Cogito

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四国へ

2008-04-25 22:34:08 | 国内の旅

はじめに

1月のことだ。知人のKさんから移転の通知を頂いた。去年の秋、幼年期を過ごした久万高原町に移ったこと、そして手書きで、4月に早まりそうな町長選に挑戦する予定だと書いてあった。今年は4月にロシアへ行く予定をたてていた。申し込みもした。しかし、Kさんは市民派議員として活動してきた仲間である。Kさんは茅ヶ崎市議を16年つとめ、市民派議員会議の代表も勤めてくれた。町の選挙なら役にたてるだろう、と言うことで、すぐさま海外旅行はキャンセルして、4月にはカンパを届けに四国へ行く腹積もりをした。

そして久万高原町を調べた。平成の合併で4つの自治体が合併して出来た町である。面積は横浜市の1.3倍、人口は1万人余り。財政比率は低いし、公債比率は高い。要するに財政力が乏しい町である。しかも高齢化率43%という過疎の町だ。この町を何とかしようという意欲満々。えらいなぁ。データは愛媛県のHPの中にある。議員も旧態依然で、全部男ばかり。      

                                                   3月になって、選挙予定を聞くために電話すると、選挙の予定は8月までなくなったと状況を話してくれた。あれま、でも予定してしまったのだから、四国には行こう、そして久万高原町を見て来よう、ついでに四万十川によってこようということになった。ちょうど、テレビで鞆の浦の道路問題を取り上げていた。初めから全部見たわけではないが、世界遺産にも登録されそうな景観をつぶして県道を作る計画があり、それに対して反対運動がおきている、と報道していた。なら通り道だ、ちょっと寄って現場を見て行こう。上関町の祝島の原発予定地も見たいけど、これは遠すぎる。                                         

                                                                                                                                                                                                                                              

◇2008年4月15日(火)晴

4時半に起きる。5時38分出発。6時35分沼津から東名に乗る。 浜松SA・多賀SA・で休憩、順調に行ったのだが、吹田で山陽道に乗りそこない、西宮・神戸に行ってしまった。そこで神明道路を姫路を目指し、途中から山陽道に戻る。この間の芽吹きの山は優しい色でとってもきれいだ。

Photo 鞆の浦によるべく、福山東で下りる。ここから30分以上、やっと鞆の浦に到着。鞆の浦の道は幅もあり、がらがら。どこが渋滞するんだろう。鞆の浦は潮待ちの港として栄えた歴史ある町だ。海辺にはホテルが建っている。そこで泊まろうかと思ったが、バスがついて団体さんがぞろぞろ降りたのでパス。車を有料駐車場へおいて歩き始める。船着Guide_2 場まではかなりの距離がある。そこで車を出してもう一度近くの駐車場へ入れ る。海際の堰堤に上って、島々の写真を撮っている。手前にある五重塔のようなもののある島が弁天島、その後ろが仙酔島・・だ。陽を受けて、島並みがきれいだ。                

Kannban 「船がでるよ」と呼ばれる。船って、観光船だと思ったら、仙酔島までの連絡船。船賃は往復で240円。ここで地元の人たちに道路問題を聞いたがあまりぱっとしない。島に渡り、チラッと見て戻Sennsui_2IwaBrigdeる。

      

                      

                 

                                                                                Tomogyokou_3 鞆の浦で一泊の予定だったが、まだ日も高いので先に進む ことにする。地図で見ると、沼隈半島を回って尾道に通じているようだ。そこでその道を進むと近くのオバサンが行き止まりだ合図してくれた。

Tomo1_2 左手は入り江になった漁港、船がずらりと並んでいる。目の前に和風の素的な灯台がある。オバサンに「あれは何ですか」と聞くと「常夜灯」だと教えてくれた。それにつながるように、雰囲気のある木造の家が並んでいる。あれは文化財で、上の公民館から高いところに上ると、鞆の浦が一望できるという。 細い道を上がり、下りようとShouka すると次の車に、ここは一方通行だと言われた。狭い、狭い車一台やっとのような道を、ゆっくりとだがあちこち走りまわった。交通渋滞とはここのことだろう。う~ん、これでは、非常災害時には車は入れないだろう。なるほど、住民の要望もわからないわけではない。もう一度港に戻りたかったが、一方通行なので道がよくわからない。のろのろと迷っている湘南ナンバーを見て年寄り達がなにやら言っている。 たぶShouka2 ん、計画はあの漁港を埋め立てて、あの常夜灯の前に車を通す橋をかけるというものだろう。景観とは自然の景色だけではない。人の生活も含めてこそ良好な景観なのだと思う。そういう意味では、この町の雰囲気を壊してしまうのはもったいない。一旦失われたら、どんなことを言っても、二度と回復できないものだ。多くの先例が示している。行政も住民も頭をやわらかくして、専門家も交え、知恵を絞って、いい方策を模索してもらいたいものだ。                                        

Img_3336 尾道へ出るつもりがまわりまわって福山に戻ってしまった。福山から尾道方面へ走ると、沼隈半島への接続点があったから、間違わなければここに出たんだ。 しまなみ海道の入口に出た。しまなみ海道は車どおりはほとんどなく、快適なドライブ。夕日が海面を染め、実に美しい。ゆっくりと景色を楽しみながら走る。今夜は今治泊だ。

駅に出た。駅周辺にはホテルがあるはずなのだが、なんにもない。でもタクシーはある。そこでタクシーに聞くと、向こう側に行けばホテルはごまんとあると言われた。裏駅だったらしい。なるほど表にまわると、ごまんとあった。ステイション・ホテルに投宿。荷物を置き、夕食を食べに出かける。ホテルの人に、食事のできるところを聞くと、「今治は田舎だから・・」という言葉が返ってきた。「えっ、今治って田舎なんですか?そうは思っていませんでした」というと、「人口は愛媛第二の市なんですが、それは島を合わせてのこと」「タオルを町おこしの起爆剤にしているんじゃありません?私、応援のつもりでタオルを買って帰ろうと思って今治に寄ったんですよ」「あ~、あの人たちは頑張っています。今治の造船はいまだって日本一です」「へ~、造船は知らなかったな」

