帆∞翼(セイル バイ ウイング) -太陽そして風と供に- 

海・南風・そして何より”真夏の太陽”が大好きな翔です。

「よろしく!」  

いまさら

2008年04月30日 | 研究-教育・育児
「短気は親譲りだ!」この言葉が大きいやつ、「大丈夫!大丈夫!わかってます、」と、
まったく人の話を聞かないのが小さい方。

大きい方は短気なだけで割と従順なので大事な装置を壊すことは無い、
小さいほうはとにかく壊す(昨日までに7カ所)。

幼い頃からの教育の違いは私にとって慣れっこですが、まったく放任的なアメリカ
の教育、そして人格まで含めて育てようとする日本の教育。

彼らにとって学ぶことは単なる学ぶこと、それ以外に無いわけですが、
この国で生まれた私の下で学ぶ以上、そうはいきません。

何年も時間がある学校とは違うので、短い時間のなかで「何を教えられるか?」
という事が大切。

まずは物事に対する基本的な姿勢や取り組みかた、上下関係や、教えてもらうとい
う、という事への取り組みや人の礼等、知識その物より、彼らがこの先どれだけ応
用して未来を切り開いていくことが出来るかと言う武器となるべき事を教える方が重用です。

特に昨日は今までで一番大変でした・・・

専門書の必要項目を読みきちんと装置を調整することを教えていたのに、
例のごとく読まずに始めたのが小さい方、2時間かかってやっと完了、大きい方は10分。

午後から双方呼び出して”君たちの何がダメなのか”という個人的性格の欠点を
そのまま伝えて「なおすよう」にと言うと、とうぜん自分を貫こうとする個人主義
の彼らとそのまま論争へ突入。
午前中に30分程度のが有って、午後は約1時間近くを母国語で抵抗してくる彼ら
を右から左へ粉砕。

ダンダンとエキサイトしてまるで映画見たいな口喧嘩同様にになるが、
事は”何が正しくて何が間違いか?”である以上、こちらは絶対に負けられない。

今日の予定は全て終了し、いったいどのくらいこうした時間を消費したろうか?
と考えるけど、いすに座ると疲れてぐて~となってしまう自分。

全行程の約半分を終了したけど、あと半分の期間にどれだけ彼ら自身の性格的欠点
を”彼ら自身に学ばせていけるか”ということで悩まねばならないわけです。

論理的、技術的なものはただそれだけでしかありませんが、それに対して若い彼ら
が自分の人間性を磨くきっかけ(自分の欠点を知る事)になるものは一生の財産と
なるからです。



正しく叱る方法 その3

2008年04月26日 | 研究-教育・育児




昔と比較して最近の異常教育の特徴として明確なのは、叱る基となる自然な怒りや
悲しみを全て悪として捕らえ、喜と楽だけで子をそだてようとしていることです。

自分の心を無理に捻じ曲げて育てるおかしな現象もおきている。 例えば、叱ると子
供は親の顔をみます、当然で当たり前のことなのですが、それが「将来親の顔
色ばかり見る子になる!」といって、絶対悪のようにあつかっている
のもその一
つです。

でもこれっておかしな事ですね、叱られれば恐怖が発生する、恐怖が有れば防御本
能が働いて自分を守ろうとする、そのために相手(親)の感情を読み取り理解しよう
として体の全感覚と頭脳が全力で働き始める。

これのどこに問題があるのでしょうか?

感情がもっとも顕著に表れるのが顔である以上、それを子供が見るのは人であれば
極当たり前で当然のこと。
生き物はその心の豊かさに比例して表情も豊かになるように出来ています。
ワニの顔に表情が無く、犬より猿、猿より人間というようにです。

言葉が強くても顔に笑みが有ったり、言葉はやさしくても表情がきびしかったり、人の
心は言葉だけで表現されるものではなく、言葉や表情をメインとしたあらゆる伝達に
よりなされるものなのです。
幼い頃から親の顔をたくさん見る、だから様々な心のパターンを学習できる。
だから大人になって顔を見ただけでその人間の心の状態を読みこめるような人間ら
しいコミュニケーションができるわけです。

社会で生きていくための力の一つとして欠かしてはならないものなのですが、これが
悪いのだと恐怖の教育はいっているのですから話にならない・・・

親に叱られるは、何をしたら叱られるのかであり、それを学ぶの事は一度でなしえる
ものではなくて、さまざまなパターンで繰り返すことが必要(これが教育なのです)に
なります。

