沖縄県豊見城市での小4男児自殺の学校長に教育者の姿よりも政治家の姿が見える

2016-01-18 09:28:37 | 教育
 

 ここで言う「政治家」とはいずれの分野の職業であっても、その職業の専門の知識や技術によってではなく、あるいは良好誠実な人柄や人格によってではなく、ハッタリや駆引き、立ち回り上手、馴れ合い、保身、自身を前面に出す、これらの能力を巧妙に発揮して地位をのし上がっていく者を言う。

 「コトバンク」が「ブリタニカ国際大百科事典」を引用して政治家を、「政治活動に従事する人間。政治家はしばしば politicianと statesmanとに分けられる。イタリアの政治学者 G.モスカは,前者を『統治システムにおける最高の地位に達するのに必要な能力をもち,それを維持する仕方を心得ている人物』と定義し,後者を『その知識の広さと洞察力の深さによって,自分が生きている社会の欲求をはっきりと正確に感じ取り,できるだけ衝撃や苦痛を避けて,社会の到達すべき目標に導く最善の手段を発見する方法を知っている人』と定義して,両者を区別している」と解説しているが、ここで言う「政治家」とは、後者であるよりも前者に近い。

 「彼はなかなかの政治家だ」という言葉は、当然、その職業の専門の知識や技術に長けているという意味ではなく、立ち回りや駆引きが長けていることを言う。

 政治の世界ではこの言葉が意味する人間はザラにいる。それでも政治家をしていくことができるのは必要な知識・情報は役人が必要に応じてその都度その都度与えてくれるから、ハッタリや駆引き、立ち回りだけで副大臣だ、大臣だと地位をのし上がっていくことができる。

 昨年、2015年10月12日夜、沖縄県豊見城(とみぐすく)市の小学4年の男児(当時9)が首を吊って自殺を図り、病院に搬送され、7日後の10月19日に死亡した。

 男児は、学校が9月29日に実施したイジメに関する無記名の定期アンケートの自由記述欄に「消しゴムを盗まれた。いじめられていて転校したい」(琉球新報)と書いていたという。  

 だが、担任の男性教諭は読んでいなかった。自殺を図った翌日の10月13日、担任はアンケートを読み、記述に気づき、筆跡などから男児の記述だと判明したという。

 担任がアンケートを実施した9月29日から約2週間、それに目を通すのを放っておいて、自殺の翌日に初めて目を通したということは、自殺の動機となる何らかの訴えが記述されていないか疑ったからであり、急いで目を通したということであろう。

 と言うことは、イジメのアンケートにはイジメを知らせる何らかのサインがあり得ることの知識を持っていたことになる。

 実際にはアンケート実施から早い時間に目を通していて、イジメを訴える記述に気づいていたが、どうってことはないだろうと軽く見て放っておいたところ、自殺を図った、気づいていたことが知れるとヤバイことになるからと、読んでいなかったことにして、自殺を図った翌日に初めて目を通したことにしたのではと疑うこともできるが、事実そうだとしたら、相当な政治家で、行くゆくは出世間違いないだろう。

 事実は今のところ分からない。今後共分からないかもしれない。少なくともアンケートでイジメを訴え、「転校したい」と居場所を失って孤立している状況のSOSを発信し、約2週間、助けを待ったに違いないと推測することは決して間違っていないと言うことができるはずだ。

 男児通学の小学校校長が1月10日、市役所で記者会見している。

 校長「いじめへの対応には注意していたが、男児から相談はなく、事実を把握できなかった。

 (担任がアンケートの内容を2週間読んでいなかったことについて)もう少し早く読んでいたらとも思うが、1学期の終わりで、成績表を一から作らなければならない時期。そちらの業務を優先したのだと思う」(asahi.com) 

 9歳という余りにも若過ぎる年齢の自殺死に対する切実さは言葉のどこからも微塵も感じ取ることができない。「男児から相談はなく、事実を把握できなかった」と言って、そのことを以ってイジメを認知できなかったことの理由としているが、生徒側からの直接の相談のみをイジメの把握手段としているなら、何のためにアンケートを行っているのだろうか。

 2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」に基づいて文科省はイジメの早期発見とその防止等を内容とした「いじめの防止等のための対策の内容に関する事項」を2013年10月11日策定、各学校に通知している。文飾は当方。

早期発見  

 いじめは大人の目に付きにくい時間や場所で行われたり、遊びやふざけあいを装って行われたりするなど、大人が気付きにくく判断しにくい形で行われることが多いことを教職員は認識し、ささいな兆候であっても、いじめではないかとの疑いを持って、早い段階から的確に関わりを持ち、いじめを隠したり軽視したりすることなく、いじめを積極的に認知することが必要である。

 このため、日頃から児童生徒の見守りや信頼関係の構築等に努め、児童生徒が示す変化や危険信号を見逃さないようアンテナを高く保つ。あわせて、学校は定期的なアンケート調査や教育相談の実施等により、児童生徒がいじめを訴えやすい体制を整え、いじめの実態把握に取り組む。〉――

 当該小学校が9月29日に実施したアンケートもマスコミは「イジメに関する無記名の定期アンケート」と伝えているが、文科省通知に基づいたイジメ早期発見を目的に定期的に行っているアンケート調査だったはずだ。

 校長というその学校での一番の責任者の立場で子どもの知・育・徳の教育に携わりながら、生徒側からの直接の相談のみをイジメ把握の手段とすることができる。とても教育に詳しく、同時に教育に誠実な態度・人柄が可能とした校長職とは考えることはできない。

 であるなら、ハッタリや駆引きといった資質のみで出世を望み、目指した政治家の体質がこの男を校長にまで上り詰めさせたと見るしかない。

 文科省通知にあるように〈いじめは大人の目に付きにくい時間や場所で行われたり、遊びやふざけあいを装って行われたりするなど、大人が気付きにくく判断しにくい形で行われることが多い〉人権侵害行為であって、教師たちがそのことを常に強く認識していたなら、いわばイジメとはそのような性格のものだとする切迫した危機管理意識を持っていたなら、担任している子どもたちの様子が何事もないように見えたとしても、万が一ということを考えて、万が一ということを考えて備えることが危機管理なのだが、何はさておいても、例え他の用事が忙しくても、第一番に目を通さなければならないアンケート調査であったはずであり、担任自身にしてもイジメのアンケートにはイジメを知らせる何らかのサインがあり得ることの知識を持っていたはずだから、目を通すことは緊急性を要していたとしなければならない。

 例え結果的にイジメに関する記述もなく、自殺を選択する子どもが出てこなかったとしてもである。
 
 だが、担任は、自身の証言が正しければ、そうはしなかった。自殺を図ってから目を通したということは、児童が自殺を図らなければ、永遠に目を通さなかった可能性が強いことになる。

 このことは何事がなくてもイジメの万が一の存在を疑い、自分から進んでそのことに備えようとする危機管理意識を持ち合わせていないことの証明でもある。

 当然、校長は教師管理の全責任を負う者として担任が何事にも優先させて目を通さなかった行為を認めることができない態度とし、担任としてのそのような責任不履行を学校自体の責任、校長の教師管理の不行き届き・怠慢の責任としなければならない。

 校長がいわゆる政治家タイプの教育者ではなく、専門の知識や技術共に備えた人柄や人格が自ずと校長職に導いた教育者であるなら、担任の責任を自らの管理責任としたはずである。

 だが、「もう少し早く読んでいたらとも思うが、1学期の終わりで、成績表を一から作らなければならない時期。そちらの業務を優先したのだと思う」と、担任の何事にも優先させて目を通さなかったことの責任を免除している。

 担任への責任免除は校長の管理責任免除へと自ずと繋がっていく。

 市教委が11月下旬に男児の自殺を伏せて4、5年生全員対象に無記名アンケートを行ったところ、9人が「意地悪されているのを見た」と回答していたとマスコミが伝えている。

 例え調査の結果、イジメが自殺の直接の原因ではなかったことが判明したとしても、担任が9月29日実施のイジメに関する無記名の定期アンケートに早期に目を通していたなら、約2週間後の自殺行為を止めることができた可能性は否定できないし、止めることができたなら、自殺死を背景とした2回めのアンケート調査を行うこともなかったはずだ。

 一度の責任不履行・怠慢が人の生き死にに関係していく。校長・教師は子どもたちの学校教育を預かっているだけではなく、生物学的な命を預かり、同時にそのような命と連動している喜怒哀楽の生きて在る存在性を預かり、そのような存在性が生物学的な命と共に他の生徒による物理的、あるいは精神的暴力によって損なわれないよう極力防止する責任を負っているはずだ。

 だが、校長だけではなく、担任からもそういった責任を感じ取ることはできない。この担任がゆくゆくは校長に出世していくのかどうか分からないが、校長がこのような責任感なくして、あるいは責任意識なくして既にその地位に就いているということは、やはり政治家であることが幸いした校長職ということなのだろう。

 学校校長にとどまらずに、教育力ではなく政治力を益々発揮して教育委員長や学校教育に関する諮問機関等の有識者メンバーとして出世の階段を登って行くに違いない。

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学校でのイジメ防止対策は個人性の無視(=シカト)は人間の自然な心理として許されるとする教育から始める

2015-11-02 07:48:17 | 教育


 2015年7月5日、岩手県矢巾町の中2男子生徒が自殺を仄めかすサインを出していながら、学校は気づかずに列車に飛び込ませて死なせてしまった事件を受けて文部科学省が実態調査を遣り直すよう全国の学校に求めたところ、昨年度確認されたイジメは18万8000件余りに上り、調査を遣り直す前に比べて3万件近く増えたことが分かったとネット記事が伝えていた、

 文科省がこのような調査を指示したのは自殺した中2男子生徒の学校が教育委員会にイジメゼロの報告をしていたためで、認知されないままのイジメが他に存在することを疑ってのことだという。

 結果、3万件も増えた。

 「いじめ防止対策推進法」は2013年6月21日に与野党の議員立法によって国会で可決・成立し、同2013年6月28日公布、2013年年9月28日に施行されている。

 法律の成立から1週間後の公布はそれだけ緊急性を要していたからに違いない。

 法律は各自治体だけではなく、勿論、学校に対してもイジメ防止の対策を求めている。第4章第22条は、〈当該学校におけるいじめの防止等に関する措置を実効的に行うため、当該学校の複数の教職員、心理、福祉等に関する専門的な知識を有する者その他の関係者により構成されるいじめの防止等の対策のための組織を置くものとする。〉と規定している。

 法律の「いじめ防止対策推進」の名前通りにイジメの予防措置を指示している。

 だが、今回文科省が求めた調査の遣り直しの結果は多くの学校がイジメの予防ではなく、イジメの顕在化を待って対策を講じるイジメ防止とは名ばかりの構造となっていることを露わにしている。

 しかもイジメが起きていながら、満足に認知できていなかった状況をも露わにした。

 クラス担任が、あるいは教科担任がクラスの全員を前にして教壇に立っていながら、クラスの誰かが誰かを陰でイジメていて、授業中であっても一方が抑圧的な支配者としての心理を維持し、一方が理不尽に支配される者として鬱屈した心理を抱えていなければならない両者の力関係が働いていることに気づかずにいる。

 要するに学校のイジメ防止は事後処理法の構造を取っている。

 文科省は「いじめの定義」を次のように定めている。

 〈「いじめ」とは、

 「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」
とする。

 なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。

  「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。

 「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する。 〉――

 イジメの場合の攻撃はイジメる側とイジメられる側の間に上下の力関係が必要となるが、イジメの発端をつくるイジメの首謀者は自身を反撃を受けない安全地帯に置く必要性から上下の力関係を確実にするために、そのことがイジメを確実にすることになるが、その多くが仲間を1人以上引き入れて多数に恃む構造を取る。

