NHKSP「忘れられた戦後補償」から見る民間被害者への補償回避は憲法第14条が定める「法のもとの平等」違反

2020-08-24 11:40:18 | 政治
  
【訂正と謝罪】

 NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」の文字起こし文、一箇所が抜けていました。訂正して、謝罪します。文字起こしする際、要所、要所に注釈を加えていくのですが、その注釈を削除するとき、文字起こし文まで削除してしまったようです。

 〈書き落としたことの付け加え〉

 広瀬修子解説者が「2年半に及んだ懇談会(戦後処理問題懇談会のこと)は民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の法律上の義務によるものではないと結論づけました。そしてその理由として今戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり、不公平、とする考え方が新たに付け加えられたのです」と述べていますが、公平な戦後処理をして、その不足費用を「戦争を知らない世代」にまで負担させれば、日本の愚かな戦争の歴史が「戦争を知らない世代」にまで引き継がれていくプラス面が出てくる可能性があります。

 「下らない戦争のツケを何で俺たちに・私達にまで支払わせるのか」

 下らない戦争を忘れたくても、忘れることはできないはず。

 2020年8月15日夜放送のNHKスペシャル「忘れられた戦後補償」を見た。当該HPには、〈国家総動員体制で遂行された日本の戦争。310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は様々な形で戦争への協力を求められた民間人だった。しかし、これまで国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象とする政策を選択してきた。国家が遂行した戦争の責任とは何なのか。膨大な資料と当事者の証言から検証する。〉と番組紹介を行っている。

 戦没者の内訳は番組では紹介していないが、

 軍人、軍属等  約230万人
 外地の一般邦人 約30万人
 空襲などによる国内の戦災死没者 約50万人――合計約310万人

 なぜ日本という国家は戦争責任を認めて、責任の代償としての国家補償を行わないのだろう。昭和天皇が自らの名前で宣戦布告の詔書を発した責任感から、そのことへの反省の言葉を国民に発したいと願いながら、当時の首相吉田茂に止められたというのも、天皇自身が「反省」すれば、当時の「大日本帝国」という国家は間違っていたとする歴史認識が成立することになるからだろう。

 なぜなら、このような場合の「反省」は間違っていたことを認める事実経過を前提とするからである。自身の言動を振り返って、正しかったか悪かったかを考えるという意味での「反省」ではない。

 要するに戦傷病者及び戦没軍人・軍属、その遺族に対する補償も、空襲被害者への補償回避も、戦争責任回避を前提としている。軍人・軍属、その遺族に対する補償は戦争責任を認めたから始めたことではない。認めていたなら、空襲被害者に対する補償も戦争責任の観点から、実施する義務を負うことになる。

 軍人・軍属は国のための戦争に尊い命を捧げたか、あるいは尊い命に身体的障害を負ったがために補償しているのであって、戦争責任とは無関係の観点に置いている。そして軍人・軍属に対する補償が厚いのは軍人・軍属を政治家や役人たちと同様に国家側の存在、国家経営の構成員と看做し、一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品と見ていることからのぞんざいな扱いであろう。

 このことが現れている発言を後で紹介する。最後に番組の文字起こし文を載せておく。

 番組は最後の方で、「現在の日本の戦後補償の全体像」を示す。

 補償   軍人・軍属など(現在までに60兆円以上)
 救済措置 引揚者 〈シベリア抑留者など(シベリア抑留者特別措置法・2010年6月16日 衆院本会議で可決、成立)〉
      被爆者 〈被爆者特別措置法・1968年5月20日公布〉
 なし   空襲被害者など

 なぜ軍人・軍属、その遺族にだけ60兆円ものカネが支払われて、空襲被害者など約30万人に対しては一切の補償は無いのかは、やはり軍人・軍属は国家経営の構成員だからだろう。国のために命を捧げて、国家を守ってくれる有難い存在である。

 だが、国を守っているのは軍人・軍属だけではない。

 番組が伝えている補償問題に関わった当時の役人の発言記録や現在のインタビュー発言などから、軍人・軍属優先・一般国民軽視の認識を窺ってみる。

 番組でも紹介されているが、1946年(昭和21年)に連合国最高司令官の指令により、重症者に関わる傷病恩給を除き、旧軍人軍属の恩給は廃止されている。ところが1953年(昭和28年)になって旧軍人軍属の恩給を復活させている。

 日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。つまり恩給復活は日本国憲法下に於いて行われた。

 最初に「日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第14条」を掲げておく、

 〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉

 引揚者は新憲法で定められた財産権を根拠に補償を要求、1957年に「引揚者給付金等補償法」が制定されて464億円が支給されることになったが、番組は支給の有無を検討した1954年から1966年までの『在外財産問題審議会』に関わった役人達へのインタビュー発言を伝えている。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為であり、地震とか津波といった天災と全く異なる。全体としての国の財政能力にはそう大きな余力はない。現実には、国民1人1人が負担するもの・・・・」

 「地震とか津波」は国・地方の対策不備によって被害を大きくすることはあっても、基本的に人間が引き起こす災害ではない。だが、戦争は国家という人間集団が引き起こし、国民を巻き込む人災に位置づけることができる。いわば戦争を計画・遂行した主催者は国であって、国民は戦争への参加者に過ぎない。当然、国家の責任が問われることになり、責任を負う一つの形である補償問題は避けて通ることはできなくなる。

 ところが、元大蔵省理財局長河野通一は「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為」だとして、日本の戦争に最初から正当性を与えている。あるいは戦争性善説を打ち出している。

 つまり戦争が生み出した国民に対する補償は戦争責任と常に結びつけた状態で議論しなければならないのだが、戦争責任論から離れた場所から、補償を「国の財政能力」の問題で片付けている。役人らしい酷薄さである。

 アメリカを相手に戦争を起こす「財政能力」もなしに戦争を引き起こした責任すら埒外に置いている。

 河野通一のもう一つの発言。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「これ(引揚者の財産喪失)は敗戦という非常事態で起こった問題であり、憲法や平和条約の個々の規定でもって法律問題にしようとすること自体が無理がある」

 戦争を引き起こし、敗戦を招いた主体、あるいは戦争、そして敗戦というを因果律を招いた主体としての国家の責任への視点を同じく欠いている。責任意識を少しでも持っていたなら、憲法でダメなら、一般法でという認識を起こすことになるが、責任意識がないから、補償に対する拒絶感しか示すことができない。
 
