帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

6ヶ月半 の 乳児

2012年03月29日 | 研究-教育・育児

ほぼ、お座りが出来るようになった孫。

以前から始まっていた人見知りは、更にはっきりし、夜鳴きらしきものも激しくは有りませんがポツポツ。

「このところの大きな変化は?」というなら、離乳食で好き嫌いが出始めてきた事や、感情変化が著しくなってきたこと。

自己主張が明確になり、例えるなら持っていたおもちゃを取り上げたりすると大泣きし、返すと喜ぶ。

少しでも親(母親)の姿が見えなくなると、大きな声で呼び、それでも来ないと泣きはじめる。

僕が現れると腕を伸ばして抱っこをせがんだり、家族の中でも遊んでくれる人と甘えられる人、楽しい人、等々を

明らかに見分けていて、自分の気持ちにそぐわないと嫌がるそぶりまで表れてきた。

「人間らしくなってきましたね~」

 

言葉の理解も進み、例えるなら、家族全員で夕飯を食べ、大抵は一番初めに僕が寝るために席を立つのですが、

その際に「おやすみ!」と言う言葉を口にしたとたんに、やおら泣き出す。

トイレに行く為に立ち上がっても、そうしたことは全く無いのですが、 「じゃ~ね、おやすみ」という言葉を出すと、ピクリと反応してそうなるわけで、

「は~ ジジイの心は乱れる」(笑)  で可愛くなりますから抱っこしてあげると、途端にニコニコ。

でもこちらは眠たいのでお母さんに渡すと、また泣き出す。

 

家族相互の関係と立場がどんなものなのかも解り始めているようで、例えるなら機嫌の悪い時に(滅多に有りませんが、家では一度僕が荒れ始めると大変なのではないか?と自分で思います、息子の方が遙かに穏健ですから 恥ずかしい・・・)言葉尻がすこしでもきつい方向へ変化したりすると。

驚いたように、じーっと僕の顔を不安げに見たりする。

 

こうして人間というのは成長してくるわけですが、自分が育てていた時とは全く違って、落ち着いて観察?できるのがおもしろい。

 

毎日が楽しみですが、少しずつ成長していく姿を見れる、と言うのは、本当にすばらしいものですね。

 

ひたすら息子夫婦に感謝!

 

 


プロダクション  又ですか・・・

2012年03月28日 | 研究-教育・育児

家内から話がありました。

また家の娘がプロダクションから誘われているとか・・・・

始終こうした事が有るのですが、訳のわからないところは、いかにもと言う感じですからすぐに排除?可能なものの、割と大きくて名の通ったところだと色々な面でややこしくなる。

正規の手順を踏んで、親にコンタクトを試みて来ようとするからだ。

以前も書きましたが、スカウトマンと言うのは現実に存在しており、一線で活躍している娘の殆どは、そうした専門家の目で発掘されるのが実情。

プロダクションでもそうでない方法、すなわち タレント募集、モデル募集と看板を掲げて始終募集をしているところはあれども、その実情はおいしい話をちらつかせてデビューの為のレッスン費用だとかぶったくる、いわゆる”反”詐欺(そうダイレクトには表現しませんが)と言ってよいところです。 とはそうした業界の人の話。

まともなところは、そうした手法を取らないのですぐに判別が付く。

当たり前だけれど、レッスン料、宣伝活動費等というのは、本来はむこうが持つものであって、こちらがお願いして出すものではないし、そもそもそれが変だし、請求=詐欺ですと自分で言っているようなものです。

あくまでも原石を磨いて商品(になってしまうんですよね・・・・)とする行為は、それにより収益をあげるところが行うのが前提だからです。

当たり前ですが、少しでもお金の話が出たら”一発でお断り!” それで娘を守ってきた。

逆に、娘がお世話になる様なことが万が一でもあるとするなら、普通のマクドナルドバイト程度時給以上はもらわせないのがこちらの考え。

まかり間違って、バカみたいなお金等を手にでもすれば(有るとは思えませんが)、娘自体の人生が100%破綻方向へ進んでいくのが目に見えてるからです。

 

そういえば、一般公募的に集めている中堅のところは毎日数百から多い時だと数千も売り込みがあり、募集を殆どしていないところでも数十から数百くらい、メールなどで勝手に売り込んできたりするそうだ。

しかしながら、プロダクションとしてはそうした自分で売りこんで来る子はほとんど門前払いらしく、募集しているところでも99.99%くらいは写真と書類でOUTで、殆ど鼻にもかけられないものらしい。

たまに書類が通っても面接で駄目、というのが現実。

 

やはりスカウトマンが足を棒にして、何かを持っている娘(オーラみたいなものらしいのですが)を歩いて捜してくるものらしい。

 

名刺をもらった話を聞くたびに(というか家内と一緒に出かけているところでいきなり出現したりもする)、「なんで家の娘なのだ?、そこいらじゅうに可愛い子はいるじゃないか!」と僕は言いたくなるし、ほって置いてもらいたいのだけれど、こちらの意思とは無関係の場所で、突然「すいません」と名刺を渡してくるので困る。

親としても、きちんと娘がこうしたことを報告してくれるのはいいが、やはり慌てふためく。

 

今は17歳と言う年令が守ってくれているけれど、18歳になると大人として、自らの意思で契約も可能になる。

何が心配かと言うと、プロダクションと言っても、下はAV系から始まり、正規のモデル系、芸能系もあるわけで、正攻法で親に連絡してくるようなところはほぼ大丈夫と思えるのだが、そうでないところも多く。

つまらんことで身の破滅を招くようなことにならねば良いと、親としてはひたすら願うわけです。

 

もう少しで高校3年生、ひたすら心配な僕です。

18歳という年令を過ぎれば、子供の行動に制限をかけられなくなるし、責任というものをもたせねばらなず、同時に自主性と、信頼を与えねば、何時までたっても独立した人間になることなど出来ないからだ。

 

自分の思いと、子供の成長との間に存在するジレンマ。

ますます悩みと心配は多くなりそうです。

 


ここ最近で最大の失敗

2012年03月27日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

「あはははは!」   と笑ってはいられないのですが、 ここ最近で最大の失敗をやらかしました。

「な~にしたのか?」というなら、これ

東側の窓二つを塞いでしまった。 

「ばっかだよね~ 俺」   と 後で大爆笑

 

先入観というのは本当に怖いものだと久々に思いました。

と、いうのは、増築前はこの右側窓のすぐ横にでかい掃き出し窓が有り、この東窓が有ろうが無かろうが、十分すぎるほど光が部屋に降り注いでいた。

キッチン側と、リビングの二つの窓は、有ってもなくても何ら支障はない存在だったわけです。

 

そのイメージが強かったので、「いらねーだろ」と何も考えずに塞いでしまったのですが、昨日のまだ明るいうちに帰宅したら、キッチンが真っ暗 (笑)

 

「あんれ? 何で?」と思うも、窓を塞いでいるのだから当然のこと。 「・・・・・・・・・こりゃ~駄目だ!」と、すぐに外すことを決意。 

 

なんでここを塞いだのか?というと、他にも大きな理由があって、実はこの二つの窓は酷い結露の温床だったこともある訳です。

北風が常時通り抜け、暖房で室内温度が上がるとすぐに水滴が付いてびしゃびしゃになる上に、隣の家に面しているので太陽光がほとんど当たらず、常にジメジメ。

大工さんは、ある程度防水を考慮してくれたようですが、今回のキッチンリフォーム時にめくれかかった壁紙と出窓の下部分に貼ってあったクッションフロア(やたらと気になって)をはがしてみたら。

「げげげげげげ! 真っ黒なカビだらけになっていた。」 

下地の合板も色が変わっていて、しかしながら耐水合板だったらしくて、ボソボソにまでなってなかったのでセーフ。

さんざん結露で悩まされたあげくに、カビだらけとくれば、さすがにプチリと堪忍袋の緒が切れた。

 

本来なら、ポリカーボネート板で二重窓にするのが一番正解な方法なのですが。

このときは珍しく感情的になり、2x4材で枠を造って断熱材を挟んで塞いでしまったのです。

 

このところ、夕方から夜にかけてごそごそ作業しているので、天井ライトで部屋が明るいですから、すっかり条件の違いが生じていた事を忘れていました。

 

使ったのが端材であるのと、壁紙の総張り替え前でしたから、なんら損害は有りませんが、大失敗で有ることは間違いない。 

 

そんでもって数日内に解体して処分し、今度は落ち着いてポリカ板の二重窓に変更します。

ハイ! 

