現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

遠戚の方から連絡が

2013-01-18 10:46:08 | わが家のこと
「牧原」姓の方からコメントがはいり、もう感動です。

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初めまして、私も「牧原」姓です。先祖に「牧原勘太夫」
「牧原寅彦」という名が見えます。明治以降は代々養子を
とり、続いてきました。

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というようなメッセージでした。

2007年からこのブログを初め、これが4990本目の記事になります。
こうしてブログを書き続けてきた目的の一つが、会津戦争で四散
した一族探しです。ようやく、そのお一人とつながったのです。

「牧原」の家は、江戸時代の初めから「勘右衛門」と「只右衛門」の
兄弟で2家に別れ、私の方は、弟の「只右衛門」の流れで、、
「勘右衛門」が一応兄ですので、本家筋になります。
「勘右衛門」から5代目が、甲賀口郭門前に屋敷のあった
「牧原一郎(300石)」(67歳)で、官軍の侵攻を防げず、
自宅で自刃しています。

「一郎」の子が「勘太夫」で、明治3年、斗南三本木に
移住しており、その後が不明でした。「寅彦」の名も、
たしか青森に「日新館」を再建した人の名簿の中にありました。

勘太夫の弟「源次郎」(37歳)、「寅彦」の弟?「牧原辰彦」は
19歳で白河で戦死しています。
 
コメント欄に、お名前、連絡先など記入いただければ、
非公開にしますので、連絡をとりあいたいと思います。

または、下記に直接メールください。

goo3360_february@mail.goo.ne.jp



鉄砲玉に当たったことが幸運となった

2013-01-18 10:43:08 | わが家のこと
会津藩士は 3,000家。そして3,000人が戦死しました。
全滅かと思ったら、戦後、下北に移住した者は
1万8千人にも のぼりました。ということは、
一世帯平均7人家族。各家で1人が戦死したと
いうことになります。

家老の西郷頼母は、戊辰戦争時38歳で、家族は、
母、妻、娘5人、男子2人の9人家族でした。
そして一族郎党21人が自害して果てたのです。

牧原家も「一郎 300石」と、その弟の「奇平150石」の
2家族で、それぞれに子供が数人ずつおりました。

戊辰戦争時、牧原姓の男は、系図で判るのは12人。
うち「一郎(67歳)」「奇平(62歳)」はじめ、8名が
戦死し、生き残ったのは4名です。そのうち、私の
直系の祖「源八郎」以外の3人の末裔は不明です。

私の直系の祖「牧原源八郎」は、会津戦争当時18歳で、
「奇平」に従って 戸の口原に出陣し、腕に鉄砲傷を
負って退却します。城はすでに敵軍に包囲されていて
入れず、荒館村の「新田」という名主の家に匿われます。

そこで、傷の手当をしているうちに、1ヶ月後
開城となり、そのまま「新田」家に留まります。
「新田」家では子供が無かったため、牧原姓の
まま新田家の家屋敷、田畑を相続したのでした。

ですから、翌 明治2年の斗南移住にも従わず、
そのまま会津に残ったのです。銃弾に当たった
ことが、逆に“幸運”を生んだのです。

「源八郎」の受けた鉄砲玉は、腕に残ったままで
晩年になって、ポロリと取れたとか。今も本家に
その「幸運の鉛玉」が家宝として伝わっています。

「源八郎」が 負傷しながら生き延びて、私が
この世にいるわけです。