松野博一の原発避難イジメが問題点を示していながら、それを理解していないイジメ防止の「大臣メッセージ」

2016-11-19 11:42:16 | 教育

 文科相の松野博一(54歳・早大法学部卒 )が2016年11月18日、イジメはいけないことだ、悪いことだといったことを教師が一方的に教えるこれまでの道徳教育からイジメについて「考え、議論する道徳」教育に転換、そのような授業を通してイジメ防止に繋げるべく、具体的例まで示した「大臣メッセージ」を公表した。   

・どのようなことが、いじめになるのか。
・なぜ、いじめが起きるのか。
・なぜ、いじめはしてはいけないのか。
・なぜ、いじめはいけないと分かっていても、止められなかったりするのか。
・どうやって、いじめを防ぐこと、解決することができるのか。
・いじめにより生じた結果について、どのような責任を負わなくてはならないのか。

 こうったことを自分のこととして考えさせ、議論させる。

 何のことはない、かつて文科省が「総合的な学習」として掲げた、〈変化の激しい社会に対応して、自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる〉としたテーマと何ら変わらない。

 だが、「総合的な学習」への注力が学力低下を招き、早々に元々の知識重視、いわば詰め込み教育に先祖帰りさせてしまった。

 原因は「総合的な学習」を教える能力が知識・情報を伝達するだけの暗記教育に慣れきった教師に備わっていなかったことと、主体的自己思考能力・主体的自己判断能力を育むには時間がかかることを考えて我慢すべきを政治家や教育関係の役人たちが学力低下に我慢し切れすに痺れを切らしてしまったからだ。

 要するに学校教師も政治家・役人も考える能力を欠いていた。

 だとしたら、いくらイジメ防止という大義を掲げたとしても、「考え、議論する道徳」教育への期待は「総合的な学習」の二の舞いを演じない保証はないことになる。

 「考え、議論する道徳」教育がイジメ防止にたいして役に立たないことの理由はもう一つある。

 学校のイジメは主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒がやる。

 いくら日本一成績が優秀な東大に入学したとしてもワイセツ事件を起こす生徒もいる。あるいは法学部卒業という名誉を担ったとしても、悪事を働く人間もいるということは満足に考える力を備えないままに学歴を過ごしたことになる。

 学校教師が道徳教育を通して児童・生徒に対してイジメについて活発に議論させ、考える力をつけさせていく能力を備えていることを前提にそのような道徳教育をいくら施そうとも、学校のイジメは考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒が専ら専門能力とすることだから、考える力を持たないないままに、あるいは考える力が未発育のままに学校生活を送ることになる児童・生徒には猫に小判となりかねない。

 そのような児童・生徒には「考え、議論する道徳」と銘打とうとも、決定的な解決策となることは期待できないだろう。

 人類は大昔から偉大な道徳教育に恵まれていた。宗教という名の道徳教育。聖書、コーラン、仏典、その他その他は様々な道徳を人類に示し、説き、教えようとしてきた。

 だが、悪事はなくならない。折角考える力を身につけながら、時と場合に応じて考える力を失わせて悪事に走る人間もいる。

 学校教師が「総合的な学習」を教える能力を欠いていたように「考え、議論する道徳」教育を教える能力を欠いていたなら、このような能力の欠落性と対面することになる児童・生徒にとっては「考え、議論する道徳」教育のより良い機会になり得るかという問題が生じるばかりではなく、学校のイジメが主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒によって起こされる由々しき出来事であるなら、そのような児童・生徒が無くならずに存在し続けることに対応してイジメにしても無くならずに存在し続けることになる。

 このような能力の欠落性と対面することになる児童・生徒にとっては「考え、議論する道徳」教育のより良い機会になり得るかという問題が生じるばかりではなく、学校のイジメが主として考える力を持たない児童・生徒か、考える力が未発育の児童・生徒によって起こされる由々しき出来事であるなら、そのような児童・生徒が無くならずに存在し続けることに対応してイジメにしても無くならずに存在し続けることになる。

 手っ取り早く言うと、イジメは決して無くならないということである。

 この理(ことわり)を常に十二分に弁えていなければならない。特に学校教師は。

 イジメが無くなることはない以上、イジメが起きることを防ぐことは不可能なことで、その時々に起きているイジメにいち早く気づいて、そのイジメが決定的に陰湿化・凶悪化する前に摘発し、進行を食い止めることが児童・生徒が喜怒哀楽の感情で常時表現している生きて在る自然な生命(いのち)に不当な力を加えられて歪められてしまわないためのより有効な解決策となるはずである。

 病気の治療で言うと、病気がなくならないことを前提に早期発見・早期治療に努めることと同じである。

 となると、イジメの陰湿化・凶悪化への早期発見・早期防止のためには学校教師はせめて1日に1度はこの学校のどこかで今現在、イジメは進行中なのかもしれないと自身に警戒を促す危機管理を発動させていなければならない。

 それが1日に1度であっても、習慣とすることによってイジメに警戒し、それを見つけようとするアンテナの感度を鋭くすることになる。

 現在問題となっている原発避難いじめ問題で小学校はそのような対応――早期発見・早期防止の危機管理を機能させていたのだろうか。

 原発事故が起きた福島県から横浜市へ両親と自主避難した男子6年生が転校先の小学校でイジメを受けた。現在中1になったが、不登校が続いているという。

 イジメが当然の権利として持つ自然な生命(いのち)としてある6年生の喜怒哀楽の感情を歪め、当たり前の感情の発露を奪ってしまった。

 彼がイジメについて書いた手記には、原発事故で賠償金があるだろうから、カネを持ってこいと脅されたことやに蹴られたり、殴られたり、階段から押されたりの厭がらせを受けたことが書かれている。

 小学校がどんな対応をしたか、2016年11月18日付「NHK NEWS WEB」から先ず見てみる。   

 2014年6月ということだから、小学校5年生のときになるが、男子生徒の両親が「遊ぶ金として同級生に合わせて150万円ほどを渡した」と学校に被害を訴えた。同じ年の11月には警察が同様の情報を学校に寄せたと記事は書いている。

 「いじめ防止対策推進法」は心身や財産に重大な被害が生じた疑いがある場合は「重大事態」として調査するよう規定しているが、横浜市教育委員会も小学校も「重大事態」に当たらないと判断し、調査は行わなかった。

 横浜市教育委員会は今月中にも担当者への聞き取りを始め、当時の対応を検証することにしているという。

 記事はなぜ「重大事態」に当たらないと判断したのか書いてないが、NHKの11月18日7時のニュースで、学校が被害者・加害者双方から聞き取りを行ったところ、加害者側は「おごってもらっただけだ」と説明したために学校も横浜市教育委員会も「いじめ防止対策推進法」で調査が求められている「重大な事態に」には当たらないと判断したと説明していた。

 つまり加害者側がタカリを否定した、その言い分を学校は鵜呑みにし、その報告を横浜市教育委員会も鵜呑みにしたといった経緯を取ったのだろう。

 タカリ(金銭要求)、殴打、パシリ、過度の無視等は類型化されたイジメの手口となっている。そのような手口でイジメる側がイジメを受ける側に対して支配と従属の権威主義的関係を強要する。

 そしてまたイジメる側もイジメを受ける側も、イジメが露見して教師や親に尋ねられたとき、イジメを否定することも類型化した反応となっている。

 親の幼い子どもに対する児童虐待もイジメの一種だが、児童相談所が家庭訪問して子どもの身体につけた傷について親に尋ねると、親は階段から落ちた、自転車で転んだとウソをついて虐待を否定することも、その言い逃れを真に受けて幼い子供を死なせてしまうという事例も既に類型化の内に入れることができる。

 1994年に愛知県西尾市立中2の大河内清輝君がイジメ自殺した件でも、脚に怪我をして尋ねられたとき、自転車で転んでつけた傷だとウソをついた。イジメグループに多いときで6万円、少ないときでも3万か4万円とカネをせびられ、合計100万円以上も強請られていながら、遺書に「僕からお金をとっていた人たちを責めないでください。僕が素直に差し出してしまったからいけないのです」と書いて、逆に自分の非としている。

 例え親か教師に「金を取られていないか」と尋ねられたとしても、否定した可能性は高い。

 過去のイジメ自殺事件からイジメは無くならないゆえに肝心なことはイジメが陰湿化・凶悪化しない前に今起きているかもしれないイジメの早期発見・早期防止に努めるしか手はないのだという危機管理を学習していたなら、あるいは類型化しているイジメの手口とイジメ側がイジメではないと装う類型化した言い分、更にイジメられる側の正直に話したらなおイジメが激しくなるのではないかと恐れて、イジメの被害を隠す類型化した態度を学習していたなら、強請りの聞き取りに対して加害側の生徒が「おごってもらっただけだ」と金銭要求を否定したとしても、鵜呑みにせずに聞き取りを他の生徒にまで広げて、確認の上に確認する努力を行ったはずだ。

 だが、何も学習していなかった。

 イジメがなくならない以上、ここにこそ問題点がある。

 文科相の松野博一も教育行政を与りながら、過去のイジメ自殺事件から何も学習せず、何も理解せず、それゆえにどこに問題点があるか気づかずに、だからだろう、それでイジメが解決するとでも思っているから、やれ「考え、議論する道徳」教育だと、見当違いの「大臣メッセージ」を発したはずだ。

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名古屋市の中1男子イジメ自死調査報告書からイジメ潜伏中の学級担任の各種情報の読み解きを考える

2016-09-08 13:01:36 | 教育

 昨年、2015年11月に名古屋市の中1男子がイジメを受けたと遺書に書き残して自殺した原因を究明する市の教育委員会が設けた第三者機関による調査結果の報告書が2016年9月2日公表され、イジメが原因の一つだと認定した。

 何日かの前のブログで2016年7月26日発生の障害者施設「津久井やまゆり園」に於ける19人殺害、26人重軽傷の事件を学校でのイジメを受けた自殺やイジメが過剰な形を取った殺人を例にこのようなイジメの潜伏期間中に当事者以外の第三者の目に、それが少数であったとしても、イジメに繋がる何らかの出来事が触れるか映るかして潜伏する形を取るものであって、その触れるか映るかした出来事を如何に情報処理するかにイジメ自殺やイジメ殺人の防止がかかっている同様の構造を「津久井やまゆり園」の事件も見せていたのではないかといった趣旨のことを書いた。

 この論理を(と言う程の大袈裟なものではないが)調査報告書の中から特に目に触れるか映るかする機会がそれなりにあるはずの学級担任がどう情報処理したかに当てはめて問題点を探ってみたいと思う。