 イジメる対象者が2人とか、3人の場合、それ以上の数の仲間を組んで、イジメという攻撃を確実にする。

 つまり、そういったことができる卑怯な性格、あるいは卑劣な性格、さらには狡い性格を有していなければ、イジメの首謀者足り得ない。

 イジメの首謀者がイジメを確実に成功させ、イジメによって自己実現を図るために引き込んだ仲間がイジメに積極的に加担、首謀者の指示以上にイジメを働く者は多くの場合、それなりに主体性を持ったイジメ同調者であって、首謀者を恐れて仕方なく仲間となり、首謀者の指示の範囲を超えないイジメで終える者は主体性を持ち得ないイジメ同調者だと類別できる。

 となると、イジメに関して主体性を持とうと持たなかろうと、仲間に誘い込まれそうになった段階で仲間となることを拒否できるそれ相応の意思――自律性の育みが集団を組むことを阻む力となり得ることになる。

 直接的な身体的攻撃ではない、「仲間はずれ」や「集団による無視」といった集団性を取った心理的な攻撃はイジメとなって許されないが、ここから集団性を剥いだ個人性の無視、個人的に友達とはならない関係性は学校社会だけではなく、大人の社会にも存在する自然な人間性としてある関係であって、学校は集団性と個人性を厳格に区別して、前者はイジメとして許されないが、後者は人間の自然な心理として許されるということを明確に伝えることからイジメの防止に取り掛かるべきではないだろうか

 つまり、決して集団性を取ってはならないことを厳重な条件とすることになる。誰かを仲間に引き込む形で、「アイツを無視してやろう」とか、「アイツとは友達にならないようにしよう」と仲間外れにすることを申し合わせて、申し合わせた通りのことを仲間と共に行うことは集団性を取ることになって許されない禁止行為とする。

 もし口を利きたくなければ、自分だけで口を利かないようにして、仲間を誘って同じことをさせるようなことは決してするなと。

 逆に仲間に誘い込まれようとしても、誘い込まれれば集団性を取ったイジメになるから、断らなければならないということを教える。

 このように集団性と個人性の無視(=シカト)の違いを通してイジメに於ける集団性と個人性の区別を学習させることで集団性に陥らずに個人性を維持する自律性育成の教育とし、そこからイジメ防止対策を行っていく。

 この提案が役立つかどうか分からないが、イジメが顕在化してから手を打つ対処療法から抜け出て、前以てイジメが発生することを防ぐ原因療法をそろそろ見い出さなければならないのではないだろうか。


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仙台市立中1年男子生徒のイジメ自殺による不在を転校による不在とした担任、あるいは学校が実際にしたこと

2015-08-31 09:25:57 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまたち」

      《8月30日8・30国会10万人集会動画党HP掲載ご案内》  

     こんばんは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表は8月30日、国会正門前で行われた「戦争法案廃案!安倍政権退陣! 8・30国会
     10万人・全国100万人大行動」に参加し、「いい加減でバカげた安保法案を阻止し、皆で力を合
     わせて安倍政権を退陣に追い込みましょう」と訴えました。

     8・30国会10万人集会動画をホームページに掲載しました。ぜひご覧ください。

 各マスコミが8月22日前後からそれ以後にかけて、仙台市の市立中学1年の男子生が昨年秋に自殺していた事実を伝えた。8月21日に発表した市教育委員会はイジメが関連する自殺と結論づけ、学校の対応に問題があったと謝罪したという。

 生徒は昨年秋に自殺を図り、数日後に死亡したそうだ。

 昨年秋から今年の8月末まで、イジメの事実も自殺の事実も世間に伏されていたことになる。

 8月22日付「asahi.com」記事によると、〈男子生徒は入学後の昨年5月から、友人たちに仲間外れにされたり、消しゴムのかすを投げつけられたりしていた。生徒の保護者は担任の40代の女性教諭に少なくとも6回相談。学校は、いじめに関わった生徒から男子生徒へ謝罪させる会を2回設け、学年集会も開いたが、男子生徒は「チクった(告げ口した)」と言われた。いじめは止まらず、「変態」「寝ぐせがひどい」などとからかわれることもあった。〉と書いている。 

 謝罪させる会を2回設け、学年集会も開いたが、イジメ側の生徒は教師の前では謝罪したり、あるいは二度とイジメないと誓うことまでしたのかもしれないが、教師の目の届かない陰に回ると、イジメを続けていたことになる。

 だが、こういったパターンはよくあることとして想定内の一つとしていなければならない。

 男子生徒は昨年秋、「転校したい」などと保護者に話した翌日に自殺を図り、数日後に死亡した。遺書はなかった。

 記事は担任と学校側に不手際があったことを書き連ねている。

 〈担任は、保護者からの相談内容を校長らに報告していないケースがあった。生徒への定期的なアンケートで男子生徒は「持ち物にいたずらをされた」などと回答していたが、学校は対応していなかったという。〉・・・・・・

 経緯を調査した第三者委員会「対応方針を決める前に男子生徒や保護者と協議すべきだった」

 大越裕光教育長(8月21日記者会見)「イジメをやめさせられず、学校の対応として不十分だった。深くおわびする」

 遺族(コメント)「加害生徒はいじめは犯罪となる場合もあることを認識し、深く反省してほしい。学校や教育委員会は未然防止のための取り組みを徹底してほしい」――

 記事は、〈市教委はこれまで遺族の強い希望を理由に自殺のあったことを公表しなかった〉、〈第三者委が6月、再発防止への提言などを盛り込んだ答申をまとめ、遺族の了解が得られたため、発表したという。〉と解説している。

 6月の自殺発表が8月末のマスコミ公表となった。市教委の発表が自殺した生徒が通学していた学校の生徒のみへの発表だったからなのだろうか。そのため学校外の世間に少しずつ漏れて、マスコミが知るに至ったという経緯を辿ったのだろうか。
 
 8月23日付の「47NEWS」記事が、8月23日、当時担任だった40代女性教諭がクラスのホームルームで男子生徒がいなくなった理由について同じクラスの生徒に「転校した」と説明していたことが学校関係者への取材で分かったと伝えている。

 当時の同級生「学校を休みがちで、転校と言われても特に不思議だとは感じなかった。自殺とは知らなかった。(イジメについて)からかわれているのは見たことがあったが、特にイジメとは感じなかった」(47NEWS
 
 なぜ担任はイジメを受けた自殺を転校という事実にすり替えたのだろうか。
 
 その理由を8月24日付「時事ドットコム」が教えてくれる。

 市教委の話として、亡くなった生徒の遺族から「家の都合で転校したことにしてほしい」と要望があったからだという。

 マスコミの報道によって次々と新たな事実が明らかになる。

 市教委「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応だった」

 但しイジメに関係した生徒には事実を説明したとしている。

 自殺した生徒の両親は世間体を憚ったのだろうか。憚ったとしたら、息子のイジメを受けての自殺を不名誉と感じていたことになる。

 だとしたら、子どもの思い余った苦しみや悩みや哀しみをそのときの息子のありのままの感情として重んじて受け止め、思い遣ることよりも外聞を気にしていたことになるのだろうか。

 自殺が例え世間の常識に反していても、誰もが助けにならないと周囲が感じさせ、自身も感じていたに違いない中での、その結末としての自分なりの一つの答の出し方だったと考えると、やはりその死を直視しなければならない気がする。

 直視とは関わった一人ひとりがそれぞれに解釈した事実を事実として見て、しっかりと受け止め、それを学校社会を生きていく人間関係の知恵や成長していく糧とするということである。自殺の事実を転校の事実へと解釈の対象を変えることで直視の切実な必要性を失わせたことになる。

 自殺の事実と向き合う直視によってまた、その衝撃性が担任及びクラスメートに取って自殺した生徒はどのような生徒であったのか、あるいは自殺した生徒にとって自分たちはどのような存在であったのか、自ずと相互の関係性を探る、あるいは学ばなければならない機会とすることもあり得る。

 だが、転校したとすることで、例え「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応だった」としても、折角のその機会を奪ったことになる。

 勿論、自殺を今年の6月に公表してからでも、自殺を直視することも、直視することで相互の関係性を探ることもできるが、転校はウソで実際はイジメを受けた上での半年以上も前にあった自殺だと知った衝撃性は自殺直後に知らされる衝撃性と比べ物にならないはずで、当然、直視の強度に影響することなり、転校だと事実を隠したことに対する疑問に思いが向かう可能性も排除できない。

 担任は遺族が「家の都合で転校したことにしてほしい」との要望をそのまま受け入れて、イジメを続けてきた生徒を除いたクラスの生徒に対して自殺の事実を転校の事実にすり替えた。

 このことは担任としての責任放棄に当たらないだろうか。

 もし学校自体がそのように説明することを承認していたなら、学校の責任放棄に当たることにならないだろうか。

 責任とは自分が関わった事柄や行為から生じた結果に対して負う義務や償いを意味すると同時に立場上、自分が引き受けて行わなければならない任務・義務を言う。

 イジメを受けて追い詰められて選択した自殺だと事実を事実として知らせることが担任として何があったのか、何が起きたのかを生徒に考えさせるキッカケとなり、考えさせることによってその“何”を担任を交えた生徒それぞれの解釈を通して学び、学んだ“何”を全員で共有する知識とすることが可能であったはずだが、担任は、あるいは学校が生徒に対して自分たちが引き受けて行わなければならないその責任を放棄したことになる。

 この放棄は担任、あるいは学校が遺族の「家の都合で転校したことにしてほしい」との要望を断る言葉(=思想)を備えていなかったからで、その不備を「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応」に代えた。

 あるいは遺族の要望に便乗すれば、生徒たちに対する説明を省くことができるし、担任や学校の対応を問題視されることもないと自分たちの責任逃れを考えたのかもしれない。

 このようなイジメ自殺による不在を転校による不在とする責任逃れによって、全員して相互の関係性を探ることも、“何”が起きたのか、自殺を直視して検証する機会を失わせたし、今後共失わせることになるはずだ。

 なぜなら、単にイジメや自殺に対する担任や学校の対応の是非、さらに新たなイジメや自殺の防止の対策に重点を置いた経緯を辿ることになるだろうからである。

 自殺していなくなった生徒のことを転校したからだと誤魔化した時点で、あるいは「遺族の心情に配慮した止むを得ない対応」としたことで、担任も学校も生徒と一緒になって誰かが、何かが追い詰めたかもしれない自殺から、その誰かは特定できたとしても、特定の難しいその何かを学ビび、特定しようとする意志も姿勢も持ち合わせていなかったことを示すことになる。

 担任も学校も持ち合わせていなかったから、生徒も結果的にそのような意志も姿勢も持つ機会を失ったことになる。

 例え転校だと誤魔化さずに正直に自殺だとその事実を明らかにしたとしても、以上挙げた自分たちが引き受けて行わなければならない責任を生徒たちを前に的確に履行できなければ、もはや学校教育者とは言えない。学校教育者の仮面を被った学校教育者ではない存在という逆説を踏むことになるだろう。

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岩手県矢巾町イジメ自殺の中2男子の明るい表情と死の仄めかしのギャップの理由を知ろうとしなかった担任

2015-07-27 09:49:35 | 教育

 岩手県矢巾町中2男子イジメ自殺で、担任女教師が生活記録ノートに書いた自殺を仄めかす文章と教室での中2男子の言葉や表情にギャップを感じ、本当に自殺するとまでは予期できなかったとの趣旨の説明をしていることが分かったと7月25日付の「毎日jp」が伝えている。 

 6月29日の「生活記録ノート」

 男子生徒「ボクがいつ消えるかわかりません。ですが先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市(死)ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」

