現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

竹久夢二が愛した会津の女性

2013-01-27 21:46:47 | 虚無僧日記
『平城山』同様、尺八で好んで吹かれる曲が『宵待ち草』。
植物学的には「月見草=マツヨイグサ(待宵草)」が正しく、
「宵待ち草」としたのは「竹下夢ニ」のようだ。

1910年(明治43年)夢二 27歳の夏、前年離婚したにもかかわらず、
よりを戻した「岸たまき」と 2歳の息子を伴い、房総方面に旅行する。
銚子から犬吠崎に向かい、あしか(海鹿)島の宮下旅館に滞在した。
ということで、「あしか島」に1971年(昭和46)「宵待草」の歌碑が
立てられた。

ところが「宵待草」の歌碑は会津にもある。

「竹久夢二」は、明治42年、大正10年、昭和5年と三度会津を訪れ、
東山温泉の「新滝旅館」に逗留しています。「新滝」は、平成21年度
から、「じゃらんnet売れた宿ランキング」で 3年連続「東北1位」。
とか。「大正ロマン」をポリシーにしているが、「夢ニが泊まった宿」
ということは、殊更に宣伝していない。

会津の気風は、「夢ニ」を“女垂らしの軟弱な男”と見て、歓迎は
していなかったようだ。

「会津史談会」の会報『会津史談』56号(昭和57年)に『夢ニと
会津』と題して、詳細が載っている。「夢ニ」は、篤志家の招きで
会津に来、求めに応じて数十点の絵を書き「頒布会」が催された。
会津の南画家は、「夢ニ」の絵を「素人画」として毛嫌いした。

「夢ニ」が会津で描いた絵は、退廃的な女性画は少なく、会津の
風土を色濃く出したものが多かった。これも会津の気風を感じとっての
ことであったようだ。

会津での「夢ニ」は、世間で噂されるような“女たらし”ではなく、
「人情の機微を解す、繊細な感情の優しい人」であったという。

その「新滝」に お抱えの芸妓の娘「トンボ」という女の子がいて
「夢ニ」は、その子をモデルにして、遊ぶ姿をよく描いた。

「夢ニ」は、会津若松市の西に流れる大川畔に足を運び、絵を
描いた。その堤には「月見草(まつよい草」が一面に咲いていた。

大川の高田橋畔に川魚料理の「川手」という店があり、「夢ニ」は
「トンボ」を誘った。男女並んでは歩けない会津だ。「夢ニ」は
先に行って待ったが、いくら待てども「トンボ」は来なかった。
「新滝」のお抱えの半玉である「トンボ」は、店外での客との
デートは禁じられていたのだ。

「待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待草のやるせなさ、
 今宵は月も出ぬそうな」

『宵待草』の原詩は、明治45年(1912年) 雑誌『少女』誌上に、
“さみせんぐさ”の筆名で発表された。

1966年(昭和41)、千葉県より5年早く、大川畔に「歌碑」が
建てられた。ところが、この碑は、昭和51年には東山温泉の
雨降り滝下に移され、さらに56年には東山ケーブル駅前に
移された。そしてまた、ケーブルの廃業により、洗心橋近く
に移動させられた。「夢ニ」の生涯同様、「宵待草」の歌碑も
転々と放浪の憂き目にあった。



「宵待草」は 私の故郷「大川」で!?

2013-01-27 21:04:52 | 「八重の桜」
阿賀野川(あがのがわ)は、会津盆地から新潟まで流れる
一級河川。全長は 210 km で日本第10位。

会津盆地では「大川」と呼んでいる。会津若松市の西、
北会津との堺をなす 川幅100mはある大きな川だ。

私の先祖「牧原源八郎」は、末子なので、大川畔の
名主「新田家」に居候をしていた。「用心棒」兼
「寺子屋の師匠」兼「医師」だった。会津戦争では、
叔父の「牧原奇平」について戸の口原に出陣した。
自身、鉄砲玉に当たったが、「奇平」が腹を切ると、
その介錯をして、退却した。城下はすでに敵が充満し、
城に はいれず、迂回して大川畔の自邸にもどった。

会津籠城戦はそれから1ヶ月に及び、城を取り囲んで
傍観しているだけの官軍の兵たちは、暇をもてあましていた。
ある日、この大川畔にも官軍の兵が三人やってきて、
河原でのんびり磐梯山を眺めていたという。

