今日の朝、バイク用ジャケットを出しました。
秋が深まるにつれて、これなしでは乗れなくなります。
職場は、東の方向。
澄んだ空気の中を、朝の光に包まれて走りますが、まわりに広がる茶畑にも、夏とは異なる微妙な変化を感じます。
水平4気筒、1200CCのエンジンはシリンダーの温度上昇に伴い、メカニカルノイズが小さくなる性質を持っています。
一速ギアのまま、わずか3秒、12500回転で100Kmまで加速できるこのバイクも、その性能を発揮できるところはありません。
人間の作り出した、スピードに対しての飽くなき要求は、非現実的スピードと加速力をこのバイクに持たせ、その不要なパワーに跨っているのも私です。
信号に止まり、ヘルメットのシールドを少し上げ、太陽の光をさらに強く感じ
てみます。 ふとジャケットの中にとどまる、自分の体が出したぬくもりを、肌が感じます。
毎日のふとしたことから見えて来る、”生きている”と言う実感を感じるのが私は好きです。
「プッ!」と後ろの車が軽くクラクションを鳴らし、すでに信号が青に変わっている事を知らせてくれます。 軽く手をあげ、「サンキュー!」の合図を送り。
ニュートラルからギアを蹴り込むと、クラッチをつなぎながらエンジン回転を軽く6000回転まであげて加速。 一瞬で法廷速度を越えるので、ギアをオーバートップまで上げながらアクセルを戻しに規定速度に保ちます。
先ほどの車はすでに遥か後方、ミラーの中で点になっています。
ポータブルプレーヤーのイヤホンから、アップテンポの曲が流れ始めます。
シールドを下げ、真正面にいる太陽を新たな目標にすえ、再びアクセルを開けます。 秋という季節を全身に感じながら走るのが、私は好きです。
英語でバッタの事ですが、職場を取り囲む芝生と、草むらにいるのは大殿で、このくらいの季節から、霜が降り始める頃にかけて大発生します。
特に暖かい日の昼間、いち早く温度のあがるアスファルトに集団で来るのですが。
あちらも殿様、こちらも殿様といった具合で、一番ひどいときにはヒッチコックの映画「鳥」よりも、ひどい状態になります。
殿様バッタといっても、なぜかここにいるのはやたらでかい。
サイズがふた周りくらい大きく感じます。
一匹捕まえてまじまじと顔を見ると、仮面ライダーそのもの。
「うーん・・・・、ここにいるのは殿様ではなく仮面ライダーだったのか?」等とアホな事を考えながら、トイレ掃除のホースを取りに行きます。
あ!ちなみに私は、トイレ掃除が好きです。
専門業者が週に一度綺麗に掃除していきますが。 それ以外に時々掃除をするのです。 やたらとだだっ広いトイレ室のタイルに水をかけてデッキブラシで洗い流し、便器を雑巾で拭き、ブラシで、中を隅々まで掃除します。
職場にいる若集の国でも、トイレ掃除は下っ端の仕事と認識されています。
それをすすんでやる、東洋の中年男をどう解釈しているかは、私にはわかりません。
下っ端と見れば自分たちはそれより下になりますから。
仮面ライダーがトイレ掃除をすると、「ライダーブラシ!!!」等と叫びながら汗だくで掃除するのだろうか? 等と考えながらホースをしまいにいく私でした・・・・・はは (^^
二度ぶつけられたシボレーバンですが、8月末に車屋に入院。
一度めはトレーラーの後方からで、破損はトレーラーと牽引装置、バンパーでした。
二度目は、ボンゴバンがうしろから追突、タイヤキャリアとドアが内側にくの字になるほどで、車高があったために、バンパーには何らの影響はありませんでした。
一度目にぶつけられた日本興亜損保の方は、とにかくとても丁寧で、迅速な対応を取ってくれ、本当に好感持てる保険会社でした。
全面的にユーザーサイドに立っているのですね。
もちろんこちらの会社の方は出来る限り安く済ませるようにこちらも動きました。