 担任女性教師「明日からの研修たのしみましょうね」

 男子生徒の訴えに対する、それとは余りにも脈絡のない担任女性教師のアッケカランとした反応についての自己正当化の弁解である。

 記事は関係者の話として伝えている。多分、担任教師から聞き取りを行った一人なのだろう。

 担任教師が6月29日の中2男子の記録を確認したのはノートの提出を受けた6月30日の給食の時間帯であったという。

 時間節約のために昼食を取りながら「生活記録ノート」に目を通していたのかもしれない。あるいはそうすることを習慣としていたのかもしれない。

 担任席の近くに中2男子の席があるため様子を観察したが、笑顔で友人と話しており、食欲もあるように見えた。

 担任は給食の後、中2男子を呼んで状態を尋ねた。

 中2男子「大丈夫です。心配しないでください」(といった趣旨の言葉を返した)

 その直後、バスの席など翌日に控えた研修旅行に会話の内容が変わったことから、担任はノートに「明日からの研修たのしみましょうね」と書いた。

 記事は最後に中2男子が、〈それ以前にもノートに自殺をほのめかす記載をしていたが、担任は同様に村松さんが明るく振る舞っているように見えたので、本当に自殺すると思わず、生活指導担当の教諭や、定期的に訪問してくるスクールカウンセラーに報告や相談はしていなかった〉と説明していると書いている。

 これで中2男子の自殺仄めかしの書き込みに対する余りにも脈絡のないアッケカランとした担任女性教師の反応に納得がいく――というわけには全然いかない。

 一応の筋道は通っている。だが、余りにも表面的な反応に過ぎる。中2男子の給食中の様子と給食後に交わした言葉の内容を単に表面的に観察して表面的な答を導き出したに過ぎない。それだけのことである。

 教室では明るい様子をしているのに、では、なぜ「生活記録ノート」に死を仄めかす記述をするのか、疑問の一カケラも持たなかった。教室で見せている姿と「生活記録ノート」で見せている姿の落差(=ギャップ)について自らに問いかけることは何もしなかった。

 学校教師になるについては大学の教育学部で児童心理学等の人間心理学を学んでいて、人間がときには本心とは異なる姿を見せるものだということ、あるいは本心を隠して別の心を見せるものだということを学んだはずだが、教室での明るい様子を以てして「生活記録ノート」で見せていた姿をあっさりと打ち消してしまった。

 あるいは学校教育者である以上、イジメの心理学を学んでいなければならないはずだが、学んでいれば、イジメる側の心理とイジメを受ける側の心理をそれなりに把握することになるはずだが、それすらも学んでいなかった。

 学んでいたとしても、知識・情報として活用するまでに至っていなかった。

 例えば1994年11月27日に自宅裏の柿の木で首を吊った愛知県西尾市の中2男子大河内清輝君のイジメ自殺事件は小学校6年生の頃からイジメが始まり、それが自殺するまで続いていたことに学校は的確に対応できなかったのだが、その一つの原因は学校側がイジメを疑いながら、人間がときには本心とは異なる姿を見せるものだということ、あるいは本心を隠して別の心を見せるものだという人間心理に何ら思いを致すことなく、本人の否定を額面通りに否定と受け止めたことにもあるはずだ。

 自殺した年の1994年9月16日、学年回で清輝君の様子について話し合った時、養護教諭は「視線が定まらなかったり、体の揺れがとまらなかったことがあった」と報告して心理テストの実施を勧めた。

 翌9月17日、心理テスト実施。清輝君は「友達はいい人、クラスのみんなは優しい。将来はいい高校、いい大学に入り、いい会社に入りたい。勉強は大切、成績は上げたい」と書いた。

 自殺の2カ月と10日前だから、イジメに苦しい思いをしていたはずなのに、友達の中に置かれている真の自分の姿を自ら否定して、日々楽しく学校生活を送っているかのような別の姿を見せた。

 養護教諭のみが清輝くんは自分を偽っているのではないかとい疑った。視線が定まらないこと、体を不自然に揺らしていることと心理テストで見せた姿の落差(=ギャップ)の違いを疑ってのことなのだろう、ますます心配になって、学年の先生に相談してカウンセリングを受けることを勧めたということだが、清輝くんの叔母が「清輝はカウンセリングを受けさせず、家庭で話し合う」としたことから、カウンセリングの話はそのままになってしまった。

 9月22日、17日から家出していたイジメグループの数名が刈谷市刈谷署に保護され、このうちの1人が乗っていた自転車が盗難自転車で、「清輝君が8月下旬に盗んだもの」と話した。

 9月24日、清輝君と父親が刈谷署に出頭。その後、学校に行き「自転車は同級生に取らされた」と報告した。父親はその席で「8月に岡崎で自分で転んで自分の自転車を壊したと言っているが、自転車の壊れはイジメでないか調べてほしい」と話した。

 担任が清輝くんに父親の言ったことを尋ねると、イジメを否定、「自分で転んだために壊れた」と最後まで言い通したという。

 「自転車は同級生に取らされた」と言うことは同級生と清輝くんの関係が同級生の命令を断った場合、身体的及び精神的な何らかの不利、あるいはダメージを被る恐れのある支配と従属の関係にあるということであり、そのような関係になかったら、同級生は自転車を取って来いと命令することもないだろうから、一応は支配と従属の関係を疑って、そのような関係と「自分で転んだため」としている自転車の壊れた理由を関連づけたとき、清輝くんの言い分を額面通りに受け取らずに一度は疑ってみる必要があるのだが、そこに何ら疑いを生じさせずに否定を額面通りに否定とのみ把えて、否定から何も推察することはしなかった。

 清輝くんが教師たちに見せている姿を見せている姿どおりだと受け止めて、本心を隠して別の心を見せている姿だとは一切疑わなかった。

 2011年10月11日朝、イジメを受けて自宅マンションから飛び降りて自殺した大津市の中2男子の場合も、男性担任教諭が9月以降、「いじめがある」との噂を別の生徒から聞き、男子生徒と同級生との喧嘩のような姿も目撃、男子生徒に直接確認したところ、男子生徒は「大丈夫。同級生とも仲よくしたい」と話したために担任教師はそれ以上調査しなかった。

 その他の多くのイジメ自殺でも、イジメを受けている児童・生徒は報復の恐れやプライドから、あるいは親に心配をかけさせたくない思いなどから自身の本心を隠してイジメを否定し、他人の前では明るく振舞ったりする例を数多く見ることができる。

 だが、岩手県矢巾町中の自殺した中2男子担任の女性教師は過去のイジメ事件からイジメを受ける生徒のそういった姿を何も学んでいなかったか、学んでいたとしても、知識・情報として活用するまでに至っていなかったために(後者は何も学んでいないことと同じになる)普段の姿と「生活記録ノート」で見せている姿の落差(=ギャップ)に疑問を抱いて答を見つけ出す努力をせず、中2男子が普段は明るく振舞っていることを以って生活指導担当教諭やスクールカウンセラーに報告や相談もしていなかったことの弁解とした。

 そのように弁解すること自体が過去のイジメから何も学んでいなかった、あるいは学んでいたとしてもその知識・情報を活用できていなかった、そのいずれかに気づいていないことの証拠としかならない。

 学校教師という立場にある人間の何も学んでいないという姿勢の逆説は何を物語るのだろう。

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岩手県矢巾町教育長の教育関係者らしからぬイジメに関わる愚かな認識とイジメアンケートの形骸化の防止方法

2015-07-12 10:46:20 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

      《7月7日 小沢一郎代表記者会見要旨・党HP掲載ご案内》    
 
     【質疑要旨】
     ○安保法案の強行採決について
     ○安保法案審議について
     ○自民党の安保政策の変質について
     ○川内原発の核燃料搬入について
     ○保守本流政治について
     ○自民党の変節について
     ○リニア鉄道、新国立競技場の財源問題について
     ○橋下大阪市長の「関西維新の会」設立発言について
     ○小林節慶応大名誉教授との合同街頭演説企画について

     《YMF全国研修会「森ゆうこと語る会」を開催お知らせ》    

     参加フリー・会費:2千円・申し込み《森ゆうこ公式サイト》 

     日時:8月8日(土) 13:30開場 開会14:00~16:30
     場所: 丸の内トラストタワーN館11階 会議室
     定員:150名(定員に達し次第〆切とさせて頂きます。)

     14:00開会宣言 森ゆうこ挨拶
     14:15小林 節慶應義塾大学名誉教授講演
     15:15森・小林トーク対談(質疑応答あり)
     16:30閉会

 岩手県矢巾町の中学2年男子生徒のイジメを受けた電車飛び込み自殺でマスコミが次々と新しい事実を炙り出している。自殺した生徒に対するイジメの兆候が1年生のときから明らかになっていながら、学校が解決につながる対策を打ってこなかった事実である。

 生徒は2年生になってから生徒が担任に相談し、担任が相談に乗る交換日記形式の「生活記録ノート」にイジメの事実と自殺を匂わせる記述を残していたが、一度は生徒と生徒をイジメている生徒との三者面談を持ちながら、結局のところ根本的な解決につながる努力を怠った。

 この「生活記録ノート」は1年生のときもそのときの担任と遣り取りしていて、そこに昨年春からイジメを窺わせる記述があったと、7月11日付け「YOMIURI ONLINE」記事が伝えている。

 「(別の生徒から)何回も『死ね』って言われる」

 「まるでいじめられるような気分でいやです」(2014年5月1日)

 「先生にはいじめの多い人の名前をおしえましょう。もうげんかいです」(2014年7月15日)

 生徒は昨年秋、「(別の生徒から)わざと体をぶつけられたりして困っている」と家族に打ち明け、父親が学校に相談、関係する生徒を交えて当時の担任らで話し合いの場を設けた。

 だが、「生活記録ノート」に「先生どうか助けてください」などの記述が続いた。

 1年生の時からイジメを受け、それが2年生になっても継続していた。

 ここから浮かんでくるのは孤立した状況に立たされている生徒の姿であり、生徒を孤立した状況に立たせたまま、解決に向けて何ら奔走しない教師たちの姿である。

 いわば1年2年と「生活記録ノート」にイジメの存在を記し、特に2年の「生活記録ノート」には自殺を窺わせる記述がありながら、教師の誰もが生徒の命に対する危機感を持たなかった。

 ブログに何度か書いていることだが、生命(いのち)とは心臓を動かし、血液が流れて、歩いたり、食べたり、眠ったり等々の物理的な身体動作のみの状態を言うのではなく、精神的に健全に生きて在る状態――健全な精神的存在性までを含めて生命(いのち)と言う。

 イジメは身体的と精神的と両面の生命(いのち)に同時に作用し、損ない、歪め、非人間的状態に貶めていく。

 いわばイジメは身体的にも精神的にも健全であるべき存在性、健全であるべき人間性を奪う。当たり前の人間であることを許さない。当たり前の喜怒哀楽の感情の発露を歪め、抑圧する。

 こういった生徒の諸々の生命(いのち)に対して何ら危機感を募らせることはなかった。

 記事は、〈学校から町教委に対してイジメの有無を伝える報告が昨年度から今年6月末現在までゼロだった〉いう事実まで伝えているが、これを偽装と受け取るか、少なくとも自殺した生徒に関して1年生のときも2年生のときもそれぞれの担任とイジメに関わった生徒とが面談しているものの、事実ゼロと思ってしたことと受け取るかである。

 偽装と受け取ると、町教委が7月10日の記者会見で「いじめの認知がゼロであることが、(いじめ防止の)成果という意識が教委や学校にあった」と発言したそうだが、成果を偽装するために認知ゼロの偽装を対応させたことになって、生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様を考慮の外に置いた偽装ということになる。

 考慮の外に置くことができるのは生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に何ら危機感を持っていなからできる考慮外の措置であろう。

 事実ゼロと思ってした報告だとすると、やはり敏感に対応すべき生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に敏感に対応できない危機感のなさだけが浮かび上がってくることになる。