 森永貞一郎発言議事録(元大蔵省事務次官)「平和条約そのものが強制的に飲まされた条約なのであるのだから、このような事態による損害の補償を国に対して要求することはできない」

 ここでも平和条約は戦争を起こした結果であるという因果律をそっちのけにしている。また、戦争被害は平和条約の結果ではない。因果律を無視しているから、戦争を起こしたことの是非の認識を欠くことになる。欠いているから、当然、補償への視点を失う。

 秋山昌廣(元大蔵官僚・元防衛事務次官)「サンフランシスコ条約を締結するという公共の目的のためにね、自分たちの財産が日本の政府・国家のために犠牲になったんだというような(フッと鼻で軽く笑い)議論は、まあ、成り立ちうるわけですよね。

 政府とか大蔵省としてはこの問題が他の戦後処理問題に波及するというの相当懸念したと思いますね。注意したっていいますかね。恐れたと思いますねえ。国家が補償する、そういう、その、義務はないっていう結論は、まあー、しょうがなかったんじゃないかとおもいますねえ、うん」

 敗戦の結果、外地在住日本人は引揚げの際、財産の持ち出しを禁止された。戦争責任論に立って補償した場合、「他の戦後処理問題に波及する」から、戦争責任論には触れずに補償の義務はないことにする。

 要するに役人らしく、国家のことしか考えない。戦後の民主憲法下にありながら、国民を個人個人として扱ってはいない。

 空襲被害者に対する補償に関して。

 植村尚史(元厚生省援護課長補佐・現早稲田大学教授)「被害を一つ一つ救済していくというよりも、まあ、国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていくっていうことで、その被害はカバーされていくんだろうっていう、そう言う考え方でずっと進んできたことは確かだと思うんですね。

 法律的な意味で補償する責任っていうものは直ちにあるわけではないっていうのが、まあ、ずっと戦後からの、まあ、日本の認識だったいうふうに思っています」

 やはり戦争責任の有無を出発点としていない、国家のことしか考えない国家優先の立場に立った発言でしかない。「国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていく」という原理が常に平等・正常に機能するのかどうかを考える頭さえない。

 手を失ったり、足を失ったりして、失明したりして、社会で公平に活躍する機会を失っていた場合でも、国全体の豊かさに応じて豊かになる保証を与え得る、落ちこぼれは生じないという楽観主義を振り撒いているに過ぎない。この楽観主義が保証可能なら、格差社会など生じない。
 
 「戦後処理問題懇談会」(1982~84年)に関する各役人の発言を見てみる

 小林與三次(元自治事務次官)「個人の生命、身体、財産を中心に個人と国家の問題で議論したらいいんであって、忘れてというか、そのとき問題にしなかったものだってあるんじゃないのか」

 他人事のような発言となっている。あくまでも当時の日本国家の戦争責任の有無で議論を始め、補償の有無の結論に到達しなければなならないのに「個人の生命、身体、財産を中心」とした「個人と国家」の議論の問題だと矮小化している。

 国の戦争責任を抜いて、「個人と国家」の問題をどう議論しろと言うのだろう。

 河野一之(元大蔵事務次官)「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃあ困る。交付金をやるようなことをやりますと、やっぱり民間で広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていないんですよ。やっぱり寄こせというような議論が出てくると思うんです」

 国側の人間としての責任意識はどこにも見えない。

 番組は名古屋空襲で被害を受けた市民が補償請求の訴訟を起こしたのに対して1983年の名古屋高裁の棄却判決を紹介している。

 「戦争は国の存否に関わる非常事態であり、その犠牲は国民が等しく受忍しなけれならなかった」

 この判決も出発点は戦争性善説となっている。

 戦後処理問題を所管する総理府の事務方トップだった禿河徹映(とくがわてつえい)(元総理府次長)の発言。

 禿河徹映「国を上げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体が責任があるという意味じゃありませんけれども、まあ、国を上げて総力戦でやって、それで戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい。

 本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 「戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい」、「自力で頑張ってくださいと言うしかなかった」

 名古屋高裁判決と同じく、「受忍」せよと上からのお達しとなっている。

 であるなら、空襲被害者たちだけに「受忍」を求めるのではなく、軍人・軍属、その遺族に対しても、同じ国民として同じ「受忍」を求めるべきだったのではないのか。

 軍人・軍属、その遺族は特別扱いして、特に空襲被害者たちに「受忍」を求めるのは差別であり、「日本国憲法 第3章 国民の権利及び義務 第14条」の〈すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。〉に明らかに反することになる。

 軍人・軍属に対する補償が厚いのは軍人・軍属を政治家や役人たちと同様に国家側の存在、国家経営の構成員と看做し、一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品と見ていることからのぞんざいな扱いであろうと先に触れたが、このことは閣僚たちの靖国神社参拝に現れている。

 経済再生相の西村康稔が終戦の日の翌日に靖国神社を参拝している。

 西村康稔「英霊の方々の犠牲の上に、こんにちの日本の平和と繁栄が築かれたことは決して忘れてはいけない。二度と戦争の惨禍を繰り返してはならないことや、日本が戦後、平和国家として歩んできた歩みを、さらに進めることを改めて心に誓ったところだ」(NHK NEWS WEB)

 安倍晋三も同じような国家主義を披露している。

 靖國神社は戦没した軍人・軍属を英霊として祀っている。国家は政治家や役人、軍人・軍属だけで成り立っているわけではない。一般市民のたゆまない勤労の膨大な積み重ねも「こんにちの日本の平和と繁栄」を築く一大要素となり得ているのであって、それを「英霊の方々」だけに限定する。如何に軍人・軍属を優先しているかが分かる。

 国家主義を纏っていると、国家経営の構成員を政治家・役人・軍人、軍属のみに限定することになる。

 環境相の小泉進次郎も8月15日の午前に参拝。

 小泉進次郎「どの国であろうと、その国のために尊い犠牲を払った方に心からの敬意と哀悼の誠をささげることは当然だ」

 「その国のために尊い犠牲を払った」存在を軍人・軍属に限定していて、戦争被害を受けた一般市民は頭には置いていない。見事な国家主義である。

 戦後になっても、政治家・役人の多くが国家主義に立っているから、政戦争責任を認めず、軍人・軍属と違って、国家経営の構成員ではない一般市民である空爆被害者への補償を回避することなる。一般国民は国家経営の手持ち駒、ときには消耗品としか見ていないからだ。