* 勉強の出来る子を育てるのが教育なのではなくて、そんなものあくまでも片隅に
あるものでしかなく、繰り返し学ばせることで人間性を成長させることがその最大の
目的であることを忘れてはなりません。


いくら優れた頭脳を持っていても、人の心が判らない人間にまともな一生など遅れは
しないのです。 

ゆえに思春期くらいに成長して親の顔色を伺う人間であるというのは、幼少期にきち
んと親の顔を見て育った子には無縁の話。
十分すぎるほど親の表情と心を学んできているから、自然に表情と言葉を総合判断
してきちんと相手の心を読み込めるからです。

反対に幼少期に親の顔を見て育たないと、人が何を考えているのか分からず
に発生する恐怖で常に顔色を伺うようになるのが現実。
こちらの方が正解です。

具体的例をあげましょう、不登校や引きこもりの子達の最大の特徴は、まず初めに
やたらと顔を色をうかがうことから始まります、なぜなら彼らはほとんど共通して幼少
期にきちんとしかられて来ていません。

親の怒りの感情をきちんと学ばずにきているわけです。

それが相手の表情から正しく感情を読み取れない恐怖を呼び、顔を常に地面へ向
かせる事となる。
最後は相手の顔を見るとき、上目使いで一瞬だけちらりと相手の顔を見てまた伏せ
るという動作がでて来るようになる。
同時にその恐怖が人の言葉すら遮断させ、耳に言葉は届いても思考はシャットアウ
トされるわけです。
もっと分かりやすく実体験したければ、目隠ししている状態を考えてください。その状
態で自分に怒りを向けている人、行為を持っている人、恨んでいる人、諭してくれて
いる人等など、どう判断するのかを考えてみればすぐにわかります。

眼を隠されるだけで、相手の心を読み取る能力は信じられないくらい貧祖になりますから。

注意:目に障害を持っている人は、音で情報を読みとる能力が非常に鋭くなります、
言葉の震えや音程の高さ、強さなどで判断できるすばらしい能力を持つことになりま
すので、感情を読み取れます。
ところが情報の大半を視覚に頼っている私達にとって、視覚情報である表情が読み
取れないということは、心を読むための情報がほとんど失われるのと同じ、ということ
ですから誤解なきようにお願いします。

幼き頃に十分過ぎるほど親の顔をみて、人の心の動き、すなわち感情の動きをきち
んと学んでくれば、人が怖いなんていうことはなくなるわけです。

続きは来週です、へへ   (^^)> ぽりぽり

 

 


正しく叱る方法 その2

2008年04月25日 | 研究-教育・育児




こう書くと、「そうした考えは古い」とい言い出す人間が必ず出てきますが、

そもそも人間(喜怒哀楽を含めた豊かな感情)を育てるという事に関して古
いとか、新しいという事があるのか?


もしあるとするなら、それを受けて育った子供たちの心にも明らかな違いが
あるはずで、同時に昔と今の人間は全く異なった感情をもつことになるわけ
ですから、この場合「いつ人間(喜怒哀楽を含めた豊かな感情)は新しくな
ったのですか?」と僕は尋ねる事にしています。


違いを年代ごとに明確、そして明らかにしてもらう為に質問するわけです。


日本なら平安時代、鎌倉時代、戦国時代、明治時代、とその時代背景は変化
すれども、そこで生きてきた人間達が今の人間と比べて「感情の何がどう古
いのかを明確に説明してくれ」と望んでいるわけですが、今もってまともな
答えをもらった事は一度たりともありません。


単にみんながそういっているから、恰好がいいから、いかに自分が先進的で
あるかを思わせたくてそういっているわけですが・・・


もし考えが古い新しいで常に違った心の人間達が生まれてくるなら、なぜ時
を遥かに越えた古典文学のなかに心をゆり動かされるものがあるのだろう
か?


なぜ、今でも経典の中に人の真理を見つけることができるのか?


原始時代の壁画に描かれている人の姿になぜ自分を重ねることができるの
か?


