でうたた寝していました。   

オイオイ そうくるかいな? (笑)

 

すぐに親爺をベッドまで連れて行き、母親も疲れるので二人は昼寝を開始。

 

僕は?というと、ネットで色々と調べ物したり等々、色々やらねばならないことがあります。

夕方7時くらいになって母親が起きてきたので、僕は夕飯の買い物。

 

親爺が刺身好きなので、それを買いに行きますが、 閉店近くなってきたスーパーは昼の値段の半額。 ウォ! 安い! 

2400円のが、1200円ですから。

 

夕飯は、親爺は食べるには食べていましたが、途中で食事を止めてしまい、ウツラウツラ状態。

やはりというか、途中から母親が食べさせてました。

 

一晩明けて

さて、何時ものように朝ですが、昨日便が出ず、聞くとしばらく出ていないというので、まずは浣腸からスタート (汗)

便座に座らせると、掃除機を出してきて部屋の掃除をして、それ終わると、排泄終わった親爺をトイレから出します。

お尻を拭くと、廊下の手すりに掴まってもらった状態のまま、上から下まで着替え。

 

夜に自分でトイレに行くことが出来なくなった親爺は、トレパンですが、やはり排尿はしていました。

つい2ヶ月ほど前までは自分で夜にトイレに行けていたのですが、これも老化なんですね。

 

トレパンを外すと、蒸しタオルで下半身を拭いてから新しいトレパンを履かせ、そして上着等を全部と着替えて、やっと朝食。

 

例のごとく、母親に食べさせてもらっている間に先に食事を終えた僕は、 今日ホームに持っていく衣類を準備します。

それ終わると、予約していた床屋さんに親爺を連れて行って、ヘアカットと髭剃りをやってもらいます。

親爺が床屋で居ない間に、僕は手すりを二カ所ほど増設工事。 

 

そしてお迎え。

戻ってくると、次の予定までまだ少し時間があるので、 親爺の爪切りと、母親の爪切り、 そして伸びきった親爺の鼻毛をカット(笑)磯野波平 状態でしたので。

写真は母親の足

お昼まで時間があるので、そのまま親爺をベッドに寝かせると、僕は家の裏と、門から玄関に至る植生のカット。

かなり伸びまして、歩くのにかなり邪魔でしたので、デカイ裁ちばさみなどを使ってガンガン丸めていきます。 ウリャ!!

 

続けざまに、11時予約の施設見学に行きましたが、昨日と同じで、現在のホームからの移転を考えているのですが、色々な事が絡んでどう判断するかはかなり難しいです。

 

実家に戻るともうお昼、 本当に時間の経つのは早いです。

ソバだったのですが、やはり自分で食べられない親爺は母親に口まで食事を運んでもらっていました。

 

このまま行くと、寝たきりになる可能性も頭の中に浮かんでくるのですが、上にも書いたように認知が無い親爺には寝たきりとなるのはかなり辛いことだと思います。

変な言い方ですが、認知になるか惚けが著しく進んだ方が、本人にとっては楽なのかもしれません。

 

また、ホームも寝たきりとなると、現在の処から特養を考えねばならず、そこは待機者はそれなりにいますし、早めに申し込まなければならないのですが、

今の親爺の状態が一時的な物なのではないか?という気持ちを消すことができず、現実を認めたくない自分もここに居ます。

 

後どれくらいの時間が親爺にはあるのだろうか・・・・・そう考える自分もいて、同時に、寝たりきりになるのなら早いほうが・・・と思ったり、

逆にできる限り長生きしてもらいたいという強い気持ちが複雑に心の中を交叉して、その狭間に自分の幼少期から今に至るまでの親爺との様々な思い出が浮かんでくる。

 

やがては自分もそうなるのだというのは判っていながらも、それを否定したい気持ちと、目の前の姿と自分の姿が重なってしまいます。

 

なにができるだろうか?と考えても、自分に出来ることには限度が有り、 時の経過と、残酷に進む老化は決して止める事ができない。

 

