この映画が話題になったのはだいぶ前、なかなか観れずにいて、送ればせながらやっと昨日DVDを借りてきました。
「見た感想は?」と聞かれれば、「素晴らしいの一言しかありません。」
”ハウルの動く城”は駄作でしたが、今回は久しぶりに宮崎監督の心意気を感じました。
さてこの映画、「難しくて何を言わんとしているのか解らない・・」という声も多かった様ですが、自分はそう思いません。
「なぜ?」と思われる方もおられるかと思いますので、僕の解釈をここで書いてみたいと思います。
もちろん全て書ききれませんので、大まかなところをかいつまんで説明していきます。
まずこの映画全体が何を訴えているのかという事ですが、始めから終わりまで進化ということを主眼に置き、その上でDNAに絡めながら、人の一生と性を描いています。
本能を基にした男と女、当然父性と母性もこの映画にはしっかりと描かれている・・・。
さて、この映画、くらげがフワフワ舞う幻想的な光景から始まり、すぐ髪の長い男性が出てきます。
この男性、ポニョの父親であり名を「フジモト」と言いますが、実はY染色体で父親の象徴であり男でもあって、さらに世の中と社会常識という設定になっています。
冒頭の話は3つのテーマを一つの映画に組み込み、ストーリーを相互に作用させる構成ですが、
一つ目は人類の進化で、もうひとつは人の一生、そして最後は愛ですが、これが本能描写と見事に絡みながらひとつの作品として見事に完成されています。
まず、くらげ舞う海は古代の海そのものであって羊水であり、子宮。
男性が乗る船は精子でありDNA核を運ぶもの、まだ性別という概念すらない古代の単細胞生物でもあって、同時に卵巣になる前の未完成な生殖器官をも意味しています。
さて、穴から顔を出したポニョですが、これは生命誕生の基本となる卵子の元祖であり、同時に古代の海で生物DNAが織り成す進化の可能性を表しています。
ポニョの後にウジャウジャ後から出てくるミニポニョは、やはり精子の元祖で、これもポニョ(卵子)と同じくDNAが起こす精子への変化可能性そのもの。
このミニポニョの一人とポニョが軽いキスをするシーンがありますが、同じところから生まれてきたもの同士ですから、いわゆる単細胞生物の自己生殖で、現在のような雄、雌という概念の無いきわめて単純なDNA継承しか存在しなかった太古の海を表しています。
その後ポニョはくらげに包まれながら明るい光のほうへとあがってくるわけですが、これにより海底から陸へ上がる生物の進化を現している。
海面に浮かんだポニョがくらげをめる事で、ここでこれまでのストーリは一区切りとなって、これはあたらな命の誕生を表すと同時に、空気に触れることの可能な両生類の誕生でもあり、初めて陸へあがった生物そのものを意味しています。
地球が生まれて単細胞生物が生まれ、細胞の数を増やしながら進化、そして陸へと進出した、そこまでをここで描いているのですね。
ただ、ここまでの話には単純に卵子が生まれて受精し、子宮へ降りて出産という人の誕生プロセスをも含ませてあり、それが次のストーリへつなげていく牽引役になっています。
さてその次のストーリーですが、突然底引き網があわられて、ポニョはそれに巻き込まれて行きますが、その過程でポニョはガラスのビンに閉じ込められます。
底引き網に飲み込まれたあらゆるゴミは人が生まれて成長する過程で避けて通れない社会に存在するあらゆるものであり、しかしながらポニョは親の愛情という透明のバリアに守られながら(ただしそれが強すぎるために窒息しています)汚れることなくに海岸へたどりつきます。
そして少年(宗助)との出会い。
娘の姿を見失いそうになる父親(フジモト)はポニョを必死で探しますが、拾われて崖の上へ連れて行かれるのを発見。
このとき宗助からポニョを奪い返そうとフジモトが放つ波ですが、社会常識や世間体の象徴で、それを娘を取り返す理由と力の表現に使っています。
しかしながら純粋で若い力の象徴である宗助(男の子)にはその波は届かず、連れて行かれてしまいます。
宗助が押し寄せる波をみて「へんなの」と放つシーンがありますが、古い常識に対して若者がよく使う言葉そのものを表してもいます。
窒息したポニョを助けるために、宗助がガラスのビンを割るのは、父親(フジモト)に守られた殻を破る若い力そのものであり、
その際に宗助は怪我をし、ポニョがその血をなめます。
これはY染色体X染色体によるDNA(人の命)の継承システム誕生を表しています。