しかし二度目の事故の保険会社が????です。
富〇火〇ですが、とにかく対応が一番初めの電話からして最低、修理工場にいちいち難癖をつけたあげく、その修理の仕方まで安い材料でしかもやすく済ませろ(いい加減でもいいからみかけだけ良くすればいいのだ)と工場に平気で言ってきます。
整備工場の方は、きちんとした修理をしなければ、最終的にはお客さんに対して責任を持つわけですから、保険屋がいい加減な修理を要求してきても、そうですかとはいかないわけです。 この辺りはバッチリ工場から連絡が来ます。
さらに問題なのは、修理工場にそのような請求を平気でしてしておきながら、修理にかかるときは、細かく写真をとれだの、逐一報告しろだの、一体何様のつもりなのかと思っているのか・・・・・・
保険はあくまでも保険だからかけているわけで、停止している車にぶつけた側がかけていた保険会社が、修理代を支払うのは当たり前のことであって。
被害者側が激怒するようなことを平気で要求してくるこの会社の姿勢に保険金不払い等、最近問題になっている一連のことをしているのではないか?、疑念を覚えてしまうのです。
みなさん保険会社は選びましょう。
夜の番組で細木数子が出ている番組を見ました。
始めの男子高校生との話を見ていましたが、この方の言っている事は正解です。
当たり前のことを当たり前のようにして話しているのです。
それが何故番組なるのか? いつのまにかおかしくなってしまったこの国の教育が、正論を正論としない教育をしてきてしまっているのですね。
途中で疲れの為に眠くなり、録画をかけて寝てしまいました。
残りを見るのが楽しみです。
今日は午前中に息子の車教習し、午後から部屋の模様替えに付き合わされました。 冬に備えてタイルカーペットを二人で敷きこみ。 配線を変えたり新しくしたりしました。
可笑しかったのはタイルカーペットの張り方での意見違い。
私はカーペットの目の方向を全て同じ方向にして、部屋の隅から隙間が無いように完全にやろうとします。
息子は目の方向がバラバラでもおもしろいからと気にしません。
部屋の隅がきっちり隙間が無いようにしないと気になる私にたいして、隙間に配線が入るから良いんだという息子。
結局ある部分は私が強引にやり、隙間は、タイル数の都合もあり、息子のやり方にしましたが、確かに部屋の隅にきれいに配線が入ります。
技術系のがちがち思考の私に対して、体育系の柔軟思考の息子。
子供とはいえ、親とは全く異なる一人の人間なのだと再認識します。
だいたい出来たので、後は私の出番がなく、自分で色々やってました。
そういえば昨晩ワインを飲み過ぎて酔っぱらってたのですが、「なんか変だから、数ヶ月したら模様替えしなおしたいんだけど、その時に手伝ってくれる?」と息子に聞かれたような聞かれなかった様な・・・・・
トレーラーを牽引する車が修理にはいり、そのまま出てきません。
残りわずかな夏もそろそろ終わりです。
サーマルウィンドウをもたらしてくれた太陽は、この先一気に秋へとむかいます。
トレーラーが引けないのでウインドにもいけず、指をくわえて空を眺めている毎日でしたが。
秋雨前線が出来ると、あきらめもつきます。
この長雨が終了すると、今度は冬将軍のつれてくる北風が、ウインドサーファーの大きな見方となります。
穏やかな夏の風とことなり、暴力的なのが冬の風で、そのぶんおもしろいのですが、危険性も高まります。
夏の後半ウインドができなかった息子は相当ストレスがたまっているはず。
今年の秋は、高校2年生で大学受験に挑みます。
高校に入学し、わずか1年半の勉強しかしていない彼ですが、高卒認定試験(大検)もあと一科目。
通れば大学受験資格が得られます、受験する大学には、すでに問い合わせをしてあり。 検定試験結果未定のまま大学受験に挑み、そこ受かり、検定試験もその一科目が受かれば、はれて来年の春は大学生となります。