それらのすべてが成り立たなくなってしまうわけです・・・


なぜ心は変らないのだろうか?と疑問が浮かんでくるかと思いますが、

複雑そうに見える心は、実は単に喜怒哀楽の基礎感情+経験や学
習によりえた知識で構成されています。

心が複雑に思えてしまうのは、人により得ている知識の差が有り、そこに計
り知れないものがあって感じいるだけのことで、感情そのものは本能がもた
らすものですから、とてもシンプルかつ簡単なものなのです。


分かりやすく例をあげましょう。

例えば、生活に利便をもたらす工業技術の発達は確かに積み重ねられ常に変
化をとげています、しかし、その構成をなす基礎理論になんら変化は無いよ
うに、人間とて基礎理論たる本能に変化というものはないわけです。


携帯電話が発達しようが、火星に人間がいこうが、オームの法則は以前とし
てオームの法則。 数学の方程式は未来永劫同じ結果を導き出します。


恐怖の教育
たるほめて育てる・叱らない教育はその基礎たる法則をまったく
学ばせずに技術を教えていると同じ事でもあり、


1+1=2すら知らないのにどうやって難しい公式を運用できるのか?

これと全く同じ事この教育はしているわけです。


こうしたことからも、大切な叱るという事そのものを排除しようとするほめ
て育てる・叱らない教育がいかに愚かな事かとわかるわけです。


さて、これとまったく反対方向に有るのが自然な子育てなわけですが、

まずは褒めることは大歓迎、素晴しい事ですから、ただし、自然な心で褒め
ということが一番重要で有り、親のもつ何がしかの計算の上でやるなとい
うこと。


同時に子供を叱らねばならない時はきちんと叱る、格好を付けずに正しくし
かる
ということです。


といっても、その正しく叱るということそのものがどうすればよいのか分か
らないから多くの人が悩むわけですが、実は叱るという事これそのものは本
来とても簡単なものであり、しかるそのものは子供の行動や言動に何がしか
の問題や過ちがあり、それを親が不快と認識してまず怒りが発生する、そし
て正さねばならないと判断するからから子を叱る。


たったこれだけのことでしかなく、至極単純、なんら難しくなく当たり前の
ように必要な部分を必要なだけ叱ればよいわけです。


その方法は後ほど説明します。

 


正しく叱る方法  その1

2008年04月24日 | 研究-教育・育児

 


ネットでもそうですが、どうやって叱ったらよいか分からない。叱るのが怖いという言
葉がよく聞かれます。

特に多いのが、“叱っているうちに自分が抑えられなって泣き喚く子を更に叱ってしま
うという事が一番の悩みとしてあげられています。

 恐怖の教育である褒めて育てる・叱らない教育はそうした親の戸惑う心理に漬け込
んでくるものですが、名声や書籍の売り上げ収入とはまったく無関係で気にする必要
もない僕には、親のこうした悩みと子供達の将来に被さってくるであろう苦しみをどう
するかという方が問題なわけです。

 そこから今回は、正しく叱る事について少し書かせていただきます。

まずは、「正しく叱るということが、そんなに難しいことだろうか?」そう考えてみてくだ
さい。

 人間は神様ではありません、あくまでも生物の一つであり、間違いを犯すのも人間、
ゆえに初めから完璧(正しいとは別です)な叱りかた等という事は存在しないというこ
と。

 そして子育てはおよそ20歳を一つの区切りとして考えるわけですが、その時間とい
うものは膨大な量で、 親は初めから親なのではなくて子供を育てながら悩み苦しみ
つつ本当の親になっていくのだということです。


例えるなら子供が叱られてつらい思いをしているのと全く同じに、親も叱る苦しみに
耐えねばならない。


本来は
供に成長をするもの
だということです。


注意
:ほめて育てる・叱らない教育をしていると、幼少期の頃は確かに上手くいきま
す。 というか上手くいっていると大半の親が勘違いをしているのです。

理由は至極簡単、親に対して従順であることに疑問を持たない未熟な幼少期は、こ
うした誘導的な手法により割と親の思うとおりになるからです。

だからこそ問題なわけですが、そこにきて上記の教育をしていると親の”親としての
成長が止る
”という副作用ともいえるものが発生します。

本来なら親が悩みながら子供を育てることで供に成長し結びつきが強まるはずが、
子供も親も精神的には成長できないままとなり、

これは親子の結びつきの弱さを象徴しますから、第二次反抗期が始まる頃になると
幼い精神のままおこす子供の問題は大きなものばかりとなり、又それに対応すべき
親も親としては幼児のままですから、ただ子供の言いなりになることで体裁を保とうと
する事態が起きてきます。

