尾木直樹のニセモノの教育者であることが分かる埼玉・三郷市立新和小学校オーサー・ビジット授業

2025-01-31 06:49:33 | 教育

 尾木直樹のオーサー・ビジットでの自己経験による、"自己決定から自立へのプロセス論"は悪臭フンプン

Kindle出版電子書籍「イジメ未然防止の抽象論ではない具体策4題」(手代木恕之著/2024年5月18日発行:500円)

 その教育思想が学校のイジメと不登校の認知件数の著しい低下に役立ち、世の学校教師や保護者から並々ならぬ感謝と称賛を受けている人気教育評論家の尾木直樹が本の著者が学校を訪ねて特別授業をする「オーサー・ビジット」を2019年12月も行っている。

 《自己決定が自立への道 教育評論家・尾木直樹さん@埼玉・三郷市立新和小学校》(朝日新聞社運営本の情報サイト「好書好日」/2020.02.23)

 先ず次のように紹介している。

 〈文・安里麻理子 写真・首藤幹夫

 本の著者が全国各地の学校で特別授業をする朝日新聞社主催の読書推進事業「オーサー・ビジット」。「尾木ママ」としてテレビやラジオでもおなじみの教育評論家・尾木直樹さんは昨年12月に三郷市立新和小学校を訪れ、5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。(このビジットはベルマーク教育助成財団との共催です)〉云々⋯。

 この"オーサー・ビジット"が5、6年生対象だということが分かる。高学年相手だから、それなりに中身の濃い、高度な言葉の伝達だったに違いない。このことは次の言葉から認めることができる。

 〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉――

 この学校に教師として赴任している訳ではないから、生徒の日常に寄り添うことなどできない。ほんのいっときの寄り添いしかできないが、5、6年生の心に深く突き刺さる、感銘を与える言葉を発信できたから、それが心にいつまでも刻み込まれて、その言葉と共に生きることになる結果、尾木直樹がその場に存在していなくても、いつまでも日常に寄り添っている状況を作り出していると予測できる。その予測可能性が、〈5、6年生のこころと日常に寄り添った熱い授業を展開した。〉という確信を持たせた表現とすることができたのだろう。

 この"オーサー・ビジット"は授業対象の児童に対して事前にアンケートを取る形式を採用しているらしい。そのアンケートには、〈「どうしてママになったの?」という質問が多く、それに答える形で授業は始まった。〉と、そのことを第一声として伝えている。

 〈発端は2009年の年末、明石家さんまさんの特別番組に、教育問題を語る専門家として出演したときだった。さんまさんに突然、「あんた、飲み屋のママに似てる。ママ、ママ~」と連呼され、当時、私立大学の教授も務めていた尾木さんは仰天。「やだ、まじめな研究者のイメージが崩れちゃう! 大学もクビになるかも」

 必死に阻止したものの、あたふたする様子がウケて、バラエティー番組から引っ張りだこに。「あのときの1秒でママになっちゃったの」

 ただ、そうして広く顔が知られたことにより、教育や子育てに関する専門的な話も、たくさんの人に聞いてもらえるようになったという。〉と、テレビ番組出演時の言葉遣いが、いわば"おネエキャラ"の発端となったイキサツを紹介している。

 このおネエキャラが関心の的となって、尾木直樹の教師長年勤務の経験に基づいた簡明にして子どもの成長に向けて役立つ教育論に触れるキッカケを提供することになり、その教育論が与える有用性の実感によって多くの小・中・高生、学校教師、保護者に歓迎される状況を作り出しているのだろうから、明石家さんまの貢献は日本の教育界に大きな足跡を残していることになる。

 尾木直樹はこの経験を財産として、「人生ってそんなふうに、いつ、どこで何が起きるかわからない。だから、そのときそのときを精いっぱい生きておくことが大切」という貴重な教訓を自ら手に入れることになり、その教訓を小・中・高生、学校教師、保護者に機会があるごとに伝えていて、今回のオーサー・ビジットでも伝えることになったということなのだろう。

 まさかおネエキャラだけが受けているという訳ではあるまい。

 記事がこの教訓を大学教員を含めて中学、高校と40年間の教員生活を通して、「教育現場に情熱を傾けてきた尾木さんの実感だ」と共感し、讃えているのは当然中の当然なのだろう。