とにかく外に出た。7時ごろだと言うのに人通りはほとんどない。さびしい感じだ。しかし駅前にあれだけタクシーがいたのだから、需要はあるのだろう。銀行の前を通りかかると、若い行員さんたちが駐車場に鎖をかけている。「この辺で食事のできるところありませんか?」ときくと、「そうですね~、近いのは・・あの交差点の先にイタリアンがあります」と教えてくれた。交差点を渡ると、すぐにイタリアンがあった。ファミレスみたいだ。店内には若い女子たちが陣取ってにぎやかに騒いでいる。うるさいくらいに。注文をすると、飲み物はお好きな物をお好きなだけどうぞと言われた。ファミレスに入ることはまずないので、勝手がわからない。私は紅茶だからいいのだが、Papasanにホットココアを持ってきて、と頼まれたが、やたらと押しても何にも出てこない。近くにいたお客さんにどうしたらいいのか、教えてもらいやっと。私はペンネ・アラビアータと生ハムのサラダ、ティラミスを取ったのだが、どれも味はわるくない。この程度なら、店内もきれいだし、このファミレスは覚えておこう、と言いながらも名前を忘れてしまった。 

◇4月16日 水 雨

よく寝た。「7時半だよ」と言われて、はっと目を覚ました。お願いしておいた朝食、私は洋食を、Papasanは和食を。トーストにジャムが塗ってあった。思わず、うふふ。

今治8:30出発。雨はぽつぽつと降り始めている。予報どおりだ。 317号線で松山へ向かう。いい道だ。それに車どおりも少ない。高速を通る必要はない。この路線は山の中を通っているので、新芽の山々が美しい。新緑より優しいのだ。途中、水の淀みに気がつくとそこはダム、名前は玉川湖。松山大学のボート部の練習艇があるらしいが、その湖畔は桜が果てしなく植えられていて、とても見事だった。平地の桜はすでに散っているが、山に入るにしたがって、桜は今が盛り。さまざまな種類の桜がそれぞれの色で美しい。四国っていいところがふんだんに残っているなぁ、と言っている間に、静かなたたずまいがいっぺんに消え、高層建築が現れ始めた。奥道後だ。温泉場は高層建築がいいと思っているのかねぇ、大間違いだよ。

Dougoonsen でも、せっかく松山を通るんだから、ミーハーよろしく、道後温泉をのぞいていこう。松山の路面電車、あった、あった、と、子どもみたいに喜んでいる。だけど、道後温泉、あの有名な建物は、写真を撮ると後の高層建築がどうしても写ってしまう。前の空間が少ないから、なかなか全体は撮れないし。ストラスブールの大聖堂もそうだな、これはしかたがないとしても文化的建築を残すのなら、回りの環境も考えてやってほしかったな、これは行政の仕事だよ。タクシーのドライバーに教えてもらい、砥部に向かう。

                                              Tobe 国道33号線、陶芸の道と表示が出ている。 砥部焼きは磁器である。古い歴史もあるようだが、砥部焼きとしての始まりは江戸中期(1777年)杉野丈助が白磁焼成に成功してからだと言われている。

Tobesiryoukan まずは砥部陶芸資料館に行く。砥部は砥石の生産地であったので、その粉を利用して焼き物を始めたという説明を本で読んでいた。だからついでに砥石も買おうと思って、館の人に聞くと、今は砥石の生産はやっていないと言われた。それは残念!資料館には伝統的な砥部焼きに加えて、現代作家たちの作品を、現代の家具にあうように飾ってある。伝統的な厚めの白い磁器に染付けで描いたものもいいToudo が、現代的な山田ひろ子さんと大東アリンさんの作品が気に入った。アリンさんはフィリピン人なので、感覚が違っていていい、素人っぽいところもいい。そこで工房を教えてもらい訪ねていく。アリンさんの東窯は陶芸の丘にあったが、あいにく留守だった。

Kiyosi 次のひろ子さんのきよし窯は、お祭りにもって行ってしまったので作品はここにはない、ギャラリー・シノンにおいてあるといわれて、また丘に行ったがシノンもお休みらしくシャッターが下りていた。そこで観光センターの炎の里で、置いてあるものの中から選んで、作品を買ってきた。カードが利いたので、ちょっと買いすぎてしまった。                                       

                                        

                                                                                                                           

砥部から33号線をそのまま久万高原町(くまこうげん)へ。三坂峠から見る山並みは霧がかかっていることもあって山が高く見え、いくつにも重なる山並みは深山幽谷を思わせ美しかった。いいところへ来たなぁ、いや、いいタイミングだった。 久万高原町に入った。久万高原町は4つの自治体が合併して出来た町である。四国の軽井沢、四国の北海道とも言われている。面積は横浜市より広い、なんて下調べはしてあるが、どれが元の自治体のどこだかわからない。とりあえず33号線をくだり、途中「でんこ」と言うお店でお昼を食べた。通りを菅笠をかぶり、雨合羽を着た人たちが歩いていく。はは~、ここもお遍路さんの道だったのだ。お店の人に「ここはどこですか」と聞くと「久万高原町です」「それは分かっているのですが、久万高原町のどこですか?」「久万です」「すると、ここが中心と言うことですね」

すぐ先のお饅頭屋さんで「おくま饅頭」を買った。なんでもおくまと言う女性が、旅の僧にお饅頭を振舞い、お礼に願い事をかなえてあげると言われ、ここらへんは人が少ないので、大勢の人が来るようにしてくださいと頼むと、僧は願いは必ずかなえてあげると言った。その僧が弘法大師だった。大師は近くにその札所を建て、大勢の人が来るようになった。そこでおくまさんの名前からこの地を久万というようになった、と店の人が説明してくれた。なるほど近くに岩屋寺という札所があった。

ガソリン スタンドでガソリンをいれ、ついでに冷房用のガスも頼むと、倉庫から探してくれた。その間中で女主人と話している。するとそこにKさんの顔写真のついた名刺が置いてあるのをみつけた .そこから話が弾んだ。ついでに余計なお節介で久万高原町の財政などを話している。町民は町の財政なんて知らないものだと思うから。PapasanがKさんに電話をすると、久万高原美術館に寄って行ってという。聞き耳を立て、どんな収蔵品があるの?と聞くと、父が寄贈したものだと言う。なら寄る、と言うと、Kさんも美術館に用事があるから、30分後に美術館でと約束する。お父さんって画家だったのかな??

