正月からなんだかかんだと忙しくて行けなかった実家。
家族で半年ぶりに帰りました。
以前と変わらぬ笑顔、相変わらずよっぱらって畑仕事をする親父。
幼い頃と代わらぬ飯のあじ、味噌汁の具。
自分の人生の基礎がすべてここにあります。
ダンダンろれつが回らなくなりながら、孫が可愛くて仕方ない親父は、よせばいいのに絡んでいます。
いやだー!と言いながらテレビを見ている娘、適当に聞き流しながら分厚いレポートを仕上げている息子。
酔いすぎて、いいかげん誰も相手をしなくなると、寝に行く親父。
家の中のほんの些細な段差でふらつく事などなかった・・・
私を震え上がらせる腕力だった、あの日焼けした腕には昔の面影はなく、今はそれを受けついたかのように私がここにいる。
半分布団から出ている体をヒョイと持ち上げて布団をかけてあげながら。
軽くなった体に、「自分が親父と同じ年齢になったとき、果たして息子や娘は来てくれるだろうか?」そう自分に問いかける、幸せなひと時でした。
な出来事がありました。
まさか・・・・
そんな事が・・・
人というものは本当に難しい、それを再度思い知らされるような
ことでした。
青年よ、「君の人生は誰のものでもない、自分の為にがんばれ!」
涙もろくなりました、もちろん突然になったわけではありません。
年を増すごとにそうなったわけで・・・・
ほんの些細な事でも感動し、また涙が出てきます。
「年食って涙腺がゆるくなるからだ」、なんて言う人もいますが、そうではないですね。
年齢と共に様々な経験が積み重なり、それが人の気持ちを深く理解させる。
他人の苦しさや辛さを自分の事のように捕らえ、自分ならどうだろう、
自分ならどうするだろう、という気持ちにさせる。
それが涙もろくさせているわけです。
昨日の夕飯時に息子がこんな事を言ってました。
「人は若い時にこそ苦しみをたくさん経験したほうがよい」とです。
丁度その時、たまたまというか、話の話題になっていたのは、娘の友達の事、そして先生の事、それに対しての世の中の見方等々、同じ出来事に触れたとて、それぞれがまったく同じ考えを持ち得る事など無いこと、また大勢と少数派、其の違いはどこから来るのか? 等の話をしているときでした。
上の子の言葉は、おそらくは娘にむけて放たれた言葉であると思いますが、
それは又同時に、自分に対しての言葉でもあることは間違い有りません。
まだ純粋無垢な娘の思考は時として直線的であり、それはぶつかったり、折れまがったりを繰り返しつつ歩んできた上の子との大きな違いでもあります。
学校でなぜ生徒が大きな問題を起こすのか? なぜ無目的になるのか? なぜ無気力に見える行動をするのか? なぜ激しい反抗をするのか? なぜすぐに切れたり暴力を振るうのか? いくらでも広がっていく???の数々・・・・
大学講義で学ぶ教育論の理想と現実の矛盾を笑い話にして聞かせてくれる息子ですが、彼は上記の疑問点に対する答えをほとんど知りつくしているのではないか? 親バカな私にはそう思えます。
彼がもし運良く教壇に立てたのなら、もし深い問題を抱えた生徒に出会ったならどう立ち向かうのだろうか・・・・
まじめだけがとりえの様だった私なんぞが持ち得ない、彼のもっている多くの経験は、閉ざされた心を自然に開かせてくれるのではないだろうか・・・
なにやらニタニタと現れた、若い衆。
なんだ なんだ? と思っていたら、この間訓練終了したカッパが他の連中に
教えるとのこと。
私の前では「教える」と言えないらしく、「自分たちでやって見たい」となんとなく回りくどい言い方をしています。
・・・・・・(--) しばし無言。
(^^:)でも「自分たちで」という意思はVery good!