村人たちは、戦々恐々大騒ぎ。源八郎は槍をもって
背後から襲おうとしたが、官軍といっても所詮 農民の
寄せ集め。遠く故郷を離れて 会津くんだりまで 
狩り出されてきた兵卒に情をかけて見逃し、三人は
何事もなく帰っていった。

ということで、当家は曽祖父の代からは、大川の西畔、
「北会津村」の豪農だった。私は、子供の頃、毎年
夏休みには、会津の父の生家に泊まり、「大川」で
鮎や鯰を獲って遊んだ。

今日の『八重の桜』でも、川で魚を獲るシーンがあった。
あの川は、鶴ヶ城の南を流れる「湯川」の設定か。
「大川」はその名の通り、川幅200mはある。

そして、なんと、私が川遊びをしていた所に、あの
「竹久夢二」も訪れ、『宵待草』の詩作を練っていたとは。

期待はずれな「がっかりスポット」

2013-01-27 12:47:47 | 虚無僧日記
今日の「オモシロ・サイト」。「日本三大がっかりスポット」。

1位「札幌の時計台」

2位「高知、はりまや橋」

3位「長崎のオランダ坂」

笑ってしまいました。わかるわかる。私も行きました。
行ってがっかり、拍子抜け。

「札幌の時計台は、町のど真ん中。ポプラ並木ならぬ
ビルに囲まれ、ロマンチックな風情ではありませんね。

「高知」のはりまや橋は、高知駅を下りて「はりまや橋は
どこですか」と道行く人に聞いたら、笑って教えてくれません。
この時点でイヤな予感がしました。

どちらも、虚無僧姿で記念写真を撮ってもらうには、
気はずかしい場所でした。(芝居のセットのようで)。

「歌」のイメージで 情緒を膨らませて行きますと
“期待はずれ”。それでも“行きたい?”

西南戦争「熊本城」救援一番乗り「山川浩」

2013-01-27 12:32:35 | 「八重の桜」
『八重の桜』は まだ緒についたばかりというのに、気がせく私は
明治10年の「西南戦争」へ ひとっ飛びぃ~。

昨年の春「熊本」へ行ってきました。熊本城の広大さに、
「西郷軍」の砲弾も 届かなかったのではと、「難攻不落」の
城に納得。小田山から 人の動きまで見下ろせ、天守閣を
的にガンガン撃ち込まれた「鶴ヶ城」とはえらいちがい。
(籠城戦になる前、なぜか天守閣や本丸が 失火で?
しっかり焼失してしまったそうな)

西南戦争では、熊本城は 熊本鎮台司令長官「谷干城(たに たてき)」が
守り、52日に及ぶ篭城戦となります。救援に向かった政府軍の
中で、イの一番に熊本城に入ったのは、「山川 浩」中佐隊でした。
なんと旧会津藩士。谷干城は土佐藩士として会津を攻めた側。
まさに“昨日の敵は 今日の友”。実は「山川浩」は「谷干城」の
推挙で明治政府の陸軍にはいり、出世したのですから、恩人でも
ありました。






山川浩(大蔵)の姉(ニ葉)、妹(咲子・捨松)

2013-01-27 12:28:46 | 「八重の桜」
「山川浩(大蔵)」は、会津戦争の時は 24歳で国家老。(まったく、
幕末の要人は皆 若い)。その前にロシア、ヨーロッパを視察
しています。姉に山川二葉、(『八重の桜』でも登場してきました。
市川実日子が“凜”とした女性を演じています)。

「山川浩(大蔵)」の妹が「捨松」。ほんとはね「咲子」と言うんだよ。
でも、明治4年、12歳で、津田梅子らとともに アメリカに渡ります。
日本初の女子留学生。この時、親は異国に捨てる覚悟で「捨松」と
改名させたのです。すごい話です。あちらの学校では級長を務めるほどの
秀才ぶりを発揮し、10年後 日本にもどります。そして、その才媛ぶりを
西郷隆盛の従兄弟「大山巌」に見初められて結婚。「鹿鳴館の貴婦人」と
なります。「大山巌」も会津を攻めた人ですから、会津人は猛反対。

『八重の桜』の「山本八重」と双璧をなす、話題にはこと欠かない
賢婦人です。会津の女性はスゴッ!