 アンケートには「勉強しろと言われるとやる気をなくす」という悩みも多くあったとしている。

 尾木直樹「私も同じという人は?」
 ほぼ全員が手を挙げる。
 尾木直樹「では、後ろの保護者の方で、勉強しなさいと言ったことがない人は? あ~ら、1人もいない」
 子どもたちのニヤニヤが止まらない。

 尾木直樹「なぜ、やる気をなくすのか。答えは明確です。自分で決めたことではないから」

 解説、〈尾木さんによると、5、6年生といえば思春期に入る年頃。体も心も変化する。「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響するの」〉

 尾木直樹「どんなとき、親に反抗する?」
 5年生「やりたいことがあるとき」
 尾木直樹「それが普通。だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」

 解説、〈そうはいっても自ら勉強する子なら苦労しません! 保護者席からそんな心の声が聞こえてきそうだ。〉

 尾木直樹は自身の子ども時代のエピソードを披露する。

 尾木直樹のお母さん(学校から帰ると毎日)「直くん、今日はどんな予定なの?」
 尾木直樹「小学生に予定って聞かれてもねえ。遊びに行く、くらいしかないわよ!でも、それだけじゃまずいと思って、帰ったら勉強するって言っていた」

 〈言った以上、やらなくては。そうしないと大人のことも、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」と批判できない。〉

 尾木直樹「今思えば毎日、自分の考えを問われていたようなもの。その上で、自分で決めさせていたんじゃないかな」

 ホワイトボードに「自立」「自己決定」と書く。

 尾木直樹「だから、何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといいのよ」

 尾木直樹「どうしても言っておきたいことがある。今年、世界保健機関(WHO)が、スマホなどでのゲーム依存は病気で、程度によっては入院治療も必要だと正式認定しました。知ってた?」

 記事がネット依存の現状を紹介。

 〈ゲームだけではない。インターネットやSNSの利用も含め、全国の中高生約93万人がネット依存の疑いあり、という推計を厚生労働省が発表した。SNSを介して小学生が誘拐された事件もあった。〉――

 尾木直樹「そもそも日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」

 尾木直樹考案の「スマホルール7か条」

 記事は「スマホの使用は夜○時まで」と「使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限る」の2ヶ条の紹介のみで、尾木直樹の、「詳しくは、7つのルール 尾木ママで検索してみて」の言葉を紹介しているから、ネットで検索、「7か条」を挙げておく。

【ルール1】スマホは「親が買って契約し子どもに貸している物」ということを忘れません。
【ルール2】スマホの使用は、夜〇時までとします。
【ルール3】スマホを使用・充電する場所は、リビング・ダイニングに限ります。
【ルール4】食事中にスマホは使用しません。
【ルール5】スマホをいじらない時間に、家庭で楽しく過ごせることを考えましょう。
【ルール6】スマホによるトラブルが生じたら、すぐに親に相談します。
【ルール7】守れなかったときには、〇日間、親にスマホを返します。

 児童の反応。

 𠮷川晴翔(はると)くん(5年)は、「ゲームはやっていないけれど、依存の話がこわかった。スマホを使う時間を決めたい」
 大塚くるみさん(6年)「ニュースで誘拐事件を見ました。スマホを持ったら気をつけようと思う」

 尾木直樹は、〈時折、「テレビでは文化人枠だからギャラ安いの」など、オトナの事情を笑い話にして挟みながら、最後は「いじめ」〉問題を取り上げる。

 尾木直樹「人が嫌がっていることは今すぐやめてください。(「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。

 尾木直樹「そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」
 
 最後に役に立つという意味からだろう、自著の名前を挙げて、「図書館で借りて」と伝え、見送る子どもたちにもみくちゃにされながら校舎を後にしたと、その人気ぶりを伝えている。

 現状の子どもについて記者にか、学校教師や授業参観の保護者にか、次のような解説を伝えている。

 尾木直樹「今の小学生には大人が想像する以上の情報が入っています。そのため親が言いそうなことは分かっている、言われるとうるさく感じてしまう。それでもダメな子にしたいなら、過干渉な親になればいい。