少し調子の悪い部品があったので、それを倉庫からひっぱりだして「ホイ!」
と渡し、くれぐれも事故(怪我)を起こすなといってやらせる事にしました。
まだ不安は多々あります、しかしこちらが手を出せば彼らは貴重なチャンスを失います。
おかしな調整や整備をして装置が吹っ飛ぶのはなんら構いません、そんなことは対した事ではないからです。
機械の部品や修理にかかる費用より、そうした経験を踏まえた一人前の技術者として育っていく価値のほうが遥かに高価なものだからです。
物は単なる科学技術で生産された工業製品であって、けしてそれ以上にはなりえません。
人間の持つ頭脳と、それから広がる無限の可能性と比べればくず同様でしかないからです。
最近の会社全体の傾向として、人を育てるより、目先の利益を大切にしているところが大半です。
そこから見えてくるのは、人を機械部品=金額 として考えながら経営する人間性です。
人を人としてではなく、思うとおりに動くサイボーグと考えている。
そうした人間にはなりたくないと思っていますが、自分が其の立場になれば果たしてどうなるのか?という事は、私自身にそうした経験が無いために分かりません。
ちなみに私の、人というものに対する見方は”様々な采と容をした心の塊”そのものとして捉えています。
と! 偉そうにいえるほど優れた人間性って自分にあるかな? (^^)
健康診断を受けました。
身長体重測定、看護婦さんによる血液検査から始まりますが、
こうした場所で混んでいるのは珍しくない事で、それはいいのですが。
問題はバリウム・・・・・
U(^^;)はは・・・
U(--)やっぱり飲むの?・・・・
ウウ(--”)マズー・・・・
でも(^^)♪微妙にレモン味・・・・・
飲み終えると逆にそれがきつい(--:)・・・・
出来れば冷やしてたらいけるかも(^^:)・・・どうどう、名案?
え! やっぱ駄目?
(--)ふー・・・・
そんなわけで逆さになったり、横になったり、
検査後すぐに下剤、しかしそれから8時間経過しても、なぜか無反応。
もしかして、これってやばいかも(^^;)
恐怖、驚愕、怒りは。
自分に差し迫った危機(恐怖、驚愕)を本能が捕らえ、それに相対して必要な行動をおこすためのエネルギー(怒り)の発生という、正しい精神活動を意味しています。
今の子供たちは、正しく叱られながら育って来ていない為、恐怖、驚愕を感じた段階で精神活動が停止、そしてそれによってパニックを引き起こすことで結果的に自分に不都合な相手(親、先生、友達等)を目の前から消し去る事を最善の方法として捕らえてしまいます。
いうなれば、立ち向かうのではなく、目の前の不快を取り除くだけの、”逃げ行動しか出来ない”ということです。
これは自分の感情の高まり(不快)に対する精神の正しい処理ルートが存在していないという事そのものを表していますが、これは”脳幹”が怒りそのものをつかさどっている機関そのもの(疑義がある場合医学書等を参照してください)であることから、その働きが停止もしくは不完全であるばあい、当然にリンクされつつ精神的活動の動機を得て働く大脳(問題処理の泉)が正常に機能しないということでもあります。
これが非行や引きこもり等の問題を生みます。
ですから、脳幹を刺激してあげればあっという間に元に戻るわけで、みんなまったく異常の無い正常な子供たちなのですね。
こうした脳幹と大脳の連結にかんして名古屋にある某所ではすでに20年以上も前から子供たちを立ち直らせてきた経験とデータの蓄積で解っていました。
ところが、引きこもりだ、非行だという分類を立て、それが表面だけに見える行動から分けて考え、故にそれぞれの子供たちに適したやり方で・・・
と一般の人たちだけに留まらず、学者や専門家?という人たちまで同様の主張しつつ、其の現実は場当たり的な対処しかしていません。
僕の恩師を観ていると、問題はそんな事ではないと外部に説き、内部では合宿生活を通して人間の心の奥深くにある”構成”そのものを上記のように正常化することで、相対的に思考そのものを正しい方向へ導いています。
