数日前のこと、僕はもう出勤してしまった後の事らしいのですが、娘が家内からビンタされたそうな。
物腰穏やかで大人しく見える我が娘ですが、 「イヤ イヤ イヤ・・・」世界を相手に戦う様な子ですから、見かけ通りなはずがない。
表に出ない気の強さは半端じゃなくて、言い方が悪いですが、何かしらで全校生徒を敵に回しても平然としていられる様な子でして、
ただ、それが悪い方向には全く出ないので、親としては助かるわけです。
家内とは、やたらと仲の良いときもあるかと思えば、その一分後にはえらい喧嘩状態になっていることが多々ある。
第二次反抗期の終盤、終了のゴングが「カ~ン!」となるわずか前くらいの状態ですから、
普段平穏であっても一度始まると、結構すさまじい。
どうも女性というのは上下関係が曖昧で、横並び社会という本能的なものが基本的に有るので、
親子でも 個対個 という関係なのですね。
幼い頃から常に男の3歩後ろを歩け、必ず男を立てよ、例え自分が秀でていたとしても男の前では絶対に生意気であってはならない、と常々耳に染みこませながら育ててきたせいかどうかは知りませんが、すでに結婚している上のお兄ちゃんや僕ともめる事は一切ありません。
まあ、裏を返せばそれだけ母親というのが甘えられる存在(ダイレクトな感情がはき出せる)ということですから、悪いことではありませんが、「よく喧嘩するよな~」
そんな娘ですが、18歳という年齢がなぜ準大人と見なされるのか?という事が明確に解る思考がほぼ99%完成されつつあるのが、話しているとよく分かります。
本人も去年までは出来なかった様な物事への考え方とその変化について認識している様で、また、それが故に若者らしく良い方向で揺れ動いてもいるようです。
顕著に表れている変化の一部を切り取ってここへ書き出して見るなら、物事に対する理解を、それまでの自分の感情だけで推し量るという面から、
自分の感情を完全に切り離して第三者的視線で冷静な思考をする事が非常に安定してきたという事ですね。
具体的には、娘が論文の練習を際限なく繰り返している事は知っておりましたが、与えられた課題の、特に内容不明瞭な文章等を中心にして、その作者の言わんとしていることを読み取り、それを自分なりの意見と整合させつつ結論を出していく行程 というのが、娘と話していると、ほぼ90%位まで完成されて来ているのが分かる。
論文のおもしろさはそうした限定された範囲で、与えられた情報を使いながら体系的に論理をまとめ上げつつ、最後に自分の考えを入れた物へと仕上げる創造にあるわけですが、
これは自分の感情を殺して切り離さない限りはなしえない。
反対にこれが、最近の褒めて育てられている若者(反抗期が無い若者)だと、おしなべて問題にならないような文で非常に綺麗なのを造りあげるのは秀悦。
ただしその論文には何ら”魂”というものが存在しておらず、よって面白くも何ともない文章となる。
100点なのに内容がゴミということです。 *これでは就職して働くことは不可能
なぜなら、二次反抗期がないという事は、自分と自分を切り離すことができない ということそのもので、当然、他人の中に存在する自己という物を、他人から容易に切り離せないことからそうした物になる。
第二次反抗期が無いことが及ぼす人間性の影響は、学校生活程度の事では別段支障が有るわけではなく、それどころかスムーズにさえ行く。
しかしながら、年齢が増すにつれてだんだんとその特徴が出始め、やがて精神的安静を欠くようになることで、異常行動が出やすい。
なぜなら、確立し切れていない人間性は常に誰かの影響下にあることを好むためだ。、学校という単純で安定した(自分の位置を確立しやすい場所)世界から、
社会という多様な世界で過ごすことは、自分の身を置く場所が常に変わることでもあり、月日の流れと共にそれが積み重なると、段々と思考が混乱するようになる。
ある線を境に、自分と他人という物をきっちり切り離し、いわゆる向こう側という視点で物事を見ることができないことからこうした混乱が発生するわけだが、
もちろん本人は解るはずもなく(反抗期による自立は化学反応のように目に見えるのではなく、知らない間に必要で重要な部分が欠落しているという恐ろしい物だからだ)、
ただ、それは当事者間ではなく、第三者として端から見るものが、いくつかの用件に絞って見ると明らかに認識できる。
一応参考 http://netallica.yahoo.co.jp/news/266469
*ただし、この記事を書いた者が嘘をついているかカウンセラーが嘘をついているのか、一部非常におかしい部分があるので注意。
