八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(1)

2024-03-16 04:00:55 | 教育
  以下の記事は《八方美人尾木ママの"イジメ論"を斬るブログby手代木恕之》から転載したものです。

 2013年発売『尾木ママの「脱いじめ」論 子どもたちを守るために大人に伝えたいこと』(以下、『「脱いじめ」論』)の「子ども自身が中心になってこそ『いじめ』を駆逐できるのです」から。

 ここでは「『いじめ』を駆逐」、いわばイジメの撲滅、イジメの消滅を謳っている。「発生は防げなくても、いじめは克服さえできればいいのです」の主張を忘れた二枚舌となっている。

 1997年に北欧に視察に行った。スウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」という話をした。スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっていて、どんなに善意からであっても大人の独断専行は許されていない。イジメ問題に対しても小学校でさえ子どもたち自身による取り組みが重視されているとの説明を受けた。

 この"視察"から尾木直樹は、〈「子どもの問題のスペシャリストは子ども」との観点に立つ。〉姿勢を、いわば教訓とするに至ったのだろう。ここまでの記述で尾木直樹が如何にどうしようもなく単細胞で、底の浅い解釈と発想しかできないことに気づかなければならない。理由は少しあとに述べる。
 
 この教訓が、「現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と早くも安請け合いでしかない確約を推定するに至っている。この推定も次の瞬間骨抜きにして、〈子どもの参画のもと、子どもたちを主役に据えることで、本当の意味でのいじめ克服の実践が可能になるのです。〉とほぼ確約に近づけている。その方法論、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」の中でも取り上げているが、生徒会の中に「いじめ対策委員会」をつくり、〈「いじめをしない、させない、見逃さない」をスローガンに掲げた「三ない運動」を立ち上げていく。〉――

 そして最後は、〈こうした子ども自身の手による自主的な活動こそ、いじめをなくすための最善の方法かもしれません。〉と、ほぼ確約から「しれません」の推定に戻してしまっている。視察先のスウェーデンの子ども問題の専門家から「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と聞かされた話まで持ち出していながら、「最善の方法となるでしょう」と確約することもできず、「最善の方法かもしれません」では情けなさすぎると自分自身では気づかない。

 スウェーデンでは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞くことになっている。意見を聞き、その意見を参考にすることを可能とするには意見聴取対象の子どもたちが主体性と自立性(あるいは自律性)をそれぞれの年齢相応に備えていることが条件となるはずだ。主体性も持たない、自立性(あるいは自律性)も欠いているでは、意見らしい意見を持つことはできないからだ。

 前のブログで尾木直樹が学校の主人公に子どもを据えることは、21世紀の学校づくりを展望したとき、国際的動向や子どもの権利条約の精神から考えても当然の観点で、歴史的な流れと言えると解説したのに対して、〈当方の考えでは子どもは学校の主人公足り得ない。教師と児童・生徒はあくまでも教える・教えられる関係にあるが、児童・生徒を一個一個の人格を有した個人と看做して、それぞれの主体性が幼稚な状況にあったとしても、その主体性を可能な限り尊重する関係を取らなければならない。教師のこのような可能な限りの主体性尊重の姿勢が児童・生徒の自立心(あるいは自律心)の育みに繋がり、自立心(あるいは自律心)の確立に向かう過程で児童・生徒の主体性はより確固とした姿を取っていく。〉と書いているが、尾木直樹はスウェーデンの子ども問題の専門家が、「子どもは、子ども問題のスペシャリストですよ」と指摘した時点か、あるいは直接子どもに関わる法律の修正や上程には必ず子どもたち自身の意見を聞く慣習となっていることを聞かされた時点でスウェーデンの子どもたちは子ども問題のスペシャリストとして耐えうる、あるいは意見聴取に耐えうる主体性や自立性(あるいは自律性)を備えていることに気づかなければならなかった。気づかないから、"単細胞"で、底の浅い解釈と発想しかできないと書いた。