基礎が正しければ、それにともなって上に乗って回る感情を初めとしたあらゆる思考は正しい方向に動くわけで、理論的には至極単純です。
だからこそ、不良、非行、引きこもり、不登校の子達混在しているし、卒業していけるわけなのです。
となんでこんな事を書いているのかということですが、実は前回の中間テストの成績が散々だったのはうちの娘。
散々だったといっても、真ん中くらいから少し下ですが、其の原因は、完全に中学の勉強をなめきっていたという事。
油断するなよとは私も言ってましたが、娘の怠慢は試験前の姿からこちらも分かり切っていた訳です。
しかしながら、そうした怠慢な姿をみて、前回の試験前には叱る事ができませんでした。
というのは、現実という動かぬ証拠で自分の怠慢を認識させない限りは、常に言い訳して逃げまくるのが子供という生き物だからです。
怠慢だからとして、親がああだこうだとやり始めることは出来ます。
しかしそれでは反省という大事な物が育たない事、又、其の反省を元にして次の取るべき行動を取るという事を学ばない、また、親があれやこれやと手を出したとて、子供は甘えの領域を抜け出ることなく、さらに出来なければ(というか、其の場合はやる気ありませんから)今度はそれを理由にしてやっても出来ないだとか、本当は勉強がきらいだったとか何だとか、いくらでも言い訳は出てきます。
だから放っておいたわけです。
しかし試験の結果を自分で認識し、テストの答案を隠すようにしていた娘にドカンと怒りの斧を力いっぱい爆発させたのは私です。
簡単に言うなら恐怖と、驚愕を全力で娘に落としたわけです(体罰では有りませんから誤解なきように)。
ここで娘の中に”怒り”という物が発生したのかどうかは、現時点で私には分かりえません。
ちなみに娘はそろばんを習ってますが、学習塾へは行ってません。
自分でやる以外にはないわけで、それが来週初めの期末テストで分かるわけです。
親としては、恐怖、驚愕、怒りというとても大切な本能の働きを、これまでウインドサーフィンなどを通じて育ててきたわけですが、それが良い方向へ作用し、現実に怠慢を排除できるのか、そして、自分を導びけるのか?というのが現実的な結果としてみえてくるのが今回の試験です。
これを読んでくれている皆さんに勘違いしないでもらいたいのは、私は勉強の出来る人間にしよう等とは思ってません。
怠慢を自分の力で排除できる子になってもらいたいわけです。
まずは人間であること、そして普通の成績が取れれば十分。
そう思っています。
ちなみに中学にもなると夏休みに夏期講習など受ける子達がたくさんいるようですが、うちの子は夏一杯沖縄にいきます。
やるべきときに全力でやり、好きな事をやるときも全力でやる。
そうでなければ、やりたくも無い講習等、何の役にも立たないのでは・・・
でも、これって正しいのかなー・・・・ 実は私自身もよく解りません(^^;)
あ!、そういえば、最近この日記にほとんど書かなくなったうちの息子ですが(もう大人なので・・・)、あいも変わらず朝7時過ぎに家を出て、夜は8時頃まで学校で運動生理学やら、教育論やらびっしり勉強しています。
教員過程はカリキュラムが相当多く、それを激しい体育実習授業と共にこなす事は結構大変なようです。
ちなみにすでに今の段階で教員過程を脱落していく同級生が何人も居るようです。
成す成さないはともかく、自分の進むべき道を出来る限り努力して歩んでもらえれば、私は何も言う事はありません。
そういえば、この子のときは中学時代に一度も勉強しろとはいったことが有りませんでした。
成績はひどかったなー(^^;)
最後に、娘の頭にドカンと落としたのは、「勉強しろ!」という言葉ではなく、「どんな怠慢と甘えがあったのかよく考えろ」でした。
と無風+雨であっけなく中止。
そんでもって今日はパイレーツオブカリビアン3を夕方から見に行きました。
でも、なんか面白くない・・・・
評判は悪くないのですが、正直なところ、????
