帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

正座

2006年02月28日 | Weblog

片手じゃ使い物にならんという感じで、上司も何も言わず、若集のトレーニングも出来ず、なんかしょうもない感じです。
肩の痛みはすっかり無くなり、腕も動き回るときのみ三角きんでつる程度で、医者がつけろと渡してくれた、たすきみたいな器具も取ってしまいました。
私は結構子供の頃から乱暴で、鎖骨、肋骨、腕、そのほかあちこち骨折しています。 病院にいったのは前の鎖骨骨折のときだけで、他は自然治癒しています。 あ!、性格は温厚ですからねー!
さて今日はこの間の続きの話をします。
友達の陰口に傷ついた娘ですが、その話には続きがあります。
というのは、娘の友達が現在大きく二分してしまっています。
その片方ずつに幼い頃からとても仲の良かった子がいるのです。
現在娘はそのどちらにもぞくさずうまく関係を保っています。 悪口には一切かかわることをしない、と両方のグループに宣言したからです。
まとまることで他方のグループの陰口を言い合っている、そのどちらにも属すことの無い娘は、一時両方から陰口、悪口を言われてました。
どちらも、自分の側に組してもらいたいという気持ちが別の形で現れ、それが娘を迷わせくるしませる原因でもあったのです。
このような場合、親として出来るのは、何が正しいことなのか? ということを悟ってもらうことでしかありません。
肩のしくしくとした痛みも残る先週の土曜日のことでした。
再び娘が私のところにきて、再び友達のことを話し始めました。
娘から話しかけられれば、私は、すべての作業(大した作業ではありませんが)を停止し、話がおわるまでけっしてその場を離れることはありません。
娘に対しての親の姿勢です。
誰に言われること無く正座をした娘が、この間の続きからはじまり、今の状態、そして自分の思いと、どうするべきかを問いかけてきました。
友達同士のこすれあいのなかで、自分という人間の独立を保つことは容易ではありません。 ともすれば、格好をつけてるとか、いい子ちゃんになっているとかいわれて辛い立場に追われることすらもあります。
ただ、そういったことは、すべて中心で動いている人間のわがままに振り回されることでもあり、言い換えれば当人同士のコミュニケーション不足、もっと単純に言えば、互いの考えを伝えあうことに失敗していることが多いのです。
子供時代は、とかく自分というものが弱く、他人に流され、また、群れからはずされ一人になってしまうことを恐れるものです。
ゆえに本心とは無関係にどちらかにつかざるをえなくなっていることも多いのです。 私が娘に話したのは、どちらにつくかということではなく、互いに悪く言い合うこと、そのものを本人達全員がよくおもっているのだろうか?ということについてでした。
娘は正座のしせいのまま私の話を聞いてました。
話は一時間近くのぼりましたが、その姿勢を崩しませんでした。
その日の午後、娘なりにそれぞれの子達と話をしたようでした、そこから見えてきたのは、私の想像を超えるものではなく、娘も娘なりにそれぞれの友達のの本音を聞けたようです。 反発しているそれぞれの側に、互いに仲の良いともだちもいて、本当はその子とつき合いたいのに、もめている当人達に引きずり回されているという至極単純な構図。 でもどうしてよいのかが分らない当人達。
勇気を持ち、何が正しいのか?を中心にすえて考えることでこんなことは解決できることで、やっていることがまず正しいのか、そうして行動している自分達は正しいのか、心に嘘をつくことが正しいのか?ということを考えれば、およそ自分達のとるべき道は見えてくるものなのです。
中心となってもめている二人が、周りを引きずり込みながら互いのわがままを通すことが正しのか?という点で考えれば、別段難しいことではありません。
娘のとった行動は、どちらにもつかず、その両グループのを構成しているそれぞれの友達に、これでいいの?という問いかけることでした。
「いい子ちゃんにならなくていいから」ともめている中心人物にいわれたようですが、引きずられている友達の中から、本当は・・・・・という言葉が出始め、連呼するかのように、多くの気持ちと考えが出てきたようです。
人は弱いいきもので、自分につく人間が多いほど、威勢も良くなりますが、
反対に人が離れると急に弱気になります。
しかしながら、何が正しいのかということを心の真ん中に置くことにより、比類なき強さを持つことが出来るのも人間です。
人は正しい行い(義)には勝てない生き物でもあるからです。
男の子と異なった形をとりながら構成される、女の子の社会。
男の子が強さを基準として基本的に三角形状を作り上げるのに対して、共感をベースとして波長のあるもの同士が作るコミュニティが並列に混在する女の子。 どう考えても違う生き物であり、平等にはなりません。
違いを正しい形で認識し、互いの良いところを引き出しあうのが、能力における男女平等。 しかし、これをくそみそ一緒としてまとめるから、おかしな社会が出来るのだと、こんな簡単な事がわからないのですかねーお偉方は?