Museum_21  久万美術館、坂を登ると、もう広々とした庭園の中、と言った感じだ。桜や木蓮、三椏、シデコブシなどが咲き乱れ、美術館を包んでいる。思わず、「お~、いいね~」と声をあげる。駐車場に車を止めて、美術館の中へ。靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。ええっ、と思ったら、この美術館すべて木造だった、木の感触がなんとも柔らかで温かい。美術館が出来て20年ほどになるが、当時、木造で美術館を建てるこMuseum21_3 とは禁じられていた、が、木材の産地だから地元の檜や杉材を使いたいと申し出て、国から調査団も来てやっと許可が出たということだ。純木造の美術館はおそらくここだけだろうと言う。太い梁、それを支える太い丸い柱。この柱は樹齢80年を越える杉の柱。そうだな、三岸節子の記念館も木材がふんだんに使ってあったが、純木造ではなかったろう。香月泰男美術館は生家を使っているので木造だそうだが。

Muse41 展示してある作品も、田舎の美術館だから、と思っていたら、どうして、どうしてすばらしい。日本の洋画の草分けとなった黒田清輝、高橋由一、浅井忠もある。村山槐多、萬鉄五郎、長谷川利行などの夭逝の画家たちの作品も並んでいる。鳥海青児もある。これはたのしい。 そこへ館長さんがいらして、紹介された。館長室に招かれ、入ると飾ってある写真の男性がKさんそっくりなのに気がついた。館長さMuse71 んに聞くとはたしてKさんのお父さん、お父さんは林業家で、多くの美術品を収集されたのだそうだ。現代画廊の州之内さんとか知っている名前が飛び出してくる。館長さんは愛媛新聞の文芸部にいらした方だとか、なかなか幅の広い人だ。これはいい人が館長になってくれた。美術館の運営は館長の力によるところが大きい。トーク・ショーやコンサートも行われているようだ。そこで久万美術館で開催された「州之内・井部コレクション展」の立派な図録を買った。装丁がいい。表紙は林武の「星女嬢」(宮城県立美術館蔵)

Muse81 帰宅して「州之内・井部コレクション展」の図録を開いてみた。コレクターの故井部栄治(よしはる)氏は実業家で、町議、町長、県議等々の要職も歴任した人。それにしても、これだけのコレクションをしたのだから、なかなかの審美眼の持ち主だ。それを裏付ける言葉が本の中にあった。

「人間には美はなくてはならない。美があるからこそ、人生に潤いが出来る」「一度美しいものにとりつかれたら、どこまでもBook_21 それを執拗に追い求める熱意と根性がなければコレクターとしての資格はない。金と時間さえあれば骨董なんか自然に手に入るものだという考えは間違っている。美を発見する目と美に対する熱情とが、われわれを駆り立て、それを獲得するまでは一歩も譲らないと言う気概がなければ、美術品を集めることはできない。」

そうだろうなぁ。井部氏の情熱を注いで集められた美術品、それを寄贈されて出来た久万美術館、久万高原に行ったら是非とも訪ねてほしい美術館である。

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箱根湿生花園

2008-03-27 17:37:18 | 国内の旅

Photo 山には雲 が出ていたが、下が晴れているので、箱根湿生花園に毎年のことながら、水芭蕉やザゼンソウを見に出かけた。湯河原の桜はもうほぼ満開。

山にのぼるしたがって冬が逆戻り。富士山は厚い雲の向こうで見えない。しかし下界には陽が当たっているのが見える。

Katakuri ビジターセンターで犬たちを遊ばせて、湿生花園へ。車を降りた時点では光があったので、園内に入ると、いつしか雨がぽつぽつ。よく見ると雨ではなく霰だ。ふあ~、やっぱり冬だ。寒い寒いと騒ぎながら園内を急ぎ足で動く。

                                                                                                      

1 水芭蕉も葉は伸びてしまっていたが、花はみずみずしくてきれい。ザゼンソウも葉が伸びて、でもこっちはザゼンソウの褐色の色との対比は極端すぎてあんまりいただけない。

Zazennso 2時に熱海に行かなくてはならないので、急いで小田原に下る。のぼりはすごい渋滞。シーズンなんだなぁ。当分は箱根には来られないね。6月、ブルーポピーが咲くまで来るのはやめよう。

                                                                                                                        下は花の季節。サクラもモモもそうだけど、道端にも畑にも菜の花の黄色がまぶしい。

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北の大地をドライブ

2007-07-30 18:20:42 | 国内の旅

Nibudani_1  北海道をレンタカーを借りてのドライブの旅は初めてある。出かける前に、トヨタレンタカーに電話し、二人なので小型のVitsを予約しておいた。日頃、マニュアル車に乗っているので、マニュアルを希望したが、マニュアルはないということだった。ホテルは帰る前日の札幌のホテルだけは予約したが、後は毎度のことながら、行き当たりばったり、ということにした。

7月18日(水) 曇り

6時56分で出発。羽田着9時。急いでチェックイン。スカイマークだ。
9時15分発。11時5分着。教えられたとおりにレンタカーの受付に行くと、かなりの人。バスが迎えに来て、全員それにのって、近くの「すずらん」まで行き、手続きをする。

Ainu1 (町立アイヌ民族博物館)

                                             

まずは平取町(びらとり)を目指す。
なんせ遅れている夫婦、音声ナビは始めて。レンタカーのスタッフが目的地を記録してくれた。音声が案内してくれる。でも結構うるさい。それでも日高自動車道を富川で下り、国道237号に、とナビにしたがって平取までは楽だったが、入力が平取町だけで、平取のアイヌ資料館を入れなかったので、その近辺からナビが間違い始めた。私はすずらん群生地を目指した知人が アイヌ資料館へ偶然行き着いたくらいだから、国道沿いにあると頑張ったが、運転手がナビにしたがってみようというので言う通りに従ったら、山の中に誘導されて、途中やっとあった建設現場で聞く始末。もちろん戻った。でも案内は間違ったコースを繰り返している。「もうお前なんて信用しないぞ!」と私が怒鳴っている。

少し行くと食堂があった。そういえば朝から食事をしていない。わがままは言っていられないので、そこに入って、五目ラーメンを頼み、道を聞いた。この道を10分ぐらい行けばすぐわかるということだった。

Papasanがなかなか入ってこない。「何してるの?」ときくと、キーがぬけないのだという。お店のオジサンも行ってくれたが、キーの抜き方がわからない。「そんなときは電話をすればいいのよ。携帯持っているんでしょう。」「携帯かけたことない」「しょうがないね」オートマチック車はパーキングにしないといけなかったんだ。
五目ラーメンが出来てきた。うわぁ~、量の多いこと!一生懸命食べたけど、やっぱり残してしまった。「おじさん、量が多いよ。もう年だからそんなに食べられないよ」「そうかい。若く見えるよ。」年を聞いたら、私より下だったが同世代だったので、話が弾んでしまった。
確かに道なりに行くと、簡単に見つかった。ナビのおかげで時間のロスをしてしまったよ。

Damu1 Dam2 二風谷(にぶだに)湖、これはダム。このダムを作るのに反対運動があった。ここは古来からアイヌの人々が暮らしてきた大事な土地。アイヌである貝澤さん、萱野さんたちは「二風谷を盾として、人間(アイヌ)の権利を求め」訴訟を起こした。最高裁はアイヌ民族の先住性を認め、ダム建設を違憲と判決したが、それでも建設はとめられず完成してしまった。1997年のことだ。二風谷ダムのダムサイトには、公園が作られている。しかし誰もいない。ここで遊ぶ子供もいない。たぶん、こういう施設はダム建設の見返りとして作られたものだろう。言ってみればアメである。どこもそうだが、見返りのアメは有効には利用されていない。