外で吹く風で気が散り、勉強が出来るのだろうか? あっさり受かってしまうと世の中なめてかかるのでは?と気がかりな私です。
今日も新人のトレーニングをしています。 この間の金髪ホニャラガ娘ですが、ここのところ朝一番の挨拶に一人で来ません。
マンツーマンで指導しているのと、ここに来ていきなり私が厳しくなったので会うのが嫌なようです。
バラバラに分解された数百個のパーツを、新品同様ピカピカになるまで磨き上げて組み立て、ていきます。それが終われば電圧をかけて出力調整やら、ひずみ調整やら、そのたやらなければならない事はたくさん有ります。
初めから最後まで、全ての作業を手抜きすることなく、また一つの落ち度なくこなしていくのが、これまた結構この娘くらいの年齢では難しいのです。
また、とちゅうで私が面倒になり、日本語で説明し始めるとパニックになるらしく、目を白黒させています、というか白青させています。
笑い出しそうになるのを何度もこらえて作業を見守りますが、この娘は基本的なところで割ときちんとした躾を受けている為にその辺は安心して任せられます。
日本の若者に比べて? 基本的な部分がしっかりできないのが大多数の彼らの教育は楽ではありません。
何しろ叱られる事の意味がわからないのもいるのですから。
以前日記に書きました、PC用録画カード(VAIOに入っていた物)の性能が余りにも良い為に、オークションで同じ物を安価に落札し、それを息子のPCに取り付けました。
このPCも私の使用している物と同じ、自作のPCです。
コアの部分こそ準最新ですが、他のケースやモニターなどは使いまわしで、2万円で作りあげた物です。
そろそろCPUを3GHzくらいにしようかな?とは思うのですが、使用している本人が何も言わないので、そのままになっています。
綺麗に片付けられた部屋の中に入り、PCのふたを開けてカードをいれ、ドライバーソフトを入れながら調整をしていきます。
他に付帯の配線がありますので、それを作りながらの作業です。
机の左端には今年受ける高卒資格検定(大検)の問題集が詰まれています。
細かい部分までてをかけたので2時間近くかかったものの無事終了しました。
今日は知り合いの結婚式に行って来ました、ホテルオークラでの挙式です。
一日一組の挙式だけしか受注を受けないと言う特別コース料理を正味してきました。
正直、料理を食べた私は唖然です・・・・・
テレビなどで美食家がその味を表現するのに使う言葉で、表現しようにも出来ない味のオンパレードです。
もちろんシャンパンからはじまり、ワインにしてもすべて一流品。
料理はある物が出て、それそのものでも美味しいのに、皿の周りに品よくそえてあるソースを絡ませるととたんに味が変わるのです。
一つの皿でいくつもの味が楽しめる。まさに高級料理の世界です。
それぞれ単品で味付けする事は普通ですが、それ以外の同じさらに盛られている食材と絡み合うことで新しい味が出来る様に作られているとは私も思ってはいませんでした。
料理の世界の奥深さを見せつけられてしまいました。
さすがホテルオークラです。
さて、この一流シェフの世界、包丁を握る女性の独壇場になって良いはずなのに、なんで一流はほぼ全員男なのか私には理解できないことの一つでしたが、
最先端の医学はその謎を解き明かしました。
女性の味覚は、生理のバランスと関係があり、女性ホルモンの分泌により、微妙なところが変わるのです。
特に甘さと女性ホルモンに大きな関係があり、これは同じ食材を調理師、味付けしても、本来食べ物が持つ甘さをどのように生かすかで味の決まる微妙な部分での駆け引きが不可能なのです。
どうあがいても平等にしきれない、絶対的現実がそこに
