帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

娘の部屋?

2009年02月28日 | Weblog
以前書いた事がありますが、家の娘には個室を与えていません。

理由は至極簡単、反抗期に親から逃げられる場所を家の中に作り出さないためです。

反抗期はけして避けて通れないものですが、これが結構やっかいでして、普通だと「お父さんお母さんは私の話なんか聞いてくれない!」と部屋に入ったきり出てこない等という事は珍しいものではありません。

しかしこの「聞いてくれない」という言葉、実のところ単に自分の要求だけを一方的に伝え、「思うとおりになってくれなかった」という程度の意味でしかない訳ですが、これが反抗期の前半。

聞くも何も話しそのものがまったく成り立たないわけですから、まさに“お話にならない”

実は上の子でこの失敗を経験した僕と家内は、有る程度のレベルに達するまで娘に部屋を与えないことで一切の逃げ場を無くし、どんなに嫌でも親の顔を見ねばならないし、逃げられない様にしているわけです。

ただ、そんな娘も最近は反抗内容に大きな変化が見られるようになり、初めのような思いつき的単純反抗から、きちんとそれなりの筋を通した展開をしてくるようになってきましたので(女の子は早いですね)、もうじき基礎的な人間性が固まり始めるなと感じ入ります。

反抗期の初めに部屋を設けないというのは非常に大きな意味があり、このヒントは僕が教育研究をさせてもらっている施設長さんから頂いた話をもとにしています。

なぜこうした方法を取るか?というなら、その最大の目的は可愛い子になってもらいたいという思いがある。

「は~?」 (― ―;) っと思われた方も多いかと思います。

「可愛い子にするってどういうこと?」(-◇―)

「意味分からない?」(――)

と疑問を持たれる方も多いかと思いますが、これが完璧に関連しているのですね。

それにはまず可愛いという言葉のもつ本当の意味を知らねばなりませんが、ほとんど容姿の事ばっかりに使われているこの可愛いは、“いつでも、どのようなところで、どんな人にも愛されることが 出来る ”というのが本当ので。

すなわち可(なしえる)という最初の言葉が後ろの愛という漢字の意味にかかって0きて、なおかつそれを牽引もしているわけです。

普通可愛いといえば容姿、ところが容姿はあくまでも容姿でしかなく、けしてそれ以上になるものではありません。

しかしながら”女の子”としての人間性である“可”は、向上させる事が可能なものであって、そのためには親とのあいだで出来る限り多くの時間を持ち、多くの喜怒哀楽を通して鍛錬を積ませねばならないわけです。

特に悲しみと怒りは対処方法や乗り越えるノウハウ、処理の仕方いかんで将来もつ家庭を崩壊もさせますし良いものにもする。

最大のピンチを最高のチャンスに出来るか等もその人間性がすべて支配するわけで、そのためには一時的に湧き上がる感情の先にあるものをどうするかということの基礎を育てねばならない。

この難しい難題をクリアするための基礎を創りあげるためには、まず家の中に逃げ場があってはならないわけです。

なぜなら逃げ場が有ることは、そこに逃げ込むことで心の戦いから解放される事を意味し、それは心の成長が停止するか遅くなるという最大の問題点を生み出してしまう。

いやでも向かい合わざるを得ない環境(それでも親だから暖かい)こそが人としての心の成長を促す最大の糧であり、それが分かっている以上、不要な時期に部屋など与えはしないわけです。

女の子にとっての最大の幸せは、愛する伴侶にいつまでも愛され続けられる”可?”に有り、それはまた誰にもいつでもどのような処でも愛されることが出来る“可?”でもあり、幸せがそれとダイレクトに結びついている限りは両方とも可である女性にならなくてはいけない。

この漢字に込められている本来の意味どおりに、多くの人にどれだけ愛されるかということが女の子として生まれた尺度そのものであるという絶対事実は、“可愛”いという漢字を創造し、それがこの国の歴史と伝統と供にここまで残ってきた以上、けして消し去れない物であることは明白。