 当然、個人と向き合うことを優先させているドイツやイタリアと一般市民に対する戦争補償の差が出てくる

 NHKスペシャル「忘れられた戦後補償」(2020年8月15日(土) 午後9:00~午後10:00)

 (解説)

 国家総動員体制で遂行された日本の戦争。310万の日本人が命を落としたが、そのうち80万は様々な形で戦争への協力を求められた民間人だった。しかし、これまで国は民間被害者への補償を避け続けてきた。一方、戦前、軍事同盟を結んでいたドイツやイタリアは、軍人と民間人を区別することなく補償の対象とする政策を選択してきた。国家が遂行した戦争の責任とは何なのか。膨大な資料と当事者の証言から検証する。

(文字起こし)

 (卒業写真を前に置いて)

 「卒業写真のね、塗りつぶしてますね。これです」

 広瀬修子解説「自らの下半身を自ら黒く塗りつぶした1枚の卒業写真。75年前、6歳の少女は米軍の空襲に見舞われました。そして左足を一瞬にして失いました。心と体に負った痛みを誰にも理解されないまま、少女は長い戦後を生きてきました。

 安野輝子さん「私はいつも普通になりたい、普通になりたい。いつも普通を望んでいたんですよ。人並みではないから。

 楽しいと思ったことは一回もないわ、あたし。うん、楽しいいうこと知らんもね。うれしいっていうことはいっぱいありますよ。楽しいって、どんなのが楽しいかわからへん」

 (国民が日の丸の旗を振って、列車で出征していく兵士を熱狂的に見送るシーン)

 広瀬修子解説「国家が総動員体制で遂行し、破滅への道を辿った日本の戦争。米軍の無差別空襲。沖縄での地上戦」

 石に座って震えている、体、服共に汚れた子供の姿。

 広瀬修子解説「広島・長崎への原爆投下(被害に遭った市民の姿)。そして外地からの厳しい引揚げ(行列をなす引揚者の姿)。80万人の民間人が犠牲になりました。

 民間被害者は国家補償を求め続けてきましたが、その訴えは一貫して退けられてきました(車椅子の女性。松葉杖をついた男性)」

 街でビラを配り、訴えている一群。「空襲によって手を奪われ、目を奪われ――」、

 広瀬修子解説「この75年、国はどのように戦後補償問題を処理しようとしてきたのか。今回、私達は民間被害者への補償の在り方を検討した2万4千ページに及ぶ政府の内部文書を入手しました。

 (文書内の「国の補償義務は無い」の文字。そして「受任」の文字)

 浮び上がったのは国がその責任を認めず、一人ひとりが受任すべき被害としてきた実態。補償政策の検討に当たった元官僚たちは初めて重い口を開きました」

 元総理府次長「本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 石原信雄(元内閣官房副長官)「広い範囲で戦争の被害を受けた人がいるわけですよ。それについて残念ながら、未解決のまま残っている」

 広瀬修子解説「世論もまた、補償によって尊厳を取り戻したいという民間被害者に対して冷淡でした」

 「欲張り婆さん」、「乞食根性」の文字。ヒトラーがオープンカーに乗って、ハイル・ヒトラーの敬礼。旗を振る群衆。

 広瀬修子解説「一方、日本と軍事同盟を結んでいたドイツとイタリアは国の責務として軍人も民間被害者も平等に補償してきました」

 (ドイツなのか、イタリアなのか、空襲のシーンと路上に並べられた多くの死体の映像。)

 ドイツの歴史学者「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。すべての市民に対する責任を果たすため戦争を経験した多くの国で民間人への社会システムが整えられていったのです」

 広瀬修子解説「国策を推し進めた国家はその体制に組み込まれ、被害を負った個人にどのような責任を果たすべきなのか。初めて浮かび上がる戦後史の空白です」

 東京都永田町。衆議院議員会館前の一角。毎週木曜日。ここを決まって訪れるお年寄りたちがいました」

 (キャリーケースに旗竿を持った女性。

 幟旗(「全国空襲被害者連絡協議会」?)

 防空頭巾をかぶった女性(ビラ配り)「こんにちは。先の大戦の空襲被害者が救済立法を求めています」

 広瀬修子解説「国に補償を求めてきた民間の空襲被害者たち。自分たちに残された時間は少ないと街頭で訴え続けています」

 大阪堺市 ある一軒家。女性が玄関のドアを開けて、出迎える。

 広瀬修子解説「75年前のあの夏、人生を大きく変えられた安野輝子(81)さんです。空襲で左足を失い、移動(?)するときは義足を欠かせません。当時の処置が悪く、今も切断面に豆ができるため、数日間歩けなくなることもあるといいいます」
 
 安野輝子さん「豆できたら、いくら薬をつけてもダメやから、できた豆の周囲をはさみで切るんですよ」

 (1945年7月 鹿児島県川内市の空襲のシーン) 

 広瀬修子解説「米軍による空襲は安野さんが暮らしていた鹿児島県川内市にも向けられました。県内で約3700人が命を落としました。6歳だった安野さん。爆弾の破片が直撃し、左足の膝下が一瞬にしてもぎ取られました」

 安野輝子さん「翌日か翌々日ぐらいだったかな。治療、処置室に行って、赤チンつけるだけなんですよ、治療って。だけどそのときにこのぐらいのアレ(容器)にね、多分、そのときに見たのはこれぐらいやな、そこへ私の足が浮いてたんですよ。、アルコールに漬けてあって。

 ああ、私の足やって。そのとき分かった」

 広瀬修子解説「安野さんの家族は家と財産を失い、義足を作る余裕はありませんでした。アルバムには笑顔の写真が一枚もありません」

 安野輝子さん「戦争やからしょうがないやんって言う人が結構多いんですよ。まあ、未だにありますよね。戦争やからしょうがないとかね、うん。

 物凄く最初はそんなんばっかりでしたよ。『気の毒やったね、残念やったね』とかは言うても」

 広瀬修子解説「アジアや太平洋諸国に甚大な被害を出し、日本人だけで310万人が犠牲となった先の戦争」

 (空襲、撃沈される日本の軍艦、訓練場の行軍する日本兵。白馬に跨る昭和天皇。戦車の横で1人は直立不動で、1人は抜いた軍刀を斜め下に向けて恭順を示している。捧げ銃の兵士集団)

 広瀬修子解説「国は戦場で命を落とした軍人や軍属、その遺族などに対し、これまで60兆円の補償を行ってきました」

 (上陸用舟艇から海岸に次々と上陸する米兵、)

