安倍晋三が言うように「強制的に軍が家に入り込み、女性を人さらいのように連れて」いかない従軍慰安婦強制連行は無罪放免とすることができるのか

2020-08-17 09:30:34 | 政治
 既に当ブログに書いてきたことが相当に混じっていることを最初に断っておく。

  「自民党総裁選立候補者討論会」(日本記者クラブ/2012年9月15日)

 安倍晋三「この、いわゆる慰安婦の問題については、私、仲間とずうっと勉強してきました。その勉強の結果は、それを示すものは全くなかったということですね。証言についても、それは裏づけがとれたものも全くないという、そういう中において、『河野談話』 は、ある意味においては政治的に、外交的に発出されたものであります。

  あの『河野談話』によって、強制的に軍が人の家に入り込んでいって女性を人さらいのように連れていって、そして慰安婦にした、この不名誉を日本はいま背負っていくことになってしまったんですね。しかし、安倍政権のときにその強制性を証明するものがなかったということを閣議決定をしました。

 しかし、そのことを多くの人たちは知りませんね。また、アメリカにおいても、また海外においてもそれは共有されていません。

 いま、アメリカでどういうことか起こっているかというと、韓国系のアメリカ人がsex slaves の碑をたくさんつくり始めているんです。その根拠の1つに『河野談話』がなっているのも事実でありますから、そこにおいては、もうすでに修正しましたが、その修正したことをもう一度確定する必要があるなあと私は思います。私たちの子や孫の代にもこの不名誉を背負わせるわけにはいかないだろうと思います。

 「強制的に軍が人の家に入り込んでいって女性を人さらいのように連れていって、そして慰安婦にした」という歴史的事実はなかった。その事実については安倍政権が第1次政権時の2007年3月8日提出の辻元清美の質問書に対する2007年3月16日の答弁書で閣議決定していると説明している。

 その一方で同じ答弁書は、「官房長官談話(河野談話)は、閣議決定はされていないが、歴代の内閣が継承しているものである」としている。つまり安倍晋三は常々『河野談話』は「政府として引き継いでいる」と言っているが、安倍晋三自身は個人としては引き継いでいないということにほかならない。

 安倍晋三はこの辻元清美の質問書に対する閣議決定した答弁書については国会でも答弁している。

 2013年2月7日衆議院予算委員会。質問者である前原誠司民主党議員に対する答弁。

 安倍晋三「整理をいたしますと、まずは、先の第1次安倍内閣のときにおいて、(辻元清美による安倍首相の「慰安婦」問題への認識に関する)質問主意書に対して答弁書を出しています。これは安倍内閣として閣議決定したものですね。つまりそれは、強制連行を示す証拠はなかったということです。つまり、人さらいのように、人の家に入っていってさらってきて、いわば慰安婦にしてしまったということは、それを示すものはなかったということを明らかにしたわけであります。

 しかし、それまでは、そうだったと言われていたわけですよ。そうだったと言われていたものを、それを示す証拠はなかったということを、安倍内閣に於いてこれは明らかにしたんです。しかし、それはなかなか、多くの人たちはその認識を共有していませんね。

 また間に入って業者がですね、事実上強制をしていたという、まあ、ケースもあった、ということでございます。そういう意味に於いて、広義の解釈に於いて、ですね、強制性があったという。官憲がですね、家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかったということではないかと」

 ここでも、「官憲が家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという強制性はなかった」云々によって従軍慰安婦強制連行の事実はなかったと断じている。

 と言うことは、人家外・路上での拉致・誘拐の強制連行、いわば従軍慰安婦強制連行の事実は存在したことになる。「如何なる場所からも少女たちを人さらいのごとくに連れていって、慰安婦としたといった強制性はなかった〉とは断っていない。

 但し安倍晋三は人家外・路上での拉致・誘拐といったその種の「強制性」、従軍慰安婦強制連行の事実は歴史認識上、無罪放免としていることになる。つまりその程度のことは許されるとの倫理観で対処している。

