現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

「会津藩・糞尿事件」

2013-01-26 20:46:31 | 会津藩のこと
クイズ番組で「会津藩が降服したのは、糞尿に困ったため」と
いうのが「正解」にされ、会津人は「ふんぱんもの」と抗議
したのでありました。

実は私、この「遺体や糞尿処理」に関心があります。

会津贔屓の作家「中村彰彦」氏は、「5,000人が籠城したが、
城の敷地は、約10万坪あり、深いお堀に囲まれて、糞尿だって
始末はできた」と反論してますが、はたして真相はいかに。

5,000人が毎日排泄するのですから、たしかに、城内は
すぐ満杯になったでしょう。

死体は堀に投げ込んだというのを読んだ記憶があります。
糞尿も堀に捨てたのでしょうか。降服後、遺体は、誰が
どう処理したのでしょうか。

小学校の林間学校の記憶といえば、ぽっちゃんトイレ。もう
満杯で山盛り。あれは今でも夢に出てくるくらいの恐怖でした。

長良川の花火大会で、土手に5万人が詰め掛けた時のこと、
一番困ったのがトイレです。仮設トイレの前は、延々長蛇の列。
3~40分も待たされ、よく みなさん洩らさなかったものです。
花火より、そちらに気を奪われていました。


さてさて、太平洋戦争中は、会津若松歩兵65連隊が置かれ、
2,500名の兵隊さんが常駐していました。また現在の「鶴ヶ城」を
訪れる観光客数を調べてたたところ、観光客が多い8月で、
日に2千人。トイレは11ヶ所。これで対応できるなら、
5千人でも 案外大丈夫のようです。


『八重の桜』の時代考証人は・・・

2013-01-26 20:33:03 | 「八重の桜」
ネットを見ると、よくもまぁ、いろいろ書く人がいるものですな。

「会津藩・糞尿降服事件」というサイトがありました。

2008年2月16日、TBS放送の「歴史王グランプリ2008まさか!の
日本史雑学クイズ100連発」で、「会津藩が降服したのは、たまった
糞尿に耐え切れず、旧幕府軍が城を逃げ出したため」というのが
正解とされた。

これに会津関係者が猛反発し、「ふんぱんもの!」と、菅家・
会津若松市長が代表して、TBSに抗議文を送った。そして
TBSの社長が謝罪するという騒動になった。その問題と
解答を作ったのが「山村竜也」氏。

なんと『八重の桜』の時代考証に携わっている人だった。
「糞尿が理由で降服した」という根拠、史料の提示を求めた時、
「山村竜也」氏は、「『戊辰戦争速記録』という史書に書かれている」
と釈明したようですが、会津贔屓の作家「中村彰彦」氏は
「そのような本は存在しない」と反論し、その後「山村」氏は、
押し黙ったままです。


はて、『史談会速記録』というのはあります。これは、
明治25年から 昭和13年(1892~1938)まで、幕末~明治に
生きた人たちが定例会を開き、幕末のさまざまな事件や人物に
ついて語ったのを収録したもので、かなりの量です。

「山村竜也」氏は、1961年、東京都生まれ。中央大学卒。
歴史物小説の作家で、主に新選組を題材とした作品を多く
出版し、2004年の NHK大河ドラマ『新選組!』の時代考証に
抜擢された。そして今年の『八重の桜』でも再登場です。

さぁて『八重の桜』で、「糞尿問題」どう処理してくれるので
しょう。



1ヶ月の籠城に耐えた「鶴ヶ城」

2013-01-26 18:05:47 | 戦国武将と城
『八重の桜』で出てくる会津若松の鶴ヶ城。
「赤紫」の屋根瓦がめずらしい。正に、鶴の
頭の赤色を象徴しているようだ。

天守閣の土台が、建物より大きいのも風変わり。
これは、伊達政宗の後、太閤殿下の威光で入封した
蒲生氏郷が、1593年(文禄2年)に建てた天守閣は
7層だった。その後、江戸時代に地震で倒壊した後、
幕府の禁令で「7層」は建てられず、一回り小さく
「5層」にしたためと考えられる。

なお、NHK大河ドラマ『独眼流政宗』で「若松城」と
言っていたが、「「若松」の地名は、蒲生氏郷が
伊勢松阪から移封してきて 付けた名。「鶴ケ城」も
蒲生の「鶴」の紋所に由来するもののようだ。
それまでは「黒川城」だった。

「蒲生氏郷」の後「氏郷の子・蒲生秀行」、「上杉景勝」。
関が原の後、再度「蒲生秀行」が再び入城したが、1627年(寛永4年)
嫡男の忠郷に嗣子がなく没し、秀行の次男・忠知が後嗣となり、
伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より「加藤嘉明」が入封。

子の「加藤明成」の時、1611年(慶長16年)に起きた地震で倒壊。
5層の天守に組みなおさせた。

1643年(寛永20年)、家老「堀 主水」との内輪もめで、
「加藤明成」は改易され、3代将軍徳川家光の弟「保科正之」が
出羽から入封。以後、明治維新まで会津(保科)松平家の居城と
なった。

平山城で、南東1,600mのところにある小田山からは大砲の弾が
届く距離。1868年(慶応4年)会津戦争では、連日、頭上から
雨霰のごとく、2,000発もの砲弾を受けたのですが、1カ月も
持ちこたえたのでした。