菅首相の口程でもなかった官僚を使いこなす能力とその「政治主導」の程度

2011-01-22 09:39:36 | Weblog



 民主党が政治主導を掲げて事務次官会議の廃止等を構造とした政権運営をここに来て菅首相が反省、軌道修正を図る動きに出たらしい。軌道修正とは官僚との連携を深めることだそうだ。

 このことは二つの方面から考えなければならない。事務次官会議の廃止といった内閣運営の組織の構成方法に間違いがあったのか、それとも菅内閣の官僚の使いこなしに問題があったのかである。

 後者なら、組織をどういじろうと、満足な政治主導は確立不可能となる。

 既にご承知のことと思うが、「Wikipedia」の解説を借りると、廃止した事務次官会議とは事務担当の内閣官房副長官が取り仕切って原則すべての府省の事務次官が出席し、首相官邸で開かれていた会議で、各府省の事務次官のほか内閣法制次長、警察庁長官・金融庁長官及び消費者庁長官も廃止時の正規メンバーだったという。

 事務次官会議を廃止して、いわば官僚を原則排除して各省庁の大臣・副大臣・政務官の政治家が政務三役会議でそれぞれの省庁の意思決定を行う組織変更を行った。これがうまくいかなかった。

 各省庁の大臣・副大臣・政務官がそれぞれの政務三役会議でそれぞれの省庁の意志決定を行うにしても、自分たちが勉強し、あるいは収集した情報のみでは政策決定は不可能で、あるいは不十分で、各省庁の官僚が抱える膨大且つ精緻な(かどうかは分からないが)情報の活用が必要となるはずである。官僚が調査、あるいは収集した情報のバックアップがあってこそ、よりよい政策の構築、あるいはよりよい政治主導が発揮可能となる。

 だとしたら、政務三役会議に官僚を交えなくても、その会議以前に必要とする官僚の情報を事務次官に命じて彼のところに集めさせ、その情報を以って大臣、副大臣、政務官のそれぞれ段階で政策構築の活用材としてもいいわけである。

 その上で三人が雁首を揃えた政務三役会議でそれぞれが自分のものとした情報を提示・比較し合う議論を交わして一つの政策に発展・完成させていくプロセスを取る。

 このように見ると、政治主導の組織構成、あるいは態勢に齟齬があったのではなく、官僚を使いこなせなかったために彼らが抱える情報にしても使いこなせなかった、活用できなかった、いわば官僚に対する指示命令能力を欠いていた政治家側の能力の問題に帰結させなければならない政治主導の機能不全ということにならないだろうか。

 この見方が間違っていないとしたら、政治主導の軌道修正としての官僚との連携は政治家側の官僚に対する指示命令能力の欠陥を補う形を必然的に取ることになるだろうから、その必然性は逆に官僚側が政治家側に指示命令する主客逆転現象へと向かせることになるはずである。いわば官僚主導への回帰、政治主導の破綻、あるいは機能不全である。

 このことは12月29日の当ブログ記事《菅内閣の政務三役会議への次官陪席は情報処理能力無能の証明 - 『ニッポン情報解読』by手代木恕之》で一部触れている。

 この結論はあくまでも、「この見方が間違っていないとしたら」の仮定の上に立っている。実際に間違っていないかどうか、《菅首相“行き過ぎや問題も”》(NHK/2011年1月21日 12時12分)、その他の記事から菅首相が描いていた政治主導とその軌道修正を見てみる。

 1月21日午前、各省事務次官らを首相官邸に集めて訓示。

 菅首相「1年半前に政権交代が行われ、民主党政権では事務次官会議を廃止し、政務三役会議を設けて各省庁の決定を政務三役が中心に行う態勢にした。そのことは本来あるべき内閣の姿に近づいたと思うが、同時に現実の政権運営の中で、いろいろな反省なり、行き過ぎなり、不十分なり、問題があったことも事実だ」

 菅首相「もう一度、そういうプラスとマイナスを、政治家は政治家として、事務次官は事務次官としての立場から振り返り、積極的な協力関係を作ってもらいたい。それぞれの省庁で、大臣・副大臣と遠慮なく話をしてほしい」