 主体性も欠いている、自立性(あるいは自律性)も欠いている子どもたちが「子ども問題のスペシャリスト」になり得ないし、子ども関係の法律に関する意見聴取の対象になりうるはずはない。このことを事実だと証明するためにネット上を探し、次の記事、《「主体性」を重視するスウェーデン教育》(日本私立大学協会/平成24年8月22日)に出会うことができた。

 次の一文がある、スウェーデンの〈教育制度で「主体性」が重視されていることだ。スウェーデンの教育の目標は、社会で経済的に自立して生きていける人を生み出すことであり、教育制度はそれを支えるものである。〉――

 記事を纏めてみると、先ず9年制一貫の小・中学校初等教育卒業後、中等教育として高校進学と成人教育プログラムへの進学(他の記事を調べたところ、就職を目指す一般教養も含む職業プログラムのことらしい)の二つの選択肢があり、高校では進学コースと就職コースに分かれていて、就職コースはホテル・レストランコース、保育士・教師コース等の17のプログラムが用意されている。一方高校に進学せずに成人教育プログラムを選択した場合でも、卒業後は就職以外にも大学進学も可能で、個人の選択(=自己決定)に任されている。就職したとしても、学び直しをしたくなって、大学入学を目指すのも個人の選択にかかることになる。

 さらに記事はスウェーデンの統計局実施の高校生意識調査を伝えていて、「卒業後3年以内に大学に行きたいか?」の設問に対して、「はい」は6割、「いいえ」が4割。大学進学猶予期間を4割が3年以上に置いているという。Google AIに聞くと、高卒後から大学進学までの間に、あるいは在学中、卒業から就職までの間に一般的にはということなのだろう、1年間の猶予期間(Gap Year)を置き、留学や旅行、インターンシップ、ボランティア等の社会体験活動を行うことがありますと、個人の選択として根付いている社会的慣習であることを紹介している。

 個人の選択という自己決定行為は主体性と深く関わり、主体的選択としての行動志向を育む。そして個人の選択としての主体性を持たせた自己決定行為は自己責任意識を自ずと芽生えさせ、自己責任意識を裏打ちとした自己決定行為という形を取ることになって、主体性をより確固とした資質とすることになる。

 次も記事が触れていないことだが、スウェーデンの教育理念が"主体性重視"であるなら、親が学校で植え付けられた"主体性重視"の態度を日常的に子どもに求めるようになるだろうし、日本の幼稚園・保育園に当たる、1歳半頃から預かる就学前学校でも、"主体性重視"の行動を求められ、ある年齢に達したなら、父母等の身近な存在から成長過程の節目節目で自己決定に基づいた個人の選択を求められることを実体験としても、社会的慣習となっているということも見聞きして成長していくことになれば、成長と共にハッキリとした意味、場面を取って体験を積み重ねていくこととなり、体験の積み重ねと共に自己決定に基づいた主体性を持った姿勢・行動が常態化していく。

 そして主体性が育まれるに伴って自立心(自律心)は芽生え育っていき、自立心(自律心)を獲得する程に主体性はより確かな姿勢となり、相互に影響し合って育んでいくことになると同時に主体性や自立心(自律心)はこれらとの関連で常について回る自己決定意識や自己責任意識を高めていき、これらの一連のサイクルの各要素は人生の各進路や日常生活の各場面で発揮することが求められて、あるいは自分から進んで発揮していき、自明の資質としていく。

 勿論、言葉通りに理想の姿を取るわけではないだろうが、"主体性重視"という目標を立てなければ、自分から進んで自立的、あるいは自律的に行動するという姿勢・行動も、その姿勢・行動に責任を持つ意識も自覚な育みに向かいにくくなり、このことに応じてこれらの姿勢・行動を自覚的に取る傾向も可能な限り全体的趨勢とすることは難しくなるなるはずである。