上記の原因は、自分と他人とを切り離し、第三者視点でじぶんを冷徹に見られるかどうか?という点にあるのだけれど、問題意識を自分で自分に提起し、それぞれの立場からの対比と、強く自分の思いを通そうとする基本的自立要素が出来ていないからのことでしかない。
その極端な代表例は、オーム真理教で大きな事件を起こしていた当時の信者のほぼ全員と言える者達が第二次反抗期が無かったという絶対事実に現れています。
反抗期が無かった=強い自己という物が出来ていない。
ゆえに、ある事をきっかけに、混乱の結果として有る方向で強く自分を引っ張っていってくれる存在にもたれかかったり という事になります。
反抗期が無いという事は、他人にのめり込む自分を制御する機能も働かないということであり、他人の思考に汚染されるということが全く解らない人間性になる事
そのものでもあるわけです。
思考には男女で差がありますが、スイッチで入切するように自分の感情を切り替えられる男にとっては特段難しい物ではないのですが、そうした切り替えが苦手な女性は論文が作文になってしまう傾向がある。
作文と論文の違いは”魂”表に現れているか、隠されて見えない中に存在するかという違い。
もちろん隠されて見えないからこそ、強烈な魂がそこに無いと、読む者の心に何かをもたらすことは出来ない。
娘を見ていると、物事の考え方が僕に極めて近くて、幼い頃は家内の方に似ているのかと思っていたのだけれど、どうもそうではないように思える。
こうした自立と魂、人の心に関して面白い話が娘からあった、現在有志達が協力して自発的に作り上げているミュージカルの事で、全体がなかなかまとまらないという出来事が有ったらしい。
高校生くらいだと、まだ自分の果たす責務と、自分の出来る限界という物を解っておらず、
自分を誇大解釈したり、逆に過小評価したり、特に最近の子達に多いのは、褒めて育てられている事で自分を省みようとしない、いや”出来ない”という傾向がある。
本当は現実にある問題をわかっているのに、それを直視しようとせず、誰かがそれに触れようとすると、他のだれかがきれい事で適当にまとめ(払いのける)ようとする。
結果、本心と本音をさらすことなく、いくら話合いをしても、”事の 根幹” になかなか近づかないので、決してまとまることがない。
褒めて育てられた事で出来上がった、根拠無きプライドと、叱らない教育でほんの僅かなりとも
自分が傷ついて苦しむことを避けたがる子達が大多数のとなった現在。
有る子が鋭利な刃物を押し当てるようにして切り込むのは、容易な事ではない。
娘は返り血を浴びる覚悟で突破口を切り開いて見たようですが、そこから全体が変化を起こし始めたらしいのだけれど、その事が正しいかったのかどうか?という事について、
先週末に僕のところに相談しに来た。
大体1時間くらいかかって詳細な話を聞き、人の心の流れと、何かをなす際に全体としてあらねばならない人の姿を、僕の経験的な物と織り交ぜて話をしたのだけれど、
ミュージカルは何を見せるものなのか?という事については特に強く話した。
ストーリーだろうか? 音楽だろうか? 綺麗な衣服や舞台セットだろうか?
これを一つ一つ娘に投げかけていく事と、娘なりに答えていく過程で、理解して行かねばならないのは、
それが、何ら覆い被されていない、むき出しのままの人間性、それぞれの魂を結合凝縮して形にした物がミュージカルなり演劇なのだということ。
見に来てくれる人は何を見に来るのであろうか?は、その舞台の中で演じられる人の苦悩の結果というものがそこにあるからで、劇の完成までに至るそれぞれの心の葛藤の結果としてそこにあるからこそ人を感動させられるのだと話した。
格好付けて本心をさらさない人間のした演技というものが、格好付けの上に成り立っている以上は所詮演技の枠を超える事は出来ない。 とうぜん見ている人を感動させることなどかなうはずがない。
格好付けを取っ払い、むき出されたそれぞれの人間性が、劇の完成までの苦悩という道を通るからこそ、その人間達の演じる ミュージカルになるのだと言うこと。
同じストーリーのミュージカルをやっても、それで見ている人を感動させられるかどうかと言うことは、そうした点から差違が出来るのだと、そう娘に説いたわけです。
まあ、高校生のレベルではまだまだ難しい問題、しかしながら、色々な経験を通して人間性というのがいかに大切な物なのかという事をこれからもたくさん勉強していってもらいたい。
そう願う一人の父親でもあるわけです