現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津 「天寧寺」の「傑堂能勝」は・・・・

2013-01-30 05:46:48 | 「八重の桜」
会津東山温泉へ向かう東山街道の手前、山肌に「萬松山天寧寺」という曹洞宗の禅寺があります。

寺域はかなり広く、「近藤勇」の墓の他に、会津藩国家老
「萱野権兵衛」とその子「郡長正」の墓。また『会津史魂』の
作者「早乙女貢」氏の墓もあります。

「天寧寺」は、応永28年(1422)、当時の領主「蘆名盛信」が
「傑堂能勝」を招いて開いたのが始まりと伝えられています。

天正17年(1589)伊達政宗に滅ぼされるまで、会津を治めて
いた「芦名」氏の菩提寺であり、最盛期には、僧堂12、雲水
1千余名を擁する大寺となり、会津地方の曹洞宗僧録司の格式を
得ていました。

伊達政宗に攻められた時、天寧寺も兵火に罹り、一堂伽藍を
焼失してしまいます。江戸時代になって、会津の領主となった
「保科正之」は、「東照大権現・徳川家康」にならって神道で
祀られ、会津藩主と家臣は、代々「神道」でした。

ですから、江戸時代は藩の特別な庇護を受けることもなかった
のですが、会津の古刹であり、庶民の信仰の対象となっていた
ようです。


さてさて、勧請開山の「傑堂能勝」が、虚無僧にとっては
見落とせない御仁なのです。

江戸時代に書かれた、虚無僧の縁起書『虚鐸伝記国字解』では、
虚無僧の始祖を楠木正成の子「正勝」としており、「正勝」は
「虚無」と号して、深編笠で顔を隠し、普化僧となって東国に
落ち延び、東国の諸氏に南朝の最興を促した。

そして、筑波山を開き、最後、会津まで来て「天寧寺」を開いた。
「傑堂能勝」こそ「楠木正勝」であると。ま、創作話ですが、
江戸時代の人が「会津の傑堂能勝」を「楠木正勝」に見立てるほど、
「傑堂能勝」の名は知られていたということです。

ついでに、江戸幕府の影の宰相「天海僧正」も、会津の出で、
芦名の一族と云われています。「天海」は「明智光秀」という
噂もありますが、こちらも、年代が合わないから「嘘」です。