 2014年9月14日のNHK「日曜討論」は、「党首に問う いま政治がすべきことは」をテーマとしていた。その中で安倍晋三は朝日新聞の従軍慰安婦に関わる誤報に関連して、次のように発言している。

 安倍晋三「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき、子どもをさらって慰安婦にしたという記事を見れば、皆、怒る。間違っていたというファクトを、朝日新聞自体がもっと努力して伝える必要もある。それを韓国との関係改善に生かしていくことができればいいし、いかに事実でないことを国際的に明らかにするかを我々もよく考えなければいけない」

 要するにあくまでも「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき、子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実はなかったと強硬に主張している。いかなる場所からもと断らずに強硬に主張すればする程、人家外、あるいは路上で「日本兵が人さらいのように子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実は強硬なまでに存在することになる。

 逆説するなら、人家外、あるいは路上で「日本兵が人さらいのように子どもをさらって慰安婦にした」という従軍慰安婦強制連行の歴史的事実が強硬なまでに存在するからこそ、「日本兵が人さらいのように人の家に入っていき」とする、見つけることができなかった事実を条件として、その事実のみで従軍慰安婦強制連行の歴史的事実を無罪放免とする作為が疑えないこともない。
 
 人家外、あるいは路上での従軍慰安婦強制連行の歴史的事実は枚挙に暇がない。

 2004年初版の『日本軍に棄てられた少女たち』――インドネシアの慰安婦悲話――(プラムディヤ・アナンタ・トゥール著・コモンズ)はインドネシアのスハルト政権下の1969年8月に政治犯としてブル島に送られらた作者のプラムディヤ・アナンタ・トゥールと流刑地で知り合ったりした仲間は政治犯以外の女性先住者の存在を知ることとなる。彼女たちは日本軍に騙されてブル島に連れて来られものの、1945年の日本の敗戦と共に島に置き去りにされた元慰安婦たちで、著書は著者のプラムディヤ・アナンタ・トゥール氏と共に仲間たちが彼女たちの慰安婦にされた経緯の聞き取り調査に基づいた内容となっている。

 慰安婦にされた主な理由は日本やシンガポールに「留学」させるというもので、「留学」話を担ったのは現地の日本軍政監部(太平洋戦争中、オランダ領東インド=インドネシアを占領した日本軍が設置した軍政の中枢機構)であった。指揮命令系統の要所要所は軍人が占めていたであろうが、総体的には役人が組織の運営に当たっていたから、軍人みたいに体力・腕力に物を言わせて、力づくで拉致・連行・監禁を専門とすることができず、平和裏に「留学」話で釣る知能犯罪に相成ったという次第なのだろう。 
 
 『日本軍に棄てられた少女たち』の最初の方に桃山学院大学兼任講師鈴木隆史氏が2013年3月と8月に南スラウェシ州を訪れて、元慰安婦に聞き取り調査して纏めた、「私は決してあの苦しみを忘れらない、そして伝えたい」の一文を寄せている。

 題名の意味は元慰安婦の苦しみを忘れずに多くの人に伝えたいというものである。

 ミンチェ(2013年86歳)のケース。

 14歳で日本兵に拉致される。

 作者が訪ねて行くのを4日間知人の家で待っていて、話した内容。

 「たとえ相手がどんなに謝罪しても、私を強姦した相手を決して許すことはできません。私はそのとき、『許してほしい、家に返してほしい』と相手の足にすがりつき、足に口づけしてまでお願いをしたのに、その日本兵は私を蹴飛ばしたのです。

 日本兵は突然、大きなトラックでやって来ました。私たちが家の前でケンバ(石を使った子供の遊び)をしているときです。私は14歳でした。(スラウェシ島の)バニュキという村です。日本兵は首のところに日除けのついた帽子をかぶっていました。兵隊たちが飛び降りてくるので、何が起きたのかとびっくりして見ていると、いきなり私たちを捕まえて、トラックの中に放り込むのです。