それゆえに本来の可愛いという言葉の持つ意味に則す子にせねばならないわけです。

愛される事は、まずきちんとした自分という人間を持ち、女性としての立ち振る舞い、そして気遣いが出来ることから始まるわけで、

一例をあげるなら、職場でわけのわからない男女平等を訴え不平不満愚を痴るくせに、やらねばならない事すらが満足に出来ない幼稚さ。

容姿を整える為の多大な努力と精力を注げど、リンゴの皮を包丁で立て剥きするようなみっともなさ。

わが身を知らず平然と伴侶をけなし、店屋物コロッケ弁当よろしく自分は子供とレストランで食事する愚かさ。

いつまでも自己中心的なお客様姿勢を変えられず、伴侶の親から毛嫌いされる精神的未熟さ。

こんな事では毎日のあらゆるところが幸せを自分で破壊収縮させる事そのものであり、それをもっていくら容姿が良くても可愛い等とはいわないのですね。

くだらない男女同権論やフェミニズム等とはまったく無縁の我が家はもちろん男女不平等で男尊女卑。

歴史の好きな私は“武士の娘のようであれ”を目標に育てています。

「あ!」 \(^^)/

勘違いしないでもらいたいのは、こうした事を目標に娘を育てているということで、そのまま親の思うとおりに育ってくれる等と一切思ってません。

なぜなら?ですが、それはとても簡単、我が子とて一人の人間だからなのですね。
あくまでも親の目指すところとして、ということです。

さて、なんか話がだいぶずれてしまいましたが、そろそろ期末テストが近いのでテスト勉強している娘。

僕はその横で平然とテレビもつけますし音楽も聴く、下手するとゲームなんかしますし、一切気等を使いません。

理由は簡単、それに気を取られて「勉強出来ない!」なんて言いだす様なら、それは勉強を初めからやらない口実を探して歩いているだけであり、やっている演技をして実質やってなどいないからですね。

そんなお構いなしのなかでいつもと同じように鉛筆を握る娘ですが、トラブルが起きたのは家内が帰宅してきた後、家内のおしゃべりはいつもの日課ですが、今日に限ってなぜか声が大きく、さすがに一度「もう少し静かにして」と家内に言っていた娘ですが、

相変わらずにぎやかに続く家内の話、しばらくしていきなり立ち上がった娘は二階へ・・・・。

家内は平然としてますが、さすがに僕は「およよ・・・・」。

やがて来た夕飯の時間、やっと2階から降りてきた娘ですが、ふてくされて寝ていたのかとおもったら、その辺にあるものを寄せ集めてインスタントテーブルをつくり暖房が全く無い中で勉強していたのですね。

「不貞腐れてたんじゃないのか?」と娘に聞くと、「腹の立つのと勉強は別です」と一言。

(ーー;)あっ そうですか・・・・

それを聞いてそろそろ部屋を設けてあげねばならないと感じはじめた情けない父親でもある自分でした。

(^^)

親としてどう考えるか

2009年02月27日 | 研究-教育・育児
数日前に息子が彼女を連れてきた事を書きましたが、今日はそれに絡んだ僕の考えを一部分書いてみたいと思います。

「あ!」\(^^;)/

“それに関して”と記しましたが、これから書く事はその娘さんの評価とは一切無関係であることを先に宣言しておきますので誤解なきようにお願いします。


家には娘がいます、将来彼氏を家に連れてくる事は当然あるでしょう。

息子はすでに大人ですから、将来ではなくてすでに現実のものとしてあります。

よく、息子が連れてきた彼女がどうだとか、娘の彼氏がこうだとか、そうした親の視点からクドクドとした不平不満話を聞く事はよく有ります。

それなら「僕にもそういったところが有るだろうか?」 と自問するなら、正直なところ空っぽな箱の様でもあり、何にも考えてないというか・・・

それじゃ同じ屋根の下で長年連れ添って来た家内はどうなのか? となるわけですが、当然に女ですから色々と細かいはずなのですが、どうも似たようなものらしく、もっとも僕と結婚するくらいですからそうでしょうね~ 

(^^) 「うんうん!」

次に、こうした自分をどう評価するか?ということですが、良く言えば一人の人間として“己の身のほどをわきまえている(本当か~?)ということで、悪く言えば打算的という事でしょうか?