空を飛ぶ~~~!

2006年02月24日 | Weblog

その後の着地で失敗した私は、鎖骨が吹っ飛びました。 
起きあがってバイクを起こそうと力を入れると、なんか肩が変。
念のためレントゲンを採ってみると、そういうことになってました。
大して痛くもなかったので脱臼だろうとおもって、若集と一緒に笑ってたのですが、お粗末でした。 全治1月半ですからたいしたことは無いのです。
自分の場合、鍛えていますので、筋力があり、そのあたりでこの程度で済みました。
原因は単なるわき見運転、まぬけですねー・・・反省!
時速60kmくらいでわき見をしたらタイヤがえんせきに接触、ほぼノンブレーキでした。
後で見たら接触てんから15mくらいふっとばされていました。
もう少し鍛えていたら無傷? そんなわけで治癒後はいっそうトレーニングしようかな?
なにしろ190cm近い連中になめられますから。
あ! バイクもなおさなきゃ。
片手うちのため、しばらく更新がないかもしれません、よろしくおねがいします。


って!そうくるかい!

2006年02月21日 | バイク

と今日は三回死にそうになりました。
そう考えると、人の命なんかある日突然絶たれても仕方ないのかもしれないなんて考えてしまいます。

え?「どんなことがあったか?」ですか・・・・
私は通勤にバイクを使用しています、排気量がでかいために、
普通に信号から発信して2秒ほどで時速50kmまで達します。
ですから加速までの時間が緩慢な車と比べて平均的にスピードが高くなります。
かといって、別に飛ばしまくっているわけではありません、命がいくつあっても足りませんから。
バイクはその速度に反比例するかのようにスピードが遅く感じます、さらに絶対面積が小さいせいもあり、車の車線変更で見落とされがちです。
そんなことのすべてが絡んだようなことが3回ありました。
まず一度目、帰り道のことです。
交差点にしんにゅうする50m暗い前に達したところ、その交差点は、右折車の為にセンター側に斜線が受けられている交差点で、私の走っていた直線はガラガラ、右折のための斜線は車が並んでいたわけです。
反対方向からの車が交差点を通過して10mくらいの所で右折しようとウインカーを出したところ、こちらの斜線の右折ラインに並んでいた車がご丁寧にバックして曲がれるようにしたために、反対方向からのその車がこちらの斜線の右折ライン側から飛び出してきたのですね。
その車は自分が曲がるために車がバックしてくれたために急いで曲がろうとしたのか、こちらがはしっていることをろくに確認もせず飛び出したわけです。
単車は前面積が小さいので、遅く感じたのでしょうが、本当にあと少しの所で事故になるところでした。
私がフルブレーキングで抜けたとこと、その車はいそいで横断し、反対側にある駐車場に入りました。
こういう場合、私は黙っていません。単車を降りるを、ぶん殴りあいする覚悟駐車場にはしっていきました、ところが降りてきたのはおばちゃん・・・・
力が抜けて、「あぶないだろー」と怒鳴りもせず言うと「ごめんなさい」と素直に言います。 これがうるせーだとか口にするアンちゃんだったら、その場で張り倒しです。
きちんと言われればこちらも何もいえませんから、お互い気をつけましょうといってその場を離れました。
それが一回目です。
次は直線路の出来事、直線を気持ちよく走っていると、横から自転車を押したそうですね年にして55くらいのおじさんだったでしょうか、道路に対して直角に止まっています。
こちらは一応スピードを落として通過しようとしたところ、そのおじさんがいきなり自転車を”押し走り”して飛び出してきたのです。
こちらを一度も確認しませんでした。 バイクの場合、加速しているときは、マフラーからの排気音が車よりでかいためにすぐに気づきますが。
大排気量バイクの場合、低音より、さらに加速が鋭いために、アクセルは瞬間的には開けますが、一度加速すると戻していることが多いのです。
私のバイクは私とあわせると重量300kをこえますから、ほとんど慣性で走っているような状態です。
おじさんはまったく気がつかなかったようで、道路を横断途中で目の前をいきなり横切ったバイクにおどろき、そのあと続くブレーキ音。
後輪ロック状態のまあバックミラーで確認すると、おじさんは全力疾走で乗り逃げていきます。 こちらもUターンして追跡し、どつこうかと思いましたが、対向車線から車が立て続けに車が来たためと、そして先ほどのこともあり、うんざりしてやめました。
これが二回目。
次は三回目です。
これはまた直線路での事で、帰り道に2車線の道路の片方が違う方向に分かれる道路があります。
私は左側の車線、白いクラウンが右側、車は適度に間隔を開けて流れていたのですが、そのクラウンの運転手、自分の車線が思う方向と異なるのに気がついたのか突然こちらの車線にウインカーをつけて入ってきました。
俗に言う幅寄せ状態です。
クラウンより少し後ろにいたので、ミラーの死角になっていたのだと思います。私がいたことに気づいてあわてて車線を戻し、私はフル加速して前の車にへばりき、クラウンは私の後ろに再度入りなおしました。
これは意図的なものではないのが分ってましたので怒りもしませんでしたが、
全部で3回のヒヤ!に疲れ果てて帰宅しました。
バイクという乗り物は非常にすばらしい乗り物ですが、危険な乗り物でもあります。
自分から事故を起こすというより、90%以上がこのように巻き込まれ事故です。 以前、バイクの保険が高かったとき、「バイクは事故が多いから」がその理由にされていましたが、保険の自由化後は3分の1くらいになってしまいました。 バイクの事故はほとんど無く、車の事故のほうが圧倒的に多いのが現実だからです。
ということは、みんな騙されていたという事でしょうかね?・・・