 広瀬修子解説「しかし戦況の悪化に伴なって大きな犠牲を払うようになった民間人は補償の対象にしてきませんでした」

 沖縄戦での火炎放射器。崖から飛び降りる日本人女性。爆弾を次々と投下する米軍機。)

 広瀬修子解説「戦時中、米軍は日本の200箇所以上の都市を狙った空襲。民間人の被害の全貌は明らかになっていません」

 (日本人死屍累々の様子。米軍艦船からの火を吹く激しい艦砲射撃。)

 広瀬修子解説「多くの命を奪われた沖縄戦(顔を服も汚れて、一人取り残されて震える子供)。戦後、国が戦闘に参加したとみなした民間人の一部は補償の対象になりましたが、4万人が枠組みから外されました。

 広島と長崎で原爆で亡くなったのはその都市だけで21万人にのぼり、多くの人々が後遺症に苦しめられました。大東亜共栄圏の建設を謳った戦前の日本。外地では戦争や終戦の混乱の中、30万人が死亡。320万人が引揚げを余儀なくされ、財産を失いました。

 国家総動員体制のもと、総力戦に参加したのは軍人・軍属だけではありません。(バケツ消火訓練)老若南女を問わず、様々な形で戦争への協力が求められた民間人。しかし国はその被害への補償は一貫して避け続けてきたのです」

 キャプション 「民間被害者(空襲被害者 被爆者 引揚者 シベリア抑留者など)」

 広瀬修子解説「10万の人々が一夜のうちに犠牲となった東京大空襲。海老名香葉子(86歳)さんは両親を始め家族6人を失いました」

 海老名香葉子さん、薄いサングラスをかけ、背中を少し丸めて、花束を持って、街を歩いている。

 海老名香葉子さん「ここはもう焼死体で山のようになっていたらしいですね。だから、(家族は)身元不明者の中に入っているか。親の骨ぐらい拾いたいな。

 ちょっと待って下さい(3人の女子小学生を呼び止める)。2年生。そう」

 広瀬修子解説「11歳で孤児になった海老名さん。家族は自宅近くで命を落としたと言われていますが、詳しいことは分かっていません。敗戦後の混乱の中、周囲が止めても、家族の足取りを捜し続けました」

 海老名香葉子さん「こちらの塀はもう少し向こう寄りでしたね。ですから、これを乗り越えて、この間で(みんな)尽きたんでしょうね。(花を覆っていた紙を剥がし、一輪の菊を塀の隙間から塀の内側に立て掛ける。)」

 広瀬修子解説「海老名さんたち被害者は遺骨の調査だけでもしてほしいと国や東京都に訴え続けてきましたが、叶いませんでした」

 海老名香葉子さん「ずっと歩いて、歩いて、歩いて、もうダメだって諦めたんです。もうダメだって、お役人様はダメだって。諦めました。諦めて、自分でここだって所は掘り起こしてでも探そうっていう気持ちでいたときもありました。

 こんな土饅頭になっているところを一生懸命ほじったこともありました。『バカなことしてるな』って言われましたけど、けれども夢中でしたから。「そんなことをしたら、大変なことになっちゃう』と言われたんですけどね。頭がそうなっちゃってたから。

  (米軍の爆弾透過のシーン)

 広瀬修子解説「なぜ国は民間被害者への補償を避け続けてきたのか。今回私達は終戦直後から1980年代にかけて政府が民間被害者への補償を検討した膨大な記録を入手しました。

 その一つ、『在外財産問題審議会』の議事録です。民間被害者への国の姿勢の起点になっているのが外地からの引揚者に対する補償問題でした。(外地での引揚者の長い列。)

 サンフランシスコ平和条約(1951年調印)で海外で暮らしていた日本人の財産、在外財産を連合国の手に委ねることを決めた日本。(調印する吉田茂)それに対し、引揚者は新憲法で定められた財産権を根拠に補償を要求(引揚者団体全国連合会集会)。国は対応を迫られたのです。『在外財産問題審議会』(1954~1966年)では1954年から10年以上に亘り国に補償の義務があるかどうか、検討していました」

 字幕「国の補償義務の有無を検討」

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「戦争というものはよきにつけ、あしきにつけ、国の公の行為であり、地震とか津波といった天災と全く異なる。全体としての国の財政能力にはそう大きな余力はない。現実には、国民1人1人が負担するもの・・・・」

 広瀬修子解説「大蔵省の交換たちは国家補償を避けるための憲法解釈を議論していました。

 河野通一発言議事録(元大蔵省理財局長)「これ敗戦という非常事態で起こった問題であり、憲法や平和条約の個々の規定でもって法律問題にしようとすること自体が無理がある」

 森永貞一郎発言議事録(元大蔵省事務次官)「平和条約そのものが強制的に飲まされた条約なのであるのだから、このような事態による損害の補償を国に対して要求することはできない」

 広瀬修子解説「審議会では日本の独立型(?)の講和条約は憲法の枠を超える処理だと結論づけました。財産権を根拠にした引揚者の訴えは認められず、補償の義務はないとしたのです。

 元大蔵官僚で、この審議会の事務局にいた秋山昌廣(元防衛事務次官)さんが取材に応じました。引揚者に補償を行えば、ほかの民間被害者にも扉を開くとして、一線は譲れなかったと証言します」

 秋山昌廣「サンフランシスコ条約を締結するという公共の目的のためにね、自分たちの財産が日本の政府・国家のために犠牲になったんだというような(フッと鼻で軽く笑い)議論は、まあ、成り立ちうるわけですよね。

 政府とか大蔵省としてはこの問題が他の戦後処理問題に波及するというのを相当懸念したと思いますね。注意したっていいますかね。恐れたと思いますねえ。国家が補償する、そういう、その、義務はないっていう結論は、まあー、しょうがなかったんじゃないかと思いますねえ、うん」

 広瀬修子解説「国に補償する義務はないというこのときの結論はその後も民間被害者の高い壁になっていきました」

 (東条英機「天皇陛下バンザーイ」

 学生らで満席の競技場(?)で行進する兵士。勤労奉仕の女学生)

 広瀬修子解説「実は戦時中の日本は民間被害者に対して救済措置を設けていました。『戦時災害保護法』。空襲などによる民間被害者に金銭的な手当をしていたのです。民間人に戦争協力を促し、総力戦の士気を維持するための措置でした。

