現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

『八重の桜』第4回 「妖霊星」

2013-01-28 16:39:41 | 「八重の桜」
『八重の桜』滑り出し好調。感想も概ね「Goo!」のようです。

こんな感想もありました。

「ドラマとは、対立・葛藤である」と。なるほど、そうした目で見ると
『八重の桜』にも、さまざまな対立が込められています。
  
 女が銃を撃つことに反対する父親、
鉄砲か刀か、藩の保守勢力との対立。
 攘夷か開国か、藩主の対立
 そしてまた、八重と覚馬の嫁「うら(長谷川京子)」

「西を向いていろといわれたら、3年でも西を向いている女」というセリフは、
後に「新島襄」が「嫁にしたい女性像」を聞かれて「東を向いていろと
言われて 3年も東を向いているような女はイヤだ」と応えた話を意識
したものでしょう。会津戦争後、死んだと思っていた覚馬が 京都で
生きていたと知って、「八重」は京都に行くのに、「うら」は会津に
留まります。たしかに対象的な二人です。


そして、将軍後継者争いの<慶喜の一橋派>と<慶福の紀州派>の政争。
井伊直弼(榎木孝明)と水戸斉昭(伊吹吾郎)の対立。水戸斉昭との
仲裁に立ったのは「松平容保」でした。「容保」は後に「斉昭」の19子で
「慶喜」の弟「喜徳」を養子にしているのです。

ところで「松平容保」と「井伊直弼」が親戚と言っていましたが、
初耳です。ネットで検索しても出てきません。ご存知の方教えてください。


『八重の桜』第4回 「妖霊星」

2013-01-28 16:33:04 | 「八重の桜」
『八重の桜』第4回(1/27)のタイトルは「妖霊星」。
たぶん幕末に見られた「彗星」のことでしょう。
私の曽祖父が書き残した日記にも、しばしば「彗星」の
ことが載っていました。原本が紛失しましたので、
ネットでみると、ありました。

嘉永6年(1853)と 安政5年(1858)、文久元年(1861)の3回
現れています。下関の「真言宗・福仙寺」には、その様子を描いた
3枚の絵が残されています。

嘉永6年(1853)の彗星は、「黒船来航」とほぼ時を同じくして
現れています。安政5年(1858)は「安政の大獄」。また江戸で
コレラが大流行。

文久元年(1861)は、会津藩が京都守護職を拝命した年。

彗星は凶事、「悪いことが起こる知らせ」と、暗に考え
られていましたが、江戸時代「幕府が滅びる」などとは、
お上を憚って口にできるものではありませんでした。
ですから、私の曽祖父の日記も、「火の玉が落ちた」と
事実を書き記すのみでした。

『八重の桜』でも「安政の大獄、コレラの流行」を暗示
させるにとどまる表現でした。

脚本の「山本むつみ」は よくぞ「彗星」のことまで
知っていて、物語と結びつけたものと関心します。