発送完了

2006年02月20日 | Weblog

今日は休みだったので、息子と荷物(ボードやセイル、マスト)等の梱包をして、スクール宛に発送しました。
なぜでしょう? 数日後に、またスクールに行くのだそうで、今回は一週間ほどの様です。
家の車でいこうかな?と今朝まで迷っていましたが、多分高速バスになるかと思います。
しかし、変わった子ですね・・・・・、自分から進んで厳しい中に飛び込んでいくのですから。
そういえば、「スクールはいいけど、高速バス乗り場まで行くのが面倒だな」等といってます。
普通なら、バス乗り場まではいいけれど、スクールは絶対嫌だ」のはずです、頼もしいやら、何やらで笑いが出そうになります。
15歳から22歳くらいまでは、一生のうちで一番輝いている時間です。
決して無駄にはさせないとの思いからスクールに放り込みましたが、今は18歳、「まだまだ、たくさんの思い出をつくらにゃ、将来大きな人間になれないぞー!」と思う私でした。


避けられないもの

2006年02月17日 | 研究-教育・育児

昨日の事です、娘になんだか元気がありません。
「なにかあったのかな?」と問いかけると、「友達が怖い・・・」と言うのです。
ついに来たなという思いが私の心を駆け巡ります。
人であれば必ず訪れる瞬間です。


この日の為に私は娘とさまざまな事をし、共にすごしてきました。
“なぜ、怖いのか?” 私は娘とそのことについてそれからかなり長い時間話をしました。
怖いにいたった経緯を短くまとめるは難しいのですが、要約するなら、自分が一番信じていた(信頼していた)友達の陰口(悪口)が娘の心を大きく傷つけたということでしょうか?
娘には幼い頃より仲の良い友達がたくさんいますが、その中でも特に気が合う子が何人かいて、遊ぶことも含めてその子達が中心でした。


時は流れます、それぞれの子がそれぞれ成長を遂げ、それに伴い、その子なりの性格や個性が出てきます。
以前から気にはなっていた一人の子がいたのですが、その子に絡んでのことでした。
非常にわがままなところがあり、とにかく周りの人間が自分の思うとおりになってくれないと気がすまない。 そんな子です。


その子が娘の悪口を娘の友達に言いふらしているらしく、それを聞いたのが、同じく悪口を耳にした、娘のこれまた仲の良い友達からなのです。
娘は家内に似ているために、そういうことを極端に嫌います。
表面上は仲良くしていて、影でこそこそする。
あまり続くために、「何が言いたいのか知れないけど、言いたいことがあるのならハッキリいえば!」そう娘は言ったこともあったそうです。


そのときの答えは、誤解だ、ちがう、うそだ、など等 のらりくらり。
娘からしてみれば、何人もの友達から同じ内容の話を聞いており、ほぼ間違いのはない事。
そしていまだにその子の行動は修まらないようです。
ここで問題なのは、二人がハッキリと喧嘩になればよいのですが、そうならず、
娘が強く押すと、泣き、その後べたべたとしてくるわけです。