 しかし戦後、GHQ、連合国軍総司令部は軍国主義の温床になっていたとして戦時災害保護法を軍人恩給と共に廃止しました。軍人恩給とは国家と雇用関係にあった軍人や軍属への年金のような補償制度です。

 GHQは軍人・軍属、民間人も、社会保障を充実させることで等しく扱う政策を採ったのです」

 広島 福山

 広瀬修子解説「軍人・軍属の夫や息子をなくした戦没者遺族もまた、国の補償政策の転換で苦渋を舐めました。桒田シゲヨさん。104歳です。夫の幸太郎さんは10年以上、前線を転々とした末、中尉のとき、沖縄戦で亡くなりました。」

 NHK男性「後ろは旦那さんですか」(軍人姿の写真)

 桒田シゲヨさん「うん。ええ人じゃったよ。ちゃんとした人じゃったよ。なーんか夢に出てきたり、それからこんだ、まあ、生きとったらなあ」

 広瀬修子解説「働き手を失った桒田さんは幼い子供を抱え、厳しい生活を強いられていました」

 ユダヤ人への虐待が行われたアウシュビッツ強制収容所で見つかった謎のメモ。

 「大量虐殺を目撃した。私達は殺されるだろう」

 桒田シゲヨさん「(色褪せした写真を見ながら)長男、次男、私。30なんぼでしょうかなあ。私がメソメソしちゃいけん。泣いちゃいけん思うて、ごはん食べるときはお茶でもかけてばさばさと反対側の方を向いて涙みせんようにし、牛を飼いよって、天井にわらがアリや、そこへ行って、牛を飼うような格好をして、わらの中で大声で泣いておったですよ」

 NHK男性「やっぱり旦那さんを愛していらっしゃったから」
 
 桒田シゲヨさん「愛しとったいうか、尊敬しとったいうんかな、。愛ということじゃない。尊敬しとったんかな」

 広瀬修子解説「苦境に喘ぐ戦没者遺族。(広島公文書館)補償を復活させるために行政は大きな役割を果たしていたことが広島市に残されていた公文書から明らかになってきました。広島県がGHQの占領下だった1949年(8月)に各市町村に出した通達です。

 戦前、軍人やその家族への保障を担っていた行政がGHQの方針の陰で戦没者遺族を組織化、財政的支援まで行っていたのです。

 「朝日ニュース」映画 (「遺家族の叫び (東京 神奈川) 戦没者遺族大会 1952年1月)

 ニュース広解説「二十日には全国から遺家族代表約800人が東京に集まり・・・・」

 広瀬修子解説「各地で結成された遺族会は補償を求め、国への働きかけを強めていきました。そして日本が独立した2日後、戦没者遺族を支援する援護法(「戦傷病者戦没者遺家族等援護法」)が公布。翌年(1952年)には軍人恩給も復活しました。

 当初、戦犯は補償が制限されていました。厚生省の内部文書からそれが覆された過程も分かってきました。(キャプション「元陸海軍の士官など厚生官僚」)旧軍部の流れを汲む厚生省には陸海軍の士官クラスが横滑りし、強い影響力が温存されました。

 軍出身の官僚が世論工作を行い、戦犯の名誉回復や支援活動を後押ししていたのです。

 復活した恩給制度は戦前の陸海軍の階級格差が反映されていました(キャプション「公務扶助料統計表」1955年3月末)。大将経験者の遺族には戦犯であっても、兵の6.5倍を受賜(じゅし))し、閣僚経験者に対しては(キャプション「陸軍大将 東条英機538,560」(単位円))現在の貨幣価値で年1千万円前後が支払われました。その一方、旧植民地出身の将兵は恩給の対象から外されたのです。

 沖縄戦で夫を失った桒田シゲヨさんは恩給が復活した67年前のことを覚えています。夫の恩給は当時年に3万8千円余り(「恩給証書」の映像)。現在の貨幣価値でおよそ75万円でした」

 桒田シゲヨさん「これが命の交換かいうような感じもしましたよな」

 (国会議事堂の映像。署名活動)

 広瀬修子解説「終戦後、戦没者遺族と同じように辛酸を舐めていた民間被害者たち。国家補償は一貫して阻まれてきたため、何らかの救済措置だけでも実現させてほしいと訴えています。空襲被害者などのための超党派(空襲)議連の会長を務める河村建夫元内閣官房長官。民間被害者の救済は戦後日本が積み残してきた課題だと言います。

 河村建夫「この問題、戦後の総決算としてやっぱり放置すべきではないんではないかという思いがありました。国が何かの形で慰謝する仕組みを作ったらどうかというのが皆さんのご意見でありましたので、そういう特別給付金考えたらどうかという、それを考えながら、一応の法案を形を整えてきておりますので、これを進めていかなければいけないと思っております」

 広瀬修子解説「(キャプション「東京大空襲・戦災資料センター」東京 江東)なぜ空襲被害者は目を背けられ続けたのか。被害者が全国組織を結成したのは終戦から27年が経った1972年のことでした。世論に訴えるためにその活動を記録したおよそ20時間に及ぶ映像が残されていました」

 車椅子に乗っている中年女性の映像。その横に左眼が失明しているのが、眼帯をした同年齢くらいの女性。キャプション「全国戦災障害者連絡会の活動 1972年~」

 男性活動家「あの忌まわしい、悪魔のような30年前の・・・・(聞き取れない)空襲によって――」

 広瀬修子解説「日本はGNP、国民総生産で世界第2位になるなど、財政的にも余裕が生まれていた時代でした。(片足をなくし、松葉杖をついて通行している被害者の一人)空襲被害者は厚生省などに軍人・軍属と同様の補償を実現する法律や被害の実態調査を求めました。多いときで750人いた会員たちは国や世論に働きかけるために封印してきた辛い記憶を告白しました」

 藤原まりこさん(大阪市)(左足を失い、椅子に座り、腿から下の義足を膝に抱えている。映像)「年頃でね、トイレもね、やっぱししにくくて、足を投げ出してせなあかんし、スカートを履きたいし、脚も曲がるしね、中学2年のとき、思い切って(脚を)切断したんです」

 広瀬修子解説「しかし全国に散る被害者たちが後遺症を抱えて活動を広げていくことは容易ではありませんでした。(キャプション「愛知県 名古屋」)7歳のとき、足に大ヤケドを負った脇田弘義さん(82歳)は歩行が困難になりました」

