娘の話で恐縮ですが、 大学の某サークルで活動してきたのに、最近それをやめる出来事が有りました。
何某か揉めている(のかな?)は知っていたんですが、やっとその内容が判明したのが先週の事。
それは至極簡単な事でして、 サークル活動において”物やお金をあまりにも粗末にしすぎる姿勢”に家の娘が耐えられなくなった、という事らしいのです。
大学生になれば大人ですから、親がどうこうと語る事は本来好ましいことでは有りませんが、皆さんにも”こんな事もあるんだと”いう点から
あえて書いてみたいと思います。
大学もそうですが、地域サークルなど連帯感を高める目的もありますが、おそろいのシャツやトレーナーをつくることが有りますよね。
たいていは一つ造ればそれをずっと着用します。
娘の属していたサークルは 踊りがメインという事もありますが衣類というのがどうしても必要。
で、それに使う為のシャツ ウンウンで、その価格数千円という事は良くありました。
しかし、親のお金で学生生活を送らせてもらっている身分において、逐一お金をかけることに疑問を持っていた家の娘は、
「家にある物で十分なのでは?」 と、目に見える形ではなく、共通した連帯感と認識こそが大切なのでは!? と、その都度言葉を投げかけて
いたらしいのですが、全く聞く耳持たずの状態。
それだけならまだしも、驚いたのは今回新たに新品シャツを買い、しかもそれをビリビリに切れ込み(破いて)いれて踊りで使うという話。
しかもたった一度のステージの為にそうするらしいのです。
娘は着古したボロを個々に持ち寄って(もし破くなら本当に着古した古い物を使う方が・・・・)と話を持ちかけたらしいのですが、「すでに決めたから!」と
シャットアウト。
まあ、これまでにも注文したシャツのサイズが合わないからと勝手に違うサイズ(他人の注文した物)を持って行ってしまう部員が普通にいて、
各サイズと注文者の名前の基礎的記録をきちんとサークル責任者(上級生)が残さずにいるものだから、当然もめ事にもなったりして。
その為に、お金払ったのに着られないサイズの服が一部の部員に廻ってきたりと、話を聞いていると「ふ~・・・・・・!」と溜息の出る出来事が結構有る。
娘とよく話をする僕には、こうした出来事に関する話を通して、今の女の子達のお金に対する考え方や責任感という点において?マークが付くわけですが、
「どれだけ甘やかされて育っているのだろうか?」と・・・・・
まあ、社会に出る前の青年期は誰しも甘ちゃんですから、ある程度は仕方ないにしても、新品のシャツを破いて、一度着ただけで棄てるというのは
どう考えてもあきれてしまう訳ですが、 こうした感覚になんの疑問を持たずにいる子達がはたして結婚後に来る現実とどう向かい合うのか?
旦那の安月給できちんとやりくりできるのだろうか? またその生活に耐えることそのものが出来るのだろうか?と考えてしまう。
こうした金銭感覚の絶対的甘さがあるからこそ、結婚相手の年収は最低600万円だ等と平然として言い出すことになるのだろうけど、金銭感覚は
幼少期の頃から染みつかせていかないと、後で訂正することが難しいだけに厄介だ。
難しいのはその金銭感覚を養うために、お年玉や小遣いの使い方を記録しろとか、小遣いをまったくあげない等と言う手法をとる人もいるけど、
これって逆の効果が出てしまうことが多い。
不必要に小遣いをあげず、結果として常に友達からおやつをもらう(恵んでもらう)一方だったり、オモチャとか買ったりしている姿を指加えて見ながら育つと、
やたらとお金に執着した人間に育つ事が多い。
お金のためなら他人(家族含む)等、どうなっても構わない!というタイプにこうした教育を受けてきた人間が多く、お金の管理はやたらとやかましいのに”汚”部屋
に平然と住み、片付けに無頓着やそれが分からずに平然としている人間になったりする。
お年玉はあげない、もらったら無理矢理貯金させたり、小遣い帳で管理しろという親もいるが、金銭をもらうための勤労なり何なりが先に来ないお年玉自体
管理だけを強要することで学べる事は現実として無い。
不用に多いお年玉は大問題だが少なすぎるのも問題、その理由の背景に親がいるともし子供が分かれば、別の思いを蓄積させて必ずそれが思春期に出てくる。
貯金して将来云々という名目で貯金させても、現実として親がそれを使っているのが分かれば、子供に対して親が詐欺の手本を見せているに等しいからだ。
小遣い帳で管理しろといっても、毎月もらう金額はさほどでもないわけだから、そんな物を使わなくても何に使ったかは覚えている程度の物しか買えない。
実は、小遣いなりお年玉なりは、あっという間に無くなってしまうところに最大の意味があるのではないかと思う。
月初めにもらう小遣いはあっさりと消える、そしてその内容は大人からすると無駄そのものであることが多く、例えるならガシャポン10個で消えてみたり、
お菓子の袋に入っている景品目当てだったりもする。
お年玉は年に一度子供としては大きな額をもらうわけだが、現実的には小遣いと全く同じようにあっさり消えて無くなる。
使い道としては年齢に不釣り合いな物を買って一気になくなってしまうか、よく分からないうちに消滅する。
親からみれば、究極の無駄そのものなわけだけど、これは果たして本当に無駄なのか?