 《調査報告書》はPDF記事で紹介されている。解釈の妥当性は読者の判断に任せるしかない。     

 「情報処理」という言葉をより理解しやすいように「情報の読み解き」という言葉に変えてみる。

 まず最初に報告書は、〈これらのいじめ行為は、当該生徒に対する故意で積極的なものとは言いがたい、というのもいじめ行為を行っている側としては、当該生徒が嫌がっており、苦痛を感じているということに思いが及ぶことはなかったようだからである。〉と記しているが、彼に対するイジメ行為は攻撃対象を特定して特段の悪意を持って行ったものではなく、意図しないままに結果的にそうなったイジメ行為としている。

 中1男子の小学校からの引き継ぎ事項について報告書は次のように書いている。
 
 〈当該生徒の中学校入学に際し、小学校からの引き継ぎ事項には、学力面での課題のほか、心も体も強くはなく、みんなで見ていく必要があるとの内容があり、当該中学校には、当該生徒はいじめられやすい傾向があるとの認識があった。ただ、引き継ぎの中に、当該生徒に対する具体的ないじめに関する内容はなかった。

 こうしたことを踏まえ、当該生徒が中学校1年生時の学級担任(以下、「学級担任」という。)としては、注意して様子を見ていくとともに、当該生徒が自分から積極的に話しかけてくるタイプではないため、学級担任の側から働きかけて接点を持たないといけないということを感じていた。〉

 小学校からの引き継ぎによって「心も体も強くはない」タイプの生徒だと学級担任の目に中学校入学時点でその人柄が映ることになった。小学校時代に具体的にイジメられていたという事例の報告はなかったが、「心も体も強くはなく、みんなで見ていく必要がある」とする小学校からの情報を「いじめられやすい傾向がある」と読み解いた。

 このことに関しては報告書はそれ以外に触れていないから、推測しようがないが、「心も体も強くはない」というタイプはちょっとしたイジメにも心理的に大きな打撃を受けがちであるという情報の読み解き方をしたかどうかである。

 いずれにしても学級担任は注意して中1男子を見守ることにした。どういった方法を取ったかというと、他の生徒に対しても同じだが、身体的な触れ合いを専らとしていたようだ。

 (5)学級担任との関わりの項目で報告書は次のように記している。

 〈学級担任は、受け持ちの生徒に対してスキンシップを取ることが多かった。

 当該生徒に対しても、顔に手を近づけて触ろうとする、追いかける、抱きつこうとする、当該生徒の椅子に座るなどの働きかけをしていた。その頻度は、1学期は1日1回ぐらいのペースであった。

 このことに対して当該生徒は、顔を触られそうになれば避ける、追いかけられれば逃げるという対応を取ったが、表情としては笑っていたようであり、周囲の複数の生徒の証言によれば、じゃれ合っているように見えたとのことである。

 しかし一方で、当該生徒が防犯ブザーを持ってきていたのを見た生徒もおり、また学級担任の話によれば、追いかけた際、当該生徒が防犯ブザーのひもを実際に引く行動をとったが、壊れていたために鳴らなかったということもあった。

 他にも、担任の働きかけに対して「やめてください。へどが出ます。」と言ったこともある。

 また、自分のノートに「一生、顔をさわらない。」「一生、だきつかない。」「人の席にすわらない。」などと書いた「契約書」と称するページを学級担任に示した上で、署名をさせたこともあり、学級担任の受け止めとして、「なかなか面白いことを考えてきたな、ちょっとやらしいな、こういうタイプはなかなかいないな」と思った旨を証言している。〉――

 学校教師は担任する生徒に関して可能な限り意思疎通を図ることを心がけなければならない。意思疎通とは言葉を介してお互いに考えていることを伝え合うことでお互いを理解し合うことを言う。

 生徒の顔に触れようとしたり、抱きつこうとしたりして逃げる相手を追いかけたりすることではない。相手と親しい関係を作る行為として始め、例え親しい関係を作ることに成功したとしても、中学1年生相手の身体的接触の試みをキッカケとした逃げる・追いかけるふざけ合いで作るような親しい関係は余りにも幼児的で、もし言葉を介した意思疎通を心がけていたとしたなら、最初から言葉を用いて接触を試みているはずだろうから、そういったスキンシップからは言葉を介した真の意思疎通が生まれてくることは考えることもできない。
 
 イジメに関係しないことであっても、生徒と親しい関係を構築する方法の情報の読み解き方に問題があるようだ。

 だから、学級担任の幼児的なスキンシップに対して「やめてください。へどが出ます。」と拒絶反応され、尚且つそういったことをさせない「契約書」に署名させられながら、「なかなか面白いことを考えてきたな、ちょっとやらしいな、こういうタイプはなかなかいないな」と、自身のスキンシップ自体は決して間違っていないかのような自己都合の解釈ができる。

 ところが6月に実施した「ハイパーQU」アンケートで担任のスキンシップが拒絶されていることが分かることになる。

 「ハイパーQU」とは学校生活に於ける児童生徒の意欲や満足感、および学級集団の状態を5段階の各質問項目にそれぞれ○をつけて、その選択肢によって測定するためのアンケートだという。

 「担任の先生とうまくいっていると思う。」――5段階のうち下から2番目の「あまりそう思わない」

 「学校内に自分の悩みを相談できる先生がいる。」――5段階の最も下の「全くそう思わない」

 さらに1学期の終わり頃の7月10日(金)に行われた保護者会(三者面談)。

 〈当該生徒の保護者から学級担任に対し、「フレンドリーではなく、厳しく接してほしい」という旨の話があった。遺族の話によれば、当該生徒本人が学級担任の接し方を嫌がっていると感じていたとのことであり、保護者会では、「先生が『コミュニケーション過剰で迷惑をかけた、これからはそういうことはないようにします』とおっしゃったので、(保護者側からは)『お願いします』と話した」とのやり取りがあった。

 学級担任によれば、この保護者との話し合いの後、1学期の終わりからは、当該生徒に対し、それまでのような働きかけはやめたということである。その理由として、学級担任は、自分の接し方が他の生徒のようには通じず面倒に感じるようになったこと、当該生徒が本気で嫌がっているのかなと思ったこと、他の生徒に手がかかるようになり当該生徒にこれまでのように関わる余裕がなくなったことを挙げている。〉――

 「コミュニケーション」とは言葉を介して行う双方向の意思疎通を言う。学級担任は学校教育者でありながら、生徒の顔を手で触ろうとしたり、抱きつこうとしたりして、逃げれば追いかける生徒に対する接し方を「コミュニケーション」だと解していた。

 面白がって応じる生徒がいたとしても、相手が幼児なら兎も角、コミュニケーションといったシロモノとは言えない。

 学級担任は「自分の接し方が他の生徒のようには通じず面倒に感じるようになったこと、当該生徒が本気で嫌がっているのかなと思ったこと、他の生徒に手がかかるようになり当該生徒にこれまでのように関わる余裕がなくなった」。

 と言うことは、小学校からの引き継ぎ事項に「心も体も強くはなく、みんなで見ていく必要がある」とあった情報を「いじめられやすい傾向がある」と読み解いたものの、別の接し方を考えずにその情報を学級担任自らが失念させたことになる。

 そもそもからして言葉を介した意思疎通を生徒との接し方の主たる方法として学級担任の能力の中に存在させていなかったからこその失念であろう。つまり生徒の顔を手で触ろうとしたり、抱きつこうとしたりして、逃げれば追いかける以外の生徒との接し方を知らなかった。

 では、1学期の6月15日(月)と2学期の10月9日(金)に実施した「ハイパーQU」アンケートの結果を見てみる。

 回答肢は5「とてもそう思う」、4「少しそう思う」、3「どちらともいえない」、2「あまりそう思わない」、1「全くそう思わない」という段階となっている。
 
 設問と結果(前者の数字が6月、後者の点数が10月)

 学校内には気軽に話せる友人がいる。 5 2

 学校の勉強には自分から進んで取り組んでいる。 5 2

 担任の先生とはうまくいっていると思う。 2 4

 勉強や運動、特技やひょうきんさ(おもしろさ)などで友人から認められていると思う。4  2

 学校やクラスでみんなから注目されるような経験をしたことがある。 3 1

 クラスや部活でからかわれたり、ばかにされたりするようなことがある。2 4

 クラスにいるときや部活をしているとき、まわりの目が気になって不安や緊張を覚えることがある。2 4――

 友人とのコミュニケーションの頻度についての6月と10月の「ハイパーQU」アンケート

 回答肢:4「いつもしている」、3「ときどきしている」、2「あまりしていない」、1「ほとんどしていない」

 みんなと同じくらい、話をしていますか。 4  2

 自分から友人を遊びに誘っていますか。 3 1

 「担任の先生とはうまくいっていると思う」以外は全てが2段階か3段階は自身が置かれている状況が悪化している。

 報告書は、〈学習意欲や周囲からの承認に関する項目が大きく低下している。〉と記している。
 
 学級担任は「担任の先生とはうまくいっていると思う」とした6月時点の「2」から10月時点の「4」へと中1男子と担任との関係が好転しているが、生徒が発信したこの情報をどう読み解いていたのだろうか。

 保護者会(三者面談)は1学期の終わり頃の7月10日に行われて、そこで学級担任の生徒との接し方を、いわば迷惑だとして拒絶され、担任は生徒と関わることがなくなった。

 と言うことは、迷惑な関わりから解放された分、関係が好転したとしているだけで、良好な意思疎通の関係が新たに構築できたという意味での好転ではないことになる。

 このことが先述の「学校内に自分の悩みを相談できる先生がいる。」との質問に対して5段階の最も下の「全くそう思わない」という選択肢となって現れたということなのだろう。

 このように読み解いていたなら、中1男子が置かれている状況の悪化に注意しなければならないことになる。

 報告書の「ハイパーQU」アンケートの結果についての調査内容を見てみる。

 〈これらの結果より、6月のハイパーQU実施時期から自死の前の時期にかけて、当該生徒がクラスや部活動などで、孤立感や疎外感、不安感を深めていった様子がうかがわれる。当該生徒は、これらについて、家族にも相談することがなかった。

 なお、当該生徒は6月の結果では、「満足群」「非承認群」「侵害行為認知群」「不満足群」の4つに分類される領域のうち、「不満足群」に属していた。

 10月の結果では、その中でもさらに配慮を要する「要支援群」になっている。

 この結果は10月28日(水)に学校へ届き、翌10月29日(木)には学級担任が結果を目にし、今後注意して当該生徒の様子を見ていこうとしていたその矢先に、当該生徒は自死するに至っている。〉――

 この「今後注意して当該生徒の様子を見ていこうとしていた」とする担任の証言と「その矢先に、当該生徒は自死するに至っ」たとする経緯は、10月の「ハイパーQU」の結果を受けてのことだろう、〈当該生徒について、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーへの相談はしなかったのか、考えなかったのかという聞き取りに対し、学級担任は、そういった機会はもう少し事が大きくなったときと思っていたと証言している。〉ことと矛盾する。