その後海(社会)から上がり、水を散布しながら宗助の家周りをうろうろしていたポニョの父親ですが、男の子の母親であるリサと父親コウイチは、この映画で“極普通の家庭”を象徴しています。
さてリサに見つかったポニョの父親フジモトですが、「消毒をやめて」と言われてしまいますが、
なぜフジモトが足元に水を散布しているのかというなら、娘を汚したくない心、自分への後ろめたさ、認めたくない”自分の本心”を納得させるために、足もとを(先ほども書いた)社会常識や世間体で濡らし(消毒)ながら、その上を歩いています。
ここまでで又一区切り。
卵子と精子の出会いから思春期まで成長した娘(ポニョ)と父親(フジモト)の思い、そして宗助(ピュアな心をもつ)との出会という人間的な部分をメインとして描いてますが、同時に裏側でそれまでとは異なるDNA継承システムの誕生と、それにともなう愛の発生理由を表現しています。
次、リサにつれられてやってきた保育園、そしてその隣にあると老人施設。
人の幼少期と老いがここではテーマ
宗助がけして手を離そうとしないバケツのポニョは、どんな人間にもある、幼き頃の汚れなき人間性と、その心が生み出す純粋な思い(恋心)であり、同時に女性を守ろうとする男の本能も表現しています。
宗助とポニョが幼い子供である設定理由はここにあります。
この先は人の一生がテーマとなって映画の中盤を進んでいくわけですが、その冒頭であえて老人たちにポニョを見せるシーンで、若さへの憧れ、嫉妬という人間のもつ基本的な欲をえがいています。
本当なら、大人たちが持つ心の裏を描くのだろ思いますが、この映画そのものを考えると露骨な描写は出来ませんから、ここではこの程度にして抑えているようです。
その後、宗助がポニョを再び海岸へ連れて行ってしまうのですが、父親のフジモトが持ち構えていて、再び波(社会常識や世間体)を起こしてポニョを宗助のもとから連れ去ってしまいます。
その奪回の際、ヘドロに巻かれたポニョの父親(フジモト)が汚いという言葉を発しますが、
これが巣立とうとする娘(ポニョ)の気持ちを無視し、無理やり連れ帰る親の心と、それがどんなことか解っていながらもやってしまう父親として描いています。
父親に連れ戻されたポニョは再び受精卵の姿へと戻ってしまい、その為に体の周りがやわらかい外郭に包まれてます。
やがてポニョが男の子の血をなめてしまったことを父親が知り激怒し、とんでもない自体へと進んでいくのですが、
この嵐は親の気持ちを表すと同時に、二足歩行を始めてから現在まで人の歩んできた歴史、何度も絶滅の危機を乗り越えてきた人そのものをも表しています。
このとき、父親フジモトに閉じ込められてポニョを救い出すのは冒頭にかいたミニポニョ達、すなわち精子であり、DNAと人の本能。
宗助の血をなめたポニョには、すでに新たなDNAが変わり、自己生殖ではない、生物多様化と爆発的進化の力(有性生殖)を得たことを表しています。
一方、フジモトの乗る船で、フジモトが大切にしてきた液体ですが、それは親の願いそのもので、いつの時代でも失われることが無かった子供の幸せを願う気持ちです。
それを得る(知る)ことになったポニョとミニポニョ達は猛烈な力を得、囲いを破り脱出していきます。
人間の歴史で限りなく繰り返されてきた事をここで総括しているのですね、
そしてフジモトからの脱出の際に「宗助だいすきー!」とポニョは叫んでます。
そういえばこの嵐の前に、遠く離れた船に乗る父親に男の子が光モールスを送るシーンがありますが、
これは原始時代から続いてきた母親と子供が供に過ごす家庭の姿で、父親はつねに食料獲得の為に狩にでかけ、なかなか帰って来なかったという、昔から現代までどこにでもある家族を表しています。
光は父親への憧れと社会への接点を表しており、言葉ではない、しかしながら光というメッセージを通して男の子と父親は心がつながっていることを表現。
このシーンにて宗助の父親である耕一が乗る船は時間そのものであり、そして歴史という波の上を航海しています。
さてポニョがフジモトのところを脱した際に大嵐が巻き起こりますが、
その嵐に波が打ち寄せ砕け散る、これは単なる父親の怒りと嫉妬だけではなく、人がこれまで何度も乗り越えてきた戦争(人のもつ感情の、負の方向への最大表示であり行動)を同時に表しています。
その荒波の一番上を全力で走るポニョが宗助の元へ飛び出していきますが、これに至る過程でミニポニョ(精子)がとんでもない数でポニョ(卵子)を取り囲んで守るシーンがありますが、これは受精後に始まる細胞分裂そのもので、進化の力を現しており、映画の中でポニョは足が三つ指、手が三つ指へとまず変化します。