早朝、娘の友達であるM子ちゃんから電話があり、おじいちゃんおばあちゃんが近くのXX園に連れて行ってくれるから、一緒に行こうと誘われたのです。
しばらくして、他に誘われたS子ちゃんと、喜び勇んで出かけていきました。
お昼をだいぶ過ぎた2時頃に娘が帰宅したのですが、なぜかうなだれて元気がありません。
話を聞いてみると、おじいちゃんから、かなりきつく叱られたというのです。
しかし、80歳近い年配の方が叱るわけですから、それなりの訳があるはずです。
詳しく話を聞いていくと、XX園で遊んでいるうちに、お昼になり、食事をとることになったそうですが、その時に叱られたそうです。
そのM子ちゃん、S子ちゃんの家とは、互いに映画やプール等、今まで何度も誘ったり、誘われたりと、仲良く付き合いをさせていただいてるのですが。
基本的費用は読んだ側の家庭で持つ事を基本として、それ以外のジュースや、昼食代等の付帯費用は、それぞれの家庭が最低限のお金を子供に渡して、その範囲でやりくりさせるようにしています。
場所が遠い等、時間が長くて、途中で食事を挟むような場合にはあらかじめその旨を伝え、お弁当を作ってくるようお願いしたり、外食の場合にはおおよそどのくらいの金額の範囲内ですませるかを連絡して調整します。
これは、それぞれの家庭で不要な出費を防ぎ、食事の内容も含めて、親がお弁当などの愛情がこもった物を食べさせるのが一番と言う考えから来ています。
おこずかいも、最低限の金額に絞り、子供達同士で使い道を考えさせ。又こちらもどのように使うかをみて、必要であれば適切な指導をする事も有ります。
しかし今回は、おじいちゃん、おばあちゃんからの直接の誘い?だったのか、昼食をとる旨の連絡は有りませんでした。
その辺りの暗黙のルール?を知らなかったのだと思います。
こちらも、場所がすぐ近くであった為に、私も家内もお昼には戻ってくるだろうと考えていたのもあり、特に確認はしませんでした。
XX園で友達と元気に遊んでいた娘ですが、お昼を過ぎてしまい、おじいちゃんが、遅くなりそうなので外食をしようと決めたらしいのですが、娘は気温が高かったのと、またお昼を食べるとは娘も思っていなかったので、持って行った500円をカキ氷とジュースでつかってしまったのです。
基本的に最低限のお金しか、私は子供に渡しません。
特に小学生の娘には、渡したお金の使い道まできちんと報告させています。
多額のお金を渡す事に何ら利点は無いからです。
S子ちゃんは、自分のこずかいを別に持って来てましたので、大丈夫だったらしいのですが。 娘は正直に「お金がありません」と言ったようです。
おばあちゃんが、「おじいちゃんが出してくれるから、心配しなくてもいいんだよ」と言ってくれたそうで。
そこで子供達が、何を食べたいかを、それぞれおじいちゃんに言って決める事にしたようです。
娘はハンバーガーとアップルパイ(マクドナルド合計200円)と言ったのですが。 そこで思いっきり叱られたのですね。
おじいちゃんに「人にお金を出してもらうのに、そんな高価なものをねだるなんて、どういう考えしているのだと相当やられたそうです」
それが娘にとっては意味がわからず、しかも頭ごなしに叱られたので、相当のショックだったのです。
最終的には、他の子の言ったのが通り、ご馳走になったようですが、はてはて・・・・
この話を聞いて皆さんはどうおもわれますでしょうか?
今にも泣き出しそうな顔をして、私に話す娘に「いい勉強したね?」私は言いました。
続けて、「これからお前が世の中に出て行くまで、そして社会に出てもこのようなことは当たり前のように有るのだよ」と言いました。
娘は複雑な気持ちになったのでしょう、なおさら泣き顔になります。
「さて、おじいちゃんが何故叱ったのかを、もう一度思い出してみよう」と言いました。
おじいちゃんの言葉の中に、「そんな高価なもの」という部分があったよね?
