現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

西郷頼母の一家自刃

2013-01-15 21:10:01 | 会津藩のこと
会津藩筆頭家老「西郷頼母」の屋敷は、鶴ヶ城の正面、
「追い手門」前にありました。今、東山温泉入り口近くに、
観光用に西郷邸を復元した「武家屋敷」があります。
『八重の桜』他、時代劇のロケなどに使われています。
敷地400坪、部屋数35もあります。(私の父の実家「牧原」の
本家もそのくらいあります)

さて、この「追い手門」前の西郷邸では、慶応4年
(1868)の8月23日、「西郷頼母」の妻子と親戚縁者
21人が自刃するという惨劇が起きました。

早鐘の「西軍来る」の報に、城に逃げ込む時間は十分
あったはずですが、「西郷頼母」の城内での微妙な立場を
家族は感じていたのでしょう。「反戦」を主張して
「卑怯者、弱虫」の謗(そし)りを受けていた「頼母」の
名誉のためにも、母と妻子は自刃したのでしょうか。

主「頼母」と一子「吉十郎」を送り出すと、一家全員、
死に装束に威儀を正し、砲声を聞きながら、辞世の句を
認(したた)めて、従容(しょうよう)として死につきました。

「頼母」の母 「律子」(58歳)の辞世は
「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

そして「頼母」の 妻「千重子」(34歳)の辞世が
「なよ竹の 風にまかする身ながらも たわまぬ節は ありとこそきけ」

以下、妹 眉寿子(26歳)
「死にかへり 幾度世には生きるとも ますら武雄と なりなんものを」

妹 由布子(23歳)
「武士の道と 聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」

「頼母」の次女 「瀑布子」(13歳)が上の句
 「手をとりて ともに行きなば まよわじと」と上の句を詠み、

 長女 「細布子」(16歳)が
 「いざ たどらまし 死出の山みち」と下の句をつなげたと云います。

あの混乱のさ中、こうした話が伝えられていることが、私には
不思議でならないのですが、このシーンは、年末時代劇『白虎隊』
はじめ数々のドラマの名場面として演じられています。

私も子供の頃から幾度となく聞かされ、辞世の句は、すべて
諳(そら)んじていました。

今、「鶴が城」東の「青木山」のふもとにある「善龍寺」の墓地
「なよ竹の碑」があります。

なお、この日、白虎隊士 20名も飯盛山で自刃しました。
その中、蘇生した「飯沼貞吉」は、西郷頼母の妻「(飯沼)千恵子」の
甥にあたります。

土佐藩士「中島信行」は人違い?

2013-01-15 20:59:25 | 会津藩のこと
「西郷邸での21人自刃」の話で、必ず語られるのが、
土佐藩士「中島信行」の美談です。

土佐藩士「中島信行」が、西郷邸に突入して見たものは、
一家21人の惨劇の場面。その中の一人の少女(長女の
「細布子」16歳)が 死に切れず 意識があり、「敵か、
お味方か?」と聞いた。中島は「味方です」と答えると、
少女は 安心した表情で「武士の情けを」と介錯を乞うた。
そこで中島は、苦しむ彼女に止めを刺すと、その場で
感涙したというもの。

これも、会津戦争のドラマの名場面ですが、土佐藩の
「中島信行」(1846年--1899年)は、実は 会津戦争には
参加していなかったことが、最近 明らかにされました。

「土佐藩の中島信行」ならば、後に板垣退助の自由党の
副総裁になる人物ですが、そもそも 本人がそのような
ことを語ったという記録は無いのです。

どうやら“人違い”“名前の聞き違い”だったようですが、
では いったい誰が その場面を目撃していて、その隊士の
名前を聞いたのでしょうか。これまた 不思議な話です。




10年で1,000万円をお寺に!

2013-01-15 03:48:16 | 筝尺八演奏家
昨日、詩吟の伴奏でご一緒させていただいたお箏の
S先生。82歳で現役。宴会の料理は、魚ダメ、肉
ダメ、なま物ダメで、ほとんど召し上がらない。
それで、髪型も着物も娘っ子のような装い。その
元気の秘密を聞いてみました。

「○○薬師でご祈祷してもらったら、『あなたの先祖は
強欲で、悪行を積んできた。その分、あなたは徳積みを
しなければいけません』とのご託宣。そこで「1,000万を
布施する誓いを立て、箏で得た収入はすべて○○薬師に
布施してきた。10年で1,000万を達成した」との
こと。

毎年100万。月8万。そんなに演奏の仕事があったとは。
でもバブルの時のこと。1,000万を達成したら
パタッと仕事が無くなってしまった。でもこうして
細々ながら収入があり、健康でいられるのは、仏様の
ご加護のおかげ」と、どこまでも信心深い。

はて、虚無僧は布施していただくことはあっても、明暗寺に
納めるのは 毎年5,000円だけ。虚無僧はいいね。

私は、皆から「先祖の徳ですよ」と言われる。「先祖や
親がたくさんの“徳積み”をしてくれた、そのおかげで
今食べていけるのだ」と。そうかもしれない。