 とは言っても、スウェーデンでもイジメは存在していて、《OECD 生徒の学習到達度調査(PISA)2015年調査国際結果報告書『生徒のwell-being(生徒の「健やかさ・幸福度」)』(概要)》の解説によると、〈「いじめの被害経験」指標の平均値を見ると、日本の値は「-0.21」で、OECD平均の0.00よりも小さい。日本について指標を構成する各項目の割合を見みると、最も割合が多いのは、言語的ないじめの「からかわれた」である。次いで、物理的ないじめである「たたかれたり、押されたりした」、関係的ないじめである「意地の悪いうわさを流された」と続く。日本は「からかわれた」及び「たたかれたり、押されたりした」の2項目の割合についてOECD平均を上回り、「仲間外れにされた」「おどされた」「物を取られたり、壊されたりした」「意地の悪いうわさを流された」の4項目の割合がOECD平均を下回る。〉(文飾は当方)としているのに対してスウェーデンの「いじめの被害経験」指標は「-0.11」で日本の約半分となっている。この非常に少ないということ自体がスウェーデンの子どもたちの多くが主体性や自立心(自律心)を獲得するに至っていることの反映と見なければならない。

 視察期間(2015年9月9日〜9月14日)の『スウェーデン王国視察報告書』(YEC(若者エンパワメント委員会))によると、〈スウェーデンでは60、000人の子供と園児がいじめを受けており、これは各クラスに 1、2人がいじめを受けていることになる。〉と伝えている。

 対して尾木直樹書籍『「脱いじめ」論』2013年2月出版近辺の文科省調査2012年度の小学校の
イジメ認知件数は11万7384件で、1000人当たりでは17.4件となっているが、上記報告書では1000人当たりは出ていないから、分からないが、園児を混じえていながら6万人というのは日本の小学校のイジメ認知件数を1件1人としたとしても、約2倍近くの多さになる。1件2人としてほぼ近似値を取ることになるが、園児を差し引くと、日本の方の多さは変わらない。

 上記「報告書」には主体性や自立性(あるいは自律性)重視が如何に生かされているかを伝えている箇所がある。文飾は当方。

 〈政治との近さである。スウェーデンの若者には政治家と触れ合う場が日本と比べて圧倒的に多い。大人だけでなく若者自身が政治家と対面する場を積極的に作り出している。そして、政治家の中にも「若者がこれからの社会で一番長く生きるのだから、若者の意見を聴くことは当然である」と考え、積極的に若者を意思決定の場に参加させている。日本では、若者は知識がなく、未来を担う存在として彼らが社会の決定に参画することは敬遠されがちである。スウェーデンではこういった考えがあるからこそ、19歳や20歳で議員になる若者が当たり前にいる。〉――

 スウェーデンの選挙権も被選挙権も共に18歳だと言う。18歳であったとしても政治を任せるに足る主体性や自立性(あるいは自律性)を背景とした自己決定意識や自己責任意識を備えていると見られているということであろう。

 何度でも取り上げているが、尾木直樹自身が、〈子どもの発達の視点から見ると自立できていない子、もっとやさしく平らな言い方をすると"自分を持てていない子"というのが、「いじめているときのいじめっ子」の非常に大きな特徴〉と解説していることの裏を返すと、イジメの抑止には子どもたちの自立心(自律心)の獲得如何にかかっていることになるにも関わらず、『学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像』は勿論、その他の解説でも、獲得如何にかかっていることを思いつかないままに、あるいは抜かしたままに『「脱いじめ」論』を得々と展開している。自立心(自律心)は主体性の獲得と共に育まれていく。

 また前のところで、傍観者の存在は主体性や自立性(自律性)の欠如と深く関わっていることをあとで述べると書いたが、イジメの目撃者が主体性や自立性(自律性)を行動様式としていたなら、イジメ加害者が怖い存在であったとしても、友人の何人かに働きかけて自分たちから多数派を形成してイジメを止めるか、教師に訴えるかしてイジメをやめさせる行動に出るだろうし、少なくとも自らをいつまでも傍観者の位置に沈めることは避けるはずで、こういったこともスウェーデンのイジメが少ないことの理由と見ることもできる。