 一緒にいたのは10人くらいで、みんなトラックに乗せられました。私は大声で泣き叫んで母親を呼ぶと、母が家から飛び出してきて私を取り返そうとしました。しかし日本兵はそれを許しません。すがる母親を銃で殴り、母はよろめいて後ろに下がりました。それを見てトラックから飛び降りて母のところに駆け寄ろうとした私も、銃で殴られたのです。

 トラックに日本兵は8人ぐらい乗っていて、みんな銃を持っていました。トラックの中には既に女の子たちが10人ほど乗せられていて、私たちを入れると20人。みんな泣いていました。本当に辛く、悲しかったのです。そのときの私の気持がどんなものか、わかりますか。思い出すと今も気が狂いそうです。

 それから、センカンという村に連れて行かれました。タナ・ブギスというところがあります。でも、どのように行ったのかは、トラックに幌がかけていたのでわかりません。着くと部屋に入れられました。木造の高床式の家です。全部で20部屋ありました。周囲の様子は、日本兵が警備していたので、まったく分かりません。捕まった翌日に兵隊たちがやってきて、強姦されました。続けて何人もの兵隊が・・・・・。

 本当に死んだほうがましだと思いました。でも、神様がまだ死ぬことを許してくれなかったのでしょう。だから、こうして生きています。ほぼ6カ月間、私はそこにいました。

 一人が終わったら、また次の日本人がやってくる。どう思いますか。ちょうど15歳になろうとしていたところで、初めてのときはまだ初潮を迎えていなかったのです。そこには日本人の医者(軍医)がいて、検査をしていて、何かあると薬をくれました。料理も日本兵がやっていました。インドネシア人が入って料理をすることは許されません。私たちと会話することを恐れていたのでしょう。部屋にはベッドなんてありません。板の上にマットを敷いていました。あるのはシーツだけです。

 私は日本兵が他の女性と話している隙を見て、裏から逃げ出しました。このまま日本兵に姦され続けるくらいなら、捕まってもいいから逃げようと思ったのです。私自身が過ちを犯したわけではありません。〈神様どうか私を助けてください〉と祈り、近くの家に駆け込みました。

 『おばさん、私をここに匿(かくま)ってください』

 どうしたのかと訝(いぶか)る彼女に。すべてを話しました。

 『日本兵が怖いのです。彼らは私を強姦します。耐えられません。本当に辛いのです』

 彼女は私をかわいそうに思ってくれたのでしょう。『どこに帰るのか』と聞かれたので、『マカッサルへ帰りたい』と言いました。たまたま彼女の息子がトラックの運転手をしていて、彼女に男性の服を着せてもらい、帽子もかぶって、逃げたのです。とても怖かったです。とにかく耐えられなかった。

 トラックで家まで送ってもらい、母親に再会できました。お互いに抱き合って喜んだ。彼女は私が6カ月も戻ってこないので、日本兵に連れて行かれて殺されたと思っていたようです。突然、目の前に死んだはずの私が現れて、母はとても喜んでくれましたが、他の親戚たちは私を受け入れてくれませんでした。嫌ったのです。親族の恥だと言って。

 私が日本人に強姦されたこと話を母から聞いたようです。母にどうしていたのかと尋ねられたので、(慰安所に)連れて行かれたことを話しました。それを母が親戚に話し、みんなに伝わったのです。誰一人として私を受け入れてくれませんでした。ここではこのようなことが起きれば、親戚中が恥ずかしいと感じます。死んだほうがましだと、他の人に聞いてご覧なさい。私のような人が家族にいたらどうするか。『恥だと言って殺す』と答えるでしょう。父親も受け入れてくれませんでした。

 母親だけが私を受け入れてくれました。彼女も日本兵に殴られていたからです。私が戻ったとき、母は病気でした。彼女が3カ月後に亡くなると、家を出ました。親戚の一人が、お前がここに残っていれば殺すと脅したからです。