Sarugawa ダムの近くに、沙流川歴史館がある。沙流川という名前は中学から知っていた。平取町に住み、苫小牧の寄宿舎に入っていた女子高生と中学生のとき文通していたことがあったからだ。隣は町立のアイヌ民族博物館だ。

Buraku Buraku2 Buraku3

                        

 

                                              

                                              

Kayano その前が伝統工芸館、道を隔てて萱野茂さんの二風谷アイヌ資料館がある。ここはアイヌの人たちの土地であり、沙流川は彼らの生活の場であった。萱野茂さんたちはアイヌの文化を存続に努めた。個人の収集品だが、よく集められている。アKannban_1 イヌ文化を日本人に伝えたのは、彼らの努力が大きく寄与したことは否めない。鮭の皮で作った靴や外套があった。アムールの朝鮮族も同じような物を作っていたように記憶している。

展示されている写真がすごい。萱野さんが撮ったものだが、生活習慣がよく撮ってある。アイヌは狩猟民族だから、いけにえを神にささげる文化があるのだろう。一時禁止になっていた熊送りの儀式も復活が認められたようだが、文化と伝統を否定しないし、人間だれもが多くの生命を頂いて生きているのだが、それはわかっているが、熊送りの子熊は写真でもかわいそうで見るに忍びない。二風谷のダム騒動が起こるまで、私も二風谷の存在すら知らなかった。まずこの地に寄ったのは萱野さんたちに敬意を表するためであった。

萱野茂さんについては:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%B1%E9%87%8E%E8%8C%82


はじめは帯広方面に向かう予定だったが、天気がよくなったので、富良野方面に行き先を変えて、国道237号線を走る。途中道の駅占冠で休憩。

車の前をエゾジカが横切った。街道筋にはスイカとメロンのお店が並んでいる。

Station 5時ごろ、富良野駅前に到着。ホテルを探していると、駅前にビジネスホテルのようなグレース ホテル ロダがあった。聞くと、部屋もあった。
夕食に外に出ると、日差しはまだ暑い。富良野ワインが飲め るおしゃれなフランチレストランを探したのだが、おしゃれなは除いてもフレンチは見つからなかった。やむなく、そば屋に入った。昼間のラーメンがまだおなかに残っていたので、かんたんでもいいと入ったのだが、なんとそばが1人前なのに、2人前ぐらい量がある。さすがに食べられない。北海道の人って、大食なんだろうか、と思ってしまった。私たちが食べられなくなったのは確かだがそれにしても。そういえば沖縄で、東京は食事の量がなんでも少なすぎて、とても足りなかったって言っていたのを思い出した。
通りをふらふら歩いて、ラベンダーのローソクを何本か買った。スーパーで私用に紅茶と砂糖を買った。部屋に湯沸しがあるのを見たので。Papasanもワインとか買い込んでいた。

Koushuudennwa 電話ボックス

                                                   

                                              

                                              

Youkan ちょっと素敵な木造洋館

Ishadatta お医者さんだった。

                                              

Furano

人通りのない商店街

                                                                                                                      

                                                                                                                        

7月19日 晴

Photo_24 目を覚ますと外が明るい。何時?壁の時計は3時40分、まさか。この時計、間違ってる、と自分の時計を見ると同じく3時40分。そうこうするうちに日が昇り始める。4時10分、ひゃ~、あたりに日がさしはじめる。Papasanが北だから夜明けが早いんだよ、と言う。

Himawari 食事前に散歩ならぬ、散ドライブに行く。まだ動きのない農場、玉ねぎ畑の緑、小麦の黄金色、ジャガイモの花。そんな中にヒマワリの花が目立つ。まだ操業はしていなかったがチーズ工房もまわってきた。

Usi_1 7時前食事に帰る。「華麗なる一族」のロケはここで行われた、スタッフがここに泊まっていた、そのときの俳優といっしょの写真だと、宿の女将さんが見せてくれた。

Tatiaoi2 7時半出発。まだ車が少なくていい。237号線を旭川に向けて走る。広くて、まっすぐな道。スピード感がない。はは、こりゃ危ない。気をつけないとスピード違反に引っかかりそうだ。旧式夫婦のドライブは、私が助手席で地図をひざに広げ、標識を見ながら、あっちだこっちだというのがいつも。だから私の方が必然的に地名を覚える。しかし、さすがに目も悪くなって、遠くから標識が読めなくなった。やはりナビは必要だね、なれるためにウチの車にもつけようよ。

Zerubu4  上富良野、美瑛、そこで寄り道をする。ゼルブの丘から富良野メロンを送った。ホテルの女将さんが富良野のルビー何とかというメロンは美味しいんだと言ったので。

旭川で旭山動物園に寄ろうと思って、美瑛を出Zerubunookaるとき、ナビに旭山動物園を入力した。ところが、旭川にあるはずなのに、ナビが左、左と指示して、美瑛に戻ってしまった。もっともそこのジャガイモ畑は絵になった。カメラを持って、ひとり農道を歩いKenmerryno ている。

なんともわからない案内をされて迷ってしまったので、旭川市のインフォメイションへ行く。都会に来ると道がわからなくなるといいながら、旭岳に行く道を聞く。旭山動物園も同じ方向だという。「ぜひお寄りください」と係りは言ったが、そばにいたオジサンが「旭山動物園、混んでますよ」と教えてくれた。「じゃ~パス」

結局旭岳への道も乗りそこなって上川方面39号線を走る。街道沿いに「道の駅 とうま」があった。そこに「でんすけさんの家」があるのが見えた。この間、でんすけスイカを頼んだのはあそこだ、これも出会いだ、寄っていこう。
「お土産にいかがですか」とお姉さん。「もちろん、そのつもりで来たんですよ。」ちょうどトウモロコシも入ったばかり、というのでそれも入れてもらい、知人達に送った。お姉さんが茹でたてのトウモロコシをサービスしてくれた。
「甘~い」と言いながらほおばった。
http://town.tohma.hokkaido.jp/tokusannhin-densukesuika.htm

Souunnkyouatarikara 39号線からはずっと大雪の山々が見える。上川までの山塊はあまり迫力がないが、上川から層雲峡で273号線に入ると、山の姿は大きく見える。
日差しは暑いくらいだが、緑の葉が輝いてきれいだ。両サイドとも深い森。国道は車も少ないが、人っこひとりいない。近くに人家も見当たらない。こんな道に幅広い歩道がついている。だれが歩くんだろう、クマさんの散歩道かな。