僕はそう思ってはいない、小遣いもお年玉もあっという間に無くなってしまうという点にこそ意味がある。
*もちろん、その使い道について親が適度に叱る事は欠かしてはならない事だ。
なぜならその無駄と思ってる親そのものが子供物頃に無駄使いをして経験しているからだ。
お金は、それが無くなると次にもらえる時までずっと我慢し続けねばならず、その我慢にこそ意味がある。
金銭というのは一種の概念管理であり、これを子供に教育することはとても難しい。
親が出来るのは お金はあっというまに無くなる物であり、無くなればひたすら我慢するしかないのだ、と教えることで、
ゆえに小遣いが無くなれば、絶対に渡してはならないし、もし渡すとするなら、お祭り等の時に夜店で無駄使い?させるために
特別に渡すなど、きちんとした名目がなければだめだ。
子供の頃にお金に関して自ら学ぶのはお金は黙っていても無くなることと、無くなれば我慢して耐えねばならないという二点で十分であり、
親が教育していくべきはお金を稼ぐことが如何に大変なことであるか?、を言葉で繰り返して教えていくこと。
このバランスがきちんととれた環境で育った子供は、社会に出てそうした意識が基礎的に備わっているのでお金がなければ
無いなりに努力して何とかすることを試みるし、 節約なり稼ぐなりを自分で選択していく。
しかしながら小遣いが無くなったからと、親がすぐに施したり、 子供がお金の貸し借りできる様な環境があるとどうしてもルーズになる。
我慢と工夫、稼ぐことの難しさを学ぶ教育を受けねば、自分はこんなに大変な思いをしているのに何で給与が少ないのだ?とかならずそうした思考になる。
そこに来てあの恐怖の人格崩壊教育である”ほめて伸ばすや、ほめて育てる教育”を受けてくると、 こんなに偉い自分にお金の無いのは
社会がおかしい!という思考へ簡単に変化する。
その結果として待ち受けるのが楽してお金を稼ぐことであって、オレオレ詐欺もその一つだし。 女の子なら体売って平然としているビッチ(売春婦)になる。
話を元に戻しますが、黙っていても出ていって、最後に何も残らないのがお金。
故にルーズな金銭感覚をもつ若い女の子達に対して、どうしても憂いを持ってしまうわけだ。
お金は如何にしてそれを有効的に使うか?で生活全体が変わってくる、数年ならず10年20年という時間が流れればそれにより生み出される
差はとても大きな物になる
娘の金銭にたいする感覚や考え方は幼児の頃から僕が直接関わって育ててきた訳ですが、それ故買ったばかりのシャツを破くという行為含め、
ルーズな感覚には耐えられない娘になった様です。
家は特に高給取りではなく、副収入があるわけでもなくて、ごく普通の家庭です。
このブログを読んでくださっている皆さんは「嘘付け!本当は金持ちだろう!」と思うかたがいるかと思いますが、現実は
特別でも何でもない。
端から見ると家は確かに豊かに見えますが、それは単に家から出ていくお金を極限まで僕が絞っているだけの事で、
*一度家内に任せっきりにして大変な目にあった経験があるので、現在は僕が定期的に見直しをしています。
節約は、例えるならオイル交換は安いオイルを自分で交換する、 廃油は友達の整備工場でただで引き取ってもらう。
物を買うときは、ネットを初めとしてあらゆる情報を駆使し、最安値の物しか買わない、当然に中古品も普通に有りで、
車を新車で買う贅沢は絶対にあり得ません。
*新車で買うのが悪いと行っているのではないので注意
着る物は際限なく切り詰め、 Tシャツは 襟がすり切れたり破れたりするまで着てボロボロになると、トレーニングウェアや作業着として使用、