 (妻の腰に両手を回して抱きつき、妻がその手を持って膝をついたままの夫を引きずって家の中を移動させる、あるいは膝を曲げたままの姿勢でついた手で、「よいしょ、よいしょ」と体を前へ持っていって移動する映像。)

 妻きみ枝さん(77歳)「つかってあげるわ。引っ張っていってあげるわ」

 脇田弘義さん「重たいぞ」

 広瀬修子解説「脇田さんは補償を得て、暮らしにゆとりを持つことに期待を抱いていました。しかし会に加わっても、思うような活動はできませんでした」

 脇田弘義さん「苦しい。動けない。1人じゃ行けないじゃん。行きたいけど、行けれん」

 広瀬修子解説「その頃(若い頃)の脇田さんを記録した映像です。障害に対する理解が今以上に乏しかった当時、妻のきみ枝さんが外で働き、脇田さんは子育をしながら、服の仕立ての内職をしていました。生活が逼迫する中でいつ実現するかもわからない補償を求める活動は重荷になっていきました」

 妻きみ枝さん「行くとなると、みんな連れていかないかんし、1人だけじゃ行けれんもんでね。お父さんも車椅子に乗せて、子供を放っておけないから、連れて、時間がなかったんね。生活の方が一杯で」

 広瀬修子解説「空襲被害者たちの当初の希望は次第に失望に変わっていきました。浜松空襲で受けた傷の後遺症で苦しむ木津正男(93歳)さんです。地元で空襲被疑者の会を組織し、補償を求めて手弁当で活動に参加してきました。木津さんたち地方の被害者も何度も上京し、官庁に陳情。しかし門前払いに終わりました」

 木津正男さん「大蔵省も行きましたよ。もう一発で断られましたね。厚生省も玄関払い。1日で3軒か4軒回ったね。いきなりお払い箱で、それでもうダメだった。もう皆さん、遅すぎたと。もう時効じゃない?早く言えば。そこまで知恵が回らんじゃん。自分の体で自分の体が動けんだもん、言うこと利かんだもん。

 だって、手がない人は書けんじゃん。書きたくたって。足悪い人は歩けへんじゃん」

 広瀬修子解説「当時厚生省(元厚生省援護課長補佐・現早稲田大学教授)で戦後補償問題に関わっていた植村尚史(うえむらひさし)さん。財政規模は高度成長で拡大したものの、被害者への補償を検討する機運はなかったと言います」

 植村尚史「被害を一つ一つ救済していくというよりも、まあ、国全体が豊かになり、人々の生活がよくなっていくっていうことで、その被害はカバーされていくんだろうっていう、そう言う考え方でずっと進んできたことは確かだと思うんですね。

 法律的な意味で補償する責任っていうものは直ちにあるわけではないっていうのが、まあ、ずっと戦後からの、まあ、日本の認識だったいうふうに思っています」

 広瀬修子解説「行政だけではなく、司法も民間被害者の訴えを退けて行きます。1983年、名古屋空襲訴訟に対する高裁の判決です。『戦争は国の存否に関わる非常事態であり、その犠牲は国民が等しく受忍しなけれならなかった』として訴えを棄却。

 そして後に最高裁(名古屋空襲訴訟 1987年判決)は戦争被害に対する保障は憲法が全く予想していないものと結論づけました。

 民間被害者への補償を避け続けてきた日本。しかし世界に目を転ずれば、その戦後補償の在り方は異質でした」

 アドルフ・ヒトラー「我々は国家とともに歩み、我々のあとに輝かしいドイツができるのだ」

 広瀬修子解説「同じ敗戦国のドイツでは連合国軍のベルリンへの空襲などでおよそ120万人の民間人が犠牲になりました。しかも領土縮小で財産を失った引揚者が1200万人以上いました。戦争終結の5年後(1950年12月20日)、西ドイツは連邦援護法を制定。国は全ての戦争被害に対する責任があるとして国や民間人といった立場に関係なく、被害に応じた補償が行われてきたのです。

 同じく枢軸国だったイタリア。犠牲となった民間人はおよそ15万人に及びます。戦後、財政不安に陥ることが多かったイタリアにとって補償は容易なことではありませんでした。しかし1978年、民間被害者に軍人と同等な年金を支給する関連法(戦争年金に関する諸法規制の統一法典)を制定。例え補償額が少なくとも、国家が個人の被害を認めることを重視したのです(キャプション「国が当然持つべき感謝の念と連帯の意を表すための補償」)。

 コンスタンティン・ゴシュラー教授(ボーフム大学歴史学部)「個人の被害に国が向き合うことは民主主義の基礎をなすものです。国家が引き起こした戦争で被害を受けた個人に補償することは国家と市民の間の約束です。

 第二次大戦は総力戦で、軍人だけではなく、多くの民間人が戦闘に巻き込まれて亡くなりました。軍人と民間人の間に差があるとは考えられなかったのです」

 菊の御紋がついた大扉、靖国神社。

 広瀬修子解説「ドイツやイタリアと違い、軍と民の格差が時代とともに拡大ていったのが日本の戦後補償でした。今回、その役割を中心で担った人物が遺した、補償に関する大量の資料が見つかりました」

 矢追則子(板垣征四郎の孫)「ここには征四郎の遺品などをここに置いています」

 広瀬修子解説「満州事変を引き起こし、のちに陸軍大臣にもなった板垣征四郎(元陸軍大将)。東京裁判でA級戦犯として死刑になりました」

 矢追則子「これが(囚人服)板垣征四郎の遺品ですね。(囚人番号766T)。(アルバムの二人並んだ写真)これ父ですね。これが征四郎で、これが正ですね」

 広瀬修子解説「征四郎の息子正。国内最大の遺族団体、日本遺族会の事務局長を務めました。板垣正は最大で125万世帯の会員を率い、のちに参議院議員としても軍人・軍属への補償の拡充に当たりました。

  矢追則子「生き残った者同士の使命として遺族さんのために奉仕するというか、その人達の思いを踏みにじるようなことがあってはいけないみたいな、生き残りの自分がやらなければいけないことなんだと言っていました」

 広瀬修子解説「軍人や軍属に対する補償は年々積み増しされていきます。様々な加算制度や一時金整備、恩給の他にも新たな給付金が設けられていきました。物価に合わせた増額と対象範囲の拡大で補償額は一気に拡大していくことになりました。