 10月29日にアンケートの結果を見て「もう少し事が大きくな」る危険性を予見する情報として読み解いていたのか、あるいはこの程度なら、スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーに相談する程のことはないとする情報として読み解いていたのか、いずれかとなる。

 前者なら、その危険性と「心も体も強くはなく、みんなで見ていく必要がある」タイプの生徒で、「いじめられやすい傾向がある」としていた情報の双方から「今後注意して当該生徒の様子を見ていこうと」するのではなく、直ちに面談なり何なりのケアを行う責任を有していたはずだ。

 だが、様子を見ていくことだけにした。

 もし後者のこの程度ならスクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーに相談する程のことはないとアンケートの結果に現れた情報を読み解いていたなら、自殺は予見できなかったとしても、「心も体も強くはない」タイプの生徒であることを失念していたか、過小評価していたことになる。

 「心も体も強くはない」と言うことは何事につけても打たれ弱い性格を言う。そのように情報を読み解いていたなら、アンケート結果を他の一般的な生徒の結果よりもより深刻に読み解かなければならないだろうし、読み解きに応じた保護が必要になる。

 だが、学級担任の情報の読み解きはこういった経緯を一切取っていない。

 明確に悪意に彩られたイジメ行為ではなかったとしても、自殺に追いやることになったイジメの潜伏期間中にかなりの数の兆候が第三者の目にそれとなく映っている。その一つが「ハイパーQU」のアンケートの結果に現れた様々な情報だが、学級担任にはその情報を的確に読み解く能力はなかったようだ。

 報告書の次の記述も学級担任の目に映った兆候であるはずだ。

 中1男子は〈弁当を忘れた生徒に対し、自分の弁当を自ら進んで分けることがあった。このことは何人かの生徒が実際に見た様子を証言しており、学級担任も3回程度見ているとのことである。学級担任はこのことについて、当該生徒の通知表中の所見欄に「昼食を忘れたクラスメートがいるときは自分の弁当を分けてあげるなど心優しい面が多くみられました」と記載している。〉
 
 だが、優しさが仇となって、生徒の中には本人に無断で弁当を食べるようになった。

 〈2学期に入り、一部の生徒が、当該生徒への断りなく、弁当の中身を取るようになった。この行為は、他の生徒が別室にスクールランチを取りに行き、クラス内の人数が少なくなっている間に行われ、2週間に1回程度の頻度であったとのことである。この様子を見ていた別の生徒によれば、弁当を取った生徒は事後、当該生徒に弁当の中身をもらったことを話し、それを聞いた当該生徒は嫌そうな顔をしつつも、しょうがなく「いいよ」というような返事をしていた。〉――

 問題は本当に優しさから弁当を分けたのかである。「心も体も強くはない」人間、打たれ弱い人間は自分の弱さを意識していて、自身の持ち物を人にくれてやることで気に入られて自分を保護する自己防衛本能を得てして発揮しがちとなることからの疑いである。

 もしこのような防衛本能からの弁当のお裾分けであるなら、無断で他人が弁当の中身を取るという形は、くれてやるという形が気に入れられて自身の保護に繋がることに反して弱い自身に対するある種の攻撃を意味することになる。

 なぜなら、保護を求めるという彼自身の相手との秩序に対してその秩序を相手側が無理やり破る行為となるからだ。

 例え後で断ったとしても、無断で取られたという秩序の破壊は自己防衛本能の調和を無理やり破られたことになり、決して心穏やかに済ますことができなかった出来事であったに違いない。

 学級担任が弁当を分けてやる行為を「心優しい面」とのみ情報を読み解いたのか、その読み解きも「ハイパーQU」のアンケートの情報の読み解きにも関係することになるし、当然、対生徒関係そのものが異なってくることになる。

 日々の学校生活に第三者の目に映るか触れるかして表出される情報の読み解きが如何に重要かに焦点を当ててみた。


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女性が2人以上産み、産めない女性は施設に寄付が社会的義務化した場合、どういった社会・国家となるのか

2016-03-13 10:28:50 | 教育

 大阪市鶴見区の市立茨田北(まったきた)中学校長寺井寿男(61)が2月29日(2016年)の全校集会で「子どもは2人以上産むべし」、「産めない女性は施設などに寄付すべし」といった趣旨の発言をしたとマスコミが伝えている。

 寄付する施設とは児童養護施設を指すのだろう。「asahi.com」記事、《「キャリア積む以上の価値」 「子は2人以上」発言要旨》(2016年3月12日16時14分)から、その発言を見てみる。   

 寺井寿男校長「全校揃った最後の集会になります。

 今から日本の将来にとって、とても大事な話をします。特に女子の人は、まず顔を上げて良く聴いてください。女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むことです。これは仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります。

 なぜなら、こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまうからです。しかも、女性しか、こどもを産むことができません。男性には不可能なことです。

 女性が、こどもを2人以上産み、育て上げると、無料で国立大学の望む学部を能力に応じて入学し、卒業できる権利を与えたら良い」と言った人がいますが、私も賛成です。子育てのあと、大学で学び医師や弁護士、学校の先生、看護師などの専門職に就けば良いのです。子育ては、それほど価値のあることなのです。

 もし、体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます。

 次に男子の人も特に良く聴いてください。子育ては、必ず夫婦で助け合いながらするものです。女性だけの仕事ではありません。

 人として育ててもらった以上、何らかの形で子育てをすることが、親に対する恩返しです。

 子育てをしたら、それで終わりではありません。その後、勉強をいつでも再開できるよう、中学生の間にしっかり勉強しておくことです。少子化を防ぐことは、日本の未来を左右します。

 やっぱり結論は、『今しっかり勉強しなさい』ということになります。以上です」

 「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むこと」で、このことは「仕事でキャリアを積むこと以上に価値」がある。この男が言いたいことの中心を成す考えと言うことなのだろう。

 以上の発言はあくまでも要旨である。同じ発言を取り上げた別の「asahi.com」記事は、少子高齢化や不安定な年金制度などの課題を指摘した上で、〈「男女が協力して子どもを育てるのが社会への恩返し。子どもが産めず、育てられない女性はその分施設などに寄付すればいい」と主張した。〉と、その発言を伝えている。

 このような考え方が社会的に一般的常識化した場合、国家や社会からどういった影響を受け、どういった社会の姿・国家の姿を取ることになるのだろうか。

 この答を出すのは誰にでも容易に予測がつくはずだ。そのような国家・社会の将来像を私なりに書いてみたいと思う。

 なぜ容易に予測がつくかと言うと、日本人は別の役割を強制される一時期を戦前既に経験してきたからだ。兵士に向かない身体性(例えば虚弱体質や身体障害)・精神性(例えば精神障害)を持った男子はお国のために役立たない存在として国賊、非国民と非難され、排斥を受けた。

 戦前の日本は男子の価値基準を兵隊さんとなってお国のために役立つことができるかどうかに置いていた。

 今回、この校長は戦後の日本に於いて女子の価値基準を2人以上の子どもを産んでお国のために役立つかどうか(「こどもが生まれなくなると、日本の国がなくなってしまう」)に置いたことになる。

 結果、2人以上の子どもを産む役割を担うことが女子にとっての国家的・社会的な最大価値とされることになる。

 女子の側からすると、と言っても、出産の前提となる妊娠には男子も関わることになるから、国民の側からすると、女子が2人以上産むこと、男子にとって女子に2回以上は妊娠させることを国家に対する最優先の義務としなければ、後ろめたさを抱えることになる。

 当然、2人以上産むことができた女子は、あるいは女子を2回以上妊娠させ、妊娠を回数通りに出産に結びつけることができた男子はお国のために役立つ役割を担ったとされて最大の価値ある女性・男性の伴侶として国家的栄誉・社会的栄誉を受けることになる。

 少なくとも国家的意識・社会的意識はそのような方向を志向するることになる。意識が国家的・社会的に大勢を占めた時、意識のレベルにとどまらずに何らかの実際の姿を取らない保証はない。戦前、お国のために戦争を勇ましく戦い、敵兵を多く殺した兵士は勇士として讃えられ、勲章を授与され、徴兵検査に不合格の男子は兵士としてお国の役立たないと言う理由で無視したり、イジメたり、嫌がらせをしたり、排除したりしたように一定の形を取った。

 10人も産めば、国家的栄誉の対象とされ、表彰を受けることになる。そのとき安倍晋三が総理大臣を務めていたなら、そのような女性を前に、「ヒョーショージョー」と大声を張り上げて、その女性の栄誉を讃え、無視できない額の金一封を与えることになるだろう。

 社会的・国家的に一定の基準を満たした女性やその夫を栄誉の対象とした場合、対象となる条件を満たさない国民は、少なくとも社会的・国家的意識のレベルで恥の対象とされる。

 既に触れたように意識は常に意識のレベルにとどまる保証はなく、1人産んだが、余病を併発して妊娠できない身体となった等の何らかの事情や障害があって2人目を産むことができなくなった女性、いわば結果として子どもを1人しか産むことができない女性や1人も産むことのできない女性、子どもを望まない女性は最初は意識の面で、次の段階として何らかの形を取って、戦前と同様の栄誉とは反対の恥の対象としての仕打ちを受けることもあり得る。

 その代償として校長は「体の具合で、こどもに恵まれない人、結婚しない人も、親に恵まれないこどもを里親になって育てることはできます」言って、里親となることを国家・社会の義務としたい意識を働かせている。

 その意識が社会的に受け入れられて大勢を占めた場合、それは意識の面から国家・社会の強制力として働いて、出産できない女性は率先して里親になることを選択する実際行動となって現れることになる。

 最終的には、戦前の日本で跳梁跋扈したように国家・社会の意志を優先させる力として動き出し、個人の自由を抑圧する、いや、個人の自由を抹殺する国家的・社会的拘束力としての力を発揮しない保証はない。

 いわば校長の主張は国家を優先させて個人の自由を否定する国家主義の形を採用している。安倍晋三同様、校長自身が国家主義者だということである。

 民主主義の時代の民主主義的社会の学校教育現場に民主主義とは相容れない国家主義者が存在する。何という危険な逆説なのだろうか。

 《結婚年齢(初婚年齢)出産年齢が遅くなる5つの理由》Conshare/2015年5月15日)なるサイトから女性の平均初婚年齢、その他を見てみる。  

 女性の平均初婚年齢は2012年29.2歳。
 
 第1子出生時の母親の平均出生時年齢30.3歳
 第2子は32.1歳
 第3子は33.3歳
 
 2012年「合計特殊出生率」1.41。つまり2人産む女性が圧倒的に少ない。

 晩婚化の理由を5つ挙げている。

 「独身の自由さや気楽さを失いたくないから」(女性約55%)
 「経済的に余裕がないから」(男性の方が高い)
 「結婚の必要性を感じていないから」
 「異性と知り合う(出会う)機会がないから」
 「 希望の条件を満たす相手にめぐり会わないから」

