以前書いた事がありますが、家の娘には個室を与えていません。
理由は至極簡単、反抗期に親から逃げられる場所を家の中に作り出さないためです。
反抗期はけして避けて通れないものですが、これが結構やっかいでして、普通だと「お父さんお母さんは私の話なんか聞いてくれない!」と部屋に入ったきり出てこない等という事は珍しいものではありません。
しかしこの「聞いてくれない」という言葉、実のところ単に自分の要求だけを一方的に伝え、「思うとおりになってくれなかった」という程度の意味でしかない訳ですが、これが反抗期の前半。
聞くも何も話しそのものがまったく成り立たないわけですから、まさに“お話にならない”
実は上の子でこの失敗を経験した僕と家内は、有る程度のレベルに達するまで娘に部屋を与えないことで一切の逃げ場を無くし、どんなに嫌でも親の顔を見ねばならないし、逃げられない様にしているわけです。
ただ、そんな娘も最近は反抗内容に大きな変化が見られるようになり、初めのような思いつき的単純反抗から、きちんとそれなりの筋を通した展開をしてくるようになってきましたので(女の子は早いですね)、もうじき基礎的な人間性が固まり始めるなと感じ入ります。
反抗期の初めに部屋を設けないというのは非常に大きな意味があり、このヒントは僕が教育研究をさせてもらっている施設長さんから頂いた話をもとにしています。
なぜこうした方法を取るか?というなら、その最大の目的は可愛い子になってもらいたいという思いがある。
「は~?」 (― ―;) っと思われた方も多いかと思います。
「可愛い子にするってどういうこと?」(-◇―)
「意味分からない?」(――)
と疑問を持たれる方も多いかと思いますが、これが完璧に関連しているのですね。
それにはまず可愛いという言葉のもつ本当の意味を知らねばなりませんが、ほとんど容姿の事ばっかりに使われているこの可愛いは、“いつでも、どのようなところで、どんな人にも愛されることが 出来る ”というのが本当ので。
すなわち可(なしえる)という最初の言葉が後ろの愛という漢字の意味にかかって0きて、なおかつそれを牽引もしているわけです。
普通可愛いといえば容姿、ところが容姿はあくまでも容姿でしかなく、けしてそれ以上になるものではありません。
しかしながら”女の子”としての人間性である“可”は、向上させる事が可能なものであって、そのためには親とのあいだで出来る限り多くの時間を持ち、多くの喜怒哀楽を通して鍛錬を積ませねばならないわけです。
特に悲しみと怒りは対処方法や乗り越えるノウハウ、処理の仕方いかんで将来もつ家庭を崩壊もさせますし良いものにもする。
最大のピンチを最高のチャンスに出来るか等もその人間性がすべて支配するわけで、そのためには一時的に湧き上がる感情の先にあるものをどうするかということの基礎を育てねばならない。
この難しい難題をクリアするための基礎を創りあげるためには、まず家の中に逃げ場があってはならないわけです。
なぜなら逃げ場が有ることは、そこに逃げ込むことで心の戦いから解放される事を意味し、それは心の成長が停止するか遅くなるという最大の問題点を生み出してしまう。
いやでも向かい合わざるを得ない環境(それでも親だから暖かい)こそが人としての心の成長を促す最大の糧であり、それが分かっている以上、不要な時期に部屋など与えはしないわけです。
女の子にとっての最大の幸せは、愛する伴侶にいつまでも愛され続けられる”可?”に有り、それはまた誰にもいつでもどのような処でも愛されることが出来る“可?”でもあり、幸せがそれとダイレクトに結びついている限りは両方とも可である女性にならなくてはいけない。
この漢字に込められている本来の意味どおりに、多くの人にどれだけ愛されるかということが女の子として生まれた尺度そのものであるという絶対事実は、“可愛”いという漢字を創造し、それがこの国の歴史と伝統と供にここまで残ってきた以上、けして消し去れない物であることは明白。
それゆえに本来の可愛いという言葉の持つ意味に則す子にせねばならないわけです。
愛される事は、まずきちんとした自分という人間を持ち、女性としての立ち振る舞い、そして気遣いが出来ることから始まるわけで、
一例をあげるなら、職場でわけのわからない男女平等を訴え不平不満愚を痴るくせに、やらねばならない事すらが満足に出来ない幼稚さ。
容姿を整える為の多大な努力と精力を注げど、リンゴの皮を包丁で立て剥きするようなみっともなさ。