 前者・後者いずれであっても、教育者の態度とは倒錯したそれぞれの対応であることは間違いない。

 矢巾町教育委員会の教育長が7月10日記者会見している。

 越秀敏教育長「(因果関係について)最終的には第三者委員会が結論を出すと考えている。(自殺した生徒に)手を差し伸べられなかった。ただただお詫びするほかない。

 (2年担任が自身を混じえて一度はイジメられていた生徒とイジメ側の生徒と面談したことについて)(イジメは)一旦収まったが、その後も続いていたと推測される」(時事ドットコム

 「ただただお詫びするほかない」の自殺生徒に対する深い謝罪は学校側や町教委側の責任を深く認識していて初めて心からの謝罪となり得る。

 責任を感じない者の謝罪が心からのもの足り得るはずはない。

 「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っていることはイジメ側の生徒とイジメられる側の生徒の問題としている一方、他方に於いて1年生のときも2年生のときも面談していることから、それぞれの担任のみならず学校自体が経過観察を怠っていたということを意味していて、生徒一人の命を失わせた学校全体のその怠慢の責任は償いきれない程に大きいはずである。

 だが、教育長の発言は学校側の経過観察の怠慢を認識していない、単に生徒たちの問題とする認識に立った表面的な事実経過を述べるのみで、それでおしまいにしている。

 教育長も教育関係者である以上、「一旦収まったが、その後も続いていた」と言っている自身の言葉が何を意味することになるのか的確に認識しなければならないはずで、生徒たちの問題とするのみならず、学校側の経過観察の怠慢とその責任への言及と、学校側から町教委にいくら報告がなかったとはいえ、監督責任はあるのだから、町教委の責任にまで言及があって初めて「一旦収まったが、その後も続いていた」という言葉を口に出す資格が出てくることになるが、その言及がない以上、自殺した生徒に対する「ただただお詫びするほかない」の深い謝罪は形式的であることから免れることはできない。

 教育長の発言に現れたこのような認識不足も生徒それぞれの日々の在り様=それぞれの生命(いのち)の在り様に日々さしたる危機感を持っていないことが原因となっているはずである。

 もしそのような危機感を持っていたらと逆のことを考えると、十分に理解できる。

 また、そのような危機感の不在・欠如がまた、「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を招いている原因であろう。イジメを訴える言葉やイジメを目撃した言葉が記述されていても、愚痴や不満程度に受け止めて、言葉だけの対応を見せたからこその深刻さの見落としであろう。

 あるいはいじめ防止の成果とするために、例えイジメの兆候があったとしても、どうにかなるだろうと高を括って、イジメ認知をゼロと偽装した報告をする。 
 
 特にアンケートが文科省通知「いじめ防止基本方針」に基づいて毎年度5、11、2月の計3回実施するイジメ問題に特定した調査である以上、生徒一人ひとりの生きて在る存在性に関係していながら、形骸化・儀式化するというのは教育という使命に真っ向から反する許されないことでありながら、使命を忘れて形骸化・儀式化させている。

 単にイジメを見たことがあるか見なかったかを書かせるのではなく、イジメとはどういう行為なのか、担任とクラスの生徒が議論し合って、生徒それぞれにイジメに関わる自身の認識を持たせた上でアンケートに取り掛かるべきだろう。

 そのためには大河内清輝くんいじめ自殺事件や類似のその他の事件を教材としてイジメから自殺に至る経緯を学び合うことも必要になり、そこからイジメという行為の何たるかを生徒なりの判断で認識化、もしくは概念化していき、自分なりに獲得した認識、あるいは概念に基づいてアンケートに向き合えば、イジメを見た・見ないの単なる事実の伝達を超えて、イジメというものが如何なる行為であるかを考えながらの記述となり、それだけ学びの部分が加わって、生徒にしても形骸化・儀式化のキッカケとなる機械的記述を避けることができるようになる。

 学びの場に居合わせた教師にしても、生徒の記述をテストの答案に対するように疎かにはできなくなり、そのような対応が形骸化・儀式化を防ぐ手立てとなるはずである。

 生徒がそれぞれに得意な勉強や運動を自己の活躍行為とするのと同じくイジメはそのことを自己の活躍行為とする。イジメと勉強や運動との違う点はイジメの対象とする生徒に対して自己を精神的にも身体的にも優越的な上の位置に導き(一人で無理なら、多数を組むことによってそのように謀る)、その上下の力関係を利用して下の位置に置いた者を様々な手を使ってイジメる、いわば自分の思い通りに相手の行為や感情・人格を支配する権力行為を行う。

 イジメにしても学校という生活の場で自己を活躍させる自己活躍行為としているる以上、一般的な生徒が学校社会で好きな勉強や好きなスポーツ、あるいは好きな趣味を武器に自己活躍を通して自己実現を確立しようとしているのと同じくイジメる生徒はイジメによって自己実現を確立しようとしていることになる。

 そして自己実現を果たし得たとき、それは自己という人間の存在証明となる。

 学校社会でイジメで自己実現を図り、その自己実現を自己存在証明にするという存在性の構造は表面的なそれ自体は他の構造と同じであっても、イジメられる生徒の健全であるべき身体的・精神的存在性を否定して損ない、歪め、ときには抹殺してしまう点で他の構造とは大きく違って、決して許されない。

 「生活記録ノート」やアンケートの形骸化・儀式化を防ぐためにはこういったことを学んでから取り掛かるべきだろう。 
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岩手県矢巾町中2男子イジメ自殺に見る学校の“今イジメが起きているかもしれない”とする危機感の不在

2015-07-11 12:44:58 | 教育



      「生活の党と山本太郎となかまた ち」

      《7月15日(水)小沢一郎代表のテレビ出演ご案内》    
  
     こんにちは、生活の党と山本太郎となかまたちです。
     小沢一郎代表がBSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』に出演します。
     是非ご覧ください!

     ◆番組名:BSフジ『ブラマヨ談話室~ニッポン、どうかしてるぜ!』
     ◆日 時:平成27年7月15日(水)午後11:00~11:55
     ◆内 容:「夏だ!小沢一郎登場1時間SP」衆議院議員・生活の党代表の小沢一郎に日本の「景気動
      向」、「選挙システム」を問う。

     番組の詳細 

 7月5日、岩手県矢巾町で中学2年生の男子生徒が列車に撥ねられて死亡した。後に単に不注意から列車に撥ねられたのではなく、イジメを苦にして自ら走る列車に飛び込んだ自殺だと判明した。

 イジメは中学1年の時から続いていたという。

 こういったケースでいつも問題となるのは学校や担任教師がイジメを把握していたかどうかが問題になることである。児童・生徒の死が自殺と分かったときのよくあるパターンは学校は記者会見を開いて、「イジメも視野に入れて原因を解明したい」等の積極的な原因究明の姿勢の提示ではなく、「イジメがあったとは思わない」、「イジメと自殺の因果関係は不明」といった、極力イジメを原因から取り除こうとする努力の提示だから、把握の有無が追及の的となる。

 2011年10月11日にイジメを苦に自宅マンションから飛び降り自殺した大津市立中2男子生徒の場合は典型的な例で、翌2012年7月に全国的に報道されるようになり社会問題となったが、自殺前にイジメを目撃した女子生徒が教師に「イジメられているから、やめさせてほしい」と訴え、自殺後の全校生徒対象アンケートに複数の生徒のイジメの目撃事実が記入されていながら、校長は2012年7月14日の記者会見で、「生徒が亡くなるまで、学校としてイジメがあったというはっきりした認識はなかった」と知らない事実としたものの、2カ月も経過した9月18日の会見では、隠し通せないと覚悟したのか、「少なくとも教諭3人がイジメを認識していた可能性が高い」と往生際悪く、あくまでも「可能性」に貶めて消極的ながら認めるに至ったのは責任回避意識を先に立たせる姿勢を抹消できなかったからだろう。

 責任回避意識を働かせることになるのは自身の学校でのイジメやイジメ自殺を予想外とする日常性に支配されていて、“今イジメが起きているかもしれない”という危機感を不在としていることが原因となっているはずだ。

 危機感を不在としているから、イジメらしき行動を見ても、悪ふざけだとか、冗談だとか、あるいはちょっとした諍(いさか)いだとか、些細なこと、瑣末なことに過小評価して見過ごしてしまう。

 逆に“今イジメが起きているかもしれない”という危機感を日常的な感覚としていたなら、実際に些細な悪ふざけや冗談でしていることであっても、万が一のイジメを疑うことになり、その過剰性が却ってイジメ防止となって働くことになる。
 
 今回のイジメ自殺では生徒が担任に相談し、担任が相談に乗る交換日記形式の「生活記録ノート」にイジメの事実と自殺を匂わせる記述があり、そのノートが生徒の自宅に残されていたため、町教育委員会や学校側はパターンとしてある責任回避意識を働かせる暇がなく(この解釈は後で間違いと分かる)、町教委は調査のための第三者委員会設置の方針まで7月5日の自殺から4日後の7月9日と迅速な動きを見せている。

 但し“今イジメが起きているかもしれない”という危機感を恒常的に(このことは後で分かる)不在としていたことに変わりはなく、従来の責任回避意識とは別の責任回避のシステムを作動させている。

 それは「生活記録ノート」の担任の記述に既に現れている。

 「asahi.com」記事と「毎日jp」記事の画像から、「生活記録ノート」の生徒と担任の遣り取りと遣り取り前後の経緯を文字化してみる。

 「生活記録ノート」

 2014年9月中旬

 父親の相談を機に生徒と部活顧問、厭がらせをしていた生徒が話し合い。

 2015年4月7日

 男子生徒「今日は新しい学期と学年でスタートした一日です。この今日を大切に、でだしよく、おわりよくしたいです」

 担任女性教師「新しいメンバーで戸惑うと思うけど、みんな協力してがんばろう。よろしくお願いします」

 4月17日

 男子生徒「最近◯番の人に『いかれてる』とかいわれましたけど、けっこうかちんときます。やめろといってもやめないこともあるし、学校がまたつまんなくなってきたような」

 担任女性教師「?どうした何かあった」
 
 4月20日

 男子生徒「なんか最近家でも学校でもどこでもイライラするようなきがします。いいことないし、しっぱいばっかりだし、もうイヤだ嫌ーです。だったら死にたいぜ。☆」

 担任女性教師「みんな同じ。環境が変わって慣れていないからね。がんばれ」

 5月13日

 男子生徒「ぼくだってがんばってるのにぜんぜん気にしないし、づっと暴力。づっとずっとずっと悪口。やめてといってもやめないし、もう学校やすみたい。そろそろやすみたい氏(※死)にたい」

 担任女性教師「予行でいろいろ言われたのですね、全体にも言おうと思います。失敗した人を責めないように」

 5月15日

 男子生徒「なにかの夢を見たようです。誰一人いない世界に一人ぼっちになったようなかんじでした」

 担任女性教師(※記述なし)

 6月3日

 男子生徒「先生がたはしらないでしょう、ボクは○○とけんかをしました。ボクはついについにげんかいになりました。もう耐えられません」

 担任女性教師(※記述なし)

 6月4日

 男子生徒「体はつかれはて、思うとおりにうごかなくなりました。学校にはいけませんでした。金曜はいこうと思います」

 担任女性教師「トラブルはもう大丈夫かな?何かあったのかこのノートにかいてみて」

 6月5日

 男子生徒「けんかいらいいじめはなくなりました。しかしボクはまだおこっています。次やってきたら殴るつもりでいきます」

 担任女性教師「なぐるのはダメです。先生が代わりに言います」

 6月8日

 男子生徒「実はボクさんざんいままで苦しんだんでスよ?なぐられたりけられたり首しめられたりこちょがされたり悪口言われたり!その分を(全部だしていないけど)ちょっと放ったんですヨ」