 そして出産条件として6つ挙げている。

 「働きながら子育てできる職場環境であること」(6割以上)
 「教育にお金があまりかからないこと」
 (自身の)「健康上の問題がないこと」
 「地域の保育サービスが整うこと」
 「雇用が安定すること」
 「配偶者の家事・育児への協力が得られること」

 女性に多い晩婚化の一因である「独身の自由さや気楽さを失いたくないから」は独身の状況にある初期的な段階で結婚した友達の家庭や同じく結婚した兄弟・親戚の家庭を見たり覗いたりして学習し、染みつかせていく精神性であろう。

 「何で子育てや育児にそんなに苦労しなければならないの」、「満足に保育所に預けることもできない」、「預ける保育所探しにも苦労しなければならない」、「旦那さんは子育ても家事も手伝わない、一人で何でそんなに苦労しなければならないの」等々の思いが学習させることになる「独身の自由さや気楽さ」であるはずである。

 もし他処の家庭を見て、子どもを産むのは何て素晴らしいことなのだろう、幼い命を母親として与(あずか)るのは何て素敵なことだろう、子育ても育児も家事も旦那さんが分担してくれて、睦まじい余裕の生活を送っていると、全てを肯定的に感じ取ることができたなら、「女性にとって最も大切なことは、こどもを2人以上生むこと」だと誰が強制しなくても、「仕事でキャリアを積むこと以上に価値がある」と勝手な価値づけをして個人の自由を束縛しなくても、自らの人生を肯定的に感じた方向に舵を切っていくものである。

 だが、それが叶わない日本の社会、日本の国となっている。給料は安い、保育所は見つからない、見つかったと思ったら、定員一杯だ、民間の無認可保育所に預けるとなったら、カネがかかり過ぎて、生活自体が苦しくなる。だったら、少ない給料でも、一人でいて、少ない給料のままに誰の束縛もされない勝手気ままな自由な生活が一番だということになる。

 要するに国家・社会が晩婚化の理由を一つ一つ消していき、出産条件を一つ一つ満たしていく、そういった社会をつくり上げることが最優先の先決問題であるはずである。

 だが、学校教育者で校長という最高位の位置に就きながら、そういった諸々を学習できずに国家・社会の強制力で義務化したい国家主義の意志を露骨に覗かせた。
 
 危険な思想の持ち主であると同時に、だからこそかも知れないが、学校教育者失格の愚かしい考えの持ち主と言わざるを得ない。

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広島県府中町立中3男子自殺から見える人間を見ようとする姿勢を持たない教育者集団という逆説

2016-03-11 11:45:21 | 教育

 各マスコミが広島県府中町立中3年の男子生徒の自殺に関する調査報告書を3月10日に報道し始めた。読み直して、女性担任教師の自殺した生徒に対する指導についての町立教育委員会や学校の調査に対する証言なのだろう、その言葉に対する疑問と、生徒一人ひとりの人間を見ない規則主義優先の学校組織であったことと、同時にそれに染まっていた担任の姿に改めて気づかされた。

 今回は「産経ニュース」(2016.3.10 17:47)が伝えている調査報告書の要旨から見てみるが、例えば高校推薦の基準を毎年検討することにしていて、従来は非行歴がある場合は推薦の対象としないとする基準を3年生の1年間を対象としていたのを現在の平成27年度の3年生は1年時に問題行動を起こした生徒が多かったことから、1、2年時の非行歴も含むことに決めて3年間を対象とした規則に変えたことである。   

 この規則変更が去年及びそれ以前の高校進学者と今年度の高校進学者との間に不平等が出てくることになるケースの発生を考えもしなかったことと、万引きが成長途上での友達に自慢するための一過性の勲章行為であるケースが多いが、そのようなケースと常習的万引き行為との線引きがないままに全ての万引き行為を触法行為として推薦の対象から外したことは一過性である場合の成長を認めていないったことになって、学校教育者が生徒一人ひとりがどの程度成長しているか、どのような可能性を広げているのか、それぞれの人間を見ない、規則だけに焦点を置いた規則主義優先に陥っていたことの証明以外の何ものでもない。

 学校教育者が生徒一人ひとりの人間――どういった人間かを見る姿勢を欠き、それ故にだろう、規則を通してしか見ることができなかった。人間を見ない教育というのは一体どんな教育なのだろう。学校教育の世界でありながら、そういった世界ではないという逆説を踏んでいることになる。

 賢い人間は万引きといった触法行為からも学ぶ。賢くない人間だけが学年が進んでも触法行為を続ける社会的成長が停止した状態を示す。逆に悪賢さのみを成長させる。

 例え自殺した少年の万引きの非行歴の記録が間違っていなかったとしても、生徒一人ひとりを見る教育を行っていたなら、それ以降の非行歴はなく、学校の成績は良かったと言うことだから、1年時に既に刑期満了と看做して推薦を出すことができたはずで、そうしていたなら何ら問題は生じなかったはずだが、2年経過後も万引きの刑で服役状態に置こうとしたために生徒をして自らの生命(いのち)を絶たしめることになった。

 多分、推薦が取れなかったことよりも、無実の罪で服役状態に置かれることの遣り切れなさ、屈辱が彼を死へと誘(いざな)った最大の原因ではないだろうか。

 上記記事から改めて担任女性教師の進路指導の個人面談が如何に生徒一人ひとりの人間を見ない内容となっているかを見てみる。 

 記事は、〈3年時の担任、H教諭は資料にA君が万引したと記載されていることを知って驚き、優秀な生徒で「1年時に何があったのだろう」と思ったという。〉と、調査報告書の内容を伝えている。

 11月16~19日にかけての1回目の面談。

 H教諭「万引がありますね」

 A君「えっ」

 H教諭「3年ではなく、1年の時だよ」

 A君(間を置いて)「あっ、はい」

 この遣り取りを以って、〈H教諭は万引したのだと認識した。〉となっている。

 ここで疑問が一つ。他の記事によると、学年主任が万引きをしたという誤った資料に基づいて11月30日までにその事実を確認をするよう担任に指示を出したということである。

 但し今年度から「推薦・専願基準」が変わったことをいつ伝えたのだろう。

 伝えないままに資料に記録されていた1年生のときの万引きを問題にしたのだろうか。2年生、3年生と問題行動がなく、成績も良い生徒である人間を見ていたなら、「昨年度は3年生の1年間に触法行為がなければ推薦は出せたけど、残念だけど、今年からは1年生のときまで遡って3年間の触法行為で出す出さないの基準に変わったの」ぐらいは言ってから、「1年生のときに」と、それがいつのときか具体的に触れてから、「万引がありますね」と触法行為の種類を言い、さらに万引きをした品物、金額でいくらするかそいういったことを伝えて相手の記憶を鮮明にさせてこそ、万引きの事実が確認でき、尚且つ推薦が出せない事情を相手に納得させることができるはずだが、そういった人間を見てする手続きを一切踏まずにいきなり「万引がありますね」から入っている。どこからどう見ても、生徒の人間を見て接する親身な態度には見えない。

 しかも推薦を出すことができないことを生徒に納得させる、そのための確認の面談だというのに生徒が間を置いて、「あっ、はい」と言っただけで万引を認識したとする安易さは教師と生徒が人間対人間の関係で向き合わなければならない、いわば生徒の人間を見なければならない学校教育者の態度だろうか。

 11月26日から27日にかけて行った2回目の面談。

 H教諭「進路のことだけど、万引があるので専願が難しいことが色濃くなった」

 A君「万引のことは、家の人に言わないで。家の雰囲気が悪くなる」

 記事。〈前回とこの答えでH教諭は万引の事実があったと確信した。〉

 要するに担任は万引の事実に対する機械的な確認を担任教師としての指導や面談の内容とした。なぜ万引きをしたのか、出来心なのか、友達同士で万引きした品物を獲物に見立てて自慢し合い、勲章とする類いの万引きだったのか、生徒を一人の人間と見る態度で接していたわけではない。

 3回目以後の面談も万引きの事実のみに立って生徒と接する担任の報告となっている。だから、1年生のときの誤った万引きの事実を、その過ちを剥がすこともできないままに引きずることになったのだろう。

 「NHK NEWS WEB」記事が弁護士を通した両親の話を伝えている。

 両親「(調査報告書は)そもそも誰に向けて作られたものなのか分からず納得がいかない。また、報告書に書かれた担任との面談の会話が本当に、このとおりだったのか、疑念を持っている。学校の言い分は正確ではないと思う。

 息子の性格を考えると『万引きがありますね』などと決めつけられると、もめごとを起こしたくない性格から、明確に反論できないところがあると思っている。全くの想像にすぎないが、もしかしたら本当に万引きをした友だちの受験に影響が出ることを心配して、誰にも相談できず1人で悩んでいたのかもしれない」

 担任が生徒を一人の人間と見る態度で接していたなら、いわば万引き事実の機械的な点検・確認で推薦を出すか出さないかを決める態度のみで接していなかったなら、生徒が勘違いして万引きをしたと思い込んでいたとしても、あるいは両親の言うように万引きをした友達を庇って万引きの罪を被るつもりでいたとしても、お互いが理解し合うことができ、誤った記述に行き着かない可能性は捨て切れない。

 調査報告書には、〈A君は「どうせ言っても先生は聞いてくれない」という思いを保護者に話していた。〉と記されているそうだが、この思いこそが担任が生徒一人ひとりの人間を見ない、生徒との接し方をしていた何よりの証明であろう。

 この思いは生徒が万引きをいくら否定しても、担任が資料の記述を根拠に生徒の万引きの事実を譲らなかったのではなかったかと疑うことも可能とする。

 担任一人だけに罪があるわけではない。生徒一人ひとりの人間を見ずに推薦・専願基準を3年の1年間から1、2年まで含めて3年の間非行歴がある生徒は対象としないと規則優先で機械的に決めた学校のみならず、同じく生徒一人ひとりの人間を見ずに生徒と接していた担任は生徒の自殺に同罪と見做さなければならない。

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府中町立中3男子自殺 女性担任の説明が生徒が万引きをしているかのような内容となっているのはなぜなのか

2016-03-10 10:13:13 | 教育

 


      「生活の党と山本太郎となかまたち」

        《」3月8日小沢代表・山本代表定例記者会見動画 党HP掲載ご案内》

      〈東日本大震災から5年「被災地の状況は、地域の皆さんの努力によって徐々に以前のレベル
      に戻りつつあるようだが、まだまだ力を注がないといけない」小沢・山本両代表〉    

  昨日の当ブログで、自殺した生徒に対する担任の指導回数を、マスコミ記事の〈記述は進路指導が「自殺当日まで5回にわたって行われた」としているが、最後の5回目は両親と生徒を混じえた三者懇談であったが、生徒は出席していない。生徒自身に対する進路指導は4回となる。〉と書いたが、自殺当日の午後の三者懇談の前の朝も指導が行われていて、計5回となる。謝罪しなければならない。

