現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「座頭市」も会津の人だった!?

2013-01-29 17:10:53 | テレビ・映画・芸能人
『八重の桜』の「綾瀬はるか」。映画・TVドラマでは
『おっぱいバレー』しか知らなかったが、You-tubeで見ると、
『冬空に月は輝く』では、弓道部で弓をひいていた。
『Ichi』では、なんと“女座頭市”を演じていた。
そして『八重の桜』では鉄砲だ。あの細腕で、なかなやる。

「座頭市」といえば「勝新太郎」。刀さばきだけでない。
目が見えないのに敵を察知する。それを耳を動かすことで表す。
「勝新」の役者魂はすごいものだ。

さて「座頭」とは盲人の琵琶法師の職制。「検校(けんぎょう)」
「勾当(こうとう)」そして「座頭」。琵琶だけでなく三味線、
箏も弾く。

映画の「座頭市」は、子母澤寛が1948年(昭和23)、雑誌
『小説と読物』に連載した『ふところ手帖』の1篇『座頭市物語』が
原作。 『天保水滸伝』で知られる 房総地方の侠客「飯岡助五郎」に
ついて取材するため、千葉県佐原市へ訪れた際、土地の古老から
盲目の侠客「座頭の市」の話を聞き、それを基に創作した。

映画版では「茨城県の笠間市の生まれ」ということになっており、
笠間市には「座頭市の碑」が建っている。

ところが、これまた、会津若松市南千石町の「浄光寺」に「座頭市の墓」が
ある。゜会津の「座頭市」は、長岡藩主牧野家のご落胤であったが、
青年時代に眼病を患って失明、母方の祖父の家である磐梯町の
桑原家に奇遇して、あんまやハリの修業をし「佐渡市」と名乗った。

幼少の頃から文武両道を仕込まれていたため、会津では盲人の
総元締となり、一時は やくざの仲間に入り、渡世人となって
他国を廻ったとも。嘉永2年、78歳で没している。

子母澤寛の原作にも「後日談」として「猪苗代湖の近くの小高い
丘の辺りに住んだ」という記述もあり、会津の「佐渡市」が
「座頭市」の墓であることはまちがいないと。

八重の兄、「山本覚馬」も後に失明するのだ。




もうひとつの「座頭市」物語

2013-01-29 16:46:53 | 会津藩のこと
「座頭市」の墓がある会津若松市千石町の「井上浄光寺」は、
「座頭市」の子孫、(あるいは弟子の一人?)「阿部寅吉」の
菩提寺。「阿部寅吉」は昭和20年に亡くなっている。

この時点まで「座頭市」の墓は無かったようだ。「阿部寅吉」の
墓も無く、遺骨は「浄光寺」に預けられたままになっていたという。
二人の墓が建てられたのは近年のようだ。

子母澤寛が 雑誌『小説と読物』に『ふところ手帖』で
『座頭市』を描いたのは、昭和23年。

どうやら、映画「勝新」で有名になった「座頭市」に便乗して、
「浄光寺」が、昭和60年頃、観光客誘致のために「座頭市の墓」を
作ったようだ。

たしかに、会津通の私だが、子供の頃「座頭市」の墓がある
という話は聞いたことが無かった。


もうひとつの「座頭市」の話が、猪苗代湖の南「福良」に伝わっている。

明治の世、会津では「大津絵流し」が大流行し、福良の座頭たちは、
若松城下街を門付けして回った。唄と三味線は「座頭市」の仕込みで
あったといわれている。

古老の語るところによると、幕末に関東の渡世者「座頭市」が
やってきて「福良」に逗留した。彼は、やくざに追われて
足利から会津に流れてきた。

福良宿につき、旅籠「和歌野屋」に数日逗留した。だが、近くで
賭場の開帳があり、つい生来の悪癖で有卦(うけ)に入り、
大儲けした。宿に帰るとおかみに筆墨紙を出させ、辞世の歌を
したため着物の襟に糸でぬいつけた。「目が見えないのに」と
おかみが聞くと、「俺ら子供の頃は目が見えた。手習いもし
雪月花の風情も知っている。実は関東から追手につけられてるんで、
いつ死んでもよい覚悟はできている」と答え、宿に迷惑が
かからぬようにと、茶代をはずみ 夜の明けぬうち出立した。

舟津港への間道を辿っていると、湖岸の絶壁七曲りで、追いはぎに
襲われて、懐中物を奪われ、湖に突き落とされた。通りかかりの
者に小舟で助けられ、一命はとりとめたが、足が不自由になり、
百姓手伝いなどしながら、弟子を取って按摩の術から、座頭芸
まで献身的に伝授して没した、といわれる。その弟子の一人が
「阿部寅吉」とのこと。

だいたい、「耳なし芳一」もそうだが、「一、市」は盲人の
俗名なのだ。私も琵琶師のK氏に「虚無僧、一路です」と
名乗ったら「おめくらんですか」と からかわれたことが
あった。「琵琶法師こそ盲目でござろう」(笑い)