 担任女性教師「そんなことあったの??それは大変、いつ??解決したの?」

 6月10日

 男子生徒「あいつといるとろくなめにあいません。体調がますます悪化する・・・。もうつかれました。もう死にたいと思います」

 担任女性教師「◯◯に言っておきます!!まず体(熱)を今治すように」

 6月28日

 男子生徒「ここだけの話。ぜったいにだれにも言わないでください。もう生きるのつかれてきたような気がします。氏(※死)んでいいですか?(たぶんさいきんおきるかな。)

 担任女性教師「どうしたの?テストのことが心配?クラブ?クラス?元気を出して生活しよう。(男子生徒の名前)の笑顔は私の元気の源」

 6月29日

 男子生徒「ボクがいつ消えるかわかりません。ですが先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市(※死)ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」

 担任女性教師「明日からの研修たのしみましょうね」

 7月3日 〈男子生徒発熱で学校休む。〉

 7月5日 〈列車にひかれて死亡〉(以上)

 記事には7月5日 (列車にひかれて死亡〉と書いてあるが、実際は〈列車に飛び込む〉と書くべきだろう。

 2014年9月中旬に父親の相談を機に生徒と部活顧問、厭がらせをしていた生徒が話し合いをしているにも関わらず、担任が「生活記録ノート」の4月7日に「新しいメンバーで戸惑うと思うけど、みんな協力してがんばろう。よろしくお願いします」と書いているから、2014年4月に進学してクラスの生徒が変わったのだろう、当然、部活顧問は9月中旬の話し合いの内容を1年生時の担任に報告していなければならないから、部活顧問と担任が同じ人間ならその必要はないが、1年生時の担任から(部活顧問と担任が同じ人間なら直接)2年生時の担任に相談内容と結果を引き継がなければならないはずだが、生徒が悩み事を伝えたのに対して担任は4月20日の返事で、「みんな同じ。環境が変わって慣れていないからね。がんばれ」と、その生徒なりの問題を抱えているとは解釈することなく、他の生徒と同様の人間関係構築の準備期間時の情緒不安定としか見ていないことから、引き継ぎがあったとは思えない。 

 相談事の事実は相談本人の一つの経歴として記録して万が一の以後の参考情報としなければならないはずだから、実際にイジメは中学1年から2年になっても続いていたのだから、部活顧問なり1年生時の担任なりがその場で収まったこととして2年生時の担任に引き継ぎをしなかったとしても、“今イジメが起きているかもしれない”という危機感を日常的な感覚としていなかった、不在としていたとしか見ることができない。

 イジメる側とイジメられる側が教師を間に話し合い、イジメる側が二度とイジメをしないと約束しても、その約束が簡単に反故にされる例はいくらでもあるし、子どもを虐待する親に児童相談所が指導して二度と虐待をしないと約束させたとしても、その約束が簡単に破棄される例も多々ある。

 もし何らかの引き継ぎがあったにも関わらず、担任がそのことに注意を払わずに問題を抱えていない他の生徒同様の扱いをしていたとしたら、日常的な感覚としていなければならない“今イジメが起きているかもしれない”という危機感の欠如・不在は如何ともし難いことになる。

 自殺した生徒が「生活記録ノート」に「死」という言葉を記したのは4月20日である。「なんか最近家でも学校でもどこでもイライラするようはきがします。いいことないし、しっぱいばっかりだし、もうイヤだ嫌ーです。だったら死にたいぜ。☆」

 「死にたいぜ」のあとに「☆」を付けたのは、「死にたいぜ」の言葉を何らかの思いで強調する意味があったと受け止めなければならないはずだ。

 そして1カ月近く経過した5月13日に「もう学校やすみたい。そろそろやすみたい氏にたい」と相談しているが、担任は後段の「氏にたい」を「死にたい」という意味で読み取らなければならないし、読み取ることによって、前段の「もう学校やすみたい」にしても単に学校に対する嫌気からの欠席だけではなく、次の言葉で「そろそろやすみたい氏にたい」と句読点を入れずに続けているところからしても、例え結果的に自殺を決行しなかったとしても、死を意味する休息を込めた「やすみたい」の意味を含んでいると解釈して、そこに自殺願望を見るべきだろう。

 一度は正確に使っている「死」という言葉に同じく「死」という字を当てないのは自殺したい思いを露骨な意志として担任に伝わることに戸惑いがあり、「氏」の字を当てることでその思いをカモフラージュする意図があったからではないだろうか。

 対して担任は「予行でいろいろ言われたのですね、全体にも言おうと思います。失敗した人を責めないように」と何かの予行演習で起きた大したことのない揉め事と解釈したのみで、生徒が被っている暴力や悪口が具体的にどのような性格のものか尋ねることもせず、「そろそろやすみたい氏にたい」をどの程度の思い込みか探ろうともしなかった。

 学校教師が常に児童・生徒に対して日常的な感覚として備えていなければならない“今イジメが起きているかもしれない”という危機感は担任のどこからも窺うことができない。

 窺うことができるのは子どもがときには大人顔負けの残虐性を発揮する生きものであり、それゆえに子ども同士の世界に制止の効かない残酷なイジメが発生し得るという認識ではなく、生徒の在り様に対する一律的で楽観的な思いのみである。

 6月5日の生徒の「けんかいらいいじめはなくなりました。しかしボクはまだおこっています。次やってきたら殴るつもりでいきます」の報告に対して「なぐるのはダメです。先生が代わりに言います」

 担任が実際に喧嘩相手に注意なり、忠告なりしたのかというと、何もしなかったことは3日後の6月8日の遣り取りで判明する。

 男子生徒「実はボクさんざんいままで苦しんだんでスよ?なぐられたりけられたり首しめられたりこちょがされたり悪口言われたり!その分を(全部だしていないけど)ちょっと放ったんですヨ」

 担任女性教師「そんなことあったの??それは大変、いつ??解決したの?」

 担任は「なぐられたりけられたり首しめられたり」の事実に初めて気づいたということは常識的に考えると、何も引き継ぎがなかったことになる。引き継ぎがあったにも関わらず、初めて気づいたとすると、“今イジメが起きているかもしれない”という危機感以前の問題として、「だったら死にたいぜ。☆」とか、「もう学校やすみたい。そろそろやすみたい氏にたい」といったそれまでの生徒の相談から生徒の思いを何も汲み取っていなかったことになる。

 しかも、「いつ??解決したの?」と生徒任せとなっている。生徒の心理を汲み取る力もなく、“今イジメが起きているかもしれない”という危機感もないことからの生徒任せであろうし、同時に「生活記録ノート」が単に義務的作業となっていることを窺うことができる。
 
 6月10日になって生徒が「あいつといるとろくなめにあいません。体調がますます悪化する・・・。もうつかれました。もう死にたいと思います」と、「死」という直接的な言葉を使って相談しているところを見ると、6月5日の生徒の「けんかいらいいじめはなくなりました」は願望を書いた疑いが出てくる。

 対して担任は「◯◯に言っておきます!!」と答えている。「asahi.com」記事によると、担任は6月上旬に男子生徒と面談した上で男子生徒とトラブルになった生徒とも面談し、嫌がらせをやめるよう指導していたとしているが、「いつ??解決したの?」と生徒任せにしていること、6月28日の生徒の「氏んでいいですか?(たぶんさいきんおきるかな。)」の訴えに対して担任が「どうしたの?テストのことが心配?クラブ?クラス?元気を出して生活しよう。(男子生徒の名前)の笑顔は私の元気の源」と答えていること、6月29日の生徒の「ボクがいつ消えるかわかりません。ですが先生からたくさん希望をもらいました。感謝しています。もうすこしがんばってみます。ただ、もう市ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」の最後通牒のような半ば投げやりな死の暗示に対して担任は何も汲み取らず、「明日からの研修たのしみましょうね」 と言っているところを見ると、面談と指導が形式的な通り一遍に過ぎなかったように見える。

 勿論、6月28日の担任の「元気を出して生活しよう。(男子生徒の名前)の笑顔は私の元気の源」という言葉、6月29日の「明日からの研修たのしみましょうね」の言葉を生きることへの励ましと受け取れないことはないが、それがもし励ましであったなら、「生活記録ノート」を通した、いわばワンクッション置いた励ましで解決でき、直接的な言葉の遣り取りを必要としない励ましと判断していたことになる。

 その時点ではどちらか判断できなかったという言い訳は成り立つが、6月28日に「氏んでいいですか?(たぶんさいきんおきるかな。)」と言い、6月29日に「ボクがいつ消えるかわかりません」、「もう市ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」と、深刻な出来事であるはずの自殺を恰も他人が自身の自殺を眺めているかのように深刻さもなく第三者的に記すのは大河内清輝くんも遺書で、「またみんなといっしょに幸せに、くらしたいです。しくしく」と書いたり、「see you again」と書いていたりしていたことからも学習しなければならない学校教師の情報であり、学習していなかっただろうということは、やはり“今イジメが起きているかもしれない”という危機感が欠如していたとの誹りは免れることはできないはずだ。

 勿論担任だけに責任があるわけではない。

 7月7日の記者会見で校長はは文科省通知「いじめ防止基本方針」に基づいて毎年度5、11、2月の計3回実施することになっているアンケートの今年度最初の5月分を「行事の関係で実施していなかった」と説明。ところが7月10日になって、アンケートの5月分未実施は事実誤認で、6月に行っていて、生徒がイジメを受けていたとする回答が複数あったことを明らかにした。

 ところが、担任がアンケートを自分の手元に置いたままで、教員間で共有されていなかったと7月10日付の「asahi.com」記事が伝えている。

 これを担任一人の責任とすることはできない。周囲は担任が「自分の手元に置いたまま」を許していたことになるからだ。「何々先生、アンケートが出ていませんよ」と提出を促すこともしなかった。

 自殺した生徒が1年生の時からイジメを受けていたとしているのだから、なおさらにアンケートの提出を迫らなければならなかった。

 さらにアンケートを集めて内容を検討・精査するチームを学内に設けていなければならないはずだ。大河内清輝くんのイジメ自殺事件でも学校は「いじめ・登校拒否対策委員会」を設けていて、役には立たなかったが、情報共有やイジメ防止に取り組んでいた。

 この手のチーム自体を設立していなかったか、設立していても機能させることができなかったということなら、よくあるパターンとしての従来の責任回避意識とは別の責任回避のシステムを学校内で作動させていたことになる。

 もし5月に学校行事でアンケートが実施できずに6月に行ったなら、教頭以下が校長にその情報とアンケート内容の全体的な評価に関わる情報を上げなければならないたはずだが、その手の情報すら校長は共有せず、7月7日の記者会見で「実施していなかった」と発表、後で6月に行ったと訂正したのは情報共有という点だけではなく、学校側が担任にアンケートの提出を求めなかったこと自体も危機管理の不在となり、学校ぐるみで日常的な感覚としていなければならない“今イジメが起きているかもしれない”という危機感を不在としていたことになる。

 この点に危機感不在の恒常性を見なければならないし、この恒常的な学校ぐるみの危機感の不在が招いた生徒の自殺であろう。

 担任一人の責任とするのは校長以下の責任回避となる。学校全体の危機感の不在であり、担任もその一人に加わっていたと見るべきだろう。

 最後に自殺を6日後に控えて自殺を仄めかしていながら、「死」という直接的な言葉ではなく、「もう市ぬ場所はきまってるんですけどね。まあいいか」と「市」という単語を宛てたのは、既に触れたように深刻な出来事であるはずの自殺を恰も他人が自身の自殺を眺めているかのように深刻さもなく第三者的に記したい気持が働いたからではないだろうか。「自殺なんて、たいしたことないよ」と思わせようとして。

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高校3年生の英語能力中卒程度から見えてくる暗記教育と議論の不在の相互関連

2015-03-21 05:23:21 | 教育



      生活の党PR

      《3月22日(日)山本太郎代表のテレビ出演のご案内》 

      番組名:NHK『日曜討論』
      日 時:平成27年3月22日(日)9:00~10:35
 
      内 容:

