トイレの神様/植村花菜
今日はいつもと違う曲を紹介します。
どうしても自分と重なる部分が有る、なんて思ってしますわけですが、娘にトイレ掃除を教えたのは自分、そのときの言葉がこの動画と全く同じでした。
家の場合は娘が小学校五年生くらいからだと思いますが、ただただ素直な娘を前に、それが故に親として放つ一言々がどう娘の未来を変えてしまうだろうか?と、恐れていた事を思い出します。
この曲ではお婆ちゃんと暮らしていたとありますが、自分は常に子供の側にいるという考え方ですから、ある意味この曲の歌詞のようにあったと思うわけですが、それはある意味母親(家内)より長い時間かも知れません。
五目並べはしませんでしたが、二人で夏の森にクワガタを捕りに行き、二人揃って全身蚊に刺されたり、叱り飛ばした後で指切げんまん、泣いているのにウインドサーフィン教えたり・・・
そうした帰り道は、いつも二人でアイスクリームを買って食べていた。
「綺麗になるから」と、この曲みたいに娘に話しても、汚いという意識が常に先に立つのが普通ですから、洗剤付けたスポンジで便器の奥まで腕を突っ込んで洗う事を教えたこともありました、もちろん同じ事を娘に強制はしません、親の姿だけで十分だからです。
そういえば、それ以降ですかね、トイレ掃除を嫌がらずにしてくれるようになったのは・・・・
子供は育つ過程でいろいろなことがある、そうほぼ確信めいて思うわけですが、何より大切なのは、自分(親として)に明らかな誤りがあったとき、そうしたときに親として子にどう謝れるかという事。
子に謝ると言うことは、ある意味難しいことでもあるのですが、その親の姿勢が子を大きく成長させるわけで、親が無意味な意地を通すようなら子の心は小さく育ち、親という人間をそのまま見せれば、多くを学ばせて人に好かれる人間に育つと言うことでしょうか?
中学生くらいに成長する頃から、当然のことですが子供は反抗期に入ります、そして高校生になれば親の元を離れていくのが人の本能です。
寄り添う対象が親ではなく、友達であり、好きな人であり、そうして親から少しずつ幸せになりつつ家族はバラバラになっていくわけで、それが普通であって成長なわけですが、今の普通は明日には普通でなくなり、やがてはウインドも行かなくなり、アイスクリームも一緒に食べてくれなくなるでしょう。
ささやかな瞬間にある幸せというのは、一瞬で消えていくもので、それが自立であれば、時としてそれは親にとって凄惨な残酷さを併せ持ちます。
しかしながらそれが無ければ親は子離れできず、それ以上に親離れ出来なかった場合の子供は苦痛にあえぐことになります。
親のつらさが多い分、子は楽に親離れ出来る物、そうではないでしょうか。
これは非対称なシーソーのようなもので、親の純粋な気持ちだけであれば、容易にバランスが取れるものを、”親の為の利益”をそこに少しでも織り込むと、それは何倍にも重さとなって子に跳ね返り、子は苦しまねばならない。
そうして自立が出来る余裕の無くなった子は非行や不良行動という形で親の我が儘から身を守ろうとする。
親というのは、わが子に接する以上に自分に厳しくあらねばならないと思うわけですが、現実というのは難しいですね。
やがては迎える子の独立、それと引き替えに親にもたらされる物は老いという現実です。 人は老いるために子を育て、老いるために生きているのではないではないか?
そう思うわけですが、それってとても幸せな事なのですね。
親元を離れた子は、やがて来る現実に必ず打ちのめされます、それは親が歩んできた道のりと同じ物であり、ゆえに親は一度羽ばたきはじめた翼をたたませるようなことが有ってはならない、
空を飛んでいる限りは目的地にたどり着くまで羽ばたき続けなくてはならず、途中で後ろを振り返れば木にぶつかり、羽根をやすませれば地に落ちる。
疲れて振り返る我が子の懐かしい表情に、親として甘えず、あえて厳しくなければならないこともある、それが親。
自分が娘の前から姿を消すのは、とりあえずまだ当分先のことだと思うのですが、
人は死んだ後に何を残したか?というのがとても大切で、それは有形の財産ではなく、かけがえのない思い出と、自分の思いを我が子が、その子へと伝えることの出来る思い出ではないだろうか?