もしこれから見に行かれる方がおられましたら、2をレンタル屋で借りて
見てからすぐに行く事をお勧めします。
私はストーリーが思い出せず、それも理由の一つかと思います。
今日は家内が朝から出かけていて居ません。
というわけで、朝清掃を終えると、まったり時間。
天気予報は午後3時から風速5mと甘いささやき。
そんでもって利根川行くか?と娘に聞くと、「うん!」との心地よい
返事。
すいていたので片道2時間のドライブで草の熱気むんむんする利根川に
付きました。
でも結局無風、私は7.5娘は5を張るも風がなけりゃどうしょうもない。
其のうち私のボードに自分のセイルを乗せて娘がフリスタ練習。
ボードを取られた私はただニコニコしてみているだけでした。
でも行きと帰りの計4時間半、いつものごとくうんざりするほど話ができました。
やがては離れていくであろう娘ですが、今のこの一瞬を大切にしたいと思います。
先週のウインドが良い風でなかった事は書きました。
それは自然現象ですから珍しい事ではないのですが、ほかにもう一ついささか
悔しい事がありました。
というのは、ジャイブの技術において明らかな敗北をしたという事。
誰に? 娘にです。 ついに恐れていた事が起きたわけです。
ウインドはジャイブにはじまりジャイブに終わると言われていて、それほどに難しいものなのですね。
週末の三浦は、微風かつ不安定でいながら、なおかつ波のあるコンデションでした。
普通微風時には大きなボードを使用します。
大人も子供も関係なく、微風になるほど大きな板を使うのは世界的常識です。
というのは、速度がでることで初めて安定する細いボードに対して、わずかな波が及ぼす作用は、そこに立っている事すら難しくさせ、そこに来てさらに不安定な微風をコントロールする事は至難の業に近くなるからです。
強風を受けて加速せねばまったく安定しない設計のボードだからです。
そんな条件下にて、幅52cmで容量も90L無い娘の板と、私の70cm&135Lの戦艦みたいなボードでは圧倒的にこちらのほうが有利なはずですが、しかし・・・・
娘は145Lの容量がある家内のボードを時折使ってダックジャイブやセイル360を初めとする、その他フリースタイルの技を笑いながら連続披露してくれます。
これも結構私には出来ないので、見ていると精神的にきつい・・・・・
(--;) くやしー・・・
200Lも有れば「島だなこりゃ!」と言って、ダンス見せようか?とおどけて笑わせてくれます。
ただし、「ダサイ、遅い、面白くない」とこうしたドンくさいボードに乗ろうともしませんが。
まあ、これも小容量のボードに乗れる技術があるからこそ言えることでして・・・・(^^;)
そんな娘との練習だったのですが、容赦ない自然は思いっきり私を翻弄してくれました。
さんざん落ちて、疲れて、うんざりした私は浜へ上がって、半分ふてくされながら娘のジャイブを見ていましたが、
バシャン、バシャンと落ちる私とは対照的に、微風と波の中を安定した綺麗なジャイブをしていきます。
私とどこが違うのか・・・・ (--;) ウムム・・
微風時のジャイブ技術は、その者のウインド技術その物の尺度をはかるものさしでもあります。
ということは、明らかに私は敗北しているわけです。
私があと先行しているのは、ウオータースタート成功率のわずかな差、そしてレイルジャイブに少しだけ早く取り組んだということだけとなります。
基本技術が私より遥かに優れている娘が本気で取り組めば、わずかな優位も瞬時に抜かれる事は間違いありません。
負けるのはうれしく、でもとても悔しい。
不思議な親心でした。
でも、これを書いている事って、明らかに自慢だよなー・・・・
でも親心ってそうしたものなんだよなー・・・・
不快を思えた方は、大きな心で許してくださいね。 よろしく!
今日お見舞いに行ってきました。
心筋梗塞という事で心配したのですが、本人はいたって元気。
というか、全身が痛むわけではなく、手足がまひしているわけでもない。
でも生命の危機でもあった、そういったものなのですね。
全身を流れる血液と、それを通す管である血管。
それがたった一つの血栓にふさがれ起きる、小さいけどとても大きな問題。
全く運動をしていなかったわけでもなく、かといって太ってはいるけど
肥満といえる程でもないし。
タバコも少しお酒もほとんど飲まない。
でも起きてしまう身体現象。
自分もコレステロール値に気をつけていますが、それって何なのだろう?