      ○統一地方選挙にどう臨むか
      ○地方活性化の具体策は
      ○内政・外交の重要課題について

      《3月20日 「あまりにも子どもじみた」安倍政権の辺野古への対応(小沢一郎代表談
     話)》
 

     小沢一郎代表が3月20日、「あまりにも子どもじみた」安倍政権の辺野古への対応と題する
     談話を発表しました。党HPに全文を掲載しました。ご一読をお願い致します。

 高校3年生の英語力を把握しようと文部科学省が「読む・聞く・書く・話す」の4技能の大規模な7万人対象のテストを初めて行い、3月17日、その結果(速報値)を公表したが、中卒程度(英検3級)の成績であると分かったという。

 これを以って驚きの大発見とするか、この程度と見るかは日本の教育の構造をどう心得ているかに拠るはずだ。

 どの程度の成績だったか、文科省のサイトにアクセスしてみたが、探し方が悪いのか、どこにも載っていない。仕方がないから、各記事を纏めてみる。

 国の教育振興基本計画の目標は高卒時英検準2級~2級程度。
 
 「読む・聞く」は英検3級(中学卒業程度)相当。

 「書く・話す」はそれ以下。目標のレベルに達していない生徒が9割近い。

 「書く」は過半数が正解率1割以。

 目標到達の生徒の割合。

 「読む」27.3%
 「聞く」24.1%
 「書く」13.5%
 「話す」12.8%

 中卒程度(英検3級)以下の英語能力の割合。

 「話す」87.2%
 「書く」86.5%
 「聞く」75.9%
 「読む」72.7%

 無回答の生徒の割合。

 「書く」29.2%
 「話す」13.3%

 文部科学省は「実践的な英語が身についていない現状が浮き彫りになった」(NHK NEWS WEB)と話しているという。

 これまでの学校の英語教育は「読む・書く」に重点を置いてきた。だが、悲しいかな、その成績は暗記する能力によって片付いた。しかも中・高・大学と学校教育英語を学んでも、話すことができる生徒は殆ど育たなかったということは、その暗記が永続性を持たず、その時々、学年ごとの中間テストとか期末テスト、あるいは高校入学試験、大学入学試験とかに応じた時限的な暗記で乗り越えることができることを物語っている。

 最初は暗記知識であっても、その暗記に永続性を持たせることができていたなら、「読む・書く」能力が自ずと堪能の域に達して、「話す・聞く」能力に発展させることができたはずだ。

 だが、小・中・高・大学と一貫してその場その場の暗記教育であったから、そうはならなかった。

 高校の入学試験を受けて合格していながら、なお且つ高校2年まで高卒時英検準2級~2級程度の英語教育を受けていながら、英語能力が中卒程度以下の生徒の割合が、「読む・聞く・書く・話す」全てが70%以上を占めているという事実は前に進む節目としているテストという関門をその場その場の暗記で凌いできたことになって、日本の教育が未だ暗記教育となっていることを物語っている。

 要するに学年ごとの中間テストであっても期末テストであっても、あるいは高校入学試験であっても大学入学試験であっても、学校がお膳立てするテストは暗記能力でその場を遣り過すことができるが、今回の文科省のテストは初めてということで、それが効かなかったということなのだろう。

 だが、何回も同じようなテストが繰返されると、一定の傾向が分かり、対策が講じられて、一定程度は暗記能力で対応可能となる。

 テストのための暗記を動機としたものではなく、単純に英語で表現することを動機として頭の中で文章を思い浮かべて「書く」ことを訓練して、それが上達すれば、「読む」ことも「話す」ことも「聞く」こともできることになる。

 そのいずれもが満足にできないのだから、やはり暗記教育しか見えてこない。

 暗記教育は教師が教科書に書いてあることをちょっと色をつけて児童・生徒に教え、児童・生をはそれを暗記してテストの問いに対してちょっとした応用力を効かせて回答として当てはめていく一発回答で成り立たせている。

 最近は感想文や小論文を書かせるテストもあるということだが、3月11日付の「ロイター」記事が伝えているところでは、東大教養学部が後期課程(3~4年)の今学期末の課題として提出したある学生のリポートの「約75%がインターネットに公開されている文章の引き写しだった」と東大ホームページで3月10日公表したという事実からすると、自分の知識を他人の知識に頼る暗記型が依然として根強く残っていることを証明している。

 もし「ある学生」が一人であるなら、その生徒を呼び出して直接注意すれば事は済む。75%の引き写しを筆頭に少なくない学生が少なくない割合で引き写しているから、わざわざHPに公表したはずだ。

 この引写しも主として一発回答型の構造を取ったリポートということであろう。

 初めは様々な他者の様々な知識であっても、それらを発展させて自分の知識を創造する脱暗記型とはなっていないということである。

 教師の授業中の児童・生徒に対する質問も同じ一発回答型の構造を取ることになる。教科書に書いている知識の中から児童・生徒に質問し、児童・生徒は教科書が提供している知識を暗記に応じて答える。そして教師は生徒の答が教科書に書いてある知識に合致していれば、それで良しとする。

 いわば生徒の答が正しければ、それを引き取って終わりとする。これが一発回答型の構造を取った暗記教育である。

 例えば国語の教科書に載せてある小説の一部分から主人公の性格を生徒に質問し、生徒が「正直な性格です」と答えて、それが正しければ、「そのとおりだ」と答が正しいことを伝えて、その答を引き取っておしまいにする。

 一発回答型で引き取らずに、「正直にも色々ある。どのようなことに正直なのか、どのような正直さなのか」といったことを更に質問して、他の生徒にも聞いて、議論する形に持っていき、様々な考えを引き出すということはしない。

 勿論、私は最近どんなふうに授業が行われているかは知らない。だが、断言できる。

 もし授業の中に一発回答型から離れて当たり前のように議論の形式を取り入れていたなら、最近の授業では英語で質問し、英語で答える授業方法を取り入れているそうだから、自分の考えを述べなければならない議論は暗記では収まらないことになる。例えたどたどしくても、自分の考えを英語で述べなければならないから、否応もなしに「話す」力がついていくことになる。

 議論がそれ相応に機能すれば、一発回答型の暗記教育を超えて「話す」だけではなく、「書く」ことに関しても「聞く」ことに関しても、「読む」ことに関しても自ずと力をつけていくことになるはずだ。

 つまり暗記教育と議論の不在は相互関連し合っていて、相互関連し合ったこの両者が高校3年生の英語能力が中卒程度という成績の元凶をなしていると言うことができる。

 更には最近よく言われている考える力の不足の原因もここにあるはずである。

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川崎市中1男子殺害事件から見る役所の誰かの犠牲を待ってからの相も変わらぬ類似性把握全国確認・点検調査

2015-03-14 07:48:16 | 教育
 


 文科省が3月13日、川崎市中1男子殺害事件を受けて全国の国公私立の小中高校などに在籍する児童・生徒を対象に不登校等で連絡の取れない児童・生徒の安全に関する緊急調査結果を公表したとマスコミが伝えていたので、文科省のサイトにアクセスしてみた。

 調査結果がpdf記事で公表されていた。中1男子と同じ状況に置かれていないか、安全のための類似性把握の緊急調査というわけである。

 「児童生徒の安全に関する緊急確認調査」(文部科学省/平成27年3月13日)
 
 〈調査の目的

 各学校において、神奈川県川崎市において過日発生した中学1年生殺人事件の被害生徒と同様の危機にさらされている可能性のある児童生徒を的確に把握するとともに、組織として緊急に対応していくことを目的とする。

 調査対象児童生徒

 (類型1)2月27日時点で、学校において7日間(授業日)以上連続して連絡が取れず、その生命又は身体に被害が生ずるおそれがあると見込まれるもの。

 (類型2)(類型1)に該当する者のほか、学校外の集団(成人が主たる構成員であると思われるものを含む。)との関わりの中で、その生命又は身体に被害が生ずるおそれがあると見込まれるもの。

 (類型1)

 小学生  男(27人) 女(22人) 男女合計(49人)

 中学校  男(61人) 女(51人) 男女合計(112人)

 高等学校  男(36人) 女(30人) 男女合計(66人) 

 特別支援学校  男(3人) 女(2人) 男女合計(5人)

 合計  男(127人) 女(105人) 男女合計(232人)
 
 (類型2)

 小学生  男(20人) 女(5人) 男女合計(25人)

 中学校  男(90人) 女(41人) 男女合計(1131人)

 高等学校  男(7人) 女(2人) 男女合計(9人) 

 特別支援学校  男(3人) 女(0人) 男女合計(3人)

 合計  男(120人) 女(48人) 男女合計(168人)

 全合計で400人。

 「学校外の集団」とは成人を含む非行グループを指し、自宅への非行グループの出入りや学校外での交遊の例があるという。

 内藤敏也文科省児童生徒課長「不登校や非行とされている子どもたちが本当に安全かという視点を大切にし、学校は勿論関係機関や地域が一体となって同じような事件を防いでいく必要がある」(NHK NEWS WEB

 文科省「解釈によって報告数にばらつきが出た。全員が危険な状況にあるわけではない」

 「全員が危険な状況にあるわけではない」にしても、文科省は中1殺害事件が起きて、初めて全国的な調査に乗り出した。学校は文科省の通達を受けて、該当する児童・生徒数を割り出した。全て事後対応である。

 2012年4月23日、19歳の少年が無免許の上軽自動車を居眠り運転し、集団登校中の児童10人の列に突っ込み、児童2人と引率の女性保護者1名を死なせた。保護者の胎内の胎児も死亡させている。

 この事件を受けて、文部科学省・国土交通省・警察庁が全国に通知を発し、全ての公立小学校で通学路の合同総点検が実施された。その結果、全国約7万個所が見通しが悪い交差点や交通量が多くて狭いなど、何らかの対策を必要としたという。

 通学路の状況に応じた危険性は児童・生徒や保護者が実感し、学校側に伝えられて把握しているはずだが、行政側に伝えていたのかどうか、何も動かない・動かさないままの個所が全国約7万個所も残されていた。

 2012年4月29日、群馬県藤岡市岡之郷の関越自動車道上り線藤岡ジャンクション付近で居眠り運転のツアーバスが道路左側のガードレールに接触、そのまま金属製の防音壁側面に正面衝突、バスを縦に切り裂く形になって、乗客7人が死亡、乗客乗員39人が重軽傷を負った。

 大事故となった原因はガードレールと防音壁が接続・固定の一体型ではなく、10センチ程離した分離型であったため、車体との接触によってガードレールが外側に曲がった結果、バスが防音壁側面と正面に向き合うことになり、防音壁が大鉈のような役割をして、バス車体を縦に切り裂き、左側座席に座っていた乗客の中からのみ死者を出した。

 1998年の国交省の通達によって、それ以後建設の新しい高速道路はガードレールと防音壁が接続・固定の一体型となっているが、それ以前の建設の高速道路は分離型のままだったという。

 分離型から一体型への変更は余分にコストがかかるから、安全面からの措置であったはずだ。いわば1998年時点で国交省は分離型個所の危険性を把握していた。だが、1998年以前の高速道路は安全面の措置をそのままに放置した。

 国交省は事故を受けて、類似個所の点検を各高速道路会社に通知した。東日本高速道路約2400カ所、中日本高速道路約1000カ所、西日本高速道路約1700カ所、計約5100カ所の隙間が確認された。

 学校は不登校や不登校からの交友関係がその当事者の身の安全に関わる出来事、生命に危害が及ぶ出来事とは考えていなくても、それがどのような事情からのものであっても、特殊な例外は幾つかはあるかもしれないが、その殆どが健全な成長を妨げる、あるいはそのキッカケとなると見做しているはずだ。

