ケイの読書日記

個人が書く書評

芥川龍之介 「羅生門」 

2020-04-24 14:16:53 | その他
 コロナ禍で自粛が続いていて、図書館にもブックオフにも本屋にも行けないので、自宅にある本を読んでいる。
 この芥川龍之介の「羅生門」には、実はすごく思い入れがあるのだ。もう50年も前の話。私が小学校高学年で、兄が高校生の頃だったと思う。
 母がラジオの朗読劇を聴いて後、「…で最後、男が老婆の衣服をはぎ取って逃げるんだけど、その後どうなるのか、次の朗読が待ち遠しい」といった意味の事を兄に話しかけていた。その時の兄の答えが「その話は、それで終わりだよ。続きはない」  その朗読劇の名が「羅生門」だった。なぜだかハッキリ覚えている。
 
 兄は8年ほど前に亡くなり、母は老人介護施設にお世話になっている。もともと文化的な素養が少ない家だったし、家族間の会話もあまりない家庭だった。だから印象に残っているのかもしれないね。

 再読してみて、改めて感じる。本当に救いのない話だな。
 平安時代末期、地震や台風、火事、飢饉といった災害が次々おこり、都といっても平安京もひどく寂れていた。平安京の南の正面に建っている羅生門も荒れ果て、楼の上には、引き取り手のない死体が投げ捨てられている。
 門の下にたたずんでいた下人は、先日奉公先をクビになり、どうしようかと迷っていた。迷うも何も、生きていくためには盗人になるしかないのだ。そんな時、下人は羅生門の楼の中に灯がちらつくのを見る。段を上がって、そっと覗くと…。

 ああ、社会保障も何もない時代、こうなるのは必然だろう。だいたい奉公人が病気になって動かなくなった場合、雇用主が彼らを道端に捨て、その彼らを野犬が襲って食べるという事態は、秀吉が天下統一して禁止令を出すまで、一般的に行われていたという。
 現代から考えると、とんでもないことだが、慣例というものは恐ろしい。雇用主も奉公人も、さほど心を痛めず、こんなもんだと思っていたんだろう。

 昔話の「姨捨山」の話も、今でこそ悲劇だが、当時の人々は「60歳になったら、姨捨山に行くんだ。おらの婆ちゃんも爺ちゃんもその前の御先祖様も、みんなそうしていただ」と納得して自分から準備したかもしれない。カラスにつつかれないようムシロをかぶって、わずかな水だけ持って、山を登っていく…。

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