 

 


韓国ドラマ 済衆院 (チェジュンウォン)を見て その2

2012年03月27日 | Weblog

ここ最近で見たドラマとして、最高に面白いと言ってよい 済衆院 (チェジュンウォン)

現在3分の2くらいまで見終わりました。

「女王の教室以来じゃないかな~ ドラマ見てこんなに面白いと思ったのは。」 

 

泣けてしまう事は有れども、マジで涙が流れ出てしまうのが、主人公のファンが自分の父親の名を呼んでしまうシーン。

そして足を切断した親を台車にのせてトボトボと白丁(ペクチョン)の村へ帰るシーン。

この二つは強烈で頭から離れません。

 

どうしても、主人公の生き方が自分と似たような感じであることから(皆さんもそうかな~?)、重ねてしまうのですが、「とにかく面白い!」 

 

その後ストーリーは進み、特に印象的なのが、済衆院 (チェジュンウォン)をアランから引き継いで第二院長となったヘロン院長が、

「世界中の国々の中で、人を助けたのに犯罪者にされて裁かれるのはこの国(朝鮮)だけです。」というシーン。

 

この一言に”善意で助けた者”を 恥ずかしくも無く犯罪者へまつりあげる”という、まさにこの国の人間性というのが現れている。

脚本を書いた人はおそらく、こうしたドラマを通じて”日本が如何に悪いことをしたのか”と言いたいのではなく、本当は自分たちが教わってきた、ねつ造された歴史ではない、”真実の歴史を学ぶべきではないのか?”と 韓国民に対してドラマを通しつつ訴えているように思える。

そうでなくては解釈できない部分、というのが、このドラマには随所に溢れているわけです。

日清戦争で日本が勝利し、それにより中国という後ろ盾を失ったことは、ずっと従属国家として搾取され放題だった歴史に一応の区切りを迎えさせた。

やがて、それに漬け込んだ列強が次々と朝鮮に対する不平等条約を結びはじめたのは事実で、この国の流れは新たに出現した日本という国と併合してズタズタにされる前に列強から守ってもらうか、強烈に手を伸ばしてきたロシアの従属国家なるか? という二つに一つの選択をする以外に道がなくなりつつあった。

やがて日本に守ってもらう保護協定を経て、騒乱の後に日韓併合。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E4%BD%B5%E5%90%88

日本は併合以前から莫大な投資を行い、井戸と糞便垂れ流しだったこの国に上下水道を整備、(ダムや電力設備など含む)それと同時に赤痢や天然痘、コレラ等の防疫に力を注いだ。

これには笑えない話しがあって、当時センミン(奴隷階級)達が病気の最高特効薬としていたのが、人の糞

それを防疫(いくら押さえても疫病が広がる為)と人間的(ヤンバンのセンミン(奴隷)に対する差別の最悪な典型)問題から日本が強制的にやめさせたのですが、そしたら日本人が我々の薬を強制的に取り上げたと騒ぎになったりしていたのです。

 

たくさんの民間技術者(有志含む)が日本から朝鮮に渡りましたが、そうした人たちが高層建築技術はじめあらゆる技術を教え、そのために高層建築が可能になった。

さらにヤンバン等のごく一部の特権階級しか習えなかった文字(ハングル含む)を、当時の日本政府は調査によって整備&体系化し、それを日本語(併合したため)の授業と平行して教えた。

余りにもひどい文盲率、 故になかなか進まない近代化を後押しする為に膨大な数の学校を一気につくり、誰でも平等に教育を受けられるようにした事で、識字率が一気に改善。

当然に、自分達だけの特権が奪われていく事に反対を唱えて激しく抵抗する支配階級を解体する為、日本は奴隷制度を強制的に廃止。 そうしなければほぼ確実にロシアの植民地にされてました。

同時に、明治維新を手本にして平等な社会基本システムを創設することに力をいれ、病院の設立はじめ医療整備の拡充も行った。

さらに、単なるヤンバンのための虐殺組織でしかなかったポドチョンとウィグムをつぶして公平な警察をも組織。

女性の胸が365日、24時間出しっぱなしのチマ・チョゴリを胸の出ないデザインへと変更させ、ヤンバン達に平然と性的奴隷化されるような、くだらない社会常識も改めさせた。

夫婦別姓はこのヤンバン達が次々と勝手にセンミンの女性に手をだすことで生まれた子が、後腐れないように自分勝手に、しかも容易に関係を切ったり復活させる事を目的として出来上がったもの。

そこには自分勝手な男達の為の”女性は性的奴隷”でしかないと言う考えを基本とした差別というのが根底にあるのですね。

*これは現在でもまだ平然と残っており、それに対してアメリカの政府機関が、自国の渡航者にレイプはこの国の平然たる常識なので極めて注意すること、と警告を出しています。

 

ところがこの制度を社民党と民主党が男女平等の名の下に、日本に導入しようとしているので、あきれてしまう。

 

と、これらはほんのごく一部の事ばかりですが、そうした政策を取っていた日本。

 

ところが、こうした貢献をしていたら、世界大戦後に中国が勝者となったことで、一転して立場を翻し、再度従属国となる可能性を見込んで(不利にならないようにへつらう為)、すり手の揉み手で「自分達は酷い植民地支配された!」と声高に言い出したわけです。

大戦後にソビエトが実行支配し始めた朝鮮を、中国は再びヤンバン(洗脳して)を送り込んで牽制することによって、結果として本格的ソビエト(ロシア)の支配を防ぐことには成功してはいます。

 

前も書きましたが、大戦後に中国へ逃げていたヤンバン他、旧支配階級が、お花畑思想(共産主義)という、新たな支配制度を抱えて戻ってきて造り上げた国家が北朝鮮民主主義人民共和国

なにが人民だ 民主主義なのかさっぱりわからない国ですが・・・・・

こうして中国とソ連の後ろ盾を得て拡大しつつあった共産主義と社会主義を抑えるために、アメリカを始めとした自由主義国家達が衝突したのが朝鮮戦争。 

以降38度線を境にして近代国家 大韓民国と チュチェ思想という新たな王政による ヤンバン再支配国家が、できあがってきたというわけです。

 

長い歴史の中で、常に中国の従属国として支配を受けてきたこの国。

以前、このブログで書いたような国民性を持たねば、生き抜いていくことが出来なかったと考えるなら、ある意味しょうがないというべきか、悲劇と言うべきか。

海を隔てて、同じ儒教的精神を基本としていながら、日本と朝鮮(韓国&北朝鮮)、中国は、

物事に対する考え方が余にも違いすぎる。

武士道が儒教の持つ欠陥と誤りを正すことによって完成へ導いたと言われるゆえんは、こうした

歴史をみると解る物でもあるのですね。

 

 

 

 

 


高儀(EARTH-MAN)の電動トリマー TR-60 と 6.35mm用 コレットコーン

2012年03月26日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

愛用している 高儀の電動トリマー TR-60。

EARTH MAN とか EMトリマー 等とも言われています。

 

価格が5000円程度で安全なスロースタート機能が付いている上に、適度にパワフル。

僕のような素人大工程度の使い方なら十分すぎるほどの品物。 

 

今まで、たった一本のストレートビットだけで溝とかドアラッチ等の掘り込みくらいにしか使っていませんでしたが、

今回のキッチンリフォームで天板を綺麗に仕上げたいこともあって、銀杏掘りとかが出来るビットが欲しくなった。

 

どんなのかと言うと、こういった加工です。 ラウンドがいい加減だったので、角が綺麗でないけど(笑)

 

でも、掘り込みをするビットは一つで2000円くらいするし、セットの5本入りなんかだと安くていいのですが、今度は必要無いビットばかり入っていたりで無駄が多い。

 

今でこそ安くなりましたが、それでも日本の工具は異常なほどバカ高いんですよね。

そこで、ヤフオクで30本くらいビットの入った、セットで4000円程度の物はないだろうか?

と探してみると、有りましたよ、これが。

 

 

と、落札したはいいが、使おうとしてびっくり、ビットの軸径がアメリカ規格の6.3mmでTR-60に取り付けできない。

TR-60の軸系は6mm用、更に困ったことに6.3mmを使えるようにするコレットコーンという部品がこの高儀というメーカーは出していないのだ。

日立や、マキタなどのメーカーは有るのに、なぜかここは無い。

精度を要求するトリマーにはこの0.3mmと言うのが大問題で、無理に取り付けすることは出来ないし・・・ 

このままだと、届いたビットセットが全く使えないという信じられないことが起きてしまった。

 

そこで何とかならないかと? ネットで調べてみると、どうも日立製のコレットコーンが使えそうなことが書かれている。

しかしながら、実際に誰もやったことがないらしく、6.3mmのビットが使えましたという書き込みらしきものが一個も無い。

という事は、「みな諦めているの?」   

 

それなら僕が人柱になりましょうか? ということで悪い癖?が出た。

早速近くのホームセンターで日立の6mm電動トリマー用、6.3mmコレットコーンを注文。

待つことほぼ一週間で、価格は450円くらいだったかな?

