2月6日は、愛知県知事選・名古屋市長選・名古屋市議会の解散を問う選挙が行われる名古屋。
連日のように、新聞やテレビではこの話題を取り上げている。
それだけ、興味関心が高いと言うことだろう。
メディアが取り上げるのは、候補者や市議会の意見や考えが中心。
それぞれの考えや言い分があり、冷静に考えれば考える程感じることがある。
それは「今回の選挙は、名古屋市民が問われているのではないか?」というコト。
例えば、「減税」。
名古屋市の恒久減税について、本当に名古屋市民は期待をしているのだろうか?
むしろ市会議員の報酬額半減を先に求めているのではないか?
だから「恒久減税」にメディアが言及すればするほど、市議会が「反対」と言えば言うほど、「違うんだよね~」という気がしてくるのだ。
恒久減税の前にあるはずの「市会議員の報酬額半減」なのでは?
そこを言わないで、次のステップである恒久減税ばかりを言うのは、争点のズレになってしまうのでは?
そんな懸念をしている。
なぜなら候補者も市会議員側も、「その財源は?」というコトばかり話しているからだ。
議員報酬を半減したからと言って、恒久減税の財源とするには足りないとは思っているが、財源の足しにはなるだろう。
少なくとも「恒久減税実施と議員報酬半減」は、セットとなるべき政策なのでは?
そんな話ばかりが伝わる中で、名古屋市民は次の地方政治の在り方を考えなくてはならない。
特に市議会解散の是非を問う投票は、リコールが成立した現在、賛成・反対どちらも難しい判断をしなくてはならないだろう。
なぜなら、市会議員さんたちの多くは「リコールを指導したのが市長だから、民主主義に反する」という主張をしているからだ。
この「民主主義」という言葉が、とても便利に使われているようにも思われるし、(自分の意見が認められないから)市長がリコールを指導する、と言うのも違うだろう!と感じるからだ。
候補者と市議会の皆さんは、その選挙結果に一喜一憂すればよいだけだが、それを選択する名古屋市民は、どんな結果になろうともその結果を受け入れるしかない。
見方を変えると、一番問われているのは「名古屋市民が考える地方政治の在り方」のような気がする。
連日のように、新聞やテレビではこの話題を取り上げている。
それだけ、興味関心が高いと言うことだろう。
メディアが取り上げるのは、候補者や市議会の意見や考えが中心。
それぞれの考えや言い分があり、冷静に考えれば考える程感じることがある。
それは「今回の選挙は、名古屋市民が問われているのではないか?」というコト。
例えば、「減税」。
名古屋市の恒久減税について、本当に名古屋市民は期待をしているのだろうか?
むしろ市会議員の報酬額半減を先に求めているのではないか?
だから「恒久減税」にメディアが言及すればするほど、市議会が「反対」と言えば言うほど、「違うんだよね~」という気がしてくるのだ。
恒久減税の前にあるはずの「市会議員の報酬額半減」なのでは?
そこを言わないで、次のステップである恒久減税ばかりを言うのは、争点のズレになってしまうのでは?
そんな懸念をしている。
なぜなら候補者も市会議員側も、「その財源は?」というコトばかり話しているからだ。
議員報酬を半減したからと言って、恒久減税の財源とするには足りないとは思っているが、財源の足しにはなるだろう。
少なくとも「恒久減税実施と議員報酬半減」は、セットとなるべき政策なのでは?
そんな話ばかりが伝わる中で、名古屋市民は次の地方政治の在り方を考えなくてはならない。
特に市議会解散の是非を問う投票は、リコールが成立した現在、賛成・反対どちらも難しい判断をしなくてはならないだろう。
なぜなら、市会議員さんたちの多くは「リコールを指導したのが市長だから、民主主義に反する」という主張をしているからだ。
この「民主主義」という言葉が、とても便利に使われているようにも思われるし、(自分の意見が認められないから)市長がリコールを指導する、と言うのも違うだろう!と感じるからだ。
候補者と市議会の皆さんは、その選挙結果に一喜一憂すればよいだけだが、それを選択する名古屋市民は、どんな結果になろうともその結果を受け入れるしかない。
見方を変えると、一番問われているのは「名古屋市民が考える地方政治の在り方」のような気がする。