その子の言葉を信用して、そして繰り返し来る裏切り。 それにいい加減嫌気がさしているのが今の娘の心の中ということでしょうか?
こういった場合、私は目線を娘のレベルにまで下げます、娘の年齢と思考ならどう介しているだろうか?をまず探るためです。
しかしながら、それに対しての親の回答は、親の目線からのものです。


親は子供よりはるかに多くの経験をつんでいます、ゆえにその経験を子供に悟らせるには、同じ目線ではできません、親としての目線に立たねばならないからです。
「どうして?」そう聞いてくる娘に、さまざまな例を織り交ぜながら、少しでも詳しく話を聞き、逆に問いかけ、考えさせ、整理していきます。 しかしながらまだ小学生、友達を信じる純粋な心と、それを傷つける現実。 超えなければならない現実と苦しみ。 自分の頭のなかで娘の視線と、自分の視線のギャップにある違いを整理しながら、分りやすく話を進めていきます。

実は、女の子が引きこもりになりやすい第一の原因といってよいのが、この友達関係のひずみにあります。 このとき、その気持ちをほぐし、受け止める存在として父親がそこにあるかというのは、非常に大きな事です。

ただ可愛いかわいいと接してくると、女の子はそこに嘘の姿を見ます、表面の姿だけで見ている事を知っているからです。 そういった娘は父親に話をしようとはしません。
褒められ、叱られ、時としてビンタ(体罰)をされ、そうして幼いときより父親という人間をすべて見せられてこなければ、自分にとって親がどのような存在なのかをしっかりと理解することが出来ないからです。


「感情のままにしかり、褒めよ」の意味です。
娘の口から流れさまざまな悩みをよく聞き、そしてそれをどう処理させるかということに関して、ただ「頑張れとか」、「そんな友達と付き合わなければいいんだ」などという答えを返すはあまりにも愚かであり、明確な答えを子供の心にもたらすには、人とはどういった生き物なのかということを理解させることが絶対に必要です。


それには、人の心の奥底にある、本能というものがとても大事になります。
人は動物の一部であり、ゆえに本能の上に生きています。
男の本能、女の本能、そして人としての本能。
すべての答えはこの本能をどう親が勉強理解しているかにあります。
なぜ、悪口を言うのか? それを解き明かすには、人の本能的な行動を基礎において女の子の本能的行動をおりまぜ、その後に男の子との違い、それがどのようにして友達関係や世の中、そして社会につながっていくのかを分らせなければなりません。


おかしな平等(男女平等含む)意識や、権利意識、人権等、言うならば、大人が形式的に物事を整理するために作り出した物を一切廃し、人というものをきちんと把握しておかなければならないのです。
そのためには、親自身が人というものをもっと深く掘り下げて考えることを、普段から心がけなければ、子供の「どうして?」、「なぜ?」という問いに答えることなど出来ないのです。
「子供が子供を育てているのが今の世の中だ」と。


その意味は、上記のことにあると私は解しています。
すなわち、人を学ばず、ゆがんだことだけ頭の中に叩き込まれて育ち、
ゆがんだ精神と思考で子供を育てる、その末路が虐待であり、引きこもりであり、非行なのだということなのです。
形式でなりたつ世の中において、そのなかでうまく立ち回ることが出来る人間は、確かにそれなりの地位に着くことが出来ます。
ただ、そんなことが一切通用しない子供に、小手先の業等を使ってみても、子供はなおさら混乱するにとどまります。
特に子供に一番近く、一番大きな影響を及ぼす母親が、子供のままである限り、
子供はずっと不幸です。
非行に走る子供の親をさまざまな方向から分析すると、二つのタイプに分かれます、親自身がきちんとしていて、子供は単に跳ね返りの範囲内での非行で納まるタイプ。 このタイプは必ず最後に人として子供に接しています。
反対に人というものをなんら理解しておらず(というか理解しようとしない)、だれだれ教授が書いている、カウンセラーがこういってる、と必ず口にし、やれ男女平等だ、人権だと、自分にとって口ざわりのよい物だけを取り入れ、非常に狭い範囲に浸り、まったく正反対の方向から意見をする人間がいれば、眉間にしわを寄せて、やれ傷ついただの、やれ古い考えだのと拒絶して、歪み切りってがちがちに凝り固まった頭で子供に接している親がいます。
そのため、単なる反抗期に絡んだ非行行動の領域をはるかに越え、とっくに成人する年齢に子供が達しても、いまだ人の道を外れる行為を繰り返している。