 私はそれからずっと他人の家で皿を洗ったり洗濯をしたりして生きてきました。結婚もしていません。一人で生きてきました。最初は小学校時代の友人の家にやっかいになりました。彼女の母親が私のことを好いていてくれましたから。本当のことを話すのは恥ずかしかったので、友人には嘘をつきました。

 『私の父親が再婚して、その継母が私に辛く当たるので、一緒にいたくない。だから家を出てきたのだ』と、いつもそのように言い、家を転々としてきました。気に入られたなら、、しばらくいる。嫌われているなと思ったら、すぐに出て行く。そんな暮らしをずっと続けてきました。どれだけの家を移り歩いたのか覚えていません。この歳になるまでずって転々としているのですから。

 彼らからお金はもらっていません。だって、お手伝いとして雇われたわけではなく、私が一方的においてもらっているのですから。持ち物は、ナイロン袋に詰めた一枚のサロンと二着の服だけ。荷物と呼べるものはありません。

 私は仕事をしていなければ、あのこと(強姦)を思い出します。だから、いつも体を動かして働いているのです。あの辛さは、いまのいままで忘れたことはありません。そしていま、私の秘密を初めてここでしゃべっています。今日が最初です。他の人には恥ずかしいので話していません。でも、もうこの辛さには耐えられない。そこで私は決心したのです。これからどんどん歳をとって、しゃべれなくなっていきます。話を聞きたいという人がいたから、話すことにしました。私のつらい経験を話してもいいと思ったのです。

 あの日のことは、いつも夢に出てきます。思い出すたびに泣いています。辛い思い出は、とても忘れることはできません。もし忘れられるとしたら、お墓に入ったときでしょう。生きている間は、決して頭から離れることはない。たとえ、その兵隊が自らの行為を悔いて謝罪したとしても、私は決して許しません。本当に日本兵は残酷です。ひどい。

 いつも夢に見ます。いったい、どうしたらいいのか。いつになったら私は幸せを感じることができるのでしょうか。私はこの苦しみから抜け出したい。でも、苦しみは勝手にやってくるのです。どうすることもできません。私がこうなってのは、すべてあのことがあったから。日本兵にこんな目に遭わされなければ、苦しんでなんかいません。お金や謝罪では、消えないでしょう。わたしは、すべては神にゆだねています。人にはそれぞれの運命があります。それはどういうものかわかりません。それに、自分では好きなように変えられない。すべて神の手にゆだねられているのです。

 神が私をかわいそうに思ってくれるのか。それとも、このままの人生を送れというのか。いずれにせよ、私は祈り続けています。私も他の人たちと同じような人生が送れるようにと。

 あなた(作者)が、倒れている私を(話すことに)立ち上がらせてくれたのよ」

 確かに安倍晋三が言うように「人さらいのように人の家に入って」はこなかった。だが、「家の前」で遊んでいた14歳の少女とその仲間の合わせて約10人を大きなトラックに乗ってやってきた日本兵が飛び降りてきて、「人さらいのように」捕まえ、荷台に放り込んで拉致・連行して、慰安婦にした。いわば強制売春を課した。

 家の中で取っ捕まえようと家の外で取っ捕まえようと、取っ捕まえたあとの展開はどちらも拉致・連行・強制売春と同じである。拉致・連行までは犯罪の性格に於いて「人さらい」そのものであり、強制売春まで加われば、その「強制性」は犯罪性を遥かに強めていることになる。にも関わらず、安倍晋三は「人さらいのように人の家に入って」の強制性でなければ、従軍慰安婦強制連行の歴史的事実に当たらないとして無罪放免としている。

 さらに鈴木隆史氏の一文から「人さらいのように人の家に入って」ではない、拉致・連行・強制売春の例を取り上げてみる。

 ヌラのケース(年齢不詳)