ところがだ・・・・・ TR-60のものと形が違う。

 

高儀のものはこんな形で、明らかに形状が異なる。

見てのとおりだけれど、よくよく見るとコーンの割れ目が高儀の物が大きく。

日立のものは下半分を切ったような形。

 

これでは使えんか?と思ったものの、簡単に諦めない僕はよ~く観察。

高儀のコレットコーンは、軸を保持する部分が挿し込部分と 一番下の二箇所になっている。

ビットを挿しこんでみると、入り口部分で一度抵抗があり、次に奥のほうで抵抗がある。

という事は真ん中はルーズ。 

実質的には、一番上で締め込み、一番下でビットシャフトを念のために?保持しているわけだ。

 

一方日立のは?と言うと。下にTR-60のような押さえが無く、その代わりに上部分が長く、しかも全面が同じ径で造られ、保持面積が高儀よりはるかにでかくできている。

トリマーはビットをどう固定するかと言うなら、コレットコーンが差込まれる部分をテーパー構造とし、そこにコレットコーンのテーパー部がぴたりと挿し込まれ、それをキャップで締めこむことでセンター出しと軸固定をしている。

キャップはペットボトルの蓋みたいな形で、上にビットシャフトが通る穴が開いている。

 

故に、テーパー角度が合い、キャップが問題なく締められれば使える可能性が有る。

 

そこで、日立製のコレットコーンをTR-60に差し込んでみると、テーパー角度が全く同じで、ピッタリ収まる。

指で上からぐりぐり押してみたけれど、全く動かず、これならいけそう。

次にキャップだが、きちんと締められるようにするにはソケット部からの出幅が殆ど同じでなくてはならない。

そこでコレットコーン二つを比較。

まずはこれが高儀製

次に日立のは

なぜか二つとも出幅が殆ど同じ。

 

「これならいけるじゃん!」 と早速ビットを差し込んで締めてみると、問題ない。

ビットを挿しこみ、キャップを仮締めし、グラグラするかを見るが、全くぶれも無く、大丈夫そう。

 

しかし、2万回転以上で回るビットがに軸ブレなどが生じれば、大きな振動がでるので、本当に使えるのかどうかがすぐ解る。

実際に電源スイッチを入れてみようかと思ったが、ここで多少躊躇。 

ビットそのものが鋭い上に、もし軸がずれていたり、保持できなかった場合は大きな振動が発生してトリマーがぶっ壊れたり、最悪ビットが外れ飛んで怪我することもある。

でも~ やっちゃうんだよな~ これが。 

疑問が出るとどうしても自分で試したくなるしやりたくなる。 これが性格と言うかなんというか(笑) 

 

そこでビットの中一番デッカイのを選び、電源スイッチをON。

 

ひゅ~ん という音と供にトリマーが回転し始め。 まもなく最高速に・・・・

 

問題無い。

まったく異振動もなく、極めて快調に動作。 

 

「それじゃ~実際につかってみるべ」とやったのが今回の天板加工でした。

まったく問題なく作業が終わり、結果として高儀製の TR-60に日立製の6.3mm用コレットコーンを差し込んで使えることが解りました。

 

最後に、

これはあくまでも僕の範囲内でやっていることです、ブログ記事にはしておりますた、同じ事をすることをお勧めしているわけでは有りません。

真似することで、生じた一切の問題に関しての責任は負いませんのでよろしくお願いします。

 

僕はこのまま使っていきますけどね(笑) 

 

 

 

 


キッチンの工事開始。 9畳の アイランド型へ変更 その1

2012年03月25日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

我が家にいる、わがまま言いたい放題3人娘(家内、息子の嫁、実娘)。 

家内を先頭に、キッチンを何とかしろと言い出した、「増築工事が終わったのだから?」と。

この家を買った当時は「これで十分だよな~」 なんて言ってのに。

人数が増えると同時に物も増え、冷蔵庫は大きさが限られているから、今以上のサイズは入らないし。

2世帯が同時に使うので狭いしと、だんだんストレスの原因になってきた。 

 

「もう少し片付けできんのかい?」と僕は思うわけだが、どうも女という生き物は平面的な収納は出来るが、

立体空間の中に物をしまうのが苦手。

従って空間に物を納めると、どこにあるか解らなくなるという男女の違いがそのまま出るらしく、どんどん買って来ちゃ~しまい込んで化石となっている。 

その良い例が冷蔵庫で、野菜室や冷蔵庫の奥の方へ行くほど正味期限切れ、消費期限切れとなり。

野菜室にはひからびた得体の知れない物がはいっていたり、冷凍庫などは何年前のしろものだ?

というものまで収まっている。  おおお・・・・・・・

*人が写っているので、一部加工しています。

 

「キッチンが狭い!」 そう家内が言い出す度に 「オラオラオラオラオラ-!」と僕が化石を発掘したり、不要物を捨てて整理したり。

しかしながら、さすがに作業空間の事だけはどうにもならない。 

二人がキッチンに入るのが限界で、3人となると完全に稼働不能に陥るオマケまである。

 

そこで「狭いぞこのやろ~!」と、 と、増築したんだからキッチンを何とかしてしまえ! となる。

当初のプランとしては16.5畳有ったLDKの、3.5畳ほど有るキッチンそのものを増築建物のリビング側に移設し、

そして開いたスペースを衣類部屋に変更。

そして残りを収納室と僕の寝室にしようと思っていたのだけれど・・・・  う~ん・・・

色々とプラン見直しをしてみたところ、移設してもキッチンの広さそのものは、さほど変わらない事が分った。

3.5畳が 5畳程度になるだけで、現在満杯の食器棚と収納を補う食器棚を新たに置いたりなんぞすると、広さ自体は変わらないのです。

 

これは困った・・・・ 

ちょっと待てよ?  収納室はそんなにでかいのが要るか? 一体何をしまうのかをもう一度考えると、そんなに大きくなくても良いんでない? と気がついた。

そこで、予定していた収納室6畳を、5畳に変更し、1畳程有る押し入れ側に持ってくることで6畳へ。

僕と家内の寝室を兼ねるので、少し削れるが、3.5畳ほどの収納空間は最低取れるので、押し入れ分とそれ以外のスペースでL字型の棚を構成しながら天井まで目一杯使える設計にすることで、ストーブやら空気清浄機、コタツ布団等の季節品を初めとする物は全ておさまる。

耐震性をあらかじめ考慮すれば危険性は無い。

 

それ以外にも床を一部2重床にしてベッドを1m程持ち上げ、下を全て収納にする予定。

*僕と家内は寝る意外は本当に部屋を使わない(完全に無駄な空間)人間なので、これでもかまわないのです。

3.5畳ほど取る予定だった衣類部屋は少しだけ縮小し、2.5畳として間取りを取り直してみると、一番無駄が多い廊下分の面積が全てキッチンに使える様になった。 これは良い

現行キッチンが3.5畳あるので、プラン変更による5.5畳を接合すると、なんと9畳のキッチンスペースが誕生。

 

フムフムフム  これなら文句ないだろ~!

 

そんでもって開始したリフォーム。

*工事途中で撮った写真、現行LDK16.5畳と 増築リビング15畳の 計31.5畳の大空間で、がらんどうの教室くらいの広さがある。

でも防塵のシートが邪魔でよく見えない(笑)

 

まずぶっ壊したのは、システムキッチンの前にある、カウンター。

例の、匠の華麗なるリフォーム番組なんぞに流れる音楽を頭の中で奏でつつ、得意の石割ハンマーで壁をぶん殴って破壊。 

その 音のすさまじさに、上の部屋から息子がすっ飛んで降りてきた。

 

実は手伝ってもらいたいと常々思う物の、100%思うように出来ないと満足しない性格の僕、それゆえ大工経験が殆ど無い息子がやる作業だと、口うるさくなりかねない。

家庭不和の原因になったことが何回か有るので、よろしくないのですね。 

まあ、嫁さんとほとんど出歩いているので居ないけど(笑)。

 

ゆえに重くて二人いないと出来ない部分とか、適度な精度で良い部分とかを除いて、全て僕がやっています。

他人なら粘り強く教えられても、息子だと遠慮ないので、うまくないのですよね~(笑)。

勉強を教えるときに、親がつい感情的になってしまうのと全く同じです。

壊して、ぶった切って、ランランラン♪

 

奮迅まき散らして、工作すること6時間。

ちなみに、キッチンにカバーかけるのが面倒だった僕はそのまま作業しています。

 

こんな感じで仮の完成。

 

まだ表の扉がありませんね~ 

赤いコードリールの辺りが新たな冷蔵庫置き場で、幅が850程有ってでかい冷蔵庫が置ける。

これまでの位置は、キッチン空間を圧迫しまくりで、最悪でした。

 

サイドにはワインラックと小物置きも装備、

なんというか、半アイランド型ですが、大まかなレイアウトはこれで終了。

後は天板に防水のためのウレタンの鏡面塗装を施し、扉を取り付ける仕上げ作業となるのですが。

 

さらにこのカウンターをくりぬいて、小型のシンクと蛇口水栓を取り付けようか?と迷っています。

家内は要らないというのですが、あれば便利なことこの上ない。 

ですので、後でそうした加工が出来るように天板の取り外しを考慮しています。

 

このキッチンリフォームにかかった費用ですが。

天板とサイドの棚板等は、赤松集成材 3500円を2枚 で7000円。

扉つきの下部収納ですが、ニトリのカラーボックス4台(非常に強度があります)を使用して追加の棚板と扉で合計約1万円。

他に隠れて見えない部分に ノンJASの合板 1枚 850円。

 

合計1万8千円ですが、仕上げのウレタン塗装に2000円ほどかかるので、合計2万円のアイランドキッチンというところでしょうか (笑)

「ボックスと天板が安っぽい」とは家内の言葉ですが、「だったらもっと金だせ!」 そしたら棚板を総ホワイトウッドで造るから。    爆笑

 

そういえば、最新のアイランドキッチンは60万から80万くらいします。

そんな高価な品物にはかないませんが(といっても、表面が鏡面仕上げの化粧板だったりするだけで、実質的構造はニトリのカラーボックスと変わらないので、この辺りを上手く使えば安価に出来るのが、手作りの良さというところでしょうか?