 子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」――

 尾木直樹が最後の解説で、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」ことの重要性を訴え、途中で、「だいたい勉強できる子って、親に言われなくてもやる。自らやる、これを自立といいます」と自立できている子の例を挙げていることから、記事題名の一部を、「自己決定が自立への道」とするに至ったのだろう。

 尾木直樹自身が子どものときから自立に向かって歩むことができた事情を母親の教えだと子ども時代のエピソードを紹介した。このことを改めて取り上げてみる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞く。遊びの予定ばかりでは済まないから、「帰ったら勉強する」と約束をした。約束を守らないと、大人の有言不実行を批判できないから、約束をしたことを守るようにした。思い返すと、母親は子どものすることは子どもに決めさせていたのであって、この経験が尾木直樹少年をして幼くからして自己決定力を育ませ、自立への歩みを促した。

 逆に子どもに自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を与えずにその能力を欠いた状態で、「勉強しろ」だ、「何々をしろ」だと頭ごなしに言いつけたとしても、却って「やる気をなくす」ことになり、5、6年生といえば思春期に入る年頃で、「自分でコントロールできなくて、イライラしたり、感情を爆発させたり。それが親子関係や友だち関係にも影響」して、却って子どもの成長の阻害要因となるから、いわば一にも二にもなく自分のすることは自分で決めさせる自己決定力を育む機会を最初に用意しなければならないといったことを主張している。

 但し尾木直樹が子どものときから自立できた自身の経験が事実そのものであり、その事実を決定的に活かすとしたら、一歩も二歩も踏み込んで、学校に対して、あるいは文部科学省に対して宿題の中止を申し込むべきだろう。

 なぜなら、宿題と予習や復習の自主学習とは自分のすることは自分で決めさせる自己決定という点で決定的に違うからである。宿題は決められた科目の決められた箇所を勉強させる一つの強制であって、予習や復習の自主学習は必ずしも強制とはならない。

 但し自主学習任せでは勉強したかどうか判断できないから、レポートを提出させなければならない。この提出は一見、強制に見えるが、何を予習するか、何を復習するかは自分で決める自己決定の余地を残す。宿題に対するその解き方、解答はほぼ決まっているが、レポートの内容は予習や復習の対象科目によって異なってくるし、自身の取り上げ方によっても、自己決定の要素の違いに大きく左右される。

 さらに学期が進むに応じて、あるいは学年が進むに応じて自主学習の成果が学校の成績に反映されてきたと見たなら、レポートの提出は廃止して、放課後の家での勉強は全て子どもたち自身に任せる。究極の自己選択となる自己決定となり、自立を強く動かす動機となるはずである。

 勿論、子どもの一般的な姿に持っていくまでの道のりは遠いだろうが、"自己決定から自立へのプロセス論"を振り回す以上、目指すべき目標としなければならないはずだ。

 尾木直樹は放課後、母親に約束していた「勉強」が宿題なのか、予習、復習の自主学習なのか明らかにしていない。宿題か、予習、復習の自主学習かでは自己決定という点で大きな違いがあることは既に述べた。

 その「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった自主学習の場合は自己決定の働きに役立つと確かに言えるが、レポートの提出を義務付けられた予習、復習の自主学習であった場合でも、自主学習の対象科目に何を選択するか、どういう学び方にするのか、レポートとしてどういう内容に纏めるのか、自己決定が要請される。

 それが宿題の類いだったなら、義務の履行という強制的な要素が大分占めることになって、十分な意味で自己決定の育みに役立ったとすることはできない。

 もし尾木直樹自身の「勉強」がレポートの提出も義務付けられていない予習、復習といった、するかしないかは全て自己決定に任された自主学習の類いだったなら、尾木直樹は子どもたちに自己決定の習慣を育み、自立ある存在へと向かわせるために宿題の中止にまで踏み込む主張をしていたはずだ。

 さらに言うと、日本の教育に未だ色濃く残っている暗記教育も教師が教える知識・情報を児童・生徒が自らの解釈を加えずにそのまま自分の知識・情報として受容する従属性によって成り立っている以上、知識・情報の習得に関しては自己決定権を持たず、他者の知識・情報から自立を果たしているとは言えず、このことは日本の小中高生が他国と比較して自己肯定感が低い状況と無関係ではなく(自分なりの知識・情報を持つことができていたなら、自己肯定感は高くなるはず)、宿題や予習、復習の自主学習が暗記教育の影響下にあるとしたら、自己決定や自立に大きく関係することになり、自己決定や自立を言うなら、暗記教育の是正にまで踏み込まなければならなかったはずだ。

