ま~~~~ったくね、凄まじい雷だったですね、昨日は。
今朝は朝一番にシステムチェックと 施設全体のチェック。
特段問題は無く、 停電の影響によるアラーム警告が、数か所で出ていた程度。
しかし・・・・・・最新設計の建物と設備というのは、本当にすごい。
今週初めに来襲した、とてつもない台風、そして昨日のキチガイじみた雷雨でも、 各システムは忠実に責務を実行して、
コアとなっているシステムには何の異常も無かった。
前の建物は、戦後にすぐ建てられた物だったので、 何か有ると、かならず何かが有る?? (^▽^)ぶゅあはははは!
という位にまでなっていたわけでして、 新しい建物が完成するほんの数ヵ月間の間に至っては 空調がほぼ全滅、 物置の屋根は飛んでなくなり、
非常用の電源設備発電機は重故障。
本建物内でも天井板が抜けたり、 電気配線が突然燃えたり、 室内照明設備は30%程度を残して点灯せず・・・・
まあ、数えるときりが無いほど酷かった。
本部の施設部も、 後数ヶ月で新しい建物が完成を知っているので、まったくなにもせず状態で、でも昨年の異常なまでの暑さはそれなりだったし、
台風の来襲は結構凄かった。
新しい施設に引っ越しをして、24時間空調の効いた豪勢な建物に、最新式の電源設備や
その他消防及び、 電子設備含めて その余りの違いに驚かされたけど、 冬、 春、 そして夏を通り越して、
今回はお約束の台風と、激しい雷雨に見舞われて、 結果として凄いな~~~~~としか思わざるを得ない。
まあ、そんなわけで、非常に快適なのですけど、 これが自分みたいに大人ならともかくも・・・
特に子供なんかそうだけど、恵まれた環境が当たり前として育ってしまうのは、正直言って良い物では無い。
ウインドなんぞをやっていると、湖や海に行くわけですが、 そこには子供連れの家族も来ていて、ただ、ほぼ子供の全員がライフジャケットを着けていて、子供がおぼれたり、万が一を考えてのことなのだと思うのですが、
これでは本来の経験や体感としてしっかりと脳裏に刻まれるべき”恐怖感”を十分に得られないまま成長してしまうことになる。
親や、学校、 先生など、 周りが常に先廻して、 子供を危険性から遠ざけるのが恒常化しまっているのが現代ですが、
そうした環境下で育った子供には、有る特長が出てくる。
簡単な例をあげると、 車の運転。
そうした”恵まれて過保護な環境”で育った若いのが運転する車に乗っていると、速度が遅くなったり、かと思えば思い出したかのように速度上げたり、
常に不安定な運転になる。
ボ~~~っと運転している時間と、 ハッ!とそこから気付いて速度回復するのが不定期でやってくるわけでして、
又、言い換えると、これはその運転している人間の感情の変化や脳活動の変化がそのまま運転に出てしまってるわけだ。
基本となる部分(本能)が安定して必要な情報を安定処理していると、 運転の無意識部分(ハンドリングや速度調整等)は感情の変化とは切りはなされているので、勝手に安定する。
そうした小さな事からも その人間がどう育ってきたか?は大体判る。
まあ、それがその人の人間性などに対する悪い評価になるわけで無いので、誤解しないでもらいたい。
これは、子供の頃の経験がとても大切で、危険性を感じつつ、それでもわざと怖い事をして、それが出来れば勝手に喜んでいるし、
失敗して痛い目にあえば、体に起きた体の痛みや、その時点での自分の限界というものが解る。
いうなれば自然に学習をしているわけで、突然の濁流で溺れたとか、 風で突然倒木したとか、 棚の釘が突然抜けて上の物が頭にぶつかったとかではない、行動の殆どを、危険性に接する事を半分意図的におこなっている事が多い。
人の本能は、その生物が生きてきた基本プログラムでもあり、 二足歩行を始めた人類が種としての絶滅も無くここまでこれたのは、その基本プログラムに間違いが無かったからだ。
よく、本能を粗末にして、常識が正しいのだと言う人も居るが、 常識はその時代や社会背景、 宗教的な物も混ざり、
有る常識は、他のある場所では非常識であったりして、常に変化していくものだ。
ちなみに、般若心経にある 色即是空は ”常識は間違っていて、本能は正しい”と言うことを説いている。