 

ちなみに、この後は、増築側と同じフローリングを貼って(下の古いフローリングがすでに日焼けでボロボロ)一体感とアクション感を持たせ、壁紙をやはり増築側の物と同じ物に貼り替え、最後に化粧モールやら何やらを貼り付けて、キッチンから冷蔵庫などを移設すれば終わりです。

この後工事は、又後でパート2としてブログに書きます。

 

 

 

 

 

 

 


天窓

2012年03月24日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

回転式で、屋根との出入りが出来る大型の天窓。

それを通して青空写真を撮ろうと思ったけれど、でかすぎてフレームに入りきらなかった・・・・・・・・(笑)。

娘の部屋に勝手に入り込んでの撮影です。

 

 

適当な形の雲があったら良かったんだけどな~  へへ


歪んだ人間性という判決

2012年03月23日 | 僕という人間 その他

「どうしょうか・・・・・」 と思っていたけど、後二つばかり、例の東先生のエピソードを紹介します。

まずはその一つ目。

 

毎度、バカバカしいと思うのですが、これはこれは花瓶が割れた事件をめぐっての事です。

そのとき、先生の机の近くに立って、座っていた友達と話していた僕、あれは3時間目と4時間目の間の休み時間だったかな~、たしか。

 

僅かな時間ですが、外に行ってる友達、廊下にる友達、そして教室の中をふざけて走り回っていた友達等々、

普通の学級で普通に見られるこうした光景ですが、運が悪かったというか・・・

 

僕のすぐ横を、追いかけっこした友達が走り抜けた瞬間、追いかけていた子が教壇に当たり、机の上の花瓶がグラリ!

「あっ!」と思って瞬間的に腕を伸ばしたけど、間に合わなかった・・・

 

静まり返る教室、そしてそのすぐ後におこる、よくある出来事。

ふざけて追いかけっこしていたのは、クラスで人気者の二人で、この二人が「あ~らら! XXがお~とした!」と僕の名前を連呼し始めた。 責任のなすりつけってやつです。

初めに言い出したのは前の逃げていたやつ、後ろの教壇にあたった奴は、自分でやったのを知っている?はずなのに

少し遅れて一緒に言い始めた。

 

完全な冤罪ですが、こうした小学生程度の年代では、クラスの人気者とやらが言い出したことが常に正しくなる傾向がありますよね。

ご他聞に漏れず、落とした本人が二人そろって「僕のせいだ!」と言い出せば、当然他の子はそれに応呼し、無責任にんに面白おかしくはやし立て始める。

「落としたのはおまえだろー!」と僕が言い返すと、「俺はXX(僕)が落としたのを見た!」と、追って口にするこの二人。

そして、丁度その時に教室へ例の先生が入ってきた。

ここから始まったのが、初めから有罪ありきの単独裁判。 

何が悲しいかと言うなら、全く僕の言葉を信用せずに、初めから自白のみを求められていたこと。

はやし立てられ、そんなクラスの子達の言葉を聞いただけで、すっかり犯人にされた僕に、先生は容赦無く叱る言葉を降り注いだ。

そんな剣幕と、クラス全体の僕に対する有罪視線に逆らうようになるのが怖かったのだろうと思うけれど、

僕と話をしていた友達はまったく事の真相を話してくれなかった。

「違います!」その言葉を僕は何度も繰り返したが、その先生はあきれ果て、最後には「何故嘘をつくのか?」と言い始めた。

だれも弁護してくれず、相手は先生であって大人、小学生の分際でしかない子供が一方的に攻撃されればどうすることも出来ない。

尚且つ、花瓶を割った本人達は涼しい顔で知らんふりしているのだから、さらにどうにもならない。

自分ではないと言い張る僕にしびれを切らした先生は「それでは誰かこの花瓶を落としたのを見た人はいますか?」とクラスに向かって問うたが、皆沈黙。   誰も見て等いないからだ。

その後に、例の人気者が「僕が落としたのを見ました」と手を上げて言い出した。  あ~・・・・

そうなれば、その後の展開はわかりきっている。

みんな落ちた後に誰かが言い出したからそれにあわせただけで、勇気や責任感という言葉がほとんど皆無なこの年令で、教室全体が僕が犯人だという空気の上に乗っかっている以上、流れは明白となる。

誰かが「XX(僕)くんです」と言い出せば、完全に犯人として確定されてしまうのは当然のこと。

 

その言葉に、先生も僕が犯人だ、と(誤った)確信をし、だんだん言葉尻が強くなるけれど、絶対に僕は認めなかった。

押し問答のあげく、授業に時間が食い込んでいたことも有ってか、先生は「後で職員室に来なさい」といって、僕に割れた花瓶の処理とこぼれた水をバケツでふき取れとるように指示。

「またか・・・・」、そう思う僕だが、どうすることも出来ない現実をだまって受け入れる以外に方法はない。

 

やがて授業が終わり、職員室に行った僕を待っていたのは、人間性を否定する言葉達。

以前からの確執もあって 歪んだ人間だと思われている事から結構きつい言葉が並んだ。

僕は、”嘘はいけない”と言うが、「やってもいないことをやりました}、と言う嘘はどうなのだ?と思いながら話を聞いていた。

最後に、「そうですか、もういいです!」といって僕は教室へ返された、歪んだ人間性を持った子だという判決をこの先生はくだしたわけです。 

 

「なんでだろうね?」 

やっと開放された僕は、そう思ったわけだけれど、例のごとく悲しくも腹立たしくも無く、諦めと言うか? そんな気持ちでそのあとをすごした。

人間と言うのは、一度目はつらくとも二度目三度目になると、それを上手く処理できるようになる。

 

それから多くの時間がながれ、僕が法律の猛勉強を始めたのは、思えばこれが強烈な思い出として染み込んでいたからなのかもしれない。

抗する手段がなんら無くば、こうして一方的な圧力に屈しなければならない。

普段から相手よりはるかに高い能力と知識を身につけ、理不尽と無責任なやからに対しては、常に反撃手法と手立てを確立しておけば、こうした矛盾を簡単に撃破出来るし、更にそれを逆手にとって相手を完膚なきまで叩き潰すことも可能だ。

やがて法律事務所に勤め始め、しかしながら、そこで見たのは、ただただ、お金の事ばかり。

その世界に嫌気が差し、そこを去ったのだけど、理由は僕の本来目指していた方向とは180度異なる世界だったからだ。

 

今は、全くこうしたどろどろの汚さと無縁の仕事をしているが、このほうが僕には合っているのだと思う。

 

 

その2

これは卒業間近のことだ。 この先生との最後の出来事です。

もう二度とこの顔を見なくて済むのかと、卒業式の日は晴れ晴れしたな~ (笑)

 

卒業制作で何か造ろうか?という話は必ず出てくるものだけれど、その時はベニアの型枠の中に石膏を流し込んで作る大きな遊具だった。

カタツムリやイルカのかたち等、6年生が総出でやる作業で、でも作業の中身はいとも簡単なもので、

石膏を水で溶いて、固まらないうちに型枠へドンドン流し込むだけの作業。

好きな友達どうして班を組んでの作業で、結構楽しく、ただ、小学生ですから、みんな作業中に他の班のところへ行ったり、チョッカイ出したりなんかして、途中で何度も消えては現れての繰り返し。

まじめ?だった僕は特に他へ行くことも無く、どんどんと石膏を溶いて流しこんでいた。 

 

よせばよかったのだけれど、班の友達の一人が、お前も他を見てこいよ!と言ってくれたので、こねるのを任せてどんな感じで皆が進んでいるのかを見て回った。

時間にして大した事は無かったのだけど、その時だった。

「おい!お前のせいで石膏固まっちゃったじゃないか!」という声がした、それまで自分がいた班とは違う班の友達で、その言葉は僕に向けていた。

振り向いて見ると、その面々は普段からあまり仲の良い子達ではなかった。 

「何のこと?」と思い、「俺、あっちの班だけれど・・・」というと、さらに声を大きくして僕のせいにし始めた。

いい加減にやっていて、石膏が固まってパニック! たまたま近くにいた、しかも歪んだ人間性?ゆえに先生から眼の敵?にされている僕に、照準を合わせたのだと思う。

押し問答しているうちに、その班の一人が走って先生を呼びに行き、例の 先生が現れた。 

 

「あ~これでまた罪を、おっかぶせられるんだろうな~」と即座に思うが、それとほぼ同時くらいに、「またあなたですか!?」の声。    やっぱり・・・・

丁度、位置的に先生の後ろ側になった、その友達?達は、ニタニタしながら、訳もなく叱られている僕の横で、「どうしたらいいんですか?」等と聞いたりして、いい子ぶっている。

その後の顛末はその1とほぼ同じだけれど、石膏が固まってしまってバケツ一つが駄目になったのと、学校で買った石膏の量が予定より足らなくてあせっていたのだろうが(先生の話の筋から)、いつもより遥かにひどい剣幕で叱られた。

とても悲しかったのですが、それ以上に辛かったのは初めから一緒に班を組んでいた友達が誰も僕を助けてくれなかったこと。

学年全体でやっていた上に、好きなもの同士が寄り集まって班を組んでいたこともあって、自分の属していた班は、叱られているこの場所から50mくらい離れたところにいた。

卒業制作造りの喧噪も有って、班の友達は、”なんで僕が叱られているか?”が分らなかったのも有ったのだろうけれど、何度かこちらを見ることが有っても、来てはくれない。

もっとも叱られている友達のところにわざわざ来て、自ら事に巻き込まれようなんていう輩はまず居ない。

本来班から離れてはいけないことになっているのだから・・・・ 

当たり前の事だけれど、先生は目のまえにいる責任なすり付け班の子達と僕が一緒にやっていると思い込んでいるうえに、叱られている理由が数人の共通した言葉であるなら、僕の言葉等は毛頭聞くはずが無い。

上にも書いたが、 歪んだ人間だという先例がすでに何度も下されているのだから。

「僕はあっちの班です!」、といっても、責任逃れの言い訳にしか聞こえないだろうし、嘘つき人間であるという烙印をも先生が自ら率先して押している以上、どうにもならない。

少し離れたところに連れて行かれ、延々と説教を聞かされ、それに対して僕はただただ耐える以外には無かった。

10分くらいの時間だったろうと思うが、やっと開放され、元の班に戻り、でもやる気などおきるはずも無く、ボーっとしていたところ。

再び先生が登場し、何でこの班にいるのだと再びその場で叱られた。

XX君はこの班ですと誰かが言ってくれれば助かっただろうけれど、先の事もあり結構強烈に叱られている状況にしりごみしたのだと思うが、友達は黙っているだけだった。

 

このブログを読んでくれている人達もこんな経験がないだろうか?

