現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

TV「白虎隊」後半は全くデタラメ

2013-01-02 23:10:38 | テレビ・映画・芸能人
1月2日、午後5時から始まった「新春ワイド時代劇
『白虎隊~敗れざる者たち』(テレビ東京)。深夜11時を
過ぎてまだ終わらない。もう後半はデタラメ。

西軍の会津侵攻は怒涛の如くだった。郡山から会津まで
60km、途中険しい中山峠、母成峠がある。その急坂を
大砲、弾薬を運びながら、わずか1日で会津に迫って
いるのだ。これには、私も驚く。

8月23日には、滝沢峠を越えて城下に乱入してくる。
白虎隊の自刃も西郷家の一家自刃も、すべてこの1日の
こと。市内は大混乱だった。

それなのに、もったもた、もたもた、話しがダラダラ続く。
西郷頼母は、なんと殿様の側室が孕んだので、それを
米沢に逃がすお役とか。白虎隊の飯沼貞吉は、なんと
お城にまでかつぎこまれ、ただ一人の生存者となる。
嘘だ!

飯沼貞吉は山中の岩屋に隠れていたのだ。誰もが
知っている事実を、こんな風にねじ曲げられては、
もうシラケルばかり。史実どおり描いてくれた方が
よほど緊迫感があって泣けるのに、のんびりした
緊張感の無い戦争だ。

もう、あくびが出る。明日は早い、早く寝たいのに、
早く終わらんかい!

「西郷」の「さいご」のセリフ。「焦らず、怒らず、
威張らず、腐らず、負けず」。びっくり目が覚めた。
これってコロッケの「母さんのアオイクマ」では
ないか。盗作盗作。どッチラケ。

結局、西郷はその後どうなったのかいな。解説もなく
尻切れトンボに終わった。全く泣けなかった。時間の
浪費でござった。ガチョ~ン

12:45 了

「松平容保」の正室・側室たち

2013-01-02 21:36:09 | 会津藩のこと
テレビ『白虎隊』では、会津藩主「松平容保」と
義姉の「照姫」とが懇ろの関係であったかのように
設定しているが、それはジェームス三木の作為。
では「容保」に妻や側室はいなかったのか。

「容保」は病弱だったため、“おなご”を寄せ付け
なかったかのように、どのドラマも描いている。

「容保」の女性関係に触れた本は ほとんどない。。
ところがどっこい、Wiki-pediaには載っている。

正室は 8代「松平容敬」の娘「敏姫」。「容保」は
「8代松平容敬」の娘と婚約し、婿養子だったのだ。
その正室「敏姫」は早世し、継室は「前田慶寧の娘
浦乃局(礼姫)」。

側室もいた。佐久田代孫兵衛の娘「佐久」と、
川村兵衛の娘「名賀」。継室、側室の3人については
「会津通」の私でも、書いたものを見たことがない。

そして、会津が開城した翌明治2年(1869年)6月に
側室の「佐久」が「容大」を出産している。
会津戦争のさなか、殿様は側室と同衾していたのだ。
このことはタブーなのか、どの本にも書かれていない。

養子の「喜徳」こそ気の毒。会津戦争の時の名目上の
「藩主」で、辛酸を舐めさせられ、「容大」が生まれ
たら、水戸に帰されたのだから。



松平容保と照姫

2013-01-02 20:46:28 | 会津藩のこと
テレビ『白虎隊』では「藩主松平容保と姉照姫が兄妹の
なさぬ仲」だったとしている。ジェームス三木のドラマ
だから、話を面白くするためは見えみえ。

「照姫」の扱いには、今までのドラマはみな苦労している。
「姫様」というのだから「容保」の娘という扱いもあったが、
実は「容保」より3歳年上の出戻りであった。


そもそも、会津藩 第9代藩主「松平容保」は、美濃の
高須「松平義建」の第六子として、天保六年(1835)年
江戸四谷邸で生まれた。17歳で会津藩第8代藩主
「松平容敬(かたたか)」 の養子となった。
実は、8代「容敬」も美濃高須家から養子に来ており、
「容保」は「容敬」の甥になる。会津藩主は8代、9代
が美濃高須家から来ている。10代は、なんと徳川慶喜の
弟「喜徳」である。