 が、そこまですることはできなかった。その底の浅さは自身の自己決定の習慣づけに役立ち、それが自立の歩みの手助けになったことを自分の子どもの頃の経験に基づいた優れた出来事と印象付けて、人に伝えるための教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードのようにも見える。

 その教訓が、「何かしなさいと言われたら、自分で決める、というクセをつけるといい」と教える程度のことで、自己決定と自立に向けたインパクトある刺激になるとは思えない。

 なぜなら、「言われたら」何かするのは、その何かが自分で決めたことでも、何らかの従属性を纏うからであり、従属性を纏う割合に応じて主体性が損なわれるからである。自己決定と自立は極めて主体性を必要とする。

 「何かしなさい」と言われるのを待つのではなく、放課後の大まかな時間割を子どもたちそれぞれに作るように仕向ける。強制ではない。作る、作らないかは本人の主体性、自主性に任せる。時間で行動する習慣づけは計画性を養うだろうし、時間の観念の発達を促す。

 時間割を作ったらという親の指示に対して強制ではなく、本人任せとしながらも、効果を上げるためには時間で行動するよう、習慣化させる。

 例えば、「もうベッドに入りなさい、8時よ」、あるいは「もうベッドに入りなさい、9時になったでしょ」と、行動を基準に時間を付随させのではなく、「8時だから、ベッドに入る時間よ」、あるいは「9時だから、もうベッドに入りなさい」と常に時間を基準にした行動とする。あるいは時間での行動に持っていく。

 それが常態化することができたなら、放課後も、時間割での行動にさして抵抗を受けることはないだろう。

 宿題のある日はゲームとかサッカーの遊びの前にそれをするのか、遊びから帰ってからするのか。宿題のない日はその日に応じて予習・復習の自主学習を行うのか、ときには何もせずにその日は思い切り遊びのみの時間とするのか、自らの時間割の作成のもと、そういった日を設けるのも、主体性色満点の精神の解放を自ら作り出し、リフレッシュさせた自分を自ら味わうことに役立つ。

 尾木直樹が親子関係や友だち関係に悪影響を与える、ときとして爆発させてしまう、思春期特有の不安定な感情の起伏を言うんだったら、子ども自身に精神の解放日を設けさせるのも、感情の働きというものに意識を向けさせることになり、感情のコントロールの訓練ともなるだろうから、ただ思春期の精神の不安定を指摘するだけではなく、その不安定の解消はどうしたらいいかにまで踏み込むべきろう。

 放課後に何をするのかの各行動ごとの時間割を作らせることができたなら、寝る前にでも、それぞれの時間割を守れたのか、守ることができなかったのか、自己採点を求めるのもいいだろう。守ることができたなら、自信がつき、できなかったなら、反省が生まれ、自信と反省は自分のことを省みて、その善悪・是非を考える自己省察を刺激し、自己省察が自分はどんな人間なのかの存在性を少しずつ知らしめることになり、自身の存在性の把握が他者の存在性との比較、他者省察へと進み、この自分を知り、他者を知るプロセスが自分を確立していく自我確立の道へ進む基礎となる。

 このようにすることが効果があると見込めると認めるなら、学校は一斉の宿題休日を設けて、時間の活用を全て子どもに任せた放課後の時間割とすべきだろう。宿題がない代わりに自習・復習の自主学習に時間を割り振るのも自由、全て遊びの時間に割り振るのも自由、何事も自分で決めさせる。

 否でも主体性・自主性に基づいた自己決定が関わり、守れたり、守れなかったり、自信を持ったり、反省したり、その繰り返しの過程で自分という人間を考えたりする。友達はどうしているのだろうかと他者を頭に思い浮かべたり、自立の道を歩み始めることになる。