 要するにスウェーデンの子ども問題専門家の言葉はスウェーデン子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己決定意識や自己責任意識等の態度・姿勢をそれ相応に備えていることに信頼を置いた、「子どもは、子ども問題のスペシャリスト」の位置づけであり、子どもたち自身の意見を聞くというシステムであって、そのことに一切気づかず、考えずにスウェーデンの子どもたちと日本の子どもたちを同列に置き、同じ役割を機械的に課して、そこにスウェーデンの子どもたちと同様の効果を期待する安易さは底の浅い解釈と発想に基づいているとしか言いようがなく、"どうしようもない単細胞"とする以外の評価は下しようがない。

八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)に続く
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八方美人尾木直樹のスウェーデン教育視察を教訓に「子どもの問題のスペシャリストは子ども」とするどうしようもなく底の浅い解釈と発想(2)

2024-03-16 03:58:30 | 教育
 大体が日本の子どもを子ども問題のスペシャリストと位置づけることの効果を、「これは現代のいじめ問題についても最善の解決策をもたらしてくれるのではないかと思います」と最大限に持ち上げているが、尾木直樹がこれまでに解説してきたイジメ解決の困難性を忘却の彼方に放り投げて180度転換させた、無責任過ぎる期待感となる。この無責任は尾木直樹を信用できない人間という評価に変えうる。

 日本の子どもたちが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等をそれ相応に備えないままに、あるいはこれらの資質を育むことを頭に置かないままに「いじめ対策委員会」を立ち上げようと、「いじめをしない、させない、見逃さない」の「三ない運動」を展開しようと、学校が用意したお仕着せをそのまま纏う
他力本願の取り組みとなる可能性が高く、他力本願が与えることになる従属的対応のままに推移する恐れが生じる。この恐れは、イジメが主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の欠如に端を発していることと考え併せた場合、イジメ認知件数の変わらない推移か、逆に増加傾向という姿となって現れたとしても、止むを得ないことになる。いわばイジメ認知件数と主体性や自立心(自律心)、自己責任意識等の資質の欠如の度合いはほぼ正比例の関係を取るということである。

 以上のことを頭に置いて、尾木直樹の以後の解説を眺めてみる。子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組んだとき、初めてイジメのない学級や学校の実現が可能となる。理由は学校の中にいじめがあることを一番よくわかっているのは子どもたちであることと、教師には発見できていなくても、子どもたちは身近にイジメがあることを知っているから…。

 子どもたちが自らの課題としてイジメ問題に取り組むには主体性や自立性(自律性)といった資質を積極的な行動要素としていなければならない。例え教師には発見できていなくて、子どもたちが身近にイジメがあることを知ることになったとしても、現実問題としてクラスの殆どを占める数で存在し続けているイジメ傍観者は教師より先に知るイジメの存在の把握を無効としている姿であって、同時に主体性や自立性(自律性)といった資質を行動要素として抱えていない姿を示していることになり、イジメ問題を自らの課題とさせることは難しく、学校側の指示に従う形の取り組みであった場合、言われたからするという積極性とは正反対の従属性や惰性に陥りやすく、その分、効果は減じることになり、尾木直樹のイジメのない学級や学校の実現が可能となるという約束は額面通りには受け取れなくなる。

 尾木直樹は引き続いて主体性や自立性(自律性)といった資質の必要性を頭に置くことができずに仲間の同調圧力(ピアプレッシャー)や自身が次はイジメのターゲットになる恐れや思春期のプライドからイジメを話したがらない傾向を考慮して、〈そこで仲間内の生徒会が「3ない運動」を立ち上げてくれたらどうでしょうか。〉と、主体性や自立性(自律性)といった資質を個々に育む方向には向かわずに、あろうことか逆の他力本願を勧めている。断るまでもなく、他力本願の姿勢・行動は主体性や自立性(自律性)といった資質を欠いていることから発する姿勢・行動である。