そう思ってしまいます。
いくら健康に気をつけていても、明日には交通事故にあうかもしれない。
ウインドで体や頭を強打し、動けずに溺死するかもしれない。
癌や白血病に冒されるかもしれない。
そう考えると、人は常にかもしれないという漠然とした時間と可能性の中を生きているわけで、そうであるなら今ある時間を無駄にすべきではない。
当たりまえのようでいて、必要かつ大切な事を再認識させられた一日でした。
天気はよけれどひよひよの三浦、プレーニングは出来ずに娘は「何で風が吹かないの?」 と呆れ顔。
予報では8mという話だったのですが・・・・・
自然現象だけはどうにもならんというわけで、夕方近くになって道具を撤収していたときのことです、家内の携帯に着信履歴がありまして。
折り返し連絡をしたところ、親戚が心筋梗塞で入院したとの内容でした。
それを聞いた私は驚くと共にショックを受けまして。
命に別状はないとのことでとりあえず安心、しかしこの先の家族全員を含んだ
健康管理が大変になるだろうなと、その方の気持ちを心配してまた気持ちがダウン。
3人の可愛い娘さんのいるのですから、ぜひ健康になってもらいたいと心から願います。
健康は失って初めて其の大切さがわかります、けしてお金では買う事の出来ない尊いもので、また素晴しい人生の基礎は全てそこに有るわけです。
私は若い頃スポーツ嫌いでした、なんで息を切らして走り、何で面白くもないボールを追いかけて、死ぬほど乾いても飲む事を許されない水。
汗だくの体とベタベタした肌、泥と土で汚れたシャツ。
まとめると、体から匂ってくるようなあの気持ちのわるい感覚(多分私だけが持ちうる感覚なのだと思います)がどうしても馴染めないのですね。
しかも対した能力差の無い1年や2年上の先輩とやらに偉そうにされ、少しでもこちらが上だと思われれば、今度はとたんに嫌がらせのまとになる。
当時は何が面白くて、何が楽しいのかという理解がまったく私にはなかったわけです。
その反動でしょうか、なぜか年を取るほど運動がしたくなり、朝2.5kmの軽いジョギングと筋トレ、車は使わずバイクでの通勤、冬はスキー、そして夏はウインドサーフィンをやります。
街中ではけしてエスカレータを使わず、横の階段を走りあがっています。
でも最近気がついたのですが、やっぱり汗にまみれないスポーツを選択しているという事。
ジョギングと筋トレの後はすぐにシャワー、スキーは汗と泥にまみれず、ウインドは潮が体を清らかに洗い流してくれます。
やっぱり自分はそういった人間なんだなと、今更ながらに思うわけでもあります。
それより、見舞いに行かねばなりません、調整をつけて出来る限り早く行くつもりでいます。
部活を正式に辞めた娘。
現在娘のクラスで部活に属していない子はうちの娘一人だけです。
今日は土曜日ですから、ほとんどの子は学校の部活へ行ってます。
ウインドを選択し、それにより多勢と恭順する事を拒んだ娘ですが、
その姿を見ていると、上の子の時を思い出します。
部活全入制(強制)それに逆らい、全校生徒と校長先生を頭とする大半の先生を敵に回して頑張り続けた息子。
やがて同じ行動を取り始めた生徒が多数出てきた事により1年半後に崩壊した全入制。
うちの家族に通ずる一つの流れのようなものを娘からもヒシヒシと感じます。
友達から離れて単身になる不安を恐れて流される事は簡単です、さらには多くの友達が知らず、また理解し得ないもの(ウインド)を冷やかしや中傷を乗り越えてやり続けることはこの年齢では容易ではないはずなのですが・・・・。
とうのはこのくらいの年齢では、多数と異なる事は悪い事という考えがまだ抜け得ないからなのですね。
人と違う事はいけないことで、間違いな訳です。
第二次反抗期を越えると逆に人と異なる事が評価となります。
その微妙なさなかに中学時代はあるわけです。
そんな娘が10時頃に出かけてから夕方5時まで帰ってきませんでした。
どこへ行ったのかと心配していたところ、「ただいま!」と笑顔の帰宅。
「昼も食べずにどこへ・・・?」と聞いたところ。
図書館で化学や歴史の本を片っ端から読みあさっていたそうです。
「化学って楽しい、生物は面白い、歴史をもっと知りたい」そう笑顔で今日得た知識を話す話す娘。
その瞳の奥を見ながら、ほかに別の気持ちはないだろうか?