モンスターペアレントはこの流れの先に存在します。

叱ると言うことは親にも子にも精神的な成長をもたらすのだということを覚えておいて
ください。 


人間は馬鹿ではありません、そしてそれは子供とてまったく同じであり、

その20年の歳月を通して有るときは間違い、ある時は躊躇し、ある時はた
だ感情的にという様々な親の姿を通して“人間”その物を学んでくる、

たとえ今日の親に間違いがあるように思えても、膨大な時間を通して繰り返
される出来事のなかに存在している親の心、
というものを理解してくるよう
にできているのですね。

真面目はかまいません、しかし初めから100%上手に育てようとするから
ほめて育てる・叱らない教育等というものに頼り、付け焼き刃の演技で完璧
な親になりきろうとして子供を育てる。

 

それこそが、いちばん大切な子育てという人間形成の時間を、嘘を演じる方
を親が教えているのに等しいのだといういうことが分らねばならない。

 

こうして素直な心をねじ曲げて子供を育てれば、他人の心もそういったもの
として育ち、

何が本当で何が嘘なのかが分らない人間となる、その分らない恐怖が引きこ
もりや、最近の意味不明な犯罪の原因となっているのだと、これもしっかり
理解しなければならないのです。

人がこの世に生まれ、現代いにたるまで、人は子を叱ってきました。

叱ることが心を傷つけるだの悪影響を及ぼすだの言い出したのは極最近のこ
とで、
それまでは、子供を育てるための一つとして事はあたりまえの事だっ
たわけです。

また、誰も何の疑問も持たずにそうしてきたわけです。

 


正しく叱る方法 予備知識 その2

2008年04月23日 | Weblog

 

ほめて育てる、叱らない教育という恐怖の教育は、この一番初めになさね
ばならない人格形成という概念を排除してしまい、そのまま社会に出してし
まうわけですから、社会観点からの叱るという行為など適切に出来るわけも
無い人間がどんどんと出てきてしまう。

 

そもそもは叱るという感情に絡んだものを経験させないことがその人間の怒
りを制御する事そのものを学ばせないということ
でもありますから。

それが今のような不可解な犯罪を犯す子供たちをつくりだしているわけで
す。

ここでまず頭に入れておいてもらいたいのは、

この叱るという行動そのものが、実は人の持つ怒りの制御そのものであると
いうこと。

人は叱ると言う行為をとおして、怒りを制御する事そのものを子供に受け継
がせている
のだということなのですね。

叱るという行為がなぜあるかという大本をたどれば、それは生きていく為の
基本ルールと危険から実を守るために有るわけで。

そうであるなら、まず基本となる叱るをうけ、その後で成長にともなった発
展した形としての社会という観点からの叱るを覚えねば、いったい何を基に
叱るのかすら分からない人間になるし。

何より恐ろしいのが、自分は一体なんでしかられているのかという簡単なこ
とさえ分からない人間になってしまうわけです。

叱るは大本が怒り、故に十分に叱るという経験を経ないと全て自分への攻撃
としか受け止められなくなる。

上司に叱られて逆恨みして会社に放火した、知り合いに叱られてパニックに
なり人を刺し殺した、親にしかられて棄てられたと思ったから親を撲殺した
等、先生に叱られたから憂動物小屋の生き物の首を全て跳ね飛ばした、これ
すべてなぜ他人の叱るがなぜあるのかということがまったく理解出来ないこ
とが、自分への攻撃という認識と、相手の心を理解できないことによる恐怖
と結びついておきたことなのです。

 

 

予備編終わり 明日は本編へ 

とても簡単ですよ (^^)


正しく叱る方法 予備知識 その1

2008年04月22日 | 研究-教育・育児
なぜ叱るのかということを考えてみましょう。
叱るという行為は人間だけにとどまらず、動物の世界でも当たり前のように見られます。
当然ながら言葉という文化を持たない動物はその叱る範囲も限られて来ますが。
基本的には生きていく為の基本的ルールと危険から身を守ると言う二つが基本となっています。
当たり前の事ですが、動物でも種が高度化すればするほど、こうした叱るもしくは然るに値する行動が見られるようになります。

