「水」 翔(僕)著(湯船の一時 短編小説風)
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火照った体を木製の椅子に落とすと、温泉のすぐ下を流れる川を見下ろす。
茶色い濁流となったその眺めは、以前来たときのような澄んだ状態を失い、広がり増した水は
雑木の根本をジャブジャブと洗っていた。
目を閉じて、じっとそのに聴き入ると、ザーとも、シャーとも似つかない、かといって遠くも近くもない音であり、
そこに小雨になった事で鳴き始めた蝉の声が数匹混じっている。
さっきまでの台風との戦いで疲れたのであろうか? 「ジー・・・・・」という今ひとつ元気のない声は、川の音に混ざるようで、
包まれるようで、時折消え入っては現れる事をくりかえす。
再び湯につかり、廻りを取り囲む木々を見渡したとき、 一匹のクロアゲハの飛ぶ姿が眼に入った。
「あの台風の風をどうよけていたんだろうか?」と思いつつ、その艶やかな姿をみていたら、再び雨が降り出した。
台風の雲と雨は、こうも気まぐれだ。
時折雨を降らせては止み、降らせては止み、やがて曇り空へと代わり、最後に青空を覗かせる。
雨粒は次第に大きくなっていき、あの蝶は「どうするんだろう?」と思う。
黒くて大きい、立派な形をした羽に、赤や黄色の花をはべらしたその貴婦人は、雨粒に翻弄されながらすぐ近くの杉の葉の先端にとまった。
何気なくそれを目で追っていた僕だけど、本来なら合掌させたように畳むべき羽を真横に広げた姿勢のまま、
あたかも木の一部に溶け込むかの様にじっとしている。
「ほ~!」、と僕は思いつつ、尚もその姿を見ていたが、広げられた羽は、上の羽を下の羽に重ねるかのようにしてあり、
そう、ハートマークを逆さにした形になってそこに留まっている。
本当なら隠すべき物をさらすような、普通ならあまりあり得ない姿でもあって、それはまるで女性が愛すべき人の前だけに見せる、生まれたままの姿の様でもあり、
その何とも言えない美しさにしばし目を奪われていた。
「エロティシズムというのは、遥かにかけ離れた異種生命体との間にも成立するものなのだろうか?」 そう思わせるほどそれは魅惑的だった。
杉は小さい緑色の針を集合させた様な葉を持つ、幾重にも別れた枝に密集してそれが枝になり幹へとつながる。
落ちた雨は緑の針で受け止められ、針先を転がされて行く過程で次第に大きくなり、やがて先端からポロリと落ちこぼれていく。
そしてポタリ、そしてすぐポタリと、雨の量が増えると次第にその間隔は短くなっていく。
比較的雨粒の落ちにくいところを選んで留まってた様にもみえるが、それでも滴が徐々にアゲハの上に注がれ始める。
落ちた水滴は、広げた羽の表面をなぞることで、その黒色の衣装を少しだけ震動させながら、何事も無かったように地面へと落ちていく。
その度に、少しずつ身震いしながら衣(羽)をわずかに乱し(動かして)耐える貴婦人の姿は、素肌の上を這う指使いに身もだえする様でもあり、
それが不思議な興奮を僕に惹起させ、いっそうその美しい姿を、尚いっそ美しく演出してくれている。
滴の間隔が短くなると、 それを避けようとするのか、 やがて来る絶頂の時を恥ずかしげにかわそうとするかの様に、 少しずつ葉の上を動きだした。
その姿をじっと見ていた僕だけど、花(赤や黄色の紋様)がギリギリ見て取れる程度の距離にて、どのくらい移動したのか?という事は正確には解らない。
恐らくは1~2cm位だろうと思う。
たかが一匹の蝶の、そうした姿に”人の女性のような美しさ”を感じるという経験をしたことが今まで無かった僕だが、
大きな枝や、葉の裏側にへばりついて雨を避ける生き物なのだとばかり思っていた自分には、今持っている常識で測り知ることの不可能な感覚というものが、
至極間近にあり、それはふとした瞬間を通して得られる物なのだと、初めて知ることになった。
ふと我に返ると、脳細胞は一気に現実的思考へと戻り、「蝶に耳という器官があるのだろうか?」という疑問を湧き上がらせる。
甘い空想の世界から、一気に引き戻された僕は少しだけ不機嫌になるが、脳はそんな思いとはまったく別に働き始め、
どうやらそれを、僕自身は制止することが出来ないみたいだ。
「どこにあるのだろうか?」 もし有るとするなら、どの程度の音が聞こえるだろう? 人間のような精密な聞き取り能力は有るのだろうか?