なぜ空っぽな箱なのかというなら、どんな娘であったとしても人生を伴に歩んでいくのはあくまでも息子。

その可能性のある娘さんに対して“親の目線から見てしのご言う事”は、単に“親の我侭を具体化した”だけの事でしかなく、恥ずべき事と考えます。

その考え方の根本にあるのは、もし一般的常識から見て例え“駄目”といわれる娘であったとしても、それは自分たち親がそうした娘を選ぶ“息子を育てた”という事実が結晶化したという事でしかなく、そうであるなら親として息子を愛する(男としてこの表現はとても嫌なのですが、ほかに当てはまる言葉がないので書いています)様にその息子が選んだ娘も同様の愛情で接していくということに他なりません。

注意:他人の子は自分の子とポジションの違いから来る視点が明確に存在しますので、ここに書いている事は一切あてはまりません。

と、こう書けば常識の無い人間と世間様から批判されることもあるわけですが、元々“世間体を気にする”という一切自分の利益にならない行為になんら価値を見出さない僕にとっては、こうしたものは一切無関係な話でもあるし、
何より僕自身が若い頃から今に至るまで“どこぞに転がっている馬の骨”そのままですし人の事を言えた義理じゃないと言うことです。 (^^)

たしかに普通の親として 服装はどうか? から始まり、化粧やマニキュアは派手ではないか? 箸がきちんと持てるか? 脱いだ靴をきちんとそろえているか? 等々、そうしたところを見ていないわけではありません。

ただ、我が子でさえいくらでも目に入る部分は出てきますし、それに関して普通の感情は湧くものの、それは極自然な事ですし又それを否定などしません。
ましてや格好付けて自然な感情を捻じ曲げる気等さらさら無い。

そもそも不完全だらけの自分が我が子の相手だけに完璧を求めるのはおかしな話で、もしそうなら欠陥だらけの自分をまず完全にせねばならないわけですが、

「そんなことできるはずが無いだべよ!」(― ―“)  

「出来るならとっくにやっているよね~」(―◇―)/ 

(^^;)はは


親にとっての都合で相応しいとかそうでないとか、果ては人間性がどうとか論じるのは、多分に視点のずれた話としか思わないのですね。

そこにはわずかな時間しか接しない親より、直接触れている息子の方が遥かに色々分かっているし、どうしても駄目なら自然に壊れるでしょうし、そうでないなら続いて行く事になります。

親としてあくまでも表面的部分を基にして何がしかを語るは、我が子に対する不信と寸分たがわぬイクオールですから、我が子を信頼していればそうした気持ちなど生まれるはずも無いというのが考えの基本に有ります。

息子が信頼する娘なら親も信頼するということ 

(^^)「お~かっこよく聞こえる」


自分自身の若い頃をふりかえるなら、反抗的な服装、髪型、知性のかけらなんか無い言葉使い、変な格好で単車乗まわし、おまけに常識知らずだったし・・・

そうした己の過去を振り返ってみるなら高学歴で、お堅い仕事についていて、表っ面が良ければ、どんな親とて僕なんぞよりそちらのほうが遥かに良く見えるものです。

突き詰めれば親という自分のそのものをまずは厳しく見ねばならず、その延長として我が子に対する信頼というものを親としてどう捉えていくか?という事そのものが試される事ではないか?何て思うのですが・・・

空っぽな箱なのは、その中に入るべきものが娘さんの評価ではなくて、あくまでも夫婦となって二人で創り上げていく未来の姿が入っていく余地のみが存在するにだけに留まり、それは誰しもが出来る結婚で完結して終わるのではなく、結婚してから二人がどういった人生を歩んでいくかという、二人の子供が織り成す夫婦としての成長が入るだけに留まるものだからなのですね。

20歳を過ぎれば子は子の様で有ってそうで無くなり、一つの独立した存在となりますから、我が子が人生を生きていくに重要な事に際し、親の出る幕は一切無いという事です。

人と人の関係は身のほどをわきまえねば何でも不満となり、己をよく知れば多々感謝となるものです。

もし親が何かいえるとするなら、それはあくまでも助言を求められた場合とその範囲内に限り、要求されてもいない親の我侭を源とする意見等、一切思うことも言ってもならないと思ってます。

人間という生き物は実に柔軟な生き物で、自分の意思と気持ちがあれば、駄目な部分は修正でき、誤りは正すことができます。

全ての人は欠陥だらけのデコボコであり、そのデコボコの人間同士がかみあう事で強い核(一枚岩)になり家族はそれを中心にして構成される。

夫婦とはそうしたものではないか、家族とはそうしたものではないか、そう思いつつここまでやってきた、それが僕の生き方でもあり考え方でもあるわけですね。

(^^)