脳幹は本能そのものですから、それだけで生きている生き物に叱ると言う行為はほとんど有りません、ところが人間に近くなり社会性というものをもち始めるほどそれが顕著に現れてくるようになります。
簡単な例をあげるなら、蛙から始まりワニ、ねずみ、犬、サルというように。
大脳が発達しているほど自然に見られる行動でもあるということです。

もちろん人も単なる動物の一つでしか有りませんから、もちろん有って当然。
ただ、人間の場合、更に高度化した頭脳により、さまざまな叱ると叱られるという関係を作り出す事も可能になっています。
この辺が単なる動物とちがうわけで、強者弱者、親子、支配者被支配者というもの以外に
論理的倫理や社会規範としての逆転を作る事が出来る。
例えば正義であるかどうかという観点から動物の世界とは異なった叱ると言う行為が存在するのも人の特徴なのですね。
さて、こうした人の叱るは、子供の教育においてどう有るべきかという言うなら、まずは人格形成が基本にあり、その次に社会という観点からの叱るを育てねばならない。

来週は 正しく叱る方法(コツ)について書きますね。

2008年04月19日 | Weblog
正しく叱る方法なんて無いと思っている方が大半だと思います。
でもとても簡単で特効薬みたいな方法がきちんとあります。

子供をお持ちのお父さんお母さん、叱りたくなったときは
それが必要だからこそ、そうした思いが湧くわけですから、
素直な心で子供を叱ってあげてください。

来週に2回か3回にわけて、取り上げます。 (^^)

ほめていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか その3

2008年04月18日 | 研究-教育・育児

再度登場させますが、褒めて育てる、叱らない教育はやはりここでも大きな問題を発生させます。

心が素直で自然体で有ればこそ、そこに“その人”という姿が現れます、
しかし褒めて育てるという教育を受けてくると、先ほども書きましたが、喜び=利益の為というふうに育ちます。

思いやりそのものは、本来そこに自分への利益というものが無く、まったくもって相手の為そのものでしかありません。
もちろんそれを受けた相手が何がしかの利益をもたらしてくれることはあるかもしれませんが・・・

人の心は非常に鋭い能力をもっていますから、その思いやりが純粋な心から発せられているのかどうかくらいは簡単に見破ります。
褒めて育てられると、利益を目的とすることが当たり前として育っている為に、本人は思いやりだと思っていても、受け取る相手は利益をあてにして思いやりを装っているのだというようにしか見えません。 

非常に”卑しく”みえるわけですが、これが嫌われたりいじめられたりの明確な原因となるわけですが、当然に心を割って話してくれる友人など出来ることもない。
基本的に自分の利益ばかり求める人間に対して心をこうなどとは普通の人はおもわないからですね。

常にあいだを開けられている意識は不安を生じさせ、とにかくみんなとつながっていようとして携帯電話を手放せない、相手が寝ていようがメールをお構いなく送り、即座に返信がこないと不安になる。
仲間の前で違う自分を必死に演じ、何とか関係を保つ為に、そのままの自分を隠し通そうとする。
一日中演技しているわけですから、当然に疲れ果て、常に物事がだるく感じられ、だんだん人と接することが面倒になる。
こうして疲れの限度をある日越えれば、ぷっつりと引きこもりか、逆の問題をおこす。

これすべて、褒めてそだてる・叱らない教育により「思いやりは報酬目的」として育てられてしまったわけですから、それにより嫌な思いをしても、自分の一体どこが悪いのかということも分かるはずもありませんし、それが膨大な苦しみとなる。

こうして育ってしまうと果たして“元にもどせる”のか?

私が研究のために学習をさせてもらっている施設の子達を見る限りは、

「残念ながら出来ません!」とはっきり申し上げるしか有りません。

ただ、違う形ものを学習させることでここでは解決をしていますが、これを普通のカウンセリングや通院程度の事でなんとかしていく事は不可能にちかい・・・。

もちろん本人だけの力ではどうするも出来ません、そういった人間そのものに育ってしまったのですから。

叱らない教育を受けてくると思いやりの心が育ちません、しかし正しく叱られれば育ちまうす。
叱られるという事は、激しい心の葛藤を繰り返すということです。
「大好きな親が、なぜ自分にこんな苦しい思いをさせるのか?」ということを、反発で煮え繰り返る感情の中で考え読み取っていかねばならない。