見返りを求めては行けない、ただ子の心を育てるためにある、それが親で、たったそれだけの存在ではないだろうか。
今日はいつもと違う曲を紹介します。
どうしても自分と重なる部分が有る、なんて思ってしますわけですが、娘にトイレ掃除を教えたのは自分、そのときの言葉がこの動画と全く同じでした。
家の場合は娘が小学校五年生くらいからだと思いますが、ただただ素直な娘を前に、それが故に親として放つ一言々がどう娘の未来を変えてしまうだろうか?と、恐れていた事を思い出します。
この曲ではお婆ちゃんと暮らしていたとありますが、自分は常に子供の側にいるという考え方ですから、ある意味この曲の歌詞のようにあったと思うわけですが、それはある意味母親(家内)より長い時間かも知れません。
五目並べはしませんでしたが、二人で夏の森にクワガタを捕りに行き、二人揃って全身蚊に刺されたり、叱り飛ばした後で指切げんまん、泣いているのにウインドサーフィン教えたり・・・
そうした帰り道は、いつも二人でアイスクリームを買って食べていた。
「綺麗になるから」と、この曲みたいに娘に話しても、汚いという意識が常に先に立つのが普通ですから、洗剤付けたスポンジで便器の奥まで腕を突っ込んで洗う事を教えたこともありました、もちろん同じ事を娘に強制はしません、親の姿だけで十分だからです。
そういえば、それ以降ですかね、トイレ掃除を嫌がらずにしてくれるようになったのは・・・・
子供は育つ過程でいろいろなことがある、そうほぼ確信めいて思うわけですが、何より大切なのは、自分(親として)に明らかな誤りがあったとき、そうしたときに親として子にどう謝れるかという事。
子に謝ると言うことは、ある意味難しいことでもあるのですが、その親の姿勢が子を大きく成長させるわけで、親が無意味な意地を通すようなら子の心は小さく育ち、親という人間をそのまま見せれば、多くを学ばせて人に好かれる人間に育つと言うことでしょうか?
中学生くらいに成長する頃から、当然のことですが子供は反抗期に入ります、そして高校生になれば親の元を離れていくのが人の本能です。
寄り添う対象が親ではなく、友達であり、好きな人であり、そうして親から少しずつ幸せになりつつ家族はバラバラになっていくわけで、それが普通であって成長なわけですが、今の普通は明日には普通でなくなり、やがてはウインドも行かなくなり、アイスクリームも一緒に食べてくれなくなるでしょう。
ささやかな瞬間にある幸せというのは、一瞬で消えていくもので、それが自立であれば、時としてそれは親にとって凄惨な残酷さを併せ持ちます。
しかしながらそれが無ければ親は子離れできず、それ以上に親離れ出来なかった場合の子供は苦痛にあえぐことになります。
親のつらさが多い分、子は楽に親離れ出来る物、そうではないでしょうか。
これは非対称なシーソーのようなもので、親の純粋な気持ちだけであれば、容易にバランスが取れるものを、”親の為の利益”をそこに少しでも織り込むと、それは何倍にも重さとなって子に跳ね返り、子は苦しまねばならない。
そうして自立が出来る余裕の無くなった子は非行や不良行動という形で親の我が儘から身を守ろうとする。
親というのは、わが子に接する以上に自分に厳しくあらねばならないと思うわけですが、現実というのは難しいですね。
やがては迎える子の独立、それと引き替えに親にもたらされる物は老いという現実です。 人は老いるために子を育て、老いるために生きているのではないではないか?
そう思うわけですが、それってとても幸せな事なのですね。
親元を離れた子は、やがて来る現実に必ず打ちのめされます、それは親が歩んできた道のりと同じ物であり、ゆえに親は一度羽ばたきはじめた翼をたたませるようなことが有ってはならない、
空を飛んでいる限りは目的地にたどり着くまで羽ばたき続けなくてはならず、途中で後ろを振り返れば木にぶつかり、羽根をやすませれば地に落ちる。
疲れて振り返る我が子の懐かしい表情に、親として甘えず、あえて厳しくなければならないこともある、それが親。
自分が娘の前から姿を消すのは、とりあえずまだ当分先のことだと思うのですが、
人は死んだ後に何を残したか?というのがとても大切で、それは有形の財産ではなく、かけがえのない思い出と、自分の思いを我が子が、その子へと伝えることの出来る思い出ではないだろうか?
見返りを求めては行けない、ただ子の心を育てるためにある、それが親で、たったそれだけの存在ではないだろうか。