と娘に聞きなおし、うなずく娘に、「そこに問題があるのだよ」と言いました。
と言うのは、娘が望んだのは、他の子が望んだ食べ物より遥かに安価ですが、
「おじいちゃんは、この二つがどのようなものであるか多分知らなかったんだね?」と言いました。
確かに私たちの世代には、マクドナルドのアップパイはめずらしい食べ物ではありませんが、年配のおじいちゃん達には、何か高価な食べ物に聞こえてもおかしくはありません。 また知っていたとしても、マクドナルドではなく本当のアップルパイと勘違いしている可能性が多分にあります。 私自身の親を見ていてもそう思いますから・・・・・
この出来事のかなめは、娘がお金を持っていなかったことから、M子ちゃんのおじいちゃんに負担をかけさせまいと、マクドナルドなら安いし、他の友達も好きだし、いいのではと彼女なりに考えたのですが、マクドナルドと言う言葉を出さなかったのと、年配の人が知るところの配慮までは行き届かなかったのです。
その為に、言ったそのすぐ直後に、娘は非常識だときつく叱られてしまったのです。
娘の頭をなでながら、「人は常に勘違い、思い違いしながら生きている生き物なんだ、でも相手を気遣う気持ちで言ったのに、それが通じなくて自分が嫌な思いをしたとしても、そこに正義(正しい気持ち、相手を思いやる気持ち)があるかぎり、お前に間違いはなく、それは正しい判断」、「もし相手が思い違いをして、叱られたとしても、その事に対してお前が相手(おじいちゃん)を悪く言ったり、恨んだりする事があれば、それは自分という人間を自分で低くする事、そこに正義がある限り、それを甘んじて受け、耐える事は心を強くするし、自分を高めたままにする事が出来るんだよ」と言いました。
「良い経験したね」と再度言いました
「いずれ、お前が正しかった事を知る事があったのなら、かならずおじいちゃんはお前を見直してくれるはず、しかもそれまでの何倍にもね。」
「正しい事は、最後まで正しいのだから」、「そして他人がどう言おうが、お父さんお母さんは、常にお前の見方だから」と最後に言いました。
半分泣き顔の娘でしたが、その跡すぐ笑顔になり、そのまま、再び遊びに行きました。
家内からは、向うの家に、帰宅後にきちんとお礼の連絡をしました。
夕方、娘が再度帰宅した為に、残りの重要な事を伝える為に、娘を呼びました。
時間が経ち、先ほどの話で、冷静に言葉を聞けるようになっているはずです。
「今日はいい経験をしたね、さてM子ちゃんのおじいちゃんは間違っていたと思うかな?」といきなり質問しました。
少し間を置いて、娘は「そんな事無いと思う」と答えました。
つづけて、「お前の希望した物が本当に高価な物だとしたら、当然にお前のしていることは大きな間違いになる。」、「勘ちがいがあったにせよ、それが非常識であることを、孫の友達でもあるお前をしっかりと叱ってくれた事は、とても勇気のいる事なんだよ。 叱る事で、お前との関係が悪くなるのを恐れて、何も言わない人も中にはいるけど、M子ちゃんのおじいちゃんはそうではなかった」、「お前が間違えていると思ったから叱ったのだから、正そうとしてくれたM子ちゃんのおじいちゃんには感謝しなさい」と私は言いました。
そのまま反応を見ていましたが、しばし考えた娘は、「ハイ!」と大きな返事をしてシャワーを浴びにいきました。
今回の事を通して、娘は非常にたくさんのことを学べたと思うと同時に、今回の出来事に感謝しています。 娘は私に怒鳴られたり叱られたりする事が、多い子で、割と手のかかる子です。
最近は何をやらせてもそつなく出来るようになり、私が言わなくとも自発的に物事やるようになりましたが。 このように、心のすれ違い等、他人からしか学べない事は、親が教える事より、はるかにたくさんのことを学ばせてくれます。
自分の前に起きた現実をどうみつめ、どう判断し、どう自分の物にしていくかは、幼い頃の、このような経験が絶対必要なのです。
人間の思考は複雑で、それと同時に間違いも多く起きます。