 政治主導と称して事務次官会議を廃止し、政務三役会議を新たに設けたことが政治家と官僚の協力関係を退潮させたと言い、その反省を示しているが、「積極的な協力関係」がなかったという構造から見えてくる政治主導とは、官僚側の意思・判断に頼らずにそれを排除して、政治家側の意思・判断のみで物事を決定するシステムとなっていたことになる。

 このこと自体が既に間違いを犯している。例え事務次官会議を廃止したとしても、何らかの機会・場を設けて官僚側の意思・判断をも交えて議論を尽くし、最終結論の意思決定、判断決定を政治家側が行い、その責任を負って初めて生きた政治主導と言えるからである。

 いずれにしても政治主導とは、このことに反して政治家側が官僚と議論を交わすことも戦わすこともなく、意志決定も判断決定も官僚に任せ、その責任さえ官僚に負わせてきた官僚主導の反省に立って導き出した結論であろうから、その逆説を行けばよかったはずである。

 当然、政治主導を掲げる以上、そういった組織、態勢に持っていかなければならなかったが、それができていなかったということは、既に触れたようにあくまでも政治家側の組織作り、態勢作り、あるいは官僚に対する指示命令といった能力に帰することになる。

 こういったことは誰でもが理解できていることだと思うが、菅首相にはそれが理解できていなかったということなのだろうか。だから、官僚は大バカだと言えたのだろうか。この「大バカ」発言自体が官僚主導の悪しき面にしか視線を向けることができなかった、いわば単細胞、合理的判断能力を欠いた評価でしかないが、ここに既に政治主導の本質的なあるべき姿を想定できていない指導性を窺うことができる。

 菅首相はその無能と同時に過去の発言を変えることでも有名人となっているが、官僚に協力を求める発言そのものが「大バカ」発言を180度変えるもので、言行不一致を非難されても仕方があるまい。

 政治主導の本質的なあるべき姿を想定できていなかったからこそ、官僚を「大バカ」に貶めることができ、貶めておきながら、この場に及んで官僚に協力を求めることとなったということなのだろう。

 「大バカ」発言は当時副総理であった2009年10月31日の民主党都連会合の講演で、官僚から説明を受けた「2兆円を使ったら目一杯で2兆円の経済効果だ」(時事ドットコム)の発言を批判する中で飛び出したらしい。

 菅副総理「知恵、頭を使ってない。霞が関なんて成績が良かっただけで大バカだ」(同時事ドットコム

 「知恵を使ってないんですよ。頭を使ってないんですよ。“霞が関”なんて大馬鹿ですからね。成績が良かっただけで大馬鹿ですよ」(TBS

 確かに2兆円使って2兆円の経済効果なら、プラスマイナスゼロで、2兆円以下の経済効果でマイナスになるよりはましだが、投資の意味を見い出すことができない。だが一人の一つの意見を以って官僚全体を「大バカ」は行過ぎていると思うが、それとも官僚の全般的な言動を通してそのような印象を受けていたところへ「2兆円を使ったら目一杯で2兆円の経済効果だ」の説明を受けて怒り心頭に達し、「大バカ」発言となったのだろうか。

 いずれであったとしても、菅直人なる政治家は官僚全体を「大バカ」に価値づけた。逆説すると、自身を「大偉い」、もしくは「何様」に持ち上げたことを意味する。

 だが、首相就任の翌2010年6月8日、官僚活用論を堂々と述べている。《菅首相会見:その4「官僚の力も使って政策を進めていく」》(毎日jp/2010年6月8日)

 菅首相「この間(政権交代を経て鳩山前首相就任の間)、政と官でいろいろ言われました。けっして官僚のみなさんを排除して、政治家だけで物を考え決めればというものではない。官僚のみなさんこそが、政策やいろいろな課題に長年取り組んできたプロフェッショナルであり、そのみなさんのプロフェッショナルとしての知識や経験をどこまで活かして、その力を十分に活かしながら、一方で、国民に選ばれた国会議員、その国会議員によって選ばれた総理大臣が内閣をつくる。国民の立場をすべてに優先する中で、そうした官僚の力も使って政策を進めていく。このような政権を、内閣をつくっていきたい。・・・・政と官のよりよい関係性をつくっていけるように努力したい」