そして、羽に転がる雨粒の音はどんな風に聞こえるのだろうか・・・と。
少し離れたところで、サウナから出てきた男がいた。
水風呂の横にある泉から、桶で水を汲んで、体にそれをかけ始めた。
無神経な”バシャ!”という音が数回、そのあと冷たい水に身を沈め、同時に男の体重分の水が湯船から流れだす。
体に蓄積された熱を中和する水の温度差。 そしてそれが生み出す快に、溺れる呻き越えをわずかにあげている。
その音をかき消すかの様に、溢れた水は排水溝を流れ、やがて格子の付いた暗い排水パイプの中をすべり落ちていった。
一時、現実に返った僕だけど、あの甘美な感覚が欲しくなり、再び貴婦人の方へ目を向けてみると、
幸運な事に、その美しい姿はそのままに有った。
なぜか?安心する僕だが、その満たされた感覚は早々に破られることになる。
ややもして、滴の激しい愛撫に耐えきれなくなったのだろうか? あたかも快楽と自分の思いを放散するかのように、貴婦人はヒラリと羽ばたき空へ躍り出た。
その姿は、僕を満足させるに充分な輝きでもあって、なおいっそう僕を惹き付ける。
大きな雨粒がその美し羽を打つせいだろう、少しだけふらつくように飛びつつ、羽ばたき一つごとにあの何ともいえないエロティシズムが
大気中に放散され、しかしながらそれと引き替えに純粋な蝶の姿へどんどんと戻っていく。
やがてクロアゲハは、ある程度の大きさの円を水平に描きつつ、上へ下へ、右左と軸線をずらしながら、たくさんの青い毬(イガ)で
覆われたクリ木の向こう側へと消えてしまった。
その姿を最後まで見送ると、恋人を失った悲しみ人の様に、空に目線を移し、そして真正面の山にかかる霧を見る。
雨が強くなると霧は濃く見え、弱くなると薄く見えるのだけど、台風が残したまだ暖かい大気と、山を越えてくる気流の温度差により造りだされる霧は、
終始濃さと形を変えてまるでそこに湧き上がっている。
本当は移動しているのだろうけど、次々に造りだされる霧は、それがその場に張り付いているように見える。
川の濁流音は相変わらずで、蝉の声も相変わらず、霧を見るのに飽きて来た僕の眼は、次の対象物を探し始める。
ふと、下を向くと、そこには透明な鏡が有り、湯面に反射する木々の姿が映し出され、、しかしながら雨粒がそれをかき乱している。
一つ一つの雨粒は、落ちると必ず文様を造りだして、それを広げていく。
落下した中心からポンと湯面に躍り出て、丸い玉となってしばし表面を駆ける不思議な水晶。
コンマ数秒だけキラリと輝くと、パチンとはじけるように壊れ、再びお湯に溶け込む。
同じ物質でありながら違う物質、温度差が創り出す何とも不思議な光景だ。
雨の日の、あの透明な水たまりが誘う誘惑は何物にも代え難い感覚となって今も心に強く残っているけど、 そうした感性に抗うことをしない素直な幼年期は、
長靴のままそこに飛び込むことで完遂される。
それでも飽き足らないときは、靴下をぬらし、やがて長靴も脱がれ、素足の泥と水の生暖かい感触となって脳に突き刺さる。
最後にはズボンもシャツもビショビショになり、 濡れていないのは無造作に傘で覆われたランドセルの中身くらいのものだ。
幾百幾千の雨粒が、その落下速度と質量の違いで創り出す様々な紋様と、飛び出して湯面を転がる水玉を僕に見せながら、僕を遠い過去の一時へ誘ってくれた。
ほんの些細なことだけど、こうした瞬間に自然への感謝が起こるし、満たされた気持ちにもなる。
さっきから降り出した雨は徐々に勢いを増し、湯面の透明性が完全に失われるくらいになり、やがて僕は耳の位置が雨音の言葉を知るによい高さにある事を知る。
いっそう増してくる雨の、湯面に落ちる音を逃さず聴きとろうと目を閉じてみるなら、それまでの視覚情報は一気に遮断され、僕を再び違う世界へ連れて行ってくれる。