 それにしても、この件に関する3月9日夕方発信のマスコミ報道を見ると、指導とは名ばかりであることを知ることになる。

 自殺した生徒の担任が女性であることを3月8日夕方7時からのNHKニュースの画像を見て、その人物が女性の姿になっていることから知ることができた。その女性担任教師の話を聞いて、あるいは話に基いて書いた記事であるはずの《中3生徒自殺 担任と5回の面談 その内容は》NHK NEWS WEB/2016年3月9日 16時55分)を読むと、生徒が実際に中学1年のときに万引きの非行歴があって、そのことを前提にした態度を取っているかのような女性教師の説明となっている。  

 なぜなのだろう。

 学校は自殺した当日の12月8日に調査を開始、12月10日に生徒が万引きをしていなかったことを最終的に確認していたはずである。

 つまり生徒は女性担任教師の指導に対して万引きをした覚えはない態度を取るのが普通の対応であるし、人間としての自然な姿であるはずだが、そうはなっていない。一瞬、生徒は実際には万引きの非行歴があったのではないのかと疑った。

 だとすると、学校の調査と矛盾することになる。この矛盾に整合性を与えるとしたら、学校が生徒の名誉を守るために非行歴を抹消したとも疑うことができるが、より簡単に整合性を見い出すには女教師が事実を隠していると決めつけるのが最も手っ取り早い。

 事実を隠すのは責任を回避したい意識が働いているからだろうが、3年生の1年間を対象に非行歴がある場合は推薦の対象としないとする規準を1、2年のときも含めて3年間を対象とすると規則を変えたのは学校であり、非行歴の確認は学年主任から求められてしたことで、何も事実を隠す必要性はどこにもない。

 この矛盾をどう解いたらいいのだろうか。それとも昨日のプログに書いたように資料に記録してあった万引きの非行歴を事実とする先入観で生徒と向き合い、生徒が否定したにも関わらず、先入観が上回って逆にその否定をウソと決めつけてしまい、面倒臭くなって、あくまでも非行歴があったことを前提として学年主任に確認が取れたと報告してしまい、あとになって非行歴がなかったことが明らかになって、自身が生徒に取った態度や確認を曖昧にしなければならなくなったということなのだろうか。

 しかし全ては新聞記事から読み取った憶測でしかない。憶測は証拠にはならない。

 上記記事が伝えている会話はそのまま、解説や説明として伝えている個所は会話体に直して、担任の説明が万引きの非行歴に身に覚えのある生徒の態度となっていることを浮き立たせて、担任の態度をどう読み取るか、読者に任せたいと思う。

 女性担任「生徒に対する計5回の指導はすべて教室の前の廊下での立ち話程度で、持間は長くても5分程度でした」


 女性担任「1回目の指導は昨年11月16日頃です。学年主任が『資料に万引きをした非行歴が記録されている。11月30日までに確認をするよう』指示されたから、生徒に万引きがありますねと尋ねました。

 しかし生徒は不明確な言葉を返しただけで、具体的な時期や場所の確認はありませんでしたが、確認が取れたと思い、学年主任に確認が取れたと報告しました」


 女性担任「2回目の指導は11月26日頃です。万引きのために専願受験が難しいことが色濃くなった」

 生徒「家の雰囲気が悪くなるので、家の人には言わないでほしい」


 女性担任「3回目の指導は12月4日です。専願受験はできないことが決まった。他の高校に受験するか別の受験の方法もあるが」

 生徒「受けたくない高校もある。一般で志望校を受験した場合、落ちますか」

 女性担任「はっきりしたことは言えない。家に帰って受験校を親と相談するようにして欲しい」


 女性担任「4回目の指導は自殺する前日の12月7日です。前回話したことが保護者に伝わった?」

 生徒「親が忙しくて話ができなかった」

 女性担任「親と話し合うようにして。一般での受験は点数が高ければ合格できるので頑張ろう」


 女性担任「5回目の指導は自殺した当日の12月8日の午前です。親に話したの」

 生徒「『3年になってからガラスを割っているので専願受験はできない』と親に伝えたら、『そんなことで受けられないのはおかしい』と親が怒っている」

 女性担任「そうじゃないよ、万引きで専願受験はできないんだよね。一般受験でも志望校に合格する可能性はあるが確実ではないので、もう1校受けたら」

 生徒「親は私立は1校しか受けさせないと言っている」

 女性担任「きょう午後の三者懇談で、私の方からご両親に話してみる」


 女性担任「午後の三者懇談には生徒は持間になっても現れませんでした。携帯に電話してもつながらなかったので、懇談を始め、(推薦をさせない理由として)両親に万引きのことを伝えました。両親は驚いていました」〈以上)

 先ず最初に驚いたのは担任の生徒に対する“指導”なるものが膝を突き合わせて生徒が抱えている問題点をじっくりと話し合う形式のものも含めているだろうが、それだけではなく、単に過去の非行歴の確認を取るために廊下で数分間立ち話をする程度のものまで含めて“指導”と言っていることである。

 後者のどこに教育なるものの要素を含んでいるのだろうか。教育という要素を含まない指導など、存在しないはずだ。

 女性担任教師が生徒の中学1年のときの万引きの非行歴を前提に生徒と話しているのは当然だが、教師の説明の中の生徒は学校の調査で万引きをしていないことが証明されて、万引きはしていないことになっているのに、万引きの非行歴を断固と否定する態度は一度も見せていない。

 そういった態度を取るどころか、事実万引きをしていなければ必要はないはずなのに、「3年になってからガラスを割っているので専願受験はできない」と、できない理由をより軽い罪にすり替えるウソを親についてまでして、担任から言われたより罪の重い万引きの非行歴を隠そうとさえする姿を取っている。

 担任教師が話したように生徒が罪をすり替えるような態度を事実取っていたしたなら、生徒は万引きの非行歴があったことになって、学校の非行歴はなかったとする調査は何だったのかということになる。

 新聞の新たな報道によって新しい事実が出てくるかもしれないが、その事実が出てこない限り、はっきりしたことは言えない。

 確実に言うことができるのは、誰がウソをついているにしても、誰が汲々とした責任逃れの意識を働かせているにしても校長が明かした3年生の1年間を対象に非行歴がある場合は推薦の対象としないとする規準を1、2年のときも含めて3年間を対象とすると規則を変えたことだと、昨日のブログと同じ結論に辿り着かざるを得ない。

 学校という生徒を学び育てる教育する空間でありながら、生徒に更生させる空間とも再チャレンジを試行させる空間ともなっていないから、3年生のときの非行歴なら兎も角、1年生のときや2年生のときの非行歴を生徒の生活態度や人格を計る指標としなければならないのだろう。

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広島県府中町立中学3年男子生徒自殺に見る中1時の万引き非行歴の余りにも不寛容な効力期間

2016-03-09 10:06:39 | 教育

 昨年2015年12月8日、広島県府中町の町立中学校3年15歳男子生徒が自宅で自殺し、3月8日に公表されたが、自殺の原因を各マスコミから要約すると、高校への進路指導に関して生徒自身には関係のない誤った情報に基づく誤った取扱いを受けた可能性を伝えている。

 主に「NHK NEWS WEB」記事、《中3男子生徒が自殺 誤った非行歴で「推薦出せない」》(2016年3月9日 0時07分)からと、他の記事を少し混じえて、報道されている内容を見てみる。   

 公表は今年に入ってからだが、自殺の3日後の3月11日に文科省には報告していたという。

 生徒は高校進学を目指していた。第1志望は公立高校。第2志望は校長推薦が必要となる私立高校だったそうだ。

 12月自殺の前月11月から自殺当日まで4回に亘って担任による進路指導が行われた。4回の進路指導の都度、担任は中学1年のときの万引きの非行歴が記してあった「生徒指導用の会議資料」を根拠に第2志望校への推薦は出せないと伝えた。

 上記記事が、〈教育委員会が調査したところ、この前月の11月から自殺当日まで5回にわたって行われた進路指導の際、万引きの非行歴があったとする誤った資料に基づいて、学校が生徒に志望校への推薦は出せないと繰り返し伝えていたことが分かりました。〉と、「繰り返し伝えていた」という表現を使っているから、進路指導の4回共に万引きの非行歴を理由として生徒に対して推薦は出せないと告げていたことになる。

 今回の自殺を考えるとき、この事実がカギを握ることになる。

 上記記述は進路指導が「自殺当日まで5回にわたって行われた」としているが、最後の5回目は両親と生徒を混じえた三者懇談であったが、生徒は出席していない。生徒自身に対する進路指導は4回となる。

 担任は生徒に対して12月8日の三者懇談では万引きの非行歴とそれを理由として推薦は出せないことを両親に告げると前以て伝えていたという。

 そして12月8日の三者懇談の日、予定の時間になっても生徒は現れず連絡も取れなかったため、担任と両親のみで始めた。担任は生徒に前以て告げていたように生徒が1年生のときに万引きした事実があるため志望校に推薦できないと伝えた。

 父親がその日の夕方帰宅して、生徒が倒れているのを発見、病院に救急搬送したが、救命に至らなかった。

 ところが府中町教育委員会の調査で生徒指導用の会議資料への中学1年の時の万引き非行歴の記載は間違いであったことが分かった。生徒指導に資するための会議だったのだろう、複数の生徒の非行歴が記されていたが、会議の途中で出席した教諭から自殺することになる生徒は「実際は万引きをしていない」という指摘があり、万引きの事実がないことを出席した教諭の間で確認し合ったが、資料は修正されず、誤った記載で残されたという。

 いわば生徒の知らないところで一旦は万引きの非行歴を負ったが、教師たちには冤罪であることが判明したにも関わらず、同じく生徒の知らないところでその冤罪を冤罪のまま背負い続けて、それが元で推薦を出して貰えず、自殺を選んだということになる。

 だから、マスコミは誤った非行歴に基づいた進路指導が自殺につながった原因の可能性があると報道することになった。

 果たしてそれだけだろうか。

 では、各関係者の発言を見てみる。

 高杉良知府中町教育長「学校の情報管理に問題があり、生徒の尊い命が失われてしまったことについて大変申し訳なく思っています。今後、第三者による調査を行って情報管理の在り方を見直し、このような事案が二度と起きないよう再発防止に努めます」

 文部科学省「誤った非行歴に基づいた指導によって子ども1人を自殺に追い込んでしまったのであれば大変遺憾で、あってはならないことだ。なぜそのようなことが起きたのか、徹底的に調査してもらいたい」

 情報管理の拙劣さが中学生1人の命とその人生を奪ってしまった。

 だが、原因はそのことだけではないはずだ。それが本人の知らない冤罪ではあったとしても、担任は中学1年のときしたとされていた万引きの非行歴に中学3年になっても犯罪行為であることの効力を持たせていただけではなく、高校生の年齢になってまでもその効力を維持させる意思を働かせていたことになって、そのことが自殺を選択したより大きな原因となっていたはずだ。