友達と小さないたずらをして、それがばれた際、「俺帰らなくちゃ」とか言いながら、調子よくその場からするする逃げてていく友達の姿。

何度も何度も繰り返しこうした経験をつんでいた僕には、今回の様な出来事は「またか」という程度のものだったけれど、バカ正直だった僕は、友達が叱られると、逃げもせずに僕もやりましたと言って、共に叱られることが多かった。

責任を他人に押し付けて、調子よく逃げるような行為が大嫌いだったこともある

 

こうして散々な目にあった卒業記念作品造りだったけれど、今から2年ほど前だろうか?

たまたま近くを通る事があって、バイクを停めて校庭をフェンス越しに見たところ、例の卒業記念は、すでに取り壊され、失われていた。

失敬ながら、それによって、なんとなくすっきりした気持ちになったのを僕は覚えている。

 

こうした経験が多々ある僕だけど、そのせいか解らないが、とりあえず何か問題が起きると、不愉快な思いをさせたとして、まず相手に頭を下げる事が多い。

低姿勢で不快を取り除こうとする行動が、反射的に出てしまう。

自分の思いに反しながら頭を下げるという事に慣れているというか、全く抵抗がないというか。

プライドなんていうくだらない物は、とっくの昔に消滅しているし、僕が不快な思いをすることで物事が解決するなら、そうすることにしている。

ただ、限度を越えた冤罪や理不尽な責任の押し付けに対しては、絶対に屈することは無い。

最終的には相手を張り倒してでも白黒つけるが、それは やられっぱなしの自分 が流す涙というものを、二度と味わいたく無いからだ。

 

とにかく、ひたすら相手より遙かに高度で優れた能力、卓越した力と教養さえ有れば、自分は黙して何も語らずとも、周りから伝わって相手に染み渡り、向こうが勝手に低姿勢になってくる。

こちらは、上に立とうなんてこれっぽっちも考えていないから、常に稲穂のように頭を垂れ続けた姿勢を保ち続けることで、物事を全部自分の思うとおりに動かし、同時に円滑な人間関係を崩さずに維持し続ける事が出来る。

というのは、僕の経験が持たせてくれた処世術でもある。

出世には使えないが・・・(爆笑)

 

最後に、この先生が担任をしていた2年間、自分が一番耐えられなかったのは、学校に呼ばれた母親が、散々な言い方をされていたことだ。 

思い出す度に、爆発的怒りを心に引き起こす。

よほど辛かったのだろう、僕が当時の事を聞いても、口ごもって殆ど語ってくれない。

何しろ家庭訪問の際に、僕の目の前で、この子は協調性がない、人と上手くやれない、問題行動が多すぎる、心配だ?等々、 明らかに人間性に問題があると言いたげな言葉を羅列していたくらいなのだから。

ましてや母が面をつき合わせた際に言われたことは相当に辛辣なものであったことは疑う余地もない。

一方的な決め付けと、それによる偏見、それが如何につらくて厳しいものかということを僅か11、2歳で逐一ねじ込まれ続けていたのだから、たまったものではない。

皆さんご存知かは知らないが、ちなみに小学校のこうした生徒の人物評価というのは、中学校へそのまま渡されている。

大問題抱えた最低の子がクラスに入ってくるのだと、中学校の担任先生は頭を抱えていたことと思う。

いくら隠そうとしても、それは入学して間もないのに、僕と他の子では明らかに接する態度が違う事から読み取れた。

先生に対する警戒感と不信感ははちきれるくらいまで膨らんで、つねにセンシティブになっていたからだ。

 

実際に、今の僕に存在している何人もの教員友達は、そうした書類が回されてくることを教えてくれたし、遥か以前の学校は問題児という札までつけてつけてくるようなまねをしていたのだから

 

追記:

僕は人の本能を中心とした独自の教育研究をしていますが、その原点は、すべて当時に回帰しています。

それは、今もって解決しえない多々の経験が、何故なのか?と満足する様な結論を導き出さんとsきて僕にやらせているように思えます。

結局、西洋型の心理学はゴミそのもので全く役に立たず、解決の糸口になったのは本能論。

ほぼ99%確信している原因?は推測出来ているのですが(先生の名誉もあるので、ここでは書けません)、結局本人に確かめてみないことには100%にはならない。

いずれにしても、顔を突合せでもした途端に罵声を浴びせるであろう事を僕自身がわかっている以上、完全な答えは一生得られそうにありません。 

でも、それでいいんでしょうね、きっと。 

 


建築確認書

2012年03月22日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

10平米を越える建物を造るのに必要なのが、建築確認書。

その中の、この、たった一枚の許可書とやらをもらうのが大変。

「自力で家を建てよう」とか「増築しよう」とか考えている人達の前に、必ず立ちはだかる問題だ。

*プライベート情報が載っているので、ぼかしています。

 

以前はそんなに用件の厳しいものではなかったのですが、 姉なんとか建築事務所が構造計算で

いい加減な事をやらかし、それが社会問題化して以降は、ほぼ個人で提出してこれを通すことは困難になった。 

電子・電気工学がメインの僕ですが建築も専門分野の一つですから、特に問題なく終わらいたけれど、そうでなければ無理だったよな~  と思う。 

 

今回の小規模増築でも一応は二階建てで、総床面積が50平米程度有りますから、当然に法に則った設計をせねばならず、結構面倒(笑) 

 

提出する書類は大体以下のものなのだけれど、

>確認申請書

>建築計画概要書

>建築工事届

>換気システム計算書

>平面図、建物求積図、敷地面積図、付近見取り図、配置図、断面図、矩形図、基礎図、構造図

>法規関連チェックリスト、仕上表、謄本、構図

 

と、最低このくらいの書類が必要になる。  多いよね~ 

基本的に書類は建築図面の知識を初めとして、他に構造計算、壁量計算、シックハウス対応の為の換気流量計算等々が必要で、素人が手を出すには難しすぎる。

 

役所には素人向けの個人申請用専門部署などあるはずもなく、下手にたずねても「設計事務所でやってもらって!」と言わんばかりの対応をされるところが殆どではないだろうか? 

第一何か聞かれた際に、即時返答出来ねばならないし、「建築法XX条ってなんですか?」なんて聞きなおしていたら、あきれられてしまう。

 

そんなわけで、こうした特殊性に乗っかって成り立つのもこの業界の実態であって、住宅を造るコストは殆ど相手の言いなり。 

よって小さな家をバカみたいな価格で買わされる事になるわけです(笑)。

実際に、僕が現在住んでいる家は、建築条件付の建売でしたが、建物価格だけで当時1200万もした。

しかしながら床面積は約85平米と大した事が無く、今回増築したのが約45平米で120万程度の金額なので、1200万をベースに計算すれば最低600万は請求される事になる。

大抵は「リフォームや増築は無駄と手間がかかるんですよ!」という、例の”大嘘だまし文句”振りかざして小遣い分のプラス200万をのせられて 800万位になるのが常識。 

でも、増築した建物にキッチンとトイレと、風呂を付けるだけで普通の一軒家になるのですから、これくらいは行くんですよね。

 

本当にバカバカしいのですが、当時も今も即金で土地と家を買えるお金等あるはずも無い一般小市民の僕には、金融公庫なんぞを頼って融資を受けるしかなかったわけで、当然そこには”自分で建築”をするのはおろか、 ”自分”の 自の字すらも許されなかったわけです。

自分で造るだなんて言ったりしたら、銀行は絶対融資しません。

 

したがって、家を買おうと思えば、黙ってこうした世の中の常識に従うしかない。

でも、さすがに僕も年を取って、さまざまな経験を積んでいるので、今なら別の方法でできるかもな~なんて思う。

 

もし、同じものを建てる事を許されたなら、おそらく300~400万もあれば、間違いなく今の家よりはるかに高品質の家を建てる事ができる。

悲しいかな、これが日本という国の現実でもあるのですね。 

しかしね~ 自分でやっていると、他にも嫌な思いをすることも有って、例えるなら、うっかり個人で家を建てています等と資材屋で言おうものならと ほぼ間違いなく割り増し価格を吹っかけられる。

完全に素人だと思われてなめられる訳だが、一般的に、家をつくろうなんていう人間は相当の変人だと思われているのも確か。

やり始めれば「出来るわけ無いのに・・・」という視線から始まり、だんだん出来上がってくれば今度は偏見の目で見られ、完成に近づくほど妬みやら嫉妬の入り混じった視線となる。

下手すりゃ嫌がらせを受けたりもされる。

この国では自分で設計して、自分で家を建ててはいけないという、得体の知れないルールがあり、

それを犯してはならないわけだ。 「うんうん」

 

