来月4日に、89歳になる親父。
その姿を見ていると、 記憶という物を考えさせられる事がある。
母親を交えて色々な話をしていると、 驚くほど鮮明に(覚えている記憶)話をしてみたり、
かと思えば、 つい最近、特に昨年の夏に脳梗塞で入院した以降の記憶が今一つだったりもして、
こうした違いって、どこから来るのだろうか?なんて思ってしまう。
特段、認知症が有るわけではなく、 年齢なりなわけですが、 的確な判断はいまだ健在でして、
ただ、それが絶対に正しいのか?というと、曖昧な部分?もる。
話を聞いている僕としては、ストーリーの全体を一度分解して、頭の中で再構築しながら、また、ほかの記憶との混在可能性を疑いながら内容を整理&理解しているわけだけど、
仮に二つの記憶が混ざっていたとしても、 その個々はかなりはっきりしている。
89歳という年齢の脳は自分が思っていたよりも明確なわけだ。
これは、 なんら脳活動に問題ない母親も全く同じで、 二人の姿をみていると、
人の記憶能力は高齢になっても意外としっかりしている物なのだと思わされる。
ただ、短期記憶に関しては、 おそらくは若い頃より劣りして、かといって駄目なわけでもなく、
母親に関しては、 一日の会話の中で僕の問いかけた事や、聞いた事等は、はっきり覚えていて、
逆にこちらが忘れていて、 「あれどうした?」と聞かれて、 「なんだっけ?」 という自分もいる。
親父の方は、 脳全体の血流が良い時も有れば、 今一つの時が有るようで、 きちっと心臓が血液を
送りだせているかいないか?がハッキリと判るほど、脳活動に差がある。
記憶は海馬が司令塔になっているのだけど、今日はやたらとハッキリしているな・・・と思う時の親父は、
当然の様に短期記憶も明確で良く話す。
逆に、なんとなく口開けてボ~っとしている時は、話をふっても、 ロクに返事しないし、一見して認知症の様にも見える。
認知症は年齢とともに、徐々に症状が進んでいくのだけど、 アルツハイマーというわけではないので、進み方はゆっくりだ。
自分が幼いころの親父の記憶は、 突然頭の上に落ちてくる拳骨と、尻を蹴っ飛ばされる事ばかりで、
もっぱら叱られている記憶が大半。
ばはははは!
楽しかった記憶も有るのだろうが、 そうしたのは殆ど思い出せず、 叱られていた時の心の怒りや苦しさ、悲しみばかりが明確に残っていて、
そういった記憶と、目の前にいる老いた親父が織り成す新しい記憶は、どういうわけか頭の中で全く結合せず、
幼き頃の記憶は、単独な物として存在していて、今の新しい記憶は別の違う記録として刻まれている。
人は18歳で、生まれてからそれまでの色々な出来事、教育や、親の愛情、その友達や、その他知らない間に記憶に残っている”さまざまな人達”との触れ合い経験をベースにして、 いわゆる基礎人格という物が出来上がる。
そして、それをベースにしてさらに2~3年程度の短い期間を経て、二十歳頃に確立した一人へと完成される。
以降は、それがその人なりのコア部分になり、その上に社会経験を積んでいくことで得られる、羽織が重ねられて、
その人なりの 人間という物が出来上がるわけだ。
ベース部分の構築が良いか悪いかは、コアの良し悪しにもなり、 結果として基礎的人格に懸念を残すわけで、
毎日たくさんの人達と接触する際に、 他人は”当然”に、 ”そのコア部分がどうなのか?”に関して理屈ではなく、
本能的に感じ入る部分が沢山あり、その受け取る印象で、 後の接し方が大きく変化していく。
結果として、 それがその人に対する外部評価になる。
誰でも解る事であるとは思うが、 ある人と話をしていると、 吸い込まれるような安心感や、この人にならなんでも話してしまいそうだ・・・と思える人や、 逆に話をするとドンドン不快要素が蓄積されて、 次は話したくもないという人も居る。
こうして、 その形は千差万別ながら、その相手に対するイメージなり、感覚なりとして出来上がってしまう。
人が同じ人生を歩むにおいて、 前者の様な人であれば、幸せな人生を送れるし、 後者の様な人であれば、
それなりの人生しか送れないのは、 言わずともわかる事だ。
ただ、やっかいなのは”自分の事は自分では判らない”という点で、 これはベース記憶を元に出来た、人としてのコア部分が”その人そのもの”なのだから、 自分で自分をみても差異を感じない=一体化しているか故に解るはずもない。
しかしながら、出来るだけ自分から自分を切り離して見る試みを続けた者であれば、 時間はかかるが、修正してくことは可能だ。
この自分を見つめる時に、”冷静な視点で、冷静に考えて”、なんてやっていると、そこから出てきたものはゴミみたいなものが多い。
というのは、人は、自分の心が荒れるものを無意識のうちに排除し、 都合の良いものを結果として出そうとする=
都合く処理しようとするわけだ。
本来自分を見つめなおすという事は、少なからずとも心が荒れるもので、また苦しいものだ。
腹立たしかったり、悲しかったり、悔しかったりと、心が乱れるのが当然で、”冷静”にやっている!なんていうやつが居たら、それは自分で何ら結果がフィードバックされない、たんなる”格好つけ(嘘)”を言葉にしているということになる。
まあ、それでも自分を見つめ直すという事をしている方はまだ増しで、 俺には問題無い!なんて言うのがいたら、
そうした人間に近寄らない方が無難だ。
冷静という言葉をやたらと良い物として捉える傾向が有るが、 それは単に感情とは全く無縁の論理活動においての話で、 それ以外のところでは役に立たない。
人間の心や思考というのはそんなに単純では無いからだ。
よく、感情で子供を叱っては駄目だと言うが、 冷静に叱る場合は、 単に論理を伝えているだけで、
感情でしかる場合は、心(感情)を伝えている。
両方の叱り方を施すことで子供の心は豊かに育つ。
ちなみに、褒めて育てるは、子供に真実(感情や論理)を何ら伝えず、”嘘で相手を導こうとする手段”でしか無く、
そんな物で幼き頃より育てられた人間は正常な感情活動を行えない欠陥人間になる。
若い頃は親父とあまり話をしなかった僕だが、 ここに来て親父と過ごす時間が長くなり、
これまでとは違う方向から、少なからずとも親父の生き方や人生が少しずつ解ってくる=理解が深まると同時に、 自分の知らない原点を親父を通して学ばせてもらっているようでもあり、
これって、一つの幸せの在り方なのではないか?と思う。
男は、親であり、兄弟で有り、 ある程度まで成長すると、 深いところでの繋がりが出来にくい。
それは男だからであって、 本能でもあり、 仕方の無い事そのもので、 この辺は女性とは全く違う視点の血縁に対する感覚が有り、
故に太古の昔から、 血で血をあらう抗争のような物が史実として存在し続けている。
まあ、別に僕が親父になにがしかの恨みを抱く要素は無く、 特に揉めるような事も無く、 普通に接することが出来るのは、
幸いなのかもしれない。
翔