その繰り返しが、自分の怒りを制御し考える力を育て、将来は相手の心を察し理解し、思いやる心へと成長させる礎になるのです。
よって多くの辛い経験があり(親だけに留まらず他人にしかられる事)、それを乗り越えてきた方がより思いやりのある人間になる。

その原点はすべて幼い頃にあり、幼少期に一番愛情の強い親に正しく叱られるからこそ、怒りの感情を押さえ、それを正しい方向へコントロールしながら生かしていく基礎が出来る。

叱らない教育とやらで育てば、自分の怒りはおろか、他人の怒りを処理する訓練など受けてもいないと同然。
思いやる余裕などあるはずもなく、パニックになった心は本能のまま防御のために相手を消滅(殺傷)させるか逃げるかと、どちらかを選択する事になります

青少年のすぐに切れる、逆切れ、逆恨み、もしくは自分の殻に閉じこもる、殺人、自殺願望、自傷等など、最近の不可解な問題は全て“褒めて育てる・叱らない教育”により育てられた子の数が増えるのに比例している事実は絶対的に否定のしようがないわけです。

優しい子に育てるのなら、親はまっさらな心と自然な感情で褒め、そして叱ること。
恐怖の教育によって(親の利益のために)捻じ曲げた心で育てた子供は、一生対人関係における苦しみを背負っていかねばならないのだという事を、もう一度よく考えていただきたいのです。


ほめていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか? その2

2008年04月17日 | 研究-教育・育児


分かりやすくする為に簡単な例をあげるなら、何が有ってもドンと構えているお父さんがいて、逐一まとわりついてくる我が子の頭をグシャグシャなでまわしている姿に優しさは見えても、
そうされている子供がお父さんに優しくしているとは誰も思いません。

女性が優しい男性を求めるのも、基本は保護にあり、種族保存において自分と子供たちを中心とした家庭という社会を構成していく強い能力を相手に求めているわけです。

と、こう書くと夢も何も無いので、女性からは嫌がられますが (^^;)はは

ただ、青少年問題を考える上ではそんな事をいっていられませんから、このまま話を続けます。

では、どうしたら優しくなれるのか?という事ですが、

まずは逃げない姿勢、これは心そのものが強くなければなりません。
優しさは強さそのものであるということです。

いかなる状況でも逃げずに闘うことで困難を乗り越えようとする強き精神と、そうした心にまで成長するまでに学んだ数々の経験と体験が有って初めて動じない安定した心となります。
嫌なことや辛いことからひたすら子供を遠ざけていれば優しい子になるとおもっているとまったく反対の結果が出る・・・
代表的な例が教室で他の子が先生に叱られているのをみて、気分が悪くなった、学校に行けなくなったというのがまさに代表的なもの、こうした子はまずまともな人生を歩むことはおろか、将来の不登校を100%約束されたと思ってください。

話しを戻します、優しい子=強い心を持つ子にするには、正しくほめる事と叱る事で子供を育てることが必要。

ただし、ほめて育てる・叱らない教育ではこれが出来ません。

褒める事はとてもよいことです、しかしそれはあくまでも子供の進歩を親が感じとった際に“自然に起きてくる喜び”をもとにすべきものであり、

それ以外に褒める事を多様(悪用)したとて、それはあくまでも親の演技による謀りごとでしかなく、子供のためというお題目を唱えながら実は親が都合よく子供をコントロール(子供の心を騙す事)する事にほかなりません。

実は褒めて育てるという教育法をやりたがることそのものは、子供の成長に親の欲を絡めていることがほとんどで、短的には独りよがりな目的の為に的はずれな知識を鵜呑みにして子供に接するわけです。

人間は親の心のをそっくりそのまま身に着けて成長しますので、こうした育て方では、
親は自分の目的の為に褒める=子供は褒められる為の行動を目的とするようになる=常に何らかの評価や利益が無ければ行動しない人間として育つ=大人へ成長していくに従い備わってくるはずの、“自分の為になす”(利益ではない)喜びというものを学んで成長することが出来ない。

となります。

本来親の自然な喜びを元にして育つということは、喜が常に利益をもたらすものだけではなく、無償のものや、何気ないもの、奉仕することまで含んだ豊かなものであることを学ぶことになります。