そういえば今回の増築、やり始めた当初に、冗談飛ばして無許可です(建築内容の掲示等は、面倒でやりませんでしたから)と言っていたら、役所にちくられた。  (爆笑) 

まあ、これには裏があって、以前から家の事を良く思ってないと思われる家が近所に有り、

「そこがどんな事をしてくるだろうか?」という(危ない)好奇心と、嫌っている事の確信を得るという目的も有ったのだけれど、まさか「先生~×○君がこんなことしていま~す!」とたれこむ小学低学年並みの事をするとまでは思っていなかった。   くだらなさと、幼さに、吐き気がしてくる・・・・

家に好意を持ってくれている近所は(というか、その家を除いて)、皆ニコニコして「頑張って!」と施工中に声をかけてくれるし、汗だくになって資材を運んでいると「手伝うから、いつでも声をかけてね!」とも言ってくれる。

しかし、この家の旦那だけは工事を始めて以降、こちらが「おはようございます!」「こんにちは!」と挨拶しても完全無視を繰り返し、ぶすっとした顔で家を見たりなんかしていた。  どれだけ小者なんだか・・・・

奥さんは本当に良い人なのだけれど。

そういえばこの旦那が(以前書いた雪かき事件の親父ではない)がおかしな態度をとり始めたのは、10年ほど前に家が外車を買ってから急にだ。

中古の平行輸入車で、特に高級でもなんでもない車なのだけれど、丁度アストロブームの時でも有り、家にお金でも有り余っているようにでも見えたのだろうか?

それがいには普段挨拶する程度で、何かもめるような要素も無いし、なぜそうなのか全く理解できない。

 

こちらはその家が嫌いになる理由などこれっぽっちも無いので、無視されようがまったく今までと変わりなくしているが、

なんとなく寂しい気持ちにさせるこうした人の態度と言うのはいかがなものだろうか?と思ってしまう。

なんか間違っているかな~ 僕 

 


石鹸 の 彫刻

2012年03月21日 | 僕という人間 その他

昨日書いた、桜の絵の続き話 みたいなものですが、この経験も僕の人間性に莫大な影響を与えました。

* 今日の話以外にもいくつかありますが、それはこの先書くか分りません。

二つとも、今なら大した出来事ではありませんが、純粋だった子供時代には非常に大きな傷、いやトレーニングを心にもたらしてくれました。

 

 

 

桜の絵で意味不明の出来事に遭遇した僕。

以降、心の中で反抗はしながらも、一応はまだ先生として見ていたわけです。

 

しかしながら、そんな純粋な感覚は、この先話す出来事で完全にひっくり返しましたね~(笑)

「全て僕が悪いのです」と思いさえすれば、なんてこと無く乗り越えられるものなのですが・・・・

 

事が起きたのは、この東という名の女性先生の、結婚式場での出来事。

結婚式前の道徳の時間に、ツーショット(当時はそういいませんでしたけど)写真なんぞを見せながら、婚約者の自慢話を聞かせられたクラスの皆でしたが、特に悪い意識も無く、「そうなんだ~」くらいの思いだった僕。

式の日が近くなるにつれて、”クラスとして何かしなくては?”という、あの独特の雰囲気が教室全体に出てきた。

例のごとく、(ほぼこの先生の推薦によって初めから結果が分りきっている選挙で選ばれた)学級委員の二人が、得意の優等生ぶりを発揮し、結婚式に歌を歌おう等と言い出した。

同時に何かプレゼントを・・・という話も有ったわけだが、これらは一応、先生のいないところで話し合われたりもした。

僕自身は歌うことに特に反対も無く、プレゼントも出来る限りお金を使わないものをあげようという事でクラス意見がまとまったわけで、ところがそのプレゼントで辛酸を飲まされることになるとは、その時は思いもしなかった。

「何をあげようか?」 と考えたけれど、好きではないにしろ、まがいなりにも先生の門出。

何か良いものを、と考え、親にその話しをしてみたのだけれど、

「出来る限り工夫してごらん」といわれて、当然小遣いなど殆どもらっていなかったし、何か買うにもバスで45分も乗って横浜駅まで行かねばならず、かといって近くにあるのはスーパーと古ぼけた雑貨屋ぐらいしかない。

第一、この当時は小学生を単独で繁華街に行かせてくれるはずも無いわけで、式の日は近づくし、だんだん焦りが出てきた。

しかし、たまたま、家でページを開いた本に、石膏による工作写真が載っていた。

印象に残っているのは、白くて美しく、吸い込まれそうな車模型のようなもの。

 

その写真をみて、これって何かで代用できない? そう考えた僕が思いついたのが石鹸。

つるつるで、彫刻刀で容易に削りだせ、飾るのが飽きれば洗うことに使える。

 

「これなら、家にあるもので出来るし、お金もかからない」、そう思った僕は親に話すと、石鹸を二つほどもらった、一つは台座にし、もう一つはその台座に乗せる彫刻にするためだ。

 

何を造ろうか?そう思っていたところ 三春駒というのが幸せを運ぶ馬である、とたしかテレビの番組だったと思うけど紹介していたのを見て、これをイメージして造ってみることに決めた。

参考:http://www.hidaka.pref.hokkaido.lg.jp/ts/tss/umabunka/05-manabu/03-minzokugaku/04-bijyutsukougei/index.htm

デザインは、角ばってごつごつした三春駒ではなく、馬の走る姿に近づけて掘り込みをおこなっていった。

自分で言うのもなんですが、結構手先が器用です(笑)

 

石鹸は削るのは容易だが、壊れるのも簡単であり、結構な時間と注意をかけて彫り上げ、難しかったのは足を入れる台座の穴で、何度少しずつ削ってぴたりと入るようにしたのを覚えている。

出来上がった三春駒?みたいなものを母親に親に見せると、「幸せを運ぶ馬、これから子供が出来るから喜んでくれるよ!」と言ってくれた。

机の引き出しをあけると、少し汚れているけれど、箱を見つけ、それに千代紙みたいな色紙をノリで貼り付けて、紐で結び、式の日を楽しみにしていた。

 

当日、友達数人とバスで式場へむかい、式そのものが始まると子供の相手をしている時間がないことも有るのか、結婚式のだいぶ前の面会時間に控え室で先生と対面した。

先生の周りにはすでに来ていたクラスの生徒が集まって、それぞれお祝いのプレゼントなどを手渡していて、それを見た時、僕は多少の後悔を覚えた。

お金をかけないと言う約束は完全に破られ、恐らくは親がお金をだしたか、買ってきてくれただろう品物がプレゼントとして並んでいた。

女の子は花が多かったな・・・・

 

先生は、みんなの持ってきたプレゼントを一つ一つ開けつつ、感想を述べながら「ありがとう!」とそれぞれの子に言っていた。

今思うと、後で開けると、どれが誰のプレゼントか分らなくなるからだったのだと思う。

 

すこし離れて見ていた僕だけど、思い切って「先生これ」と色紙を貼り付けた箱を差し出した。

それを受け取った先生、紐を解くと箱の蓋をあけ、中にあった石鹸彫刻をとりだした。

しばらくじっと見つめたあと、次の一言が口から出た。

小さな声であったけれど、はっきりと僕には聞き取れた。

「なんてもったいないことを・・・・・・」と、 例の眉間にしわを寄せた表情でだ。

 

僕は黙っていた、続けざまに僕のほうを向いた先生が口にしたのは説教。

「なんでこんな勿体無い事をしたんですか?」という厳しい言葉だった。

 

このときには、次の言葉を予測して僕は下を向いていた、それでも「ありがとう」と言ってくれることを多少なりとも期待していたけれど、無駄なことだった。

先生はそのまま彫刻を箱にしまうと、すぐ横から話しかけられた他の子と話をはじめた。

 

とても大きな衝撃だった、 すくなくとも僕にとっては・・・・

 

その瞬間、例の桜の絵を投げ捨てられた瞬間が頭をフラッシュバックしたのを今でも鮮明に覚えている。

 

そのあと、式がどうなったのか、だれと帰ってきたのか?という記憶が全く無い。

おそらく頭の中はこの出来事だけで満杯だったのだと思う。

ただ、帰宅した家で母親が「先生よろこんでくれた?」という問いに、嘘をついたことは覚えている。

”すごく喜んでくれた”と。

 

不思議と前みたいな悲しみはなかった、怒りも無く、ただ、何ともいえない気持ちだけは有った。

 

この出来事以降、僕は一切他人に何かを期待することをしなくなったのは間違いない。

ごく普通に行動するし、社会活動もやる、しかしながら、そうした自分に対する他人の評価というものを、常に鉄の冷たさをもって迎え入れている。

 

いや、冷たくとか、素っ気無くとか、いい加減とか、適当にと言う意味ではない。

よい方向で言葉をもらえれば笑顔で返すし、「ありがとう」というし「こちらこそどうも」ともいう。

 

しかしながら、自分の行動の価値判断は、すべて他人ではない自分の自分に対する満足度で判断しあくまでも自分のベストを目指すこと以外の異物はなんら挟まないようにしている。

故にどんな批判を受けても揺るがないし、動揺もしない。

 

この先生には5年~6年生の2年間を担任として持たれ、こうした一部の出来事以外にも、かなり色々な体験を積まされる事になった。

そうした経験が僕にもたらしたのは、自分が何かすることで、何かを得ようとか、良く思ってもらおう等と思わない心。

何か施してくれるとも思わないし、ましてや助けてくれかもしれない等という、他人に対する甘えも期待も一切心の中に存在しない。

すごい人、偉い人だ等と、結構容易に人は言葉を吐くが、これが僕に向けられる事等、有るはずないし、期待もせず、思われたくもないし、バカだといわれても当然に関係ない。

 