 だから、長期の不登校に対して家庭訪問を行ったり、連絡を取ろうと心掛ける。

 当然、学校が不登校に対してよりよく対応することによって、健全な成長の阻害要因を除くことができるばかりか、結果的に当事者の身の安全につながる。 

 いわば心身の健全性を見守る危機管理となる。

 だが、「全員が危険な状況にあるわけではない」としても、少なくとも健全な成長を妨げる、あるいはそのキッカケとなると見做さざるを得ない不登校の児童・生徒がそれぞれの学校の調査で全国で400人も把握された。

 つまり学校はそのような不登校に的確に対応できずに放置していたことになる。対応できていたなら、数の内に入れなくても済む。

 役所の事件や事故を受けてからの相も変わらぬ類似性把握の全国確認・点検調査にしても、役所の指示を受けた学校の対応にしても、前以て危険を予測して自発的に危機管理できない姿を曝しているに過ぎない。

 誰かの犠牲を待たなければ動かない。

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稲田朋美の上村遼太中1殺人事件に反応した教育問題抜きの少年法改正欲求は粗雑な厳罰主義

2015-03-03 10:03:37 | 教育


 右翼政治家稲田朋美が2月27日記者会見で上村遼太中1殺人事件に早速反応した。

 稲田朋美「少年が加害者である場合は名前を伏せ、通常の刑事裁判とは違う取り扱いを受ける。

 (犯罪が)非常に凶悪化している。犯罪を予防する観点から今の少年法でよいのか、今後課題になるのではないか」(asahi.com

 より厳罰主義で臨むべきだとの欲求を露わにした。

 その厳罰主義とはテレビ・新聞が犯罪を犯した少年の名前を告げるのを許し、写真を載せるのを許し、少年裁判が被害者等に限って条件付きで許している傍聴を通常の刑事裁判並みに誰に対しても可能とし、裁判の模様もテレビ・新聞が報道できるように少年法を改正して、これらを以って少年犯罪を抑止する手立てにしようという内容の発言となっている。

 だが、少年犯罪は大人の犯罪と違って、教育と深く関係している。その多くが活躍できる能力に基づいた活躍の場を学校社会に見い出し得ず、いわば活躍できる能力も活躍できる場も学校では見い出し得ず、活躍できる場は夜の公園とかゲームセンターとか大型店舗とかの学校外社会に求めて、そこで発揮できる他愛もないお喋りをして屯するとか万引きとか恐喝とかの能力を自分が活躍できる能力とするに至っている教育の問題を抜きにいきなり厳罰主義で臨んで、それが抑止力として働くとでも思っているのだろうか。

 単細胞な女だ。

 このような活躍の場と活躍できる能力の学校社会から学校外社会への移動は各学区ごとに無視できない数で多く存在するだろうから、日本全国で相当な数の現象にのぼるはずで、そういった現象は厳罰主義の法律でも止めることはできないはずで、数多くあるその中から突然変異のような形で今回のような事件や、3月1日のNHK日曜討論「中1男子殺害事件 いま子どもたちに何が」で取り上げていたように1988年11月に17歳の女子高生を誘拐・監禁して16歳から18歳の少年6人が41日間に亘って強姦を繰返し、最後には顔が変形する程の殴る蹴るの激しい暴行を繰返すようになって死なせてしまって、コンクリートに詰めて死体を遺棄した、恐怖で支配し従属させた女子高生コンクリート詰め殺人事件やその他類似の悲惨な事件が突発しているのだから、厳罰主義がどれ程に関与できるか疑わしい。

 そもそもから言って、少年法による厳罰主義は事後対応の対処療法であって、教育こそが事前対応となる原因療法の役に当たるべきでありながら、そうであるなら、既発の過剰な暴力やイジメに彩られた少年事件を徹底的に検証して、それを以後の教育に生かして再発防止に努めるべきを、それを言葉だけで終わらせていたから、安倍晋三にしても教育行政を与る下村博文にしても今回の中1殺人事件で[検証」と「再発防止」の同じ言葉を使うことになっている。

 だが、これまでの「検証」と「再発防止」が言葉だけで終わらせる運命を慣習としていたから、今回も見るべき検証もできず、見るべき再発防止策も見い出し得ず、同じ繰返しで終わって、喉元通れば熱さ忘れるで、すっかり忘れた頃に再び類似の事件が起こるといったことを繰返す可能性は否定できない。

 このことは上記「日曜討論」で最後に、「子どもと向き合うにはどうしたらいいか」と問われて答えた、中学校教師生活22年、長年高名な教育評論家として意見を吐き、現在法政大学の教授として中学校生の生態ばかりか、大学生の生態も知ることになっていて、臨床教育研究所「虹」を主宰して教育研究の最前線に立って活躍している尾木直樹が「再発防止」となる子どもとの向き合い方に優れた答えを出してくれると期待したが、この尾木直樹にして人間性善説と楽観主義に彩られた答しか吐き出すことができなかったことからもほぼ証明できるのではないのだろうか。

 尾木直樹「基本は大人だけで頑張らない。子どもたちを参画させて、事件の検証を進めて、普段の学校づくり、地域のつくり方も含めて子どもの意見を聞き取る。子どもと共に学校もつくって、地域もつくる。

 子どもたちはネットをつくったり、色んなことに力量を高めている。うっかりしたら、僕らよりも遥かに力がある。LINEを使う力なんか物凄いんですから。だから、そんな中でみんな一緒になってパートナーシップ(協力関係)というものが物凄く大事かと思う。

 我々だけが頑張ってしまっても、また事件が起きてしまう。子どもが入っていれば、強いと思いますねえ」――

 学校社会が提供している場と能力に関わる利害に適合し、守られているからこその学校社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことができる大多数の子どもたちの存在であり、前者の利害の固守によって生じている不適合からの、いわば守られていないからこその学校外社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことになっている少数派の子どもたちの存在であろう。

 そしてこういった利害の異なる状況が古くて新しい問題として延々・脈々として続いてきた。

 当然、利害を固守し、その利害に守られたい側とその利害に多分敵意を向けている側とでは数の上でも意見の一致は困難で、尾木直樹が言う「子どもの参画」はテストがよくできる子、いい子たちだけの「参画」のみで一致を見る従来からの利害の固守となる公算が高い。国民の生活に深く関係する政策を政治家と有識者だけで話し合うようにである。

 いわば少数派が参加しても参加しないと同じ結果となる。人間性善説と楽観主義に取り憑かれていなければ、「子どもと共に学校もつくって、地域もつくる」といった他愛もない結論を導き出すことはできまい。

 全て解決できるわけではないが、学校の成績に関係しない教科授業、学校の成績に関係しない体育授業を設けたり、同じく成績に関係しない運動部とかスポーツクラブを用意して、少しでも学校社会の中で活躍の場と活躍できる能力を提供すべきではないだろうか。

 テストの成績を上げたい、あるいは学力をつけたいという児童・生徒にはそのように応えてやり、勉強が決定的に苦手な児童・生徒は集めて必要な数のクラスに編成して、歌って踊るアイドルのように歌って踊らせたする授業を行って活躍できる場と能力を提供してやる。

 アニメーションが好きな児童・生徒は音声を消して白い布を張った黒板に映写して、交代で生徒に声優を務めさせる。下手であっても上手であっても、学校の成績には関係なしとする。

 楽しみながら充実した時間を過ごすことができたなら、何かを学ぶはずである。

 体育授業も成績に関係なしとするから、大勢でワイワイ言いながら、サッカーの試合をしたり、ソフトボールの試合をしたりする。その試合に限って勝敗がつくことになるが、あくまでも楽しむことに主眼を置く。

 成績に関係しない運動部とかスポーツクラブの場合は他校や街の同じ性格の運動部やスポーツクラブと適宜対抗試合を行うことにするが、成績に関係しないからトーナメント方式とかリーグ戦方式とかで順位を決定するといったことはせず、また技術を上げるために猛特訓を課すといったこともせずに対外試合のみを重ねていくことにすれば、お互いライバルではなく、楽しみながらの試合だから、他校の児童・生徒との交流・コミュニケーションが深まっていくことになる。

 こういった活躍の場・活躍できる能力を提供することによって生じる新たな利害は学校社会で活躍の場と活躍の能力を見い出すことができているる大多数の子どもたちの利害と両立可能となるのではないだろうか。

 少なくとも教育の問題を抜きにして懲罰主義に走る稲田朋美の少年法改正欲求よりは健全でまともだとは思う。

 参考までに。

 《日本の教育/暗記教育の従属性を排して、自発性教育への転換を - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2008年11月18日記事)     

 《考える教育は朗読劇から - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》(2010年9月21日記事)

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上村遼太イジメ殺人事件 起きてしまってから、「検証」と「再発防止」を言う愚かな同じことの繰返し

2015-02-28 10:04:51 | 教育



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       《2月24日(火)山本太郎共同代表記者会見要旨・党HP掲載ご案内》

      「今国会ではとんでもない危険な法案が沢山考えられています」山本太郎代表
 
      【質疑要旨】

      自公が進めている安全保障議論について
      辺野古での抗議市民の逮捕事件について
      選挙年齢の18歳への引き下げと若者からの支持拡大策について
      統一地方選挙での擁立候補者の目標数並びにその発表時期について
      街頭記者会見について
      小沢一郎代表の韓国訪問について
      西川公也・前農水相の辞任について    

 川崎市の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太(13)の首を刃物で刺された死体が発見されたのは2月20日。

 新聞は「上村遼太さん」とか、「上村遼太君」と書いているが、何故か他処よそしい。特に前者は13歳の、大人から見たらまだ幼い少年に対する呼び方からすると、例え一個の人格として扱うにしても、距離を置いた表現に思えてしまう。マスコミにしたら呼び捨てにはできないだろうが、父親や母親が自分の子供を例え呼び捨てたとしても、父親失格者でなければ、あるいは母親失格者でなければ、そこに常に親しみが込もっている。当たり前に生きていたときの少年に対する親しい人間であったかのように装うことにして呼び捨てにすることにした。

 昨日2月27日の衆院予算委員会でもこの事件を取り上げていた。

 文科相のエセ教育家下村博文は痛ましげな声の調子を作っていたが、原稿を読んで次のように答弁していた。

 下村博文「一般的には生徒が連続して長期間欠席したり、欠席日数が急に増えたりした場合は、電話連絡や家庭訪問などによる欠席理由を把握し、必要があれば警察や児童相談所と連携しつつ、早期に対応するのが通例であると承知をしております。

 本件の場合にそういう対応が十分になされたのか、子どもを守る点での対応に不足がなかったのかどうか、しっかりと検証していく必要があります。この事件を検証し、二度とこのような事件が起きないように実効ある再発防止策の策定につなげるために本日、丹羽副大臣を主査とするタスクフォースを設置致しました」――

 事務的な響きしか聞こえてこない。

 以下の答弁は「NHK NEWS WEB」記事を利用した。

 安倍晋三「なぜこのようなことが起こり、果たして防ぐことができなかったのかと思う。子どもたちを守るのは私たち大人の責任だ。できることは何でもやっていくという思いで、今後取り組んでいきたい。学校や教育委員会、警察や児童相談所との連携が十分だったのかも含めて検証しながら、再発防止策をしっかりと考えていかなければならない。こうしたことを二度と起こさないという決意で臨んでいく

 山谷右翼国家公安委員長「子どもは国の宝、未来の宝だ。前途ある少年が殺害されたことに胸が痛む。平素から警察は、学校、教育委員会、児童相談所などと枠組みを作り、連携し、情報収集に当たっている。子どもたちの安全確保と健全育成は、安全・安心社会の基盤だ。今回のようなことが起きないように、今後より一層、関係機関との連携に努め、早期の把握、情報収集、的確な対応を検証し直して、この痛みを胸と体に刻みながら、再発防止に努めていきたい