騙された日本

2009年02月26日 | Weblog
僕は以前から人間が排出するCO2が原因で温暖化しているという地球温暖化説に強い疑問をいだいています。

温暖化は確かにしていますが、それは地球が繰り返してきた温暖化と寒冷化サイクルの波に乗っているだけに過ぎないと明確に考えています。

以下のホームページはその根拠の一部となるものですがどう思われますでしょうか?


http://env01.cool.ne.jp/open/open01/co2_01.htm

いい加減イラっとする言葉 「傷つく」

2009年02月24日 | Weblog
「いい加減にしてもらいらたいものだこの言葉!」

テレビを見ても、本を読んでも、ラジオを聴いても、ネットサーフィンしていても、とにかく目に入る耳に入るあらゆる情報のなかで一日何度この言葉が耳にはいるだろうか?

いつからこの「傷つく」という言葉の意味が軽くなったのだろうかと考えるも、
とにかくこの言葉のオンパレード。

それが何でもかんでも糞味噌一緒で、よけい腹立たしく感じられるわけですが、
何が問題なのかというなら、「この程度の事でなんで心が傷つくんだ?」というような些細な事に多用される事。

こんなことは生きていれば当たり前のように遭遇し、当たり前のように乗り越えて行かねばならない事にまで女々しく、かつ大げさに「傷つく」という言葉を使う。

異常教育を押し付けたどこぞの人権団体とそれを平然と実行した鳥取県の学級委員長のことや、徒競走なんか良い例だけど、ほかにも親に叱られたら傷つく、先生に叱られたから傷ついた、友達と喧嘩したから傷ついた、家庭科の料理で食材忘れて友達から文句言われて傷ついた、可愛がっていた子犬が知らない間に病気で死んだから傷ついた、ちょっとした事で疑われたから傷ついた、万引きして捕まり叱られて傷ついた、兄弟げんかして上の子が負けて傷ついた、新聞のコラムをよんで傷ついた、机の日記を親に読まれたから傷ついた、自分のミスじゃないのに上司に叱られて傷ついた、バレンタインのチョコ受け取ってもらえず傷ついた、大切な縫いぐるみを捨てられて傷ついた、
傷ついた、
傷ついた、
傷ついた、
傷ついた・・・・・・


「てめえら全員 あほか~?」(ーー”)

こんなものは成長の為に必要な”単なる心のトレーニング”でしかなく、長い人生のにはいくらでも存在するもので、悲劇の主人公よろしく「自分は可愛そうでしょ?」と”傷ついた”という言葉を武器に相手へ要求するもんじゃない。

いやな思い、つらい思い、悔しい思い、それ全ては自分の人間性を磨く事につながるもので、傷つくのではなく“徳を積む”ということだ。

心はトレーニング可能なものであり、いかなる事でも前向きな姿勢と物事をきちんととらえようとそる心がある限り自分を成長させてくれる糧になる

傷つくという言葉は、あくまでも受身であり、我儘でもあり、自分は何もしていないのに一方的に負わされたという意味合いが強く、こんなくだらない言葉を振り回して回りに同情を求めるのはいい加減にしてもらいたいものだ。

バカ野郎! (ーー)怒

あったかいぜ!

2009年02月23日 | バイク
今日の朝はぽつぽつと降る、いわゆる春雨。 

こんな温かな朝に濡れながらバイクで走ると心がなんともいえない感覚で満たされていきます。

冬から春への変わり目にある、独特の条件が重なったときだけに起こる一年に一度有るか無いかの不思議な時間。

寒さを感じない空気に溶け込みたくなる誘惑に駆られた躰が脳内で作り出す麻薬みたいなものか? 何て思うものの、濡れた路面に輝く対向車のヘッドライトはこの独特の感覚と重なってうっとりするほど綺麗。