そして最後に車整備のオイル拭きなどのウエスになって、更にその汚れた物を車体のグリス打ち作業に使うなど、徹底して使った後に処分する。
家のタオルはバスタオルもハンドタオルも必ず穴が空くまでで使い、穴空いたら雑巾にして、 それが更にボロになれば天ぷら油の吸収剤、その他
使い捨てのキッチンペーパ代わりにしたり、時としてその油の染みこんだ物をべーベキューの着火剤としても使うことがある。
ズボンはたいてい膝上やポケット周りから破れてくるけど、僕は何度でもそれを縫い繕っておしりが透いてくるまで使う。
靴下はかかとや指先に穴が空けばそれを縫って塞ぎ、また破れればその部分を縫い、ゴム伸びきって、履いてもずるりと落ちてしまうまで
履きつぶす。
靴は丈夫で滅多なことでは壊れないワークブーツを、洗浄、消毒、日光乾燥繰り返しながら2年でも3年でも履き、他にお出かけ用としての
カジュアル靴はたった一つしかない。
家の増築、改造、改修はすべて自分の手で、修理も当然のようにする。
家電製品からはじまり、車もバイクもすべてそうで、 他人に頼ったり任せてお金を払うのは滅多にない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/91/be5d1d051c1c34782bc23bd6bb614dd4.jpg)
なぜそうした事をしてきたか?というなら、僕が育った家は貧乏で、親がそうして切り詰める姿を僕に見せてくれながら育ててくれた。
ただそれを同じように再現してるだけのことなのだけど、そうした姿を僕は二人のわが子に幼い頃よりずっと見せてきた。
それが将来必ず我が子のために役立つと信じているからだ。
人が普通に仕事して得られる収入には限度がある、 ほんのごく一握りの一部上場企業ならともかくも、たいていは似たり寄ったりの収入しか得られない。
高給取りを目指せば自分の為の時間を際限なく失い、自分のための時間を優先しすぎると収入は当然に落ちていく。
しかしながら出るものを押さえて上手にすれば、自分の年収を1.5~2倍に匹敵する物へと変えることが出来る。
年収1300万もらってますよと高級外車に乗り、 その支払いが月5~10万、 二年に一度来る車検で50~80万とられ、大きな自宅は毎月のローンが
20万ボーナス120万。 エアコン壊れて高級エアコン20万を業者工事で3万プラスし、子供が大きくなったからと増築で1000万。
そんな生活していたら実質的に手元に残る額はほんのわずかだ。
如何に普段の生活で出る物を押さえるか? 無駄をなくすか? が色々な意味で大切なわけだが、その裏には物に対する感謝の念が無ければならない。
家は食事の際に必ずいただきます!をする、 息子夫婦とディズニーのレストランでもやるし、どこででもやる、人目など気にしない。
時折、それは自分達の為につくってくれた物はないのだから、頂きます、をする必要は無いのでは?という人もいるが、
それは違うと思っている、 インスタント物だろうが店屋物だろうが、そこにあるのはついこの間まで生きていた生物そのもので、
それが多くの人たちにより加工されて今自分の目の前にある。
生きることは食べることだ、もしそれが無くなれば 瞬く間に命は途絶える。
どんな食べ物でも、 口にする前に唱える一言 いただきます! それは 命を頂きます!であり、この考えを基本に
自分を取り囲む物やお金に対して取り組まねばならない。 なぜなら、もしそれが失われた世の中ほどすさんだ社会は無いからだ。