自分が出来ること、やれる範囲の事をして、そして今の親爺の姿を教師としながら、自分なりに後悔しない人生を送る事こそが何より大切なのではないか・・・・・

そう思う、 翔です。

 

 


ホームへ

2023年06月03日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

*写真は、留めネジが効かない壁面への手すり取り付けしたばかりの写真で、化粧材の取り付けの為の

緑テープが着いたまま(笑)

次回行ったときに、木目にニスを塗り、養生テープは剥がします。

 

 

5月9日から、試験的に家での生活をしていた親爺ですが、本日、ホームに連れて行きました。

 

施設に戻る時には、文句も言わず、ゴネル事もせず、以前の送り迎えの時の様に、普通に車に乗って何事も無かったように施設へ。

 

実家に戻った時には、これで”二度とホームには戻らない!”という親爺の気概すら感じた僕ですが、 家での実生活の難しさを、嫌という程に実感したんでしょうね・・・・  

 

実際に、夜に自分で起きてトイレに行くことが困難となり、最後の方は常に介護パンツ(オムツ)で夜を過ごす感じでした。

ただ、排便や日中のトイレは問題はなかったのが幸い。

 

歩く事が困難になり始め、 家の中でも倒れたりすることも有って、 緊急駆けつけサービスさんには何度も来て頂きました。

 

体力がここに来て極端に落ち、食事中でもウトウトしてしまう事も多く、着替えも介助無しではほぼ不可能。

 

親の弱って行く姿を見るのは本当に辛い物ですが、 これが現実でも有り、動かしがたい事実です。

 

そんな状態ですから、母親に過剰な負担が掛らないように、日中はデイケア、そして短期ショートステイ等、 

各種組み合わせて工夫しましたが、母親いわく「もう限界・・・」という言葉に、息子として決断せざるを得なかったのも事実。

苦しい物です、本当に。

*トイレドア枠(出入り)の処にも、手すを縦に設置。

 

今回、母親がかなり頑張ってくれたお蔭で、親爺の希望通り短いながらも家で過ごせた訳ですが、

口で幾ら説明しても、「出来る!大丈夫だ!」と言って憚らなかった親爺も、 さすがに今回は無理なのだと悟ったようです。

 

家で生活可能な最低のラインは、 夜のトイレに自分で行けて、介護パンツ等を使わずとも大丈夫なこと。

食事も自分で食べられること、そして靴下や下着、ズボンなどが自分で脱ぎ履き出来ること。

 

この3つが、自宅での生活ではどうしても必要でして、 なぜなら、年老いた母親が夜中に親爺を起こしてトイレに連れて行き、間に合わなかった場合は、その処理、介護パンツの交換をする。

母親が口に運んで食べさせ、室内の移動は母親が介添えする、立ったり座ったりするのも難しい親爺の衣類の脱ぎ履き、

以上の全てをしゃがむことが困難な母親がすることは無理だからです。

 

今回、家での生活は、それが出来るかどうか?の本当にギリギリのラインだったわけで、この先老いが進行すれば絶対に戻れなくなるし、 なら、能力がまだある時に、可能な限り実家で過ごさせてあげたかった。

溜息が思わず出てしまいますが、親爺の希望を少しでも叶えてあげられたのでは無いかと思います。

 

この先、もう家で長い時間を過ごす事はまず無く、ある意味、最後の家での生活の様な物でしたが、

施設に着くと、極端に落ちた体力が激しい眠気を誘うらしく、 すぐにベッドに入り寝始めてしまった親爺。

 

デイケアに行っているとき以外は、ショートステイでも家でも殆ど寝て過ごしている親爺にとって、

寝ることに関しては、どんなとこでも余り関係が無くなりつつあるのかな~とか思うのですが、 家との違いがあるとするなら、見慣れた安心出来る空間と、 施設の年寄り向けの食事では無い、暖かいご飯。

 

今の施設に特に不満があるという訳ではないのですが、食事が施設内の厨房では無く、外部への委託ですから、

当然味も落ちるし美味しくは無い(親爺の話)。

 

その話を聞いている僕ですが、夏に介護認定見直しがありまして、それに併せて、厨房のあるところへ入居し直ししようかと考えている、翔です。

 

 

 


見極め

2023年05月23日 | 親爺と母と 介護や 孫ちゃんの話等

う~~~~~~ 体調が悪い・・・・

日曜日のウインドの時に、ウエットスーツを着ずにラッシュガードとサーパンだったのがまずかったのか?