 だが、尾木直樹はこの他力本願のイジメ根絶の効果を高々と謳い上げている。

・スローガンとして打ち出されていれば、「ほら、3ないだよ。やめなよ」と言うことができる。
・「みんなで決めたこと」という錦の御旗があることで、全体の意志をバックに「3ないだから、いじめやめよう」と明るく堂々と言うことができる。
・元々どの子の中にも「いじめはよくない」、「人の心を傷つけることは恥ずかしい」という気持ちはあるのだが、一人声高に言い、前面に立つ勇気がなかなか持てないだけのこと。
・生徒会という子どもたちの自治の最高機関が「いじめない、させない、見逃さない」を謳い、校内のあちこちにスローガンを掲示してくれれば、俄然行動もしやすくなる。
・一人ひとりの心のうちにあった認識が、逆の同調圧力(ピアプレッシャー)として良い方向に作用し、周りにつられて「みんながいじめを追放したがっている。自分も行動していかなくては」と動き出す子も増えていく。
・それが全体の大きなうねりとなって行き渡れば、いじめの駆逐は夢ではない。――

 全てが自分から動くのではなく、他を頼り、他の動きを見て、自分が動く。周囲の形勢を見ることになり、形勢に応じて動くことになるから、例え「それが全体の大きなうねり」となったとしても、精々付和雷同を正体とすることになって、一時的か、その場限りか、その程度で、ホンモノのうねりとはなり得ない。主体性や自立性(自律性)の行動様式に従って自分たちから立ち上がるという形式を、それらを欠いているがゆえに取ることができないだろうからだ。 

 当然、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」という発案も、「子どもが中心」という熱い期待も、綺麗事の幻想に過ぎないことを暴露することになる。

 〈子どもが中心にならない「いじめ対策」は、形式的、表面的にいじめがなくなったように見えても、いじめの根を残したままになってしまいます。根っこを埋もれさせたままにしないため、極論をいえば、私は「子ども問題のスペシャリスト」である子どもたちに任せてしまうのがよいと思います。〉――

 子どもが中心のイジメ対策はイジメの根を残さない、教師指導のイジメ対策はイジメの根を残したままになる。それ程にも子どもを万能な存在と見ることができるのは尾木直樹の教育者としての人徳の深さなのだろう。子どもと言えども、感情の生き物である。その上、イジメ加害者にしても主体性や自立性(自律性)といった資質が成長途上であった場合、あるいは未成熟な状態にあった場合、そのような状況に応じて感情のコントロールも未成熟な状態にあると見なければならないから、これらの事情が障害となってイジメ被害者側との関係修復に素直に割り切ることができなければ、否でも根を残すケースも出てくる。出てこないという保証はどこにもない。

 要するに尾木直樹がここで解説している、子ども中心であればイジメの根を残さない解決策が可能という見方はイジメ解決側の事情からのみ見ていて、イジメ加害者側の利害を抜きにしているからである。教師指導でのイジメ解決であろうと、子ども中心のイジメ解決が可能であったとしても、現実問題として解決後、暫くは監視を続けなければならない事情はイジメ加害者側が感情の生き物として悪感情を再発させる恐れや可能性を予測しているからだろう。尾木直樹は教師を何十年、教育評論家も何十年とやってきて、実際にはイジメの何たるかを何も弁えていない無知蒙昧の輩のようだ。だから、何の根拠もなしに子ども中心のイジメ解決は根を残さないなどいうデタラメを言うことができる。

 イジメを抑制していくためにも、イジメ傍観者を少なくしていくためにも、既に述べているようにどのような能力・才能に基づいた、どういった活動に自らの可能性を置いて学校生活で望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、見い出しているのか、あるいは将来的な生活に向けてどういった活動で自らの可能性を試し、望ましい自己実現を見い出そうとしているのか、機会あるごとに問いかけて、それぞれの行動を自己省察させる"可能性教育"を行う。