話を戻します、なぜ怖いか?
それは人が見返りを求める生き物なのだというところに有ります。
信頼は、見返りでもあります。
裏切られたという気持ちはその見返りが誤っていたということです。
親が子供を信頼する、それは親が期待することを充足してくれるという見返りが根底にあります。
裏切られたという意識は、見返りがなかったか、自分の意図とした結果でなかったということです。
人間という生き物は非常に不安定な生き物です、そして常に自分の利益を一番優先に考えて行動します。
怖さは、見返りの期待が大きいほど大きくなります。
自分が何を求めているから怖くなるのかを分らせない限り、それを取り除くことなどできません。
同時に、見返りは自分のわがままであり、わがままが強くても怖さが増すのだと。
そうであるなら、なんの為に自分は友達と接するのか?
その答えは自分自身の成長であり、そのために互いに競いあい、磨きあい、さまざまな事を通して成長してくるものです。
そして悪口を言われて傷ついたのなら、そこから多くのことを学び、自分のものにする。 自分の持つ形の無い要求をきたいして、傷ついたと考えるのではなく、それもまた自分にもたらしてくれた恵みなのだと切り替える思考。
すなわち、何が起きたとしても、それに対して自分がどう考えるかでそれそのものは大きく変わってしまうのだと。
不平不満だけを並べ立て、表面的にしか物事を考える人間になるな。
自分が豊かな心になれる方向で考える勇気と力をつけなさい、そのためにはもっと傷つき、もっと苦しみなさい。
そう私は娘に言いました。

私の言葉がこの娘の成長に少しでも役に立てればよいけど・・・・・
そう思いながら、話を閉じた私でした。



スノボーに見る環境の違い

2006年02月14日 | 研究-教育・育児

今回のオリンピックにて、スノーボードで日本は惨敗でした。
まあ、あらゆる面で日本はアメリカにかないませんね。
さて、これらの結果を見て、やっぱりアメリカ人はすごいんだ!なんて考えていたら大間違い。
日本とアメリカでは、選手を取り巻く環境がまったく違うのです。
日本の選手は信じられないほど過酷な条件の下で戦っています。
天国のようなアメリカとはわけが違うのです。
ではどのように異なるのか?
たとえば、バスケットボールというスポーツがあります、アメリカは絶対的な強さがありますが、その裏でどのようなことが起きているのか等、ご案じの方はほとんどいないはずです。
アメリカは日本と異なり、州全体が、小さな町の構成で成り立っています。
そして町と町の間には何も無く、車で隣町まで2時間のドライブ等という事は珍しくもありません。
そういった町単位の世界で構成されている社会では、全体が極端になりがちです。 盛んな町では、子供の頃からとにかくバスケットボールだけ、勉強なんてしなくていい、(現実に勉強しません、才能教育が基本ですから)町の子供達全員が選手で、高校になれば、とにかく町の全てをあげて子供達を応援し競わせます、もちろん親も全員仕事を休んで応援にいきます。
そういった環境では、もちろん強い選手が出てきます。
年に一人でも二入でもNBA等のプロの世界へ行けるのです。
しかし問題は数年後、それらの子供達は選手として活躍しているのか?という事になります。
もちろん何年かに一人くらいは継続してプロの世界を生きていきますが。
大半の若者は、現実を知り町に戻ります。
そしてそれから先は、20歳くらいまでの人生の記憶だけをよりどころとながら、その後の一生を送るのです。
なぜなら、それ以外のことなどなんら学んでくることなど無いからです。
町にいればそれなりの暮らしは出来ます、しかしそれにとどまり、そこからは決してでることは出来ません。 他の町に行ったとしても、高校時代に活躍していた人間のことなどしりはしません、知識も無く、下手すれば足す引くの計算すらできないのですから。
挙句の果てには犯罪を犯し、晩年の人生をだめにする人間すら当たり前のように存在している国、それがアメリカの現実です。
そしてそれが自由です。 アメリカは能力が有るとされれば、割と容易にスポンサーがつき、選手はその下で思いっきり練習することも許され、わがままも許されます。 それだけに打ち込める環境が当たり前のように存在しており、能力のあるものは、十分に伸ばすことができる、そんな国です。 
しかし、社会構成から始まり、上記のような環境と頃なる日本は、まずスポーツ=無償の概念が頑固に存在し、選手は生活と練習のはざまでゆれ続けなければなりません。
学校できちんと学ぶことを要求され、さまざまなことを両立させなければならないのです。
さらに、選手としてだめになったとしても、生きていける方法を常に意識していかなければなりません。
ゆえにアメリカで8時間練習できるなら、日本はその半分も練習でいないと言うのが現実なのです。
好きなことを好きなだけ出来、それに対して容易にスポンサーがつくアメリカ。
すべてをこなし、無償奉仕的に練習し、負ければ、何の努力もしない人間から好きなだけ文句を言われて叩かれるこの国。
スポンサーを得るには、ひたすら大会などで活躍しなければならず。
常に生活の不安にさらされる社会環境。
アメリカはパーフェクト等と勝手に騒いでいるけれど、選手達が安心して練習できる環境を提供しようなどとは決して呼びかけはしない軽薄なマスコミの姿。
アメリカが強いのはアメリカ人がすごいのではなく、環境の差にあるのです。
私はスノーボードで戦ったすべての選手達に大きな拍手を送りたいです。
君達こそが世界一だと。


