プレジデントの記事をYahooが記載していましたので紹介します。
非常に良い記事です
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120531-00000001-president-bus_all
一部抜粋し、なぜ褒めて育てると駄目人間になるのか?を、これにからめて説明していきます。
結構いい記事ですので、とても参考になるかと思います。
この記事の冒頭にあるように、たいていの人は自分を平均より上と答えています。
そしてそれは小さな優越感となり自分を下支えしている。
こうした部分がないと、特に男の子には必ずこれが必要になるわけですが、この優越感の根拠は子供時代の友達遊びを基本とした数々の経験の中に裏打ちされながら出来上がってくる物。
男の子の遊びは基本的に勝負と競争が前提で、それぞれの子はそれぞれの面で、他の子より少しずつ秀でる面を持っていますので、そうした事を遊びを通して認識し、それが自分で分る事がさらに伸びる要素となり、喧嘩したり虐めたり、いじめられたり、挫折や敗北等を繰り返しつつ確固たる自信となっていく。
対人関係の中でもまれながら構築された優越感だからこそ、良いわけです。
ところがこれを、親のかってな思い込み
*他の子よりよい子にするのだ
*未来の幸福を語ってその実は自分の優越感の為の成績優秀な子にするのだ
で 褒めて育てるという教育を行なえば、それは本人が自ら築き上げたのではない、あくまでも親の評価によりつくりだされた 人工的自信でしかなく、 さらには不必要に 偉い 偉い スゴイ スゴイ と幼い頃から言われ続ける事によって、なんら根拠が無きプライドが出来上がってしまう。
泣くことなく、悔しい思いをすることなく、何の苦労もせず、にただ与えられただけの優越感。
これが何を表すのか?というと、自発性と苦しみ無きところを原点としている事から、非常にもろくて弱いということ。
あまりにも簡単に壊れやすいが故、 ”このくだらないプライド”を他人から揺さぶられる事を極端に恐れるようになるわけです。
悔し涙と忍耐で構築されてきた物でない以上は、それが当然なのですね。
これが今の若者が仕事について簡単に病んでしまう大きな理由で、至極簡単な事で難しくも何ともない。
テレビゲーム中心で人との摩擦も殆ど無く育っていますから、ひどい場合は反抗期がないという極端なおまけまで付いてくる。
病むのが早期に起きれば 引きこもりという形になって現れ、ニート含め、こうした現代社会に起きる病の原因は、人の心の根底部分で全てつながっているもので、けして単発で発生する物ではないのです。
女の子に酒を飲まして多発する運動部男子達のレイプ、増殖する草食系男子、変態的ストーカーも根本は皆同じです。
>■自己礼賛は負のスパイラル
わかりやすい話、勉強の成績や仕事のパフォーマンスがいまひとつ(客観評価)なのに、なぜかいつでも「俺ってグレート」状態(自己評価)では、周囲は「何様のつもりだ」と不快に感じるでしょう。
> なぜ自分を過大評価し、「俺様」状態と化すのか。その心理を読み解くと……まず、パフォーマンスがいまひとつという厳しい現実は動かせないから本人は内心面白くありません。そしてそんな不振が続けば滅入ってしまい、果ては自我崩壊に陥る可能性もある。それを防ぐためには自分が秀でた点を探し出しては、ことさら自画自賛したり虚勢を張ったりして、自尊心を上げ底するしかありません。もしくは、自分を正当化するため、周囲をこき下ろすしかない。
> 極論してしまえば、頭の悪い人、能力のない人、嫌われる人ほど、平均以上効果のレベルをアップさせるのです(結果的に自己評価と客観評価の乖離が大きくなる)。
上にも書きましたが、ガリガリやってさえいれば点数がとれる勉強とは大きく違い、人間関係は心と心のぶつかり合いという非常に難しいものですから、相手との距離を適正に測りながら自分を表現したり思いを伝えたりする術を経験的に身につけてきていないと、おいそれ出来る物ではない。
だから面白くない。
刃物降りまわして無関係な人を大量に殺傷する人間が必ずもつ精神的構造はそのものずばりここから来ていますし、そうした人物の過去を調べると親の言うことをよく聞くよい子であることがほぼ100%です。
誰にもあるこうした心理的一面が、 褒めて育てられることによって簡単かつ極端に歪んで増長してしまうという恐ろしい事実が、ここを読んだだけでも分るわけです。
適正に、人と摩擦しながら幼年期を過ごしてきた、いわゆるまともな人間というのは、自分に対する評価が割と低めです。
それは他人の評価というものが容易に得られない物なのだという事を子供の頃より学び育くんできているからです。