よく”色を欲”としている書物があるが、これは大きな間違いである。
仏教が日本に伝来した、いや伝来させて布教する背景となったのは、 当時の日本が豪族達による戦争や略奪の世界であり、
すなわち、その当時のその行為は常識だったわけでして、
仏教はそれに対して、 今、あなたたちのしている事(常識)は間違いであり、 ”本能を物事の思考の中心に据えて考えなければならない”と、
説いたわけだ。
本能をよく知ることは、戦争や略奪の根本に有る人間のプログラム物を知ることであり、 その本能を誤った常識で使うのでは無く、理解して正しい方向に導く事が大切である。
当時はそう布教したわけだ。
当たり前だけど、 戦乱に明け暮れていた時代の仏教の教えは、すぐさま民衆の心をとらえ、 それが大きな力となり、 やがては豪族達や支配者層が学ぶ物へと変化した。
これは民衆をどう自分に従えるか、どうすれば民衆の心を引きつけられるのか?として変化していき、それが武士の時代へと流れていく間に
現行のような、本来の意味を逸脱した物になってきてしまっている。
大分ずれたので、話を元に戻したい。
こどもの遊び方をみていると、実によく本能は出来ている、 初めは母親の足下。
そしてそれが少しずつ外に広がり、扇状に行動範囲を広げていく。
時々は親を振り返り、 自分との距離をきちんと測っている。
成長につれて、 その幅も距離も広まり、 しかしながら何かあったらすぐに戻れる距離に自分を置いている。
これは、本能がそうさせているわけだ。
湖や海に来ている子供の姿を見ていると、全く同じような事が起きている。
初めは波打ち際、やがて足首、 そして膝、 腰と どんどん深くなっていくが、 常に陸地との間を行ったり来たりしている。
自分の能力と限界を本能が測っているからこそ起きる行動その物。
やがて慣れてくると、体を水に浸し始め、膝や腰くらいの深さの処でしゃがんだり寝転がってみたり、当然そうした行動をすると
水を飲むことがある。
ゲホゲホむせて、中には泣くやつもいる。
これも本能。
年齢が幼いほど、 限界が近いので、 ある程度のところまで行くと、それ以上はいかない範囲にて勝手に留まる。
体が成長すると、 その限界が自然に広がるので、今度は胸くらいまでの深さで潜ったり泳いだりするが、基本は横方向で、やはり扇状。
胸辺りの深さから少し深いところに泳いで、又胸くらいの深さの処に戻る。
ひたすらそれを繰り返し、 泳ぎが上達(状況適応能力の進歩)するけど、当時に戻れなくなる恐怖感を本能が学び取っているのですね。
時々、沖に向かって冒険的に出ては、足の付かない怖さに焦って戻ってみたりと、 ひたすらそれを繰り返す。
この時に、本能は、危険から、自分を自然に守ることを学習している。
ところがライフジャケットを着けていると、浮かぶのが当たり前であって、
本来あるはずの危険性=おもしろさ=死の現実感=危険からの自然回避、というのがまともに育たない。
じつはこの危険性からの自然に身を守る事は、 危険性を無意識に察知してそれを遠ざけることでもある。
先ほどの運転話に戻るが、 その能力がきちんと育ってきた人間は、運転している時に常時 道路状況を的確に把握し、自然に他車との間合いや、どんな運転をしているか? その他の情報を無意識にて安定コントロールしている。
またそれは、 一緒に乗っている家族や友達、彼女等との会話から来る感情的な物や、運転時の精神状態ウンウンとは切り離されている。
子供の頃にきちんと外遊びして、 本能が怖い思いや痛い思い、様々な経験を沢山積むほど、表面的な脳活動とは切り離された本能が、
危険性察知と回避のための行動を24時間自然にとらせる様になる。
何でこんな処にいるん? 事故になるだろ? という場所に、ボ~~~~っと立っていたりする若いのが現場にいて、監督や先輩からドヤされたりしているのを見かけるが、頭の上に骨材やら資材があるのにだ・・・
人は生きていると、無意識のうちに色々な行動をしていることはある。
そしてそれは、幼い頃からどう育ってきたか?と言うことその物の結果であり、 何の危険性も無い、環境的にも恵まれすぎる、そんな場所で育つ事が
後にどんな人生を送るかに跳ね返ってくるか?というのは、至極簡単に判ることでもある。