 この意思によって推薦は出さないと決められた。但しこの意思は担任から発したものではなく、学校の意思として存在していたことが3月8日午後10時半頃から学校の記者会見での校長の発言で分かった。

 このことを3月9日朝7時からのNHKニュースで知った。《中3男子生徒自殺 誤り判明後もデータ未修正で残る》NHK NEWS WEB/2016年3月9日 5時27分)から見てみる。   

 中学校校長「生徒みずからが命を絶つようなことが起こったことについて、生徒を預かる学校の責任者として深くおわび申し上げます。

 (公表の3カ月遅れについて)亡くなった翌朝に遺族から『みずからの命を絶った事実を知らせると同級生の動揺が大きく進路にも影響があるかもしれないので進路が一段落するまで急性心不全で亡くなったことにしてほしい』と希望が寄せられた。公立高校の入学試験が終わったので公表した。

 (なぜ資料に誤りがあったか)男子生徒が1年の時の生徒指導推進委員会の資料で触法行為をした生徒として名前があった。記録上のミスで、会議の席でミスであると確認したものの、サーバー上の電子データは未修正のまま残されてしまった。

 当時、生徒が万引きをしたと連絡を受けた教諭が資料を作成する生徒指導部の教諭に生徒の名前を口頭で連絡した。データの入力の過程で誤ったと思われる。あくまで会議で使うための資料だったので、その後、ほかのことに活用するということは考えず、データも直されなかった」

 だが、会議の資料はいつ、どのようなことを議論したのか記録として残すことを前提としているはずだ。

 もしその前提がなければ印刷した紙資料のみならず、会議終了後にパソコン内のデータ資料も消去されなければならない。だが、前提があったから、データ資料は残された。だが、データの間違いは修正しないままにしておいた。

 パソコン操作一つで情報が簡単に誰にでも入手可能な現代社会で、もう何年も前から、ちょっとした情報の間違いが人一人の人生を大きく狂わすこともある危険性が指摘されている。情報という概念についての意識が低かったのではないのか。

 中学校校長「(担任の生徒指導について)担任は去年11月から自殺した日の朝にかけて5回、男子生徒と面談した。担任は1回目の11月16日の面談で触法行為があったことの確認を取ろうとしたが、具体的な事実を確認せず、生徒本人の不明確な言葉で確認が取れたと思い込んでしまった。5回の面談を通しても担任は生徒が触法行為を否定したと感じなかったため、触法行為があったと確認が取れたとしていた」――

 担任は正直に話しているのだろうか。校長にしても学校の責任逃れの意識はなかっただろうか。担任が責任回避意識から正直に話さず、校長も学校の責任を軽くしようとする責任回避意識を働かせていたなら、その情報は限りなく事実から離れる。

 生徒にとっては見に覚えのない万引きである上に推薦がかかっている。人間の自然な姿として生徒がきっぱりと否定した態度を取ったと見るべきであろう。見に覚えのない万引きをしたのかしなかったのか、不明確な言葉で濁したとしたら、生徒の態度としてと言うだけではなく、人間の態度としても余りにも不自然である。

 もし実際に生徒が万引きをしていて、そのことを理由に推薦を出すことができないと担任から告げられたなら、「あれは中学1年のときです。二度と万引きをしていませんから、どうにかなりませんか」と懇願することは人間の自然として考え得る。

 それを、「生徒本人の不明確な言葉で確認が取れたと思い込んでしまった」とか、「担任は生徒が触法行為を否定したと感じなかったため、触法行為があったと確認が取れたとしていた」と、生徒の曖昧な態度を根拠とした“確認”としているのは余りにも不自然過ぎる。

 考えるに担任は頭から万引きをしたと固定観念に囚われて、生徒の否定を受付なかったとした方が人間の自然に適う。

 但し非行歴に関わる推薦の基準は担任の意思から発したのではなく、学校の意思から発していた。記事は解説体で校長の発言を伝えているが会話体に直した。

 中学校校長「生徒を高校に推薦する際の基準について、それまで3年生の1年間で非行歴がある場合は推薦の対象としないとしていたが、去年11月に1、2年生の時も含めて非行歴がある場合には推薦の対象にしないと改めた

 生徒の成長を認め、生徒の意欲を高めるという観点に欠けていた」――
 
 学校教育者でありながら、悲惨な出来事が起きてから気づく。前以て考えることができなかった。
 
 担任は自殺した生徒の人となりを普段見ていたはずだが、この規準に忠実に則って、中学1年のときの冤罪であったとは気づかずに万引きの非行歴を自殺した生徒に狂いなく当てはめようとした。

 このような規準を決めた学校も、その規準を適用していく側の担任も余りにも不寛容性に過ぎる。

 校長を始めとした学校は3年生の1年間だけではなく、1、2年生まで含めた3年間を通して一度でも非行歴がある生徒は推薦を出さないという規準が例えそれが1年のときの非行歴であっても、中学の3年間のみならず、高校生の年齢になるまで、その非行歴に対して犯罪行為であることの効力を持たせることになると認識しなかったのだろうか。

 勿論、更生しない人間もいるが、更生する人間も確実に存在する。この規準はその更生の可能性まで排除している。あるのは厳罰のみで、あるいは厳罰主義の考え方のみで、それぞれの人となりを見て残しておくべき情状酌量の余地も再チャレンジの余地も残していなかった。

 校長の言葉を借りると、学校教育者であるにも関わらず生徒の成長の余地も、意欲を高めさせる余地も残していなかった

 学校が新しい規準の性格に気づいていたなら、1年生のときの万引きが間違った情報であろうと正しい情報であろうと、生徒を自殺にまで追い込むことはなかったろう。

 この新しい規準こそが生徒を死に追いやった大本の原因であるはずだ。

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仙台市の2月3日中2男子自殺からアンケート調査と面談等の教師対応に見る学校のイジメ解決能力の信用性

2016-02-06 10:36:46 | 教育

 中学生がまた自殺した。中学2年生、14歳。方法は首吊り自殺。日時は2月3日(2016年)。場所は仙台市の自宅。家族が発見したのだろう、そのときの驚きは俄には信じられない衝撃を与えたに違いない。

 病院に搬送したが、まもなく死亡が確認されたという。

 仙台市教育委員会が男子生徒が通っていた中学校から聞き取りを行い、その経緯を伝えている「NHK NEWS WEB」記事から、その内容を見てみる。 

 記事が、〈去年6月、男子生徒の自転車が下級生に壊されたことや、〉と書いているが、市教委の聞き取りによる他の生徒の証言なのか、自殺した生徒の訴えを受けて教師側が把握していた事実なのか、記事からでは分からない。

 学校は定期的に行っているものなのだろう、去年2015年11月にアンケート調査を行った。生徒は他の生徒から無視されていることを書いた。

 イジメを伺わせる記述ということで担任が男子生徒と面談した。

 男子生徒「以前のことで今のことではない」

 つまりイジメは現在は収まっていることを意味する言葉となっている。

 と言うことで、学校では特に対応を取らなかったと記事は書いている。

 記事は最後に市教委が、〈生徒の周囲の状況を把握する必要があるとして、中学校で全校生徒を対象にした緊急アンケートを行うことにし、死亡するまでのいきさつを解明することにして〉いると書いていて、大体以上のような内容となってる。
 
 担任は「以前のことで今のことではないのになぜアンケートに書いたのか」と尋ねなかったのだろうか。アンケートが求めている記述は過去からの継続も含めた現在進行形の出来事であるはずだ。

 もう一つ、「産経ニュース」から見てみる。 

 記事の内容を時系列に直してみる。

 2015年6月、〈部活の後輩3人が男子生徒の自転車にいたずらをし、一部を壊した。保護者から「当人同士で解決させたい」と申し出があり、学校は指導を見送った。〉

 2015年7月実施のアンケート。

 男子生徒「(友人関係は)最悪

 きもいと言われる」

 2015年11月実施のアンケート。

 男子生徒「無視された」

 「NHK NEWS WEB」記事では分からなかった男子生徒の自転車の損壊は自殺した生徒が訴えたのか、他の生徒が訴えたのか、何らかの報告によって学校側が損壊後、そう遅くない時期に把握していたことになる。

 但し学校側は指導を見送ったとしても、後で当人同士で解決したのか尋ねたのだろうか。

 解決したとの答えを受けたとしても、それが事実か、あるいは再発しないか、注意深い事後観察を行っていたのだろうか。

 自転車損壊から1カ月前後のアンケートからイジメを窺わせる記述を見て、担任は1カ月前の自転車損壊と関連付けなかったのだろうか。 

 「産経ニュース」記事は11月のアンケート後の面談には触れていない。

 現在のところ、状況証拠としては疑わしいが、自殺とイジメの関連性については明確にははっきりしていない。

 例え関連性は不明であっても、イジメに関しては昨年7月のアンケートも、同じく昨年11月のアンケートも現在進行形の記述となっている。

 だが、11月のアンケート後の面談で、男子生徒は「以前のことで今のことではない」と、過去形に変えている。

 どのような心理が働いたのだろう。

 担任等の教師に「イジメられているのか」と問われてイジメられているにも関わらず児童・生徒が否定する理由はイジメを受けることが弱い人間と見られる、自分自身の自尊心に関わる屈辱的な、情けない出来事であり、そうであるがゆえに素直に認めることができないこと、教師にチクった(告げ口した)と却って報復のイジメを受ける恐れがあること、親を悲しませたり、心配をかけたり、あるいは情けない思いをさせたくないという思いに囚われることなどが挙げられているが、イジメを告げることについてのこういった様々な抵抗感は誰もが抱えているだろうから、アンケートにイジメを受けていることを書くということはイジメを受けていることを知って貰いたいという強い思いと告げることの抵抗感の拮抗した精神状態を一度は味わって、そこから一歩前者に傾いた精神状態に至ることができたからであろう。

 いわば抵抗感を曲りなりにも抑えるにはかなりの覚悟がいるはずである。当然、担任に訴えたいという思いは相当に強い感情として働いたと見なければならない。

 ところが面談の段になると、実際に過去のことならアンケートに書くはずもないし、アンケートの性格上、過去からの継続も含めて現在進行形の出来事の記述でなければならないイジメを「以前のことで今のことではない」と答えたということは、現在進行形を隠して抵抗感に支配された元の精神状態に戻ってしまったことを示していることになる。

 その答はタダ一つ、自殺した生徒にとってアンケートやアンケートの記述を受けた面談等の担任の対応がイジメ解決に役立つと、そこにしっかりとした信用を置くことができていたなら、抵抗感を元通りの状態で蘇らせてしまうことはないだろうと言うことである。