やがて思春期を迎え、友達や親とのすれ違いの中でおきるさまざまな出来事を、適正に処理し、きちんとした捉え方をすること出来るようになるためには、今回のような心の訓練を経ていなければ、それを美味く処理する事ができません。
人が人になるために、自分が傷つようなことがあったとて、それに負けるようでは明るい未来などありません。
私の場合、何か有るとすぐに心が傷つくからと、心の汗を流させない教育とは明らかに反対方向の教育を子供にしています。
自分が経験したさまざまな嫌な経験を通じて、相手の心を考え読める人間になる事。
それが将来、この子にもたらされるであろう、幾多の困難を切り抜ける力となってくれる事を願うのです。
ところで、同じ教育をしてきた息子、遥かに感受性が娘より高かった彼に今回の話をすると、小学生の頃はつらいんだよなーと言ってました。
私の考え方が正しいのか正しくないのかは今はわかりません。
結果はおそらく数年後に来ると思います。
今月末から教習所に通う息子に、予備教習をしました。
30分ほど息子と車で走り、法的に問題のないところで練習します。
練習には特にクラッチのつなぎの悪い車を選びました。
息子は原付は持ってますが、クラッチがあるわけではないために、
どーもつなぎが悪い、半クラとアクセルのシンクロが旨くいかない。
ガクンとエンストしたかと思えば、ガクガクガクと走り出したり。
普段余り見ることのなり真剣な表情に思わず笑いが出てしまいます。
しかし人間ですねー、しばらくすると走り出せるようになり、
交差点を見立てて左折、右折、一時停止を想定してみたり、
しかし、なぜが、道路のど真ん中をはしりたがります。
左側によせろと何度も言うのですが、なぜか真ん中。
性格か?とおもったりしたのですが、考えてみれば、運転席は右側。
どうしても左側に対して警戒しますので、真ん中になってしまうのですね。
そういえば自分もそうでした・・・・・・・(^^;)
途中で、あまりにもクラッチの使いかたが乱暴なので、わざと走行抵抗の高い、芝生に乗り入れて、そこでそれだけ練習。
半クラ時のエンジン音低下とそれに会わせてアクセルを吹かすのがどうも今ひとつ。 舗装面だと、アイドリングのまま、走り出し、そのままアクセルを吹かせば前にすすんで行くのですが。
芝生面だと、アクセルを必ずシンクロして吹かさないと前に進みません。
走り出しが出来ず、いらつく息子に笑いをこらえながら、尚も練習させます。
どのくらいやったか分からないほど繰り返しているうちに出来るようになるのですねーこれが。
最後に車を普通に走り出せる家の車に変更し、フリー走行させました。
練習のかいあり!で、実にスムーズな走り出し、ばっちりOKです。
明日も練習しますが、体が感覚を覚えているでしょうか・・・・
帰りに馬鹿話をしましたが、ここで少し意地悪な質問を息子にします。
「あと10年くらい後には結婚して子供いるのかなー」と聞くと
「わかんねー」との返事。
「そういえば息子が成長して反抗期になって、毎日学校から呼び出されたり、
深夜徘徊したり、自分がしてきたような事をしはじめたらどうするんだ、お前は?」と聞いてみました。
すると息子は答えようがないらしく、にやけているだけです。
自分がそうであったとしても、自分の子供がそうなったら、どうすることもできない事を知っているのも息子です。
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「人間一人が出来ることは、何て小さいのだろう」と、この数日感じています。 きっかけはある親御さんからの相談です。
自分の頭の中には伝えたいことが山ほど有るのに、上手く伝えられない、
何層にも重なる複雑な心を、文章にすることが出来ない。
頭で理解していても、それは極めて空間的で、莫大な構成要素から多元的に成り立つが故に、それを一筋の文章にすることが出来ない。
さらには、自分自身が直接動くことの出来ない事から来る限界を嫌と言うほど思い知らされます。
