2日の『白虎隊』に対抗するかのように、前日の元旦、
BS時代劇チャンネルで『奇兵隊』をやっていた。
1989年の暮「日本テレビ年末時代劇スペシャル」として
5時間放映されていたもの。
(尚、日本テレビの年末時代劇スペシャルは、これ以前
1986年に『白虎隊』、1987年『田原坂』、1988年は
『五稜郭』と幕末ものを連作し、それに続く1989年
『奇兵隊』だった。時代が行きつ戻りつしている。
「高杉晋作」役は「暴れん坊将軍」の「松平健」。
小柄で、肺結核病みで29歳で病没した「晋作」に
しては恰幅が良すぎて、イメージに合わないが、
ドラマとしては見ごたえがあった。
そのほか、 桂小五郎(後の木戸孝允)を「中村雅俊」。
村田蔵六(後の大村益次郎)を「片岡鶴太郎」。
周布政之助を「津川雅彦」。一橋慶喜(後の徳川慶喜)を
「高橋英樹」。西郷隆盛を「梅宮辰夫」と、堂々とした
顔ぶれだった。坂本竜馬は「武田鉄矢」で、こちらは破天荒。
『奇兵隊』は、1863年(文久3年)の下関戦争の後に長州の
高杉晋作らによって組織された戦闘部隊で、武士以外の者が
多く集められた。
「禁門(蛤御門)の変」以降、幕府の第一次、二次にわたる
「長州征討」に、長州内部では保守派と進歩派との派閥
抗争があった。一時は保守派が進歩派を粛清し、家老3人の
首を差し出すなど、幕府に恭順を示すが、高杉晋作らの
反撃で、今度は保守派が一掃され、幕軍を相手に奮戦する。
それが、正規藩士ではなく、町民、農民、力士、さらに
も加わり、身分制度を撤廃した戦闘員だったことが
注目される。
高杉晋作は 慶應3年4月14日、明治になる一年前、討幕を
夢みながら、肺結核で倒れた。29歳だった。
「奇兵隊」の隊士たちは、「士分に取り立てられる」という
条件に、命を張って、戊辰戦争まで戦ったのであるが、
その末路は実に哀れだった。明治2年(1869)「解散命令」に
反対騒動を起こして、木戸孝允(桂小五郎)によって武力
鎮圧され、130人あまりが処刑された。これは、会津戦争の
戦死者数よりはるかに多い。会津戦争での「奇兵隊」の死者は
わずか6名。意気揚々山口に帰り、戊辰戦争を戦ったのは
自分達であるとの自負心があったが、その驕りを砕くべく、
粛清されてしまったのだ。「奇兵隊」の最後の敵は、またまた
「長州藩」だったのだ。無惨。
尚、今年は「奇兵隊」結成150年。2017年の「晋作没後
150周年」までの5年間、山口市と下関市で合同キャン
ペーンを行うのだが、「高杉晋作の遺品」の所有権を
めぐって、山口と下関で、ごちゃごちゃもめているらしい。
長州は なかなか大変のようです。
追記: 「禁門の変」の後「新撰組による長州残党刈りが
行われた」というシーンで、二人の虚無僧が斬られる。
この原作者は知っていたのだろうか。この時の京都明暗寺
の看主は、長州出身だったので、長州の残党を匿って
いたのだ。二人とも捕らえられて投獄されている。
BS時代劇チャンネルで『奇兵隊』をやっていた。
1989年の暮「日本テレビ年末時代劇スペシャル」として
5時間放映されていたもの。
(尚、日本テレビの年末時代劇スペシャルは、これ以前
1986年に『白虎隊』、1987年『田原坂』、1988年は
『五稜郭』と幕末ものを連作し、それに続く1989年
『奇兵隊』だった。時代が行きつ戻りつしている。
「高杉晋作」役は「暴れん坊将軍」の「松平健」。
小柄で、肺結核病みで29歳で病没した「晋作」に
しては恰幅が良すぎて、イメージに合わないが、
ドラマとしては見ごたえがあった。
そのほか、 桂小五郎(後の木戸孝允)を「中村雅俊」。
村田蔵六(後の大村益次郎)を「片岡鶴太郎」。
周布政之助を「津川雅彦」。一橋慶喜(後の徳川慶喜)を
「高橋英樹」。西郷隆盛を「梅宮辰夫」と、堂々とした
顔ぶれだった。坂本竜馬は「武田鉄矢」で、こちらは破天荒。
『奇兵隊』は、1863年(文久3年)の下関戦争の後に長州の
高杉晋作らによって組織された戦闘部隊で、武士以外の者が
多く集められた。
「禁門(蛤御門)の変」以降、幕府の第一次、二次にわたる
「長州征討」に、長州内部では保守派と進歩派との派閥
抗争があった。一時は保守派が進歩派を粛清し、家老3人の
首を差し出すなど、幕府に恭順を示すが、高杉晋作らの
反撃で、今度は保守派が一掃され、幕軍を相手に奮戦する。
それが、正規藩士ではなく、町民、農民、力士、さらに
も加わり、身分制度を撤廃した戦闘員だったことが
注目される。
高杉晋作は 慶應3年4月14日、明治になる一年前、討幕を
夢みながら、肺結核で倒れた。29歳だった。
「奇兵隊」の隊士たちは、「士分に取り立てられる」という
条件に、命を張って、戊辰戦争まで戦ったのであるが、
その末路は実に哀れだった。明治2年(1869)「解散命令」に
反対騒動を起こして、木戸孝允(桂小五郎)によって武力
鎮圧され、130人あまりが処刑された。これは、会津戦争の
戦死者数よりはるかに多い。会津戦争での「奇兵隊」の死者は
わずか6名。意気揚々山口に帰り、戊辰戦争を戦ったのは
自分達であるとの自負心があったが、その驕りを砕くべく、
粛清されてしまったのだ。「奇兵隊」の最後の敵は、またまた
「長州藩」だったのだ。無惨。
尚、今年は「奇兵隊」結成150年。2017年の「晋作没後
150周年」までの5年間、山口市と下関市で合同キャン
ペーンを行うのだが、「高杉晋作の遺品」の所有権を
めぐって、山口と下関で、ごちゃごちゃもめているらしい。
長州は なかなか大変のようです。
追記: 「禁門の変」の後「新撰組による長州残党刈りが
行われた」というシーンで、二人の虚無僧が斬られる。
この原作者は知っていたのだろうか。この時の京都明暗寺
の看主は、長州出身だったので、長州の残党を匿って
いたのだ。二人とも捕らえられて投獄されている。