 母親が学校から帰ると毎日、その日の予定を聞いたことが自己決定の習慣づけに役立ち、自立を促したとする幼少期のエピーソードが教育評論家の教訓としての価値を高めるために仕込んだエピソードではないかという疑いは尾木直樹のスマホに関する主張からも窺うことができる。自己決定のススメを説きながら、そのススメをケロッと忘れて、「日本は子どものスマホ利用に対する規制がゆる過ぎ!韓国や中国では政府が、未成年の深夜のオンラインゲームを禁止したくらいなのに」云々と国や学校の公権力を用いて上からの規制を主張、自己決定をどこかに放り投げているからである。

 このことは当然のことと言えば、当然のことだが、尾木直樹考案の「スマホルール7か条」にも反映されている。要するにスマホの良識ある使い方をそれぞれが自ら考えて、それぞれに独自の使い方を個別決定させ、その先に自立的存在の確立を促していくのではなく、ルールを先に持ってきて、全員をそのルールに従わせて、ルール通りの子どもにはめ込もうとしている。

 決してそうはならないから、救いとなっているが、尾木直樹が言っている「何かしなさいと言われたら、自分で決める、と言うクセをつけるといいのよ」を無効とする言葉を平気で垂れ流している。

 この信用の置けない言動は、勿論、尾木直樹自身の性格の反映以外の何ものではない。オネエキャラとして用いている言葉の柔らかさ、いつも目が笑っている、その親しみの装いが目眩ましの役に立っている。

 スマホを使う時間も放課後の時間割の中に組み込ませて、自分で決めさせればいい。宿題休日時にときには放課後の全時間を使って、思う存分スマホ三昧に耽るのも、ストレスの開放に役立ち、リフレッシュして、新たな気分で通学に臨むことができるかもしれない。

 次にイジメに移る。

 「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」
 (「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したうえで)友だちにムカムカしないですむ方法があるの」

 要するに尾木直樹はムカムカを抑えれば、人が嫌がるイジメは避けることができると考えていることになるから、人が嫌がるイジメはムカムカが原因だと主として見ていることになる。ムカムカが原因ではない人が嫌がる、よくあるイジメについて最初に考えてみる。

 人の嫌がる様子が面白いから、からかい、それが過ぎて、イジメとなるケースがあるが、面白がっているだけで、イジメになっているとは気づかないイジメがそれに当たる。人が困る様子が面白いから、あれこれとちょっかいを出して、困らせて、面白がる、イジメているとは思いもしないイジメも多々あるはずである。

 年齢相応に成長し、自律(あるいは自立)できていないから、相手を一個の自律(あるいは自立)した個人として扱うことができない。当然、イジメも自律(あるいは自立)との関係性の中で捉えなければならない。

 だが、そうはせず、自立の必要性の中でのみ取り上げている。

 嫌がる様子、困った様子が面白いという感覚を味わうことが目的だから、"嫌がる"、"困る"は必要不可欠なステップであって、そのステップがなければ、自分、あるいは自分たちは面白がることができない。それどころか、相手が嫌がれば嫌がる程、困れば困る程、自分、あるいは自分たちは面白いという感覚を味わうことができて、満足できることになる。

 当然、こういったイジメをする相手にムカムカしないですむ方法を勧めたとしても、相手は理解できない顔をすることになるだろう。

 テレビのお笑い番組でお笑いタレントという他人が笑わせるのを眺めて面白がるのは、いくら面白いという感覚を味わうことができても、自分で作り出した面白さではないから、その番組を見ることができた程度の自己達成感しか手に入らない。

 だが、誰か友達を嫌がらせたり、困らせたりして面白がるのは自分、自分たちで作り出した面白ネタだから、面白ければ面白い程、自己達成感を手に入れることができて、自分、自分たちにとっての活躍行為となり、病みつきになるのに時間はかからない。

 病みつきになれば、人が嫌がったり、困ったりすることには無感覚となり、面白がるのがどこが悪いと、そのことだけを優先させることになる。闇バイトが他人が財産を失って困ることは考えずに自分が財産を手に入れて、オイシイ思いをすることだけを考えるようにである。

 当然、「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」は通じない警告で終わる。

 この手のイジメに関して伝えるべき言葉は、「友達相手にしていることで、相手が面白がってもいないのに、自分、あるいは自分たちだけが面白がってしていることはないか、5分の時間を与えるから、目を閉じて、友達との間で普段していることを思い出してみて欲しい」であろう。