昔から疑問であった、人間の心。 特に児童心理に関しては、自分なりに考え、考察し、そうしても解けない部分は、脳幹論を基礎にして再考することで解き明かす事が出来ました。
この理論があったからこそ、普通に考えてもわかり得ないような心の奥底までを理解できる様になった、またそれによりわき上がる付則的な疑問も解決できたわけです。
しかし尚も、不可能なのは、それを元に、どうしたら問題を持つ子供を導けるのか、どうやれば、解決できるのかと言うことについては依然として、明確にわかり得ないのです。
故に、訪ねられることで伝えられるのは、心の動きだけでということ。
人を育てるに理論で育てることが出来ないから、今持って最高の子育て方は存在しない。
それが究極的な結論であるなら、書店で見かける、”こうしたら、素晴らしい人間に育てることが出来る”的本を書いている著者達は、人という存在を極めて軽視した、本来有りもしない根拠を元にした、極めて無責任な行動とも言えなくはないわけです。
人を育てる基本は、やはり人の行動でしかなく、人の行動そのものは感情の動きから構成されている物であるが故に、最も相手の心に届く。
簡単な例をあげるなら、口で延々と、友達を解くより、握手すれば良いわけで、心に偽り有れば、その握手も嘘として伝わり、偽りなければ、真として伝わります。
子供の心を正すには、とにかく、親なり、周りの人間なりが、自分の体で道をつけてやらなければならない事は間違いないのです。
よくカウンセラーのいいなりになってますます子供を駄目にしている親がいますが、これなどはまさに上に書いたことを考えてみれば、なぜ?と言うことが嫌でも分かります。
世の中には、うんざりするほどの先進的子育て本が存在するのですが。
それらの本の根拠は、子供は普通に育つのが当たり前という事を前提にして書かれており、普通に育つことすら分からないのに、それに付け足すように、
頭が良くなるだとか、優しい子に育てるとか、いわば理想を書いているわけです。
故に、書かれている内容はきわめて不確定で、バラバラであり、へたすると、「・・・だと思う」、「・・・のはず」、「・・・なるかも」という言い回しですべての内容が書かれている事も多いのです。
まだ人としての基礎もきちんと出来ていない子供に、親の独りよがりで理想を押しつけて育てようとする。
これだけ長い歴史の中で今持って理想的子育てなど、ほんの少しでも見つかっていないのに、それを書店で買い求めて押しつける。
そうして考えるとすると、現実に起きている問題を解決する側に立っている人間の主張している事は、実に簡素で、そして同じところを問題点として訴えていることが分かります。
これは、心の動きを自分の感覚で受け止めてきた側の考えが、それだけ、人と接する密度が高いことからくるものです。
なぜ問題が起きるのかは、その問題を解決している人間に聞けばよいことですが、なぜか偉そうに出てくるのは、その逆の側からばかりです。
子供の問題を解決するために日夜努力している人達は何人もいますが、かれらの言葉は、常に人としての基礎を正す事にあります。
迎合教育が若者の心を破壊し、毎日のようにマスコミをにぎわせてくれています。 一年に一件か二件程度の青少年問題。
それが一日に数件、同時に発生している事も当たり前になってしまいました。
そしてそのどれもが、人の命を奪うような行為ばかりです。
いまや氷山の一角は、当たり前になりました。
いい加減に理想を前提とした物の考え方を改め、何が子供達に必要なのかを、嫌もが考えねばならない次期に来ているでは・・・と私は思うのです。
そういえば昨日、久々に、ケツをひっぱたきました。
昨日、今日と機械の修理を私としてきた、基教え子です。
一応は後輩に教えられるようになってきた彼ですが、故障が起き手に余ったのか「機械の調子が良くないから来てくれ」といってきたので、見てみると、確かに正規出力の半分くらいしか出ていません。
これは駄目だと、修理に移行したのですが。