挑戦的

2006年02月14日 | 研究-教育・育児

最近息子が挑戦的です。
といっても、別に非行行為をするわけでもなく、違法行為をするわけでもありません。
すでにウインドを初めとして、体力的なものや身体能力的なものは、はるかかなたに行ってしまって私には追いつくことはできません。
最近は、再度の砦ともいえる、人というものをどう捕らえるかという事において盛んに攻撃(論争)を仕掛けてきます。
物事に関しての考え方の違いは、たとえ親子といえ、まったく異なります。
ひとつの事にの解釈について、特に人の心が絡んでくることに関しての論争的なものに対しては本来答えなどありません。 しかしながら、真正面から挑んできます。 こちらも神様ではありませんから、人間性というものにおいて欠陥はいたるところに存在します。 そのさなかにおいて、私自身がさほど気にしていなかったり、気づいていなかったりといった部分を、息子の言葉から気づかされます。 同じようにして、息子も私から学んでいるはず?です。
正しい方向で親の力を試し、自分の力を試し、自分がどこまで成長できているのかを冷静に判断する力と能力が備わるのが、反抗期の終盤に訪れるものです。 私から見れば、自分の感情をコントロールしながら、物事を考えたり処理したりする能力の完成まじか、すなわち大人への最後の一歩といったところです。

スクールに入る前の中学時代は自分を見失っていた上に、考え方が幼く、なんら勝負になるものでは有りませんでしたが、すでに年齢は18歳、たくさん本を読むこともあり、最近はいたるところで私のほうが敗北することが多くなりました。
まともにぶつかると若さに負けそうになるため、押し出してきた場合、一度撤収し、隙をみて攻撃を反撃し、押し戻します。 家康的戦術で対抗といったところでしょうか。
いや、年齢をますことで巧妙になる、ズルさ、爺くささともいえるかな・・。
「私なんぞ相手にしておらず、はよ踏み越えていけ!」と願います。
これが終われば、私が彼に勝てる事は、長年の経験で積み重ねてきた芸(技術)だけということになります。
こればかりは、彼も容易に抜けるものではなく、さらに膨大な学習と努力がひつようですが、中学時代になんらの勉強もしてこなかった彼にとって、容易なことではありません、当面こちらの優位は保てそうですが、ただ、息子が同じ方向に進む気は無いこと(教員になるといってるため)から、こちらの部分で負けることはこの先もないでしょう。
ほっとしますが、絶対息子に負けたくないと言う思いと、早く踏み倒していけという不思議な気持ちが絡み合う、それが父親と言う生き物なのです


スキー疲れ?

2006年02月13日 | Weblog

のせいかボーとしています。
今回のスキーで、ボードがどうしょうもなく、やりたくなりつつあります。
とにかく今まで自分がやらなかったこと、条件が整わずできなかった事など。
次から次へとやりたくなります。
気持ちはともかく、体の心からエネルギーが湧き出てくるのは何故なのでしょう?
私は若いことは運動が何より嫌いで、どちらかと言うと陰気で嫌われ者。
私と正反対の弟が運動神経抜群で、どこに言っても人気者でした。
ですから若い頃になんら運動をしなかったせいか、やたらとスポーツがやりたくなります。
特に難しければ難しいほどよく、ウインドサーフィンなんかはその代表ですから、楽しくて仕方ないのです。
ただ、無理すると怪我もしますし、事故にもあう可能性が高くなります。
自分なりに楽しく、そして充実できれば最高!と言うことです。
娘は今回かなりのスピードでボードに乗れるようになってきましたが、ターンがまだまだ。
盛んに転んで「お尻がいたーい!」と騒いでいます。
がはは、何でも甘くは無いぞー!
とバンバンと頭を撫ぜながら笑う私でした。