なお、「大山巌」は、8月23日、会津城下に突入し、鶴ヶ城の北出丸
まで進軍し、足に被弾します。その、狙撃者は「山本八重子」である
とも言われています。『八重の桜』の冒頭で、「綾瀬はるか」が
銃を撃ち、手ごたえを感じて「よしッ」とつぶやきましたね。
ドラマでは「大山巌」が出てくるのでしょうか。これも楽しみです。



「会津藩・糞尿事件」

2013-01-26 20:46:31 | 会津藩のこと
クイズ番組で「会津藩が降服したのは、糞尿に困ったため」と
いうのが「正解」にされ、会津人は「ふんぱんもの」と抗議
したのでありました。

実は私、この「遺体や糞尿処理」に関心があります。

会津贔屓の作家「中村彰彦」氏は、「5,000人が籠城したが、
城の敷地は、約10万坪あり、深いお堀に囲まれて、糞尿だって
始末はできた」と反論してますが、はたして真相はいかに。

5,000人が毎日排泄するのですから、たしかに、城内は
すぐ満杯になったでしょう。

死体は堀に投げ込んだというのを読んだ記憶があります。
糞尿も堀に捨てたのでしょうか。降服後、遺体は、誰が
どう処理したのでしょうか。

小学校の林間学校の記憶といえば、ぽっちゃんトイレ。もう
満杯で山盛り。あれは今でも夢に出てくるくらいの恐怖でした。

長良川の花火大会で、土手に5万人が詰め掛けた時のこと、
一番困ったのがトイレです。仮設トイレの前は、延々長蛇の列。
3~40分も待たされ、よく みなさん洩らさなかったものです。
花火より、そちらに気を奪われていました。


さてさて、太平洋戦争中は、会津若松歩兵65連隊が置かれ、
2,500名の兵隊さんが常駐していました。また現在の「鶴ヶ城」を
訪れる観光客数を調べてたたところ、観光客が多い8月で、
日に2千人。トイレは11ヶ所。これで対応できるなら、
5千人でも 案外大丈夫のようです。


『八重の桜』の時代考証人は・・・

2013-01-26 20:33:03 | 「八重の桜」
ネットを見ると、よくもまぁ、いろいろ書く人がいるものですな。

「会津藩・糞尿降服事件」というサイトがありました。

2008年2月16日、TBS放送の「歴史王グランプリ2008まさか!の
日本史雑学クイズ100連発」で、「会津藩が降服したのは、たまった
糞尿に耐え切れず、旧幕府軍が城を逃げ出したため」というのが
正解とされた。

これに会津関係者が猛反発し、「ふんぱんもの!」と、菅家・
会津若松市長が代表して、TBSに抗議文を送った。そして
TBSの社長が謝罪するという騒動になった。その問題と
解答を作ったのが「山村竜也」氏。

なんと『八重の桜』の時代考証に携わっている人だった。
「糞尿が理由で降服した」という根拠、史料の提示を求めた時、
「山村竜也」氏は、「『戊辰戦争速記録』という史書に書かれている」
と釈明したようですが、会津贔屓の作家「中村彰彦」氏は
「そのような本は存在しない」と反論し、その後「山村」氏は、
押し黙ったままです。


はて、『史談会速記録』というのはあります。これは、
明治25年から 昭和13年(1892~1938)まで、幕末~明治に
生きた人たちが定例会を開き、幕末のさまざまな事件や人物に
ついて語ったのを収録したもので、かなりの量です。

「山村竜也」氏は、1961年、東京都生まれ。中央大学卒。
歴史物小説の作家で、主に新選組を題材とした作品を多く
出版し、2004年の NHK大河ドラマ『新選組!』の時代考証に
抜擢された。そして今年の『八重の桜』でも再登場です。

さぁて『八重の桜』で、「糞尿問題」どう処理してくれるので
しょう。



1ヶ月の籠城に耐えた「鶴ヶ城」

2013-01-26 18:05:47 | 戦国武将と城
『八重の桜』で出てくる会津若松の鶴ヶ城。
「赤紫」の屋根瓦がめずらしい。正に、鶴の
頭の赤色を象徴しているようだ。

天守閣の土台が、建物より大きいのも風変わり。
これは、伊達政宗の後、太閤殿下の威光で入封した
蒲生氏郷が、1593年(文禄2年)に建てた天守閣は
7層だった。その後、江戸時代に地震で倒壊した後、
幕府の禁令で「7層」は建てられず、一回り小さく
「5層」にしたためと考えられる。