 板垣は金銭的な補償だけではなく、遺族への精神的な支援にも力を注ぎます。

 矢追則子「(アルバムの写真)これは遺骨収集団ですね。よくね、行ってましたね、遺骨収集は。作業服で遺骨を集めている写真とか」

 広瀬修子解説「遺骨収集や戦没者の慰霊巡回などの事業も年々拡充されていきました。

 矢追則子「父が何か日記というか」

 広瀬修子解説「遺品の中に残されていた板垣の日記。戦没者遺族への強い思いが記されていました。『国家存立の基礎は、国のため死も辞さぬ精神である。犠牲的精神・献身的精神をこそたたえたい』

 軍人・軍属に対する補償制度を担い、総理府の事務方トップ(元総理府次長)も務めた海老原義彦さんです。日本の戦後補償はある一面では被害者の組織力が方向づけたと打ち明けました」

  海老原義彦「(戦没者遺族は)『国のために夫をささげて、戦後の辛い中を子どもたちをどうやって育てるか、もう涙ながらの物語があるんですよ』というようなことをおっしゃるわけですよね。『そういう中を潜ってきた我々をね、見殺しにするんですか』

 政治家としてはこれは無視できないと言うか、むしろ積極的に要求の趣旨に賛同して動いた方が自分のためにもなるし」

 広瀬修子解説「民間被害者たちは社会から忘れられていきました。鹿児島県川内市の空襲で6歳のときに左足を失った安野輝子さんです。中学校に通えなかった安野さんは13歳のときに大阪に引っ越し、洋裁の仕事を始めました。

 空襲の会を記録した映像の中に安野さんの姿もありました」

 (本人の説明とキャプション「昭和20年7月16日 鹿児島県川内市にて被災 左脚下腿切断」)

 広瀬修子解説「安野さんは一人の人間として社会に受け入れてほしいと考え続けていました」

 パソコンで空襲の会を記録した映像を再生している。

 安野輝子さん「これ、私。(右隣の女性を指し)で、片山さん」

 広瀬修子解説「会で出会った片山靖子さん。5歳のとき、大阪大空襲で顔や手に大やけどを負いました。安野さんにとって同い年で同じ悩みを抱える片山さんを何でも話せる仲間でした」

 安野輝子さん「ようはっきり覚えているけど、彼女はスラっとしてな、足もきれいし、長いんですうよ。何でこんなあれがです。(片山さんが)『輝ちゃんいいね、顔どうもないから』って。(私は)『足あかんや』言うて。

 彼女は物凄いきれいな長い足や。歩いているとき、そんな話をしたことありましたわ」

 広瀬修子解説「顔や手の傷跡を気にしていた片山さんはずっと人前に出ることを避ける生活を送っていました」

 テーブルを挟んで椅子に座っての会話。

 男性「それ(手術)の費用は全部自費いうことでしょう?」

 片山靖子さん「勿論です、ええ」

 男性「これが美容整形に入るって、どないしても納得できませんね」
 
 片山靖子さん「ええ」

 広瀬修子解説「彼女たちにとって補償とは生きている証を求めることにほかなりませんでした」

 安野輝子さん「そんでまあ、ちょっと、まあ、そんな、あれやけど、結婚したいなと思う人があったんかな。そんなこと聞きましたね。手もあれ(やけど)していたけど、きれいな字も書けるし、機能性ってあんまり失ってないんやけど、せやけど顔もケロイドやし、手もこんなやから、『世間には出られない』っていうことは言ってたし」

 広瀬修子解説「二人が出会って6年目、活動への理解が広がらない中で片山さんは自ら命を絶ちました。40歳でした」

 空襲被害者の会 会報 片山靖子さんの突然の死(10月2日)

 安野輝子さん「亡くなった日は朝電話貰ってな、彼女が亡くなったって聞いたとき、仕事やったから、午前中ひとり先行って、お参りしてきたってことありましたわ、うん。

 何でやねん、彼女あんなに『頑張ろう』って言うてたのに思うて、みんなつらい日してるけど、彼女はずっと凄い気にしてたし、そやけど、会に入ってよかったって言ってたし、一緒に頑張ろうってあんなに言うてたのにーと思って」

 広瀬修子解説「空襲被害者の会にとって国会も壁になっていました。補償を実現させるための法案(「戦時災害援護法案」)は1970年代から14回に亘り提出されましたが、全て廃案になりました。

 この頃、空襲被害者たちに届いた手紙が残されていました。心無い世論が被害者の気力さえ奪っていきました」

 届いた手紙・男性の声で「生きているだけでも有難いと思え」

 届いた手紙・女性の声で『戦争で苦しんだのはお前たちばかりではない。国家の責任にし、金をせびろうとする浅ましい乞食根性」
  
 届いた手紙・男性の声で「欲張り婆さんが。今更何を言っている。そんなに金がほしいのか」

 広瀬修子解説「戦争から30年以上が経過した1980年代(竹の子族の路上パフォーマンス)(キャプション「戦後処理問題懇談会(1982~84年)」)。国は戦後補償問題に区切りをつけようとします。

 外地からの引揚者やシベリア抑留者の求めに応じて設置された『戦後処理問題懇談会』。その検討記録を独自に入手しました。当初はあらゆる民間被害者について検討し直すべきだという意見も出ていました」

 小林與三次(元自治事務次官)「個人の生命、身体、財産を中心に個人と国家の問題で議論したらいいんであって、忘れてというか、そのとき問題にしなかったものだってあるんじゃないのか」

 広瀬修子解説「しかし委員の殆どが救済対象を絞る方向に議論を進めていきました」

 河野一之(元大蔵事務次官)「パンドラの箱を開けるようなことになっちゃあ困る。交付金をやるようなことをやりますと、やっぱり民間で広島の原爆で死んだのが何万とおるわけですね。そういう人は何も受けていないんですよ。やっぱり寄こせというような議論が出てくると思うんです」

  広瀬修子解説「2年半に及んだ懇談会は民間被害者への補償のみならず、救済措置も、国の法律上の義務によるものではないと結論づけました。そしてその理由として今戦後処理をした場合、費用の多くを戦争を知らない世代が負担することになり、不公平、とする考え方が新たに付け加えられたのです・