話はかわって、先週から新人(新兵ではなく、グレードは高いです)の訓練をしています。 
今度やつは魔人みたいな名前のやつで、軟体動物みたいなやつで、しかもそこそこに利口で、でもボーとしています。・・・なんじゃそりゃ?
先週末は、丸二日間、朝から帰りまで、装置の中の同じところを何度も繰り返し掃除させました。 飽きてうんざりしているところを、再度確認して、まるで嫌がらせのように「やりなおし!」と冷徹に言い渡します。
あ!ちなみに、彼は今回の訓練が終了すると私の上司になります、グレードがさらに上がるためです。 それに伴ってクゥオラ!!からイエッサーへと変化します。 
私個人としては真水でやりたいのですが、汚れの落ちが悪いのと、すぐに泣きが入る連中のため、お湯を使わせています。
お前らそれで弾のしたくぐれるのかー!? とも思うのですが・・・・・・・
ハー! ドドンパ ドドンパ


2006年02月09日 | 

キューんガガガガ ボコン!、 キューんガガガガ ボコン! と穴を開けています、そしてその横で同じ職場の先輩があきれて口を開けています、というか笑ってしまっています。
穴を開けているのは、車の天井部分です。
「えー? マジで?」 と皆さん思われるでしょうね。
私は平気で車に穴を開ける男でして、おそらく高級車のジャガーでも同じ事をすると思います。
半分アメリカ人的思考の私には、車を単なる道具としか捕らえないという困ったところがあります。 唾つけて磨くような価値観を見出せないのです。
いいのか悪いのか、まあ自分が納得しているのだから良いのでしょう(おー!いつもの肯定です)
なんで穴を開けているかと言うと、実はスキーキャリアを取り付けているのです。
家の軽にはルーフレールがなく、レインガーターも無いために、適応するキャリアがどこのメーカからも発売されていません。 メーカーは、「この車でスキーに行くなよ・・・」と暗黙に言ってるのかはわかりませんが、前回シボレーでスタックし、青ざめた記憶も生々しく、「そんじゃ”軽”い”軽”でいくべ」という極めて単純、かつ”軽”率な発想です。
キャリアはボード二枚(乗せ方で4枚)スキーを4セット同時に積載できるもので、近所のリサイクルショップで「誰かかってー」と片隅でたたずんでいたRV-INNOの新品です。
とにかく無駄なお金をかけない(3000円でした)、使わない(けちですねねー)、自分でできることはなんとしてでもやる(下手の横好き)といういつもの癖が全開です。
そんでもって キューン!


軽の場合、車の天井も軽でして、フルに重量をかけられるような設計になっていません。
そのため、キャリアの台座は、加重をかけてよいところ(ドアフレーム)のところ、いうなれば天井フレームともいえる部分にしっかりと乗るように固定し、重さはすべて、このフレームで受ける様にします、そのため天井自体にはなんらの重さはかかりません。
本来使用するはずのキャリアクランプ部にはステンレスのぶっとい丸棒をかませ、揺れや、ゆがみをここで吸収させますので、その影響も天井にはきません。 ですから天井の穴は単に前後左右に動かない様に固定するだけの役割しかないのです。 車両用の鋼板は常にゆがんだりたわんだりする状況に耐えうる、粘り強い材質を使用しており、このように穴を開けても、普通の鉄板より、穴自体に強度があるのです。  固定は大きなワッシャーで応力を分散し、固定ねじは、ダブルロックをかけ、しかも室内からも容易に締めたり点検できるようにしました。 ですので、普通にキャリアをつけるより、数倍以上も現実的強度があり、緩み等も一目で分かります。 まず天井全体が吹っ飛ぶような衝撃を受けない限り、絶対に飛んでいくことはありません。
雨漏り対策は、キャンピングカーで散々やってますので、別に難しいことではありません。
そんなわけで完成!
早速週末行って来ます。
ところで家の息子、「おいスキーにいくぞ」、「俺バイト」、へいへいというわけで、家内と娘を連れて行くことになりました。