三国峠で景色を眺め、糠平から然別湖に入る道道85号線に入る。細い道だ。標識に山田温泉、然別湖、鹿追、というのが見える。ということは、昔、私が行ったのとは道が違う。当時の道は、然別湖、山田温泉の順だったから。かなり距離がある。延々と峠を上って、やっと下り始める。「道の狭さから想像すると、然別湖は昔のままのたたずまいが見られるかも」「いやいや観光化して、アット驚く光景になっているかもよ」

Sikaribetu2 ランプの宿で有名だった山田温泉をすぎると、木の間越しに湖が見える。お~、開発されていない、昔のままの湖だ。一車線の湖畔道をひた走り、やっと開けた場所に着いた。ここにはさすがにホテルが立ち並び、様変わりしていた。遊覧船もあ3_11 る。5分の差で遊覧船に乗り遅れてしまった。湖畔のレストランで食事をする。客は私達以外にだれもいない。少し高さがあるので、ここからの眺望はいい。ときおり山の間から雲がわいては消えてゆく。

4_9 然別湖を2時45分に出て、帯広に向かう。山を下り始めると、急にどんよりと雲が低く垂れ込め、霧が一面にあたりを覆う。あっちの天気はなんだったんだろう。ここからの十勝平野の眺めは感激ものだったけど、といいながら下ると雨が降り始める。

音更町に出たので、よつ葉牛乳を探したがわからなかった。よつ葉の工場には私は二度も来ているのだが、つれてこられたので、道がわからない。東京の電話番号は暗記しているのだが、こちらのは知らない。「東京に電話して教えてもらおうか?」「気を使わせると悪いからいいよ。」

雨が降っているので、ホテルを探しに十勝川温泉に行く。40余年前も、ここに泊ったのだ。十勝川温泉第一ホテルに宿を取る。ベッドの部屋を頼む。部屋は広くて、ベランダもついている。窓からは十勝川の流れが見渡せる。橋の向こうは帯広になる。

夕食に、ワインリストを見て、Papasan用に選んだのが池田のセイオロサム(凋寒)、フルボトルで。この赤は気に入って、池田ワイン城から家に送ったことがある。私は地元の冷酒を取った。すると小瓶のまま出てきた。「ビンのままなんて、色気がないわねぇ。お料理は素敵なのに」ウェイターは困った顔。「ビンのラベルを見せたかったんじゃないの」とPapasanが助け舟を出す。「それはわかるけど・・」と言いながらラベルを見ると、「十勝川温泉第一ホテル和風館豊洲亭 美人旅情」と書いてある。「なるほど、ハウスお酒ね」というと、ウェイターが「ワインのお酒版です」とにっこりした。ついでだから醸造所も写しておいた。元の名前はこれだったのだ。
清酒 里の詩物語 純米吟醸 金滴酒造 新十勝川町字中央71-7
お料理は美味しかった。お品書きをポケットに入れたはずなのだが、どこかへやってしまった。ご飯に「ほしのゆめ」」と書いてあった。「私、ほしのゆめ、食べたことがないの。味見したいから、ほんの二口持って来て」と頼んだ。なるほど、美味しいお米だ。

7月20日(金)雨

確かに今朝も3時半には夜が明けた。でも昨日のように太陽は射さない。雨も降り始めた。夕べスタッフに聞いたら、ここ数日こんな雨模様の天気続きだと言っていた。もし晴れたら、急遽、摩周湖へ行く予定だったが取りやめる。
まずはよつば牛乳を訪ね、帯広といっても近くの六花亭の本店を訪ね、それから池田のワイン城に行こうと案をたてた。フロントでよつ葉への行きかたを聞いておいてとPapasanに頼んで、教えてもらったらしいのだが、結局どの道だかわからなかった。教え方が悪いなぁ。

音更町を走り、帯広に向かう途中、何か音がなり始めた。「この音なに?」「ガス欠のしらせだよ。」「え~、ガソリン・スタンドなんずっと見ていないよ」こういうとき、二人の性格の違いが出てくる。ケセラセラの言動とは裏腹に、私は慎重派 。なにごとも半分になると次を買い足す習慣がある。一方Papasanはなくなるまで平気でいる。「どれがガソリンの表示?」「これ」なるほどemptyだ。「ガス欠表示が出ても、かなり走れるから大丈夫だよ」とすましている。

ガソリン・スタンドを探しなら走る。ちょうどコンビニがあったので、何か買ってガソリン・スタンドのありかを聞いたほうがいいと、Papa

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八丈島3

2007-05-22 23:38:50 | 国内の旅

5月18日(金)

Akakokko1 目を覚ますと窓から見える外は明るい。Papasanが「日の出は4時35分くらい」と言って外を眺めている。星空から晴天を予想していたのだが、明るいが雲がたれこみ、すっきりとしていない。この様子では山に登っても遠望はきかないだろう。

6時少し前、ロビーに出て迎えを待っている。程なくワゴン車が来た。たぶんあれだろう。そこでPapasanが挨拶に行くと、確かにバードウォッチング主催者の岩崎さん、テキパキとさわやかな感じの女性。もう一組、いっしょに行くという。6時ぎりぎりにもう一組若いカップルが現れた。東京と埼玉からのふたり。昨日は飛行機が最終便まで飛ばず、羽田で9時間も待ったという。

まずは双眼鏡の扱い方から教わる。この双眼鏡軽くて、しかもよく見える。私のお目当てはアカコッコだと伝える。最初のバスの運転手さんによると、三宅島の噴火のせいもあって、アカコッコは増えて鳴き声がうるさいくらい、と聞いた。次のタクシーの運転手さんによると、ねずみやマムシを駆除するために、イタチを導入して放した。そのせいで、アカコッコも犠牲になり数が減ってしまった、そんな話をした。

Iijimamusikui 昨日私達がさまよった植物公園のキョンの檻近く。あたり一面いい香がする。スダジイの香だそうだ。家にもスダジイの古木はあるのだが、オスなので花が咲いたことがないから香はしらなかった。こんな甘い香がしたんだ。イイジマムシクイの鳴き声を教えてもらった。イイジマムシクイは天然記念物だ。アカコッコの声も教えてもらった。あちこちにいるようだが、姿は見えない。

181_1 182 183 シジュウカラ、キジバト、イソヒヨドリ、ヒヨドリ、ウグイス、スズメの声もよくひびく。空にはツバメとアマツバメが舞っている。チュウサギ、アマサギもいる。植物園からでて、街中でアカコッコが横切るのを見た。ちょっと遠かったけど、それから何回もアカコッコにお目にかかった。ほんとアカハラによく似ている。頭が黒いのが特徴だが、一瞬だとアカハラと間違えそうだ。道路にアカコッコがいる。二羽いる。おや、ケンカをしている。あっ、左側にメスがいる。恋の鞘当だったんだ。アカコッコって、よく見るとのんびりした顔をしているね。