 戦後処理問題を所管する総理府の事務方トップだった禿河徹映(とくがわてつえい)(元総理府次長)さん。当時の判断について初めて証言しました」

 禿河徹映「国を上げて国民全体がこの戦争に取り組んだことが事実で、別にそれで国民全体が責任があるという意味じゃないありませんけれども、まあ、国を上げて総力戦でやって、それで戦争に負けて、無条件降伏をやった、そういうことですから、国民等しく受忍をね、まあ、受忍という言葉をよく使いますけれども、やっぱり我慢して、耐え忍んで、再建を、復興を個人個人で、それを基本にしてして頑張ってもらいたい。

 本当に気の毒で、気の毒で、気の毒だけれども、自力で頑張ってくださいと言うしかなかったんですね」

 (映像 『戦後処理問題懇談会』検討記録一部「前述のとおり、戦争損害の公平化に関する措置は、国の特別の施策によるものであって、法律の義務によるものではないと考えるが、なおこのことは個々具体的に検討を要する。」)

 広瀬修子解説「戦争被害への責任を棚上げしたまま、戦後を歩んできた私達。1990年代に被爆者への援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)が制定されたとき、内閣官房副長官を務めていた石原信雄さんです」

 1994年「国家補償にもとづく原爆被爆者援護法を制定せよ」の横幕を掲げて街頭活動をする一団の映像

 キャプション「被爆者援護法 制定 1994年12月」

 広瀬修子解説「被爆者たちは国の責任を問うためにあくまで国家補償を求めていました。当時石原さんらが念頭に置いていたのは日本に補償を求め始めていたアジアの被害者たちの動向です。国は救済措置として金銭的手当はしたものの、国家補償という形はあくまで選択しませんでした」

 石原信雄「政府が一定の範囲の人について補償措置を講ずれば、当然、そういう問題に火がつくことはあり得るわけで、想定されておったわけですけど、アジアの人たちが、補償要求する人たちがいるであろうということは分かっていましたよ。

 だからやっぱりね、結局(国内の)戦争犠牲者に対する政府の補償措置というのは極めて限定的であったと。特定の範囲の人しか対象になっていない。これは残念ながら認めざるを得ないんですよ。その典型的な例が原爆被爆者援護法ですよ。それよりもっともっと広い範囲で戦争の被害を受けた人がいるわけですよ。

 それについて残念ながら未解決のまま残ってる。これはもう認めざるを得ないですね」

 広瀬修子解説「現在の日本の戦後補償の全体像です」

 補償   軍人・軍属など
 救済措置 引揚者 被爆者 シベリア抑留者など
 なし   空襲被害者など

 広瀬修子解説「軍人・軍属などへの補償はこれまで60兆円以上、救済措置を取られた民間被害者もいましたが、その規模は限定されていました。

 先の戦争から75年。軍人・軍属やその遺族への補償の拡充を求めてきた日本遺族会です」

 水落敏栄(日本遺族会会長、参議院議員)「戦後75年になりますよ。国民の8割以上が戦後生まれで、あの戦争が人々から忘れ去られようとしています」

 広瀬修子解説「今、日本遺族会の会員は57万世帯にまで減少。解散を余儀なくされる地域も出ています」

 戦没者の女性遺児「うちはね、マレー半島のボルネオというところで亡くなって、父親の顔は全然知りません」

 戦没者の女性遺児「私の父親なアッツ島です。私はあまり感じなかったですが、母親がひとりであれですからねえ」

 広瀬修子解説「国内最大の遺族会からも戦争は遠ざかろうとしています。あらゆる補償の枠組みから外されてきた空襲被害者たち。救済法案の実現を目指す超党派の議員連盟(キャプション「空爆被害者等の補償問題について立法措置による解決を考える議員連盟」)です。

 柿沢未途「75年という機会を迎えておりますので、何とか前に進めてまいりたい」

 広瀬修子解説「軍人・軍属やその遺族への補償は厚生労働省が担当していますが、空襲被害者に関しては今なお担当省庁さえ決まっていません」

 平沢勝栄「政府としてはどこが所管するのがいいんですかね。総務省なんですか、厚労省なんですか、内閣府なんですか」

 不規則発言「このままだと前に進まないんだよ」

 衆議院法制局「まあ、あの、所管としては厚生労働省を想定するような(法案の)要項となっておるところでございます」

 厚生労働省「(空襲被害者など)一般戦災者の方々については対象としていないということでございまして、私どもの所掌からははみ出ているという、現状についてはそういうことになっています」

 議員が個々に発言というよりも呟く。「つくったらできる」 「法律を作ればできるんです」
 
 広瀬修子解説「議員連盟は救済法案の国会提出を目指していますが、今年も実現できていません」

 東京大空襲でん家族6人を失った海老名香葉子さんです(墓参りして花を供え、数珠をこすって墓に祈る)。地元の被害者が祀られた場所に足繁く通っています。6人の家族がどこで亡くなったのか、今もわかっていません。民間被害者たちの戦争は今も終わっていません」

 海老名香葉子さん「心の中じゃね、親のことを思うと、やっぱり涙が出ます。いくつになっても、こんなおばあさんが、80過ぎのおばあさんが夢の中で母が出てくると、『母ちゃーん』って朝起きて泣いています。もしかしたら、今もどこかに生きているかもしれない。こんなおばあさんになっても、未だにそう思います。どこか病院にいるんじゃないかなあとかね」

 広瀬修子解説「7月16日の午後。75年前のこのとき、安野輝子さんは空襲で左脚を失いました。この日安野さんは自立するために覚えた洋裁でマスクを作っていました」

 安野輝子さん「お世話になった人で適した人があったら、差し上げようと思って」(ミシンでマスク作り)

 広瀬修子解説「新型コロナウイルスに不安を抱える友人に配りたいと考えていました」

 安野輝子さん「今日やったんや、75年前の。今日、セミ少ないね、今は(ミシンの前から庭を振り返って)」

 広瀬修子解説「失われていく残された時間。活動を共にしてきた仲間の多くが既にこの世を去っています」

 安野輝子さん「何だっただろうと、自分でも思っているぐらいやから、この75年。日常的にはほとんど忙しくしていましたね。まあね、そんなに悪い・・・・(暫く沈黙)いい人生だったとは言えませんね。ほかに方法はなかったんかなと思ったりもあるから。でも、まあまあじゃないでしょうか」

 広瀬修子解説「国家が遂行したあの戦争であまりにも多くの人々が犠牲になり、あまりにも多くの人々が痛みを抱えたまま生きることを強いられました。国も、私達も、その責任から目を背けたまま、75年目の夏がまた過ぎ去ろうとしています」

 安野さんのマスクづくりの映像が流れ続ける(終わり)

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