以下の記事は《八方美人尾木ママの"イジメ論"を斬るブログby手代木恕之》から転載したものです。
2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。
ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。
1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。
この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――
そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。
スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。
前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。
主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。
次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――
記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。
さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。
個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。
次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。
そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。
勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。
とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。
視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。
対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。
上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。
〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――
スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。
何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。
また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。
要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。
八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く
2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。
ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。
1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。
この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――
そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。
スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。
前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。
主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。
次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――
記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。
さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。
個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。
次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。
そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。
勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。
とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。
視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。
対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。
上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。
〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――
スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。
何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。
また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。
要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。
八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く