わが身を知らず平然と伴侶をけなし、店屋物コロッケ弁当よろしく自分は子供とレストランで食事する愚かさ。
いつまでも自己中心的なお客様姿勢を変えられず、伴侶の親から毛嫌いされる精神的未熟さ。
こんな事では毎日のあらゆるところが幸せを自分で破壊収縮させる事そのものであり、それをもっていくら容姿が良くても可愛い等とはいわないのですね。
くだらない男女同権論やフェミニズム等とはまったく無縁の我が家はもちろん男女不平等で男尊女卑。
歴史の好きな私は“武士の娘のようであれ”を目標に育てています。
「あ!」 \(^^)/
勘違いしないでもらいたいのは、こうした事を目標に娘を育てているということで、そのまま親の思うとおりに育ってくれる等と一切思ってません。
なぜなら?ですが、それはとても簡単、我が子とて一人の人間だからなのですね。
あくまでも親の目指すところとして、ということです。
さて、なんか話がだいぶずれてしまいましたが、そろそろ期末テストが近いのでテスト勉強している娘。
僕はその横で平然とテレビもつけますし音楽も聴く、下手するとゲームなんかしますし、一切気等を使いません。
理由は簡単、それに気を取られて「勉強出来ない!」なんて言いだす様なら、それは勉強を初めからやらない口実を探して歩いているだけであり、やっている演技をして実質やってなどいないからですね。
そんなお構いなしのなかでいつもと同じように鉛筆を握る娘ですが、トラブルが起きたのは家内が帰宅してきた後、家内のおしゃべりはいつもの日課ですが、今日に限ってなぜか声が大きく、さすがに一度「もう少し静かにして」と家内に言っていた娘ですが、
相変わらずにぎやかに続く家内の話、しばらくしていきなり立ち上がった娘は二階へ・・・・。
家内は平然としてますが、さすがに僕は「およよ・・・・」。
やがて来た夕飯の時間、やっと2階から降りてきた娘ですが、ふてくされて寝ていたのかとおもったら、その辺にあるものを寄せ集めてインスタントテーブルをつくり暖房が全く無い中で勉強していたのですね。
「不貞腐れてたんじゃないのか?」と娘に聞くと、「腹の立つのと勉強は別です」と一言。
(ーー;)あっ そうですか・・・・
それを聞いてそろそろ部屋を設けてあげねばならないと感じはじめた情けない父親でもある自分でした。
(^^)
理由は至極簡単、反抗期に親から逃げられる場所を家の中に作り出さないためです。
反抗期はけして避けて通れないものですが、これが結構やっかいでして、普通だと「お父さんお母さんは私の話なんか聞いてくれない!」と部屋に入ったきり出てこない等という事は珍しいものではありません。
しかしこの「聞いてくれない」という言葉、実のところ単に自分の要求だけを一方的に伝え、「思うとおりになってくれなかった」という程度の意味でしかない訳ですが、これが反抗期の前半。
聞くも何も話しそのものがまったく成り立たないわけですから、まさに“お話にならない”
実は上の子でこの失敗を経験した僕と家内は、有る程度のレベルに達するまで娘に部屋を与えないことで一切の逃げ場を無くし、どんなに嫌でも親の顔を見ねばならないし、逃げられない様にしているわけです。
ただ、そんな娘も最近は反抗内容に大きな変化が見られるようになり、初めのような思いつき的単純反抗から、きちんとそれなりの筋を通した展開をしてくるようになってきましたので(女の子は早いですね)、もうじき基礎的な人間性が固まり始めるなと感じ入ります。
反抗期の初めに部屋を設けないというのは非常に大きな意味があり、このヒントは僕が教育研究をさせてもらっている施設長さんから頂いた話をもとにしています。
なぜこうした方法を取るか?というなら、その最大の目的は可愛い子になってもらいたいという思いがある。
「は~?」 (― ―;) っと思われた方も多いかと思います。
「可愛い子にするってどういうこと?」(-◇―)
「意味分からない?」(――)
と疑問を持たれる方も多いかと思いますが、これが完璧に関連しているのですね。
それにはまず可愛いという言葉のもつ本当の意味を知らねばなりませんが、ほとんど容姿の事ばっかりに使われているこの可愛いは、“いつでも、どのようなところで、どんな人にも愛されることが 出来る ”というのが本当ので。
すなわち可(なしえる)という最初の言葉が後ろの愛という漢字の意味にかかって0きて、なおかつそれを牽引もしているわけです。
普通可愛いといえば容姿、ところが容姿はあくまでも容姿でしかなく、けしてそれ以上になるものではありません。