でもすれ違いざま幻惑によって引き起こされる瞬間的恐怖と、数秒後に目が慣れた後に訪れる孤独感みたいなものが不定期に繰り返され、こうした感覚的なものをくれるらしい。

体の隅々までいきわたる血管は開放されて脈は緩やかに打とうとするのだけど、瞬間的緊張が血を駆けめぐらせようと試み、でも慣性の法則がそれを許さない。

そんな感じでしょうかね。

わずかでも気温が低かったり高かったり、わずかでも雨の量が多かったり少なかったり、
車の量が多かったり少なかったり、ほんのわずかな差が違いを生み出すわけだけど。

こうした不思議な感覚があるからバイクを降りられないのかもしれない。

嬉しい一日

2009年02月22日 | Weblog
すでに大人である息子の事は出来るだけ書かないようにしているのですが・・・・

親にとっては、とても嬉しい日でしたので特別に書いてます。

私みたいなダサイ男とはまったく異なるのが家内に似た息子でして、当然にいくらでも相手は見つけられるわけです。

これでだらしなければ父親として全力張り倒しなわけですが、そうしたところが一切無いのはこれまでの行動からよく知っていますし、別の意味で親孝行。

 (^^)

家に連れてきたのは容姿端麗(スリムでフアッションモデルみたいにとても可愛い娘)で明るくて礼儀正しい、派手なところの一切無いとてもいい娘です。

みんなで回転寿司にしか行けなかったけど、これからも続いてくれる事を祈る親父でした。

オイル交換

2009年02月18日 | バイク
購入してすでに4ヶ月3000kmを超えていたので、土曜日にオイル交換をしました。

ところが、そのとき入れたのは明らかにこの季節にアンマッチングな20w-50。

直に春だし「まっ!いいか」 (^^)/

くらいで入れたのはいいけれど、今朝の冷え込みでアイドリングなくなり?
結構大変な状態で出勤する羽目になりました。

職場までは約25分、水冷の1100ccは思いのほか暖まりが遅く、暖気して家を出ても、到着時にまだ水温計の針が上がら状態が常ですから、当然にクランクケース内のオイルも生暖かいままなのが手で触れると分かります。

オイルが重いのでその分がエンジン内部抵抗となってアイドリングが下がったままで、放っておくとストンとエンストする。

信号で停止するたびに多少アクセルを開けたままにしておかなければならず、これが結構面倒。

「ちょっと早かったな~」と思うのですが、換えちゃったしこのまま初夏まで頑張るべ。

(^^;)汗

バレンタイン・チョコ がごっそり

2009年02月17日 | Weblog
といっても、“もちろん”僕であるはずが無い。

なんせ子供の頃から義理チョコすら、”とても”遠い存在、いや無縁ですから 

(^^)あはは   内心は→ (ーー;)「い~んだ、い~んだ、どうせ僕なんか、イジイジ」


もらったのは娘の方で、友達や後輩からやたらとごっそりもらってきてテーブルの上に広げる始末。

はて、いつからバレンタインデーって変ったの? 何て思うのですが、女の子というものは男の子に送るより自分の好きな同性に送る事で、友情を示す?比重が高いのだろうか・・・・? 

(ーー;)ウムム

本能に絡んで多少学問的に考えるなら、恋に恋する年頃が互いに共感を持つことでなす現実的仮想補充、という事にもなるであろうが、

そうした概念というものが男には余りないことから、自分に置き換えての現実感に乏しいのが正直なところ。

さて、「一方的にもらってそのまま済まされるものでもないだろうに」と思っていたら、案の定でっかいオーブントレーで何かのお菓子をこしらえてお返しするまめな娘。

おまけに 親に隠してわざわざ持ち込み禁止の学校に隠して持って行ったりもするわけですが、家内にはしっかりバレてまして、「やべ~」何て言いながら小言聞いてましたが・・・・

(^^)

そういえば上の子もやたらと友達から誕生日会をやってもらったりするけれど、僕とは2人とも明らかに違う人種のようでして・・・・


春一番

2009年02月16日 | Weblog
と盛んにテレビで報道されていたけど、なぜか僕の住んでいる周りは一日寒かったし、何より風が無かったよな~ (――;)

僕にとって、というか皆さんもそうかもしれませんが春のイメージは風と砂埃ですよね。

そのなかでも鮮明に覚えているのは、小学校4年生のときに仮病使って学校サボり一日中家にいたときと、扁桃腺を晴らして高熱で寝込んでいたときで、いずれも曇りガラスに当たる太陽の光部屋を明るく照らし出して、布団にもぐりこみながら天井の木目模様を見つめて「何々に似ているな?」何て考えていたのですね。

登校拒否とまでいかない仮病によるサボりは過去に数回、いずれも一日もしくは二日でしたが、この曇りガラスを輝かせる太陽の光が無かったら自分はどうしていただろうか?