 例えイジメる側の生徒に「アンケートに俺たちのことを書きはしなかったろうな。書いたことが分かったら、タダじゃ置かないからな」と威されたとしても、威すことができること自体がアンケートや担任の対応にイジメ解決の信用性を置くことができない証明以外の何ものでもないのだが、自殺した生徒が学校のイジメ解決能力を信用していなかったと見る他はない。

 生徒自身が気づいていたかどうか分からないが、「以前のことで今のことではない」との生徒の発言に担任が「以前のことで今のことではないのになぜアンケートに書いたのか」と尋ねなかったこと自体が、世間一般の目から見ると、学校や担任がイジメ解決に役に立たないものとして生徒に信用されていないことの証明としか映らない。

 尋ねたが、生徒が口を濁した、あるいは何も答えなかったということなら、その態度に不審な印象を感じ取って何らかの対応を迫られたはずだが、記事に書いてあるように学校が特に対応を取らなかったということは、尋ねることはしなかったということであろう。

 イジメが原因で児童・生徒が自殺した学校の多くがアンケートも、アンケートを受けた担任等の教師の対応もイジメ解決に役に立っていないことが通り相場となっている。今回のことは未だ分からないとしても、イジメが原因で自殺する児童・生徒が後を断たない以上、学校のイジメ解決能力の信用性は相当に低いはずだ。

 自殺を断つには先ずはどう信用性を高めるかに重点を置かなければならないようだ。

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身長195センチ20歳の男が3歳児相手に人生最大の自己実現を果たし、スーパーマンもどきに変身した瞬間

2016-02-01 09:41:02 | 教育

 1月27日(2016年)未明、東京大田区のマンションで3歳の男の子が心肺停止の状態で見つかり病院に運ばれたが、まもなく死亡した。病院の医師が「子どもの体中にあざがあり、虐待の疑いがある」と警察に通報、警視庁が調べたところ、22歳の母親と同居中の20歳の男が暴力を振るって死に追いやったことが判明、男は逮捕された。

 各マスコミ記事から、暴力を振るうに至った経緯を見てみる。

 男は暴力団員で1月8日頃から女性の部屋で同居を開始。身長195センチ・体重は120キロの体格だというから、その体格だけで相手を威圧させるに十分過ぎる程の風格に恵まれていたことになり、暴力団員としての将来性は不足のないものであったに違いない。 

 男は1月18日頃から「しつけ」と称して平手打ちをするようになったと言う。

 要するに新しい父親、あるいは新しく現れた大人の男に幼い3歳の男の子が慣れ親しむ態度を取らなかったから、自分自身に慣れ親しむ態度を取らせるしつけのために、言葉を替えて言うと、自分の言うこと聞かすしつけのために平手打ちをするようになったということなのだろう。

 子どもの身長は98センチだという。ネットで調べると、身長98センチに対する体重は15キロ前後が一般的であるらしい。

 1月8日から女と同居し、その10日後の1月18日には身体的強制力で身長98センチの子どもを言いなりにしたい衝動を抑えることができずに身長195センチ・体重120キロの体格の男が性急にも平手打ちという形に出た。

 この衝動は性急であるだけに子どもの人格を尊重して、少なくとも子どもの気持や思いを汲んで穏便な大人と子どもの関係を築こうとする思いとは正反対の、自分の思い通りの子どもにしたい支配欲求が強く働いていたことになる。

 見知らぬ大人の平手打ちは子どもにとっては謂れのない暴力であって、子どもの反発を買うのは当然であるが、その反発が子どもに対して支配欲求を持った大人の反発をなおさらに誘い、なおさらの反発が支配欲求を更に強めることになって、それが更に強度の身体的強制力となって噴出するという経緯を取ったのだろう。

 1月18日から1週間後の1月25日夜、20歳の男は、警察の調べによると、身長195センチ・体重120キロの身体で踵を振り下ろすようにして男の子の頭を蹴ったり、ガラスケースに向かって投げつけたりして1時間以上暴行を続け、子どもがぐったりしてからようやく終わったという。

 暴行の理由を「睨みつけてきたので頭にきた」と供述したという。

 それで普段以上に血がのぼって、カッとなり、平手打ち程度で自分の言いなりにしようとした支配衝動では済まなくなった。

 身長195センチ・体重120キロの身体の大きい若い男が相手が身長は半分の98センチ、特に体重が約8分の1の15キロ前後の身体なら、赤子の手をひねるに似たたやすさで投げつけたり、振り回すのはそれ程難しくはなかったはずだ。

 それを1時間以上も続けた。身体の大きいその男にとって身体の小さな子ども相手では1時間以上続けることもできたろう。子どもがぐったりしなければ、更に続けたに違いない。

 そのときの暴力は反撃できる力を相手が持っていないことを前提とした安心感に支えられて自由無碍(何ら妨げるものがなく、自由自在であること)の万能さを感じさせたに違いない。暴力の万能感を通して3歳の男の子を完璧に自分の自由にすることのできる支配欲求を満たしていた。

 実際に自由自在に扱った。スーパーマンもどきの万能感を味わっていたとしても不思議はない。スーパーマンのようなヒーローに変身して、これでもか、これでもかと力が湧き上がるのを感じていたのかもしれない。

 万能感を持たせた支配欲求を満足させていたことは逮捕後の供述、「やることはやった。悔いはない」の言葉に如実に現れている。

 子どもを自分の遣り方で完璧に支配した。いわば自己実現を果たした。

 ここで言う自己実現とは「可能性としてある望ましい自己の在り様の実現を目指すこと」を言う。

 例えば男の子が将来野球選手になりたいと思って野球少年の生活を送っている場合、野球選手としての可能性の実現を追い求めることを指す。

 暴力を振るったその1時間が、その男が暴力団員としてスーパーマンもどきのヒーローに変身して人生最大の自己実現を果たした瞬間だったのである。

 暴力団員にとっての暴力発揮は最大の活躍であり、自己実現の方法でもある。

 このことの全てが「やることはやった。悔いはない」の言葉に凝縮されている。

 この暴力はまた、イジメと同じ心理構造を持っていて、陰湿なイジメが止めどなくエスカレートしていく構造をも備えている。

 20歳の大の男の3歳の幼い男の子に対するイジメでなくて何であろう。

 イジメは何らかの威嚇を利用して相手を恐怖させ、その恐怖を以って相手の人格や行動、感情を支配する権力行為であって、それが学校生活の中で自身にとっての活躍の機会ともなっているゆえにイジメを通して自己実現を果たしていると言うことができる。

 当然、学校はイジメの防止のためには「自己実現」という言葉を使って、その言葉が難しい年齢の子どもに対しても、何回も使うことで自然に覚えていく慣習の力を借りて、「将来どのような職業に就きたいのか」と将来の自己実現を問うだけではなく、学校生活でのその時々の自己実現――テストの成績を少し上げたいとか、今度は県の少年野球大会に進みたいとかの自己実現を常日頃から問い、確かめる教育を通して、イジメや万引きといった活躍を通した歪んだ自己実現に走らないよう心掛けなければならないことになる。

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沖縄県豊見城市での小4男児自殺の学校長に教育者の姿よりも政治家の姿が見える

2016-01-18 09:28:37 | 教育
 

 ここで言う「政治家」とはいずれの分野の職業であっても、その職業の専門の知識や技術によってではなく、あるいは良好誠実な人柄や人格によってではなく、ハッタリや駆引き、立ち回り上手、馴れ合い、保身、自身を前面に出す、これらの能力を巧妙に発揮して地位をのし上がっていく者を言う。

 「コトバンク」が「ブリタニカ国際大百科事典」を引用して政治家を、「政治活動に従事する人間。政治家はしばしば politicianと statesmanとに分けられる。イタリアの政治学者 G.モスカは,前者を『統治システムにおける最高の地位に達するのに必要な能力をもち,それを維持する仕方を心得ている人物』と定義し,後者を『その知識の広さと洞察力の深さによって,自分が生きている社会の欲求をはっきりと正確に感じ取り,できるだけ衝撃や苦痛を避けて,社会の到達すべき目標に導く最善の手段を発見する方法を知っている人』と定義して,両者を区別している」と解説しているが、ここで言う「政治家」とは、後者であるよりも前者に近い。

 「彼はなかなかの政治家だ」という言葉は、当然、その職業の専門の知識や技術に長けているという意味ではなく、立ち回りや駆引きが長けていることを言う。

 政治の世界ではこの言葉が意味する人間はザラにいる。それでも政治家をしていくことができるのは必要な知識・情報は役人が必要に応じてその都度その都度与えてくれるから、ハッタリや駆引き、立ち回りだけで副大臣だ、大臣だと地位をのし上がっていくことができる。

 昨年、2015年10月12日夜、沖縄県豊見城(とみぐすく)市の小学4年の男児(当時9)が首を吊って自殺を図り、病院に搬送され、7日後の10月19日に死亡した。

 男児は、学校が9月29日に実施したイジメに関する無記名の定期アンケートの自由記述欄に「消しゴムを盗まれた。いじめられていて転校したい」(琉球新報)と書いていたという。  

 だが、担任の男性教諭は読んでいなかった。自殺を図った翌日の10月13日、担任はアンケートを読み、記述に気づき、筆跡などから男児の記述だと判明したという。

 担任がアンケートを実施した9月29日から約2週間、それに目を通すのを放っておいて、自殺の翌日に初めて目を通したということは、自殺の動機となる何らかの訴えが記述されていないか疑ったからであり、急いで目を通したということであろう。

 と言うことは、イジメのアンケートにはイジメを知らせる何らかのサインがあり得ることの知識を持っていたことになる。

 実際にはアンケート実施から早い時間に目を通していて、イジメを訴える記述に気づいていたが、どうってことはないだろうと軽く見て放っておいたところ、自殺を図った、気づいていたことが知れるとヤバイことになるからと、読んでいなかったことにして、自殺を図った翌日に初めて目を通したことにしたのではと疑うこともできるが、事実そうだとしたら、相当な政治家で、行くゆくは出世間違いないだろう。

 事実は今のところ分からない。今後共分からないかもしれない。少なくともアンケートでイジメを訴え、「転校したい」と居場所を失って孤立している状況のSOSを発信し、約2週間、助けを待ったに違いないと推測することは決して間違っていないと言うことができるはずだ。

 男児通学の小学校校長が1月10日、市役所で記者会見している。

 校長「いじめへの対応には注意していたが、男児から相談はなく、事実を把握できなかった。

 (担任がアンケートの内容を2週間読んでいなかったことについて)もう少し早く読んでいたらとも思うが、1学期の終わりで、成績表を一から作らなければならない時期。そちらの業務を優先したのだと思う」(asahi.com) 