しかしながら”女の子”としての人間性である“可”は、向上させる事が可能なものであって、そのためには親とのあいだで出来る限り多くの時間を持ち、多くの喜怒哀楽を通して鍛錬を積ませねばならないわけです。
特に悲しみと怒りは対処方法や乗り越えるノウハウ、処理の仕方いかんで将来もつ家庭を崩壊もさせますし良いものにもする。
最大のピンチを最高のチャンスに出来るか等もその人間性がすべて支配するわけで、そのためには一時的に湧き上がる感情の先にあるものをどうするかということの基礎を育てねばならない。
この難しい難題をクリアするための基礎を創りあげるためには、まず家の中に逃げ場があってはならないわけです。
なぜなら逃げ場が有ることは、そこに逃げ込むことで心の戦いから解放される事を意味し、それは心の成長が停止するか遅くなるという最大の問題点を生み出してしまう。
いやでも向かい合わざるを得ない環境(それでも親だから暖かい)こそが人としての心の成長を促す最大の糧であり、それが分かっている以上、不要な時期に部屋など与えはしないわけです。
女の子にとっての最大の幸せは、愛する伴侶にいつまでも愛され続けられる”可?”に有り、それはまた誰にもいつでもどのような処でも愛されることが出来る“可?”でもあり、幸せがそれとダイレクトに結びついている限りは両方とも可である女性にならなくてはいけない。
この漢字に込められている本来の意味どおりに、多くの人にどれだけ愛されるかということが女の子として生まれた尺度そのものであるという絶対事実は、“可愛”いという漢字を創造し、それがこの国の歴史と伝統と供にここまで残ってきた以上、けして消し去れない物であることは明白。
それゆえに本来の可愛いという言葉の持つ意味に則す子にせねばならないわけです。
愛される事は、まずきちんとした自分という人間を持ち、女性としての立ち振る舞い、そして気遣いが出来ることから始まるわけで、
一例をあげるなら、職場でわけのわからない男女平等を訴え不平不満愚を痴るくせに、やらねばならない事すらが満足に出来ない幼稚さ。
容姿を整える為の多大な努力と精力を注げど、リンゴの皮を包丁で立て剥きするようなみっともなさ。
わが身を知らず平然と伴侶をけなし、店屋物コロッケ弁当よろしく自分は子供とレストランで食事する愚かさ。
いつまでも自己中心的なお客様姿勢を変えられず、伴侶の親から毛嫌いされる精神的未熟さ。
こんな事では毎日のあらゆるところが幸せを自分で破壊収縮させる事そのものであり、それをもっていくら容姿が良くても可愛い等とはいわないのですね。
くだらない男女同権論やフェミニズム等とはまったく無縁の我が家はもちろん男女不平等で男尊女卑。
歴史の好きな私は“武士の娘のようであれ”を目標に育てています。
「あ!」 \(^^)/
勘違いしないでもらいたいのは、こうした事を目標に娘を育てているということで、そのまま親の思うとおりに育ってくれる等と一切思ってません。
なぜなら?ですが、それはとても簡単、我が子とて一人の人間だからなのですね。
あくまでも親の目指すところとして、ということです。
さて、なんか話がだいぶずれてしまいましたが、そろそろ期末テストが近いのでテスト勉強している娘。
僕はその横で平然とテレビもつけますし音楽も聴く、下手するとゲームなんかしますし、一切気等を使いません。
理由は簡単、それに気を取られて「勉強出来ない!」なんて言いだす様なら、それは勉強を初めからやらない口実を探して歩いているだけであり、やっている演技をして実質やってなどいないからですね。
そんなお構いなしのなかでいつもと同じように鉛筆を握る娘ですが、トラブルが起きたのは家内が帰宅してきた後、家内のおしゃべりはいつもの日課ですが、今日に限ってなぜか声が大きく、さすがに一度「もう少し静かにして」と家内に言っていた娘ですが、
相変わらずにぎやかに続く家内の話、しばらくしていきなり立ち上がった娘は二階へ・・・・。
家内は平然としてますが、さすがに僕は「およよ・・・・」。
やがて来た夕飯の時間、やっと2階から降りてきた娘ですが、ふてくされて寝ていたのかとおもったら、その辺にあるものを寄せ集めてインスタントテーブルをつくり暖房が全く無い中で勉強していたのですね。
「不貞腐れてたんじゃないのか?」と娘に聞くと、「腹の立つのと勉強は別です」と一言。
(ーー;)あっ そうですか・・・・
それを聞いてそろそろ部屋を設けてあげねばならないと感じはじめた情けない父親でもある自分でした。
(^^)