岩崎さんによるとアカコッコは伊豆諸島とトカラ列島にだけいるそうだ。昔は伊豆諸島とトカラ諸島がつながっていたのかも、と言って岩崎さんが笑った。トカラ諸島、奄美大島までの列島ね、つながっていたとは考えにくいけど、アカコッコも黒潮に乗ってきたのかなぁ。

島ではアカコッコは「コッコメ」と呼んでいる。ツグミ科の鳥をコッコというのだそうだ。そういえば昨日バスの運転手さんが、島では下にメをつけて呼ぶと言っていた。牛メ、馬メ、イヌメというように。すかさず私が「じゃぁ、ワカメはなんて呼ぶの?ワカメメ」といったら、みんなが笑った。運転手さんも笑っていた。ただし私達が名詞の下につけるメが強い発音ではなく、やや上がり調子のやさしい音のメだ。

八丈島は離島なので、野鳥は固有種が見られる。そこで世界の鳥類学者たちが訪れているそうだ。今年はホトトギスの来るのが遅れているが、ホトトギスが来れば八丈島のオールスターが揃うそうだ。

ホタル水路、と言って水田を復元しているところへ行った。昔は島には水田がずいぶんあったそうだ。しかしいまはほとんどない。そこで子どもの教育もかねて、水田を復元しているそうだ。ここの奥は小高い森に包まれた場所。山にはスダジイの新緑が目に鮮やかだ。ここはまさに野鳥の声のシンフォニー。

「いまのがイジマムシクイですよ、あれがタネコマドリですよ」なんて立て続けにいわれても聞き分けられないくらい、たくさん鳴いている。カラスバトのウォーウォーとなく声も聞こえる。山の上を二羽のカラスバトが飛んでいく。カラスバトって飛び方もキジバトとは違うんだ。ここで温かい紅茶を頂いて、ホテルに戻った。念願のアカコッコにあえて満足。

ホテルに戻って朝食に行った。10時チェックアウト。みやげ物コーナーでPapasanはまた黄八丈のループタイを私は岩のりと明日葉の粉を買った。明日葉の加工食品がたくさんあった。島の野菜だからだろう。明日葉の効能書きは使えそうなので貰っておいた。

昨日のタクシーの運転手が、海岸に下りるなら、この道の方がいいと教えてくれたので、散歩に出かける。緑にあふれるだれもいない道。ここでも海に落ちる溶岩が、おもしろい景色をつくっている。海辺近くに建設中の、たぶん、ホテルになるのではなかろうか、建物がある。八丈島の植物ガイドを持ってくればよかったな。せっかく買ったのだから。

チェックアウトのとき、フロントにお料理も美味しくて、居心地はよかったんだけど、交通の便が悪いのが難点ですね、というと、そこが頭の痛いところですと答えていた。送迎以外にホテルバスを動かすと、タクシー業界から苦情が出るとも。そうだろね、客にすればちょっと街中に出るだけで、タクシー代が1500円以上になる。これを何度も往復すれば、かなりの出費になる。一方、地元にすれば、タクシーを利用してくれれば共存共栄になる。

昨日の運転手さんに電話をしたが観光で出てしまったというので、ホテルでタクシーを呼んでもらい、大里の玉石垣に行ってもらって、空港へ行った。11:55分の大島行に乗るためである。フライトまで時間があったので、みやげ物をのぞいている。青ヶ島の塩があったので、八丈島の塩とわせて買った。

チェックでPapasanの荷物がひっかかった。右下の方に何か引っかかるものがあるという。来るとき何でもなかったから、おみやげ物かなぁ、と言いながら中の物を出す。液体の焼酎も入っていたけど、それはパス。そして再びチェックを通したが、結局なんだかわからなかった。

座席は左の窓側。だから八丈富士を見ることは出来なかった。飛行機は空いていた。「右側の方が島が見えるから移動してもいいですよ」と乗務員が言ってくれたので、右側に移動。八丈島から大島まで35分。大島まで20分ぐらいというところで、御蔵島と三宅島が見えてきた。往きよりずっと大きく見える。どこかの島の上を飛んだ。大島が見えてきたところで、右側の窓に利島のかたちがあった。

12:30大島空港着。大島は初めてではないが、空港に降り立つのは初めてだ。空港からタクシーで岡田港へ移動した。昨日は船は欠航だったと運転手さんが言った。一日ずれてよかったなぁ。

まずは予約してあった高速船の切符を買った。それから食事にでかけた。乗り場の近くにあるお店の二階がレストランになっていて、そこへ上がって行った。大島名物「べっこう寿司」というのがあった。そこでそれを二人前とった。Papasanは生ビール、とおつまみにトコブシ甘辛煮を頼んだ。初めて大島に来たとき、知り合いのオバサンがこのトコブシの煮つけをたくさん作ってくれた。なつかしさもあって、美味しかった。

べっこう寿しは白身の魚をヅケにしたものである。醤油の色でべっこう色になることから、こうよばれているとか。今日の白身魚はメダイ。小ぶりの握りだけど、一皿に10ケものっている。こんなに食べられるかなぁ。ヅケがピリカラ。「辛~い」と思わず声に出してしまった。「大丈夫ですか」とオバサン。「漬け汁に青唐が入っているんですよ」大島特産の青唐辛子を「あおとう」というらしい。ヅケは伊豆七島の食文化なんだ。しかも島それぞれに特産の唐辛子があるようだ。これには芥子もわさびも塗ってないし、シャリも甘いが、ヅケのピリカラがちょうどいい。美味しいと言って全部食べてしまった。しかし口の中がピリカラなので、と口直しに特性のプリンを食べた。

船だまりを写真に撮っていた。案内所に入ると、二階が待合室になっている。
岸壁でつりをしている人がいる。「何が釣れるの?」ときくと「アオリイカ」という。「へ~、見たい見たい、釣れないかなlぁ」と野次馬は覗き込む。海は澄んでいできれいだが、魚影は見えない。

そうこうしているうちに、乗船の案内が流れた。3時25分。ジェットホイルだ。席は指定で2階。熱海まで45分。熱海に着くとバスがあり、連絡よく電車もあった。で、5時前には家に着いた。「ただいま!」門にはイヌが玄関にはネコが待っていた。

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八丈島2

2007-05-22 08:52:24 | 国内の旅

5月17日

目を覚ますと雨が降っている。予報どおりだ。低気圧が通過するので、どこも大荒れだとテレビは報じている。覚悟はしていたけれど、すごい雨だ。朝食に行くと飲み物はブッフェスタイル。牛乳が美味しいのがうれしい。温かい明日葉茶を持っていった。明日葉のお茶なんてめずらしい。わるくはない。