親が自分勝手な目的のためにやたらとほめる事と、自然にわきあがる感情をもとにして素直にほめることでは、これだけの差が生まれてくるわけです。

この二つの差が出る簡単な例をあげましょう。
育児ですが、それそのものは無償であり、しかしそれが喜びそのものであるわけです。
ところが、褒めて育てる・叱らない教育を受けて育つと、子供を育てるに逐一利益(報酬)を求めるようになります。
さまざまなストレスと思うようにいかないのが育児の当たり前。

当然の事ながら怒りを制御できないのが褒めて育てる・叱らない教育で育った人間の最大の特徴ですから、この二つが合わさり幼児虐待や育児放棄が平然と起こるようになる。
正しく叱ろうにも自分がそれを学んでいたいために、出来ないという致命的な問題も生じます。

また、育てられたとおりに”自分の為に子供が何がしかをするのが当たり前”になっていますから、子供のそのものの人格ではなく学校の成績ばかりを気にするようになる。

自分の行動により子供が必ず結果を見せてくれねばならなくなるわけですね。

もちろんこれが如何におかしな事かは、褒めてそだてる・叱からない教育を受けてきた人間にはわかりません。

それそのものが”その人”となっているからです。
だから虐待をしてもそれがなぜいけないのかということが分からない、また虐待を自分でとめることが出来なくなる。

それを防ぐための優しさを構成する要素がこうした育ち方をすると無いわけです。

人の行動は本能を行動の源にしていますから、本能を無視した歪んだ教育を受ければ育児という本能すらまともに働かなくなるのはこれまた当たり前のことであって、心の闇だとかなんだとかいっても、その原因と本質は難しくも何ともなく、とても簡単なものなのです。

常々繰り返していますが、叱らない教育は、生きていれば避け得ない自分へ向かってくる攻撃や困難、苦しみなどに遭遇した時、自分の心に発生する怒りの感情を押さえ、そしてその怒りを自分の正しい未来へ生かしていくという重要な力を育てません。

優しさの基本である、強い心と安定というものが無く育てば、親殺し、子殺し、動物虐待、凄惨ないじめ等がなぜ多発してくるのかという相関関係は容易にお分かりいただけるかと思います。

次に、優しさを構成している思いやりですが、優しさと思いやりは別々に使われることがあります。
例をあげましょう。
ある人物がとてもきびしい態度だったとします、ただそこに相手の未来における進歩を望んでいることが明確である場合、
たとえそれが攻撃的に見えたとしても、それをする側と、受けとるほうの両方に相手の心を読み取る正しき力があれば、“思いやり”という解釈が正常に成り立ちます。
攻撃性が無い場合は優しさになりますから、優しさそのものは思いやりの一部とし考えることも間違いではないかもしれません。

その3へ続く

雑巾?と日本人の心

2008年04月16日 | Weblog
この間から久しぶりに任された新人教育、技術教官もすることある僕にはいつもの事ですが、今回はまあまあ使える2人。

アメリカに生まれ育った彼ら、東洋の島国に来ておかしな叩き上げ英語をつかう日本人の僕に、自国の物を学ばせられるとは思いもしなかったでしょうね。

厚さ10cmほどある分厚い専門書を基にいろいろと教えていきます。

一区切りついたところで、心の訓練でもやらせるかとばかりにバケツに水を汲んで洗剤とブラシ・雑巾を渡し、綺麗になるまで徹底してこれを磨き上げろと課題を出します。

1時間ほどして「マスター終わりました!」 ←そんな歳じゃないんだけど・・・   (^^;)

と来たので見に行くと、「まだまだ・・・」と一言。

もう一度やりはじめて30分、呼ばれて再び見に行くとまだ駄目。

当然に再作業。

更にしばらくしてまた来ても再再度の駄目出し。

繰り返される駄目に、思惑通りふて腐れ始める2人、そろそろかな思った時点で日本人の考え方と掃除をからめて教えます。

日本刀でもみせて心でも説けば確かに恰好は良いですが、それではまったく現実感がない理論だけの話になってしまいます。

雑巾の方が遥かに具体的に分かるのですね。

磨き上げた終わりが、僕のOKだと思っている事そのものが誤りである事をどう教えるか、 なぜ終わりが私の基準ではないのか?