なんて、春になるたびに考える事があるわけです。

第二戦 またもや風なし

2009年02月15日 | ウインドサーフィン 
春一番の暖かさが残る海でしたが、残念な事にまたもやヒヨヒヨ風。
自然現象だから仕方ないのですが・・・・

「チャレンジ」という言葉を掲げてセミプロたちとの戦に挑む娘もまったり状態、

なぜか?偏頭痛を起こして車で寝込んでいる家内をおいて、二人で海を見て過ごした一日でした。

父親としての成績表

2009年02月14日 | Weblog
「娘からみた父親の成績表を書いてみようか?」なんて思ったものの、「ぶっちゃけそれって意味有るのか?」と疑問に感じたまま一週間が過ぎてしまいました。

子供のほうから親に成績をつけると問題なのかもしれませんが、親のほうから子供に聞いて”自分で自分の成績を勝手につける”のは問題無いだべ。

と変な納得をして、「多少自虐的な要素が入ってかえって面白い?」なんて思いながら、「そんじゃ」と筆を執ってみました。

ところがです、「いざ成績!」って題を掲げても、それじゃ何の成績なのか?と考え始めると一向にまとまらない。

ただこれって、当たり前の事でも有るわけでして、たとえば容姿というものをあげてみるなら「誰が?何が?基準なのか」という簡単なものすら定まらない。

そうなってくると、こういったどうでもよい事から始まってだんだん「人そのものの評価とはなんぞや?」というところまで考えが進んでしまうわけですが、
これも西洋的思想や東洋的思想等にみんな影響を受けてますし、そうしたものを越えて誰にでも共通に持ちえる基準として結局行き着くところは本能となります。

ただし本能は誰しもが持っている物で、それそのものは人のもっとも基礎をなすものですから、いうなれば2×2=4みたいに絶対不変の法則ですから、評価というものがそもそも馴染まない。

(― ―;)「これはこまった・・・・・」(汗)

次にその基本である本能を”その人がいかに上手く・正しく運用出来るかを測るのが唯一可能な方法だろうか?”なんて思うけど、
それってその人が生まれて死すまでの人生全体を通して見なくちゃならないし、


単に学校の成績のように単語、文法、公式、を元に暗記を繰り返すようなものは単なる技能でしかなく、故に評価は成り立つが(だから先生は成績をつけることができるのですね)、このように人間性にからんでくると全く評価の仕様が無い。

それでは教えている側は何を基準にして子供達を評価しているのかと考えるなら、部活動の積極性や提出物の期限が守られているとかそうでないとか、遅刻、早退するしない、クラスで騒ぐ騒がない、 不良や非行行動するしない、先生の期待通りに動いてくれるとかという事に限定されてきて、

「はて?」(― ―;) 「これって単に大人の目から見て単に望みどおりの行動をする子が良い評価を得られるのが「あたりまえじゃん!」

そういえば、自分の小学生時代って全く先生の言う事を聞かなかったし、やるなと言われるとやり、器物はよく壊す、悪ふざけでガラスは割る、火遊びしまくり、宿題忘れ多々、提出物期限は守らないし、自分勝手だったから友達少なかったし(一緒に悪さする仲間だけはいた)、おまけに弱虫で喧嘩弱!(爆笑)

さらには勉強できず特に音楽は最低最悪、鼻ほじって机の裏側に貼り付け、給食食べるのはクラスで一番早いけれど四則演算はクラストップレベルの遅さ、万引きしたし、女の子を泣かすわ、弱いものいじめするは、次から次へとetc、etc、・・・・

「ん~! 出てくる、出てくる最低&駄目のオンパレード!」 

ほれ! \(^▽^)/ ワッショイ! ワッショイ♪













(――;)うむむ・・・・ 激落ち込み中・・・・



とりあえず、成績まで行き着かないので、娘からみえる私のイメージを一つだけ紹介します。

何かと思えば青空を舞う“鷲”だそうです。

これって僕が若い頃からずっと使い続けてきたシンボルマーク(こうありたいという自分の憧れを僕はそのままシンボルにしてきました)なのですが。

「こうした何気ないところにある親の一面に影響を受けて子供は育つものなんだよよね~」 と思うわけですが、今更ながらになぜ自分が子供に寛容でいられるのかという理由が解った気もします。