 スラウェシ島ブンガワイ村生まれ。15歳で日本兵に捕まる。

 「家から1キロほど離れたところの学校に通っていたの。友達を歩いているとき、誰もいない場所で、帽子をかぶった日本兵が乗ったトラックに出会ったの。トラックには幌がかぶせてあったわ。私たちが怖くて逃げると、『もって来い、もって来い(こっちに来いということか?)。何だ、こらっ』と言って叫ぶの。そして片っ端から私たちを捕まえて、トラックの上に放り上げるのよ。

 一緒に捕まったのは全部で8人。道の途中でも捕まえて、トラックに乗せたわ。幌があるから外は見えない。みんな泣いていると、兵隊が『バゲロー、泣くな』ッて言うの。トラックでルーラというところに連れて行かれたわ。そこは竹の家が並んでいて、入れって言われたの。服はぼろぼろになっていて、しかも一枚だけだったから、寒かったのを覚えているわ。

 そこで食事を作っていたのはゴトウ班長という人。彼は『飯ごう、持ってこい』と言った。でも、ご飯は少しと、塩魚が少しだけ。竹の家はとても長くて、一人に一部屋与えられたの。お互いにのぞいてはだめだった。本当に辛かった。竹の家では、日本兵に『なんだ、この野郎』って怒鳴られたわ。殴られはしなかったけど。

 小さなサロン一枚もらっただけで、寒かった。それと軍医がいたわ。名前はカワサキ。彼が注射したの。まだ、子どもだったから。何のための注射なのか聞けなかった。

 たくさんの兵隊が次々とやってきたわ。とにかく日本兵は人間じゃなかった。私たちを動物のように扱ったの、食事も少しだけ。魚と味噌を少し。私たちは食べられなかった。それに大根の漬物も、酸っぱくて食べられなかった。捨てると怒られたの。それで、みんな痩せていたわ。向こうで亡くなった女性もいた。寒かったからかしら。私は8カ月くらいいたかしら。兵隊たちがパレパレなどからもやって来たわ。

 私はもう歳なの。処女だった私をこんな目に遭わせておいて、これまで日本は何もしてくれないの。

 (慰安所から)帰るとき、一銭たりとも貰えなかった。遠いルーラから実家まで歩いたのよ。お金がないから、飲み物も買えなかった。私が家に戻ると、ようやく私がどこにいたのか家族にわかったのね。でも、家族は私を受け入れてくれなかったわ。ジキジキジュパン、ジョウトウ、ナイデスネ(日本人とセックスした女性は汚い)。『ジキジキジュパンは出て行け』って。その時の苦しみと悲しみは言葉では言い表せない。

 幌付きトラックで乗り付けて、子供を見つけると、手当たり次第にトラックに放り込み、連れ去る。まさか当時の日本軍兵士は70年近く後に安倍晋三が「官憲がですね、家に押し入って、人さらいのごとくに連れていくという、まあ、そういう強制性はなかった」と無罪放免してくれることを知っていて、決して家に中には押し入らずに家の外や路上で専ら拉致・連行して、強制売春の用に供していたのだろうか。家の中にまで押し入ってしたことではないのだから、無罪放免されるのだとばかりに。

 プラムディヤ・アナンタ・トゥール氏の著作、『日本軍に棄てられた少女たち』の本文の中から日本軍政監部がインドネシアの地方行政機関(県長から郡長、村長、区長)を通じて、証拠を残さないためにだろう、常に「口頭」で伝えられたという「留学」への誘いについて記述してあるニ例の概略を取り上げてみる。

 政治犯仲間のスティクノ氏が定住区の畑にいたとき、彼と同じスマラン出身と分かったスリ・スラトリと名乗る女性が現れた。

 1944年、彼女がまだ14歳のとき、勉強を続けるために東京に送ってやると日本軍が約束した。両親は当初この約束を断り続けたが、日本軍はこの拒否を「テンノーヘーカ(天皇陛下)へ楯突くのと同じ行為だ」と言って両親を脅した。反逆にも似たこの行為への罪は重く、恐ろしくなった両親は泣く泣く「留学」に同意した。