これが古代の海にいた単細胞生物から両生類へと進化し、恐竜へと進化していく過程そのもので、同時に”胎児が子宮内で成長していく姿”と過程をそのまま表しています。
やがて手足は5本になり、みなぎる生命力は人間へと姿を変えて宗助の元へと一直線に走る。
これが、女性の持つ純粋さ、力強さと愛を表しています。
愛はあらゆる困難を乗り越えるというメッセージであり、いついかなる時代でも、その力により命を絶やさず乗りこえてこれた人の歴史、それを表しています。
嵐を乗り越えてたどり着いた家の中は、嵐とは切り離された静けさと暖かさ。
ここで宗助と母親(リサ)に助けられたポニョの二人がインスタントラーメンを食べますが、作る過程でチキンラーメンだったのが、きちんとした具の入ったものへ変化しています。
どんな粗食であっても、家族と愛で心が満たされていればご馳走であるという事ですね。
さて、この二人をおいて、嵐の中をリサは老人施設へ向かいますが、これは大人が担うべき、社会的責任をあらわしています、どんな状況であれ、
大人がなすべきことは子を守り育て、そしてその子が生む孫の為にきちんとした社会を造らねばならない。
そのためには大人がなすべき事は何なのかを示している。
さて、ここまでが又一区切り。
次に嵐のおさまった、しかしながら水位の高くなった家の窓から宗助とポニョが船出をします。
この船はおもちゃですが、これは男の子ならだれしもが将来に対して描く夢を象徴しており、ポニョがそれを乗れるくらいにまで大きくします。
これも愛が様々なものを育てていくのだという可能性を現しています。
二人は母親(リサ)を探しに行く途中で救助の船団と出会いますが、これが三途の川を渡る船たち。 未来は必ず死をもって終わるのだということをあらわすと同時に、生きていく家庭で避けることの出来ない家族や友人達の死というのもあらわしています。
歴史のバトンも表していますが、それは、この時に船に乗った人たちからもらったロウソクが、それです。
やがて燃料切れとなった船を進ませるために、もらったロウソクをポニョに大きくしてもらおうとする宗助ですが、進化と生命誕生の象徴であるポニョにはそれをすることができません。
ロウソクを大きくする事は三途の川(人の死を多くする事)を意味しますから、宗助の要求が強くなるほどポニョは意識がうつろになります。
これは自分の利益のために人の死を踏み台にすることが、進化と歴史に反し、人の尊厳をどれだけ傷つける好意であるかを表すと共に、本能とに対する反逆であることを表しています。
ポニョは生命の誕生と進化そのものですから、けして相容れないわけです。
そうしたことに宗助が気づかなかった事から(ロウソクを大きくしようとする)、ポニョは人間から恐竜のすがたへ、そして両生類へと退化を始めます。
人間が人間らしさを失うということが、どういった意味を持つのかをここで訴えているのわけで、それが、このシーンなのですね。
やがて、何とか岸辺にたどり着き、トンネルの向こうへ向かいますが、
ここからテーマは二つに分かれます、性(生)と死をテーマにしたクライマックスで、そこには輪廻転生と新たな生命という観点からポニョの母親(X染色体)であり、生物の誕生のふるさとである海の象徴、グランマーレが出現します。
DND、進化、本能、性、そして死がこの最終部分ですべて結論付けられています。
歩けなかった老人たちが走り回る世界は天の世界そのもの、同時に命の源である海の存在と、母親とグランマーレ(ポニョの母親)の話は新たに生まれ出る生命の選択権者であり輪廻そのもの。
グランマーレは生命を生み出した海でありDNAそのものを表しています。
さて、この先にこの映画の言わんとしているまとめがあるのですが、
これが非常におもしろい、宮崎監督はエンディングの設定を変えたといってますが、そのエンディングがどんなものなのか? 僕にはなんとなくわかります。
ただ、それがあの陽気な曲と合間見えないことから、変えられたと聞きます。
この辺含めて、エンディングの解釈全てをここで書いてしまうのはどうだろうか?か・・・・・面白くないですよね。
ですので、これはあえてここでは書きません
もし見てないかたらおられたら、もしくはこれから見る方がおられたら、私の解釈も頭に入れて考えてみてください。
非常に素晴らしくて面白い作品ですから。