と私は読み取っていきます
未来、希望、信念、それに必要な我慢、忍耐、努力を出来るだけ育てるべく努力してきたわたし。
「その結果の大勢は割りと早く来るかもしれない・・・」そういった希望と
不安の入り混じる不思議な気持ちの一日でした。
やっと新しいセイルを一つ手に入れられそうです。
今まで使ってきたセイル(GTX8.0)の替わりになる物です。
今から3年前に2000年モデルを中古で手に入れ、その時点でかなり程度は悪かったのですが。
初心者はセイルが何時壊れても平気でいられないと、練習する気が起きません。
3年近く使用し、パネルの破けを何度も修理、バテンは折れ、カムはぶっ壊れ、透明パネルは白いパネルになっていました。
それでもなんとか使えないものかと今年の木崎湖で上級者にどんなものか聞いたところ。
「寿命です」との言葉。 L(― ―;)ガーン
その言葉にやっと新しい物へ変更する決心がつきました。
そんでもって適度にボロで安くて、でも長く使える物は(そりゃ全く無理だべ(^^))?と探していたところ、行きつけの店に同じGTXの7.5がありました。
即見に行けば程度が分かってよいのですが、3時間という時間を考えると二の足。
今週末は雨だし?・・・・、週末が分からないので売れてしまっても仕方なしと思っていたところ。
デジカメの写真を何故か店に来ている女の子達が写っている写真と混ぜて(ミス?それとも意図的か?)送信してきました。
「おぬしも悪よの~!」なんて苦笑しつつも、
間違いで写真を送付しているので一応連絡しておかねばなりません、そんで即連絡。
話をしつつセイルの写真をみると(女の子ではありません)値段の割りに程度がいい。
そんでもって思わず購入となりました。
やっとセイルがそろった感じです、現在
5.0(この風域が当時恐ろしくて使っていなかったのを復活)
5.8(この間中古格安で購入)
6.0(臨終間近ですが棄てられない、私が一番初めに購入した
思い出のセイルですが、乗るたびにどこかに穴が開いてくれます。
そんでもってだんだんと補修で厚さが増す不思議なセイル君です。
6.5(家内との共用、年式古いが程度上)
7.5(今回)
8.0(死亡宣告済) といった感じで。
あとは息子の8.5を貸してもらえますので(多分)、
私が乗るであろう全風域が一応そろった感じです。
ただセイルは消耗部品ですから、次々にこわれます。
レイルジャブが出来るようになったのを境にして、程度のよい中古へ徐々に
変更しておこうかと思っています。
なぜか忙しい、仕事の面でもそうですが、それ以外の私的な事で忙しい。
久々に心理的に追い込まれる事もありました。
え? 掲示板のことでは?って 、 違います。
自分の能力の限界というか、そうしたものを感じる事があったのですね。
とりあえず今日は書きません、でもいずれ話せると思います。
なかなか難しい・・・・・・
仕事で使用する事のある軽トラックのタイヤがパンク。
でもだれも触らない・・・・
そんでもって今日はタイヤ屋のあんちゃんへ変身。
タイヤをはずして、コンプレッサーをつかってエアを充填、石鹸水をぬったブラシで満遍なく調べていくと有りました。
これじゃー・・・・・という程に小さな穴。
そんでもって工具をつかってタイヤ接着剤とプラグでガシガシと修理。
あまったゴムをカッターで切り離して修理完了。
タイヤを取り付けて 「一丁あがり! ざまーみやがれ」って作業も完了。
しかし、こうした地道な作業。
誰も褒めてくれるわけでも感謝してくれるわけでも無いんだよねー・・・
というか若い衆は何でも私が直してくれるとおもっているわけで、またそれが始終あるせいか普通になってしまっている。
まあ、可愛い子供たち(若い衆)の為ならという感じかな。