なお、NHK大河ドラマ『独眼流政宗』で「若松城」と
言っていたが、「「若松」の地名は、蒲生氏郷が
伊勢松阪から移封してきて 付けた名。「鶴ケ城」も
蒲生の「鶴」の紋所に由来するもののようだ。
それまでは「黒川城」だった。

「蒲生氏郷」の後「氏郷の子・蒲生秀行」、「上杉景勝」。
関が原の後、再度「蒲生秀行」が再び入城したが、1627年(寛永4年)
嫡男の忠郷に嗣子がなく没し、秀行の次男・忠知が後嗣となり、
伊予国松山に移封された。代わって伊予松山より「加藤嘉明」が入封。

子の「加藤明成」の時、1611年(慶長16年)に起きた地震で倒壊。
5層の天守に組みなおさせた。

1643年(寛永20年)、家老「堀 主水」との内輪もめで、
「加藤明成」は改易され、3代将軍徳川家光の弟「保科正之」が
出羽から入封。以後、明治維新まで会津(保科)松平家の居城と
なった。

平山城で、南東1,600mのところにある小田山からは大砲の弾が
届く距離。1868年(慶応4年)会津戦争では、連日、頭上から
雨霰のごとく、2,000発もの砲弾を受けたのですが、1カ月も
持ちこたえたのでした。


島倉千代子の『小鳥が来る街』が「変な曲」?

2013-01-25 19:56:26 | 社会問題
橋下徹大阪市長が、庁内で昼休みの合図として 半世紀近く
流れていた曲に「変な曲」とクレームをつけ、放送中止と
なった。
曲は、「島倉千代子」の「小鳥が来る街」。You-tubeで
さっそく聞いてみた。私の世代では、全然「変」じゃない。

1964年に市が「緑化100年運動」を始める際に
無償で「島倉千代子」が歌ったとのこと。全盛期の歌声
だから、しっかりしている。「変な曲」というのは、
このメロディだけのオルゴール版だからのようだ。
それもわからんでもない。

橋下市長は「島倉千代子」が無償で吹き込んでくれた曲と
知って「しまった、しまった、島倉千代子」だ。前言取り消し。
それでも、中止。50年も経てば、一新した方がいいでしょう。
でも音楽ではなく、「スローガン」とはね。

ちなみに、島倉千代子の「人生いろいろ」が 品川区の
京浜急行「青物横丁駅」の電車接近メロディに採用されて
いるそうな。

先日、名古屋で「島倉千代子」の公演があった。74歳。
さすがに 高音部の伸びはなくなったが、まだ現役で頑張っている
姿に往年のファンは惜しみない拍手を送っていた。

「老兵は消えゆくのみ」か・・・・。


プライバシー保護で、名前も顔も出せず

2013-01-25 12:08:48 | 社会問題
日本人犠牲者名、実名公表に賛否 アルジェリア人質事件(朝日新聞) - goo ニュース

アルジェリアでの人質事件で、日本人犠牲者の氏名は、最終的には
公開されたが・・・・・、「日揮」は、非公表の姿勢を崩していない。

公開を忌避する理由は、犠牲者の遺族、関係者に相当数の取材が行われ、
ストレスやプレッシャーになるというもの。たしかに、これまでも
何度も“マズゴミ”の思い上がった 心無い取材が問題視されてきた。

「日揮」が非公表を望む背景には、世間の深いメディア不信がある。
さらに勘繰れば、アフリカ開発と企業の関係、利益配分の仕組みや
格差問題など、企業としては知られたくない情報が、生存者や
遺族の口から白日の下に曝されるのを畏れているのかもしれない。

人には二つのタイプがある。「報道してほしい人」は、自ら名乗り
出ればいい。「されたくない人」は、拒否すればいい。


先日、中日新聞に、記者のコラムで「小学校の行事を取材し、
子供たちのイキイキした写真を新聞に載せたいのだが、
最近は、親から『ウチの子の顔は載せないでくれ』という
声が多く、掲載が難しくなった」と。

私のブログでも、特定の人様のことを書くと、名前は伏せて
いても、「自分のこと」と判るご本人から、お叱りのメールが
はいってくる。人様のことは一切書けない。これでは、ますます
人と人との つながりが むずかしい時代になった。その一方で、
実名を公表して書き込む face-book は、ますます盛況の度を
増している。