照姫は、天保3年(1832)上総飯野藩2万石「保科正丕
(まさもと)の三女として生まれた。10歳の時、会津藩
8代藩主「松平容敬」の養女となった。この保科家は、
会津藩と親戚になる。本家筋なのだ。

照姫は、18歳で、備前中津10万石「奥平大膳大夫昌服」に
嫁いだが、五年後の安政元年(1854)23歳で離婚となり、
江戸の会津藩邸に戻った。

慶応四年(1868)正月、鳥羽・伏見の役で幕府軍は大敗し、
2月、会津藩邸の総引き揚げで、照姫は初めて会津入りした。

というわけで「容保」と「照姫」は、二人共先代「容敬」の
養子、養女で、血のつながらない姉弟。二人の接点は
会津籠城の時ぐらいである。ドラマのように「照姫」が
京都に行っていたという事実は無い。



『白虎隊』は超現代劇だ!

2013-01-02 19:21:25 | 会津藩のこと
「白虎隊」は超現代劇だ! 北大路欣也 (産経新聞) - goo ニュース

新春ワイド時代劇(TV東京)『白虎隊~敗れざる者たち』は、
家老、西郷頼母(たのも)とその家族の視点から描いた。
これまでの“会津戦争モノ”では、「西郷頼母」は
「反戦論者」で“弱腰、卑怯者”の謗(そし)りを受け、
どちらからというと脇役だった。その難しい役柄を
「ジェームス三木」は、さすが、みごとに描いている。

武士の主従の絆、友情が精緻に描かれており、主演の北大路欣也は
「信頼で人間関係の成り立つ、現代劇の先にある超現代劇だ」と語る。

「僕はこれは現代劇だと思っている。頼母みたいな人は 今も現実に
たくさんいて、僕は憧れてきた。現代とつながっていなければ 実感
できないですよ」。と、時代が「地続き」であることを語る。

「この時代に響いた言葉の魂を、僕の肉体を通して響かせること。
それが俳優の役目だと思う」と。

32歳の「西郷頼母」を 69歳の「北大路欣也」が重厚に
演じている。

「西郷頼母」は「合気道」の祖?

2013-01-02 18:56:06 | 会津藩のこと
『白虎隊』の冒頭で、西郷頼母がみずから藩校「日新館」で
子供たちに「空手」を教えていた。

最近、「西郷頼母」について「合気道」の祖という説が
浮上してきました。

会津藩には「御留流」という武術があり、それを
「西郷頼母」が秘かに? 伝承していたというのです。

徳川将軍家のご指南役となった「柳生流」は、
攻撃よりも、襲われた時に、相手の力を制止し、
小手を打つという“防御”を中心にしています。

会津藩の「御留流」も、正に字の通り、敵の攻撃を
“留める”ための護身術でした。筆頭家老として
藩主の側近くに仕える身として、もし、殿様に
危害を及ぼす者があれば、刀を用いずに制する
という防御術を身に付けていたのです。

幕末の動乱期に、会津藩は京都守護職として、幕府や
公家の要人を警護する役回りにあり、そのために
家老「西郷頼母」は「御留流」を藩士に伝授しようと
していたというのです。

「西郷派大東流」という合気道の古流があって、
その「由緒書」にそのように書かれているそうです。

「西郷頼母」は、明治になって、「志田四郎」を
養子にしています。「姿三四郎」のモデルになった
「西郷四郎」です。頼母は、彼に会津藩の「御留流」を
彼に伝えたかったとのだというのです。

しかし、西郷四郎は、嘉納治五郎に師事し、「講道館
柔道」の四天王となって、合気道とは一線を画すように
なります。それで西郷四郎と「頼母」の親子の縁は
疎遠になったということも理解できます。

「防御・護身術」の西郷頼母だったからこそ、
徹底して「反戦」を唱えたのかと、新たな面が
浮かび上がってきました。これまでの“弱虫、
逃げ腰”という評価は改めるべきかと思います。