 自己省察は自ずと他者省察に向い、自他の省察能力を育み、この自他省察の自分という人間を考えさせて、他人という人間を考えさせる働き合いによって、「こうあるべきだ」、「こうあるべきではない」と考えるようになり、そのように考える働きが自分の意志や判断に基づいていて自覚的に行動する態度や性格を指す主体性を育む方向に進むと同時に自分の考えで自ら行動するという点で意味の重なる自立心と自律心を併せ育んでいく。主体性や自立心(自律心)が社会的な規範との兼ね合いで正しいことか正しくないかを判断させて、自己の価値観を正しい方向に形作っていき、それが良心という形を取って、例え突発的な感情に流されてイジメてしまったとしても、その行為に負けてしまうことなく、身に付けた諸々の行動要素によって感情のコントロールが働くこととなり、自己抑制の理性が機能するという道筋を取り、自分からイジメを止めることになるだろう。

 一方でイジメを許していることになる傍観者となることは倫理的に許すことのできない自己の価値観(=良心)との間に心理的なねじりを生み、そのねじりに人間の自然な感情によって後ろ暗さを感じることとなり、その後ろ暗さを主体性や自立心(自律心)によって備えることになる自己責任意識から解消すべく、知恵を働かす。働かせなければ、主体性や自立心(自律心)を自らの資質としたこと、姿勢・行動とした意味を失う。

 イジメの抑止についても、イジメの傍観者を減らしていくためにも、児童・生徒に責任ある行動を取らせるためにも主体性や自立心(自律心)の育みに視点を置いた教育が必要だが、尾木直樹にはこの視点は一切なく、イジメを「本気でなくす」だ、「学校におけるいじめ防止実践プログラム全体像」だと、役に立たない綺麗事を撒き散らしている。

 当然、子どもたちを「子ども問題のスペシャリスト」との位置づけを行う場合にしても、その資格は主体性や自立性(自律性)、自己決定意識、自己責任意識等々の資質のそれ相応の体現者であることを頭に置かなければならないが、尾木直樹はこういったことにも頭を置くことができないのだから、尾木直樹の「いじめ対策」に於ける"子どもスペシャリスト論"は幻想そのものの砂上の楼閣に過ぎない。現実問題としても、イジメ傍観者内には"正義派"が3人はいて、その3人を中心にイジメ加害者に対抗する多数派を形勢、イジメ問題を解決すべきという発案自体が当方が指摘したとおりに矛盾に満ちている上に主体性等々の資質の育みの重要性を忘却しているのだから、子ども自身にイジメ問題に立ち向かわせることはイジメ加害者側の勢力次第という当てにならない成り行きを示すことになるだろう。

 尾木直樹の最後の纏め。〈大人が躍起になっていじめを封じ込めるのでなく、子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼して、子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく方向にもっていくことだと思います。いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくことではないでしょうか。〉――

・子どもたちの知恵と勇気と努力を信頼する
・子どもたちが主役となり、自分たちの周りから「いじめ」を遠ざけていく
・いじめ問題に関する教師や親の役割は、子どもたちが自発的に取り組んでいけるよう、パートナーとして支えていくこと

 尾木直樹は「子どもたちが主役」を何度か取り上げている。子どもたちを信頼する思い遣り、理解する優しさに満ちた姿は見て取れる。これだけ信頼され、深く理解されたなら、信頼と理解に応えることになるだろう。既に触れていることだが、信頼と理解に応えるには子どもたちがそこに存在するだけで可能となるわけではないことは尾木直樹も認識していなければならないが、そこに存在するだけで可能となるような言い回ししか窺うことができない。

 子どもたちが主体性や自立性(自律性)を年齢相応に育むまでに至らずに自己決定意識や自己責任意識を欠いていたなら、このことはイジメを目の前にしてもクラスの殆がイジメの傍観者に成り下がることが証明していることで、このような状況下で子どもたちを主役に位置づけ、尾木直樹が信頼と理解を寄せて期待する役割を十分にこなすことは不可能なのは目に見えている。

 結局のところ、1997年のスウェーデンの教育視察は深く理解できずにその上っ面だけを参考にして、「子どもの問題のスペシャリストは子ども」だと自らの底の浅い解釈と発想を得意げに振り回したものの、役にも立たない見当違いを大真面目に演じているだけのことで、尾木直樹は教育評論家を名乗るピエロに過ぎない。だが、そのことに誰も気づかない。

 今回はここまで。

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