親父が亡くなって、あっという間に2週間以上の時が流れた。
必要となる手続きもあらかた終了し、一昨日は家に届いた”親父”を持って実家へ。
手元供養の、遺骨が入ったケースを持って行った訳だけど、 それを見た母親は大感激。
貧素な位牌と全く違って、美しく、精巧に作られていて、シンプルだけども高級感に満ちたそれに驚いて、
まあ、これが位牌を兼ねた、そしてお墓みたいな物でもある。
自分は、いわゆる墓地にあるお墓という物に全く興味が無い、それどころかデカくて重厚な墓ほど疑問と白けた目線を
向けてしまう。
ただ、どんな墓であろうが、その家族や故人の考え方に沿った物なのだから、それはそれでいいんだろうな・・・とも、当然に思う。
何で手元供養?という方も居られるかと思うけど、これはあらゆる事を考えての結果だ。
これは後で書くとして、まず、自分の場合は親父が生きている時、親父の為に出来ることはすべてやってきて、
いわゆる後で”こうすればよかった! できなかったのが心残りだ!”という類いの心残りが全くなく、
その時々で、自分が可能な事、出来る事は精一杯やってきた。
故に、親父が亡くなっても、余り悲しさは無く、それどころか心は穏やかで清々しい。
母親は、「お父さんも、こんなに息子に色々としてもらって、本当に予想外だったし、すべてに満足して逝けたと思う」
と一昨日も話してくれた。
この手元供養は位牌みたいな意味もあるのだけど、いったい位牌って何だろう?と思うのは、本来はお墓が遠方にあってそこに簡単に行けない昔の名残で、墓の代わりに位牌を手元に置いて魂を供養する物。
それは良いのだけど、49日までは白木の簡素な位牌で、納骨の時に黒い位牌と交換するわけだが、
自分にとって全く理解できないのは、そこでもまた坊さんが出てきて、お経を上げてボッタクル。
5~10万円なり~~~~~!!!
なんでお経をあげるのか?だけど、これは”入魂?”の為で、魂を仮の白木位牌から本位牌に移し替える作業?
はあ~~~????? 仏教の考え方では、魂は殻(体)を抜けたら、49日かけて天界にたどり着くんじゃ~なかったっけ???
地縛霊よろしく、亡くなった故人の魂を白木にぶっ込んで、今度は49日に本位牌にそれを移し替える???
霊が移る????
まったくもって自分には理解できない、天にいくはずの魂はどこにいったん?
そして、お墓は何のためにある?という事になるのだけど、
故人を忘れないようにするとかなんとか、宗教界があとでこじつけた屁理屈はうんざりするほど沢山有って、
その実は、単に法律上の最終処分場でしかない。
遺骨の処分をやりたい放題されると国としては困るし面倒なので、 葬儀と関連性が強い宗教界に任せることで処分場管理を行ってもらうというからくりで、故にそれを基にしてボッタクリの温床が生まれてきたわけだ。
宗教法人は非課税所得が多く、それによって保護されているから簡単に潰れないし倒産しないので、
行政的には一石二鳥という極めて政策的な物でしかない。
なら自宅での供養は違法なのか?というと、そんな法律はどこにも無いし、全くもって問題も無く、
手元供養も全然OK! 、それはすべて遺族の判断に完全に任せられている。
*かといって勝手に巻くと違法になるので注意。
遺骨は魂の抜けた、いわゆる故人が入っていた”入れ物”の残りであって、その入れ物の中に魂が有ったことで、成長し、子を産み育て、温かい血が流れ、感情も笑顔もそこにあった。
天に旅立った故人はすでにそこには無く、それをなぜ入魂の儀式とかするのか?が自分には全く理解できない。
自分の親の遺骨を”常識”という名の下に、何の疑問も持たずに処分場へ納めて、ついでに坊さんにボッタクられて、
それも一つの幸せであろう。
昨今の暗いニュースの中に、親が亡くなったけど、葬儀代を出すことが能わずにそのまま放置。
腐敗して異臭が発生し、近隣住民等からの通報でミイラ化した親、悲惨な状態の中で暮らす遺族の姿などが報道されているが、
なぜそうなってしまうのか?という理由の一つに、 葬儀に関しての、壮大な常識化ボッタクリがある。
お金が全くなくても、行政は最低限の支援をしてくれて、きちんと相談すれば、故人がまともに生きてきた者であったのなら、きちんと火葬して遺骨にまでできる支援をしてくれる。
それが有るのに、何も出来ない者が出てきてしまう理由の一つに、葬儀に関する意味不明な常識の押しつけと、
+何度も書くが葬儀に関する宗教絡みの壮大なボッタクリ構造がある。
それに怯えて身動きできなくなってしまうからで、
「こうしなければならない!」「 こうするべきだ!」「それじゃ~恥ずかしい!」「あ~みっともない!!」
と、遺族を拘束して鞭を打ち、見えないボッタクリ世界に遺族を強制的に導き、骨の髄までしゃぶる。
なんか、おかしく無いだろうか?
墓なんか無くてもよく、戒名なんぞ無くてもよく、お経をあげる必要等も無い。
遺族として自分が出来る事を精一杯するのが葬儀であり、そこに思いが込められていれば何の問題も無いわけだ。
現実は、墓に埋葬しようとすると、儀式(49日等)にはうちの坊さん使ってもらわんと困る!
とシャシャリ出てくるし、それと違う事は拒絶してくるし、納骨そのものすら拒否される。
ボッタクリ構造だから。
今回、幸いなことに親父が残してくれた財産が少し有ったので、僕の方で色々と取捨選択をして儀式を執り行った。
当然、意味の無い支払い(ボッタクリ)と自分が思った物はすべて排除。
母親、自分、親族の要望だけで事を進め、そして最後は手元供養となり、美しい容器に納められて実家に帰ってきた。
そのコンパクトに収まった親父の姿をみて、一番喜んだのは何を隠そう母親である。
肉体は無くなってしまったけど、遺骨となって自分のすぐ近くに居てくれることが何より嬉しいらしく、
94歳の母親にとっては、それが当たり前の感情だと思う。
故に冷たい墓に入れることは無いわけで、墓など不要の理由がここにある。
今は元気な母ではあるが、やがては亡くなるし、そのときはその手元供養の残り半分に母親の遺骨を納め、
僕が家に連れ帰る。
3回忌、もしくは7回忌の時に、改めて”埋葬”をおこなう。
もちろん冷たい墓石の下に封じ込めるのではなく、暖かい土とその上にいっぱいに咲き誇る花に包まれて自然に帰る、
樹木葬にて埋葬する予定だ。
これが墓にこだわらない、僕の考えかたである。