 「官僚のみなさんこそが、政策やいろいろな課題に長年取り組んできたプロフェッショナル」だと最大限の褒め言葉で評価し、「プロフェッショナルとしての知識や経験をどこまでいかして、その力を十分にいかしながら」と、政治主導を行う中で官僚の力を活用していくことを宣言した。

 この政治家と官僚の関係性は、“活かす”(=活用する)という言葉に象徴されるようにあくまでも政治家が主体であって、官僚側を従の位置、働きかけられる側に置いた構造の関係性なのは断るまでもない。これが官僚側が主体となって政治家側に働きかける逆の関係なら、官僚主導となる。
 
 菅首相は翌6月9日(2010年)、昨年の官僚「大バカ」論と昨日の官僚活用論との整合性を記者団に問われると、官僚功罪相半ば論に転じている。《「官僚は大ばか」変えず 菅首相、体質を批判》(47NEWS/2010/06/09 23:15 【共同通信】)

 菅首相「やや言い過ぎだったかもしれないが、最も優秀とされる財務省がいながら、なぜ(国内総生産の)180%の累積債務残高になったのか。考えられない。官僚は自分の任期で発想する。10年、20年で見たら何もいい形になっていない。社会音痴と(専門に)詳しいことは矛盾しない。官僚の経験や知識を活用し、内閣が判断する

 日本の財政が「(国内総生産の)180%の累積債務残高」にまで悪化したのは官僚だけの責任ではあるまい。自民党政治家と官僚の利害の一致が生み出した財政悪化の側面は否定できないはずだ。 一例を挙げると、政治家が地元利益誘導と自身の名を残すために公共事業を過剰に大型化させて税金をムダに垂れ流したこと、官僚にしても公共工事が大型になればなる程、関連会社への天下りで高額報酬が約束されるといった利害の一致である。

 そのほかの事業でも双方の利益とするためにムダな予算付けを相当に行っていたはずである。

 それを官僚だけの責任に帰する判断能力は例の如く合理性を欠いた不公平な評価となっている。

 だとしても、菅首相は官僚は「大バカ」ではあっても、「官僚の経験や知識を活用し、内閣が判断する」と、政治家側を主体に置いて官僚側に働きかけ、その能力を活用し、最終判断は内閣が行うと、勿論責任も伴わせなければならないが、このような関係性を持って自らのあるべき政治主導の姿だと提示した。

 自身がそう発言した、あるいはそう提示した以上、具体化させる首相としての指導力発揮の責任を国民に対して負う。自身の側から言うと、あるべき政治主導実現の指導力を問われることになる。

 だが、昨年の6月9日に政治家側を主体に置いたあるべき政治主導を提示しながら、すぐに手をつけてそのようなあるべき姿へと持っていくべきを7ヶ月も経って、内閣と官僚との協力関係ができていなかった、問題があったと言っている。

 このことはそういった態勢作りができていなかったばかりか、官僚を使いこなす指示命令能力さえ発揮できていなかった無能状況を示す。

 この無能状況は菅首相の「事務次官は事務次官としての立場から振り返り、積極的な協力関係を作ってもらいたい」の発言が如実に証明している。政治家側を主体に置いた政治主導である以上、官僚との協力関係は政治家側がそれぞれの現実場面で官僚を使いこなす中で、あるいはよりよく指示命令能力を発揮する中で自らが構築していくべき協力関係であり、官僚側に「積極的な協力関係を作ってもらいたい」と要請してつくり出すものではないからだ。

 菅首相自身が官僚を使いこなす指示命令能力を持たないことによる履き違えた政治主導であり、政治家側の主体性を放棄することになる、官僚に対する心理的には頭を下げた履き違えた要請であろう。

 ここに菅首相が常々言っている「政治主導」がどの程度のものか、その正体が自ずと現れるている。指導力なき首相の一つの哀れな結末でもあるはずだ。

 指導力がないこと、合理的判断能力を欠いていることがすべてに亘って内閣運営のマイナスとして働いている。



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