そばにピカピカの新人がいたせいもあり、いいところを見せようとしたのでしょう、きちんと放電をさせていない機械の中に手を入れようとしたのです。
電圧が10000Vを軽く越える機械であり、電源を切っても電荷はまだ残っています。
そのまま手を入れて触れば、簡単に死ぬ事もあります。
彼を訓練していく中で、何度も口うるさく言いつづけてきた事を、そのときだけは忘れてしまっていたのですね。
そばで見ていた私は、彼の腕を払い、続けざまに、彼のお尻を力いっぱい叩きました。
バシッというかなり大きな音がして、190cm近い彼は、驚いた顔で私を見ています。
「死にたいのか!}と怒鳴りました。
はっ!と我に返った彼は、すかさず、”No、Sir!”と言います。
人の命は信じられないくらい簡単に失われます、始めは危険を感じていても、時間がたつにつれ、それが薄れていきます。
まだ20歳の彼は、これから家庭を持ち、たくさんの思い出を作りながら生きていかねばなりません。
手順の間違いで命を落とす事など、絶対に有ってはならないのです。
昨日子供みたいにお尻を叩かれた彼は、先ほど無事に修理を終えました。
上司には、自分の力で直したと言え!と言いましたが。
成果は全て若集の物、問題は全て私の責任です。
また、それが私の仕事でもあります。
ここにいるうちは良いのですが、もし砲爆にさらされることが彼らに有ったとしたら、そこでの行動は全て自分自身の責任です。
彼の階級が上がり、自分が新兵を率いなければならなくなったとき。
避けて通る事が出来ない場面がたくさん有るはず、
修理できたと喜び勇んで、報告に行く彼の背中に”勇気と忍耐を持て!”と私は語りかけるのです。
台風の雨が過ぎ去り、ここちよい風が窓から吹きこみます。
本当はウインドにいきたいのですが、帰宅後に行こうとすれば着くのは夜。
ひたすら我慢するしかありません。
ところで、今日は屋根裏部屋の片づけをしています。
私のばあい、物を収納するとき、捨てるときに、次のように判断しています。
まず、身の回りに有るもので、頻繁に使う物意外は、二階の適度な場所におきます。そこで半年間使われるか使われないかを判断します。
使用されていれば、そのまま二階にきちんとした保管場所を設けて保管します。
使用されなかった場合、屋根裏部屋にそれを上げます。
出し入れが面倒な為に、使用頻度を明確に記憶するので、その為もあります。
そこで3年を一区切りとして、どれくらい使用するかを見るのです。
経験上、半年使わない物は、3年経ってもそのままであることがほとんどです。
3年を経て、特に高価なものや、将来間違いなく使用されるものを除いて、
後は一気に処分してしまいます。
「もったいないなー」と思う物も中には有りますが、物は使用して初めてその意味を持ちますから、3年使われなければ、存在そのものが無いに等しいからです。
物を大切に使用する事はとても大切な事ですが、だからとて、なんでもかんでも、もったいないと保管しておけば、快適に生活するという、一番重要なことが失われます。 ましてや、山のように詰まれた物の中から、10年前の物を掘り出して使うような、面倒をしないのが人間ですから。
こうして常に家の中を生理整頓し、自分の物がどこにあるのか一瞬でわかるようにします。
そしていつも使う物に関しては、丁寧にメンテナンスを施し、修理を繰り返して、最後の最後まで使用します。
家の家には、新婚当時の22年前に購入し、その後今に至るまで使われている物がたくさんあります。
壁の時計もそうですし、掃除機等は、修理を繰り返し、そのたびに、付帯機能が減り、最近は基本機能だけをもつだけになりました。
40年も生きてくると、何を買うのが無駄であるか? という事が良く分かるようになりましたが、子供を育てるのに、何が無駄で、何が必要なのかということに明確な線引きは出来ていません。
こちらも人間、相手も人間なのですから、なにより、修理できませんし・・・・・・(^^:)はは