9時タクシーを頼み、ホテルのカサを借りて、町役場へ行く。台風みたいな吹き降り。こんな日に観光バスは運行するのだろうか、と気にしたが、風の強い島だからか、町の人はこの位の風はなんとも思っていないようだ。役場で観光バスはどこから出るのかときくと、職員がわざわざ席を立って、裏口まで案内してくれた。とても態度がいい。いい感じだ。観光を目玉にするなら、やはりお客さんへのサービスは大事だ。受けた客は気持ちがいいもの。 裏口を出ると観光協会があり、そこで料金を払い、バスに乗り込んだ。運転手さんは交代していた。

乗客は8人、ばらばらに来たけど、全部、同じホテルの宿泊者だ。定刻に出発。まずは車中から陣屋跡と玉石垣を眺めて、服部屋敷に行く。

Ytamaisigaki 服部屋敷の前でバスを下り、屋敷まで歩いていく。この屋敷跡の玉石垣も雨に濡れて情緒がある。八丈にあった木造の屋敷はほとんどシロアリにやられて失われてしまったそうだ。10時から踊りがあるので、それまでお土産品を眺めている。Papasanは黄八丈のループタイを買った。八丈は流人の島であることは、流人となった人々の故郷、各地の文化が混じるところでもある。民謡は各地の民謡がとりいれられ、踊りも少しずつ変化している。樫立踊りは都の無形文化財だそうだ。

Taiko 八丈太鼓が紹介された。ひとつの太鼓を二人で両面から打つ。一人はメロディーを打ち、もう一人がリズムを打つ。そのリズムに合わせてメロディーも変る。いい音だ、と聞きほれていたら、Papasanが「太鼓の響きに悲しさがある」と言った。そうかもしれない、Papasan、いい感性してるよ、この太鼓は「望郷の思いが秘められていたそうだから。

ご赦免花、ソテツの花が咲くと、流人たちは赦免が届くのを待っていた。実際にご赦免花が咲いて赦免の知らせが届いたのは10回ほどあったそうだ。最後に参加者達も舞台に上がって踊り手さんたちといっしょにショメ節を踊った。

Ori つづいて黄八丈染元へ。ここでは染から織まで一貫してこの工房で行っている。染料にする植物もここで育てているとのことだった。黄八丈は黄、樺、黒の3色で織られている。黄色は島に自生するイネ科の植物、コブナグサ(カリヤス)媒染にはツバキの灰汁を使う、すると鮮やかな黄色になる。樺色はタブノキ(マダミ)の木の皮を煮だして、媒染には雑木の灰汁、黒はスダジイ、媒染には鉄分を含んだ泥を使う。

ここの説明で、黒潮の役割を教えられた。黒潮は時速70キロぐらいで中国大陸の方から流れてきている。黒潮に乗ると、自然に八丈島にたどり着く。島に伝わっている絹も内地からではなく、中国から伝来されたものだというのである。

Saufu1 Saifu2 昨日の財布はカードが入らなかったので、今日は財布からカードを出して入れてみて、また財布を買った。「中身がないのにね」と言いながら。黄八丈には鳶八丈、黒八丈と言うのもある。黒を主体にしたものは感じがいい。これなら着れそうだ。織機にかかっているのを指して「一反いくら?」と聞いたのだが、女の子が「35万、38万ぐらい」という答えだった。

黄八丈もまた献上品だった。黄八丈は町人の着物、なんてイメージがあるが、江戸時代は庶民はとても着れない代物だった。庶民が着られるようになったのは明治以降ということだ。

八丈島ガーデン、観葉植物のガーデンだ。ここにヘゴヤシがあった。売店で明日葉茶のサービスがあった。うん?いままでの明日葉茶と味が違う。「これ?」と聞くと、これは玄米茶に明日葉の粉末を入れているのだそうだ。だから玄米茶の味が表に出て、明日葉の味を控えめにしているようだ。「そのほうが飲みやすいから」とお姉さんの弁。そこのえい子オバサンの手作りの唐辛子の佃煮を買った。唐辛子も。八丈島の唐辛子は小粒だが香が高くて、辛いのが特徴だということだ。

島の南の地区は三原山の影響で温泉が出る。外は雨で、ガスっているので、景色は見えない。それもあって、車でテープで流される説明がたのしい。テープの説明だと、八丈島の名前の由来は、源鎮西八郎為朝の八郎が、なまって八丈になったと言う説もあるようだ。この為朝、島にはずいぶんいいことをしたようだ。

伝説によると、秦の徐福が始皇帝の命を受け、不老長寿の薬を捜し求めて大船団で旅に出た。ところが黒潮に流され、そのうちの男達500人の乗った船が青ヶ島に漂着、女たち500人が乗った船がここ八丈島に到着した。男たちと女たちは別々に暮らしていた。だから青ヶ島を男島、八丈島を女島と呼んでいた。

南風の吹くころ、男たちは八丈島へ渡ってくる。女達は自分で編んだ紅鼻緒の草履を浜に並べて男達を待った。自分のつくった草履を履いてくれた人を夫と定め、短い契りを結んだそうだ。女の子が生まれると八丈島におき、男の子が生まれると青ヶ島へ送ったという。男と女がいっしょに暮らすと神の怒りに触れ、禍があると信じられ、男女別々に暮らすのが長いしきたりだった。「南風だよ、みな出ておじゃれ、迎え草履の紅鼻緒」野口雨情の歌はこの伝説をうたったもの。

ここで為朝が登場する。島に来た為朝は聡明な女性に、島には男女別々に暮らすしきたりがあるそうだが、それは迷信だ。男女はいっしょに助け合って暮らすのが本来の道だ。どうだ、私といっしょに暮らして、島の迷信を破ろうではないか、と言って、彼女を妻とし、仲良く暮らした。神のたたりがなかったのを見て、やがて島の人々も男女いっしょに暮らすようになった、と言うのである。為朝はまこと良いことをしたのである。めでたし、めでたし。

Nako Wave1 Wave2 名古の展望台。ここからの展望はいい。海の色はないが、浜辺に打ち寄せる波の白く割れてきれいだ。売店があり、店先に焼酎の甕があり、そばにお猪口が置いてある。蛇口をひねると、焼酎がいくらでも無料で飲めるようになっている。横に水の出る蛇口もある。焼酎の名は情ケ島(なさけしま)私は飲まなかったが、Papasanは飲んで美味しいと一瓶買った。麦焼酎だそうだ。

Nobori バスは登竜峠(のぼりゅう)を上る。離島振興で八丈も道路は整備されていて立派。登竜峠の展望台から見る景色は、晴れていれば平らな町並み、その向こうに八丈富士、その先に八丈小島と素晴らしい景観が望めるのだが、あいにくと今日は雨、八丈富士の頂上には雲が垂れ込めている。

