現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

会津藩籠城戦中の「糞尿」問題

2013-01-27 23:04:27 | 「八重の桜」
TBSクイズ番組で「会津藩が降服したのは、糞尿に困ったため」と
いうのが「正解」にされ、会津人は「ふんぱんもの」と抗議した件。


「会津史談会」の会報『会津史談』57号(昭和58)にありました。

「門間正照」氏の寄稿で、曽祖父の『高橋修斉翁自伝』。
原稿用紙258枚に及ぶもので、「牧原一郎」の記述も
ありました。

 籠城戦については「死はもとより覚悟の上だが、唯、処置に
窮せしは殿中の大便なり。便所あるも多くの人数のことなれば、
溢れて入ること叶わず。終には廊下まで溢れ、夜中などには
部屋の入り口まで方糞する有様なれば、庭先は申すに及ばず、
大便の無き処なく、臭気紛々。加うるに負傷者四、五百名。
右の臭気とともに殿中の内外に溢れ、各々死を待つ場合、
衛生を考え排除の暇なく放置しあれば、疾病に罹り、無惨なる
死を遂ぐる者多かりしなり」と。

窮状は判りますが、ただ「それが原因で城を逃げ出した」とか、
「降服した」という記述はありませぬ。


時代考証の「山村竜也」氏はこれを読んでいたのでしょうか。

竹久夢二が愛した会津の女性

2013-01-27 21:46:47 | 虚無僧日記
『平城山』同様、尺八で好んで吹かれる曲が『宵待ち草』。
植物学的には「月見草=マツヨイグサ(待宵草)」が正しく、
「宵待ち草」としたのは「竹下夢ニ」のようだ。

1910年(明治43年)夢二 27歳の夏、前年離婚したにもかかわらず、
よりを戻した「岸たまき」と 2歳の息子を伴い、房総方面に旅行する。
銚子から犬吠崎に向かい、あしか(海鹿)島の宮下旅館に滞在した。
ということで、「あしか島」に1971年(昭和46)「宵待草」の歌碑が
立てられた。

ところが「宵待草」の歌碑は会津にもある。

「竹久夢二」は、明治42年、大正10年、昭和5年と三度会津を訪れ、
東山温泉の「新滝旅館」に逗留しています。「新滝」は、平成21年度
から、「じゃらんnet売れた宿ランキング」で 3年連続「東北1位」。
とか。「大正ロマン」をポリシーにしているが、「夢ニが泊まった宿」
ということは、殊更に宣伝していない。

会津の気風は、「夢ニ」を“女垂らしの軟弱な男”と見て、歓迎は
していなかったようだ。

「会津史談会」の会報『会津史談』56号(昭和57年)に『夢ニと
会津』と題して、詳細が載っている。「夢ニ」は、篤志家の招きで
会津に来、求めに応じて数十点の絵を書き「頒布会」が催された。
会津の南画家は、「夢ニ」の絵を「素人画」として毛嫌いした。

「夢ニ」が会津で描いた絵は、退廃的な女性画は少なく、会津の
風土を色濃く出したものが多かった。これも会津の気風を感じとっての
ことであったようだ。

会津での「夢ニ」は、世間で噂されるような“女たらし”ではなく、
「人情の機微を解す、繊細な感情の優しい人」であったという。

その「新滝」に お抱えの芸妓の娘「トンボ」という女の子がいて
「夢ニ」は、その子をモデルにして、遊ぶ姿をよく描いた。

「夢ニ」は、会津若松市の西に流れる大川畔に足を運び、絵を
描いた。その堤には「月見草(まつよい草」が一面に咲いていた。

大川の高田橋畔に川魚料理の「川手」という店があり、「夢ニ」は
「トンボ」を誘った。男女並んでは歩けない会津だ。「夢ニ」は
先に行って待ったが、いくら待てども「トンボ」は来なかった。
「新滝」のお抱えの半玉である「トンボ」は、店外での客との
デートは禁じられていたのだ。

「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ、
 今宵は月も出ぬそうな」

『宵待草』の原詩は、明治45年(1912年) 雑誌『少女』誌上に、
“さみせんぐさ”の筆名で発表された。

1966年(昭和41)、千葉県より5年早く、大川畔に「歌碑」が
建てられた。ところが、この碑は、昭和51年には東山温泉の
雨降り滝下に移され、さらに56年には東山ケーブル駅前に
移された。そしてまた、ケーブルの廃業により、洗心橋近く
に移動させられた。「夢ニ」の生涯同様、「宵待草」の歌碑も
転々と放浪の憂き目にあった。



「宵待草」は 私の故郷「大川」で!?