 スリ・スラトリ「1945年の初め、日本兵をもてなす軍酒場であらゆる下品な仕打ちと裏切りを受けたのち、228人が船に乗せられて、ある島に連れて行かれました。その島がブル等と呼ばれているのを知ったのはしばらくしてからです」

 日本軍が敗れると、少女たちは何の手当も与えられないまま、放り出された。スラトリは地元の村に入り、村民と共に生活する道を選択するが、地元男性の所有物となり、同時にグヌン・ビルビル地区のある村の所有物となった。

 次は政治犯仲間のスティク氏が仲間の二人から聞いた、スワルティと名乗った女性の話。

 スワルティ「私は14歳で5年制の国民学校を終えていました。そんな折、日本軍政監部が私と同い年の少女たちに東京で勉強させる機会を与えると宣伝していると聞きました。この話は学校だけでなく、郡長、村長、区長、組長といった役人を通じても広められたのです。私は228人の少女たちからなる一団の一人として、船でジャワ島を出発しました。船名や船の大きさなど覚えていません。途中、島々に寄港しながら航海を続け、最後にブル島南部に着き、上陸させられます。大東亜戦争の栄光と勝利のためという口実を前にして、私たち少女は『甘い約束』をどうしても避けられず、それどころか、強制的に宣伝に従わされました。私たちはここで、すでに周到に用意されていた寮に無理やり入れられました。スマランから入ったのは私を含めて22人です。その後は筆舌に尽くせぬ苦難の連続で、それが現在も続いています」

 ブル島についた少女たちは山々を越え、、島の最高峰カパラットマダ山の麓にある日本軍の地下壕に収容され、少女たちはこの陣地内で、経験のないまま、日本兵の野蛮さの中に投げ込まれた。

 少女たちはここで、尊厳、理想、自尊心、外部との接触、礼節、文化など、全てを失った。持てるもの全てを強奪され尽くしてしまった。

 日本軍が敗北すると、少女たちはこの地下の陣地内に取り残された。日本兵たちが知らぬ間に彼女たちを置き去りにし、姿を消した。

 確かにこの14歳の二人の少女は「人さらいのように人の家に入って」連れ去られたわけではない。日本軍政監部という当時のインドネシアに於ける政治と軍事の頂点を通して持ちかけられた「留学」への誘いに乗った。一方は天皇の名前まで使った威しに屈し、一方は大東亜戦争の栄光と勝利のためという口実に従った。

 だが、「留学」の約束は果たされず、待ち構えていたのは強制売春=「sex slaves」の境遇であった。単に「人さらい」のような拉致・連行の経緯を省いているだけで、最終結末は他の例と何一つ変わっていない。

 だからと言って、安倍晋三が言うように「強制的に軍が家に入り込み、女性を人さらいのように連れて」いかない拉致・連行・強制売春、あるいは拉致・連行を省いた強制売春に関しては従軍慰安婦強制連行の歴史的事実の事例に入らないとして無罪放免とすることができるのだろうか。

 できるとする安倍晋三の倫理観を疑わなければならない。

 因みに明治40年4月24日公布、明治41年10月1日施行当時の「刑法(明治40年法律第45号)」第224条は「未成年者を略取し、又は誘拐した者は、3月以上5年以下の懲役に処する」とある。1881年(明治14年)に制定、1908年(明治41年)再制定、1947年(昭和22年)廃止の陸軍刑法第88条ノ2は、「戰地又ハ帝國軍ノ占領地ニ於テ婦女ヲ強姦シタル者ハ無期又ハ1年以上ノ懲役ニ處ス ②前項ノ罪ヲ犯ス者人ヲ傷シタルトキハ無期又ハ3年以上ノ懲役ニ處シ死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期若ハ7年以上ノ懲役ニ處ス」とある。

 未成年の少女を拉致・連行し、強制売春に従事させていた日本帝国陸軍兵士は刑法を超える存在と化していた。拉致・連行の強行犯に関わらなくても、「留学」を餌に強制売春に追い込んだ日本軍政監部にしても、違法性の意識は持っていなかった。

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