 塩崎厚労相(閣議後記者会見)「少年が悲惨な事件の犠牲となったことは残念だ。こうした事件が二度と起こらないようにするため、しっかりと検証することが大事であり、児童相談所などの制度の下で何を改善すればいいのか考えたい。関係省庁ともしっかり連携していきたい」
 
 悲惨な事件が起きてしまってから、「二度とこのような事件が起きないように」とか、「二度と起こさないように」とか、「再発防止に努める」と決まって言う。

 そしてこれらを決まり文句とし、「検証」「再発防止」の呼びかけを決まりきった取り組みとする。この繰返しである。

 学校関係者にしても同じ穴のムジナとなっている。遼太が通っていた中学校の校長。

 「容疑者が逮捕されたとはいえ、上村さんの不幸に変わりはなく、お悔やみのことばしかありません。欠席が続いたときに学校として、もっとできることがなかったか反省することはあると思う。教育委員会と連携して十分に検証していきたい

 遼太が一昨年7月まで通っていた島根県隠岐諸島の西ノ島町にある西ノ島小学校の金築康治校長。

 「何をしても遼太君は帰ってこないのだから、事件に対する怒りよりも、今はとにかく静かに祈りをささげたい思いです。彼の死をむだにしないよう、私たち教育関係者も事件の再発防止に取り組んでいかなければならないと思います

 福田紀彦川崎市長「被害にあった生徒に改めてご冥福を祈りたいと思っています。逮捕された少年が市内在住なのか、それとも市内の高校生なのか、まだ情報がないですが、仮にそうだとすれば、大変深刻な問題だと受け止めています。被害に遭った生徒本人によるSOSを私たち大人がしっかりと受け止められなかったことに深く反省するとともに、これからどうすべきなのか、しっかりと詰めていかなければいけないと思います」(以上NHK NEWS WEB

 市長は加害者が市内在住か市外在住か気にしている。加害者がどこに住んでいようと事件の深刻さは変わらないはずだが、市内在住によって事件の深刻度が増し、市外在住によって深刻度が和らげられると密かに思っている。

 市外在住なら、ホット一息つけるというわけなのだろう。事件そのものも市外在住者の間で起きて欲しかったと願っているに違いない。そして直接的な言葉は使わなかったが、「被害に遭った生徒本人によるSOSを私たち大人がしっかりと受け止められなかったことに深く反省するとともに、これからどうすべきなのか、しっかりと詰めていかなければいけないと思います」という表現で検証と再発防止を言っている。

 「二度と起きないように」を決まり文句とし、「検証」「再発防止」の呼びかけの繰返しに過ぎないことは既に何度も同じような事件が起きていることが証明している。自殺と他殺の違いはあっても、1994年の大河内清輝君イジメ自殺事件、2011年10月の大津中2イジメ自殺事件、自殺にも殺人にも至らなかったが、2000年4月発覚の中2男子をイジメた上に金銭を恐喝し、その金額が5000万円にも達した名古屋市緑区5000万円少年恐喝事件。

 但し最後の事件は主犯格の少年は恐喝事件発覚を恐れて、「中2男子の殺害計画を立てていたことも判明している」と「Wikipedia」には記述されている。

 そして今回の事件。

 似たパターンで繰返されている。大人の世界での似たパターンは1972年2月の12名の仲間をリンチに掛けて死に至らしめた連合赤軍リンチ事件、2012年10月に兵庫県尼崎市で発覚した2015年1月25日現在死亡9名・行方不明者2名の角田美代子(自殺時64歳)による連続殺人死体遺棄事件を挙げることができる。

 全ては暴力や威しを用いた恐怖心の巧みな植えつけを手口として権威主義的な支配と従属の関係を築き上げて言うことを聞かす人間操作術を同じパターンとして踏んでいる。

 いわば恐怖心の植え付けが権威主義的な支配と従属の関係をより良く築き上げる力となる。

 イジメは、児童・生徒のイジメであろうと、大人のイジメ(上の地位の者による下の地位の者に対する常識を超えた絶対的な服従欲求)であろうと、全てこのような人間関係を基本的構造としている。このような支配と従属(=イジメ)の行き過ぎた形態がときによってイジメ被害者の自殺への発展であり、イジメ加害者によるイジメ被害者に対する殺人となって現れる。

 恐怖心を言うことを聞かす力として支配と従属の人間関係を取ったイジメの行き過ぎた同じパターンの事件が繰返されている以上、「検証」「再発防止策」を大河内清輝君イジメ自殺事件後に、あるいは同じパターンのイジメ自殺事件、あるいはイジメ殺人事件がそれ以前にもあったかもしれないが、その場合はそれ以後に有効性ある形で成し遂げて、それを以て「二度と起きないように」の決意を言葉だけで終わらない形としなければならなかった。

 勿論、「検証」「再発防止策」を十二分に果たし得たとしても、同じパターンの事件が二度と起きない保証はない。

 そのためにも学校関係者は「二度と起きないように」という決意を日常普段から心に刻んで日々新にして、一旦構築した「検証」「再発防止策」を足りないところは補ってより役立つものに生かし続けて、新たな起き得るかもしれない権威主義的支配と従属を人間関係の構造としたイジメとそれが行き過ぎた自殺や殺人の予防に心掛けていなければならなかった。

 だが、心掛けていなかった。だから、「二度と起きないように」と同じ決まり文句を繰返し、「検証」「再発防止策」の同じ呼びかけを行わなければならないことになる。

 尤も日々予防に務めていながら同じパターンの事件が起きたら直ちに責任問題に直結するから、予防に努めず、事件が起きたら、同じ決まり文句を繰返し、同じ呼びかけを繰返していれば責任問題にも発展しないで済むのだから、その方が楽なのかもしれない。

 もしそうであるなら、安倍晋三や下村博文、あるいは学校関係者たちが口にする子どもの生命(いのち)に関わる言葉は単なるその場凌ぎの言葉となる。

 遼太は昨年2014年夏休み以降、バスケットボールの部活を休みがちになり、冬休み明けの1月8日から不登校になったという。担任は母親に何度も電話を掛け、5回に亘って家庭訪問し、2月16日に初めて遼太の携帯番号を知ることができて、その日に本人と話して登校を促したところ、「そろそろ行こうかな」と答えたと「asahi.com」記事が伝えている。

 そしてその4日後に死体で発見された。

 担任が一生懸命対応している姿が浮かんでくるが、不登校がイジメが原因となっていないだろうかと一度でも想像して、心配したり恐れたりしたことがあるのだろうか。教師である以上、イジメを受けていることも、逆にイジメを働いていることも自分から進んで口にはしない。そしてこのことがイジメの発見が遅れる主な原因となり、多くが行き過ぎたイジメへの発展を放置することになる。

 担任が不登校の原因が最悪の事態であるイジメに関係していないかと一度でも想像していたなら、起きているかもしれないが、本人からは聞き質すことが難しいイジメかどうかを明らかにするためには母親や本人と話をするだけではなく、遼太と付き合いのある同級生や付き合いがなくても、目撃者となり得る遼太自身を知っている同級生、その他に不登校の原因を聞いて回ることをしなければならなかったろう。

 遼太は友人の一人に「一緒につるんでいる先輩たちから『スーパーで万引きをしろ』と言われ、断ったら殴られた。万引きをしないと認めてもらえない。やりたくないけど、やらないと殴り殺されるかもしれない」とも打ち明けていたと「毎日jp」記事が伝えている。

 要するに友達は支配と従属の関係――イジメに巻き込まれている可能性を少なくとも知り得ていた。

 担任はこれを危険な関係と見做して、危険な領域から引き出してやらなければならなかった。

 これは後付けの知恵に過ぎないだろうか。

 権威主義的傾向が強く、学校社会・教育の場で一般的に認められている勉強やスポーツといった能力を自己活躍の手段とし、その活躍によって自己の存在を証明、自己実現をそれなりに図ることのできない児童・生徒はときにそのような果たすことのできない能力発揮の代わりに権威主義的傾向の強さから、自分よりおとなしい児童・生徒、あるいは自分よりも腕力の弱い児童・生徒を探し出して恐怖心を巧みに植えつけて支配と従属の人間関係を巧妙に構築、そこに自己活躍の手段を見い出し、その活躍を自己存在証明とし、自己実現を図るということがある。

 支配と従属との関係とは支配者が従属者を言うことを聞かす関係であり、その究極の自己存在証明、究極の自己実現として学校社会・教育の場での一般的な能力では満たすことができない、そのような能力とは正反対の位置にあるイジメが学校社会で自らに残された能力として利用しがちとなる。

 そしてイジメを手段とした場合の自己存在証明を確かな形で図ろうとすればする程、自己実現を目に見える形で達成させようとすればする程、イジメは行き過ぎた形態を取ることになる。

 2006年11月19日の当ブログ記事――《いじめられている君へ/「文部科学大臣からのお願い」 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》に次のように書いた。 

 〈いじめが自己実現を図る自己活躍行為であり、そのことを自己存在証明とする権力行為であることは1994年11月27日に首を吊った大河内清輝君のいじめ自殺事件のいじめ首謀者が仲間に自分を「社長」と呼ばせていたことが象徴的に証明している。社長と言う地位は一般社会に於ける大いなる自己実現の一つであり、社長行為自体が自己活躍に入り、その全体が優れた自己存在証明となる。

 首謀者は清輝君に対して暴力と恐喝を使った権力を通して強制的にカネを貢がせる人間支配を恣(ほしいまま)にし、貢がせたカネで仲間と共にゲームセンターに入り浸ったり、高額な食事を味わったりの豪勢な暮らしに耽った。貢がせたカネを全部自分が所持していて、支払いのたびにさも自分のカネで奢るかのように、いわゆる札びらを切るといったことをしたのだろう。何しろ「社長」なのだから。

 いじめを通して清輝君を思いのままに支配した権力行為にしても、社長の地位で思いのままに面白おかしい、彼にしたら豪勢な暮らしに耽った行為にしても、中学生の身分でこれ程の自己実現、自己活躍はなかっただろうし、この上ない自己存在証明であったろう。それを止めるキッカケは清輝君の自殺といじめ側の3少年の逮捕・少年院送致といった物理的要因を待たなければならなかった。教師が輝君を呼び出して、いじめられているのか問い質しても、身体の怪我の原因を訊ねでも、いわば伊吹文部科学大臣のメッセージに当たる問いかけを教師が直接本人に発しながら、いじめが原因だとはついに告白させることができなかった。〉――

 であるなら、不登校の原因はやはり同級生その他からの聞き取りに賭けるしかない。

 イジメは支配と従属を人間関係の構造とした非常に危険な権力主義的行為であることを常に認識し、おとなしい子や体格の劣る子がその餌食として狙われ安く、しかしイジメる側は体格が左程しっかりしていなくても、力がそれ程強くなくても、多勢を組むことで力を獲得でき、恐怖心を植えつける十分な力となり得ることに考えを巡らせていなければならない。

 遼太は体格も小さく、優しい男の子だとネット上に記述がある。遼太に限らず、クラスに似たタイプの生徒がいたら、担任は支配と従属の人間関係に囲い込まれてイジメの餌食に狙われ易いタイプだと見做して、実際に餌食にならないよう注意する必要があるだろう。

 学校教師は学校のどこかで、あるいは校外のどこかで児童・生徒同士で権力主義的な支配と従属の人間関係が隠れた姿で幅を利かしているのではないかと常に恐れていなければならない。

 勿論、イジメ側の児童・生徒が勉強やスポーツの能力でもない、イジメの能力でもない、学校社会的に肯定し得る自己存在証明となって自己実現を図ることができ、日々自己活躍の手段とし得る能力を提供しなければならない。

 学校社会の能力を勉強とスポーツに限定せず、価値観の多様化・能力の多様化を図らなければならない。すべての児童・生徒が学校社会の陽の当たる場所で生き生きとできる日常の提供である。

 少なくともそのような姿勢を持たなければならない。

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