これらの、つらい思いは、心の成長期であった思春期入り口の僕に、人を考える莫大な時間を与えてくれ、それによって言葉の影に潜む、心のあやふやな部分を敏感に読こめるというオマケまで付いてきた。

 

でも、この先生がなぜ僕に対してこうだったのか? その理由は今でも分らない。

幼い頃から他人と協調することが上手くできず、何かにつけて感覚がずれている僕は、この先生にとって理解しがたい子だったのかもしれない・・・という思いは、確かにある。

 

いくつもあるこうしたこの先生との出来事を、家内に話したが、「よく 捻くれなかったね~」 と言われたものの、こんな人間に自分を駄目にされるほど惨めなことはないわけで、この先生の先生としての存在そのものを無いものとして扱えば、特に問題なく毎日が過ごせる僕でもあったからだ。

 

 

 最後に 石鹸彫刻は ソープカービングと言います。

本なんかも出ていますね、 美しいですよ。

http://www.nihonbungeisha.co.jp/soapcarving/

 

 

 

 

 


桜の絵、そして 涙

2012年03月20日 | 僕という人間 その他

桜を見ると、いつも思い出す出来事があります。

それは小学校の5年生の時の事なのですが、当時、僕は横浜の羽沢というところに住んでました。

港からはかなり離れた丘の上に建てられた市営住宅、確かA-192号という番号の家だったかな・・・

平屋の連棟式団地で、ちいさいけれど、そこそこ大きな庭の有る2Kの間取りに、親父が作ったテラス、鶏小屋、小さな家庭菜園なんかが有った。  懐かし~な~・・・ 

 

当時の担任の先生は 東という名の女性で、やがては結婚して姓が変わったのだけれど、僕にとっては思い出したくも無い名であり、どうでもよいことで、話はこの先生との事。

 

なぜ”桜の絵、そして 涙”という題なのか? というなら、今でも目に焼き付いて離れない、床に落ちた一枚の絵が忘れられないエピソードになっているからです。

それが、我が子が大人になる年齢になるほど時間のたった今でも、心の奥から離れることが無い。

つまらない話なので、読んでいただいている人には悪いのですが、偶々そういった気持ちになったので、書いてみます。

 

その時、授業の図画工作で桜の絵を描くというのが有って、満開の桜の木を写生し、絵にするもので、まあ、どこの小学校でも行なわれているとは思いますが、下絵は鉛筆、そして絵の具で色をつけるだけの極めて簡単なもの。

でも、結構時間がかかるので、下絵を外で描いて、絵の具で色を入れるのは教室で行われました。

幼い頃から工作や絵が好きだった僕は、この授業も嬉しくて仕方ないわけですが、そんでもって結構夢中で色を入れていましたね。

小学校の授業ですから、得にこうした授業は歩き回る友達もいて、時折来ては「どう書いている?」という友達の言葉に誘われながら、他の子の絵を見たり、 まあそれぞれが色々な方法で描いていたわけです。

多くの子は幹だけ書くと、花は全体をピンクに塗りつぶす感じの絵を描いていた。

 

僕は?というなら、薄いピンクの花一面に覆われている質感がどうしても筆で出せず、筆で小さな点みたいなものを組みあわせたりしていたのだけれど、どうしても腑に落ちずにいた、

ある瞬間に、「は!」と気が付いて、”なぜ筆だけで全てを描かなくてはならないのだ?”と疑問が湧き上がり、筆の点々による花びら、全体を塗りつぶす感じ、そしてもっと自分に近い処の枝や花は、こうしたら描けるのではないかと思い立った。

とくに散る花びらは、この方が綺麗に描けるのではないか?と思った僕は、小指の先に絵の具をつけて花吹雪を描いて見る事にした。

すると花びらの形そのものが丸っこい事も有るけれど、想像以上に綺麗に書け、自分は満足。

桜の花は、光の当たり具合で白に近い色も見えるし、濃いめのピンクにも見え、そうした色を指で混ぜながら一心不乱に書き?続け、

そのうち、周りの友達が「あ!」「上手!」とか言って回りに集まり始め、その言葉に僕自身も多少なりとも誇らしい気持ちだったり、なんとなく得意なような不思議な気持ちでもあった。

幼い頃から、幾度と無く作文や絵で章を受け取った事がある僕ですが、大抵はそれを目的に書いていたわけではないのでどうでもよく、特に自慢してやろうとか、すごいだろうなんて気持ちは毛頭無いわけで、でもなんとなく友達がはやし立てる言葉にいい気になっていたのを覚えています(笑) 

授業終了がすぐ迫った頃、僕としては満足な出来上がりとなり、先に終わって遊び始めている多くの友達を避けつつ、教壇の机に座って絵を受け取っている先生のところへ提出しに行きました。

僕が提出した絵を受け取った先生、しばらく僕の絵を見ていたのですが、すぐに眉間をゆがませた表情で、「これはなんですか?」と聞いてきた。

その表情と言葉が、余にも当時の僕には衝撃的であった事から、今でも瞼にそれが焼き付いている。

そしてその次に放たれた言葉は、「これでは、梅なのか桜なのか分りません」という言葉。

僕は驚き、絶句しつつ、「桜です」と小さな声で答えたわけですが、次にその先生が取った行為は、奈落のそこに僕を突き落とすようなもの。

「こんなもの絵ではありません!」と言い放ち、それを床に向かってポンと放り捨てたのですね。

絵はひらっと回転するような感じで、床の上に落ち、周りの友達も一瞬静まり返り、僕は落ちた絵を黙って見ていた。

そして、その女性先生は、その落ちた絵に目もくれず、すぐに教壇に立って皆に片付け指示を出しはじめた。

 

その後、僕が覚えているのは、震える手で落ちた絵を拾い上げ、先生の机に置くと、黙って席に戻って片付けたこと。

相当なショックであったのは間違いないけれど、不思議なことに 悲しいとも、悔しいとも、腹立たしいともその時は思わなかった。

その後給食を食べ、6時間目が終わり、僕は相変わらず黙ったままで帰宅。

玄関のドアを閉めると、何故かそれまでは何とも無かった思いが急に沸き上がってきて、やがてそれが抑えきれなくなって一気に爆発した。

とめどもなく涙があふれ、行き場の無い悲しさは胸をかきむしり、どう我慢しても耐え切れない僕は布団を出し、掛け布団をかぶって思いっきり泣いた。

そのまま泣き疲れた僕は、いつの間にか寝てしまったらしく、やがてパートから帰宅した母が、布団かぶって寝ている僕に気が付いて起こしてくれたのだけど、

すぐに泣いてたことに気が付いたようで、「なにかあったの?」と聞かれ、その時は耐えていたものの、母親の顔を見ているうちに耐えられなくなり、再び泣き出してしまった。

その時に自分が何を言っていたのかは明確に覚えていない、ただ、一部始終を話したわけではなく、床に投げられた絵の事を繰り返し言っていた事は覚えている。

頭を撫でられている内に、だんだんと気も落ち着き、「何故だろう?」という事を考え始めていたけれど、その疑問は、結局小学校卒業まで晴れる事はなく、今に至っても解決していない。

この先生が今も生きているのか? もう死んでいるのかは、全く分らない。

中学に入り転校した事もあったのだけれど、当時の友達とは一切連絡を取っていない。

もしクラス会などがあって、万が一その先生と顔を合わせよう物なら、”何を言い出すか判らない自分”、というのもそこにいるわけで、顔を見れば、恐らくは当時自分が受けた思いに匹敵するか、それ以上の屈辱的言葉を、延々とこの先生に対して言い放つに違い無い。

時が怒りを解決するとは言うが、必ずしもそうでない事もあるのだ、ということが今の自分から解る。

子供の頃から、”表現は形式にとらわれなくてよく、可能な限り自分の自由な表現をすることが絵である”と親に聞かされてきた僕は、それ以降、こうした関係には感情を押し殺すロボットになった。

学校の授業で、図画工作と音楽に対する興味を失い、それ以外にもその先生の授業は机に座っているというだけとなり、内情は殆ど拒絶であるから成績は惨憺たるもの。

これ以降の絵は、友達と同じものを見て描き、それ以上の余計な事をするようなまねは一切しなかったです、なぜならそれが何より無難だから。

やがて中学に入り、なぜか美術の先生の目に留まって特別扱いに近いことをしてもらった。

でも翌年に僕は転向してしまったけれど・・・

この先生には今でも感謝している、凍り付いた心を溶かしてくれたのもこの先生のおかげだからだ。

それが無ければ、今でも絵に対する態度は変わらなかったのではないか?という思いが胸をよぎる。

 

満開の桜の木を見て、自分の指をみると、そのときの感覚がよみがえってくるのですが、

絵を描くのに、なぜ筆でなければならないのだ、なぜ鉛筆で下絵を書かねばならないのか?

泥では駄目か? 草の花や葉をつぶして出る色では駄目か?色鉛筆では? クレヨンは? 紙を切り抜いては駄目か? なぜ制限を受けねばならないのか?

