いろいろとトラブルのあった、「202年東京オリンピック エンブレムデザイン」の問題。
結局は、デザイナーの佐野氏がデザインを取り下げるコトで、一件落着となった。
そして、次回は公募するようだ。
佐野氏が、デザインを取り下げるコトで、ベルギーの博物館 劇場 のシンボルマークのデザインナー側からの提訴などは、避けられる可能性が出てきた。
提訴となれば、オリンピック開催に向けイメージダウンだけではなく、金銭的にも大きな負担となっただろう。
それが避けられたのだから、委員会としては「ホッとした」というところではないだろうか?
しかし、今日の記者会見の記事を読んでみると、佐野氏にすべての責任を負わせてしまっているのでは?という、気がしている。
以前も指摘をさせていただいたのだが、今回の問題の発端にあるのは「選考時に、商標で似たものがあった」のに、選考委員会側が、選出→修正をさせている、という点だ。
「選考時点でわかっていた問題を、そのままにした」という、選考委員会の責任も大きいはずなのだ。
例え「選考後にわかった」にしても、その時点で佐野氏に「選考後、似た商標があることが判明したため、選外にしたい」と、通知すればよかっただけのコトなのだ。
にもかかわらず、選考委員側としての「責任」に対する説明は、一切なかったような記事内容になっている。
先の「新国立競技場建設」の時も、今回の「エンブレムデザイン」も、組織委員会そのもの「責任意識」がとても低いような気がする。
「新国立競技場」に関しては、安倍さんの「鶴の一声」で白紙。
今回は、デザイナーの佐野氏からの「取り下げ」で、改めて公募。
組織委員会側は、その結果報告をし「(関係者の皆様には)大変ご迷惑をおかけいたしました」と、頭を下げているだけだ。
本来であれば、問題となった点に対しての責任を、明らかにしたうえで、委員の総入れ替えをする必要があると思う。
「失敗の本質」というのは、実はこのような「問題を薄々わかっていながら、野放しにする」コトが原因である、ということが多い。
そしてそのような組織には「責任の所在」という意識も低く、誰も責任を取ろうとはしない。
その場の「なんとなく・・・」という雰囲気で、物事を決めていくような体質が、「責任を取らない組織」を生み出していくのだ。
1964年の東京オリンピックが、大成功に終わったのは、その当時の関係者が「敗戦後の日本が立ち直った姿を(オリンピックを通して)発信するために、何としてでもオリンピックを成功させよう」という強い気持ちと、オリンピック開催に関わったすべての人たち、一人ひとりの「責任認識」があったからではないだろうか?
とすれば、2020年の東京オリンピック開催は、「スポーツを通して、(日本が)世界に何を発信したいのか?」、
そのメッセージを発信する意味は、何なのか?
そのためには、どのような施設が必要で、そのためのシンボルマークとしてのエンブレムデザインは、どのようなモノが良いのか?
そのような、オリンピック開催に対する「思い」が、組織委員会や選考委員会には無いように感じられるのだ。