それはなんというか、小さなビーズの玉をテーブルに散らすと聞こえる、あのプチっという音にきわめて近く、
柔らかい雨粒が、これまた柔らかいお湯に落ちているはずなのに、何故かそこで創り出されてる音は非常に乾いた音だ。
雨の強弱に応じて、まるでたくさんのビーズが落ちて跳ね回っているように音も変化する、「こういった音というのも有るのか・・・・」と。
台風の雲は気まぐれである、ほんの僅かのあいだ、その不思議な音を僕に届けてくれた後、一気に雨粒達を連れ去って行ってしまった。
再び湯面には空と木々達の姿が映し出されはじめた。
好物を取り上げられた幼子のように、何ともつまらない気持ちとなって僕は雲を見上げたが、少しのぼせてきた事が自分でも分かり、
そろそろ体を冷ますそうかと立ち上がりかけると、又の雨が降り始めた。
少しだけ僕は喜んで、さっきの小さなビーズ音の誘惑に身を任せるように、もう少し湯につかることにしたけど、その期待は良い意味で裏切られた。
「違うのだ、音が。」
今度の音は、ビーズではなく、ポチャに極めて近い音で、プツッ!とも聞こえる、
湯面を見ると、さっきとは文様の形が違う、一つ一つの丸い文様どうしの距離が遠く、さらに文様の中に一回り小さい文様が形成され、それが広がっていく。
すでに上気した頭の上に、先ほどとは明らかに違うそれが注がれ始めると同時に、川の流れにそのサウンドが重なり、雨の強弱に合わせて不思議なメロディーを奏で始める。
雨粒が大きな事から、お湯に飛び込んだ雨水が再び躍り出てくるあの水玉は、先ほどとは違って大小有り、バラエティに富んでいる。
不思議なのは雨の降る角度がこの水玉の流れる方向を定めているらしく、出来た水晶は必ず同じ方向へと転がっていく。
はじけて消え入るまでの、一瞬の美しさと造形。
それは高速度カメラだけが成せるものだと思っていたけど、裸眼で、しかも今、僕の前に多数展開されているのだ。
「こんなに綺麗だったのか・・・」と思い、ひたすら見取れるていた僕だけど、さすがに体を包むお湯の熱は芯まで体を貫き、それに耐えることができなくなった僕は湯船を出て、
川の流れがよく見える手すりの処まで静かにいどうした。
雨はますます強くなり、肩に叩きつける雨は、その度砕け散っては飛んでいく。
肌から湯気がわずかにあがり、その湯気を貫きながら雨粒は尚も肌に衝突を繰り返す。
パチ!、パシッ!という連続音を聞きつつ、さっきまで貴婦人が留まっていた杉の枝葉を眺めてみる。
あの艶やかな姿はどこへ飛んでいったのであろうか、そして僕の知らないところで、あの魅惑的姿を惜しげもなく晒しているのであろうか・・・
少しだけ射してきた日の光は雲を割り、 目の前の景色にちりばめられた幾万の滴とやがてシンクロし始め、光のハーモニーを奏でつつ僕に囁く。
「もうすぐ美しい深秋が来るよと。」
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音の世界に幸せを見つけるという事はなかなか難しい、
景色を見ながら体を温める感覚に幸せを感じるのが温泉の過ごし方というのが一般的な認識であろうとは思うが、
体を湯に浸し、目を閉じることで得る世界、音に包まれる事の幸せ、というのも又素晴らしい物である。
たまたま台風が過ぎた、人がいない静けさのなかで得ることの出来た一連の感覚。
自然というのは誠に不思議で、人に優しく、厳しく、故にけして侮らず、奢ることなく、静かに身を
削ぎすませば、何時もと違う世界と感動を無限にもたらしてくれるものなのだと。
By 翔
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