 5分後に、「友達相手にその友達が自分、自分たちと同じように面白がっているのでなければ、不公平なことをしていることになって、それはイジメそのものの嫌がらせ行為となる。自分、自分たちも面白がることができ、相手も面白がることができて、初めて公平な付き合いとなって、嫌がらせ行為でも、困らせ行為でもなくなる」

 この問い掛けは、この手のイジメが少なくない以上、教師が授業中に折に触れて発すべき義務事項としなければならない。こうすることが自己省察と他者省察を養う訓練となる。強がって、「面白がって、どこが悪いんだ」と反発し、殊更に面白がるために嫌がらせ行為をエスカレートさせる児童・生徒もいるだろうから、そのことを前以って予測し、「こういったことを言われて、反発し、これこれこういったことをしてしまう児童・生徒もいるかもしれないが、同じ友達付き合いをする以上、公平な付き合いとなっているか、不公平な付き合いとなっていないか、考えることだけはして欲しい」

 このように付き合いの公平・不公平を常々問い掛けることで、イジメとなっていることを自覚せずに、単に面白がるためだけのために友人に対して不公平な付き合いを強いている者をして自他を考えさせる二重三重の心理的なブレーキを掛けるよう仕向けていけば、自己省察と他者省察を作動させる可能性は捨てきれない。

 このようにお互いを考えさせることが年齢相応の成長を促し、自律(あるいは自立)への歩みを強めていく背中押しとすることができる。

 尾木直樹が「人が嫌がっていることは今すぐやめてください」と伝え、「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭し、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」云々の発言が示すイジメは相手に何らかの理由・原因でムカムカして、そのムカムカした感情を晴らすために相手が嫌がることをする、あるいは相手が困ることをする種類のイジメとなる。

 結果、相手にムカムカしないですむ方法の伝授ということになった。

 「すぐ口を出してくるからムカつく。でも、そういう子は活発な子。態度がはっきりしないからムカつく。だけど、そういう子は慎重な子。そんなふうに、誰かを否定したくなったら別の見方をしてほしい。だって、みんな違って当たり前。だからいいのよ」――

 言っていることは前回記事で取り上げた、尾木直樹の2019年に神奈川・横浜市立川上北小学校を訪れて行なったオーサー・ビジットでも、その効用を伝えている、物事の捉え方や枠組み(フレーム)を変えて、別の視点から見直す心理学用語だという"リフレーミング"という方法であろう。

 「誰かを否定したくなったら別の見方」への誘導は自他の省察力を刺激することになるから、自律(あるいは自立)に向かわせる有効な入口となりうる。特にちょっとしたことでムカつく人物像は他人と適度な距離を取り、自分は自分という精神の余裕が持つことが不得手な自己中心的な性格で、年相応の自律(あるいは自立)ができていないと見ることができるから、その効果は十分に予測しうる。さすが尾木大先生であると言える。

 但しムカつく原因はすぐ口を出しするとか、態度がはっきりしないということだけではなく、成績が良い、クラスの人気者だ。先生の質問に対する答をほぼ独占している。先生に気に入れられている、カネ持ちだ、いい家に住んでいる等々、他人の可能性に対する羨ましさを心理的背景として自分は逆の状況にあると見る劣等感が強いる不愉快な感情が発端であることも多いはずである。

 他人の可能性に対する羨ましさに基づいた劣等感は自身の可能性を見い出し得ていない状況下で頭をもたげやすい。可能性を見い出し得ていたなら、その可能性を伸ばすことに目を向けることになるから、他人の可能性に煩わされることは避け得る。

 となると、自身の可能性を見い出し得ていない状況下で他人の可能性に感じる羨望を見方を変えて打ち消し、受け入れることのできる可能性とするには相当に心の広さ、心の余裕が必要となるが、元々そのような心の広さ、心の余裕を見せることができたなら、他人の可能性が羨ましくなり、劣等感からムカつくなどといった負の感情を引き起こすことはないだろう。

 当然、こういった負の感情からのムカつきに対して「誰かを否定したくなったら別の見方」をする"リフレーミング"を用いたイジメの回避策よりも、目をつけるべきは学校社会に対応できる可能性の発見に力添えできる体制の構築であるはずだが、学校社会は「多様な可能性」、「可能性の多様化」等々、スローガンは立派に掲げるが、勉強の成績やスポーツの成績、文化部活動の成績等、限られた可能性にのみ光を与えて、それ以外の可能性を拾い出して光を与えることを忘れていて、学校社会で可能性を見い出し得ない子どもたちを取りこぼしている。