それとも、渋滞と帰りの長い時間(往復7時間)車のエアコン風に当っていたのがまずかったか?

昨日の夕方から今朝にかけてのどの痛みと微熱がでてしまった僕。

滅多にこうした体調を崩すことが無い翔ですが、子供の頃から喉が乾燥に弱く、 多分車のエアコンが原因かと・・・

 

 

5月6日以降、更新が停滞していたわけですが、色々とありました。

その一つが9日に帰宅した親爺。

1月からホームで生活していたのですが、自宅での生活が可能かどうか?を見極める為、この朝からしばらくは自宅での生活になった。

で、12日までは、順調に生活できていたのですが、13日の早朝に母親から連絡があり、 早朝の2時頃、そして朝の6時頃に親爺が二回程倒れて動けなくなってしまったとのこと。

倒れたと行っても一つは座り込み、もう一つは本当にフラついて倒れた。

 

1回目はトイレに行こうとしてベッド横に座り込んでしまい、そのまま動けずに排尿。

トイレに間に合わなかった訳です。

 

このときは親爺が母親を呼び起こし、母が緊急コールで駆けつけてくれるサービスでナースと介護福祉士が来て引き起こしてくれた。

ようやく落ち着いてベッドに戻ると、 次は朝の6時頃にまた倒れ、 今度はリビングへ入るドアの横に座り込んでいたそうだ。

この時間は母親が大抵起きる時間なので、廊下にいる親爺に気がついて再びコール。

 

このときはトイレで用を足した後だったらしく、床が水浸しというのは無かったのですが、 右の手のひらの小指と、同じく右の足の指を骨折。

内出血もあり、 駆けつけた緊急サービスの方に引き起こしてもらい、ベッドまで戻ったとのこと。

 

その後、朝食は母親に付き添われて何とか食卓にこれたわけですが、 足と手が痛んで結構大変だったらしく、特に右足の小指と、ねえさん指の間を切ってしまいそれがかなりの痛みだったらしい。

二カ所の腫れが著しいことから、8時半に病院へ母親が連絡して、 その病院からケアマネのところに連絡が行き、送迎サービス付きの整形外科に運んでもらった。

 

診断では、両方とも大したことは無く、 それゆえかギブスも無いし、 特に固定処置も無し。

親爺も騒ぐ訳でも無かったので、特に薬も無くそのまま帰宅。

 

母親が僕の方に連絡をくれたのは、病院に行く前の迎えが来るのを待っているときだったのですが。

電話で事の次第を聞いた僕としては「これから行こうか?」と準備を始めた。

すると「聞くと大丈夫だから!」とかたくなに固辞されてしまい、来なくて良いといっているのに押しかけるのもどうかと思い、とりあえず何かあったら連絡してと行って、このときは電話を切った。

 

そのまま、後は連絡が無く、週明けに担当にケアマネさんから電話があり、 今回の事も有って母親にかなりのストレスと疲れが溜まっていたらしく、 この13日の日は、念のために来てくれたケアマネさんの前で立ちくらみが起きて倒れてしまったとのこと。

そんなことから、急遽親爺は16日から22日まで、ショートステイでお泊まりとなった。

18日にケアマネさんから連絡があり、 認知予防のためのパッチが4枚も貼られていた? という話があり、

親爺の話では躯が浮いたようになって上手く歩けないという事から、おそらくはこれが原因と特定。

 