登竜峠を下ると、底土(そこど)港だ。ここで美味しいクサヤを作っているときいたけど、行く機会がなかった。ガイドブックには貴重な塩を節約するために開いた魚を同じ漬け汁に何度もつけて干したのがクサヤ汁となり、先祖代々つかわれている、と書いてある。しかしこの塩の節約というのが、塩は献上品で、取立てが厳しく、島人でさえ十分に使えなかったことから生まれたものである。クサヤ汁は発酵食品のもとみたいなものだ。

車の中から見たので、どこだか覚えていないが、防空壕の跡が並んでいた。どこかに地下壕が張り巡らされてあるとも説明された。「沖縄みたいだね、松代大本営だね」

帰宅して調べると、太平洋戦争のとき、連合軍の南方からの侵攻に備えて、小笠原の次なる拠点として地下壕が作られたとのことだった。「回天」の基地もつくられた。幸いなことに八丈島は戦場にはならなかったが、「防衛道路」や「鉄壁山」にその跡が残っている。「回天」とは人が中に入って操縦して対象物に命中して爆発する武器、人間魚雷のことである。真鶴にも人間魚雷はおかれていた。

バスは亀やさんに昼食に寄る。「こんにちは、また来ましたよ~」お母さんも娘さんも愛想がいい。
食事をしながら客同士話をし、またまた真鶴の宣伝をたくさんした。来たことのある人たちは「真鶴はいいところですね」「魚座へ行きました」「半島に行きました」とか話してくれる。来たことのない人はぜひ真鶴に行きたいと言う。中川美術館、お林、歴史、お店の宣伝もした。中には住みたいというご夫婦もいた。大歓迎ですよ。私たちは真鶴の宣伝マンだねぇ。こうなると責任があるから、真鶴の手ごろな値段の昼食からいろいろと食べ歩いてみなくっちゃ。

この家の鉄道マニアのお姉さんが、たくさんSLの写真や資料を持って出てきた。バスの乗客たちもいっしょになって、SLの話に花が咲いた。「鉄道マニアの人のことを鉄男さんっていうそうですよ」と一人が言った。「じゃぁ、女性だからお姉さんはさしずめ鉄子さんね」

私たちはここでバスを下りて、タクシーでそのまま植物園に行った。タクシーの運転手さんに「アカコッコに会いに来たんだ」と言ったら、植物園の正面からではなく、南口から入るように教えてくれた。雨は上がっていたが、風が強かった。

南口からは石段を上っていく。人っ子ひとりいない。バードサンクチュアリに入る。聞こえるのは風の音と、ヒヨドリの鳴き声、時折シジュウカラの声だけ。風が強いから鳥たちはどこかでじっとしているのかもしれない。世界の森、日本森と言うテリトリーを歩き、キョンにも会った。オスの檻とメスの檻と分けられている。青ヶ島と八丈島伝説みたいだ。キョンは鹿の仲間。立ち止まるとき片足を上げるので、愛嬌があって、この島のマスコット的存在になっているとか。キョンはじっと座っているが、私達が気になるようで、みんなでこちらを眺めている。

迷いながら、ビジターセンターの方に進み、どうやらセンターに着いた。係りの女性が「昨日見えた方ですね」と私達を覚えていてくれて、「昨日上映しなかったビデオをごらんください」と誘ってくれた。「八丈の四季」を選び、「植物も見たいな」というと、連続して上映してくれると言った。注文した紅茶も届けてくれた。お茶を飲みながらビデオ鑑賞、島の自然はかなり頭に入った。

そこへ午後からのバスツアーに出かけた人たちが入ってきた。2時40分からの予約だという。昨日は3時からだったから、20分早くなっている。

学芸員なのだろうか、さっきの若い女性はとっても感じがいい。閲覧室で彼女が出してくれた島の生物の写真を眺めている。クモの写真は数種類しかない。「クモの研究者はいないのですか?」と聞くと、「いない」のだという。「ここは暖かいし、クモは種類がいると思いますよ。研究なさったらおもしろいと思いますけどね」4時過ぎ、さっきのタクシーに迎えを頼んで、ホテルに帰った。

アカコッコには是非とも会いたいので、電話で早朝のバード・ウォッチングをお願いした。観光協会から送ってもらったパンフの中にエコツアーの紹介があり、その中にバードウォッチングがあったのだ。翌朝6時に迎えに来てくれるという。

大浴場は5時からだ。髪を洗いたかったので、大浴場に入りに行く。大きなお風呂にゆっくり手足を伸ばして、あ~、気持ちがいい。
夕食は7時から。今日は違う焼酎を頼んだが、口に合わないので、もう一杯昨日の黄八丈を頼んだ。Papasanはイモは入ったのを頼んでいた。島寿司が出た。3種類の魚のズケである。小ぶりにつくってくれてある。洋芥子も違和感はない。昨日のすし屋の寿しよりはシャリも美味しい。お造り、ナベ。牡蠣のホワイトソース焼き、ボーイさんが島唐辛子を持ってきてくれた。一本は生、一本は佃煮。これを鍋のポン酢のたれの中に入れてみた。香はいいが、すこぶる辛い。明日葉ソバもでた。美味しかったけど、もうこれだけでお腹がいっぱい。
なのにさらにローストビーフが出た。ここのボリュームは若い人向きだなぁ。

「島寿司、美味しいですね。昨日おすし屋さんで食べたんだけど、シャリはこっちの方が美味しかったですよ」というと、「漁師の奥さんに握ってもらっています」という返事。でも甘味はいくぶん抑えている。従来の寿し米はもっと甘いそうだ。「ホテルの料理だからと期待していなかったけど、どれも美味しいですよ。味付けがとってもいい」「料理人が関西なので、味はしっかりしていますが、薄味にしたててあります」

な~んか、食べ過ぎちゃったなぁ、重いお腹をかかえて、食堂の上にある図書コーナーで蔵書を眺めている。「茄子の木」って八丈の本を2月に頼んだのだけど、とうとう手に入らなかったよ。そうだ、団伊玖麿さんの仕事部屋が八丈に在った筈。

部屋に戻ってベランダに出ると星が出ている。北斗七星がはっきりと見える。北はあっちだ。少し雲もあるが、天の川が流れているのがわかる。Papasanが「3階に星の見える場所があるとか書いてあった」というので出て行くと、「星の散歩道」という文字が見えた。屋上が星の観測に開放されている。屋上にでるとなるほど全天が見られる。しかしまだ薄雲が残っているので、星空ははっきりとはしない。風が強いので、ちょっと吹き飛ばされそうで怖い。早々に引き上げる。

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