雪かよ・・・

2006年02月07日 | Weblog

あらら・・朝起きたときの第一印象です。
昨晩から降り始めた雪が3-5センチくらい積もっています。
こうなると”陸の孤島”になるのが私の住んでいるところ。
私の家の周りは、茶畑に囲まれた、小さな住宅街なのですが、特に家も含めた数十軒は、大きな通りに出るまでに、割と急で長めの坂があり、さらに登り切ったところでバンクしながら90度曲がります(なんと余計な造りでしょうか)。
たいした雪でも無いのに、チェンをつけないとそこがあがらないのです。
チェン無しだと、登れない上に、下手すると90度バンクで横滑りし、そこにある塀で車のボディをグリグリと削ることになります。
もちろんバイクで出るなど論外!(自爆ですね・・がはは(^^)V)。
ところが一度あがってしまえば、その先の道路には雪がありません。
たった数十メートルのためにチェン・・・・・・嫌になります・・・・。
また、やたらと北風があたるところでもあり、日中太陽が出ても解けず、中途半端に解けては翌日がちがちになって始末におえないのです。
近所の父さん達は電車で行けるところなのか、みんな歩きで駅へ、
残るは私と奥様連中、そして股引なんぞ履いたお年寄りだけになってしまいます。
私の場合、職場がおかしなところにあり、バイクだと30分ですが、電車と歩きだと2時間以上はたっぷりかかります。
無理して行っても良いのですが、何より恐ろしいのは、誰も雪かきしなかった場合、翌日以降も出勤できません。 雪中バカンスなどとあほなことも言ってられないので、なんとしても雪をどかさなければならないのです。
そんなわけで、今日は雪かきで一日が終わりそうですね。
しかし、今年は雪が多そうだなー。


ドラマ版戦国自衛隊

2006年02月02日 | Weblog

火曜日に放送された、ドラマ版戦国自衛隊を、家内と二人で見ました。
なかなかの出来です。
途中で武者たちとの戦闘シーンがありましたが、3人一組を最小単位(米軍等)とする、基本戦闘ではなく、各隊員ばらばら戦っているのが目に付いて、それが残念でした。 近代兵器を戦術的にうまく使用した戦闘ではありませんでしたねー・・・(--;)
まあ、ドラマですので、その辺は「まあ まあ まあ」、と言うことでチャンチャン。
さて、後半隊が二分して、戦車や、ヘリを率いた側が石田光成側につくことになりました。
これは、実際の事実と重ねている部分で。
戦国時代に、初めて大筒(大砲)を使用したのが光成であったのをこのドラマでは引っ掛けています。 ヘリに関してはまだわかりません。
また、小早川秀明と自衛隊の伊庭らが知り合い、それが後半のドラマにて、
西軍、東軍どちらにつくかで迷うことになる、その迷いに影響を及ぼす設定となっており、このあたりもなかなか旨い設定です。
光成に関しては、島左近に比較してて落ち着きが無く、いくら武人派側の人間ではなかったとて、6万近い軍勢を実質動かした(総大将は毛利輝元)人物の描き方としては今ひとつ、うーん30点くらいかなー・・・・

家康に関しては、がはは! うまく描いてます!
これは歴史を少しでも深く掘り下げた事のある人間なら、彼の一生がいかに弱い者いじめの人生であったかは知っているものです(おー決め付け)。
実際、関が原以降の家康の乱行はとにかくひどい、国を治めるために悪役になったなどと良い方向で解釈する見方も有るけれど、晩年の家臣全員から疎まれ、下手すれば近い家臣からも暗殺されそうなくらいになっていた事を考えると、そこには戦略的意図など無かったと解するほうが自然ではないかと思う。
実際の関が原では、小早川隊に鉄砲の一斉射撃を加え、間接的に寝返りを恫喝しています。
それに対して徳川300年の歴史の基礎を作り上げた一番の功労者は、実は2代将軍、秀忠であったのは、紛いも無い事実で、家康自体はたまたま運良くお鉢が回ってきたと考えるべきでしょうかね・・・・・。
もし秀忠の完全な体制作りが無ければ、再び戦乱の世になっていたのです。
うわーこんなこと書いて、静岡や愛知の人を敵に回してしまいそうですねー、
お許しを・・・(^^;) あ!スクールも愛知県だった・・・・・・


さて、隊員も減り、戦車やヘリ等、主力近代兵器なき伊庭が後半のドラマでどうするのかがとても楽しみです。
今回の戦国自衛隊、点数をあげるとするなら70点でーす!
早く火曜日こないかな・・・・・