という意味を理解させることが、突き詰めれば彼らの未来に大きな財産を残します。

一人は結構まともな教育を受けているので、即座に理解してやり始めますが、もう一人はなんとなく反抗的。

こうした場合、更にいくつもの例をあげて補足していくことで徹底して“なぜ”という意味を教えます。

最後に今度はどこまでで終りか自分達で決めろと言い放ち其の場を離れました。

指示を待つな、掃除は作業ではなく心と考えろ、終わりは常に自分にある、故に何をするべきか?

こうした言葉の先に有るものを彼らが理解してくれていることを僕は望むのです。

しかし、片言の日本語で「先生」、「先生」と人懐っこい・・・

僕の祖先が侍かどうか聞いてくる彼らは、ほんとうに純真です。


褒めていれば、叱らなければ、優しい子に育つのか? その1

2008年04月16日 | 研究-教育・育児


よく、あの人は優しいと僕達はいいます、でもどういったものが優しさなのかという明確なものはありません。

ぱっと思いつくものをあげてみるなら。

態度が優しい、接し方がやさしい、言葉が優しい、ということになりますが、
これら全て対物、対動物、対人間への“行動”そのものを表しています。

共通しているのは攻撃性が感じられない、ということですね。

しかし、単に攻撃性が無ければ優しいのだとすると、無感情な物はすべて優しいということになってしまいますので、他に重要なファクターがあると考えねばなりません、はたしてそれは何なのか? 答えは“思いやり”というやつです。

* 優しい雨というような表現がありますが、これは雨というものに人間の感情を擬制して考えるためで、ここでいう優しさとは違います。

これは相手の気持ちを考えられる、相手の心を察することができる、そしてそれに応じた行動が適切に取れるということですが、

この思いやりと攻撃性の無い事が合わさると一般的に言われる優しさになるわけです。

これをすこし細かく分析してみましょう、すると優しさの基になる攻撃性がないということは次の二つに分けて考えられます。

一つは優しい方の持つ力が相対的に強くて防御する必要がないことから攻撃性そのものが現れない。
もう一つは優しいほうが完全に逃げの姿勢にあることにより攻撃性そのものが感じられないということです

後の方は、時折カウンセラー等がよく引きこもりの子や不登校の子と接して、親や友達を気遣う等のその姿を見て「優しい子だ」と表現するわけですが、僕からすればこうしたカウンセラーの物言いは心を読み込む能力が無い事を露呈しているようにしかみえない。 
優しいという事をそもそも誤って解釈しているとカウンセリングに効果はでません、きちんと分かっているのなら、200万人を越える引きこもり問題はとっくに解決していますから。

この場合の子供から発せられる気遣いは、本当に気をつかっているのもありますが、それ以上に大きなウエイトを占めるのは自分への攻撃防御のために終始周りからの情報を気にして張りつめている状態であり、一見すると思いやりに見えますが、その背景には必ず怯えが存在しているわけです。

怯えがあるからこそ、辺りをよく観察するという行動をとるわけで、それを優しさとかん違いしている段階でカウンセラーとしては失格?

本能をほとんど無いものとして(人は神が作ったもので動物と違うのだという考えがあるため)構成されている西洋式心理学をそのまま輸入して人間は自然の一部としている価値観をもつ日本の心理学としているのですから、こうした過ちが生じたとておかしくはなく、カウンセラーの責任ではありませんが・・・


優しさそのものは、先の第一印象的なものから始まり、最終的にそれを受け取る側との心の交流の先に明らかな評価として認識されるものですが。

その際に優しさを決定づけるは、常に心が安定している事と、思いやりのある事、の二点がバランスよく成立していなければなりません。

もし逃げの姿勢が有れば、何を働きかけても自分の都合よい方向へしか返答しますから優しいと思いません。

心が不安定だと、人を思いやる以前に自分の不規則な感情が表に出てしまい、これも優しくは無い。

思いやりが無ければ、どんな態度も優れた言葉のも相手に伝わりませんし、下手すると平然と心に擦り傷を負わせてしかもそれが分からない人間となる。

優しさとはそうしたものですが、

これを「本能で優しさを考えるとどうなるか?」ということですが、優しさは社会形成本能の一部であり、種族保存本能とかさなって存在するものであるということ。
基本的に優しさは強者と弱者との関係が大きくなるほど鮮明に成り立つもので、
強者が弱者に優しくすることは、社会形成という見方からは保護と上下の構成関係を明確にさせるという意味しかないわけです。

注意:思いやりは上下関係の明確化とは別のものです