「富士大石寺顕正会」の若者二人とのやりとり。
「いずれの宗派か」 「普化宗」
「経典は?」 「何も無い」
「釈迦の説かれた法華経とかあるでしょう」「知らん」
「偽坊主か」「物事を正しく見る目はないのか。袈裟も
数珠も付けていないのに僧侶だと思われたのか?」
(内心、付けてないでよかった)
「新興宗教か」「日蓮宗よりは古い」
「会員はいるのか」「ここを通る人皆が会員だ」
「あなたのやっていることで人々を幸せにできるのか」
「私の尺八で慰められる人もいるでしょう」
「人を騙している。地獄へゆけ」
「釈迦は地獄、極楽など説いてはいない。あんたはキリスト教か?」
というわけで論争となった。「地獄極楽、前世来世」は有るか
無いか、釈迦は「ある」と言ったのか?
私の考えはこうだ。
釈迦は一文字も経典を残していない。
経典は、釈迦寂滅後500年1,000年を経て、後世の人が
書き残したものだ。釈迦は家も寺も持たず、ひたすら
歩いて人々に仏性を説いた。論争はしていない。教団を
作ることも嫌った。
それなのに、今の仏教界は、文字に捉われ、一言一句の
解釈で論争し、対立し、非難、誹謗中傷を行っている。
釈迦の真意ではあるまい。自らの行いで、人々の心の中
にある仏性を目覚めさせる。それが釈迦の説く仏教ならば、
虚無僧が尺八を吹いて、人々の心の中の仏性に響いてもら
えれば、これが本当の仏教徒だ。やたら論争を好み、闘争心
むき出しの宗派が仏教とはいえるのだろうか。そもそも
妻帯していること自体仏との誓い(戒)を破っているでは
ないか。
「いずれの宗派か」 「普化宗」
「経典は?」 「何も無い」
「釈迦の説かれた法華経とかあるでしょう」「知らん」
「偽坊主か」「物事を正しく見る目はないのか。袈裟も
数珠も付けていないのに僧侶だと思われたのか?」
(内心、付けてないでよかった)
「新興宗教か」「日蓮宗よりは古い」
「会員はいるのか」「ここを通る人皆が会員だ」
「あなたのやっていることで人々を幸せにできるのか」
「私の尺八で慰められる人もいるでしょう」
「人を騙している。地獄へゆけ」
「釈迦は地獄、極楽など説いてはいない。あんたはキリスト教か?」
というわけで論争となった。「地獄極楽、前世来世」は有るか
無いか、釈迦は「ある」と言ったのか?
私の考えはこうだ。
釈迦は一文字も経典を残していない。
経典は、釈迦寂滅後500年1,000年を経て、後世の人が
書き残したものだ。釈迦は家も寺も持たず、ひたすら
歩いて人々に仏性を説いた。論争はしていない。教団を
作ることも嫌った。
それなのに、今の仏教界は、文字に捉われ、一言一句の
解釈で論争し、対立し、非難、誹謗中傷を行っている。
釈迦の真意ではあるまい。自らの行いで、人々の心の中
にある仏性を目覚めさせる。それが釈迦の説く仏教ならば、
虚無僧が尺八を吹いて、人々の心の中の仏性に響いてもら
えれば、これが本当の仏教徒だ。やたら論争を好み、闘争心
むき出しの宗派が仏教とはいえるのだろうか。そもそも
妻帯していること自体仏との誓い(戒)を破っているでは
ないか。