(^^)えへへ




何もしなかった週末

2009年02月08日 | Weblog
結局なにもしなかった・・・・・・なんとなく風邪の直りが悪くて、夕方になるとだるくなる事、娘も同じ状態なわけですが、
ほかにもっと大きな要因が・・・・理由は簡単で単にお金がないということ (^^;)だはは
別に湯水のごとくお金が湧き出てくるわけではないので、年に何度かはこうした金欠状態というのはあります。
理由はいろいろ有れども、必要なものは必要だし、出るものは出るのだから仕方が無い。
そういえば「結婚してすぐの頃って、何故?全部があんなにシンプルだったのだろう」
なんて思うのですが、子供が出来れば成長に従い経済的負担が増えるのが当たり前と当時15年も20年も先の人生を歩いていた先輩達から言われてきた事が、いまさらながら良くわかる・・・・
ついでに「若い頃に子供を育てると後が楽だぞ」といわれて来た言葉も、「確かにそうだな」と誰もいないところで首を縦に振る事も多い。
出生率が低下し「子供をなぜ作らない?」と騒いでるけど、1人育てる経済的負担?(と考えるとそうなるが)が重いうえに、今のように終身雇用も崩れて平然と首切りするような世の中じゃ「恐ろしくてそれどころじゃない!」というのが本音だろう。
本当なら3人できれば4人子供が欲しかった僕だけど、実際は2人で、これも良かったといえばそうだし、そうでないといえばそうだし、
生きるって事は常にどこかに妥協点を探す事の繰り返しなのかとも思うのだけど、その際に“もがき廻り少しでも良くしよう”とするのが僕だけど、なんか今の20代より下を見ているとそうした“もがき”が全く伺えない印象を拭い去れないのだけど、
こうした感覚って年をくった証なのかと思うとそれに抵抗する自分がピエロみたいに感じられなくもないし(――;)うむむ

今日の写真もこの春、ついこの間撮った花です。

ピンチORチャンス?

2009年02月05日 | Weblog
このところ再びヨット熱が再来している僕ですが。

2年くらい先にクルーザーを手に入れる事を本気で考え始めています。

例のごとくまったく家内は反対しませんし、それどころか逆にこちらをあおる始末でして、これって恵まれているのか?そうでないのか分からないわけですが、

「この不景気のさなかにヨットだと~!」と皆さんから青筋立てていっせい攻撃されそうな感じで、多少びびりながらこれを書いています。

僕の20代はバブル景気の真っ盛りでしたが、バンバン高額な給料を周りがもらう中でも僕はいつも薄給&貧乏でしたので少しくらい許してね (^^;)

最悪のピンチは最大のチャンスと常に考える癖?(いやな人間ともいえます)のある僕ですが、今の景気の悪さはこれこそチャンス?と、どうしても思えてしまうのですね。

というのは当然に新艇など買える経済力なんか家に有りませんから、中古の程度が良いものを探す事になりますが、これは景気悪くなるほど手放す人が増え、程度の良いものを容易に入手できるということそのものでもあります。

僕が欲しいのは21 - 25FTくらいのサイズで、デイセーリングが気軽にできるシングルハンドで直進性の高いもの(レースやるわけではありませんから)。

水洗の個室トイレが付いていれば後は簡素なキッチンとテーブル、寝室があればよく、9馬力程度の船外機タイプ。

これだと、“ただであげます”から始まり、ある程度のものでも50万くらいで何とかなります。

景気が悪くなるとまずは小金持ちがいっせいに手放し、次に大企業がヨットを離し始めるので全体の価格が下がる事は間違いなし。

これは即買い手市場となることを意味しますので、貧乏人のこちらは選び放題(のはず) 

(^^)「オオー スゲ~♪」

維持をするに一番問題なのは陸上・海上係留費用やクレーン費等もろもろですが、貧乏人の僕は葉山なんぞというハイソな別世界とは一生無縁ですから、自分の適応可能な(笑)レベルのところへ「へいへいおねげ~しますだ!」とか言いながら頼むわけです。