20日の土曜日、特に予定も無く、なら、手すり工事をしようかと実家に向かった僕。

何時も通りに7時に家に着くと、朝食後に昨日までの話を聞くと、想像以上に大変だったらしく、

何より2度倒れて起き上がれなかった事から来る、様々な事がかなりのストレスになったようだ。

 

聞くと、パッチの事は明確で無く、 どういった経緯で多数貼られていたのか?という事はハッキリしないので、

母親には問わなかったけど、母親がお風呂に入れているわけではなく、帰宅前のホームや、ショートステイなど、

貼る場所が人により背中だったり、胸回りだったり、すると、無い物と思って前のを剥がさずに貼る可能性はある。

 

とりあえず、今回のゴタゴタはそのパッチが原因で有る事はほぼ間違いなく、

ショートステイの間はその辺りをきちんと管理してもらうようにお願いしているので、22日に帰宅する時には

基のように戻っているのでは無いかと思った。

母親の方は13日の出来事含めてかなりの疲労だったようだけど、この親爺がいない間に元気になってはいて、ただ、親爺を家で過ごさせたい思いはあれど、 自分自身の身体的な能力の限界も有り、どうにもならないと泣いてしまった。

母親には、 今月末まで見極めして、夜のトイレがどうにもならないという場合、 残念だけどやはりホームで生活してもらうしか無いという話をした。

 

なんせ92才の母親には、親爺にオムツを毎日履かせてそれを又処理するだけの事が、かなりの負担な訳だ。

ひとしきり話をしたあと、ケアマネさんが僕が実家に居るのを電話で知って駆けつけてくれて、この後どうするか?について相談。

 

今月末くらいまでに見極めするという事で話を終わらせましたが、果たしてどうなるか?は実際のところわからない。

 

そのあと、僕の方は手すりを設置開始、

壁の下に隠れている間柱を探してそこに木ネジで固定するわけだが、一部分どうしても固定できない壁が有り、

これは後で補強を入れて取り付けるしか無い。

廊下はこんな感じで、両側に手すり。 右側の扉がトイレ。

寝室の親爺のベッドの、すぐ横にあるクローゼット横にも2本。

後は片付けて終了。

日帰りで帰宅して、 日曜日は今年初めてのウインド。

 

今日は訪問医さんが来てくれ、その後に訪問介護の人が来るので、その時間を狙ってに電話してみた。

 

母親の話では、依然として夜のトイレが駄目で、吸水シートが濡れる状態とのこと。

まだ、パッチの薬効が残っているのか?は判らないけど、13日の事から既に10日近く経っているので、

一人で夜にトイレに行けないとしたら、 完全に家での生活は絶たれてしまう。

 

僕が実家にずっと居れれば、そうした事は問題にはならないのだが、ずっと仕事を休んで面倒を見る事は現実として出来ない。

 

親爺の面倒を見ている母親には大変だろうけど、 実質的に負担となるのは、その夜のトイレの問題。

そのほかは、食事にしても何するにしても支障は無く、しかしながらその夜のトイレ問題は自宅での生活においての最大の障壁となっている。

9日から家に戻り、突然13日に悪くなると言うことはあり得ず、というのは僕が1月から2~3週間に一度程度の割合で親爺を自宅に連れてきて、その時にはほぼ夜中に排尿で失敗したことは無かった。

徐々に失敗する数が増えるというのが老化だが、ある日突然全く出来なくなるはずがなく、

考えられる要因は躯に貼るパッチ以外には考えられない。

 

どの程度の期間過剰摂取による副作用がつづくのか?が判らないが、身体の中の薬効が正常値にもどれば、元に戻るはずだと僕は思っている。

ちなみに、母親だが、 戦中に家をやかれ、防空壕で凍えながらナマの芋をかじったり雑草を食べて生きてきた人間故に、その精神的な強さは半端ない。

大変だろうとは思うが、 本来家で生活できるのに、薬物のせいで出来ないのをもって、自宅での生活が不可能と結びつける事は、 残り少ない人生の中で、平穏な一時を奪う事になりかねない。

母親には悪いとは思いつつも、あとすこし頑張ってもらいたい。