 9歳という余りにも若過ぎる年齢の自殺死に対する切実さは言葉のどこからも微塵も感じ取ることができない。「男児から相談はなく、事実を把握できなかった」と言って、そのことを以ってイジメを認知できなかったことの理由としているが、生徒側からの直接の相談のみをイジメの把握手段としているなら、何のためにアンケートを行っているのだろうか。

 2013年9月28日施行の「いじめ防止対策推進法」に基づいて文科省はイジメの早期発見とその防止等を内容とした「いじめの防止等のための対策の内容に関する事項」を2013年10月11日策定、各学校に通知している。文飾は当方。

早期発見  

 いじめは大人の目に付きにくい時間や場所で行われたり、遊びやふざけあいを装って行われたりするなど、大人が気付きにくく判断しにくい形で行われることが多いことを教職員は認識し、ささいな兆候であっても、いじめではないかとの疑いを持って、早い段階から的確に関わりを持ち、いじめを隠したり軽視したりすることなく、いじめを積極的に認知することが必要である。

 このため、日頃から児童生徒の見守りや信頼関係の構築等に努め、児童生徒が示す変化や危険信号を見逃さないようアンテナを高く保つ。あわせて、学校は定期的なアンケート調査や教育相談の実施等により、児童生徒がいじめを訴えやすい体制を整え、いじめの実態把握に取り組む。〉――

 当該小学校が9月29日に実施したアンケートもマスコミは「イジメに関する無記名の定期アンケート」と伝えているが、文科省通知に基づいたイジメ早期発見を目的に定期的に行っているアンケート調査だったはずだ。

 校長というその学校での一番の責任者の立場で子どもの知・育・徳の教育に携わりながら、生徒側からの直接の相談のみをイジメ把握の手段とすることができる。とても教育に詳しく、同時に教育に誠実な態度・人柄が可能とした校長職とは考えることはできない。

 であるなら、ハッタリや駆引きといった資質のみで出世を望み、目指した政治家の体質がこの男を校長にまで上り詰めさせたと見るしかない。

 文科省通知にあるように〈いじめは大人の目に付きにくい時間や場所で行われたり、遊びやふざけあいを装って行われたりするなど、大人が気付きにくく判断しにくい形で行われることが多い〉人権侵害行為であって、教師たちがそのことを常に強く認識していたなら、いわばイジメとはそのような性格のものだとする切迫した危機管理意識を持っていたなら、担任している子どもたちの様子が何事もないように見えたとしても、万が一ということを考えて、万が一ということを考えて備えることが危機管理なのだが、何はさておいても、例え他の用事が忙しくても、第一番に目を通さなければならないアンケート調査であったはずであり、担任自身にしてもイジメのアンケートにはイジメを知らせる何らかのサインがあり得ることの知識を持っていたはずだから、目を通すことは緊急性を要していたとしなければならない。

 例え結果的にイジメに関する記述もなく、自殺を選択する子どもが出てこなかったとしてもである。
 
 だが、担任は、自身の証言が正しければ、そうはしなかった。自殺を図ってから目を通したということは、児童が自殺を図らなければ、永遠に目を通さなかった可能性が強いことになる。

 このことは何事がなくてもイジメの万が一の存在を疑い、自分から進んでそのことに備えようとする危機管理意識を持ち合わせていないことの証明でもある。

 当然、校長は教師管理の全責任を負う者として担任が何事にも優先させて目を通さなかった行為を認めることができない態度とし、担任としてのそのような責任不履行を学校自体の責任、校長の教師管理の不行き届き・怠慢の責任としなければならない。

 校長がいわゆる政治家タイプの教育者ではなく、専門の知識や技術共に備えた人柄や人格が自ずと校長職に導いた教育者であるなら、担任の責任を自らの管理責任としたはずである。

 だが、「もう少し早く読んでいたらとも思うが、1学期の終わりで、成績表を一から作らなければならない時期。そちらの業務を優先したのだと思う」と、担任の何事にも優先させて目を通さなかったことの責任を免除している。

 担任への責任免除は校長の管理責任免除へと自ずと繋がっていく。

 市教委が11月下旬に男児の自殺を伏せて4、5年生全員対象に無記名アンケートを行ったところ、9人が「意地悪されているのを見た」と回答していたとマスコミが伝えている。

 例え調査の結果、イジメが自殺の直接の原因ではなかったことが判明したとしても、担任が9月29日実施のイジメに関する無記名の定期アンケートに早期に目を通していたなら、約2週間後の自殺行為を止めることができた可能性は否定できないし、止めることができたなら、自殺死を背景とした2回めのアンケート調査を行うこともなかったはずだ。

 一度の責任不履行・怠慢が人の生き死にに関係していく。校長・教師は子どもたちの学校教育を預かっているだけではなく、生物学的な命を預かり、同時にそのような命と連動している喜怒哀楽の生きて在る存在性を預かり、そのような存在性が生物学的な命と共に他の生徒による物理的、あるいは精神的暴力によって損なわれないよう極力防止する責任を負っているはずだ。

 だが、校長だけではなく、担任からもそういった責任を感じ取ることはできない。この担任がゆくゆくは校長に出世していくのかどうか分からないが、校長がこのような責任感なくして、あるいは責任意識なくして既にその地位に就いているということは、やはり政治家であることが幸いした校長職ということなのだろう。

 学校校長にとどまらずに、教育力ではなく政治力を益々発揮して教育委員長や学校教育に関する諮問機関等の有識者メンバーとして出世の階段を登って行くに違いない。

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学校でのイジメ防止対策は個人性の無視(=シカト)は人間の自然な心理として許されるとする教育から始める

2015-11-02 07:48:17 | 教育


 2015年7月5日、岩手県矢巾町の中2男子生徒が自殺を仄めかすサインを出していながら、学校は気づかずに列車に飛び込ませて死なせてしまった事件を受けて文部科学省が実態調査を遣り直すよう全国の学校に求めたところ、昨年度確認されたイジメは18万8000件余りに上り、調査を遣り直す前に比べて3万件近く増えたことが分かったとネット記事が伝えていた、

 文科省がこのような調査を指示したのは自殺した中2男子生徒の学校が教育委員会にイジメゼロの報告をしていたためで、認知されないままのイジメが他に存在することを疑ってのことだという。

 結果、3万件も増えた。

 「いじめ防止対策推進法」は2013年6月21日に与野党の議員立法によって国会で可決・成立し、同2013年6月28日公布、2013年年9月28日に施行されている。

 法律の成立から1週間後の公布はそれだけ緊急性を要していたからに違いない。

 法律は各自治体だけではなく、勿論、学校に対してもイジメ防止の対策を求めている。第4章第22条は、〈当該学校におけるいじめの防止等に関する措置を実効的に行うため、当該学校の複数の教職員、心理、福祉等に関する専門的な知識を有する者その他の関係者により構成されるいじめの防止等の対策のための組織を置くものとする。〉と規定している。

 法律の「いじめ防止対策推進」の名前通りにイジメの予防措置を指示している。

 だが、今回文科省が求めた調査の遣り直しの結果は多くの学校がイジメの予防ではなく、イジメの顕在化を待って対策を講じるイジメ防止とは名ばかりの構造となっていることを露わにしている。

 しかもイジメが起きていながら、満足に認知できていなかった状況をも露わにした。

 クラス担任が、あるいは教科担任がクラスの全員を前にして教壇に立っていながら、クラスの誰かが誰かを陰でイジメていて、授業中であっても一方が抑圧的な支配者としての心理を維持し、一方が理不尽に支配される者として鬱屈した心理を抱えていなければならない両者の力関係が働いていることに気づかずにいる。

 要するに学校のイジメ防止は事後処理法の構造を取っている。

 文科省は「いじめの定義」を次のように定めている。

 〈「いじめ」とは、

 「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」
とする。

 なお、起こった場所は学校の内外を問わない。

 「一定の人間関係のある者」とは、学校の内外を問わず、例えば、同じ学校・学級や部活動の者、当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など、当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。

  「攻撃」とは、「仲間はずれ」や「集団による無視」など直接的にかかわるものではないが、心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。

 「物理的な攻撃」とは、身体的な攻撃のほか、金品をたかられたり、隠されたりすることなどを意味する。 〉――

 イジメの場合の攻撃はイジメる側とイジメられる側の間に上下の力関係が必要となるが、イジメの発端をつくるイジメの首謀者は自身を反撃を受けない安全地帯に置く必要性から上下の力関係を確実にするために、そのことがイジメを確実にすることになるが、その多くが仲間を1人以上引き入れて多数に恃む構造を取る。

 イジメる対象者が2人とか、3人の場合、それ以上の数の仲間を組んで、イジメという攻撃を確実にする。

 つまり、そういったことができる卑怯な性格、あるいは卑劣な性格、さらには狡い性格を有していなければ、イジメの首謀者足り得ない。

 イジメの首謀者がイジメを確実に成功させ、イジメによって自己実現を図るために引き込んだ仲間がイジメに積極的に加担、首謀者の指示以上にイジメを働く者は多くの場合、それなりに主体性を持ったイジメ同調者であって、首謀者を恐れて仕方なく仲間となり、首謀者の指示の範囲を超えないイジメで終える者は主体性を持ち得ないイジメ同調者だと類別できる。

 となると、イジメに関して主体性を持とうと持たなかろうと、仲間に誘い込まれそうになった段階で仲間となることを拒否できるそれ相応の意思――自律性の育みが集団を組むことを阻む力となり得ることになる。

 直接的な身体的攻撃ではない、「仲間はずれ」や「集団による無視」といった集団性を取った心理的な攻撃はイジメとなって許されないが、ここから集団性を剥いだ個人性の無視、個人的に友達とはならない関係性は学校社会だけではなく、大人の社会にも存在する自然な人間性としてある関係であって、学校は集団性と個人性を厳格に区別して、前者はイジメとして許されないが、後者は人間の自然な心理として許されるということを明確に伝えることからイジメの防止に取り掛かるべきではないだろうか

 つまり、決して集団性を取ってはならないことを厳重な条件とすることになる。誰かを仲間に引き込む形で、「アイツを無視してやろう」とか、「アイツとは友達にならないようにしよう」と仲間外れにすることを申し合わせて、申し合わせた通りのことを仲間と共に行うことは集団性を取ることになって許されない禁止行為とする。

 もし口を利きたくなければ、自分だけで口を利かないようにして、仲間を誘って同じことをさせるようなことは決してするなと。

 逆に仲間に誘い込まれようとしても、誘い込まれれば集団性を取ったイジメになるから、断らなければならないということを教える。

 このように集団性と個人性の無視(=シカト)の違いを通してイジメに於ける集団性と個人性の区別を学習させることで集団性に陥らずに個人性を維持する自律性育成の教育とし、そこからイジメ防止対策を行っていく。

 この提案が役立つかどうか分からないが、イジメが顕在化してから手を打つ対処療法から抜け出て、前以てイジメが発生することを防ぐ原因療法をそろそろ見い出さなければならないのではないだろうか。


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