景気が悪くなるとハーバー全体の顧客がいっせいに減る為に奪い合いが起き、サービスが偉くアップするなどの得点満載となりやすいうえに(多分)、中にはそのハーバーで中古を買うと保証金云々から始まり特別付帯サービスのおまけまで付けてくれるところが出てくるし(またまたこれも多分)・・・・♪

現在考えているのは早朝に家から高速で1時間半くらいでいける場所として琵琶湖の次にでかい淡水湖の霞ヶ浦、もしくは千葉の木更津。

麻生総理大臣殿が高速1000円を何とかしてくれれば尚いっそう現実性が高まります。

船の程度に関してはキール周りのクラックや浸水、ホール関連の電蝕を放置していたようなものでなければ船体を構成する電気、機械、建築その他もろもろは自分の専門分野ですからそれを応用してメンテナンスしますので、そうした他人頼みの費用を心配というものはまったく無いわけです。

現在ウインドサーフィンが僕の趣味のメインですが、どうしても強風が無ければ楽しめないという最大の欠点?が有り、低気圧のない天気予報を抱えてあくびしている無駄な時間がどうしても出ててしまいます。

ウインドのできる初春から秋までの季節はウインドを思いっきり楽しみ、風の駄目な時やシーズンオフはヨットでセーリングを楽しみたい、そんな風に一年中アクティブな状態になりたいわけですね。

だれか上記に書いたエリアでヨット譲ってくれる人いないかな・・・・(^^)

休日に家で寝ている事ほど嫌な事が無いのが僕でして、どうしてのそうした発想になるのですが、そういえばうちの家族ってみんなヨット出来るな・・・・いつの間にこうなったんだろう?

感染

2009年02月04日 | Weblog
ほぼ一日で復活した僕(とは言いつつ、まだ熱がある状態で仕事へ行きましたが)に変わり、今度は娘がダウン。

丁度受験時期ということもありますので、2年生とてどう影響するかわかりませんので数日は学校を休ませ、完全に直ってから行かせるつもりです。

家のポリシー? というか子どもが熱を出すと必ず私か家内のどちらかが一緒にいる事にしていますので、とりあえず今日は家内が休みを取ってくれました。
本当なら僕が休めば良かったのですが、熱があるのが分かったときは僕は職場ですからどうしてもそうなってしまいます。

最も、家内は土曜日のビデオ屋セールで山のように借りてきた韓国ドラマDVDなんぞが有ったので1日中喜んでたようですが。

こっちか~ (^^)笑

*家内も多人数と接する仕事をしているため、もし僕から感染していたらお話になりませんから様子を見る為もあります。

いつも元気な娘がおとなしい姿は親としては見ていてつらいものですが、原因そのものが私なのですから、なんとも言いようが無い・・・・ (^^;)あはは

帰宅後に座椅子でテレビを見始めた僕ですが、くてっとなっていた娘がつらつらと僕のところに移動して来たと思ったらいきなり膝枕、いや足を投げ出してたので腿枕。

熱の高いのが服を通して伝わってきますが、幼い頃によく熱をだすとこうして寝ていた姿を思い出します。

そういえば、「私の服をお父さんの下着と一緒に洗わないでよ!」と母親に食ってかかる娘さんもおられるようですが、「そうした事は家と全く無縁だよな~」とこうした時に思ったりもします。

困った事、悩み事、真っ先に話してくれますし、それまで反抗期バリバリの態度でいても、こちらからきちんと話をしようとすれば瞬時にそうした態度は改まりますし、かなりろくな父親をやっていない僕ですが邪魔扱いもされないし・・・・

そういえば僕の姿って娘の目から見たらどう見えるのだろうか?といわば父親としての成績を考えた事がありますが、なんとなく分散して聞いてみた話からはこうした事が見えてきます。


その辺続きは来週にでも書いてみようかなと思います。


写真の花は今年一番始めに見かけた花です

風邪

2009年02月03日 | Weblog
殆ど病気しない僕ですが、なんと風邪をひいてしまった・・・

おかしいなと思っていたらしっかり熱も出てまして、ただ、症状からインフルエンザではない事は確かです。

さすがにバイクはやめて車の通勤に切り替えましたが、まる一日駄目でした。