2013-01-27 21:04:52 | 「八重の桜」
阿賀野川(あがのがわ)は、会津盆地から新潟まで流れる
一級河川。全長は 210 km で日本第10位。

会津盆地では「大川」と呼んでいる。会津若松市の西、
北会津との堺をなす 川幅100mはある大きな川だ。

私の先祖「牧原源八郎」は、末子なので、大川畔の
名主「新田家」に居候をしていた。「用心棒」兼
「寺子屋の師匠」兼「医師」だった。会津戦争では、
叔父の「牧原奇平」について戸の口原に出陣した。
自身、鉄砲玉に当たったが、「奇平」が腹を切ると、
その介錯をして、退却した。城下はすでに敵が充満し、
城に はいれず、迂回して大川畔の自邸にもどった。

会津籠城戦はそれから1ヶ月に及び、城を取り囲んで
傍観しているだけの官軍の兵たちは、暇をもてあましていた。
ある日、この大川畔にも官軍の兵が三人やってきて、
河原でのんびり磐梯山を眺めていたという。

村人たちは、戦々恐々大騒ぎ。源八郎は槍をもって
背後から襲おうとしたが、官軍といっても所詮 農民の
寄せ集め。遠く故郷を離れて 会津くんだりまで 
狩り出されてきた兵卒に情をかけて見逃し、三人は
何事もなく帰っていった。

ということで、当家は曽祖父の代からは、大川の西畔、
「北会津村」の豪農だった。私は、子供の頃、毎年
夏休みには、会津の父の生家に泊まり、「大川」で
鮎や鯰を獲って遊んだ。

今日の『八重の桜』でも、川で魚を獲るシーンがあった。
あの川は、鶴ヶ城の南を流れる「湯川」の設定か。
「大川」はその名の通り、川幅200mはある。

そして、なんと、私が川遊びをしていた所に、あの
「竹久夢二」も訪れ、『宵待草』の詩作を練っていたとは。

期待はずれな「がっかりスポット」

2013-01-27 12:47:47 | 虚無僧日記
今日の「オモシロ・サイト」。「日本三大がっかりスポット」。

1位「札幌の時計台」

2位「高知、はりまや橋」

3位「長崎のオランダ坂」

笑ってしまいました。わかるわかる。私も行きました。
行ってがっかり、拍子抜け。

「札幌の時計台は、町のど真ん中。ポプラ並木ならぬ
ビルに囲まれ、ロマンチックな風情ではありませんね。

「高知」のはりまや橋は、高知駅を下りて「はりまや橋は
どこですか」と道行く人に聞いたら、笑って教えてくれません。
この時点でイヤな予感がしました。

どちらも、虚無僧姿で記念写真を撮ってもらうには、
気はずかしい場所でした。(芝居のセットのようで)。

「歌」のイメージで 情緒を膨らませて行きますと
“期待はずれ”。それでも“行きたい?”

西南戦争「熊本城」救援一番乗り「山川浩」

2013-01-27 12:32:35 | 「八重の桜」
『八重の桜』は まだ緒についたばかりというのに、気がせく私は
明治10年の「西南戦争」へ ひとっ飛びぃ~。

昨年の春「熊本」へ行ってきました。熊本城の広大さに、
「西郷軍」の砲弾も 届かなかったのではと、「難攻不落」の
城に納得。小田山から 人の動きまで見下ろせ、天守閣を
的にガンガン撃ち込まれた「鶴ヶ城」とはえらいちがい。
(籠城戦になる前、なぜか天守閣や本丸が 失火で?
しっかり焼失してしまったそうな)

西南戦争では、熊本城は 熊本鎮台司令長官「谷干城(たに たてき)」が
守り、52日に及ぶ篭城戦となります。救援に向かった政府軍の
中で、イの一番に熊本城に入ったのは、「山川 浩」中佐隊でした。
なんと旧会津藩士。谷干城は土佐藩士として会津を攻めた側。
まさに“昨日の敵は 今日の友”。実は「山川浩」は「谷干城」の
推挙で明治政府の陸軍にはいり、出世したのですから、恩人でも
ありました。






山川浩(大蔵)の姉(ニ葉)、妹(咲子・捨松)

2013-01-27 12:28:46 | 「八重の桜」
「山川浩(大蔵)」は、会津戦争の時は 24歳で国家老。(まったく、
幕末の要人は皆 若い)。その前にロシア、ヨーロッパを視察
しています。姉に山川二葉、(『八重の桜』でも登場してきました。
市川実日子が“凜”とした女性を演じています)。

「山川浩(大蔵)」の妹が「捨松」。ほんとはね「咲子」と言うんだよ。
でも、明治4年、12歳で、津田梅子らとともに アメリカに渡ります。
日本初の女子留学生。この時、親は異国に捨てる覚悟で「捨松」と
改名させたのです。すごい話です。あちらの学校では級長を務めるほどの
秀才ぶりを発揮し、10年後 日本にもどります。そして、その才媛ぶりを
西郷隆盛の従兄弟「大山巌」に見初められて結婚。「鹿鳴館の貴婦人」と
なります。「大山巌」も会津を攻めた人ですから、会津人は猛反対。

『八重の桜』の「山本八重」と双璧をなす、話題にはこと欠かない
賢婦人です。会津の女性はスゴッ!

なお、「大山巌」は、8月23日、会津城下に突入し、鶴ヶ城の北出丸
まで進軍し、足に被弾します。その、狙撃者は「山本八重子」である
とも言われています。『八重の桜』の冒頭で、「綾瀬はるか」が
銃を撃ち、手ごたえを感じて「よしッ」とつぶやきましたね。
ドラマでは「大山巌」が出てくるのでしょうか。これも楽しみです。