そうした疑問(我が侭な?)は今でもあって。

しかし、学校教育というのは決められた方法と決められた回答、決められた結果以外は認められず、いうなれば先生の思いに忠実に従える子ほど成績もよく、評価も高い。

それが現実なのだけれど、僕は一切なじむことが出来ない。

 

国語の問題で、「誰々は彼の思いをどう受け止めたでしょう?」という問題がよくあるけれど、

こうした問いに対して、僕は答えを出すことが苦手で、品行方正、文部省ご推薦の答えを書けばマルがもらえることを分っていても、「人の心はわからんではないか?」という思いが出てきて回答出来ないし。

数学はなぜこうした解き方をしなければならないのだ?と常に疑問を持ち、勝手に間違った回答方法を考えてみたりと。

これじゃ~皆からバカだといわれるし、嫌われても仕方なかったわけだ。

 

自分のしてることに良い評価をもら得るということは、一時は居た事がある日本の職場や会社には無かった、常に叩かれるし、バカな上司を逆に叩きつぶしたりしていたからだ。

自分を殺すことが一番うまくやれる方法、それに僕はどうしても絶えられない、

故に、星条旗の下で人生の半分を過ごすことになった理由がそこに有るのだけれど、床に投げられた、一枚の絵、そして涙、 僕の子供時代の、懐かしき思い出のひとつです。

 


オルゴールと命

2012年03月20日 | 増築&リフォーム、DIY、手作り等 古い日記

上の部屋を片付けていた娘が、「パパ~ これ見て~!」と持ってきた物があった。

少し錆びた、小さなオルゴール。

もう記憶は定かではないけれど、僕がだいぶ前に娘へ手渡したものだ。

 

タイトルは ”星に願いを” 、 「そんなことあったよな~」と昔の記憶を手繰り寄せる僕。

 

薄茶色に変色したハンドルを指で回してみると、 いまだ変わらぬ美しいメロディを奏でてくれる。

 

しばらくこれを手にしていた僕、 ふとある事を思いついて、階段の横に取り付けてみた。

「どんな感じの音になるのだろうか?」と耳を澄ましてみると、手製の木製階段は小さな金属の音を、やさしい木のぬくもりとして解き放つ、不思議で美しい音(楽器)へと変身させた。

 

一度メロディを奏で終え、再び古びたオルゴールを見た時、そのすぐ横の 踏み板に刻まれている”時”に気が付いた。

「数えてみようか・・・・」

指でそっと撫で、そして一つ一つ数えてみる。

一、二・・・十四、十五・・・、 やがてそれは僕と同じ年令に達し、更にその先へと繋がっていく。

大きな幅、薄い幅、一つ一つがこの木を育んだ気候という歴史を僕に教えてくれる、あたかも教科書の様に。

 

最後まで数えようと思ったけれど、製材された四角い形はすぐにそれを阻み、いったいこの踏み板、いや木の年令はいくつ(何才)だったのだろうか?という想像しか許してくれなくなる。

 

一枚の板、そしてこの家を構成する柱の一本、一本に刻まれている時は、おそらく僕よりはるかに年上であり、しかしながら伐採という死をもって、今は僕の家族を包み守る存在となってい。

人はその多くを自然の力に頼り、あらゆる生き物達の死の上に立たねば、生きていくことは出来ない。

家の階段が、わざとラフな造りで、無塗装のままであるのは、こうした命という物を少しでも自分の家族に読み取ってもらうためだ。

そして、オルゴールをここに取り付けた事で、僕が新たに込めた無言のメッセージというものに、いつか誰かが気付いてくれるのではないか? なんて、すこしだけいたずら心を持ちながら思う。

それはすぐかもしれないし、ずっと先かもしれない、もしかすると誰も分らないうちに家そのものが老いてなくなってしまうかもしれない。

大声で怒鳴るわけでもなく、引き止めて耳へ入れるわけでもなく、叱りもせず、諭しもせず、だた

無言のまま伝えるメッセージ、子供達の幸せな未来へのメッセージ。

 

 

 

 


おすすめの店

2012年03月20日 | Weblog

娘の部屋の天井に取り付けた、花の照明器具。

実は日曜日に横のエアコンで作業中にうっかりシェードを割ってしまった・・・・

 

ぱり~ん!  どっひえ~!!! 

 

そこで、この商品の販売元に連絡したところ、非常にすばらしい対応をいただきました。

ありがとうございました。

 

非常にセンスのよい会社で、ここの商品は僕(たいしたことありませんが)のデザイン感覚とぴたりと重なります。 紹介したいので、是非ホームページをみてください。

スマートホンポーチなんか娘に買ってあげようかな~、なんて考えてもいます。

 

http://www.orrb.co.jp/index.html

 

 


韓国ドラマ 済衆院 (チェジュンウォン)

2012年03月19日 | Weblog

このところ、韓国語ドラマのチェジュンウォンをDVDで見ています。

大体3分の1くらいまで見終わったところでしょうか。 

非常に面白いです。 

あらすじですが、群馬テレビさんのホームページに載っていたのを

転記します。

http://www.gtv.co.jp/program/drama/index.html

19世紀末、身分制度崩壊の時期を迎えていた朝鮮社会にあっても、強い差別を受けていた最下級身分、白丁(ペクチョン)出身のソグンゲ。通訳官の娘として生まれ、西洋世界に触れて育った優しいユ・ソンナン。両班(高級官僚)の家に育ち、西洋医学に傾倒する頭脳明晰な貴族の息子ペク・ドヤン。朝鮮初の西洋式医院、済衆院(チェジュンウォン)には国籍や身分、差別を超え、医療で人々を救いたいと願う高い志のもとに、様々な若者たちが集まった。実在の記録を紐解きながら、混沌とした当時の社会状況や医療事情、そして歴史ノンフィクションを織り交ぜ、開花期の激動の挑戦を描いたメディカル時代劇!!<全36話>

 

このドラマを見ていて思うことは、ドラマの中で、朝鮮人という人々の姿が、忠実に描かれているということ。 

 

これを見ていると、”自分達が望んで日本に併合を迫った日韓併合の歴史”を、どう自分達に都合よく強制併合だ、植民地支配だ!といい出したのか?という、思考の原点をそのまま見いだす事が出来ます。

嫉妬、ねたみ、嘘つき、短気、賄賂、横流し、自分勝手、自分の責任をすぐに他人に転嫁する、他人(他国)に対する考え方等々、この国の人間性がそのままそっくり描かれています。 

 

このドラマは、日本で放映されることを初めから意識して造られた最近の韓国ドラマみたいに、 世界的視野から見て不快を覚える本質を見せないようにするようなまねをしていません。

長い歴史と社会制度がもたらした、人間性の違いを肌で感じられる。 それがこの物語の面白さです。 

 

見る前に、正しい日本と朝鮮半島の近世の歴史を一通り勉強してみると、非常に楽しいドラマですが、ストーリーの素晴らしさはもちろんのこと、それ以外にも適度にギャグ?を取り入れ、笑わせてくれるところが多い。

例えるなら、随所に散りばめられている、日本がどれだけ朝鮮の人々に悪いことをしたかという半日、嫌日出来事。

本来の正しい歴史とは180度異なるねつ造である事から、無理がある上に矛盾が出まくりで、それが物語の中で適度にボロを出しては 「は~?」と笑わせてくれます。 

それは、「事実は違うんだぞ!」ということを言いたいのかもしれないという、監督の意図的裏メッセージ? ではないのかとも思えてしまう。 

例えば天然痘が流行した話では、アレン院長と主人公がワクチンを手に入れようとしたところ、”日本が嫌がらせの為に全て買い占めた”というストーリーになっています。

しかし実際は、こうした嫌がらせは無く、当時の日本が、全力で天然痘を絶滅させる為に働いていたことは知られていません。

一応歴史的かかわりを簡単に知ることが出来る、参考URLを載せますので、歴史書を読むより、これを見るだけでも良いかもしれません。

http://specific-asian-flash.web.infoseek.co.jp/heigou.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE

ドラマの中では、自分達でワクチンを造り出しますが、たった一頭の牛から当時の800万近い人々を全て救えるはずが無く、それどころか朝鮮半島の天然痘流行=日本の流行となる でもあった日本政府は、医療対策を全力で支援しています。

こうした歴史歪曲が笑わせてくれるわけです。

主人公は実在の人物とのことで、その生き様は僕の大好きな生き方でもあり、どうしても主人公に自分を重ねてしまうわけですが、

文化と”歪曲の歴史”、を楽しみながら同時に学ぶには、非常に良いドラマとしてお勧めします。

ぜひ見てください。 

 

 最後に、現在の北朝鮮は、日韓併合の際に奴隷制度を中心とする身分制度を日本が強制撤廃した事で、不満を募らせたヤンバン達が中国へ逃げ出し、その後民主主義人民共和国という名で作り上げた復活国家。

第二次大戦の日本敗北と撤収の際に、単なる王制度よりはるかに強固に人々を支配できる お花畑思想(共産主義)を看板として戻ってきた。

*朝鮮戦争はこれを食い止める為のアメリカの戦いでもありました。

当然、国家の中身は古い朝鮮王朝(専制君主主義)そのもので、それは日本の与党(民主党)の主だった面々、及び社民党の両党が賛美する、この国の基本的 チュチェ思想(内容は単なる昔の身分制度の復活)にそのまま現れています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E4%BD%93%E6%80%9D%E6%83%B3

世界中のメディアが伝えて来る、北朝鮮の人々の凄惨な生活と惨劇は、民主主義で育ってきた我々には理解に苦しむものですが、このドラマを見ると容易に、理解することも出来るわけです。