ところが、何度も書いているように、ほめて育てられると 親の植え付けた根拠無きプライドの上に胡座(アグラ)かいての俺様状態が恒常なのですから、たちが悪い。
まずはその俺様意識が、上の人間、周りの同僚に継続的不快感を与える、もちろん学校生活でもこれは同じです。
特に引きこもりは、知らない間に自分が周りに与えた不快が、精神的反撃の矢となって周りの人間関係から返ってきて刺さる事に恐れを抱き、それ故、自分が傷つかないようにと良い人間(自分)を演じ初める、やがてその演技に疲れ果てた結果の待避(心の)がそそのまま身体的行動として表れた物で、難しくもなんともありません。
脳の血流がどうだとか、周りの人間の理解が足らないだとか、そんな物は何の関係もなく、親が 病名をもらったりや周りの不理解とすることで自己正当化するための口実を探しているだけの事でしかなく、そうしてきたからこそ子供が引きこもりになる。
社会に出るという事の第一条件は、周りにいるあらゆる人間達はすべて自分より経験が長く優れた者達のあつまりであるという認識が子供の心に必要なことで、普通は意識しなくても、経験的に分かっていれば基本的耐性が確立されている。
しかしながら 誉めて育てられていると、摩擦から来た強さを基本としていないため、ましてや対人関係問題の処理能力等、なんら確立されてはいませんから必ず精神的パニックになってしまう。
その結果として、自分がうまくいかないのは他人のせいだという思考へ段々と変化していく。
弱い精神はそれを素直に認めることが出来ませんから、他人を悪にすることで何とか持ちこたえようとするわけです。
> 最近勢力を増している彼らの共通点のひとつが、コミュニケーションの総量が不足しているということ。一人っ子や、パソコン・ゲームなどにどっぷり浸かる人が増え、人と接して話す時間が激減しているのです。他人こそ自分の鏡。「自分は人からこう思われているのか」という気づきを得たり、自己評価をより客観評価に近づけたりするためには、生身の人とのやりとりが不可欠です。ある意味、デジタル偏重で一人殻に閉じこもる傾向が、超過大評価人間を量産しているのかもしれません。
まさにこの記事で書かれている通りであり、子供の頃から習い事と塾通い、心を成長させる友達との遊び時間は無駄だとして削られ、英才教育だと知識を詰め込まれ、親の優越感のための勉強をさせられ。
それでいて更に 誉めて育てる教育によって最悪のプライドを繰り返し子供の心にすり込んでいく。
まともな人間が育つはずなどないのですね、これでは。
すぐれた能力は優れた人格と人間性を持って初めて生かすことが出来る、また生かす場所を与えられる。
社会における人の基本を育てることを忘れてしまっているのが、今の日本の姿。
徳育教育(人格教育)を辞めてしまった日本の姿とも言えます。
成功する、いや人生を生き生きと送れるタイプの人間は?というと、やはりこの記事に書かれているとおり、
>努力を惜しまない人とはどんな人か。思うに、いわゆる「成功者」の人はこういうタイプと言えるでしょう。彼らは総じて過度な平均以上効果を持つことなく、逆に平均以下効果であることさえもある。常に謙虚で、腰が低い。自分に欠けた部分を冷静に見極め、研鑽を積みます。
という人間です。
ちんけで不要なプライドなど一切無く、学ぶことに欲が強く、謙虚、そして人の話を良く聞く。
その基本はというなら、自分の自分に対する評価が低いからであり、それゆえ、自分を高めようと努力を惜しまない。
自分の行動における、自分の評価は他人が下す物ではなく、自分自身が目標を己の中に持って結果と目標との差違を冷静に見つめることが出来ることが肝心。
そしてそれが思った以上に出来たときの喜びが、その人間の自信と強さへとして蓄積されていく。
だから、人間的にも強く他人の無責任な評価を気にしないし、揺らがない。
ほめられて外部から頂く物では無いわけです。
男は、特にこうでなければならず、それが出来ているからこそ、家庭を安定させる事が出来るわけですが、よくドラマなどで頑固親父とかが家族相手に えばり散らすシーンがあります。
これは、弱いからそうなるわけで、弱ければ弱いほど自分の言うことを聞いてくれる人間に甘ったれる。
親の背中を見て育つとは、おやの人間性を見て育つこと。
父親の良い面、悪い面、その両方を学びながら子供は育つということです。
今の日本社会にある家庭の姿は 、父親不在という欠陥家庭に、どこぞの教育評論家がうえつけた 誉めて育てる教育、そして友達と遊べない子供達。
まともな子供の方が少なくなってきているのは当たり前の事なのですね。