 だが、尾木直樹はイジメが可能性を見い出し得ているか得ていないかに深く関係することにまで踏み込むことができすに、友だちにムカムカしたら、相手に対する否定的価値観を肯定的価値観に変えなさいと、公式を当てはめさえすれば解答できる、簡単な数式の問題であるかのように片付けている。この安易さは引く手あまたの人気教育評論家にふさわしい。

 以上、三郷市立新和小学校訪問のオーサービジット授業を裁判の判決ふうに評価してみる。
 
 裁判長「判決主文、尾木直樹をニセモノの教育者だと確定する」

 尾木直樹は最後に5、6年生に自分の本を図書館から借りて読むように勧めたが、ニセモノの教育者の本を読んで役に立つとしたしたら、反面教師的な読み方ができる生徒に限るが、5、6年生でそういった読み方ができる子どもはどれ程にいるだろうか。逆に頭から信じて、考える力を麻痺させてしまったら、恐ろしいことになる。

 記事が紹介している尾木直樹の最後の発言。

 「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら。今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ」

 「すでに」の意味は、もうその状態になっていることを表し、「十分に主体的である」という意味を取る。

 だとすると、最後の発言の前段と後段を逆転させると、矛盾が浮き出てくる。「今日の新和小の子たちだって、すでにみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる。それが大事じゃないかしら」

 十分に主体的であるなら、学校が主体性(自己表現、積極的な行動、自己決定力)を育む教えに取り組んでいることの成果としてあるのだから、「子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる」教えが"大事だ"と指摘することは学校が既に取り組んでいることを取り組むべきだと勧めることになるからである。

 この矛盾を解消させるには次のような発言としなければならない。

 「今日の新和小の子たちは、既にみんな主体的でしたよ。子どもを主体に、考える力を育てる、自己決定させる教えが成果を上げているようね」

 大体が十分に主体的であるなら、それぞれが自分なりの意志を持って行動していることになり、その意志は理性を纏うことになり、その理性は自制心を養い、自制心は感情のコントロールを機能させることになる。

 つまり、「すでにみんな主体的」であるなら、例え誰かの行動にムカつくことがあったとしても、基本的には自らの意志と理性で自制心を働かせることができて、自制心によって自らの感情をコントロールし、悪感情を自力で修正する方向に持っていくまでに成長しているはずだから、
尾木直樹から、「友だちにムカムカしないですむ方法があるの」などと尤もらしく、"リフレーミング"を教わる他力は必要なくなる。

 と言うことは、前以ってのアンケートで「すでにみんな主体的」であるかどうかは確認できなかったために"リフレーミング"を持ち出し、コミュニケーションを取っている間に「すでにみんな主体的」であることに気づいたという手順を踏むことになったと解釈できる。

 「傍観しているだけで感覚はどんどん麻痺していく」と諭したこと自体が、当初は主体的でないと見ていたからであろう。

 もし尾木直樹が正直な教育者なら、学校側が以後の参考にできるよう、アンケートの回答に対する解釈が悪かったぐらいは伝えるべきで、伝えていたなら、記事は読者の理解に供することができるよう、その内容を紹介するはずだが、紹介していないところを見ると、何も触れていないのだろう。

 それとも、「すでにみんな主体的でしたよ」は教育者として子どもを見る目があるところを見せるカッコ付けのために、さも見抜いたようなことを言ったのだろうか。

 誰にでもいい顔を見せる八方美人だから、その可能性は否定できないが、この可能性が単なる下司の勘繰りであったとしても、記事紹介の最後の発言が矛盾していることは事実だから、この点からもニセモノの教育者だと断言できるはずだ。

 子どもの自己決定・自立を言うなら、知識・情報の習得に関して自己決定権を持たせるアンチ暗記教育の徹底をスタート地点に置かなければならない。暗記教育は上は下を従わせ、下は上に従う権威主義性を本質的な構造としていて、この権威主義性は親の子育ての時点から、「ああしなさい、こうしなさい」という、暗記教育に通じる意志の一方通行となる命令形で始まっているからである。
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